一人の男性が病院の一室に運び込まれます。
全身の筋肉が萎縮する難病…声が出せなくなる前に自分の声を録音するのです。
体調悪くなさそうですよ。
はい。
いい感じです。
今度は「い」です。
はい「う」。
はい「え」。
もう一回いきましょうか。
「え」。
「お」。
お〜いいですね。
その声はマイボイスと呼ばれる特殊な音声ソフトで合成。
パソコンで言葉を入力するとその人の声で読み上げられます。
50音だけでなく患者が残したい声も録音していきます。
なるようになるさ。
家族に残したい言葉も。
「ありがとう」。
たどたどしいけどその人の声。
それは本人や家族にとってどのようなものなのでしょうか。
東京・府中市にある…脳や神経の異常から体の機能が次第に失われていく人たちを治療しています。
「あ〜」とおっしゃって。
あ〜。
はい。
ベロ出してみましょう。
横に動かして。
はい結構です。
マイボイスを患者のために使う取り組みを始めました。
4年間で125人の声を録音。
きっかけは動けなくなっていく患者の苦しみを見てきた事でした。
マイボイスはその人らしさを残すのが最大の特徴です。
「酒をはやくしろ」。
どうでしょうか。
ピンとこないですか。
ホントですか。
(本間)じゃあ逆に詰めてスピードをもっと速くしてみますね。
録音した声がより本人の話し方に近づくように調整を繰り返します。
「酒をはやくしろ」。
どうでしょう?あっホントですか。
持ってきそう。
そうですね。
これでこう言われたら持っていくしかないですね。
去年11月。
声の録音に臨むため一人の男性が入院してきました。
2か月前にALSと診断されていました。
自力での呼吸が困難になり和田さんは声が思うように出せなくなっていました。
もうちょっとですか?和田さんに声の録音を勧めたのは…患者と家族が集まる会でマイボイスの存在を知ったのがきっかけでした。
体が動かなくなっても夫の毎日の生活を少しでも充実させたいと考えたのです。
生きがいっていうか楽しかったりとかやりがいがあったりとかそういうものを感じながら生活していってほしいなと思いますし。
和田さんは家族4人暮らしです。
大学2年生。
高校3年生。
大学受験を控えています。
和田さんは仕事一筋に生きてきました。
公認会計士として30年間大手の監査法人に勤務。
家にいてもこの書斎で仕事をする事が多かったといいます。
尚美さんとは24年前にお見合いで結婚。
息子の成長を静かに見守ってきました。
会話は決して多くありませんでしたが勉強や部活動の事など尚美さんから何でも聞いていました。
何て言うんですかねあんまりざっくばらんなすごいワーワーキャーキャー一緒に遊んでくれるお父さんではないと思うんですけどでもちゃんと大事なとこ大事なとこではちゃんと見てくれてるなっていう感じかな。
入院から1週間。
録音の日がやって来ました。
録音を勧められ最初はさほど関心を示さなかった和田さんも次第に自分の声を残そうと思うようになりました。
ALSと診断された時医師から「年は越せないかもしれない」と告げられていたのです。
ちょっと目を開けられますか?こんな感じのお部屋なんですよ。
完全に防音室になってますのでね。
ここでいいお声を頂けたらと思ってます。
エヘヘヘッ。
(本間)緊張されてます?大丈夫ね。
笑ってるから大丈夫です。
ホントですか。
よかったですよ。
まずは50音から始めます。
(本間)調子を整えていいところでいいですから「あ」って言ってもらっていいですか?あ。
(本間)いいですね。
今の「あ」でよろしいですか?もう一回。
あ。
(本間)あっいい感じです。
今度は「い」です。
い。
(本間)はい「う」。
う。
(本間)はい「え」。
え。
(本間)もう一回いきましょうか。
「え」。
え。
(本間)「お」。
お。
(本間)お〜いいですね。
50音をとり終えると次は自分が残したい言葉を録音する事になりました。
和田さんは前もって言葉を考えていました。
合格?合格おめでとう。
はい。
(尚美)就職おめでとう?それはこれから先の子どもたちに宛てた言葉でした。
奥様が読んだあとこういきますね。
はいどうぞ。
合格おめでとう。
就職おめでとう。
結婚おめでとう。
ちょっと休憩ね。
記憶でいく?遠い先の言葉ばかり。
尚美さんが思い描いていたのは今夫が暮らすのに必要な言葉でした。
本間さんは日常生活で使う言葉を勧めました。
普通に「こんにちは」とか「おはよう」とか挨拶はいらないですか?和田さんは応じませんでした。
ちょっと疲れちゃったね。
お疲れです。
お疲れ。
家族に残す言葉を絞りだした和田さん。
録音は30分が精いっぱいでした。
もっと日常的なもっとホントにおしゃべりの内容を録音されるのかなって思うんですけど。
どうしてもラストメッセージみたいになっちゃうので。
ちょっとそこが聞いてるとつらいなと思うんですけど。
でも今一番主人が伝えておきたい事を伝えてるんだと思うので…。
それから1週間。
2回目の録音が行われました。
この時も和田さんが口にしたのは尚美さんにとってつらい言葉でした。
聞きたい言葉を問われた尚美さん。
しかしいざ問われると何を言ってほしいのか思い浮かびませんでした。
声を失ってもマイボイスを使う事で夫婦の時間を刻んでいる人がいます。
酒井さんは全身の筋肉が硬直していくCRPSという病気を患っています。
最近は長時間座る事も難しくなっています。
10年ほど前呼吸が乱れ声が出しづらくなった酒井さん。
できる事が日に日に少なくなる中せめて声だけは残したいと夫婦で録音を決めました。
3年前に録音した自分の声で冗談を言ったりけんかをしたりします。
しょうがない。
貧乏だったから。
ハハハッ…。
だったからね。
貧乏だから。
ばかじゃねえの。
しつけえなホントに。
2人の中心には常に酒井さんの声がありました。
ところが3か月後。
酒井さんの暮らしに変化が起きていました。
マイボイスを使わなくなっていたのです。
酒井さんはこの間病気の悪化を医師から伝えられていました。
来年は食べる事も出歩く事もできなくなるかもしれない。
つらい現実を前にして酒井さんは声で話をする気になりませんでした。
夫の隆博さんとの会話も文字盤で行われていました。
隆博さんに伝える言葉も用件だけになっていました。
行ってきます。
隆博さんが訪問介護の仕事に出かけます。
酒井さんはこれまで病気の不安についてあえて夫に話さずにきました。
しかしその不安を一人で抱えきれなくなっていました。
どうもご無沙汰。
元気だった?この日酒井さんのもとに作業療法士の本間さんが訪ねてきました。
改良した音声ソフトを使って酒井さんの声を聞いてもらうためです。
じゃあここ。
あっでも出た。
「すら」。
実は本間さん気持ちが沈んだ酒井さんの事を気にかけていました。
どう?いい?「空高く舞うソーラン節」。
ソーラン…節。
多分「ぶし」は平仮名の方が安全だね。
2人で話をするうちに夫の隆博さんが酒井さんの声を大切にしていた事を思い出しました。
ご主人が体が大きいじゃない?小さい携帯電話持ってきてね「ここにもしかしたら惠子の声がちょっとだけだけどあるかもしれないんですよ。
役に立ちますか?」とか言って一生懸命持ってきて下さったんですね。
それが印象的でしたね。
久しぶりの酒井さんの笑顔です。
「私はまだ使えるんだよね。
だからこそ使わないと伝えないともったいないと思った」。
隆博さんが休みを取れたため久しぶりに2人の時間が持てました。
(隆博)そうだね。
(笑い声)この日酒井さんはこれまで口にしなかった病気の不安について話そうと思っていました。
何?何か言った?何?別に今までどおりじゃないの?何だかんだいろいろやってきたしさ。
自分の弱さを夫に見せないようにしてきた酒井さん。
でもこの日は違いました。
う〜んもう寝な。
あんまりいい事は言わないからさ。
暗い話ばっかりするからね。
フフフメリークリスマス。
隆博さんがどこまで自分の言葉を受け止めてくれたか分かりませんでした。
でもそれは今どうしても伝えたい心の声でした。
入院から3週間たった和田勇人さんです。
3度目の録音が近づいていました。
しかし日に日に声が出づらくなっていました。
自分たちはどんな言葉を聞きたいのか。
尚美さんは手伝いに来ていた和田さんの母も交え家族で話し合う事にしました。
火災報知器の取り付けがどうたらこうたら…。
昔から勇人さんがよく言ってたような事とかありますかね?言ってた事?
(尚美)言ってた事とか口癖とか好きそうな言葉とか。
あんまりしゃべらない方だったからね。
(尚美)ハハハハそうね。
長男の彬さんも口下手な父の言葉はすぐには思い浮かびません。
(彬)あんまり俺父さんがコミュニケーション能力あるなって思った事ないもん。
自分が多少苦労したんだよ。
(尚美)おとうさんがねコミュニケーション能力がすごくあるって…家庭と仕事場と違うのかもしれないよ。
でもさ…。
確かに苦労したのかもしれないね。
苦手だろうなと思って見てたからさ。
ところが…。
大学に行くなら…。
(泣き声)思い出した言葉がありました。
高校を中退するかどうか悩んでいた4年前。
父がかけてくれた言葉です。
あれだね「好きな事」じゃないけど…高校をやめたいならそれでいいって言われて。
大学に行きさえすれば過程は何でもいいからって。
(尚美)好きなように…ね。
基本は彬が好きなようにやったらいいよっていう事だったよね。
(彬)うん。
そうだった。
思い出を振り返るうちに和田さんが家族の前で日頃口にしていた言葉が次々と出てきました。
何か日常っていって思い出すってのはサッカー。
あれは?「プレミアリーグ」とかさ。
「長友」とかさ「本田」とかさ名前を入れとけばさ毎週同じ人たちが試合してるからさどの人のどの試合を録画してほしいのか分かるじゃん。
それは喜んでやるかもしれないね。
好きな食べ物。
仕事で使ってきた言葉。
そしてサッカー選手の名前。
残してほしい和田さんの言葉は家族との暮らしの中にありました。
話してると結構出るもんだね。
フフフ…。
翌日。
飲みたいんだよね。
お水。
やりますやります。
尚美さんから話を聞いた和田さん。
彬さんが自分の言葉を大切にしていた事そして家族が口癖を覚えていてくれた事を初めて知りました。
和田さんは自分の声を残す意味を考えていました。
おはようございます。
この日本間さんが録音した声を持って和田さんの病室にやって来ました。
見舞いに来ていた和田さんの妹も一緒になって実際に声を聞いてみる事になりました。
パソコンだとこうなるんですね。
「たくやくん就職おめでとう」。
どうでしょう?
(勇人の声で)「ななちゃんみなちゃんはなちゃん結婚おめでとう」。
(本間)でも聞きやすいですね。
(尚美)いいですよね。
マイボイスから聞こえてきた和田さんの声。
途切れ途切れですが自分の声でした。
(取材者)あの声はお好きですか?3回目の録音を迎えました。
事前に和田さんから聞き取っていた言葉を尚美さんが読み上げます。
(尚美)「窓を」。
「開けて」。
「もっと」。
「開けて」。
「窓を」。
「閉めて」。
「もっと」。
「閉めて」。
「明かりを」。
「明かりをつけて」。
「明かりを消して」。
これまでとは違う言葉でした。
「おなかがすいた」。
おなかがすいた。
「のどが渇いた」。
のどが渇いた。
「顔を拭いて」。
顔を拭いて。
「体を拭いて」。
体を拭いて。
「頭を拭いて」。
頭を拭いて。
「目薬をさして」。
目薬をさして。
「はなをかむ」。
はなをかむ。
「ひげをそる」。
ひげをそる。
うん。
以上です。
(本間)ありがとうございます。
今何か声がいい感じなんですけど…。
家族に残す言葉ではなく日々の暮らしに必要な言葉。
大してない。
じゃあ今から読むので言いたいのがあったら言ってくれる?尚美さんが聞きたかった言葉でした。
病気の不安をマイボイスを使って夫に伝えた酒井さん。
新しい目標を立てました。
できるだけ夫婦の時間を作る事です。
はい。
お疲れ。
たとえ夫の帰りが遅くなっても食卓を囲んで話す時間を増やそうと考えています。
2人の会話に以前のような明るさが戻っていました。
そうだね。
お礼は言わないね。
ハハハ…!そう。
「頂きます」と「ごちそうさま」はちゃんと言うじゃん。
そんな事ないじゃん。
お弁当はちゃんとお礼言ってたよ。
ハハハ…。
ありがとうございます。
3年前に残した声が今の夫婦をつないでいます。
3度目の録音から1か月。
これ遠近両用眼鏡。
これでいいの?和田さんはマイボイスを使う練習をしていました。
(尚美)送る?送る時は…。
(本間)まずはポストに。
(尚美)あっこれですね。
(本間)郵便ポストで…はい。
僅かに動く右足だけを使って言葉を入力します。
(尚美)改行?この日は次男隆さんへのメッセージを書きました。
大学入試に臨む息子を応援する言葉でした。
(本間)疲れてきてます?
(尚美)大丈夫?大丈夫?はいそこ。
…で送受信ってヒヨコの右に。
出た出た。
うん?…うんうん。
うん…うん…うん…合ってる。
うんそうね。
そうそう。
「頑張って」より「力まず」の方が隆の性格に合ってるからって。
ホントそうよね。
フフフ。
たどたどしいけど自分の声。
今を生きる声です。
(正文)上海に来る気やっぱりないの?2014/02/04(火) 00:40〜01:25
NHK総合1・神戸
地方発 ドキュメンタリー「たどたどしいけど 私の声」[字]
50音の一つ一つを録音してパソコンで合成すると、文字を打ち込むだけで、その人の話し声となって再生される音声ソフトがある。声が出なくなる患者が利用し始めている。
詳細情報
番組内容
あいうえお…の50音や、口癖など、「声」を録音してパソコンで合成すると、文字を打ち込むだけで、その人の話し声となって再生される音声ソフトがある。筋萎縮性側索硬化症(ALS)などで気管を切開し、人工呼吸器を取り付けなければならなくなった患者たちに利用され始めている。声が出なくなる前に、声を残そうとする患者や、その家族。どんな思いで録音に臨むのか。残された声で生まれる新たな家族の時間を見つめる。
出演者
【語り】渡邊佐和子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
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