東日本大震災で目撃した光景を小学1年生の少女が描きました。
車や人が青い大きな津波に巻き込まれています。
合わせて書かれた作文の一節。
「大震災の事を作文に書いて下さい」。
おととしある出版社の呼びかけに応えて100人以上の子供たちから作文が寄せられました。
震災を経験した子供たちがその目で見肌で感じた言葉の数々。
まとめられた文集は国内はもとより海外でも大きな反響を呼びました。
子供たちの言葉が映し出した大震災の姿。
そして2年を経た希望の光を探します。
まず書いた時にはやっぱりお父さんの事を一番に考えてあとは大体覚えてる記憶どおりに書いたので。
一番考えたといったらお父さんの事です。
その少年は石巻市立渡波小学校に通っていました。
震災で失った肉親への思いを込めた作文を書きました。
「わたのは小学校3年1組鈴木智幸。
3月11日5じかんめの国語のじかんに大きな地しんがありました。
そのときないた子もいました。
先生がだいじょうぶだよといっていました。
そのあとぜんいんでこうどうにいきました。
おじいちゃんがむかえにきてくれました。
ぼくとおじいちゃんとおばあちゃんとおにいちゃんでサン・ファンに行こうとしたらおとうさんはかいしゃにいくといっていってしまいました」。
智幸君にとってそれが後に悔やまれる事となりました。
智幸君の父幸雄さんはあの日地震発生のあとすぐに市内にあった勤め先から自宅に向かいました。
家にはおじいさんおばあさん高校生の長男そして学校から戻った智幸君がいました。
何してんだ?おっきな津波来っど!早く高台さ行け!その時はランドセルとかすぐ放り投げるように置いてまずすぐ逃げてよかったと思うんですけどもし準備とかしてたら少し遅れてのまれたかもしれなかった。
家族は無事合流。
高台にある避難先を目指して移動しました。
もうちょっとだからね。
おとうさん大丈夫?じいちゃんばあちゃん大丈夫?うん大丈夫。
よかったねけんちゃん。
お父さん?ちょっと会社行ってくっから。
それから程なくして石巻に津波が押し寄せました。
お父さんは「俺はまだ会社に行く」って言って行ったんです。
その時に止めておけば助かったかもしれなかった。
行方不明者の写真が青いブルーシートにほんとにいっぱい貼ってありまして見落としちゃいけないと思って細かい字からずっと拾ってた時に一枚の写真があって「これはもしかして」と思う写真に当たりまして。
お母さん帰ってきた時確か泣いてたような気がして「どうしたの?」って聞いたら「見つかった」って言われてその時はほんとに…。
「見つかった」って…早く見つかってよかったんですけどお父さんはもうほんとにいなくなったんだって。
喜びと悲しみが2つあります。
「4月10日におとうさんがみつかり一週間後おとうさんのかそうをしました。
とてもざんねんでした」。
僕は一回ほんとの死体を見てないんですよ。
お母さんが見に行って「待ってて」って言われて椅子に座って待ってたんですけど見てはないから泣きはしなかったんですけど…。
とっても悲しかった。
それでその時はほんとに悲しくて半分以上の人が泣いてました。
泣くのはこらえたんですけど…。
お父さん津波の時にその時に考えていた事はお父さんは津波の時に…いろんな事考えちゃいます。
津波が引いたあと智幸君は家から大切にしていたものを持ち帰っていました。
(取材者)誰に買ってもらったんですか?お父さんに買ってもらった。
でも今はもうボロボロで。
ひもがなかったりとか。
何か震災の時のがれきとかと大体同じぐらいのにおいがまだ少しします。
でも1回津波をかぶったんでこれ。
多分そのにおいかもしれないし。
父幸雄さんは野球が大好きでした。
セミプロ級の腕前の持ち主で高校大学実業団で活躍していました。
(智幸)キャッチボールとか球速くて23球受けたぐらいでもう手が赤くなったりして。
家の中では正直言ってぐ〜たらしててわがままだったんですよ。
お母さんに何買ってこいとかいっぱい言ってたんですけど野球の事になると少し変わったんですよね。
真面目になってほんとに真剣になってるお父さんを見る事ができたんですけど…。
(智恵子)智幸にとってもこれから人生生きていくうえでお父さんとの別れというのはその分深く心に刻んだんだろうなと思いまして忘れてほしくないというか忘れないと思いますけどお父さんの最期の日を書き留めた事は良かったんじゃないかなというふうに思います。
「こういう事をやるんじゃないぞ」と教えられた気もするし「命の大切さ」みたいな事を教えてもらったような気がします。
優しくて強くて時にはちゃんと怒って…。
ちゃんとした立派な人間になりたいです。
智幸君は作文の最後をこう締めくくっています。
津波で壊滅的な被害を受けた大谷地区には以前5人家族が暮らす黄色い家が建っていました。
その家の小学生の姉妹が津波の様子を絵と作文にしました。
どちらの絵にも描かれているのは車をのみ込むすさまじい津波。
「じしんがきたときこわかったよ。
ないちゃったよ。
友だちだって一人ながされたし一人てんこうするしいやだな。
つなみってよくばりだな」。
姉妹は今仮設住宅で暮らしています。
今年6年生になった姉の…4年生になった妹の…ここでしょ。
ここら辺でしょ。
今でも車で逃げる途中で見た津波の記憶は消えません。
(菜摘)黒い車流れてきててあと木とかたんすのかけら…。
(菜摘春菜)津波。
「お母さんはお兄ちゃんを見つけるとすぐお兄ちゃんを車に乗せ妹の友達の家へにげて行きました。
その家へ着く…と思い津波は来ていないかなぁと横をふとみたら津波がすぐそこまで来ていました。
いつも通っている道を行っていたらもう命はないと思います」。
一本手前の道路を通ったのでなんとか助かった。
何か曲がりました。
何となく。
「急いで上にあがってにげました。
車をおりてしばらく津波が来るのを見ていました。
そうしていたらまたじしんが来ました。
私はこわくてこわくて泣いてしまいました」。
その時美恵さんは娘の口から忘れられないひと言を聞かされました。
津波があった日の夜に山の中の車の中で春菜から「お母さん生きさせてくれてありがとう」っていう言葉をもらいました。
菜摘も「ありがとうお母さん」と言ってくれて。
そのあと一家は山の中から近所のお寺に移り3か月間避難生活を続けました。
春菜ちゃんの作文にはその様子も書かれています。
「ゆうなちゃんとあそんだりはるかちゃんとあかねちゃんと言う人と友だちになってあそんだりしていました。
それから『フラフープダンスぶ』というものをつくってあそんだりしてました」。
「3人とたくさんあそんだりしゃべったりしたからたのしくなってきたよ!なんだかこころがわくわくなったきがするよ。
たのしいおてらだよ!」。
そして姉の菜摘さんの方は作文をこう結んでいます。
「みんなで協力して大谷のふっこうをねがいます。
さいがいがおきてみんなからたくさんの贈りものをもらっているので今度何かおきた時は自分たちもその人に贈りものをしたいと思いました」。
姉妹がお寺で始めた事がもう一つあります。
「みんなを笑顔にしたい!」と名付けた「スマイルカフェ」でした。
全部メニューも考えて書いてポスター貼りをして呼び込みをして準備をしてそれが結構好評で何回やったんだろ?7弾。
7回やって。
「ほんとに避難所なの」ってびっくりされるくらいいつも笑って…。
子供が一番偉かったなと思って大人より。
子供のおかげでほんとに勉強しました。
(笑い声)作文集の中にとりわけ反響の大きかったものがあります。
「平成23年3月11日。
俺はこんなにも恐くて苦しくて悔しい日を一生忘れない」。
この作文を書いたのは家族で一番手のかかるやんちゃな高校1年生啓史君でした。
あの日学校が休みで家に居ました。
「放送で大津波警報が発令。
避難するように流れたのですがいつものように津波なんて来ないだろうと甘く考え地震の後片づけに夢中になっていたら隣の家のおじさんが「津波が来たぞ!早く逃げろ!近所のところまで来てる。
早く!早く!」と言う声にびっくりし津波といっても10cmくらいかなと思って見に行ってみたらすぐ近くまで小さな波と大きな波が押し寄せてきて俺は弟たちを連れ走りだしました」。
「母は妹の姿が見当たらないと大きな声で『うらら!』と呼びながら津波が向かってきている家に戻ろうとしているので父が『何考えてるんだ。
津波が目の前まで来ているのに死にに行くのか!うららは先に走って逃げたはずだから。
大丈夫だから早く走れ!』と母に言い聞かせ走らせました。
津波はすぐそこまで来ていました」。
うらら!ハァ…もうダメ。
先行って。
みんなの事お願い…。
何ふざけた事言ってんだよ。
津波がもうそこまで来てるんだぞ!走れよ。
頑張って走れ!ハァハァハァ…。
「でも正直言うと俺はもう間に合わないかもしれない。
全員津波にのみ込まれてしまうのではと不安でたまりませんでした」。
「母に『俺が妹を見つけてくるから。
大丈夫だから』と言って小学校に向かいました。
俺は人生でこんなにも全速力で走った事はないくらい無我夢中で走り続けました」。
「小学校の体育館でやっと大泣きし興奮状態の妹を見つけ何があっても妹の手を離さないぞと思っていた瞬間体育館にも津波が入ってきて俺は妹を背中におんぶして人混みをかき分け校舎に向かったのですがみるみるうちに波が押し寄せあっという間に腰まで水につかりました」。
「家族と離れ連絡も取れない不安で不安でたまらない眠れない一夜を過ごしました」。
大丈夫ですよ〜。
はい。
「次の朝早く腰の上まで水につかりながら自分の家まで行ってみました」。
「この津波で小さい頃から俺たち兄弟をかわいがってくれた親せきのおじさん我が家の家族の一員である犬2匹近所の人たち先輩後輩そして友人いろいろな人たちをたくさん亡くしました。
津波さえ来なければ大切なものをたくさんなくさなかったのに…。
俺は生きてきたこの16年の間に悲しみ苦しみ悔しさ寂しさつらさ怖さひもじさ喜び楽しみうれしさ全てを経験しました。
もう家も住めません。
まだ避難所暮らしですが津波に追いかけられながらも生き延びた命これから何事にも負けず一生懸命生きていきたいと思います」。
今まではもうやんちゃで悪い部分というかねもうこいつはという感じでしか見えてなかったので。
学校さぼってるとか何だのってそういう面しか見えてなかったんだけれどもやっぱり津波があって人を助けるとかね親に対してもこう思ってる兄弟に対してもこう思ってるというのが見えた部分はよく分かったというか見えてない部分が見えたなと。
4月千葉県松戸市のさくらまつり。
香ばしいソースに誘われて焼きそばの店には列が出来ています。
母親の美香さんは石巻の復興を願いながら各地で焼きそばを焼いています。
似合わないじゃん。
サルみたい。
近々切るという話なんだけど。
隣で手伝うのは作文を書いた次男の啓史君。
今は建築現場で働きながら時々母の店を手伝っています。
やっぱりこの人に言われなければ多分止まってそのまま家に戻ったと思うんですよね。
津波の来てる方向に戻っていったと思うんでこの人にやっぱり言われて走んなきゃいけないんだなって思ったので。
この人がいなければ私は今頃こうやっていなかったなと。
作文の最後は啓史くんの決意表明。
子供たちの作文。
その中には他の誰よりも身近な肉親の心に深く響くものがありました。
岩手県大小学校の5年生だった八幡千代さんが避難所で書いた作文です。
3月11日当日に感じた恐怖や避難生活の事などがつづられています。
その終わり近くにこう書かれていました。
「お母さんはまだ見つかりませんが必ず見つけて三人で仲良くくらしたいです」。
この一文が父親の光徳さんの心に響きました。
釜石市で学習塾の塾長をしています。
妻の千果さんは自宅に居て津波に遭い行方不明となりました。
光徳さんにはいまだに悔やんでも悔やみきれない記憶があります。
ごちそうさまでした。
コーヒー飲む?うんもらおうかな。
濃いめ?薄め?薄め。
うん薄めね。
はいどうぞ。
ねえドーナツ食べに行こうよ。
明日エレクトーンの発表会だよな?そうだっけ?発表会が終わってからにしよう。
なっ。
うんじゃあいいよ。
我慢我慢。
今度の日曜に行こう。
うん。
予定表持った。
教材は車の中かな。
今日のごはんは何がいい?何だろう刺し身?何でもいいよ。
じゃあいってくるわ。
それが妻と交わした最後の会話になりました。
「宮古にあるドーナツ屋さんに行きたい」って言ってましてそれがちょっと心残りというか残念ですよねとても。
なぜ妻のささやかな願いをかなえてやらなかったのか。
後悔にさいなまれるように光徳さんは来る日も来る日も行方不明の妻を捜し歩きました。
父と娘はいつしか母親の事を口にしなくなりました。
妻の遺骨が戻った時にこの作文のここのフレーズが頭から離れなくて約束を守ってあげられなかったなという…。
千代に生かされてるという部分はあると思います。
これ以上さみしい思いはさせたくないんですよね。
つらい思いもさせたくないんです。
そうするとやっぱりこんな俺でも生きてなきゃなっていうふうに思うんです。
大震災という未曽有の経験をした100人以上の作文。
実は80年前にも子供たちが作文を書いていました。
昭和8年3月3日未明。
釜石の東方沖で巨大地震が発生。
三陸海岸一帯に大津波が押し寄せました。
岩手県田老村の子供たちが津波の体験を作文に書き残していました。
作家の吉村昭さんはその事を著書の中で紹介しています。
およそ80年前に作文を書いた子供たちの一人牧野アイさん。
当時尋常高等小学校の5年生でした。
その牧野アイさんは今も健在です。
91歳になりました。
そして2年前生涯2度目となる大津波に遭ったのです。
日頃田老地区の自宅で過ごす事が多かったアイさんですが震災当日は高台にある老人ホームでデイサービスを受けていて津波の直接の難は免れました。
しかし80年前と同様自宅を失いました。
(栄子)昭和8年の津波覚えてた?小学校の5年生…。
(栄子)その時の事をいろいろ聞きたいんだって。
「ガタガタとゆれ出しました。
そばに寝ていたお父さんが『地震だ地震だ』と家の人達を皆起こして戸や障子を開けて外に出たが又入って来ました。
けれどもおじいさんは『なあに起きなくてもいい』と言って平気で寝ていました」。
(アイ)「お父さんは『提灯を付けろ付けろ』と騒いでいました」。
「表へ出てみますと町の人々が何も言わないでむすむすと山の方へ行くので『静子あべ』と言ったら『やったおらあお父さんと行く』と言ってうちに入っていきました。
そこへとし子さんが来ましたので二人手を取って山の方を指して逃げました」。
「赤沼山のお稲荷さんの所まで行くとみんながもっと登っていくので私たちも離れないようにぎっしり手を取って人の後について山のてっぺんまで上がって火をたいてあたりました。
家の事を思い出したのはその時でした。
冷たい夜がほのぼのと明けた頃他の家のお父さんやお母さんたちが自分の子供を尋ねに来るのに私の家の人は誰も来ませんでした。
家の人がどこかにいると思ってあちこち見ましたが見当たりませんでした。
その時私は初めて一人残ったという事が分かりました。
その晩はいくら寝ようとしても死んだ家の人たちを思い出してちょっとも眠られませんでした」。
「翌日叔父さんたちは『死体を捜してくる』と言って出はっていきました。
あっちこっちにごろごろとたくさんの死体がありました。
布団を着たまま死んでいる人もあれば裸になって死んでいる人もありました。
お昼ごろに叔父さんたちが戻ってきましたので『何人見つけたべえ』と聞いたら泣きながら『お父さんとおじいさん』と言って涙を流しました。
私の眼からも涙が流れました」。
(泣き声)「私の眼からも涙が流れました。
母さんや静子はどこにいるのだろうと思うと悲しくなってただ大声で泣きました」。
津波でみんな持っていかれたもの。
駄目だ。
ほんと津波のこり。
津波のこりだ。
アイさんは津波で家族全員を失い孤児となった境遇を「津波のこり」という言葉で表しました。
独りぼっちになった彼女は各地を転々としたあと北海道の女学校に通いました。
しかしふるさとへの思いが募り19歳の時田老に戻ったのです。
地元で教員をしていた男性と出会い結婚。
夫もまた津波のこりでした。
アイさんの夫荒谷功二さんは後に地元の小学校の校長になりました。
アイさんの娘栄子さんもまた同じ学校の校長を務めました。
栄子さんには幼い頃から津波の教訓を忘れまいとする両親の姿が印象に残っていると言います。
例えば夜寝る時次の日に着る服をきちんと畳んで枕元に置かされました。
真っ暗い中でも手探りで着替えをして玄関にはいつも靴がきちんとそろってそして寝るようにしてたのでそのまますっと靴を履いて外に出られるような事。
はい大丈夫ですよ。
ほれ久しぶりで来たでしょう。
ちょっとうちの前まで行ってみるかね。
昭和40年代まで田老地区では防災訓練の日など折に触れてアイさんたちの作文が朗読されていました。
しかしそうした事もいつの間にか行われなくなっていました。
栄子さんは今再び子供たちの作文を通して津波の教訓を後世に語り継いでいきたいと考えています。
よかったね生きててね母さんね。
津波で助かってよかったね。
(栄子)うちの母は津波で死ぬ事だけはさせたくない。
そういうもう無言の鉄則ですよね。
今年3月福島県会津美里町の復興支援イベントで作文を書いた本人が自作を朗読しました。
「『今思うこと』5年松本倖太朗。
ぼくは葉の時に牛をかっていました。
その牛は肉になる牛です。
三さいぐらいの時から牛の世話を手伝っていました。
ぼくがえさをあげようとするとすぐ近よってきてモグモグと食べました。
でも牛はずっといっしょではありません。
牛をせりにだして肉にするのです。
牛はトラックにのせて運びます。
牛はモーモーと鳴いています。
そういう時はいつも悲しい気持ちになりました。
ぼくもおじいちゃんも牛が大好きでした。
だからこれからも牛とずっといっしょにくらしていけるんだなあと思っていました」。
倖太朗くんは津波で掛けがえのない牛を亡くしました。
倖太朗くんの父智幸さんです。
息子の作文に牛との生活ばかりが書かれていた事に驚いています。
正直ビックリしましたね…。
もっと他に楽しい事いっぱいあったでしょうに。
…思うんですけど彼にとっては牛の比重が大きかったんでしょうね。
(サイレン)
(プッシュ音)大津波警報が出たぞい。
住民を避難させるっぺ。
避難指示も出ました。
地域の確認さ行ってくっから!頼む。
(サイレン)
(牛の鳴き声)兼業農家だった松本さんは6頭の牛を飼っていました。
(牛の鳴き声)ためらいながらも柵を開きます。
津波が来ても運が良ければ生き残ると牛を運動場に出したのです。
自宅近くの高台には避難してきた住民も集まってきました。
携帯つながんねぇか。
津波だ!
(津波が迫る音)それは信じられない光景でした。
水しぶきを上げて迫ってくる海。
津波が自分のうちに入っていくのをただぼう然と見つめるしかありませんでした。
必死に撮影した4枚の写真。
その一枚には松本さんの自宅が波にのみ込まれていく瞬間が写っていました。
波の中にはあの牛たちもいました。
「ぼくは三月十一日の大きな地しんがおきたときは学校にいました。
すぐにつくえの下にかくれました。
今まで感じたことのない大きな大きなゆれでした。
ぼく達はいったん校庭にあつまって体育館にひなんしました。
ひなんしているときにお父さんに会って家が流されてしまった事を聞きました。
じいちゃんとばあちゃんは無事だと聞いて安心しました。
『牛は大じょうぶだったの?』と聞くとお父さんは『ちょっとだめかもなぁ』と言いました」。
震災後いろいろあって日常が思い出せない振り返る事ができなかった時間があって。
子供の作文を読んだ時にああこういう生活だったのかなというのは改めて思いましたね。
津波のあと葉町は原発避難指示区域に指定されました。
松本さん一家がこの場所で暮らす事は今はできません。
牛小屋があった場所には何も残っていませんでした。
ここが牛小屋の…。
「その後は原ぱつの事こがあっていろんな所にひなんしました。
ぼくはまだ小さくて一時きたくできないのでまだ家には帰れていません。
ぼくの家があった所もどうなってるのかわかりません」。
母子手帳がないのがつらいですね。
水泳の道具ですね。
去年8月避難指示解除準備区域となり昼間は行き来できるようになりました。
しかし今でも放射能の影響が心配で息子たちは一度もこの場所へ帰ってきていません。
物は買えば元には戻るとは思うんです。
まず思ったのが子供のちっちゃい頃の記憶というかここで遊んでたという記憶がなくなるんじゃないかなというのが一番その時思いましたね。
かわいそうというか何というかもやもやした気持ちはありますね。
それが失ったものではないんでしょうけどもやっぱ物ではなくて記憶がどんどん薄れていくのが怖いですね。
週に一度松本さんは車で2時間ほどかけて家族の暮らす会津若松へ向かいます。
牛が好きだったし牛が流されて悲しかった。
牛の分まで生きる。
長生きする。
「このごろは牛の世話をしていなかったのでもう少し世話をしてあげればよかったなと思いました」。
「ぼくの家族だった大好きな牛はいなくなってしまったけれどぼくは元気に会津で生活しています」。
作文からは子供たちの心の声が聞こえます。
今こそ耳を傾けて下さい。
2014/03/22(土) 02:35〜03:35
NHK総合1・神戸
つなみ〜子どもたちのことば〜[字][再]
東日本大震災を体験した子どもたちの作文集。寄せられたピュアで詩的な言葉にスポットを当て、幼い瞳がとらえた恐怖、悲しみ、喪失感、そして2年を経た希望の光を描く。
詳細情報
番組内容
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した「つなみ〜被災地の子どもたちの作文集」には、東日本大震災を体験した子どもたちの恐怖、悲しみ、喪失感が、ピュアな詩的な言葉でつづられている。2年余りを経た「子どもの日」を前に、女優・倍賞千恵子の朗読と再現ドラマで、あらためてそれらの言葉をかみしめる。作文を書いた子どもたちの、その後も取材。今、一人一人の心に、どのような希望の光が芽生えているかも見つめる。
ジャンル :
ドラマ – 国内ドラマ
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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