スコラ 坂本龍一 音楽の学校 シーズン4「“日本の伝統音楽”編」(4) 2014.03.06

「schola坂本龍一音楽の学校」日本の伝統音楽編。
列島に息づいてきた多様な音楽に触れそこに通底する響きを学んでいます。
今回も前回に引き続き中世に確立された芸能能・狂言を取り上げます。
演劇である両者にとって重要なのは科白や状況描写に用いる言葉です。
今回は言葉に注目しそれと一体となって奏でられる音楽に迫ります。
まずは能の代表作「井筒」を見てみましょう。
ここでは地謡と呼ばれるコーラス隊が場面の状況を描写しています。
そこに大鼓小鼓能管の3つの楽器がどのように加わっているかお聴き下さい。
僕ら西洋音楽によくなじんでしまった耳から聴くととても不思議な音楽なんですけども。
割と決まったビートで進んでいくのが急にガクッとこう…止まりそうになったりまた戻ってきたりというのが指揮者もいないのにみんなの呼吸で合って一斉に動いていきますよね。
あと唯一のリード楽器である笛が全然パーカッションの刻んでるリズムと違う。
どうやってるのかなっていう。
どうやって聴いたらいいか分からないっていうね。
スコアに書けないような。
譜面に書けない感じなんですけども。
これは不思議ですよね。
トータルに聴くとものすごい緊張感。
ここからここまでの間に全てが終わってればよしっていう事なんですよね。
ですから大鼓と小鼓の拍は決まってるんですけど笛はそれで最初のここからこの間に吹ききればよしと。
あんまり足りなかったら吹き返すとかね。
繰り返すとか。
謡でもここから歌いだしたフレーズのここの詞章までの間に何くさび打つっていうのは自由だったりするんですね。
つじつまだけがそれこそ合えばよしっていう。
一瞬そういう浮遊する瞬間っていうのがありますよね。
それとやっぱり言葉の問題があると思うんですね。
狂言はその当時の現代語で展開されてます。
それで能の方は古典語を使って難しい言葉でやっちゃうと。
能の多くは平安時代の古典文学などを題材としそれをモチーフに死者の世界を描き出しています。
「井筒」でも主人公は平安貴族在原業平の妻の亡霊です。
舞台上で発せられる言葉は基本的に和歌などに使われる七五調。
全てが独特の節をつけて謡われます。
この七五調の言葉はある規則を持って謡われています。
分かりやすくするためにあえてメトロノームに合わせて謡ってもらいました。
七五調の一塊は12の文字。
それが8つの拍に分かれて謡われている事が分かりました。
打楽器や掛け声はこの言葉のリズムに合わせて演奏されます。
どのタイミングで入っているか注意して聴いてみましょう。
このように能の音楽においては言葉が演奏の基準となっています。
そのため演じ手も囃子方も全員が謡われる言葉全てを覚え舞台に上がります。
言葉が楽譜の役割を担い同時に指揮者でもあるのです。
基本的には八割りという感覚が結構全部に入っていってるというふうには言えると思うんですがでもそれは近代我々が楽譜の世界を知った我々がそれを西洋的な目で見て八割りというのをあれしてこれにこういう手が当てはまってるねというふうに書いてみてもそれはそのままにはいかないみたいな世界なんですね。
合う部分ももちろんビートで合っていく部分もあるけれども全然伸縮自在で拍は全然分からないみたいな八割りもあるみたいな。
実際の演奏を聴いてみましょう。
8つの拍は伸び縮みし均等ではありません。
間合いや強弱演奏家の個性などさまざまな要素が絡み合い織り成す能の音楽。
それが観客の想像力をかきたて死者の世界へいざなう原動力となるのです。
死者の世界を描いた能に対し生者の世界を描く狂言。
その音楽はほとんどが登場人物が自ら謡う謡です。
一方萬斎さん狂言独特の謡といいますか。
室町時代の歌謡曲だなんていうふうな事よく説明で僕は聞いてますけれどもね。
どちらかと言うと普通の歌に近いですかね。
お能に比べますとね。
狂言が題材としているのは庶民の生活そのものです。
使われるのはその時代の話し言葉。
あれは何を抜かしおる事じゃ。
謡も多くが庶民の間で自然発生的に生まれたいわゆる流行歌。
生き生きとした暮らしぶりを反映しています。
例えばこの「昆布売」では庶民にとって耳慣れた昆布売りの口上がさまざまな節回しで謡われています。
昆布を売るための売り声を謡にしてる訳ですね。
最初にまず謡節っていうのを歌います。
…というのが謡節というんですけど。
いろんなバリエーションつけて歌って。
次は踊り節というのがあります。
これは浮かれながらやるんですけど。
…なんていうふうにやるんですけどね。
面白い。
シャッキシャッてシャキシャキッていう食感が。
何でしょうね話し言葉でないからこのシャッキシャッて言う時は大概足拍子踏むんですけどね。
まあこんな感じですので。
またお能の人はこういうふうには歌わないし歌えないですね。
人々の生活に密着した音楽を取り入れる事で生き生きとした生命力を高めた狂言。
死者の劇能とは相反する世界を描き出しています。
音楽を体験しながら学ぶ「scholaワークショップ」。
前回から子どもたちが狂言について学んでいます。
参加するのは小学校5〜6年生6人。
ゲスト講師は野村萬斎さんです。
じゃあ萬斎さんお願いします。
はい。
前回は狂言の基本的な動きを体験しました。
今回は狂言の言葉と音楽を体を使って表現します。
これからね狂言の歌を教えます。
座りましょうか。
簡単なフレーズです。
(野村)ちょっと意味分からないね。
これはね「蝸牛」というカタツムリの曲があって。
狂言の演目「蝸牛」。
この文章がどのようにして笑いを生み出すのでしょうか。
まず言葉に節をつけてみます。
その謡を教えますからちょっと一緒に僕のあと続いて歌ってみて下さい。
・「雨も風も吹かぬに」・「出ざ釜打ち割ろう」・「出ざ釜打ち割ろう」・「出ざ釜打ち割ろう」すばらしい。
それでこれを楽しいリズムでこれに動きがつく訳。
立って立って。
続いて動きをつけます。
膝をまずじゃあ右膝を上げる。
右膝上げる時に左の腰の前で打つ。
とにかく足と逆の方で打つ訳。
はい。
ポン。
ポン。
ポン。
ポン。
ポン。
ポン。
ポン。
ポン。
そうそう…。
これをさっきの謡と合わせてやります。
実際にはこれをしかも回転するの。
・「雨も風も吹かぬに出ざ釜打ち割ろう」・「出ざ釜打ち割ろう」こういうふうにやるの。
もうちょっと広がって。
こっち。
一緒にやってみよう。
はい。
・「雨も風も吹かぬに出ざ釜打ち割ろう」右手ずっと上でいいんだよ。
・「出ざ釜打ち割ろう」分かった?僕がこっちで山伏なんだけどこの人はカタツムリに間違えられるのね。
僕がここにいると皆さんが太郎冠者になったつもりではやす。
いいですか。
この対角線にもっと来ちゃっていいよ。
小さい人前に来て。
そうそう。
こういう感じ。
そうしたら皆さんはここから・「雨も風も」とこっちに回りますよ。
そうすると僕が・「でんでんむしむし」って舞ったりします。
・「でんでんむしむし」何回か繰り返します。
必ずみんなにお渡しします。
・「でんでんむしむし」ってこう渡します。
・「むしむし」・「雨も風も吹かぬに」と続けて下さい。
(野村)いいですか?
(一同)はい。
じゃあちょっと囃子方お願いして。
登場したのは囃子方の皆さん。
楽器が加わる事でどんな変化が起きるのでしょう。
(野村)よろしくお願いします。
(一同)よろしくお願いします。
(野村)急ごしらえでできるかな。
とにかくさっき言った「雨も風も」大きい声でやってみてくれる?
(一同)はい。
よしじゃあ君らからやってもらいましょう。
3はい。
・「雨も風も吹かぬに出ざ釜打ち割ろう」・「出ざ釜打ち割ろう」・「でんでんむしむしでんでんむしむし」・「でんでんむしむしでんでんむしむし」・「でんでんむしむし」・「雨も風も吹かぬに出ざ釜打ち割ろう」・「出ざ釜打ち割ろう」・「でんでんむしむしでんでんむしむし」・「でんでんむしむし」・「雨も風も吹かぬに出ざ釜打ち割ろう」・「出ざ釜打ち割ろう」はい。
急ごしらえでした。
囃子と合わせるとこういう感じになる。
お分かり頂けましたでしょうか。
(一同)はい。
(野村)こんなんでよろしいでしょうか。
(拍手)すばらしい。
どうでした?楽しかった。
楽しかった?楽しかったです。
言葉に節がつき滑稽な動きと演奏が加えられた事で躍動感あふれる場面が生まれました。
狂言の舞台はこうして作られていくのです。
死者の劇能。
舞台上で展開されるのは人間の心の中の世界です。
室町時代観阿弥世阿弥によって大成したそのあとも能の精神性はなお深く追求されていきます。
室町時代後期の作品「道成寺」。
ご覧頂くのは乱拍子と呼ばれる特殊な舞の場面です。
(小鼓の音)
(小鼓の音)乱拍子ほど抽象的な音楽って世界中にないと思うんですよ。
あれが600年前ですか。
とんでもない事ですよね。
すごい洗練と言っていいのか何と言うのか。
あれ以上…ほとんど極限の音楽というかね。
ですから乱拍子は道成寺で多分今しか残ってないんですけども昔はほかにもやられてたといわれてますけれども。
乱拍子の打ち方の基本的な枠組みというのは「翁」にあるんですね。
「翁」の翁舞の打ち方。
それから体の動かし方。
対応する。
これは翁舞に原型がある訳なんですよね。
だからとても古い能の音楽の一番古い古層なんですよ。
「翁」。
観阿弥世阿弥の時代より200年近く前から伝承され能・狂言の原点といわれる演目です。
乱拍子の原型と考えられる舞の場面を見てみましょう。
あのような洗練の極致のような形が実は一番古層のものからとられてるというのは本当に深いね。
古層がちゃんと生きてるという事ですよね。
それが死んじゃったらば出てきようがない訳ですから。
あるいはそうやって何度も何度も再生してくる。
…とも言えるかもしれないですね。
亡霊のような。
ですから能というのも最初から出来上がったんじゃなくて300年400年500年の歴史の中で変わってきてるっていう。
だから単に墨守してきたというふうに捉えるのは私はもう違っていて。
それはもうその時代でその人がものすごい時代と格闘しながらそれで受け継いできたから現在の技芸のレベルが保たれているというか。
あるいはそれが発展していくという事が起きているのでそんなに墨守みたいな事では絶対伝統芸能というのはつながっていかないと私は思いますけどもね。
単に写実するみたいにただただ受け継がれてきたんではなくてその時代時代に革新する人もいて変化してきたからこそ生き延びてきたという事ですね。
生と死相反するように見えて常に対をなす2つの要素。
能と狂言は今も一つの舞台の上で人間の生と死を表現し続けています。
2014/03/06(木) 00:30〜01:00
NHKEテレ1大阪
スコラ 坂本龍一 音楽の学校 シーズン4「“日本の伝統音楽”編」(4)[字][再]

日本の伝統音楽編第4回は、中世に武士の庇護(ひご)を受け大成した演劇、能・狂言の2回目。世界的にもまれなその音楽的特徴を掘り下げていく。

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