福島県双葉郡大熊町で暮らしていた吉田さん一家の家族写真です。
4世代9人の大家族。
その中にこの物語の主人公がいます。
そして妻の…全国でも数少ない100歳夫婦です。
このお二人普通のご夫婦ではありません。
学校の授業で習うような歴史を体験し100年間を生き抜いた二人なのです。
太平洋戦争の時信さんは満州へ。
ツルさんと子供たちは東京で空襲に見舞われます。
(ツル)空襲そっちこっちあるでしょ。
そうすると娘がね焼夷弾の音や何かすると「怖いよ〜。
田舎へ帰ろうよ」ってまだよちよち歩きのが泣くのよ。
そして2月9日に帰ったんですよ。
3月10日に丸焼けになっちゃった。
ちょうど1か月早く帰ってね。
まぁねヘヘヘヘヘ…。
運が良かったツルさんは生き延びました。
信さんは戦後シベリア抑留を経験します。
極寒の地での厳しい強制労働を乗り越えました。
食事は食堂行って各窓でもってパンをもらったりおかゆをもらったり。
慣れるとねあの黒パンというのは案外おいしいんだよ。
もうソ連から帰る時には黒パンに別れるの寂しかったよ。
残念だなと思っとった。
夫婦長続きの秘訣はずばり夫婦げんかです。
こっちは102歳でこっちは101歳だろ。
これいつまでたっても姉さんぶってるんだ。
ハハハハ。
学校で酒飲んだの。
そうするとハジゴやってくんでしょ。
学校で何かあれば必ず飲んだんだもんね昔は学校で。
そうするともうハシゴやってくからね。
(舌打ち)余計な事しゃべるな!あぁ?余計な事しゃべるな!バカ者。
ハハハハハ!ツルさん100歳の祝賀会。
この僅か2か月後2人は人生最大の苦難に直面します。
東日本大震災と原発事故。
大家族9人はふるさとを失い離れ離れになってしまいました。
今まで地震なんてなったってこんな事になった事ねえのに。
やぁだよこんなクチャクチャになってる。
しかし二人は前向きにその苦難を乗り越えようとしています。
ハッハッハッハ。
いろいろありました。
101歳になってね初めてこりゃ本物だなと思ったね。
またあと10年くらい生きようっていうような欲望が出てきます。
はいチーズ!二人合わせて204歳。
今日は信さんツルさん二人の言葉に耳を傾けてみたいと思います。
吉田さん一家が暮らしていた福島県大熊町からおよそ180km離れた会津若松市です。
信さんとツルさんは六畳二間のアパートで息子さん夫婦と4人で避難生活を送っています。
のんきだこっちも。
ハハハハハハハ。
信さん。
ハハハハ…目開いてな。
フッフフフ。
この人は腸捻転で腸をこのくらい切ったんですよ。
ねじれて。
2回ぐらいやったね。
何?腸捻転。
ん?腸ねじり2回ぐらいやったでねえの?腸捻転やったでしょ。
あぁ〜腸閉塞だ。
腸捻転2回やった…。
腸閉塞!腸閉塞言う?腸捻転でねぇ詰まり…。
耳が遠いから会話が難しいんです。
聞こえてるよ。
(笑い声)都合の悪い事は聞こえない。
ハハハハハハハハハ。
結婚して77年二人の会話はまるで夫婦漫才です。
でも信さんツルさんどうしたらそんなに長生きできるんですか?おぅ!おぃ!おぅ!
(手をたたく音)「長生きのひけつ」!のんき!
(笑い声)クヨクヨしないでのんきにしてる事。
フフフフフフ。
一つの目標を持つ事が大事ですね。
生きがいを感ずるような目標をね持つ事が大事ですねやっぱり。
考え方も趣味も好きな食べ物も全く違う二人。
支えるのは大変な事です。
(惠久子)辛いよ〜。
ほらお父さんやってみて。
辛いと思う。
(信雄)はい。
はいおばあちゃん。
はい。
味見。
とうがらし足りない。
(信雄)とうがらし足りないそうです。
世話をする息子さん夫婦も70歳を越えました。
(信雄)すごいんじゃないですか。
子としては一生懸命それを支えて支えにしていくしかないんじゃないですかね。
私の方が早く逝かないように頑張って。
大変な事もあったけどもまあ仲良くやってきたのが一番だったかなと思います。
ケンカしたなんて事もめったになかったしね9人でね。
信さんとツルさんは福島県双葉郡大熊町に4世代9人で暮らしていました。
家は福島第一原子力発電所から僅か2kmの所にありました。
震災の翌日すぐに帰れると思い着の身着のまま避難しました。
しかし避難生活は長引き9人が一緒に暮らせる場所は見つかりませんでした。
信さん夫婦と息子夫婦は会津若松市に孫の家族は郡山市に離れ離れで暮らす事になりました。
はいおいしかった。
去年3月信さんは熱心にある作業に取り組んでいました。
自分がいつ生まれどんな時代を生きてきたのか自分史をまとめようとしていたのです。
家族が離れ離れになり孫やひ孫と話す機会が少なくなった事がきっかけでした。
やがて私が亡くなったあとでも吉田信はこういう人間だったと。
あるいは親戚や知友にはこういう移動があったんだと一目で分かるように資料を作っておきたいと。
こう考えたわけです。
まず自分が生まれた日が記されています。
明治45年4月27日。
昭和16年29歳の時召集令状が来ました。
中国・満州の戦地へ赴きます。
自分や家族の年表の横にはその時々の社会状況も書き込みました。
昭和33年皇太子のご成婚で起きたミッチーブーム。
大切に保存してきた新聞などの切り抜きも貼りました。
しかしノートのほとんどは空白のまま。
自分史を書こうとためてきた多くの資料を大熊町に残してきたからです。
資料が足りないんです。
何がどこにあるかっていう見当さえつかないんです。
私が行けばねある程度探せるんだけど私はちょっと無理だから息子に頼むんだけれどももう他の者にはちょっと分からないんです。
息子の信雄さんと妻の惠久子さんは一時帰宅をする事になりました。
行きますからお願いしますね。
お願いします。
どうもご苦労さまです。
会津若松市から車で3時間をかけ大熊町へ向かいます。
1万1,000人が暮らしていた原発の町のほとんどは帰還困難区域に指定されています。
5年以上にわたって居住が制限されている区域です。
いややっぱりむなしいね。
ひと言で言うとむなしくなっちゃうね。
お父さんそこでちょっと止まって見せたら?高い所。
東電さんが見えるんです。
自宅近くの小高い丘から見える福島第一原発の1号機です。
この2km手前に家があります。
自宅のすぐそばにある墓地。
家族そろってよくお墓参りに来ていました。
(ガイガーカウンターの警報)この日の放射線量は25マイクロシーベルト。
警報が鳴り響く中防護服を着て5時間に制限された帰宅です。
(ガイガーカウンターの警報)長年暮らしてきた我が家。
(ガイガーカウンターの警報)あの時のまま放置された部屋。
ネズミなどに荒らされていました。
ひ孫が生まれたため家を改築し11の部屋を造りました。
そこで泣いたり笑ったり。
4世代で和気あいあいと暮らしていました。
おばあちゃんの100歳の…これ。
大きいばあちゃん100歳の時これここで集まったから。
ツルさんの100歳の誕生日には大広間で祝賀会が開かれました。
(惠久子)これがおばあちゃんの部屋なんです。
なんとまぁ…。
ぬいぐるみが大好きだったツルさんの部屋です。
そしてその隣が信さんの部屋。
(信雄)この辺だと思うんですよ。
信雄さんは信さんの自分史の資料を探しました。
何て書いてあるんだ?これ。
「配置表」…?何が書いてある?何も中身は主にないんです。
信雄さんが向かったのはビニールハウス。
信さんはここを書斎代わりに使っていました。
一番奥にある机で自分史の資料らしきノートを見つけました。
惠久子さんはあるものを探すため近くの海岸に向かいました。
(惠久子)ここの海に足をつけに。
遊びに。
孫を連れて夏休みにね。
(惠久子)こんなに転んじゃった。
こないだ来た時はあったけど。
ほら3体。
探していたのは海の方に向かって並ぶ大切なお地蔵さんです。
昔「首無し地蔵さん」なんていったっておばあちゃんは言うんですよね。
首はどこに行ったか分からないけども着物をおばあちゃんお針上手なもんだから縫ってあげたんです。
10年ほど前お寺の跡地からお地蔵さんが5体掘り起こされました。
裸のままではかわいそうだと手先の器用なツルさんが着物を縫いました。
そしてひ孫の真美ちゃんと一緒にお地蔵さんに着せてあげたのです。
3体は津波で流され残ったお地蔵さんの着物もボロボロになっていました。
うちのおばあちゃんが来たら泣くでしょうほんとに。
帰れっと思ってっから今も。
夕方会津若松に戻った信雄さんは見つけた資料を信さんに渡しました。
(信雄)持ってきましたので。
はいどうもありがとう。
これは私の軍隊生活の時の事が書いてあるね。
15年10月1日陸軍軍曹に任ず。
今こうして振り返ってみるとやらなきゃいけない事がいっぱいあるという事を感じますね。
「日暮れて道遠し」というところだね。
(惠久子)…ヨシハル。
ヨシハル…。
二人が生きた100年は日本が戦争や災害という歴史的な困難に直面した100年でもありました。
信さんは明治45年今の大熊町に生まれます。
父親は農業が肌に合わないと警察官になります。
そして警視庁で働く事になり家族で上京しました。
その年…11歳の少年が体験した未曽有の大震災。
今でもその光景が鮮明に焼き付いているそうです。
近所の子供たちと集まってうちの近くで遊んでおったんですがそのころガラガラ…地震が起こったわけです。
遊んでおったけれども立っておれなかったですね。
やがて収まってからうちに戻ってみたら軒先にぶら下げておった金魚鉢それが地震で落っこって金魚がピシャピシャピシャピシャ跳ね返ってるのを印象に残って忘れられないですね。
私のうちは高台になってるんです。
王子の下十条と当時はいってましたけどね。
その下が崖になっておってその崖の所に東北本線が走ってるんです。
だから崖の所に行くと下町がず〜っと見通せるわけです。
そしたらあっちの方から煙が上がりこっちの方から煙が上がりましてねそれでそれがどんどん広がっていくんです。
怖かったですね本当に。
困難にどう向き合っていけばいいのか。
信さんには忘れられない出来事がありました。
まだ子供なので具体的に乗り越えていく決心なんてものは口にはできなかったんですけど母親と家族4人で頑張っていかなくちゃなんないという気持ちはありました。
そしてそのうち避難民が下の国道を歩いて着の身着のままでぞろぞろぞろぞろ北の方に移動していくんです。
避難していくんです。
裸のような格好で行く人もたくさんおりましたしね。
そしてあんまりかわいそうなので母親が握り飯を作って施してやった事も覚えてます。
関東大震災が起きた時ツルさん一家は福島県で農業を営みながら暮らしていました。
信さんとツルさんは幼なじみでした。
関東大震災の時…。
覚えてるか?あれいくつだろう?ん?何だか分かんねえな。
そしてうちの母が私を連れてね実家に戻ってたんですよ。
うちのおやじさんが酒飲んべえでそれが嫌でね。
そして料理屋に行って飲んでるの迎えに行ってこいって言われてうちの母は…。
そんな話はダメ。
そんな話は関係ないからする事ない。
ええ?そんな話はしなくてもいい。
ハハハハ。
だって私が夫沢にいた話だから。
関係ない。
関東大震災を乗り越え時代は昭和になりました。
昭和11年幼なじみだった二人は結婚します。
信さん24歳ツルさん25歳の時でした。
6月。
信さんたちはあやめ祭りに出かける事にしました。
少し足がふらついているようです。
実はこの10日前ずっと健康だった信さんが初めての事態に見舞われていたのです。
朝体がふらついてベッドから起き上がる事ができず救急車で病院に運ばれました。
体に異常は見つかりませんでしたが以前のようには歩けなくなり自分史作りも中断する事になりました。
立つ事できなかったです。
立てなかったです。
もちろん歩けなかったです。
(取材者)今までそんな事なかったんですよね?ない。
初めて。
だから周りの人はみんなびっくりしちゃったんだ。
だから救急車で運んだ。
「100歳越えてるんだもんなぁ」って感じだよ医者も。
今考えると何かの関係であれ一過性のもんだね。
ある時間たったら治ったです。
ふるさと大熊町の実家であやめを育てていたという信さん。
大の植物好きです。
(惠久子)あそこさ書いてある。
ケヤキだってケヤキ。
ケヤキねうん。
これは何百年たってるわ。
この日はあやめより古い樹木が気になったようです。
(取材者)信さんは木の方が好きですか?好きですね。
うちでもあったんです。
少しばかり。
こんなあやめが。
100歳になった時はそれなりにうれしかったけどやっぱり101歳になってね初めてこれ本物だなと思ったね。
来年4月は今度102歳だよな。
またあと10年ぐらい生きようというような欲望が出てきます。
まぁ〜戦争で苦しんだけどもそれを乗り越えたという自信。
こういう震災に遭ったけども命永らえておまけに負けないで長生きしたという事。
これはやっぱり人生でありがたいなと思いますよ。
だから尊い体験だと思います。
昭和11年に結婚した二人。
その5年後の昭和16年信さん29歳の時召集令状が届きます。
信さんは関東軍の特殊部隊に配属されました。
陣地や仮兵舎を築く一員として満州北東部のソ連国境付近で戦う事になります。
ツルさんは幼い3人の子供と一緒に東京で待つ事に…。
ここは年中こうだったわい。
でも子供いたからね紛れていたけどもね。
相当苦労したはずです。
私がいないで女手一人で子供3人いる。
子供3人ですからね。
その点は本当に感謝します。
自分の女房でもね。
(サイレン)ツルさんたちが暮らす東京も度々空襲に見舞われるようになりました。
(爆弾の落下音)空襲そっちこっちあるでしょ。
そうすると娘がね押し入れに入るのよ。
そうすると娘がね焼夷弾の音や何かすると「恐いよ〜。
田舎へ帰ろうよ」ってまだよちよち歩きのが泣くのよ。
それで私も帰ろうと決めてね。
2月9日に…切符なかなか買えないで友達の旦那さんがね買ってくれてそして2月9日に帰ったんですよ。
3月10日に丸焼けになっちゃった。
だからちょうど1か月早く帰ってね。
裸で帰ったんです。
ハハハ…ええ。
ツルさんたちがふるさとに帰った1か月後東京は大空襲により焼け野原になりました。
8月には広島と長崎に原子爆弾が投下され日本は降伏します。
34歳の信さんは満州の奉天で終戦を迎えました。
しかし更なる苦難が待ち受けていました。
こんなにたくさん収容所におるとは思わなかった。
関東軍は全部ソ連に連れていかれたんだ。
それもだまされてね。
だまされて。
「日本に帰すから」っていうんで汽車に乗せられて。
ところが日本へ帰すどころか逆に…本当はウラジオストクへ出てそこから帰るつもりでおったんだみんな。
それで汽車に乗せられて。
信さんが乗った列車はユーラシア大陸中央部現在のカザフスタンにある炭鉱の町カラガンダに到着します。
信さんたち日本人兵士およそ2,000人がマイナス40℃の極寒の地で過酷な労働を強いられました。
寒い寒い。
零下30…40℃。
監督が来ると「ダワイダワイダワイダワイ」って言うんだ。
「ラボートニェートダモイニェート」。
「仕事しないと帰さないぞ」と。
「やれ」とか「食べろ」とか「しろ」とか「仕事をしろ」とかって促す言葉が「ダワイ」なんですね。
それがもう嫌で嫌でねえ。
それでも信さんは「いつかは日本に帰れるはず」と自分自身を励まし前向きに生き抜きました。
「ロスケ」っていうのは我々はバカにして「ロスケ」って言ったけど「ロスケ」っていうのはロシア語なんだ。
「ルースキー」っていうんだほんとは。
日本人は「ヤポンスキー」。
ヘヘヘヘ。
ロスケの女の坑夫も働いてるんだよ。
男と同じだ。
体格はいいしね。
それで上がってくるとねお月さんが煌々と照ってる時があるんだよね。
そうすると懐かしくて我々はこう眺めるわ。
そうするとロスケがやって来て「日本にこういうのあっか?」と。
「お月さんあっか?」と言うんだよ。
それから私もねからかってやろうと思って「あるとも。
日本には2つあるんだ」って言うんだ。
「イエスイットドワイイエス」と言ってやるんだよ。
そうすると目を丸くして本気にするんだよ。
これは悪い事したかなと思ったけども。
強制労働では休憩の時間は全くありません。
食事の時間も与えられず黒パンを立ったままかじったそうです。
慣れていないから慣れていないためにあんまり…結構でなかったんだね。
しかし腹へってるから何だかんだやっぱり食べるわ。
そのうちに慣れてきて慣れるとねあの黒パンというのは案外おいしいんだよ。
食べてるうちにだんだんとおいしくなってきてね。
もうソ連から帰る時には黒パンに別れるの寂しかったよ。
残念だなと思っとった。
私も日本へ帰ってから上野のパン屋で黒パンってものを買ってみたけど全然違うんだ。
ソ連の黒パンとは全然違うものだ。
ユーモアで苦難を乗り切った信さん。
ふるさとに戻ったのは昭和23年36歳の時でした。
心配でしたね心配でした…ハハハハ。
「はぁ〜っ」って。
フフフフフフフフ。
帰ってきたら大酒飲んだからがっかりしてるんだろう。
信さんが帰国した時日本は何もかも失っていました。
まさにゼロからのスタートでした。
やっぱり日本人という自覚とそれから自信があったね。
日本は戦争には負けたって必ずまた立ち上がると。
こういう信念があったね。
だからあの発展のしかたね。
あれは大したエネルギーなんであのエネルギーは日本人は必ず発揮できると思ったもんね。
軍国日本をつくり上げたあの力を平和のために使えばきっとできると思ったもんね。
信さんが信じたとおり昭和20年代後半から日本の経済は急激な成長を続けます。
そして人々の暮らしも便利になっていきます。
信さんは37歳の時好きだった英語を生かし双葉中学の英語教師になりました。
こっちは酒飲んべえだからね。
こっちは姉さん女房だから。
何かっていうと学校でね酒飲んだのよ。
こっちは102歳でこっちは101歳だろ。
これいつまでたっても姉さんぶってんだ。
ハハハハハ。
学校で酒飲んだの。
そうするとハジゴやってくんでしょ。
これは迎えに行くのよ。
自転車で信雄がね迎えに行ってそうして自転車につけてくるんだ後ろに。
いつだか落っことしてうちさ帰って「あれ?おやじいない」なんて。
ヘヘヘヘヘヘ…。
学校で何かあれば必ず飲んだんだもんね。
昔は学校で。
先生ばかりじゃなくて…。
そうするともうハシゴやってくからね。
(舌打ち)一般に酒飲みに対して寛容だったんです日本人はな。
当時は…。
ハシゴで有名だったわ。
当時は酒飲みの決まりなんてやかましくなかったんですよ。
飲み屋で朝になって渡す通信簿盗まれて。
余計な事しゃべるな!あぁ?余計な事しゃべるな!バカ者。
ハハハハハ!そして時が過ぎ昭和42年信さんが55歳の時今につながる大きな出来事がありました。
原子力発電所の建設が始まったのです。
(汽笛)「この地方一帯は農業を主とする静かな田園地帯で過去数百年にわたって地震や台風津波などによる大きな被害を受けた事がない」。
「新しいエネルギー源による東京電力福島原子力発電所。
出力40万キロワット。
昭和45年10月完成を目指して」。
冬になると仕事なくなると収入もなくなっちゃうから皆出稼ぎに出かけたんです。
ところが原発が出来たら状況すっかり変わっちゃってね。
そういう人はみんな原発で働く。
しかも収入は今までの倍以上も入るようになってね。
景気は良くなったわけです。
もう村の人全部が金持ちになっちゃったんです。
原発はいいもんだと思ったね。
道路は良くなるし公共施設は出来るし何もかにもいい事ずくめだったですね。
大熊町は発展を続け信さんの家族も増えました。
息子信雄さんの長男も結婚してひ孫が3人生まれました。
そんな家族に訪れた想像もしなかった出来事。
大熊町は放射能汚染により帰還困難区域に指定されました。
いつふるさとに帰る事ができるか全く見通しが立っていません。
終戦記念日。
黙。
(サイレン)
(サイレン)ひ孫の2人が郡山市から信さんとツルさんに会いに来ていました。
お地蔵さんの着物を一緒に着せに行った…間もなく中学生です。
野球が大好きな健人君は高校1年生。
甲子園を目指しています。
(笑い声)会津若松にひ孫たちがやって来る時だけはかつての暮らしが戻ります。
おじいちゃんを見てもすばらしい生き方をしてきたのでそういう姿を見て自分も今の若い世代がやっぱり復興に向けて進んでいかなきゃなってつくづく思ってます。
やっぱり何もない…なくて別にそんな発展したとこでもなかったんですけどやっぱりその平凡な生活が何よりだったっていうか平和に暮らしていた事がごく当たり前だったのがこうなってしまってまあ残念っていうふうにも受け止めてるんですけども…。
うちの中。
ええ?これまで一度も帰宅していない信さんとツルさん。
この日映像を通してふるさとの現実を知りました。
み〜んなガチャガチャだ。
何でこんなクチャクチャになってる?これ何だ?お地蔵さんだ浜の。
あ〜あぁ。
今まで地震なんてなったってこんな事になった事ねえのに。
子や孫のために何ができるのか…。
あやや破れて。
お墓があるからちょっと引っ掛かるんですけどねもう帰っても米は作れない畑は作れないうちには住めない帰っても何の意味もないですからやっぱり別天地を求めるよりしかたないですね。
原発の事故は大きすぎたね。
とても…。
もうふるさとは捨てなくちゃならんもん。
だからこれからは…子や孫の代にはあそこには住めないから代替えの土地を買ってうちを建てる事が当面の目的ですねもう。
心の中では10年は生きたいと思ってるんです。
だけど現実的にはどうでしょうね?とにかく原発の収束を見ないうちは死にたくないんです。
100歳を越えた今新たな目標ができました。
ツルさんが久しぶりに針仕事をしていました。
津波に流されずに残った2体のお地蔵さんに新しい着物を着せてあげようと考えたのです。
これお地蔵さんの着物。
2つ。
大きいのとちっちゃいのと。
どのくらいだか分かんないけどね着せてみないと。
あとでこう腰上げとか裾まくるとかってね。
かつて縫い上げた記憶だけを頼りに一晩で作りました。
掛けてくっからね。
あ?お地蔵さんに掛けてきますからね。
うんうんうん。
ツルさんの体力を気遣い代わりに信雄さんと惠久子さんが着物を着せてあげる事になりました。
じゃ気を付けてどうぞ。
はい。
(信雄)小さいのもあるじゃない。
小さいの2つしかない。
(惠久子)おばあちゃん着せてきたよって。
そしたら「ビニールも持ってってかぶせてきて」って言うから持ってきましたしね。
やっぱりボランティアでこういうのやるというのはおばあちゃんが喜ぶんじゃない?自分が。
自分の気持ちが。
ね?誰にも頼まれなくても。
原発事故がいつの日か収束しますように。
真美ちゃんたちやその子や孫の世代がまたこの海岸で遊べますように。
お地蔵さんの着物には100年を生き抜いてきたツルさんの願いが込められています。
ツルさんの103回目のお誕生日です。
離れ離れになっていた4世代9人が震災後初めてそろいました。
はいおめでとうございます。
どうも。
ひ孫の真美ちゃんがツルさんにインタビューしました。
おばあちゃん103歳おめでとう。
何?103歳おめでとう。
はいありがとさん。
今どんな気持ちですか?ふ〜わふわの気持ち。
(笑い声)宙に飛ぶような気持ち。
(笑い声)ツルだから飛んでいくから。
(笑い声)いつもならツルさんの目の前に座っている信さんの姿がありません。
実は年末にインフルエンザにかかり1週間入院。
熱は下がったものの体力が落ち歩く事ができなくなってしまいました。
夏に倒れ冬にも倒れた信さんですが自分史作りは続けていきたいと考えています。
もう大丈夫です。
本人が言うんだから間違いありません。
しかし何になったって私は希望は捨てませんから。
希望を失わないでね病気なんかには負けないで頑張りたいと思ってます。
1月下旬信さんはある決心をしました。
車で2時間ほどのいわき市にある老人ホームに入る事にしたのです。
半年間リハビリに励み元気を取り戻そうと考えました。
行ったらね設備がありますからそこでしょっちゅう歩行の訓練しようと思っているんです。
やがて体が良くなれば戻れるという希望がありますからね。
こういう狭〜い所じゃなくて広々とした所でリハビリ等なんかもできんじゃないかっていう夢があるんじゃないですか?多分。
半年我慢しろな。
だいじょうび!
(笑い声)ツルさんとの別れの日。
(鍋で手すりをたたく音)何だっけな。
(笑い声)半年も行ってくんの?んだ。
頑張れ頑張れ。
おう頑張るよ。
すぐまた元気になって帰ってくる。
帰ってこなかったら困るわよ。
(笑い声)なんぼケンカしいじゃってケンカもできなくなったら寂しくなっちゃう。
(惠久子)これは置いてっていいね。
磐梯山ともしばらくお別れだ。
うんだね。
あっ山真っ白だ。
半年間のリハビリを乗り切るため信さんは大切なお守りを持ってきていました。
写真持ってきました。
ハハハハハハ。
数々の困難を前向きな精神で乗り越えてきた100歳夫婦信さんとツルさん。
原発事故の収束と家族の将来を見届けたい。
二人の日々は続きます。
2014/03/08(土) 00:45〜01:45
NHKEテレ1大阪
ETV特集▽信さん101歳 ツルさん103歳〜どっこい生きたふたりの100年[字][再]
吉田信さん101歳ツルさん103歳。関東大震災や太平洋戦争など歴史に残る出来事を乗り越えてきた。しかし3年前原発事故で故郷を失う。再び困難と向き合う二人の記録。
詳細情報
番組内容
吉田信さん101歳、ツルさん103歳。関東大震災や太平洋戦争など、日本の歴史に残るさまざまな出来事を経験し、乗り越えてきた。ふたりは福島県大熊町で4世代9人の暮らしを送ってきたが、3年前、原発事故で家族離ればなれになり、故郷を失った。困難に直面した信さんとツルさんは、かつてのように前向きな精神でそれを乗り越えようとする。番組では100歳夫婦の1年間を記録するとともに、ふたりの言葉に耳を傾ける。
出演者
【語り】井上真央
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32721(0x7FD1)
TransportStreamID:32721(0x7FD1)
ServiceID:2056(0×0808)
EventID:19822(0x4D6E)