3.11万葉集 2014.03.19

あの日から短歌を詠み続けてきた人たちがいる。
お父様はこっち。
3.11心の内を吐き出してつぶやき叫んだ「五七五七七」。
真っ黒いものを孕んでいる。
歌を詠む事で生き抜いてきた。
これなんかね荷物になるものでもないのでどこにでもある…。
コスモスの種。
咲くんですよ。
今年もたくさん咲きました。
この場所に家があった。
ここがうちの義理の姉の3階建てのうちがあった所なんですね。
佐藤さんは女川を離れた。
仙台へ移って夫婦で仮住まい。
時々ね着たくなるんです。
(取材者)3.11の時の?…時の服ね。
そしてこれ姉がね買ってくれたんですよ私に。
だからね時々寂しくなると姉に買ってもらったこれ着ると何となく一緒にいるような感じっていうのかな。
まだ姉と甥っ子が見つからないうちはまだ終わりでないんですよね。
ずっと捜し続けている。
サンマがおいしい。
おいしい?うん。
今日は種まいてきましたよ。
またまいてきた?コスモス咲いてたからね。
山崎節子さん75歳。
岩手の釜石で農業をやっていた。
今遠野の仮設住宅で独り暮らし。
ひっつみひっつみすいとんなの。
田舎の料理だからうどんのようなもんだけどね。
(取材者)どんなご主人だったんですか?よそ様から見たらもう最低かもしれないけど私にとっては世界に一人って…ほんとうん。
忘れたくないと思ってね。
山崎さんが描いたふるさとの水墨画。
うちにいたんだけどここがうち。
水が来た時にすぐ後ろが山なんだけど杉の木…私は杉の木につかまっててね杉のてっぺんまで水がバ〜ッとぶっついて上がるんでねその勢いでワ〜ッと体が浮き上がってズッと上がったんですよ。
お父さんも一緒につかまってたんだけど私を助けようと思ったと思うのね。
手を離してほんとに水から顔半分しか出てなかったけど「大丈夫か?大丈夫か?」って2回叫んだのが最後ですね。
そして私は水の中にいたからその水引いた時にはもうお父さんいなかった。
ああ菊が立ってる。
月に1回遠野から釜石へ墓参りに行く。
花代をやりくりして電車とバスを乗り継いで。
すぐ帰ってくっからねって。
私もすぐ来るからねって。
でもそのうまくいくかどうか分かんない。
玄関ここです。
ここが茶の間…6畳半の茶の間かな。
そこに茶棚がここにあってお父さんは茶棚のところにいつも寄っかかってテレビを見てたっていうか。
私はこっち。
う〜んカーテン…最近はまあ開けれるんですけどそれまではレースのカーテン朝起きても引いたまんまっていうかなかなか外の景色見るのもつらいというか朝から。
メモここに入ってるんですけどね。
駅前にポツンと残ったマンションで何もなくなった町を眺めながら短歌を詠み続けている。
3.11の直後手放さなかったメモ帳。
最初は買い物用メモなので「ビールおつまみ日本酒かきのたね」と書いてるんですね。
そのあと今度突然自分でも読めないです。
何書いてるか分からない。
空気を残すというかあとで書いたんだったら駄目だと思ったんですね。
下手でもいいからその時にすぐ書く。
これは読めますね。
「3月11の11日12日のですね朝日と共にペンを持つ。
言葉は惨事に届かぬけれど。
定型に言葉委ねて書く書く書く。
余震ある地に命を立てて」というふうに。
今ちょっと初めて見ました。
(アナウンス)「間もなく終点仙台仙台です」。
(斉藤)はいこんばんは。
いつものように進めていきたいと思います。
では鈴木さん。
「3,267の灯の波紋被災千日の海辺に揺れる」。
斉藤さんは週1回カルチャーセンターで短歌を教えている。
今年は千日を期して亡くなった犠牲者の数石巻市で3,267のキャンドルをともしたんですね。
鈴木洋子さんは震災後斉藤さんの教室に入って短歌を詠み始めた。
石巻の小学校の校長だった。
門脇小学校。
津波が来た時学校にいた子供たちは先生の誘導で裏山に避難し助かった。
そこが正門です。
子供たちを朝ここで迎えてたんですね。
(取材者)一番初めに作った歌は?一番初めに作った…ここに立った時に子供たちの校舎でにぎやかに学習してきた声とかね遊んでる時の声が聞こえてきたように思ったんですね。
大震災にね遭遇し生き残る事ができたわけですね。
やっぱり伝えていきたい。
私の言葉で伝えていきたいな。
1か月にいっぺん集まって避難者たちだけで立ち上げて…。
今日はそば打ちごちそうになれるんで…フフフみんなで集まれるしそれが何よりだよね。
会いたいのよね。
(一同)いただきます。
半谷八重子さん福島県の双葉町から栃木県の宇都宮市へ避難してきた。
(女性)おいしいです。
コシが強い。
(取材者)皆さん顔見知りなんですか?違います。
ここに来て初めて。
出身はうちの隣の浪江。
浪江町です。
親戚もみんなバラバラだ。
帰りたいのはやまやまだよねみんなね自分のうちに。
でも行くたびちゃんとしてくんだよね。
(カーナビ)「福島県に入りました」。
(線量計の音)あっ8点だここは。
8点…あっ9だ。
だべここ高い。
(線量計の音)9.8駄目だわ。
10だ11うわっ!月に一度だけ一時帰宅が許可されている。
もう片づけはできないんです。
すごい散らけたまんまです。
「帰るっていう人半谷さん夫婦だけだよ。
誰も帰るって言わないよ」って言うの。
でもいいわって言って。
卒園式もしないままね…。
こういうの見るとほんとにたまんなく悔しくなっちゃうよね。
これが変わってたらいいんだけど来る度にここにあるでしょ?そうすると何かその時の思いが何かもう…。
田中英敏さん67歳。
自分の今を書いてくれた。
「私は原町区の借り上げ住宅に90歳の母と妻との3人で生活している」。
ここが旧警戒区域20キロの境。
ここから向こうには入れなかったんです。
「我が家は小高区にあり今もまだ宿泊が許されない旧警戒区域である。
防火防犯のために『見守りパトロール隊』が結成されその一員となった。
通勤の途中に自宅はある。
朝夕立ち寄る」。
ここがうちです。
震災後にここ測定した時にこれだけの線量が。
(取材者)田中さんが計ったんですか?そうそう。
(取材者)3.11の日はどこにいたんですか?3.11の時は私は原発にいました。
(取材者)原発?原発の仕事してましたね。
大手ゼネコンの社員だった田中さんは福島第一原子力発電所に30年間勤務していた。
作業員の安全を守るための指導教育が仕事だった。
原発のね私事務本館っていう今東京電力さんがあの事務を執ってる建物3階建ての建物があるんですがそこの前の駐車場にいたんですね。
そこから現場…建屋の1号機から4号機へあそこの所に行こうとしてそしたら揺れが来ましてそれで正面にそのでっかい3階建ての建物があるんですがそこの一番屋上に機械室のようなのがよくありますよね。
それがひっくり返っちゃうんですよ揺れで。
ブラインドはこんなんなって踊ってるしそこから逃げて出てくる人たちがまともに歩けないですから…揺れてますからこんなんなって出てくるんですよ。
(取材者)思い出しますか?思い出しますね。
思い出しますけどう〜んこんなんなった一部分であれ私どもがタッチしてたわけですからその当時は「大丈夫だ大丈夫だ大丈夫だ」で絶対安心だっていう形で進んでましたけど。
生業として30年間勤めてきた事は事実ですしこうやってうちにも帰れないでいるのも事実ですし今になってみるとそうなのかなっていうような気がしますね。
震災後会社を辞めた。
避難所を転々とした。
おはようございます。
ここがふるさとではあるんですがここから2キロぐらいに自分のうちがあるんですよ。
今住んでるのは10キロ離れた所なんですよ。
ここで今仕事をして2キロ離れた自分のうちに行くんじゃなくて10キロ離れた借り上げに行くんですよね。
いや〜何か変ですよね。
「我が家の玄関には『ゆずりは』が植えてある。
ゆずりははこの家が代々続くようにと今は亡き父が植えたものである。
その父は寝たきりの状態であった。
大地震と放射能はそんな人々の避難も余儀なくさせた。
新潟県の老人ホームまで運ばれ生まれ育って90年過ごした自分の家に戻る事なく1年後に逝った」。
高校の文芸部の生徒たち。
3.11の時みんな中学生だった。
(取材者)何で見ないんだろう?え〜何でだろう?すごい怖い気持ちとかが思い出しちゃったりするから。
卒業式の日だったんで地震来た時はどうすればいいか分かんなくて。
茨城の方に1回避難して何か逃げたみたいな感じでちょっと負い目みたいなのも感じてました。
下関まで逃げてました。
戻るって決まった時今まで福島でちゃんと生活一生懸命してきた人と一緒に生活していくというのがズレがあって…。
ふだんの生徒たちはほんとに明るいんです。
震災の事は蓋をして日常的に話が出る事はないんです。
この短歌を今詠んでいく中でも私たちほんとに文字のパズルをしているわけではない。
気持ちを詠もうとすれば震災の事をきちんと思い出して蓋を開けてそこから確かめていかなければいけないので…。
(取材者)3.11の日どこにいたんですか?楢葉に。
(取材者)楢葉?原発の事故で避難してた。
(取材者)いわきに?
(取材者)帰りたい?楢葉に帰りたい?はい。
(取材者)何で?好きだから。
(取材者)何て詠んだの?「時は経ち復興さらに進んでく」。
「陽子ちゃんそれほんと?ほんとの事詠んでる?」ってね言ったのよね。
「ほんとにそう思ってる?」。
う〜ん…そしたら黙っちゃったんだよね。
(先生)何で空っぽ?
(取材者)何で空っぽ?あの日のままで止まってる…?
(先生)時間?震災後夢中で短歌を書き続けた。
そして眠れなくなった。
今心療内科に通っている。
何かふとした時に理由もなく呼吸ができなくなったりこうガタガタする。
まだ…どうでしょう?御自身の場合は事実を伝える記憶の部分とそれに感情をくっつけて短歌が詠めていればそれとても治療的なんですけどそういう点ではどうでした?実は今思うと自分の事はあんまり感情に出して詠まなかったような気がするんですね。
出してもいいのだろうかというか…。
(心療内科医)出さねばいけない時期にきたかなと。
もう一回被災地のど真ん中にすぐ近くですからね行かれてみた時に梢さんの中でどんな歌が出てくるのかっていうのは僕も教えてほしいし。
何かやっぱり悔しいですね。
生活の音も何にもない。
足音も何もない。
そこに暮らす人がいてこそやっぱりしみじみといいものだったっていう気がして。
何かちょっと苦しいですねここにいると。
ちょっと下ります。
「自分の本当の苦しさを短歌に詠んでいない」。
そう斉藤さんは言った。
(取材者)「苦しさ」って何ですか?何が苦しいんですか?そうですね…う〜ん「濁流」でしょうか。
濁流ですね。
短歌にするとならないかもしれない。
う〜ん…。
(取材者)今どんな言葉が?う〜ん今歌にまだなってないですけど…。
何か体じゅうこう真っ黒だっていう気持ちはあるの。
う〜ん…真っ黒いものをこう孕んでいる感じでしょうか。
(取材者)自分の中に?中にうん。
短歌で原発を詠み続けた人がいた。
夢中になる方だから。
もううちの中の事何も構わない人だから。
(取材者)祐禎さんが?うん。
もうこうだから。
福島第一原発がある大熊町で農業を営んでいた。
原発の建設現場で働いた経験もある。
最初の歌集「青白き光」。
震災の7年前祐禎さんはこう詠んだ。
震災のあとね多分ここにこれ1冊。
3.11のあと祐禎さんが詠み続けた短歌。
帰りたかったんじゃないですか?このあれ見ると。
だいぶ帰りたいっていう短歌あるよ。
これね。
原発の事怒ってんだねこれ。
フフフ。
原発事故から1年半。
避難先で新しい家を建てた時祐禎さんは倒れた。
(取材者)倒れたのは引っ越しの…。
(冨子)引越しの前の日か。
「関連死にじいちゃんなるんでないかな」なんて言ったら「そんな事言うな」って言ったの。
「もういいから」。
(取材者)関連死?「関連死に入るんじゃないの」って言ったけども病院に行って手続きしたりなんだりやっかいだもんね。
もうやんないです。
原発の歌。
「北をさす鳥らのつばさ放射能ふるオオクマの空払ひゆけ」。
…と思いますよ。
かんぱ〜い。
(一同)かんぱ〜い。
ご苦労さまでした。
大手ゼネコンの安全担当として福島第一原発で働いていた。
そのころの仲間が久しぶりに集まった忘年会。
何言っても。
フフフフ。
(取材者)古いつきあいですか?古いつきあい。
私も栃木の方に避難しましてですね必死こいて自給自足の生活をしながらですねいつか帰れる富岡を夢みながら頑張っていきたいと思います。
双葉に帰って家の状況見るんですが戻りたいっていう気持ちは半分あります。
だけどやっぱり戻れないなというのが本音ですね。
田中さんは今南相馬の借り上げ住宅で暮らしている。
(田中)こうやって2年9か月もいるとどうしてもみんな言いたい事言っちゃうようになるんですよ。
ほんで怒りっぽくなって。
それは俺ばかりじゃなくてみんなそうなんです。
多分俺んちばっかりじゃないんじゃねえかな。
仮設だの借り上げでやいのやいのって楽しくやってるなんちゅう話聞いた事ねえもんな。
やっぱり思った事も話したくなくなっちゃうのね。
だからもう無言が多いです。
ふるさとに帰れないまま亡くなった父。
あの日から3度目の正月。
無人の我が家に門松を立てる。
だから今年は先祖は全部ここにいるから新しく作って。
(取材者)じゃあ今年は特別な門松ですか。
全部壊さなくちゃなんない。
まるっきりこれ死化粧ですよね。
あと何年間か後には全部無くなると思ったらば死化粧ですよ。
ふるさとへ帰る。
帰らない。
帰りたい。
帰れない。
その言葉を繰り返して3年。
今校正を。
(取材者)校正?新聞の校正を。
「うた新聞」っていうやつですね。
毎月これをやってるんだよね。
ほんとに2人だけでやってるんで。
福島県の浪江町で生まれ育った。
ずっと短歌を詠み続けてきた。
そして歌も歌う。
みんな〜いくぞ〜!・「GOGOOGAWAGO!GOGOOGAWAGO!」・「上から読んでも下から読んでも」・「左から読んでも右から読んでも」・「OGAWAGO!」お疲れさまです。
東京でふるさとの震度を知った。
6強。
真っ赤だった。
自分の町が壊れていく。
(取材者)三原さん。
はい。
(三原)いや〜何かもうほんと昨日眠れないし。
(三原)あっ原発見えます。
(取材者)あの鉄塔みたいなの?
(三原)え〜何か信じらんない。
写真とかでは何回も見てたのに。
ほんとなのかね?この風景は。
悲しいな。
う〜んねえ。
いやでも一番美しかったかもしんないと思う。
(取材者)今日?
(三原)うん。
多分1回失われたと思ってるからこそ美しく見えるのかもしれないし。
何か美しく見えたなと。
山とかほんとにきれいだったし。
まあ海も全然水平線もすごいきれいだったし。
全てがすごいなあと。
あ〜何か泣いちゃったなあ。
あの震災の時に私東京にその時はいたんですけどもその時に「ふるさとは赤」っていうふうに短歌詠んだんですがそのあとにさっき今日ちょっと作った短歌を読みたいと思います。
「ひるがえる悲しみはあり三年の海、空、山なみふるさとは青」。
・「爆発したら死ぬってみんな言ってたけど」・「そんな簡単に死ねない日々は続いてゆく」・「遠くて近い近くて遠い場所を思うよ」・「その明日を思い続けてる」津波で夫を亡くした。
今仮設住宅で一人。
おおみそか息子がやって来た。
東京に住んでいる。
はいそれでは1年ありがとうございました。
来年もひとつよろしくお願いします。
お願いします。
早くうちを建てて下さい。
アハハハ。
いやそればっかりはちょっと…。
(頼美)あっ始まった。
やっぱりうち。
ちっちゃくてもいいからうちが欲しいっていうか。
年も取ってくしね70も半ばも超えるし来年はな。
来年って年明ければ80がすぐ目の前になる。
だからって今息子の所に行ってもやっぱりここがいいんですよ。
お父さんもいるしうん。
家計簿は絶対つけないと。
前の52年を流しちゃった。
これ3年分だ。
家計簿この仮設に来て3年の記録。
釜石時代の52年の歴史は津波で流されてしまった。
「2月の13日図書館に行く。
3冊借りてきた」。
「足が痛くって」?「16日は大雪35cm降った」。
食料の販売車かな「260円の納豆と油揚げ買って洗濯3日分。
外に出ない」。
レシートをねここに挟んでもいない。
今持ってたんだな。
手に持ってた。
まあいいや。
今日はまずあれだね。
新聞…新聞屋さんが来て。
(山崎)間違えた。
ふるさとでは土地のかさ上げ工事の計画がやっと動きだした。
自分が何歳になるのよ。
ハハハハ。
う〜んねえ。
まあ生きては…生きていたとしても普通じゃなくなるんじゃないかなって。
うん怖い怖い。
今の気持ちったらやっぱりう〜ん…。
(山崎)御飯食べました?
(山崎)これうんと細いからねすぐバッと食べないと駄目になるんですよ。
(取材者)いただきます。
(山崎)は〜い。
今まで悲劇のヒーローになりたがってたみたいなところがあるんですね。
人に甘えようとしたり自分でどうしたらいいか分かんなくて迷っていたような状態なんですがいつまでもこうやってたらほんとにここで死ななくちゃならなくなると思うんですよ。
それは本意じゃない。
自分としては。
そんなふうに今日は思ったんですね。
歌になる時を待っている思いがある。
(サイレン)2014/03/19(水) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
3.11万葉集[字]

『3.11大震災』、あの日から3年、市井の詠み人たちがその想いを三十一文字の短歌につづり続けて来た。岩手・宮城・福島の名も無き歌人たちの秘めた心の叫びを旅する。

詳細情報
番組内容
はるか遠い昔から“短歌”は、その時代・その瞬間の日本人の心を紡ぎ続けて来た。そして「3.11大震災」、あの日から3年、日記で時間をたどるように、市井の詠み人たちがそれぞれの思いを三十一文字にたくしてつづり続けている。岩手・宮城・福島の被災3県の3人の歌詠み人の日常と心模様を番組の柱にしながら、「3.11、あの日」を知る、名も無き歌人たちの秘めた心の叫びを描いていく。
出演者
【語り】奥貫薫

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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