去年10月一つの団体がその歴史にピリオドを打った。
日中戦争そして太平洋戦争のさなかに戦場で傷つきあるいは病を患った人々。
誰もが不自由な体で戦後の困難な時代を生き抜いてきた。
この日集まったのは本人と家族1,200人。
かつて35万人を数えた傷痍軍人会の会員はその多くが亡くなった。
今回の大会で解散する。
昭和20年の終戦以来68年の歳月がたちました。
戦傷病者とその家族が歩んできた歴史が決して忘れられる事なく皆さんの平和を願う思いとともに将来に語り継がれていくよう切に希望してやみません。
(砲撃音)アジア太平洋の広大な地域が戦場となった時代。
海で空でジャングルで島々で戦死した軍人軍属はおよそ230万人に上る。
一方戦場で傷つきあるいは病を得た軍人軍属いわゆる戦傷病者はその正確な数すら分かっていない。
(拍手)戦場の傷を抱いて戦後を生き抜いてきた傷痍軍人会の会員は今や5,000人足らず。
平均年齢は92歳を超えた。
私たちは会の解散を機に改めてその声に耳を傾けてみる事にした。
東京九段。
靖国神社の程近くに日本傷痍軍人会が運営してきた戦傷病者史料館「しょうけい館」がある。
一人の人間が兵士となって戦場に行ってけがをして搬送され日本に帰ってきてそれから今日に至るという時間的な流れになってます。
展示されているのは戦傷病者に関する資料や戦傷病者から寄贈された品々。
戦場で身に着けていたものや義足義手などが戦争の実態を伝えている。
しょうけい館には2003年から記録してきた140人200時間を超える戦傷病者たちの証言がある。
証言をした戦傷病者で既に亡くなった人も多く貴重な映像記録となっている。
彼らはどんな戦場で戦いどう傷ついたのか。
パパパパパーッとね曳光弾が来た。
色のついた弾がね。
赤いような黄色いような。
私はすぐ下へ降りて…その時にどういうんになったんか私はそっからが分からんのです。
50キロっていいましたね。
爆弾だけど落とされて。
どうやって治療室行ったんだか分かんない。
左手はなくてぱっくり白い…。
ごめんなさい。
白い肉片がねばっと出てた。
それから指がね何本かなくなってるようだったですね。
横浜に駐留してる部隊でして…飛び出そうとしていたら…上がってきたらその時に……という事を言われましたので恐らく私はあの時には…朝の最初の戦闘で…前は打たれへんけど…大阪生まれの川人義明さんは昭和19年海軍に志願した。
16歳だった。
憧れの戦艦に配属され空からの攻撃に備える機銃の射手となった。
昭和20年7月乗船していた戦艦「伊勢」は広島県呉沖でアメリカ軍機の攻撃にさらされる。
あっという間に川人さんは血まみれになった。
出血はね…胸やら肩やら。
そうしてるうちに…その時に…病院に運ばれた川人さんは肩胸そして両目に傷を負っていた。
特に左目の傷は深刻で摘出手術となった。
そしたら明くる朝はね…それをまた頭看護婦が押さえてビューッビューッと取ってそこへまた…でまた明くる朝。
それがやられると熱が出るんですよ微熱が。
川人さんは残った右目の回復に期待をかけ東京の病院で手術を受ける。
しかし…。
光も。
ちょっと見えた。
それで見えてよう見えるしなああ見える見えるなんて喜んでたらそれからまあ1か月するかしないかでだんだん視力がまた落ちてきてね見えなくなってきて。
川人さんは両目を完全に失明した。
まだ18歳だった。
戦争中は傷痍軍人に対して国から手厚い保護があった。
時に皇室から義眼義指義手義足などが傷痍軍人に贈られる事があった。
しょうけい館には傷痍軍人から寄せられたそれらの品々が展示されている。
(ニュース音声)「秩父宮高松宮三笠宮三妃殿下にはおそろいにて11月30日東京府下清瀬村の傷痍軍人東京療養所をご慰問あそばされました」。
「名誉の負傷」と言われた傷痍軍人に国は敬意を払った。
療養所が整えられ治療費やリハビリの費用は無料。
慰問も盛んに行われた。
職業訓練や就職先の斡旋もあり除隊後は「恩給」という形の金銭の支給もあった。
海軍航空隊にいた大日方邦治さんは昭和18年乗っていた飛行艇の事故で海にたたきつけられ重傷を負った。
その結果片手と片足を失う事になる。
兵役を免除される時にこちらにあります恩賜の義肢。
それから戦傷奉公杖を頂いてそして帰ってきた。
義手と杖を贈られた大日方さんは郷里の長野県塩尻市に戻った。
大日方さんは大きな工場に就職する事ができた。
更に傷痍軍人に花嫁を紹介する事も広く行われた。
「名誉の負傷」を負った傷痍軍人と結婚する女性は美談としてたびたび新聞に取り上げられた。
何かで…正垣志まさんは昭和18年22歳の時中国戦線で両腕と右目を失った良一さんと見合いをし結婚した。
写真を見てもろうたらあれやけど…そういうのがだんだんだんだん…。
しかし実際には甘いばかりの結婚生活ではなかった。
夫が銭湯に行けば男湯に入って背中を流しトイレに入ればその介添えもするなど文字どおり献身的に夫を支えた。
大変やいう事は私の口からは本当は言えないんですよ。
あんた行きなさいあんた欲しいからもらいますっていうのと違うんやから。
だから私が大変やっていう事…若いからできた。
今せえ言うたかてできませんやろ。
若さがあってやっぱりある程度…内地での傷痍軍人のさまざまな保護に対して戦況の悪化した前線では傷病兵といえども特別な扱いは望むべくもなかった。
ニューギニア戦線で終戦まで戦い続けた半田準一さん。
傷を負い病にかかった戦友たちがまともな治療もなしにジャングルの中に置き去りにされていくのを見た。
火を焚くと消し炭が残るでしょ。
それでまだ血が出るからっていうんでその辺の柔らかい葉っぱを引っ切って揉んで傷口へ。
半田さん自身足などに二度負傷しマラリアにもかかった。
それでもジャングルに置いていかれないよう行軍を続けた。
行動開始したりしなくちゃなんねえんだから。
とにかく俺らもどんな事があっても…そこまではというような事で頑張ってきた。
(玉音放送)アジア太平洋各地の戦場から310万人の軍人軍属が引き揚げてきた。
しかしその中に戦傷病者が何人いたのかそれは分かっていない。
祖国の土を踏んだ戦傷病者を待っていたのは予想もしない不本意な扱いだった。
(ニュース音声)「8年間にわたって行われた侵略戦争の犠牲者傷病兵たちが今も続々と国立病院に送られてきます。
国立とはいいながら病院はまるで国家から忘れられたような荒れ果てた設備しか持っていません」。
終戦後日本を占領統治したGHQの方針によって一部の重症者を除き軍人に対する恩給は廃止された。
戦傷病者の治療も行き届かなくなった。
(ニュース音声)「使い古したガーゼは洗って消毒してまた使っています。
国家の補助一日2円50銭の食事では健康を回復するのに十分なだけ食べさせる事はできないと病院では言っています」。
軍人の特権を廃止するというGHQの方針が戦傷病者たちを直撃した。
伊東朝雄さんは昭和19年乗っていた駆逐艦がアメリカ軍機の攻撃を受け両手を失った。
入院したのは海軍病院。
しかし海軍病院は戦後一般の国立病院となる。
「名誉の負傷」だったはずの伊東さん。
扱いはガラリと変わった。
戦争が終わると同時…請求書がくるとは思わなかったですよ。
妹に迎えに来てもらって伊東さんは昭和22年病院を出た。
そこから苦労が始まった。
終戦後のインフレモノ不足。
混乱を極めた社会の中で戦傷病者が定職に就くのは難しかった。
暮らしは困窮を極めた。
普通米の担ぎ屋さんというのは…持ち運びしてそんな事やってたんですけど。
御徒町行って芋のアメを仕入れて。
でも全然売れない私。
この手でね口に入れる物は買う人が買わないよね。
隣の人は売れるのに私は売れないんだもの。
戦艦「伊勢」で負傷し両目を失明した川人義明さんも病院で途方に暮れていた。
退院し社会に出ても戦傷病者に対する処遇は冷たかった。
生きる気力を取り戻す事ができたのは通りがかりの少女が見せてくれた小さな親切だった。
「ある日気が付いたら私は踏切の前に立っているのでした。
心細くて途方に暮れている私に『危ない兵隊さん』と声がしてかわいい手が私を支えてくれました。
少女は私の手を引いて病院まで連れて帰ってくれました。
翌日私の部屋を訪れた昨日の少女が一枝の花を私の手に持たせてくれました。
その花は病室の中の空気を変えてくれました」。
戦争が終わっても戦争の傷を抱えたまま生きなければならなかった戦傷病者たち。
川人義明さんの戦後を改めて伺いに大阪高槻を訪ねた。
川人さんは故郷の町で85歳の今も現役のマッサージ師として働いている。
18歳で両眼失明となった川人さんは昭和22年病院を退院。
視覚障害者の職業訓練施設に入り鍼灸とマッサージを学んだ。
環境は劣悪だったが歯を食いしばって頑張った。
冬は辛抱ができないんですよ。
そうでなくても点字は指で読むんですから…そんな折隣国で戦争が始まった。
悲惨な戦争の記憶が川人さんによみがえった。
日本はこの戦争のおかげで特需が生まれ経済復興に弾みがつく。
しかし川人さんはその事に後ろめたい気持ちを持った。
これがねこういう事がねあってええ事かって私ね。
昭和26年日本は転機を迎える。
サンフランシスコ講和条約で再び独立が認められGHQによる占領統治が終わる事になる。
終戦後は恩給も十分な医療支援も受けられなくなっていた戦傷病者の中には生活のため街頭で支援を求める人もたくさんいた。
川人さんはこうした状況に憤りを感じる。
「占領は終わった。
戦傷病者に対する国の支援を復活すべきだ」。
仲間たちと総理大臣官邸へデモを行う。
もう独立したんだという事で…銀座に200人ぐらいいたんじゃないかな集まってましたけど…川人さんたちには信念があった。
「哀れみを乞うているのではない。
当然の要求をしているのだ」。
その時政府に出した要求書。
戦傷病者に対し国が責任を持って支援する事を求めている。
かつての恩給と違って軍隊時代の階級で差をつける事なく政府の責任で生活を保障するよう求めた。
時ならぬ戦傷病者のデモは警官隊に遮られ乱闘となった。
川人さんも巻き込まれた。
グ〜ッと…痛くて。
痛いんですよ。
川人さんたちは戦術を変え街頭でハンガーストライキに打って出た。
(川人)私らのハンストをやってるテントに来て…。
私の手握ってね。
そういう事をはっきり言われてね。
文書でもらって。
ほんで明くる朝ハンストやめたんですけど。
戦傷病者たちのハンストは社会に衝撃を与えた。
国は援護法の制定に動き障害や疾病の程度に応じて支援する事を決めた。
川人さんの努力は実った。
この援護法が出来た昭和27年の秋全国から350人の戦傷病者たちが集まって「日本傷痍軍人会」が結成された。
野村吉三郎元海軍大将を総裁に頂き恩給の復活を要求に掲げた。
(一同)万歳!万歳!昭和28年国は廃止されていた旧軍人に対する恩給を全面的に復活する事を決めた。
恩給は障害や疾病の程度だけでなく軍の階級によっても差がついていた。
デモやハンストで体を張って闘ってきた川人さんは少し複雑な気持ちになった。
私はいつもそういう何はしてたわけですけどね。
もう一つはね面白くないのはねその戦争当時我々を戦場に送ったりしたそういう指導者が高額の恩給をもろうとる事はけしからんと。
一介の兵士にすぎなかった川人さん。
手にした恩給は多くはなかった。
わしらほんのわずかやったから。
川人さんは故郷大阪高槻に戻り自宅を改装しマッサージの治療院を開業した。
当時珍しかったベッドを導入して評判になった。
27年…28年…。
ここへ。
平屋建てで。
「あんまってぼろいねんな〜」言うて。
わずか1年そこそこで家建てて。
飛行艇の事故で片手と片足を失った…働いていた工場の仕事をする上でぴったりくる義手がなくて苦労していた。
そんな折大日方さんはたまたま見たアメリカ映画でこれぞという義手を見つけた。
映画には実際に戦争で両手を失った傷痍軍人が出演し義手を使って器用に細かな作業をしてみせた。
それで初めて…能動作業義手とは物を自在につかんだり離したりできる義手。
肩を動かす事でゴムが伸び縮みし先が開閉する。
これで必要な作業は一とおりできるようになった。
これだとこのメーターの記録を見ながらとれるわけです。
そういうので他に何か仕事をする時はこのまんまじゃ具合悪いもんでこういうふうにして。
まあこれだと…電気工事士の資格も取った。
これでやったら離れたとこのあれを測るわけにいかないからこれだとこういうふうに自由にできると。
これが…義手を使ってやるというのは並大抵な苦労じゃありません。
更にその当時は電線なんかも軟らかい銅線で出来てるもんだから…もう何十回っていうほどあるいは何百回っていうほど訓練してその皮を何とかしてむくのに線を傷つけないようにするという事を工夫してやりました。
大日方さんは能動作業義手を使いこなし技師として工場の現場で働いた。
家庭も持ち子供2人を育て定年まで37年間勤め上げた。
付けてさえいりゃあどうって事ないと思うけど付けているのが大変。
早く言えば…私が定年になった時によかったなと思うのは会社に行く事自体じゃなくてこの義手を毎日義務として付けなくていい。
あしたからもうあれを無理して付けなくてもいいっていうのが…戦傷病者たちの人生をさまざまな形で展示する…ここに送られた一通の手紙。
目に見えぬ傷に苦しんだ傷痍軍人の妻が書いた。
「昭和21年12月9日に結婚しました。
結婚して以来ズーっと喜一を見てまいりました。
戦争依存症なのか夜中にウワーウワーと大きい声を出して暴れ戦争の夢を見ると言います。
書きたい事はやまやまですが夫喜一を思い涙が出てくるし書ききれないのです」。
手紙を書いた千葉ミキさんを岩手県奥州市に訪ねた。
ミキさんは今息子と2人で暮らしている。
ジャングルをはい回っているところをアメリカ軍に保護された。
昭和21年に復員しミキさんと結婚実家の農業を継いだ。
ミキさんは結婚当初から喜一さんが毎晩のように戦場の記憶にうなされ苦しむのを見続けてきた。
バタバタバタバタ…「ウワー!ウワー!」って…で起こしたってダメだから…七十過ぎあたりまでは暴れてたね。
ちゃんと認められるそうだけど…。
更に昭和28年異変が起きる。
喜一さんの額の古傷が化膿し始めた。
こっからうみが出てきてね。
今度はあそこの国立病院に行ったのね。
耳鳴りがギューンギューンするとかねそして頭がギュンギュンギュンギュンしてね…「頭がギューン耳もギュンギュンギュンギュン鳴る鳴る」って。
いろいろとそういう事言いましたけども本人がそう言っても私にはそのセミの音もね…。
だからほんとにそういう苦労というのは…耳鳴りは晩年まで続いた。
戦争の傷と共に生きた千葉喜一さんは平成21年85歳で亡くなった。
「亡くなって火葬してみましたら頭に砲弾の玉があるはずと頭の傷の所をよく見ましたらありました。
ありました」。
ミキさんと息子の貢さんは火葬のあと頭の骨から砲弾の破片を見つけ出した。
(貢)弾持った時に「ああ六十何年これ頭の中に入れてたら大変だったなぁ」とはほんと思った。
そこだけだね。
(貢)目に見えなくてよそから見りゃどこもなんともないんじゃないかと。
それが亡くなってこうね骨から出てくるとずっしりとほんと重かった。
それだけ俺頭から離れないね。
あの持った時の重さ。
そんだけやっぱり…苦労した人生がそれに詰まってたのかなと思うようだね。
戦傷病者たちは家族や周りの人に多くを語らないまま戦後を生きた。
しょうけい館の一角に脊髄に傷を負った戦傷病者たちが入所した療養所の展示がある。
戦後長く使われ6年前に最後の入所者が亡くなった。
昭和20年代の療養所。
脊髄損傷により下半身が動かなくなった戦傷病者が多い時は100人以上その家族と共に暮らしていた。
働きに出る事はできずここで家族のために内職をして暮らした。
山田光太郎さんはここで妻と5人の子供を育てた。
山田さんは昭和19年34歳で家族を残し出征。
南方に向かう途中輸送船が攻撃を受け脊髄を損傷した。
介護が必要という事で家族も療養所に移り住んだ。
山田さんは家族を養うため療養所の周りの竹を使って内職に励んだ。
この竹がそうなんですね。
これは父が描いたものなんですけどもノミとそれからナタでこの節を全部取って洗ってそしてここの節も取って…。
達筆と見事な達磨絵の竹細工。
長い時間をかけ根を詰めて作ったという。
ほんとに大変でしたよね。
夜も遅くまでねああいうふうにして描いて。
今こう考えてみたって大変だったんだろうと思いますね。
こうついてああやって描くっていうのも普通にこういうふうにして座ってこう描くんじゃないんですからね。
こういう形で描くんですからそれはきっと大変だったと思いますね。
生活は楽ではなかった。
進学を望んだ子供たちの希望を叶える事もできなかった。
一番上の姉がとても勉強が好きな人だったもんですからその当時大学も行くって言って受験もしたんですけどもで受かったんですけど結局姉は1週間泣いて諦めたって母が言ってましたけども。
それはもううちだけではなくてみんなが苦労した時代ですから。
山田さんは足の筋肉が衰えて壊死し2回にわたって足の切断手術を受けた。
34歳で兵隊にとられ脊髄を損傷し療養所で長く内職を続け子供たちを独立させ昭和61年76歳で亡くなった。
でも…でもね。
その戦争でたくさん亡くなってる方がいる中で父は下半身不随で43年ベッドの上の生活をしましたけどもやっぱり生きて話ができてそれはすごい幸せな事だったなと思いますね。
山口県岩国市の山あい。
ここにも戦争の傷痕について多くを語らないまま生きた戦傷病者がいた。
戦後小学校の教師を長く勤めた…平成21年82歳で亡くなった。
去年11月久しぶりに教え子が集まった。
昭和21年藤谷さんが最初に担任した教え子たちだ。
とにかくよく笑う人ですよ。
もう隣の教室に笑い声が聞こえるぐらいね。
全く心の底から腹の底から笑うようなね大きな声だったですよ。
運動会の時ね走る時に昔はバトンを持って皆走りよった。
それが手を振らにゃいけんでしょ。
ここへいっつもバトン挟んだ。
まああんまり怒る事もなかったいのぅ先生は。
(木原)怒られたいう記憶がないと思ったら…。
優しい先生じゃったけぇ。
復員し知人の世話で小学校の教師となった。
藤谷さんは一つ決めていた事がある。
学校で義手は使わない。
その訳を生前撮影されたしょうけい館のビデオでこう語っている。
藤谷さんは希望して山あいの小学校ばかりを回った。
平和な山里の風景と子供たちの笑顔を愛した。
へき地の学級を2学級一緒に授業するとかいう事を自分一人でもうそれを全部背負うて「他のもんにはこういう苦労はさせたくない」いうんでへき地をず〜っと回ってこられたんだろう思うんですよ。
藤谷さんは子供たちに自らの戦争体験を語る事はなかった。
戦争で失ったものを取り戻すように教育に情熱を傾けたと娘の玲子さんは思っている。
左手がなくなった時点で帰っても農業はできないしで選ぶ選択肢がもうそこしかなかったような気がします。
教員しか。
不便な教員が嫌がるような所を自分が選んで行ってそういうとこの子供たちを一生懸命育てるのに日々を費やしたような気がします。
戦争で両目の視力を失い戦後はマッサージの仕事を始めた川人義明さん。
ある事をきっかけに一般の視覚障害者の人々に手を差し伸べようと考えた。
我々の仲間が生活がなんや言うて自殺してると。
川人さんは地域に視覚障害者が助け合える場を作ろうと考えた。
資金は芸能人に協力を呼びかけ公演を行うなどして集めた。
障害者を施設に入れるんやなしに施設を造るよりもそれも地域で…かつて国のために戦った川人義明さん。
戦後は困っている人のためにできる事を探した。
よそはなかったけど高槻は早く取り組んだという事で……というぐらい大阪府では言われるようになった。
まだまだ安心というとこまでいきませんけども…。
去年一つのピリオドを打った日本傷痍軍人会。
戦争が終わって68年がたっていた。
私が思うにはねほんとに…川人さんは家庭を持ち4人の子供と3人の孫に恵まれた。
今は娘と暮らしマッサージの仕事を続けている。
戦争体験が風化する事がないよう願っている。
だんだん平和というものにとってみんな薄らいできてる。
若手の中でも忘れていくけども…。
指導していかないといけない。
だんだんなんか平和に対して薄れてきてるけども。
もう戦争が済んで60年も70年もたつとね。
…という事が必要じゃないかな。
戦争で片手と片足を失い戦後は能動作業義手を使って工場で働いた大日方邦治さん。
去年6月脳梗塞で倒れ今は病院に入院している。
(女性)はい。
せ〜のよいしょ!88歳になった今も戦友の事は忘れない。
という事をしょっちゅう…2014/03/22(土) 00:45〜01:45
NHKEテレ1大阪
ETV特集「戦傷病者の長い戦後」[字][再]
日中戦争・太平洋戦争で負傷し傷害を負った元軍人軍属たちが作る「日本傷痍軍人会」が去年秋に解散した。戦争で生き残った人々の苦難に満ちた戦後を残された証言でたどる
詳細情報
番組内容
かつて35万の会員がいた「日本傷痍軍人会」は、会員数5000、平均年齢92歳を超え、去年ついに解散した。戦場で負傷した軍人や軍属たちは、手足の欠損、失明、とう痛、体内に残った手りゅう弾の破片など、戦争の傷跡に生涯にわたって苦しめられた。心ない差別や中傷を受けることもあり、戦後日本社会への違和感を感じてきた人も多い。彼らは戦後をどう生きてきたのか。いま私たちに何を語り残すのか。その言葉に耳を傾ける。
出演者
【語り】濱中博久
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
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