歴史秘話ヒストリア「戦国 美の革命〜異色の武将・古田織部の生涯」 2014.02.05

ました。
ずいぶん前ですね。
山本投手、48歳7か月ですので、ことし勝てば、64年ぶりにプロ野球記録、更新です。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
東京オリンピックも決まりますます注目を集める日本の伝統文化。
伝統文化というと侘びや寂びなどどこか渋いイメージをお持ちではないですか?実は今から400年前それとは正反対クスッと笑ってしまうような焼き物が日本中で大流行しました。
奇抜でエネルギッシュな形。
まるで現代美術のような文様。
どこか楽しげな感じもしますよね。
これらは織部焼。
戦国から江戸時代の間に突然現れ熱狂的なブームを巻き起こしたかと思えば僅か30年ほどでこれまた突然消えてしまったという謎めいた焼き物です。
この「織部」という名前の由来と言われているのが戦国武将古田織部。
こちらも織部焼に負けず劣らずとても謎が多い人物です。
謎に包まれた織部焼と古田織部の正体を探るためのキーワード…それはひょうきん!?見る人を驚かせ楽しませる常識破りの織部焼。
その登場と同じ頃これまたユニークな芸術家が活躍していました。
戦国武将にして茶の湯の名人古田織部です。
人々の美意識を揺り動かす織部の斬新なセンスはこう呼ばれました。
「ヒョウゲモノ」。
織部のひょうきん美学ってどんなもの?近年謎の多い織部焼に新たな発見が相次いでいます。
誰がどのように作ったのか?巨大な窯がいざなう織部焼誕生の秘密を探ります。
天下一の茶人となった織部。
ところが突然その名誉をかなぐり捨て徳川幕府に反抗します。
ひょうきんから命を懸けた抵抗へ。
古田織部が秘めた真意とは何だったのでしょう?武将にして美の革命児。
常識破りの感性で日本中を魅了した古田織部。
ちょっと愉快で大胆不敵。
美に全てを注いだ男の魅力をご覧下さい。
壊してから作り上げる。
この傷が面白い。
ゆがめひずめ。
このひび割れが面白い。
こんなの邪道と思われそうな古田織部の斬新なセンス。
どこから生まれたのでしょう?織部が目指した「ヒョウゲ」。
ひょうきんの世界へとご案内します。
古田織部本名は古田重然。
れっきとした戦国武将の出です。
城の主の一族として生まれた事は分かっていますが残された史料が少なく謎の多い人物です。
ふるさとは今の岐阜県南部美濃国。
当時美濃は東から京都を目指す武将たちにとって重要な土地でした。
織部が20代前半の頃その美濃に織田信長がやって来ます。
美濃を拠点に天下統一を目指す信長との出会いが織部の人生を大きく変えます。
とはいえ若き武将古田織部が得意とした任務は…?使番。
戦場の連絡係です。
はっ恐らく明日の朝には動きだすかと。
織部には戦いで武勲をあげた記録はなく勇猛果敢というタイプではなかったようです。
一方織部が得意としたのは説得工作。
ある戦では敵の城に乗り込み話し合いで味方に引き入れてしまいます。
戦は苦手。
でも使番としては一流。
人の心をつかむ能力が認められたのか織部は信長が本能寺で死ぬまで家臣として仕え続けました。
一方織部にとって信長は主であるとともに美の革命家でした。
例えば安土城は城は戦いの道具という当時の常識を覆し美しさと威厳で人々を圧倒。
また信長は身の回りに日本に持ち込まれたばかりのヨーロッパの品々南蛮美術を取り入れていきます。
「自分が気に入ればそれが美しい」。
織部は信長のそばで芸術の常識が塗り替わる新しい時代の息吹を目の当たりにしたのです。
織部は30代の頃もう一人重要な美の師匠と出会います。
千利休。
茶の湯で天下一とたたえられた人物です。
茶の湯とはお茶を味わう作法だけを指すのではありません。
茶室という空間で見えるもの聞こえるもの触れるものそして味わうもの全てに気を配り五感を駆使して客をもてなすいわば総合芸術。
利休が愛用したり作らせたりした品々は「利休好み」と呼ばれ人気を集めます。
そうした中から物静かな風情のある侘びの美学を完成させたのです。
織部が京都で利休から教えを受けていた頃の織部の人柄を示す逸話が残っています。
ところで皆様は…。
瀬田の唐橋とは琵琶湖の南京都への街道に架かる橋。
誰もが通る有名な橋です。
織部は突然飛び出します。
一体どうしたのでしょう?宗匠!瀬田の唐橋の形のいい擬法師とは京から見て東の2つ目と西の5つ目ではございませんか?そのとおりでございます。
何事も自分で確かめなければ気が済まない。
織部は利休の理念を体ごと実践していきます。
そんな織部が利休を驚かせる事がありました。
ある茶の湯の席で利休が用いた茶入の蓋に傷が一つ。
利休はそれを隠そうとします。
一方の織部は何を思ったのかその傷物の茶入をもらい受けました。
しばらくして今度は織部が利休をもてなした時の事。
そこで利休は目をみはります。
織部は茶入の傷を客から見えるように正面に向けました。
「自分自身の美を見いだせ」。
そう教えた利休に傷にさえ美しさを見いだす独自の美学で応えたのです。
織部の美意識がよく分かるのが大きな傷が入ったこの茶碗「十文字」。
織部のお気に入りいわゆる織部好みです。
この傷は織部がわざと割ってからつけ直したものと言われます。
織部が褒めたたえた水指。
ひしゃげてひびが入っています。
静けさを破る意表をつく変化に織部は美しさを見いだしたのです。
そうした中天正19年。
利休が死の間際織部に渡した手作りの茶杓です。
名前は「泪」。
利休の織部に託した思いが込められています。
織部はこの茶杓を竹筒に納め位牌に見立てて拝み続けました。
利休の志を受け止めた織部は新たな日本の美を打ち立てようとします。
織部の人気が庶民にまで広がっていた事が分かる笑い話があります。
それを聞いたうっかり者。
杯つまりお酒の器は全部織部なのだと勘違い。
ある日いい気分でいるところ「随分酔ってるね」と声をかけられうれしそうに答えます。
「そりゃあそうさ。
大きなお椀の織部で3杯も飲んだからな」。
そんな織部好みの評価について京都で行われた織部の茶会の記録が残っています。
「セト茶碗ヒヅミソウロウヒョウゲモノナリ」。
「ゆがんだ茶碗。
何ともひょうきんだ!」。
見た人のびっくりする表情が伝わってきます。
あえて割りあえてひびを面白いと評した古田織部。
ひょうきんでどこか明るく楽しい織部の好みが日本中にうけていたのです。
京都を訪ねました。
町なかに古田織部縁のお茶室を守り伝える家があります。
400年続く茶道の藪内流家元のお宅です。
そのため2人の交流を示すものがたくさん残っています。
この露地の敷石細長い4mもの石が敷かれていますね。
そしてその横には細かく石が敷き詰められています。
こういう左右対称でない事を織部は好きだったんですね。
こちらが燕庵ですね。
お茶室ですけれど明るく感じます。
窓の数多いんですね。
12345678とあってそしてもう一つ突き上げ窓があるんですね。
今で言う天窓ですね。
何だかモダンな感じもします。
この明るさこれがやっぱり織部の好みなんでしょうか。
藪内家は代々燕庵を最も大切な宝として守ってきました。
若宗匠自身はこの燕庵をどう聞かされて育たれました?薮内の中では一番重要な茶室と聞いて育ってますので私が初めてここでお手前させて頂いたのも割合近年なんです。
そうですか。
昔からの言い伝えがありまして。
燕庵には古田織部が好んだものが隅々に息づいています。
ちょうどこちらに花生けがかかっています。
もともと利休さんから剣仲が頂いたものなんですけどね。
それを織部さんがものすごく気に入られたみたいである時に自分で持って帰られてしまったそうなんですね。
持って帰ったというのは頂いて?はい。
もう勝手に。
勝手に…そうですか。
その後剣仲に催促されしぶしぶ花生けを返した時の織部直筆のお詫びも飾られています。
「足を痛めたので代わりに息子に持っていかせます」とあります。
もしかして自分で返すのがてれくさかったのでしょうか?織部好みの燕庵はまさに織部縁の品々に囲まれています。
晩年自分の死を間近に感じた織部は義理の弟である藪内剣仲にこの茶室を託したのだそうです。
織部の美学を若宗匠はどうお感じになります?それはもう遊び心なんじゃないですかね。
この床柱とかもちょっと独創的な形のいろいろデザイン的な事で楽しまれていたんじゃないかと思います。
日常がもう戦場だったと思いますけどそういう中から解放される空間ですね。
それを自分自身で楽しんでおられたんではないかと思います。
自分が戦場にいる時とは別の本当の落ち着いた気持ちになれる空間ではなかったかと思います。
織部の明るい美意識の裏には実は戦国武将の命懸けの日常があったんですね。
器は丸いもの。
左右対称であるもの。
きちんとしているほど美しい。
そんな常識を破って登場した織部焼。
古田織部と同じ頃の焼き物です。
その特徴は多種多様な形。
山形舟形こちらはハート形?そして絵付け。
当時日本では器に絵を描く事も画期的でした。
織部焼は現代美術のようなアバンギャルド前衛的なデザインです。
更に絵を引き立たせる深緑の釉薬が織部焼のシンボルカラーです。
織部焼は当然古田織部が作ったとお思いでしょう?でも実は織部焼という名は後世に付けられたもの。
古田織部本人がかかわった証拠はないのです。
それではこの織部焼は誰がどうやって生み出したのか。
その謎を追う旅に出かけましょう。
織部焼は一体どこで作られたのか。
長い間の謎でした。
判明したのは80年前の事。
それは岐阜県美濃地方。
古田織部のふるさとです。
昭和5年ここで絵の描かれた焼き物のかけらが発見。
桃山時代のものでした。
発掘を始めたところ大量の織部焼が見つかったのです。
更に注目を集めたのが丘の斜面にへばりつくような窯の跡でした。
こちらが元屋敷窯です。
この窯は連房式登窯と申しまして製品を詰めて焼く部屋を階段状に何段も連ねた窯になります。
14個の小さな窯が連結し長さ20mにも及ぶ連房式登窯。
織部焼の多くがこの登窯で作られた事が分かりました。
こうした窯は下から順に火をつけていく事で全体に効率よく熱が伝わり焼き物の大量生産が可能です。
これは当時他の地方でもめったにない最新の技術でした。
美濃で焼き物が本格化したのは戦国時代の後半瀬戸地方から職人が来た後の事。
新興勢力の美濃がなぜ登窯という最新の技術をいち早く導入する事ができたのでしょう。
その答えを求めて向かったのは九州北部佐賀県の唐津です。
唐津にも美濃のものとよく似た連房式登窯が残っています。
この技術がやって来たのは朝鮮半島からでした。
豊臣秀吉の時代朝鮮への出兵が行われ基地となった唐津からは武将たちが朝鮮半島に攻め込みました。
一方この戦争で朝鮮半島からは大勢の陶工たちが連れてこられます。
彼らがもたらしたものこそ連房式登窯など焼き物の技術。
唐津は最先端の焼き物の地となりました。
こうした唐津の新しい技術が美濃に伝わる事で美濃が焼き物の産地に成長。
織部焼が大量に作られたと考えられます。
唐津で先祖が代々陶工をしていた中里紀元さん。
焼き物の研究をしています。
中里さんに唐津と美濃が織部焼を介して交流していた事を示す証拠を見せて頂きました。
唐津焼はこういう単なる丸椀だったんですね。
それがこういうふうに変化したんですね。
丸いのがですねギュッとこう曲げてですね靴のような皮靴のような感じですね。
織部の影響があって唐津焼風に作ったんですね。
この流れが唐津の黄金時代。
絵唐津の黄金時代を織部が作ってくれたんですね。
織部焼の産地は美濃。
技術は唐津。
では斬新なデザインは一体どこから?ここで重要なポイントとして登場するのが京都です。
近年京都市内では織部焼の発掘が相次いでいます。
これが京都で発見されました織部の焼き物です。
その数1,200点以上。
素材の成分から美濃の登窯で作られた事が分かっています。
当時京都は最新の商品が流通する流行の発信地。
京都の商人がはやらせたデザインは日本各地の焼き物に影響を与えました。
新しいデザインが焼き物の新興勢力として勢いがある美濃に送られ商品となる。
つまり織部焼は京都などの商人がデザインをプロデュースし唐津からの技術を使って美濃で作られたのではないかと考えられるのです。
ところで織部焼の斬新なデザインは商人や陶工だけで生み出したのでしょうか?多種多様でありながら独自の美意識で統一されたようなデザイン。
そういえば…織部焼の誕生の地美濃は古田織部の生まれ故郷です。
唐津では古田織部が1年半にわたり陣をかまえています。
織部焼がプロデュースされた地と考えられる京都では古田織部は文化人のリーダー的存在でした。
古田織部は織部焼誕生にかかわる3か所全てに縁があるのです。
でもこれはあくまで状況証拠。
古田織部と織部焼を直接つなぐ証拠は見つかっていません。
この謎皆さんはどうお考えですか?古田織部が用いた茶碗はヒョウゲモノ。
つまりひょうきんなものと呼ばれました。
この「へうげもの」というタイトルの作品で織部の精神を現代によみがえらせようとしているのがこちらの方。
2005年から古田織部を主人公にした漫画を連載しています。
この中の織部は貪欲でおっちょこちょいな男。
ひょうきんなセンスで人々を巻き込み独自の美学を打ち立てていく様子を山田さんはコミカルに描いています。
山田さんは織部焼は古田織部がプロデュースしたのではという発想からイメージを膨らませました。
パッと見誰でも思うと思うんですけどちょっとニヤついてしまうところがあると思うんで織部にかぎってはやっぱり最終的にこのギャグを一緒に分かち合いたいみたいなね。
多分そこを狙っているような気がする。
一番尊ぶものが笑いであるというような世界はかなり面白い世の中じゃないかっていう。
そういうふうになったらいいな的な願いも込めて漫画にしてるわけですけどね。
ひしゃげているもの欠けているものに魅力を感じる織部の美意識を山田さんはどうお考えなのでしょう?やっぱり落ち着いた凜としたものがいいとされててやっぱりそれだけじゃないという事が今回漫画にしていろいろ調べてるうちに分かってきた感じですね。
縄文時代のねああいう縄文土器とかは全然その落ち着いたたたずまいじゃないわけじゃないですか。
ああいうものの動きのある系譜みたいなのも日本の一つの側面なんだなと再確認したみたいな感じですね。
確かに侘び寂びとは違う動きのあるおかしみの美学。
それは本当は私たちが忘れている日本人の心の奥底にあるものなのかもしれませんね。
晩年の古田織部は茶の湯の名人として悠々自適。
それでも一応は戦国武将。
戦場に駆り出される事もありました。
戦の合間に仲間の所へ陣中見舞い。
茶を楽しんだりしているうちによい茶杓が作れそうな竹を目にします。
早速戦いそっちのけで竹やぶを物色。
そこに木漏れ日が織部のおでこにキラリ。
一方敵の陣地では何やら怪しい光が!それを狙って…。
弾はギリギリおでこを滑り織部はケガで済みました。
その後茶杓に付けた名は玉すべり。
相変わらずですねえ。
しかしこんな織部はある時から命懸けで徳川幕府に反抗を始めます。
一体何があったのでしょう?古田織部は50代後半の頃歴史を変えた大軍で重要な役目を果たした事があります。
徳川家康が天下人への王手をかけた関ヶ原の戦いです。
戦いの直前江戸から戦場へ向かう徳川家康は織部に大事な頼み事をします。
それは水戸の武将佐竹義宣を味方に引き寄せてほしいというもの。
西へ向かう家康は佐竹に背後をつかれる事を恐れていました。
佐竹もまた織部と同じく茶の湯を愛好する武将です。
織部は佐竹と話し合いの末味方にする事に成功。
やがて織部は二代将軍徳川秀忠の茶の湯の指南役に抜擢されます。
茶人としての力量そして武将たちへの影響力は徳川も認めざるをえないものだったのです。
関ヶ原から10年後。
徳川家康は更なる野心をあらわにし始めます。
その傷とは豊臣家。
当時豊臣家は政治権力は失ったものの大坂城で権威を保っていました。
家康にとって邪魔な存在です。
家康からの度重なる挑発に対立を深める徳川と豊臣。
そんな中古田織部は謎の行動を取り始めます。
しかし豊臣を追い詰め潰す事が徳川家康の秘めたる野望。
和平交渉を快く思うはずはありません。
家康の方針に刃向かうような織部の動き。
天下一の茶人として徳川とよい関係を築いていた織部がなぜこのような動きに出たのでしょう?古田織部を研究する久野治さんは文化を愛する者としての願いだったのではないかと解釈します。
私はやっぱり織部さんはきわめて文化人であり現代的な言葉でいけばハト派であったと思いますね。
その時に自分の身は徳川二代将軍の茶道指南役という立派な役職にありながら御大徳川家康の考え方に反対するわけですね。
豊臣さんにも徳川さんにも仲良くやってもらいたいと。
しかし家康はこれをはねのけ更なる策を展開。
豊臣家が作った鐘に刻まれた銘文「国家安康」の文字が自分の名を分断しおとしめていると難癖をつけ豊臣を追い詰めます。
ところが織部はなんとこの清韓を京都の自宅の茶会へと招いたのです。
誰の目にも家康への反抗心は明らかでした。
和平を目指すならまだしも今度はあえて家康を挑発するような謎の行動。
文化史の研究家熊倉功夫さんは徳川支配の安定に向けて傷や乱れを許そうとしない社会への抵抗ではないかと考えます。
つまり織部というのは織部焼というものを含めて織部の生き方なんですね。
しかし時代の流れが止まる事はありませんでした。
慶長20年大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。
家康は一点の傷もない徳川の世を完成させたのです。
戦いの直後家康の矛先は織部へと向けられます。
古田織部は豊臣方についた息子と共謀し出陣の前京都の二条城にいた家康を討ちとろうとたくらんだ。
家康が命じた処分は織部は切腹のうえ古田家は断絶。
憎しみがこもった厳しい処分です。
時に古田織部73歳。
家康の命令に対しただひと言。
動きや変化を求めヒョウゲを愛した古田織部。
最後に命懸けで時代にヒョウゲてみせたのです。
古田織部の死後徳川の支配する時代が訪れます。
200年以上もの天下太平。
別の言い方をすればあまり大きな動きのない世の中がやって来るのです。
一方焼き物の世界はどうなったかというと織部の死の直後から新たに磁器が作られ始めたと言われています。
磁器は技術や材料の問題から日本ではこれまで作る事ができませんでした。
それが日本に連れてこられた陶工たちによって可能となりました。
白く硬くて軽く生活用品として便利。
そうした形も使い方も画一化された磁器が日本中に広がっていったのです。
もしそんな時代まで古田織部が生き延びたとしたらやはりあくまでヒョウゲモノを追求し続けたのでしょうか。
それでは最後にもう一つ。
古田織部が死を迎えた頃大流行していた織部焼も意外な形で姿を消していく。
そんな秘話をどうぞ。
見つかった場所はかつて焼き物屋が軒を連ねた一角。
当時流行した織部焼が数多く出回った地域です。
ところが発掘状況は意外なものでした。
織部焼は庭の隅にごみと一緒に埋められていたのです。
一世を風靡した織部焼に何が起きたのでしょう?廃棄された時期的なものが寛永の終わりという事なんで恐らく徳川幕府が政権を固めてきて今までとは違った流行が恐らくこれから始まって商品としてはもう流行遅れになったと考えています。
また織部焼誕生の地美濃の久野治さんは織部焼が急に姿を消したのは古田織部が徳川に刃向かって死んだ事が関係しているのではないかと考えています。
1615年織部さんが亡くなられるわけですが亡くなられると同時に…。
流行が去ったのか。
反逆者にかかわるものとして一掃されたのか。
織部焼は徳川の世が固まるとともに消えていきました。
それでも織部焼と古田織部が流行した僅かな時間。
ひょうげものひょうきんで刺激的な光が日本を一瞬明るく照らしたのです。
2014/02/05(水) 22:00〜22:45
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「戦国 美の革命〜異色の武将・古田織部の生涯」[解][字]

戦国時代、茶の湯に魂を奪われた異色の武将・古田織部。「わび・さび」とは真逆の、派手で躍動的な新しい美意識を創りだす。時代を駆け抜けた知られざる男の物語。

詳細情報
番組内容
戦国時代、信長や秀吉に仕え、茶の湯に魂を奪われた古田織部。漫画の主人公としても活躍中の異色の戦国武将は「織部好み」と呼ばれる新しい芸術の流行を生み出す。それは日本的な「わび・さび」とは真逆の、派手で躍動的な美だった。謎の焼き物「織部焼」と古田織部の関わりを求めて京都、岐阜、佐賀唐津を探訪。秘められた意外な結びつきを追う。激動の戦国で、独自の美意識を日本に花開かせた古田織部の知られざる物語。
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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