間もなく開幕を迎えるソチオリンピック
「NHKアーカイブス」では日本中を感動させた冬のオリンピック競技を3回にわたって特集します
(原田)船木。
ああ…。
(実況)さあどうだ!船木!
2回目の今日は…
(実況)きれいな飛形で来た!伸ばしてくる伸ばしてくる!
1998年長野オリンピックでスキージャンプは日本初となる団体での金メダルを獲得
その栄冠を支えた裏方テストジャンパーの活躍に光を当てた番組があります
前半が終了した時点で日本は4位だった。
しかしトップとの差はそれほど開いてはいなかった。
しかし後半に向かったその時雪の勢いが増し途中で競技が中断されました
このまま再開できなければ前半の結果をもって順位を確定する事になった。
日本は再開を求めた。
しかしジュリー会議の決定は「テストジャンプを見て決める」。
競技を再開させるにはテストジャンパーは何としても安全性を証明しなければなりませんでした
彼らは危険を顧みず次々と飛び続けます
(西方)やっぱりメダルを取らなきゃ駄目だな。
ただのテストジャンパーという気持ちではいたんですけど…。
やらなきゃいけないというような気持ちが出てきてましたね。
今日は裏方の活躍も併せて長野オリンピックスキージャンプ団体の金メダルへの道のりをご覧頂きます
降りしきる雪の中での逆転劇そして涙でクシャクシャになった原田選手の顔忘れる事ができません。
今日は長野オリンピックのスキージャンプ団体です。
ゲストをご紹介致します。
1980年のレークプラシッドオリンピックで銀メダルを獲得されました70m級ジャンプですね。
八木弘和さんでいらっしゃいます。
どうぞよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
長野の頃は船木選手のコーチを…。
そうですね。
はい。
そして長年ジャンプの実況中継を担当してきた工藤三郎アナウンサーです。
よろしくお願いします。
八木さんスキージャンプのあの日は解説を担当されてましたけど金を取った瞬間というのは覚えてらっしゃいますか?ほとんど僕は中継で最後の方は話してないと思うんですよ。
ですから工藤さんもそうなんですけどアナウンサーの方ってすごいなと思いましたね。
僕は全く話せるような状況じゃなかったですから。
もう涙でグジャグジャでしたから。
原田選手も壊れてましたけど僕も壊れる寸前でした。
喜びとか感動という事ですよね。
それからその過程において中断もありましたしね。
2本目を飛ぶためにはテストジャンパー。
そもそもテストジャンパーというのは工藤さんどういう役割でしょう?ご存じのようにジャンプは屋外で行われますから雪も降りますし風も吹きます。
ですからそういう条件下の中でジャンプが安全に競技が行えるかどうか。
できればかつ公平に行えるかどうか。
それを実際に身をもって確かめる役割というのがこのテストジャンパーなんですよね。
ジャンプの競技には欠く事のできない存在だといっていいと思うんですよね。
それでは早速番組をご覧頂きましょう。
そのテストジャンパーの活躍を併せて描いています。
40分ほどご覧下さい。
長野の日本代表は史上最強。
金メダル確実といわれていた。
しかし当日は…日本は窮地に立たされる。
(実況)さあ厳しい条件の中原田1回目。
(実況)あっと!原田伸びません。
原田1回目距離を伸ばす事ができませんでした。
前半を終わって4位。
それでも日本の実力ならば挽回可能なはずだった。
ところが雪が激しさを増す。
競技続行が危ぶまる。
これはヒヤヒヤだったですね。
もう4位ですからね。
メダルなしですからね。
競技は再開できるのか。
全ては25人のテストジャンパーに懸かっていた。
選手の前に飛んでジャンプ台の安全を証明する裏方だ。
4位で終わるっていうのが。
このまま日本を終わらせない。
決死のジャンプが始まった。
閉ざされる視界。
転倒への恐怖。
それでも彼らは飛び続ける。
そして希望は1人の男に託された。
これはただの大会じゃないんだ。
オリンピックなんだと。
これはもう日本は勝ちにきてるんだと。
少しでも大ジャンプをしようと。
これは最強日本の威信を懸けて未来を切り開いた者たちの勇気と誇りの物語である。
長野オリンピックのために集められた25人のテストジャンパー。
その中にひときわ笑顔をたたえた男がいる。
西方仁也。
実は西方は当初複雑な思いを抱えて参加していた。
当時西方は世界でもトップレベルの選手だった。
長野県の出身で地元開催のオリンピック出場を目指していた。
しかし代表から漏れた。
勝負の世界なので自分で決める事はできないんですがもう少しだったかなとは思いますがもうこれはしかたない事ですから。
西方が長野オリンピックになみなみならぬ執念を燃やした裏には大きな理由があった。
(実況)平和へ向けて…成功。
その4年前に開かれたリレハンメルオリンピック。
ジャンプ団体で金メダルを狙っていた日本。
エース原田の頭には「一番」の鉢巻き。
(聞き手)気分どうですか?気分いいですね。
ジャンプ団体は国ごとに4人のチームで争う。
西方はトップバッターを任された。
彼はやはり非常に当時心が強い選手。
つまり一番先に飛ぶ選手は一番緊張感がある訳ですね。
プレッシャーが高い。
西方を1番にあてれば間違いなくいい仕事をしてくれるだろうな。
(実況)さあこのあと日本の西方になります。
安定性はこのところ非常にあります。
ラージヒル8位の西方。
日本1番手スタート。
1本目西方はK点付近まで飛距離を伸ばしいきなり日本がトップに立った。
(実況)揺れながらも修正しながら持ってきました。
最大のライバルはドイツ。
(実況)さあバイスフロク登場。
アンカーのエースバイスフロクは絶好調。
3日前に行われた個人戦ラージヒルで金メダルを取っている。
(実況)どこまで行くか。
いい感じで出ました。
高い高い高い高い高い!行った。
130m越えてきました。
(解説)来ましたね。
日本のエース原田。
(実況)さあ日本の原田。
エースとして第4グループのその責を担う原田スタート。
(解説)高いですよ。
(実況)これもいいぞ!いいぞいいぞいいぞ来た!
(解説)さすがですね。
(実況)K点越えてきました。
日本は前半を2位で折り返した。
ドイツの選手が非常にバイスフロク選手が非常にその年調子がよくて大ジャンプをしてると。
どう頑張っても原田君がその選手と同等というのは非常に厳しいと。
最後原田君が飛ぶまでにどれだけ貯金をする事ができて原田君にバトンを渡す事ができるかという事が一番の重要なところだったんですけども…。
原田の前に大差をつけなければならない理由はもう一つあった。
原田のジャンプにはムラがあるのだ。
点で飛ぶタイプだったんですね。
タイミングがうまく合えば距離が伸びる。
でも合わなければあまり距離が伸びないという何て言うんですかね…三振かホームランかっていうようなジャンプの内容だったんですよ私は。
できるだけプレッシャーのない状態で原田を飛ばせてやりたい。
そして西方はとてつもない仕事をする。
(実況)西方。
(解説)風はいいですよ。
(実況)2回目。
(実況)高いジャンプになった。
伸びるぞ!これは行くぞ。
行った行った行きました!135mラインまで行きました!西方はここまでの誰のどのジャンプより遠くまで飛んだ。
(実況)大ジャンプ!その後も日本はリードを広げ3人目が終わった時ドイツとの差は飛距離にしておよそ30m。
あとは原田が105m飛びさえすれば金メダルのはずだった。
彼自身120ぐらい飛ぶ力は十分ありますからね。
私たちコーチングスタッフでは金メダルがここまでかかってるような感じはしてました。
(実況)金メダルに向かいます。
(解説)風はいいですよ。
少し弱いですが…。
踏み切りが早い。
いつもの原田の高さがない。
(実況)原田どうだ?金メダルに向かう。
どうか〜!?落ちた!途中で落ちてしまった!原田失敗ジャンプになってしまった。
とにかく1位に残ってくれって言ってずうずうしくも掲示板見上げてましたけど2位って出たんでね…。
う〜んやってしまったな。
そのあとは覚えてないですね。
金メダルを取り損なった。
みんなですぐに走っていって「金は取れんかったけど銀メダルでよかったじゃん」ってたたえてあげて…。
「一番」の鉢巻きは「二番」に書き換えられた。
しかし西方は原田を責めなかった。
西方と原田は同い年。
中学の時から原田がライバルだった。
社会人になった2人は同じ企業チームに入った。
西方は努力型。
一方原田は天才型だった。
やっぱりライバルと思ってましたし考え方とかあんまり深く考えないでジャンプの大会に出てるという原田君のスタイルも神経質にならなくていいなって思ってましたしそういうところはまねしたいなと考えてました。
ジャンプに関してはホントに努力家でしたね。
一番だと思います。
僕も彼のそこを見習いましたからね。
もう24時間毎日ジャンプの事を考えてる。
僕は彼を見て自分ももっと頑張らなきゃと思ってましたね。
必ず今度は金を取ろう。
2人は支え合いながら長野を目指した。
日本チームには新たな戦力も加わった。
船木和喜。
19歳の時に出たワールドカップでいきなり優勝。
その後船木は日本のエースになる。
斎藤浩哉も出てきた。
彼らの活躍もあってワールドカップの表彰台を2度も独占。
長野では団体の金は間違いない。
誰もがそう思っていた。
勝って当然だっていう…。
まして地元開催ですからね。
とにかく勝ってほしい。
勝たなければ駄目だ。
むしろ義務感のようなものでしたね。
長野オリンピック開幕。
西方は日本選手団の中にいなかった。
代表選考が懸かった大事な時期に腰を痛めてしまったのだ。
練習のやり過ぎがたたった。
西方はリレハンメルのリベンジを果たす機会を失った。
あの時やっぱり金メダル…。
私が普通に飛んで金メダルを取ってれば西方は今金メダリストとして次の人生を歩んでるはずなんですよね。
銀メダルじゃ駄目なんですよね。
ですからやっぱり彼の人生を僕のわがままみたいなもので崩してしまったかなと。
テストジャンパーを依頼された西方は用意された宿舎に泊まっていた。
民宿だった。
選手の時とはあまりに違う待遇に戸惑った。
あてがわれたのは6畳の和室しかも相部屋。
立場の違いが身にしみた。
コタツなんてあったっけな。
あったかもしれない。
大体コタツあるような所に僕ら泊まらないでしょ?朝6時ぐらいに起きて6時半とかには出発ですよね。
8時にはジャンプ台のスタートの所にいるっていうのが毎日あったんでそれって選手じゃ考えられないですよ。
テストジャンパーの仕事は一とおり整備が終わったジャンプ台の安全を確認する事だ。
選手がケガをしないよう助走路がなだらかか着地面に問題はないか実際に飛んで確かめる。
それは西方にとって屈辱だった。
この4年間は何だったのか。
私がやらなくてもいいんじゃないかなという事は思ってたりとかはしたんですけど金メダルを取る確率って非常に高いなと。
その中に自分も入りたかったという事と逆にオリンピックに出れなかったという事で何か嫉妬心みたいなものが若干あったような気もします。
西方と同じ気持ちの者も多かった。
やっぱりオリンピックを目指して取り組んできてましたんで僕だけじゃないと思うんですけど心中穏やかじゃないというかテストジャンパーの過酷さというかみんな理解してますので正直複雑な心境ではありましたね。
まあそうですね。
モルモット的な感じはすごく選手としてはあるのでやはり危ない時にお前らが飛んで安全を確かめろだとかそういうふうにやっぱり思っちゃいますから…。
裏方に徹してくれって言われてるような感じですからね。
うれしい事ではないと思いますね。
耳に障害を抱えながら健常者と互角に渡り合いオリンピックを目指していた者もいた。
高橋竜二国際大会で優勝した事もあった。
夢の舞台でテストジャンパーをやらされる事は彼らにとって苦痛以外の何物でもなかった。
ジャンプ団体の試合当日は早朝から大雪だった。
試合が始まったのは予定の30分遅れだった。
金メダルを狙う日本チームが唯一恐れていたのは悪天候だった。
条件が変わりやすく実力の差が出ない。
不利な追い風の中岡部はなんとか2位につけた。
リレハンメルの雪辱を期して3人目の原田がスタートゲートへ向かう。
その様子を西方が見ていた。
西方は原田の襟元を見て驚いた。
襟元からのぞく紫のアンダーシャツ。
それは試合の直前に貸した西方のアンダーシャツだった。
「仁也手袋かアンダーシャツ貸してくれない?」って言うから何か忘れてきたんだなっていうのは直感で思ったんですよ。
そしたら1本目のジャンプに上がってきて頑張れよってフッと見たら僕がさっき着ていたアンダーシャツを着て彼はオリンピックに出てくれた。
アンダーシャツは西方の物。
手袋はやはりリレハンメルで一緒に戦った西の物だった。
胸が熱くなったっていうか「え〜!?そんなとこまで考えてたの?」って…。
彼はやっぱりリレハンメルで失敗して結構私とかに「あの時は…」っていう気持ちがずっと持ってたのかな…。
何か鳥肌が立つというかホントにそんな事をずっと考えててくれて自分のを身に着けて飛んでくれるんだと。
うれしかったですね。
西方と西と一緒に飛ぶ。
その時急に雪が激しく降りだした。
スタートの合図を出す小野から原田の姿が確認できないほどだった。
これは何て言うんだろうホント非常事態。
視界には入らなかったですね。
普通のジャンプ競技は見えるんです。
だから見えないという事は相当な密度で雪が降ってたって事ですね。
(実況)この条件の中で原田が果たしてどんなジャンプができるか。
助走路に積もった雪でスピードが上がらない。
スキーがホントにこうグッグッグッグッて滑らないんですね。
(実況)あっと!原田伸びません。
90mのはるか手前にランディングしました。
テストジャンパーたちは控え室のテレビで原田のジャンプを見ていた。
何で原田さんの時にこういう悪い状況になるんだろうなっていう…。
どちらかと言うとそういう感覚ですね。
シ〜ンとしてて静かで誰もしゃべらないような状況ですよね。
雪が降る音が聞こえてきそうなぐらい静かになって。
原田は天候の急変を言い訳にはしなかった。
またみんなの足を引っ張ってしまった。
何としても次のジャンプで結果を出さなければ。
とにかくオリンピックって4年に1回しかない。
とにかく一発勝負だ。
とにかく実力だけじゃ駄目だと。
運も味方してなきゃいけないと。
前半が終了した時点で日本は4位だった。
しかしトップとの差はそれほど開いてはいなかった。
自信があるので逆に2本目さえ始まれば間違いなく逆転はできると。
そういう確信はありました。
勝負は後半。
ところが激しく降る雪でスピードが上がらない。
バランスを崩す選手が出たところで競技は中断された。
後半は改めてやり直し。
そしてこのまま再開できなければ前半の結果をもって順位を確定する事になった。
「えっ?」と思いましたね。
もう4番で終わっちゃうのかな。
これはヒヤヒヤだったですね。
あのケースは…そうですね50%ぐらいの確率で1本勝負1本目だけで終わる可能性が相当高かった。
その感じはしました。
4位ですからメダルなしですからね。
再開か打ち切りか。
それを決めるのはジュリーと呼ばれる大会役員だ。
日本チームの気がかりは役員の構成にあった。
ジュリーは全員で4人。
1人は開催国の日本から。
ほかはオーストリアドイツノルウェーから。
それは前半の1位2位3位だった。
1位のオーストリアチームは打ち切りの決定を心待ちにしていた。
1本目だけで競技が終わってほしいと思っていました。
天気が悪くなった事でもしかしたら私たちが金メダルを取れるんじゃないかと期待していたのです。
日本は再開を求めた。
しかしジュリー会議の決定は…天気が悪くても競技ができるかどうかをテストジャンパーを飛ばして判断しようと考えたのです。
あの吹雪の中でも安全にいつもどおり競技ができると彼らが証明しなければ再開はありません。
吹雪のジャンプ台に向かおうとしていたテストジャンパーたちに一人の選手が声をかけた。
「2本目をやらせてほしい」。
そこにはテストジャンパーの方もたくさんいましたしそこでいろいろ話をして。
今4位なのでここで終わってしまうと4位しかないと。
試合が始まれば僕たちが頑張るけどそのために…試合続行のために俺たちを飛ばせてほしいっていうようなそんな事でやっぱり話をしてきて。
その時に自分もフッと思いましたね。
これはただの大会じゃないんだ。
オリンピックなんだと。
日本は勝ちにきてるんだ。
やっぱりメダルを取らなきゃ駄目だな。
ただのテストジャンパーという気持ちではいたんですけど…。
その時に何かこうやらなきゃいけないというような気持ちが出てきてましたね。
やっぱり日本人として悔しかったですよね。
4位で終わるっていうのが。
まあ選手として出てる訳ではないですけど選手と一緒に出てるような気持ちになってみるとやはり4位というのは悔しいですよね。
長野の4年前のリレハンメルはみんな知ってますのでその中で原田さんこのまま終わらせてはいけないっていうのはほとんどのメンバーは思ったんじゃないかなと思います。
(場内放送)「テストジャンプを行います。
テストジャンプを行います」。
もうこの仕事が嫌だと言う者は誰もいなかった。
いかに安全を証明し競技を再開させるか。
その方法を全員が考えた。
雪を排除する。
だんだん滑りを均一にしていく。
最後に距離を出して大会の開催は安全であるという事を証明する。
そういうようなストーリーで進めようと。
誇りを懸けたテストジャンプ。
助走路の雪を固めるために矢継ぎ早に飛ぶ。
雪が積もる前にすぐに飛ばないとスピードが出るようにならないからだ。
順番が早いですから固める方の人ですよね。
ですからまああとの人が飛びやすい状況を作ってあげたいっていうのはありましたし。
やっぱり頭の片隅では転んじゃいけないという意識はあったと思います。
当然空中に出ても手回したり転びそうになれば試合を続行するかのミーティングが開始されるのでなんとか安定して飛べるように心掛けてましたね。
25人のテストジャンパーの中にただ一人女性がいた。
西賀子当時まだ17歳の高校生だった。
西はジュリーからスタートゲートを高くして助走スピードを上げるよう指示された。
選手と同じ距離まで飛ばないと安全が確認できないと言うのだ。
西は吹雪の中を飛び出した。
ほとんど前が見えなかった。
車と同じくワイパーがついてないのでどんどんどんどん見えなくなっていきます。
(聞き手)怖くないんですか?怖いです。
日本がもうホントに勝ってくれるっていう…。
多分周りからも日本は絶対勝つというのがあったと思うのでそういう期待も込めて飛んでました。
高橋竜二の番が来た。
高橋は130mの大ジャンプを決めた。
そしてジュリーが最後に指名したのは西方仁也だった。
西方は選手と同じ力を持っている。
その男が飛距離を出せなければ再開はない。
最悪転倒しないっていう事とあとはもう距離を出すっていう事ですね。
K点が120なんですけどやはりレベルの高いジャンプとなると120をどのくらい越えるかというような中で少しでも大ジャンプをしようという試みでスタートしました。
スタートゲートで西方は経験した事のない難しさを感じていた。
これまではどんな大きな失敗をしても自分でそれを受け止めればよかった。
この何の記録も残らないジャンプは西方にとってとてつもなく重かった。
それでも西方は恐れなかった。
みんなが固めた助走路を滑り降りながらこう思っていた。
「ここまでみんながつないでくれた。
今度は自分がつなぐ番だ」。
123mK点を越える大ジャンプだった。
拍手も歓声も起こらなかった。
しかしこれほど試合の行方を左右したジャンプはなかった。
西方は非常に大きな仕事をしました。
あれだけのジャンプができる事を証明したのですからもう再開しない理由はありません。
そして…。
(場内放送)「ただいまよりスペシャルジャンプK120ラージヒル競技団体戦」。
もううれしかったですね。
「やっとつながった」みたいな。
ただ僕ら25人のテストジャンパーもつなげてつなげてつなげてというリレーのような形だったんですがこれが本当に大会を開催させるという事につながったという時にやりがいみたいなのを感じましたね。
「やった」みたいな。
スタートゲートに向かう時原田はテストジャンパーたちに声をかけた。
「行くぞ!」。
彼がスキーを持ってスタートの所へ向かって出ていく時に「よし行くぞ!」って声かけて。
そしたらみんなが思ってたものが「頑張って下さい!」とか「頑張れよ!」っていう声がやはり周りから声が出て…。
僕らの気持ちも渡せたし彼自身もテストジャンパーの気持ちを全部の気持ちを持って2本目に向かってくれたなと思いましたね。
いやもうとにかくねみんな気合い入ってましたから。
もちろん我々選手もそうですけどテストジャンパーも燃えに燃えてたのを覚えてますね。
雪は小降りになっていた。
(実況)トップに立てるか原田。
風は向かい風。
K点付近は大丈夫ですよ。
(実況)いい風が吹いている。
K点以上を飛べばトップに出てくる。
今度は高いか?高い!よし大丈夫だ。
(実況)高くて…高くて高くて行った!大ジャンプだ原田〜!
(歓声)最後のジャンパーとなった若きエース船木はこの日の長い戦いを振り返っていた。
なぜ自分はここに立つ事ができたのか。
みんな代表になりたくて頑張ってきてやっぱり外れたという事はすごく悔しいじゃないですか。
その中でトライアルをやって頂いてたというのを考えるとやっぱり自分が飛ぶにあたってちゃんと結果を出さないといけないんだというすごい力をもらいましたね。
(実況)さあどうだ船木。
全てこの人に懸かってきた。
きれいな飛形で来た!伸ばしてくる伸ばしてくる!よっしゃ〜!
(実況)金メダルを獲得しました日本!日本ジャンプ団体初となるオリンピックの金メダル。
(実況)史上最強のメンバーをそろえた日本が長野で大きく大輪の花!沸き上がる歓喜と興奮の中で向けられたマイクに原田はこう答えた。
俺じゃないよ。
やっぱりチームメートみんなでね頑張ったから。
俺じゃないよみんなだよ。
4人が手にした栄冠。
それは彼らと共に戦った者たちの誇りと絆の証しだった。
12年前吹雪の死闘の舞台となった…西方はその3年後に引退した。
この辺じゃなかったかな〜。
あのジャンプの事は今も忘れてはいない。
高いですね。
やっぱりちょっと今だと怖いなと思いますよ。
でも怖くないと思ってやらないと勝てないんですよ。
全てを背負って飛んだジャンプ。
それは西方の誇りになった。
それまでの努力はあの瞬間のためにあったのだとさえ思えるようになった。
自分の中で4年間モヤモヤしていたものがようやく吹き飛んだオリンピックだったなと。
オリンピックに関しての自分の中でようやく終止符を打つ事ができたなと思ってます。
夢の舞台でテストジャンパーとして飛ぶ事を初めはみんな屈辱だと思っていた。
すごい場面に自分はいられたんだなって改めて思いました。
ああいう状況で飛ばせて頂く事ができてすごい気持ちいいですよねやっぱり。
あの日祝福を受けたのは彼らではない。
しかし役割をつなぎ栄光への扉を開いた誇り高き経験は彼らの中で何よりも美しく輝いている。
八木さん目頭を押さえてらっしゃいましたね。
改めて見るとやっぱり舞台裏でこんな物語があったのかと。
僕もここまでは知りませんでしたので。
ホントに見えないような…?映像ではあのぐらいなんですが僕らが中継ブースからジャンプ台自体が見えなかったですよ。
僕はもうこの状況で2本目が行われる事自体が逆に危険度は高まるなと思いましたけどやはりいろんな事が脳裏に錯そうしましたしこれで終わってしまうと原田のジャンプ人生がもう終わってしまうんじゃないかという事も考えましたし。
よくできたなと思います。
今振り返ってみても。
だから実力からいって団体勝ったという事は奇跡とは言えないと思うんですがあの競技そのものができたという事はやはり奇跡のような感じがする。
だからやっぱり奇跡の金メダルという感じがしますよね。
それとどうなんでしょうか…テストジャンパーの人たちはとにかく長い事控えて気持ちをつながなきゃいけなかったんだそうですね。
降りてくるとすぐまた上に上がる訳ですよ。
天候や条件が変わるともう一回飛ばなきゃいけませんからすぐに上がってまたスタンバイな訳ですよ。
中断すればもう一回飛んでくれという事になりますから彼らはず〜っと緊張の連続だったと思いますよ。
オリンピックの選考が終わるまでは表舞台に出てた選手ですからさっき西方君も言ってましたけれどワールドカップを転戦しているメンバーが雑魚寝の所に朝6時からというのは選手としてはありえない状況なんですね。
それを自分の中で気持ちを整理して完結させるというのは並大抵の事ではなかったと思いますしね。
そういうテストジャンパーの活躍があっての金メダルですけれども先ほどから話が出ておりました何でこれだけ金に思いが集まったかというとその前のリレハンメルの時にちょうど工藤さんが中継していたんですね。
全て原田選手自身の責任という訳ではないと思うんですけど結局アンカーの重圧の中で結果が出せなかったという事で日本が金メダルを取れなかったという事がありましたよね。
私も後から知ったんですけどもあのアンダーシャツと手袋を見ますとやはりこの4年間というのは彼はその事をずっと引きずってあの日を迎えたんだなというふうに思いますよね。
今のテストジャンパーもそうですし重たい金メダルですね。
原田選手の人生を終わらせたくないという。
僕はそれが一番。
皆さんそういう思いで。
ホントに駄目になると思いましたね中断になった時は。
何としても2本目やってくれと思ってましたその時。
長野の団体の時に1回目が終わったところでインタビューエリアにいたんですけど放送席に上がっていったんですよ。
カンカンカンと階段上がっていって。
パッとドアを開けたら実況を担当していた和田アナウンサーと八木さんがいるんですけど2人ともぼう然としているんですよ。
第2ラウンドを行いますっていうアナウンスが入った時に涙ボロボロ出てきたのを覚えてます。
これでなんとかなると思ってね。
でもどうなんでしょう。
ホントに前が見えない。
その中で飛ぶ恐怖心といいましょうかね。
一番の陰の功労者というのはテストジャンパーがただ滑って降りたのではワルター・ホーファーを納得させられなかった訳ですよ。
西方君の2本目の120m以上を飛んでランディングをきちっとしましたよというのがホントに大きなアピールになったと思います。
それともう一つ言えるのはテストジャンパーに世界のトップと同じようなジャンプができる選手がいるって事ですよ。
それだけ日本のジャンプ陣というのは層が厚かったんですよ。
どうしてそんなに層が厚いレベルが高い強いんでしょうか?やっぱり1991年に長野オリンピック開催が決定して日本チ−ムっていうのはほとんどが各企業に所属してる訳ですね。
そうなるとお互いが「よし長野で」という事になると会社も非常に大きなバックアップをしてくれる。
そういう部分がお互いのチームがお互いに切磋琢磨した結果が長野の集大成だと思いますね。
日本の強さというのは工藤さんはどんなふうに思いますか?1972年に宮ノ森札幌オリンピックで金銀銅3つのメダルを取ってホントにジャンプが日本のお家芸といわれるようになったんですがしかしそれから後を考えると長い低迷の時代が来るんですよね。
その札幌オリンピック1972年では金銀銅表彰台を独占しましたよね。
1980年レークプラシッドこれは八木さんの銀メダルですけれどもそのあとメダルはないんですよね。
どちらかと言うと日本の強化システムというのが過去の実績というものにとらわれがちなんですね。
ですから札幌オリンピックで金銀銅を独占してこの金メダルだった笠谷さんが4年後のインスブルックにも32歳で出てるんですね。
ですからこの間4年間ですけれどほとんどジュニアの育成をしてないんですね。
ですからその結果インスブルックで惨敗をしてインスブルックの1976年から4年間で「これは」という事で子どもたちの強化に入った訳です。
低迷期の頃中継をしていて何か感じる事もあったと?お客さんが寂しかったですね。
いなかったという事ですか?だからあんなふうに上から見て長野のように人で黒くなるような事っていったら全くありませんでしたからヨーロッパの中継なんかを見てホントにたくさん人が入ってるのを見ていや〜羨ましいなと思った記憶はありますよね。
その中でもやっぱり1988年当時カルガリーの時はホントにしんどかった。
何をやってもうまくいかないという感じでしたね。
10年以上にも及ぶ低迷を挽回しようとコーチや選手そしてジャンプ界が一つになって長野オリンピックに向けて戦う様子を描いた番組があります。
14分ほどご覧下さい。
(実況)青地金野藤沢と上位独占しております。
笠谷。
(実況)さあどうだ?あっときれいに決まった。
日本が表彰台を独占したこの大会以降ジャンプは日本のお家芸といわれるようになります。
しかしその16年後。
(実況)日本は4人目にエースを配しましたね。
誰も100mを越えておりません。
せめてここで100mラインを越えるか佐藤晃。
カルガリーオリンピックで初めて行われた1チーム4人で競う団体戦。
(実況)越えませんか。
99m。
結局日本の選手は全て終わりまして100mを越える事ができませんでした。
日本は最下位に終わりました。
当時のコーチで後に長野オリンピックのヘッドコーチを務める小野学は奈落の底に落ちたようだったと言います。
最下位だったのはやはりショックだったですね。
日本は一応ジャンプは強い国だなというプライドを持ってずっと選手もやってたんですね。
その落差があったために非常にカルガリーではショックだったですね。
日本ジャンプ陣をどうやって立て直すか。
小野が取り組んだのは助走の時や空中でのフォームそして日頃の練習方法を科学的な見地から洗い直す事でした。
スキージャンプというのは限りなくほかのスポーツに比べるとロケットを飛ばす宇宙工学に近い単純な物理学に近い部分もあるんですよね。
ですから科学がビッタリはまるというのかな。
なぜ日本は駄目になったのか。
科学的分析はそこから始まりました。
小野は運動生理学者で実業団チームの科学的サポートをしていた佐々木敏に出会います。
佐々木は世界との差を調べるためにある選手に目をつけていました。
カルガリーオリンピックで3つの金メダルを獲得した当時世界一のジャンパーでした。
ジャンプで最も大切なのは飛び上がる瞬間の踏み切り。
飛距離の9割が決まるといいます。
佐々木はニッカネンの踏み切りのフォームを解析して日本選手と比較しました。
するとそこから日本選手の不調の原因が浮かび上がってきたのです。
ニッカネンは踏み切る時低い姿勢で飛び出していました。
一方日本選手はニッカネンに比べ上半身が起き上がっています。
佐々木はこの差が飛距離に影響していると考えました。
垂直跳びになっちゃうんですね。
垂直跳びだと結局行った先で空気抵抗を大きくもらい過ぎちゃうんですね。
それでエアブレーキがかかるんですよね。
踏み切りで上半身が起き上がる日本選手の癖はこの研究によって修正されていきました。
しかしどうしても欠点を直せない選手がいました。
日本ジャンプ界が最も低迷した時代一番悪い踏み切りをする選手といわれました。
上半身がまっすぐになるくらい立ち上がってしまうのです。
少年時代は天才ジャンパーと呼ばれた原田。
しかし体が大きくなるにつれ伸び悩み実業団でも苦しい時期が続いていました。
このままでは世界を相手に戦えない。
復活のきっかけをつかみたい原田は22歳の時これまでとは全く違うジャンプに挑みます。
スウェーデンのボークレブが始めたV字ジャンプです。
当初は飛形点が減点となりましたがボークレブは大ジャンプを連発。
小野はその飛距離に注目します。
なぜV字ジャンプが有効なのか。
全日本スキー連盟は科学的な検証に乗り出し一番合理的なフォームを追究しました。
風洞装置にスキーを履いた人形をつるしあらゆる角度からV字ジャンプを分析しました。
遠く飛ぶには体に多くの風を受け上に持ち上げる力揚力を上げる事が肝心です。
足をそろえて飛ぶのと比べてV字にすれば風を受ける面積が増えます。
研究の結果体の中心から左右に19°広げるのが最も風を捉える角度だと分かりました。
更にV字は風にあおられやすいため体を前に傾けてバランスをとります。
そうすると飛行機の翼の断面に似た形となり揚力も大きくなったのです。
その際スキーと体の角度が20°の時に最も飛距離が伸びる事も分かりました。
例えば飛距離でいうと5mか10mV字にするだけで有利だという事を言われたし科学的にはそれにしなきゃいけないという理屈が出てましたから。
実験の結果を受け原田は日本選手の中でもいち早くV字ジャンプに取り組みました。
楽しいほど距離が伸びる。
うわ〜速いって!はいはいはい!原田が復活。
V字ジャンプに取り組んで1年。
国内大会で5回優勝。
日本代表入りを果たします。
上半身が起き上がる欠点はV字にする事で空中の姿勢が前へ傾くようになった事でカバーされたのです。
(アナウンサー)第17回冬のオリンピックはスキー競技発祥の地ノルウェーに帰ってきました。
(実況)金メダルに向かいます。
(解説)風はいいですよ。
少し弱いですが…。
(実況)原田どうだ?高さはある!金メダルに向かう!どうか?落ちた。
途中で落ちてしまった。
原田失敗ジャンプになってしまった。
小野によると強いプレッシャーが体を硬くしたためだといいます。
(実況)日本銀メダル。
(実況)日本金メダルを逃しました。
それでも日本ジャンプ陣の実力は世界がトップと認めるようになっていました。
しかしリレハンメル後立て続けにルールが改正されます。
まず板を全体的に短くする事。
次に足を固定するビンディングをスキーの先端から57%以内につける事。
ビンディングをなるべく後ろにつければ踏み切った時の反動でスキー板は大きくたわみたくさんの風を捉える事ができました。
しかし57%までと決められ前につけるようになると板のたわみが小さくなり風を受ける量が減ってしまうのです。
小野には一つの予測がありました。
外国のコーチが昔から言っている「ジャンプ台を長く踏みつけろ」という言葉がヒントでした。
必要なのは瞬発力ではなくジャンプ台を踏みつける圧力ではないのか。
小野は長野オリンピックのジャンプ台を建設する時圧力を測るセンサーをジャンプ台の先端10mの部分に埋め込みました。
オリンピック2年前実験が始まります。
トレーニングドクターの佐々木とヘッドコーチの小野が解析に当たりました。
選手が踏み切る動作をする0.2秒およそ5mの間の圧力を調べると意外な事が分かりました。
ジャンプ台の先端までの5m。
失敗したジャンプでは踏み切る瞬間選手たちが一気に力を加えていました。
一方こちらは成功したジャンプです。
踏み切る前から長い時間圧力をかけ続けていました。
これはジャンプに必要な瞬発力の概念そのものを変えるものでした。
ジャンプ台を長く踏みつけるため原田は科学に裏付けされたトレーニングに取り組みます。
尻から始まって太ももふくらはぎの順番で筋肉を動かすためにさまざまな方法を実践しました。
年齢とともに瞬発力は落ちたもののこうしたトレーニングにより筋肉を連係させる体が出来上がりました。
翌シーズン原田にトレーニングの効果が現れます。
(実況)原田出ました。
(解説)条件はいいですよ。
(実況)ス〜ッといって高さはもちろんある原田!大ジャンプを連発。
ワールドカップや世界選手権で優勝します。
原田と同じくベテランの域に入った斎藤や岡部も科学に裏打ちされたトレーニングを積み調子を上げてきました。
長野オリンピックの直前ワールドカップで何度も表彰台を独占します。
(実況)長野オリンピックの開幕です。
日本で開かれる3回目のオリンピックです。
船木。
ああ…。
さあ来い。
(実況)さあどうだ?船木。
全てこの人に懸かってきた。
きれいな飛形で来た!伸ばしてくる伸ばしてくる!
(場内放送)「125m」。
(実況)金メダルを獲得しました日本!雪辱を果たした日本ジャンプ陣。
(実況)長野で大きく大輪の花!カルガリーの屈辱から10年。
小野が科学の視点から取り組んできた日本ジャンプ陣の再建はこの日完結しました。
改めてここで見てみますと金が2つ銀銅というこういう輝かしい成績をあげた訳ですけれども。
長野でよかったですね一番。
ホントに科学的論理的なアプローチが長野オリンピックで開花したと。
もともと航空力学に照らし合わせて行う事を小野さんは提案してましたし当時私もオーストリアに留学しててやはりどこの国もV字が出てきた事によって落下面積をいかに広げるかという事でどこの国も風洞実験をやり始めた時期なんですね。
ですからそういう意味で一番得意なジャンルの…小野さんが数字を基にきちっと分析されたという事で。
今もおっしゃいましたがやっぱりV字というのは圧倒的にそういう意味では金になったという事ですか?先ほども映像に出ましたスウェーデンのヤン・ボークレブという選手なんですが一番の功労者は彼の飛び方を修正しなかった指導者でしょうね。
それは科学を立証させるためにあの飛び方をした訳じゃないですから。
まずVがあって飛び方があって…。
スキーを閉じれなかったんですよ彼は。
そういう事だったんですか。
そうですそうです。
ですから当時でいうと先ほども言ってましたけれどジャンプ競技っていうのは飛距離点と飛形点というので合算して合計ポイントが出るんですね。
スキーはスキーの幅1本以上開くと減点の対象になったんですね。
ですけれどそれを分かっていてスウェーデンの指導者はそういう飛び方を直さない。
それが今の画期的なV字飛行。
それにしても今の番組原田選手を中心に取材しましたけれども…船木選手にはどんなふうな形で指導をしてらしたんですか?彼はもう高校時代からオーストリアとかによく連れてって要するに強いチームが何をしてるかというのをよく見せてたんですね。
それと原田の筋力に船木は対応はできないです。
要は空気抵抗を減らす飛び方を僕は船木に教え込みました。
そのためには?ジャンプ競技というのはラージヒルでいうと大体僕は50mの所までと50mからランディングするまでの所を2つに区切ってるんですね。
それから50mまでは原田君は大きく高い所飛んでるんですけど高い所を飛んでいくという事は抵抗が生まれるんですね。
ですからそうじゃなくて僕はここの50mを抵抗なくまっすぐ進んでほしい訳ですよ。
それはオーストリアで僕が学んだ技術なんですね。
日本人がこれから生きていくためにはグライダーを選ぶかジェット機を選ぶかどちらかの選択をしなさいと。
前半のところは抵抗なく速く進んでしまえば落ちないだろうと思いますね。
美しいフォームですよね。
そうですね。
ですから彼はラージヒルで満点の全員の飛形審判が20点満点を出すという快挙をやってのけましたよね。
今八木さんの話を聞いてると前に低く速くというと今思ったんですけど今ジャンプで一番イメージにぴったり合うのは梨沙羅ですね。
それで今名前も出ましたがいよいよホントに目前に迫ってまいりましたソチオリンピック。
まずは女子はやっぱり梨選手ですか?沙羅ちゃんでしょうね。
女子のレベルじゃないですもんね。
あっそうですか。
まだ17歳…。
まだまだ進歩しますよこの子は。
そして男子といいますとどうでしょう?西紀明君ですね。
今調子いいですよ。
ワールドカップも勝ってますしね。
2日間で1位と3位表彰台2回上ってますから。
41歳もまだ進化してますか。
彼の年齢の事をよく言われる方いますけど筋力が全く落ちてないですから。
年齢は関係ないですね。
もう進歩し続けるでしょうね。
オーストリアでやられてるインタビュー拝見しましたらあと10年やるって言ってました。
という事はリレハンメルで団体戦で金を取れるところを取れなかった。
銀だったんですよね。
だからオリンピック7回目ですけど本当に金が欲しいと思うんですよ。
そういう意味では団体は今度はどうでしょう?面白いですよ。
面白いです。
メダルの可能性も十二分にありますし。
今年見てると混戦なんですよね。
混戦ですね。
特に断トツにこのところ強かったオーストリアが意外と強くないというか故障者もあって…。
ですからトップの部分がはっきり一番強いという感じじゃありませんからメダルの圏内はいろんな国が可能性あるのかなって気はします。
ホントにジャンプの団体の場合には個人が1人でつないで飛んでいってその距離の合計と思ってましたけど思いをホントにつないでいくものなんだって。
僕ら日本人って駅伝競技ってすごい好きじゃないですか。
駅伝気質があってあとにバトンをつなごうって。
そういう部分でいうと団体戦というのはそれに非常に近い部分があってそのタスキをいかにアドバンテージを持って次のランナーにつないでいくか。
4番目の選手はそれを持って完結させる。
すばらしいですね。
ホントにつないで絆といいましょうかそういうものがあるスポーツなんですね。
その辺りの思いもホントに合わせてソチオリンピックでは見たいですよね。
出場する選手がいいオリンピックだったと思えるようになってほしいなと思います。
また泣きましょうか。
アハハハッ!ねっ!う〜んそうですね。
本当に楽しみです。
本当にどうもありがとうございました。
2014/02/02(日) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス シリーズ・冬季五輪 第2回「絆でつかんだ栄冠」[字]
冬季五輪(2)長野五輪スキージャンプ団体の金メダル。その栄冠の陰には裏方・テストジャンパーたちの活躍があった。選手になれなかった男たちの意地と絆が日本を救った。
詳細情報
番組内容
【ゲスト】レークプラシッド銀メダリスト…八木弘和,工藤三郎,【キャスター】桜井洋子
出演者
【ゲスト】レークプラシッド銀メダリスト…八木弘和,工藤三郎,【キャスター】桜井洋子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – スポーツ
スポーツ – オリンピック・国際大会
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
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