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【暮らし】

<家族のこと話そう> 駆け込み寺代表理事・玄秀盛さん

玄秀盛さん

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 父は一九三〇年、当時は日本の植民地だった済州(チェジュ)島で生まれました。二十歳前、密航で日本に渡りました。密航の理由を語りませんでした。玄家は大地主で、村長を務める名門。父は長男でした。

 後で四八年の「済州島四・三事件」が関係していたことを知りました。軍により数万人の済州島住民が犠牲になったといわれている事件です。盧武鉉(ノムヒョン)大統領が二〇〇三年に公式に謝罪するまで、韓国ではタブーとされ、口にすることはできませんでした。

◆密入国で日本に

 日本に来た父は、同じような境遇の住民が集まる街にたどり着きました。密入国のうえ、日本語はできません。小さな工場で働きはじめました。同じ境遇の女性と一緒になり、私が生まれました。密入国なので、婚姻届は出せません。私は小学校に上がる前になって、韓国総領事館に出生届が出されました。

 父は女性にもてました。私には生みの母と、育ての母が四人います。異母きょうだいも七人か八人です。私は最初、公立の小学校に入学して北朝鮮系の小学校に、次いで韓国系の小学校に転校しました。父は酒を飲んでは私を殴りました。父から離れたかったので、中学で家を出ました。

 二十七歳のとき、関西でビジネスをしていたところ、父が「どうしているかなと思って」とふらっと訪ねてきました。それをきっかけに時折、会うようになりました。一九九七年、縁者から電話が来ました。父が死んだという連絡ではなく、葬式をやるから来てくれと。駆けつけたら、私が喪主でした。

 父の死後、大統領の公式謝罪があり、済州島でも事件が語られるようになり、事件の記念館が建ちました。私も行ってみました。

 すると、ああ、父もそうやったんや。電光のように心の中を父への思いが走りました。親類に聞くと、「両親(私の祖父母)が長男(父)が軍に殺されるのを恐れて、逃がしたんや。それほど緊迫していた」と教えてくれました。

 そんな父の下で育った私は、若いころは荒れたこともありました。仕事もいろいろやって、貧困や差別など悩みを持つ人たちの相談にのるようになり、東京・歌舞伎町に「日本駆け込み寺」という看板を掲げました。相談者は三万人を超えました。

◆恨み言はいわず

 植民地支配が終わり、明るい時代が来ると思っていたら、故郷から逃げなければならなくなった父。時代の波に翻弄(ほんろう)されながら、精いっぱい生きた父。事件のことは口にせず、「事件がなかったら」などと恨み言はいいませんでした。

 父のことを好きか、きらいかと問われれば、私は好きではないと答えるでしょう。しかし、その生きざまは人間として理解できます。

 私は東日本大震災の支援活動で被災地に通いました。東北のみなさんの古里への思いに胸打たれました。私の古里はどこだろう。考え込み、日本国籍を取得しました。父も理解してくれるでしょう。

 (聞き手・草間俊介、写真・岩本旭人)

 <玄秀盛(げん・ひでもり)> 1956年大阪府生まれ。東京都新宿区を拠点に十数年前から暴力、貧困などの相談に応じる日本駆け込み寺を設立、代表理事に。半生はテレビドラマ化された。著書多数。最新刊は「年齢・学歴・経験不問! 崖っぷちからの大逆転」(清流出版)。

 

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