「schola坂本龍一音楽の学校」日本の伝統音楽編。
前回は大陸から伝来し貴族が支え育んだ音楽雅楽を中心に奈良平安時代の響きについて学びました。
今回学ぶのは能・狂言。
時代は中世。
貴族に代わり社会を統治するようになった武士たちが支えたこれらの芸能の音楽的特徴に迫ります。
日本の伝統音楽を学んでいるんですけども今回は能・狂言を扱います。
星川京児さんにまた来て頂いて。
能の研究と言っていいんでしょうか。
松岡心平先生。
そして野村萬斎さんにも加わって頂きます。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
能とは何か。
狂言とは何かと。
非常に根本的な問題があるんですけども。
一般の方にも分かりやすく言うとどうなりますでしょうか。
能に関しましてはやはり亡霊が出てくる劇であるという事がとても大きいと思いますね。
それと亡霊が出てこなくても神様が出てきたり鬼が出てきたり超自然的なものが出てくる。
そういう異界とコミュニケートするような演劇であるというふうなまた見方ができるかと思いますけれども。
これから詳しくどうしてそのような演劇が育まれていったのかという時代背景も含めてね詳しくお聞きしたいんですけども。
萬斎さん狂言とは何でしょうか?狂言の方は逆に能と全く逆さまで名のない人たちがよく出てきますね。
自分の紹介のしかたも「この辺りの者でござる」っていうふうに必ず言うんですね。
場所を変えても時間を変えてもずっと言ってるんですよね。
アノニマスな一般庶民という…。
そして決して死なないんですね。
人間の生きている姿というものがある程度滑稽みを持っているっていう。
そういう感じの捉え方でしょうかね。
かなり引いてとっているという気がしますけど。
能・狂言は文学舞踊宗教儀礼そして音楽などが融合し総合芸術化した演劇です。
そのため音楽的側面だけを抽出する事は困難です。
まずはどのような演劇なのかその基礎を学びましょう。
それぞれの代表的な作品を見てみましょう。
能の代表作「井筒」。
平安貴族在原業平の恋愛を扱った文学作品「伊勢物語」を題材として創作されたもので世阿弥自身が最高傑作と称しています。
中心となる登場人物は…夫を待ち続ける寂しさや愛情などを歌や舞で表現します。
こちらは…中心となる登場人物は太郎冠者と呼ばれる召使い。
主人に扇子を買ってくるよう頼まれた太郎冠者ですが誤って傘を買ってきてしまい主人の機嫌を損ねます。
あれは何を抜かしよる事じゃ。
太郎冠者は愉快な歌と踊りで失敗を取り繕うのです。
陰と陽とかねそれから死者の世界と生者の世界のようなそういう対比がありますけども能・狂言っていうふうに一つの合体したものとして今日は語られていますけども当初からそうだったんでしょうか?いややはり世阿弥以降の時代に能をやって狂言をやって能をやるというような形が定着していったんだと思うんですね。
世阿弥以前の例えば「自然居士」っていうような能がありますけれどもこれなんかとても喜劇的な要素もあったりして狂言的な要素と能的な要素が一緒になったりするような。
まだ未分化な状態。
未分化な部分もあって。
両方とも一つの進化の形をとっているけどもルーツは同じ?猿楽という事ですね。
ここで能と狂言の歴史を遡ってみましょう。
ルーツは奈良時代の初め唐から入ってきた散楽といわれています。
その後散楽は日本古来のお笑い芸「俳優」と融合しお笑い中心の芸能猿楽と呼ばれ大衆化。
これが後の能・狂言へと変化していくのです。
11世紀の中頃に「新猿楽記」っていうのが出てきますけどもこれなんか見ると「東人之初京上」とかって東えびすの東国人が初めて京都にお上りさんで行った時の滑稽なありさまを示してみるとか。
そういう寸劇みたいなものはもう11世紀ぐらいにいくつか出てきていまして。
それがやっぱり猿楽の原型。
それが狂言も直接的に入っていってるんだと思うんですけどね。
平安末期から鎌倉時代になると猿楽師は寺院の法要などでも活躍するようになります。
こうした儀礼は通常僧侶が行いますが当時は猿楽師が代行したといわれています。
やがて猿楽師は呪術的な儀式を芸能に仕立て演じるようになるのです。
鎌倉中期ごろから伝承される猿楽の演目「翁」。
猿楽師はこうした芸能を各地で行うようになったのです。
もう一つその元の猿楽というのは非常にどっちかと言えば激しい運動というんですかね。
アクロバチックなものを含んでいたのに能っていうのは非常に足も静々と摺り足ですし動き抑制されてますよね。
大きな変化ですよね。
これは観阿弥なんでしょうか。
世阿弥なんですか?私世阿弥だと思います。
能の「井筒」のクセなんていういうのは世阿弥はそこはもう座ってるだけで全然動かないで地謡だけが歌いかけていくというふうな居グセという部分を作ります。
これはもう全く動かない身体ですよね。
それがちょうどそのころ水墨画なんかでも余白みたいなものの美みたいなものが足利義持時代ぐらいに水墨画でも日本で出てくる時期で。
龍安寺の石庭みたいな美が…それはもうちょっとあとですけれどもそういう美意識とパラレルに。
禅的なものが…。
禅の影響がとても大きいと思います。
一音に全てを聞くみたいな美学が。
一音成仏みたいな方向に行っていくんだと思うんですね。
極端なミニマリズムですよね。
あと仏教が奈良平安時代よりもずっと一般化したといいますかね。
民衆のとこにまで行き届いたからこそああいうふうな亡霊とかっていうような事もあるのかもしれないですね。
鎌倉時代に新仏教みたいなものが出てきてそれが一種とても庶民化していく時代が室町でもあるしそういう時代に仏教的なものを演劇として仕立て上げるような能っていうふうなものがより庶民と近い形でできていくっていうようなそういう流れも考えられますよね。
戦乱が続いた鎌倉室町時代。
死と隣り合わせにあった人々は新しく興隆した仏教に救いを求めました。
そうした仏教の布教の場で猿楽師は亡霊が成仏する物語を演劇として見せる役割を担うようになりました。
仏教と結び付く事で猿楽師の芸能も人々の間に広まり後に成立する能につながっていくのです。
でもやっぱり狂言の方が猿楽という能のルーツからすると本流になるんだと思うんですね。
狂言的な世界からある呪術的な空間に入る事によって能的な世界が立ち上がってきて能的な世界が立ち上がると今度はもともと持ってた滑稽的な部分が能と反対形成するように狂言として分化して出来ていく。
だから能の方が歌舞劇であるとすると狂言は科白劇であると。
死者の劇であるとすると生者の劇であるというようなそういう反対形成が起こってきたんじゃないかと思いますけどもね。
死者の劇能。
生者の劇狂言。
今回のワークショップでは対極をなすこれらの演劇のうち狂言について学びます。
ワークショップに参加するのは小学校5〜6年生6人。
じゃあ今日は狂言のワークショップという事でみんなにやってもらうんですけども指導して下さるのは野村萬斎さんです。
よろしくお願いします。
(一同)よろしくお願いします。
じゃあ萬斎さんお願いします。
はい。
ではこれから…狂言見た事ある?みんな。
(一同)はい。
あ〜偉い偉い。
じゃあね狂言のいろんな基礎的な事を教えたいと思います。
まず最初にね横一列になってもらおうか。
僕らは歩く時にこうやって摺り足っていってこうやって足をこすりつけて歩いてるの実際には。
僕らがどうしてこういう歩き方をするかって言うともしかしたら面をつけるからかもしれないのね。
お面をつけるからこうやって安定感のある歩き方をしてるのかもしれないという事でまずね面をちょっとつけてもらおうかと思うのね。
お面をつけるとどれだけフラフラするかっていう感じを知ってもらいたいので。
舞台で実際に使う面をつけてみます。
(野村)押さえてて。
見えない…。
(野村)どう?下見えないでしょう。
下見ようとすると下見るしかないでしょう。
そう。
これで普通に歩いてみて。
前向いて。
どうですか?どこまで行っていいかっていうの怖いでしょう。
おっ危ないぞ。
落っこちるぞ。
じゃあちょっとジャンプしてみて。
ジャンプ。
その場でジャンプ。
どう?しやすい?
(一同)しにくい…。
しにくいよね。
…というようにお面っていうのは視界がすごく狭くて体の動きを取ってしまうというかな。
動きにくくなる訳。
そのために僕らは体が安定する動き方をするのね。
そうしたらねまたすぐ申し訳ないけど一度これを取ってみます。
体の安定感がすごく重要だからさっきの安定するために僕らきのこの歩き方っていうのをよく練習するんだけどきのこの歩き方。
さっきの面をつけて実際かさをつけてきのこのまねをする。
その歩き方がとても重要なのね。
ちょっとこれまねしてみてくれる?そのまま前にこうやって歩いて…。
体揺すらない。
背中まっすぐピンとして。
そうそう…。
体がこういうふうにならないでなるべく安定するポイント。
こうなったりこうなったりしないで安定するポイント。
そして体をまっすぐにして。
体をまっすぐの感覚っていうのをよく覚えて。
いい?ゆっくりでいいよ。
はいどうぞ。
(野村)そうそう。
うまいうまい…。
うん。
それじゃあね今度ねそのままこうしててこうなってた状況から立ってみて。
いい?この感じよく覚えてよ。
ここからこうやって引っ張られたみたいに立って…。
そう。
フラフラしないで。
スクワットだねほら。
…っていうぐらい上半身とか下半身が安定している感じを覚えて下さい。
そうしたら手をこういうふうに親指の外に巻きつけて。
この立ち方はカマエといい能にも共通する狂言の最も基本的な姿勢です。
そして歩きます。
さっきと同じように体が揺れないように。
足をこすりつけて。
はい左足から。
そう。
体まっすぐ真ん前。
そうそう…。
歩く歩く…。
頭が揺れないねみんなね。
いい感じいい感じ。
みんなすごくよくできた。
ありがとうございました。
狂言の基本的な動きを学んだ子どもたち。
次回は狂言の音楽と舞を体験します。
ここからは能・狂言の音楽的特徴に迫ります。
能では脚本に書かれている言葉は全て独特の節をつけて謡われます。
これを謡と呼びます。
主に謡を担当するのは物語の登場人物です。
また舞台に向かって右手に地謡と呼ばれるコーラスを担当する人々が配置され脚本に書かれた主人公の心情や状況説明に節をつけて謡い場面を盛り上げるのです。
一方狂言は基本的に登場人物の会話で進行しますが実際に歌を歌うシーンがしばしば登場します。
これを狂言謡と呼びます。
能・狂言ともに謡や舞を支えるのは囃子方と呼ばれる演奏者です。
主に3つの打楽器と1つの笛で構成されるため四拍子ともいわれます。
4つの楽器なんですけども3つ打楽器があって1つだけ笛管楽器があると。
非常に不思議な…。
音楽的に見るとほかに世界的に類がないんですよね。
能・狂言のような…。
能狂言に関しては。
能楽のような音楽ってないでしょうか。
世界中で。
パーカッションであってパーカッションじゃない。
リード楽器であってリードじゃない。
こんなむちゃくちゃな話はない。
非常に特殊ですよね。
大革っていうんですかあれがサイズがでかいのに一番高いんです音が。
変なんですこれね。
コ〜ンッて音がしますよね。
これは構造的に何でこうしたか分からない。
構造というよりもあれ皮を焙じてわざわざやりますから構造的には普通に割と低い音が出るんですね。
大鼓の皮は馬の皮で出来ています。
演奏前この皮を熱して水分をとばします。
それによって乾いた高い音が出るのです。
片や隣で小鼓の方はちょっと湿気を帯びてますね。
何でそういう両極をあのサイズでやったのかというのがよく分からないとか。
小鼓なんかでも締太鼓ですから締める事によって微妙な音色の変化みたいなものが出ていきますよね。
大鼓と比べ低い音を発する小鼓。
皮に湿気を加えてから演奏します。
ひもの握り加減によって皮の張り具合を変え音の高さを微妙に調節するのです。
3つ目の打楽器太鼓。
その特徴的な奏法がこちら。
下ろしたバチをそのままにしてあえて響かせないようにします。
唯一の管楽器能管。
ひしぎと呼ばれる非常に高く鋭い音を出す事ができます。
その音の微妙さみたいなところっていうのをねらっているし。
それから最後のところでひしぎが吹かれましたけどもああいうひしぎが出る音笛というのはやっぱり珍しいんじゃないかと思うんですね。
これの1回目の講義の時に縄文の響きという事で石笛…石笛と書いた石笛の話が出たんですけども似てるんですよね。
特にひしぎのピ〜ッていうね。
ホワイトノイズのような鋭い音がねそっくりなんですよ。
遠くまで届くようなね。
能の場合ですとあのひしぎの音一発でもう時空を変えちゃうという事が起きる訳だし。
それから最初に申し上げましたように亡霊が出てきたり心霊が出てきたり鬼が出てきたりするようなそういう世界といかに交通していくか。
それを一番最小限の方法でやろうとすると笛のひしぎの音みたいなものを出すっていう事が求められたんじゃないかと思うんですけどもね。
古来より神との交信とか神の出現というのはやはり音が印になるっていうのは日本だけではなくて世界中によく見られる事ですよね。
要するに最もシンプルなといわれてる所の北方シベリアの人たちなんていうのはフレーム太鼓を使いますけどあれはあえて音程とか一切関係ない。
何と共鳴するんだって言ったら大地と共鳴するんだという意識で音をたたく訳ですよね。
そのどこかDNAみたいなのが日本には残っちゃってるんだろうなと思う。
あとね例えばシャーマニズムだと太鼓を使いますけども太鼓っていうのは木ですから大地から生えてくるものの象徴。
そして今度そこに膜を張りますからこれは生き物の象徴という事で非常にこう…神事に。
太鼓っていうのはとても心霊的なものであるという事はね。
あとは風なんですよ。
風ですね。
風です。
うなり棒とか。
あれもナチュラルなものですよね。
その音を聞き分けてしまうという作業が…。
例えば今のヨーロッパ音楽ではコントロールする事にはいくけどそれをそのまま音楽にしてしまうという発想はあんまりないですよね。
ですから雅楽というのはある種のピッチが決まっていて非常に総合的な音楽体系であったと。
それがどうも私は日本人の体にどこかなじみきれないところがあったんじゃないかと。
そういう中で能の四拍子みたいな別のオーケストラ。
それは今の笛なんかもそうですけれどもちょっと石笛のような古代にかえってその古代のシャーマニスティックな音みたいなものを引き受けたような楽器。
それはやっぱり今まで雅楽中心主義だったんだけども「いや俺たちの音楽は違うんじゃないか。
もうちょっと別の音楽があるんじゃないか」というところで能の四拍子みたいなものが立ち上がっていくっていう。
それはやっぱり中世において民衆がより社会に見えてきているという事とも関係あって。
何か僕は音楽でメロディーを奏でるとかっていうよりはかなりみんなたたきつけるというか非常に打楽器的ですよね。
多分メロディーを吹くとかっていうよりもある拍に対して気をぶつけていく。
それがたまたま強く打てば高い音になるし弱く打てば低くなるみたいな。
結果として音が合ったり拍が合ったりするっていう。
拍のために刻むのではなくて何か気が集結したりした結果として拍が生まれてくる。
そういう感覚ですかね。
2014/02/20(木) 23:25〜23:55
NHKEテレ1大阪
スコラ 坂本龍一 音楽の学校 シーズン4「“日本の伝統音楽”編」(3)[字]
日本の伝統音楽編第3回は、中世に武士のひごを受け大成した演劇、能・狂言の音楽を学ぶ。陰と陽、対極にある二つの芸能の意義をひも解き、その音楽的特徴を抽出する。
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