国立競技場が今年56年の歴史に幕を閉じる事になりました。
1964年の東京オリンピック。
国立競技場はそのメイン会場となりました。
戦後復興の日本の象徴でした
さまざまなアスリートの憧れの舞台。
ラグビーの名勝負の数々もここで生まれました
歴史に残る1985年の日本選手権
新日鉄釜石の大会7連覇が懸かったこの年。
チームの中心松尾雄治をアクシデントが襲っていました
日本選手権を目前に控えた1985年1月6日。
松尾は緊急入院する。
松尾は麻酔をうって出場。
その試合はラグビー史に語り継がれる大熱戦となりました
そして国立競技場屈指の人気カードといえば大学ラグビー伝統の早明戦です
最も観客を動員した試合も早明戦でした
桜のジャージーの日本代表もこの国立で世界の強豪と戦ってきました
球を生かせ球を生かせ。
日本代表の礎を築いた名将大西鐵之祐監督です
大西の戦術を試すチャンスが訪れます。
ラグビーの強豪国ニュージーランドに遠征に出る事になったのです。
体格で劣る日本人が世界と互角に戦うためには何が必要なのか。
大西監督はデータに基づいて戦術を練り上げていきました。
今日の「NHKアーカイブス」は国立競技場で繰り広げられたラグビーの名勝負を振り返っていきます
今日の「NHKアーカイブス」は国立競技場に刻まれたラグビーの名勝負をご覧頂きます。
ゲストご紹介致します。
お二方にお越し頂きました。
現役時代はミスターラグビーと呼ばれました。
現在も神戸製鋼コベルコスティーラーズの総監督を務めていらっしゃいます。
どうぞよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
そして元「ラグビーマガジン」編集長でラグビージャーナリストの村上晃一さんです。
どうぞよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
平尾さんといいますと華麗なパスさばきですね。
今も目に焼き付いているんですが国立では随分戦われました。
やっぱり特別な思いがおありですか?そうですね僕ら大学生の時もそうですが年に1回決勝大学生の時は準決勝もやらせて頂いたんですが社会人になれば日本選手権だけですからそこにいかないとなかなか国立ではさせてもらえなかったのでやはり1年に1回大舞台でゲームできるというのは大変心がワクワクするような試合でしたですね。
そこにいきたいという思いが?そうですね強かったですね。
村上さんラガーマンにとっては国立特別な思いがありますよね?…と思いますね。
大学生はベスト4社会人は優勝しないと日本選手権に出ないといけない。
しかもその試合が常に6万人とか大観衆で埋まっているという事であそこでやってみたいなというのが僕はやっぱり花園秩父宮国立ってありますけれどもやっぱり一番の大きな高い目標は国立だったと思いますね。
ラグビー選手にとってはあそこでやってみたいというのが目標であり憧れだったと思いますね。
それでは国立競技場でのラグビーの名勝負日本一を決める日本選手権の名勝負から見ていきましょう。
その日本選手権で今でも語り継がれるのは新日鉄釜石のV7です。
1985年V7が懸かった試合は松尾雄治選手が率いる釜石とそして平尾さん率いる同志社大学の激突でした。
この試合に懸けた両者の思いを2012年放送の「伝説の名勝負不屈の闘志激突!」からご覧下さい。
釜石に製鉄所が造られたのは明治の初め。
以来この地は鉄の町として日本の経済を支えていく。
ラグビー部が誕生したのは1959年。
最初の部員は僅か20人足らず。
その多くがラグビー経験のないいわば素人集団だった。
真冬の北国でも屋外でできるスポーツとして会社が選んだのがラグビーだったのだ。
釜石はフォワードの突進力を磨き徐々に頭角を現し始める。
結成から10年日本でトップクラスのチームにまで育っていた。
しかし日本一だけは手にする事ができなかった。
1976年松尾雄治が入社。
大学時代から日本代表として活躍していた松尾に全国が注目した。
「お前の特技を生かせるように俺たちも頑張るから」とかそういう事を言ってくれる選手もいたしだから僕はそこで「よしここで一発松尾が来てやってやるぞ」とこういうふうに思ったんですね。
松尾の最大の武器はキックにあった。
自由自在にコントロールするキック力と試合の流れを読む天性の勝負勘。
松尾の技が加わる事で釜石は生まれ変わった。
やはり松尾が入った事によってフォワードが前に出る戦法というか彼のキック力というのはかなりのものがありましてね蹴ったボールがなかなか落ちてきませんからそういう意味でフォワードを前に出せるキックで勝ってきたのかなと。
一番ありがたい存在ではありますよね。
我々が劣勢になった時とかあの人のワンプレーで優勢に立場を逆転してくれますからね。
ありがたいですよね。
松尾が入部したその年のシーズン。
新日鉄釜石は日本選手権で強豪早稲田大学を下し初の日本一に輝いた。
新しい釜石の攻撃パターンそれは松尾の采配から生まれる連係プレーだ。
パワープレーだけではつかむ事のできなかった悲願の優勝だった。
1979年再び日本一の座を獲得。
釜石の伝説はここから始まった。
1981年には史上初の日本選手権3連覇を達成。
地元釜石は熱狂した。
町の人たちは選手たちが経験した事のない歓迎で出迎えた。
まず駅で歓迎のセレモニーがあったりあと市内のパレードがあったりこんなに人がいたのかというくらい皆祝福してくれましたから。
それがV3頃まではそういう雑念がなくとにかく純粋に練習に打ち込んで試合に打ち込んでというのがだんだん勝つ事…勝たなきゃ駄目だとかいうふうになっていったんだと思うんですね。
勝つととにかくホッとするというふうに…なってきたと思うんですね。
勝つ事が宿命となった釜石ラグビー部の選手たち。
彼らも昼間は製鉄所で働く鉄鋼マン。
勤務時間は朝8時から夕方の4時半まで。
社会人として一日をしっかり働き練習に臨む。
それが創設期から守り続けられてきたチームの鉄則だ。
選手たちはどのチームにも負けない厳しい練習を自らに課した。
それこそが日本一の自信につながるのだ。
1982年松尾は現役選手を続けながら監督に就任。
7番泉お前金子につこうと思ったの?あれ金子につこうと思わなくていいから。
勝つために。
王者であり続けるために。
監督となった松尾は時に非情な采配を振るう事もあった。
それが松尾のラグビー哲学でもあった。
「調子の悪いベテランよりも調子のいい新人を使う。
元気な新人を使う」。
これだけは俺が今までのラグビーの中で一番考えてきた事でそうやってみんなやってきたんですね。
だからその前の時も調子の悪かった瀬川清は外したりとかベテラン選手の氏家を外して泉っていうのを入れたりとかいろんな事をしたんですね。
それも全部みんなが納得して。
松尾の思いは釜石を更に強いチームへと進化させた。
(実況)この6万を超える大観衆が期待するものは新日鉄釜石の6年連続の優勝なんでしょうか。
6連覇を懸けて迎えた日本選手権。
スタンドは釜石の大漁旗で埋まった。
圧倒的なパワーに日本中が沸いた。
(実況)さあそのまま入るかそのまま入ったトライ!
(歓声)釜石でヒーロー松尾たちを待っていたのは更なる連勝記録を望む人々の期待の声だった。
やっぱり僕は怖かったからここまで育ててくれた先輩いろんな歴史がありますからねそういう人たちがあって今の我々がある。
ここで負けちゃいけないんだ。
もっともっともう一年もう一年それはいつかは負けるかもしれないけどその日までしっかりやるっていうそういう事しか頭になくて。
だから練習も怖かったし試合も怖かったし僕には楽しんでやるなんていうプレーはもう…プレーっていうか試合なんかほとんどなくて「負けたらどうしよう」。
ホントに口には出しませんでしたけどね。
そういう事でしたね。
松尾が監督に就任した頃京都に打倒釜石を合言葉に史上最強といわれる学生チームが現れた。
関西の雄…その中心に平尾誠二がいた。
それ!
(一同)フレーフレー伏見!中学時代からラグビーを始め伏見工業高校に進学した平尾。
当時は松尾と同じスタンドオフだった。
激しい突進そして華麗なステップワークは高校生離れしていた。
(歓声)平尾は同志社大学に入学。
翌年史上最年少で日本代表に選ばれた。
そこで松尾雄治と初めてプレーを共にする。
松尾さんうまかったよ。
メチャクチャうまかったですよね。
僕同じポジションだったからねやっぱり追いつけ追い越せですよね。
そういう意味では。
(取材者)壁みたいなもんですか?壁とは思わなかった。
壁っていうのは挑戦していく…そうじゃなくて目標的なものですよね。
大学に戻った平尾はポジションをスタンドオフからセンターに変えた。
当時の同志社大学の選手層の厚さは他の追従を許さないものだった。
ロック大八木淳史ナンバーエイト土田雅人フルバック東田哲也そしてセンター平尾誠二。
誰もが日本でトップレベルの実力を持っていた。
学生では最強のフォワードやったし社会人でもそこそこ通用する…ひょっとしたらほとんど日本代表なるんちゃうかというメンツやったんです。
言うならば画期的なチームやと思うんですね。
(歓声)
(歓声とホイッスル)同志社は破竹の勢いで勝ち続ける。
そして史上初の大学選手権3連覇を達成。
大学最強の名を欲しいままにしていた。
日本のトップレベルを常に感じてやれたというのが大きかったですかね。
それはあるね。
入った時から林さん…ダイマルさん大八木さんっていうのは日本代表でいらっしゃってね。
平尾もいるし土田もいるしホントに全日本のレベルを感じながらやる事ができた。
負けるっていう気がしなかったんじゃない?あの時は。
うん。
しかしそんな同志社にも唯一勝てない相手がいた。
それが新日鉄釜石だった。
1983年の日本選手権。
結果は21対8で大敗。
翌年の日本選手権でも同志社は釜石に全く歯が立たなかった。
無残だった。
初めて味わう屈辱感とともに平尾は最終学年を迎えた。
同志社の選手たちにとって目標はただ一つだった。
日本選手権で釜石を破る事しか考えてないチームを作ろうというのがずっと僕と平尾でやってきた形なんでかなりそれに向けてのチーム作りだったんですよ。
同志社ラグビーの最終章として日本選手権で勝つんだと。
そうそうこれ。
「さあ行こか〜」って言うて行くんですよこれ。
打倒釜石を合言葉に選手たちはこの石段で連日猛特訓に励んだ。
10往復とかね行くんですよ。
止まったらあきませんからずっと上まで走るでしょ。
それだけで一日の練習終わりみたいな。
100kgの人もやるし。
(取材者)平尾さんももちろん?そうですもちろんです。
下から「ア〜」って叫ばれるんですよ。
「遅いぞ〜」いうて。
徹底的に体を鍛え上げる選手たち。
全体練習が終わったあとも自主練習に打ち込む。
それぞれが過酷な試練を自らに課していったのだ。
全ては釜石に勝つために。
当時日本経済に鉄鋼不況の風が吹き始めていた。
新日鉄は事業の縮小を余儀なくされていった。
釜石を照らし続けてきた高炉の火が少しずつ消えていく。
そんな中新日鉄釜石ラグビー部が日本一であり続ける事は町の人たちにとっての希望だった。
しかし7連覇を目指す1984年松尾の動きからそれまでの鋭い切れ味が失われていた。
長年酷使し続けてきた体には既に限界が近づいていた。
日本選手権を目前に控えた1985年1月6日松尾は緊急入院する。
ケガをしていた左足首が化のうし立つ事さえできない。
医師は足首にメスを入れた。
うみが噴き出し辺りに飛び散った。
日本選手権まであと9日。
傷が回復する見込みはゼロだった。
この時松尾は監督としてこれまで選手たちに課してきた揺るがぬ鉄則を自らにも課す事を決意した。
どんどんどんどん左足が上に上がってこなくなってきてね足首が。
テーピングするようになったりしているうちにだんだんとそこに水とか血とかたまるようになって…。
だから徐々に徐々に体が弱っていったんですよね。
だから最後も僕絶対やらないと思って…言ってたんですよ。
「自分は試合には出ない」という松尾の言葉にチームは激しく動揺した。
キャプテンの洞口は試合に出るよう連日説得した。
相当悩んでたと思いますね。
もちろんチームの我々も非常に悩んでましたし本音を言うとやっぱりいてもらいたいという気持ちもありますし松尾さんのポリシーとは違う事かもしれないけど「とにかくお前がいるだけでいいんだ」というのがまさにみんなの総意だったと思いますね。
同い年の2人。
共に新日鉄釜石を守り育て上げてきた2人。
「マツ5分でもいい。
立っていられねえか?」。
その洞口のひと言についに松尾は麻酔をうってでも出場する事を決断した。
それは長年のラグビー人生に自ら終止符を打つ決意でもあった。
一方打倒釜石に燃える同志社大学は試合を前に最高の仕上がりを見せていた。
平尾たちは日本一になる事のみを夢みてこの1年をふんばってきた。
学生最後の大舞台を翌日に控えた平尾は宿舎で静かにスパイクを磨いていた。
そして磨き終わった時平尾はつぶやいた。
「明日ほど燃える試合はないな」。
そして迎えた1985年1月15日。
国立競技場は6万2,000人を超える大観衆で埋め尽くされた。
松尾の負傷に揺れる新日鉄釜石。
勝利に向けて一丸となった同志社大学。
・「One,two,three,」・「Whoarewe?La,La,La,Doshisha!」・「One,two,three,Whoarewe?La,La,La,Doshisha!」同志社大学のロッカールームは気合いが最高潮に達した。
午後2時伝説の名勝負が始まった。
松尾選手がケガを押して出場した試合日本ラグビーの歴史に残る激闘となりました。
足に麻酔をうった松尾先発で出場します
この試合同志社が序盤から攻撃を仕掛けていきます
打倒釜石に向けて走り込んできた同志社。
前半早々ディフェンスを振り切って先制トライ
その後も走り続けた同志社。
12番平尾を起点にパスがつながります
思うように走れない松尾。
リズムが作れません
そこに追い打ちをかけたのが平尾のドロップゴール。
どんな形でも点が欲しい。
強い気持ちが込められた追加点でした
釜石が息を吹き返したのは前半終了間際。
麻酔が切れ始めた松尾が痛みをこらえて放った飛ばしパス。
このボールがつながり釜石この試合初トライ。
試合は1点差の大接戦に
後半開始早々釜石がペナルティーキックのチャンスを得ます
これを決めて釜石が逆転
フォワードにも本来の力強さが戻ってきた釜石。
松尾の指示もさえ渡り後半は釜石のペース
気持ちだけで動いていたという松尾。
懸命のステップで相手をかわしパス。
トライを演出します
(歓声)
そんな松尾の頑張りに応えようとフォワードも全員で攻め上がりトライを決めます
新日鉄釜石が同志社を振り切り史上初の日本選手権7連覇を達成しました。
動けなくなってチームメートに担ぎ上げられた松尾。
これが現役最後の雄姿となりました
最後の試合は国立っていうそういう気持ちがすごく強くてやっぱり国立で試合をやって引退をするという…引退ができるなんていう事は幸せだなって思ってましたね。
松尾が率いた釜石のV7は国立競技場に今もそびえ立つ金字塔です
1985年の名勝負。
今振り返っていかがですか?う〜ん懐かしいんですがね何かやっぱ悔しくなりますね見てますと。
今見ても?う〜んまあ当時はまだ学生でしたし若かったですね。
もうちょっとこうしてたらなとかいうのは見ながらちょっと思い出しますね。
一番何か思う事ってどういう事ですか?やっぱりフォワードが釜石の方が強かったんですよね。
もうちょっとうまくかわせてりゃ勝機はあったかもしれないなと思うんですけどね。
まあでも釜石の方が強かったのは強かったですね間違いなく。
しかたないですね。
村上さんこの試合をちょうど見てらしたんですね?僕は大学生で見てましたね。
憧れていたチーム…。
社会人の7連覇というのは初めて大学の3連覇も初めて。
史上初。
本当に当時強かった両チームの対戦だったのですごい楽しみでしたよね。
僕は関西だったのでやっぱり同志社っていうのは僕らのヒーローだったので。
ご自身も大学までラグビーをやってらっしゃって。
だから僕は同志社に勝ってほしいなと思ってました。
平尾さんに聞きたかったのは松尾さんはホントに出てほしかったのか…ちょっとケガしてる松尾さんだったら出てきた方がいいかなぐらいに思ってたのかなっていうのは…。
いや〜でも存在感がものすごくありましたしね多分洞口さんが松尾さんに問いかけた「5分でも立ってられたら出てくれ」っていうのは正直なところだったと思いますよ。
それだけ求心力としての存在感が松尾さんにはあったと思うんですね。
だからチームとしてはとにかく何もしてくれなくてもいてくれっていうのが…そういう時あるんですね。
だから多分それはチームの本音だと思いますし我々にしてみりゃケガであんまり調子よくなかったら出てくれた方がいいんじゃないかというふうには思わなかったな。
やっぱり出ないよりも出られた方が嫌だなとは思ってました。
ただ多分松尾さんこれ最後だったんで僕としては最後やっぱり出てほしかったのは本音じゃないかな。
それは対決したかったと?やっぱりしたかったですね。
それは正直なところありましたですね。
姿を見た時どうでした?麻酔うってまで出てきました。
何となく痛そうな感じはしてたんですがねやっぱり活躍するんだろうなと思うてね。
そんな目で見てましたよ。
ただそれをさせないようにやっぱり僕はマークしながらなんとか勝つような道筋を僕としては作りたかったですよね同志社。
事前に松尾さんと話したりはしたんですか?あの試合の前に。
終わってからはしゃべりましたけどね。
どんな事を2人で話されたんですか?松尾さんは終わってから「ありがとうな」っていう感じやったですよ。
「ありがとう」?こっちも「ありがとう」しか言う事ないもんね。
「ありがとうございました」って言って握手したと思いますよ。
それはどういう思いの「ありがとう」だったんでしょう?まあどうだろう…いいゲームできたって事じゃないですかね。
いいゲームできたなっていう事と最後釜石らしいゲームだったと思いますし我々も負けたとはいえ同志社らしさは出たんじゃないかなと思いますからお互いに力を出しきったというところにお互いが感謝してるみたいなねそんな感じやったですね。
村上さんは松尾さんと平尾さんの対決どんなふうに見てたんですか?当時の一番のスターとその次を…恐らく松尾雄治の後は平尾誠二が継いでいくんだろうっていう…。
日本のラグビー界の。
実際そうなったんですけどもその時は「そうなるんだろうな」という予感めいたものを感じながらみんなが見ていたっていう。
相撲でいえば千代の富士と貴乃花みたいな何かちょうどそういう対戦ですよね。
だからホントは同志社が勝って時代が変わっていくみたいな方が面白かったかもしれない。
やっぱり現実はそうはいかないんです。
やっぱり王者はまだ釜石だったという事ですね。
そうですね。
強かった。
平尾さんはこのあと神戸製鋼に入られて1995年には今度は7連覇をご自身達成されますよね。
松尾さんは「怖かった」とおっしゃいましたよね。
そのお気持ちっていうのはどうですか?う〜ん…怖かったというかね確かに連覇が重なれば重なるほど期待は大きくなりますからね。
まあ期待の裏返しは失望になるんで…。
それはやっぱり恐怖としてはあったかもしれないですね。
ただ自分の中で勝たなければならないよりは勝ちたいという気持ちの方が高まっていかないとやはりホントの意味でのいいゲームっていうのはできないというふうに自分では思ってましたんでその気持ちを作っていくのがやっぱり非常に毎年毎年厳しかったですね。
でもどうなんでしょう。
国立で勝ち続ける訳ですよね。
そのすごさもあるし難しさもあると思うんですがその辺りはいかがでした?う〜ん国立はでも僕ら社会人になったら一回なんですよね。
もう一回勝負で。
その一回きりだから故にもうとにかく何も残さずにそこ出し切るという事がやっぱり我々の中では毎年のテーマだったと思います。
だから「勝つ」という言葉はほとんど使わなかったと思いますよ試合前は。
それよりももうこんな所でできるんだからとにかく試合も終わったあとにこんな事しときゃよかったとかああなってりゃよかったなって事は一切なしと。
もうとにかく出し切ると。
やりきるという事がチームまた僕は個人として自分の中で持ってたテーマですから。
「勝とうね」という感じもなかったですね。
そういうものなんですか?やっぱり出し切る。
もうここで悔いのないようにやりきるというのがやっぱりチームの中でみんなが言ってた言葉だと思います。
それは釜石の方々もおっしゃってましたね。
ここで自分たちが1年間やってきたラグビーを披露するんだと。
国立競技場ってそういう場所…。
特に1月15日っていう日が決まっていてそこに大学と社会人の王者同士が向き合ってお互いが全部出し切ると。
そこをどうにか俺たちがやってきた事披露しようぜという…。
楽しそうでしたよね。
全く一緒だと思うんですよ。
でもそういう気持ちで戦ってたからこそ逆にいいラグビーができてたと思うんですよね。
せせこましくないね。
何かもうもっと大胆な…。
別に見せるラグビーとは思ってないんですがね。
やっぱりそこに非常に躍動感のあるゲームが展開されたっていうのは恐らくどちらかがそういう気持ちがないとそういうものは伝わってこないんじゃないかなと思います。
国立ならではのラグビーという事ですね。
それにしても松尾さんもこのあと引退されました。
ここでホントに引退幸せだったとおっしゃいましたが。
いや〜まあ一番いい引退のしかたですよね。
羨ましいなあと思いますよ。
最後これが自分で最後だと言っててそれが国立で決勝で日本一を決める戦いでね。
またそれでいい勝ち方をして。
よすぎますねちょっと。
ホントやっぱり一番いい時代。
日本選手権が常に満員になって。
あれだけの観客の前で試合できる事というのはもうないので…。
観客とかその辺りはやっぱり背中に感じながら…。
そうですね。
やっぱり国立の特に日本選手権のゲームはもう独特の空気ですね。
それまで僕らロッカールームにいましてそこからご覧のようにバ〜ッと。
上がっていってから出ていく時にもカメラマンがブワ〜ッと並んでその通る所にいる訳ですね。
そっから出ていった時の「わ〜!」っていう歓声が闘争心にホントにブワ〜ッと火が付く感じですよね。
そっからがもう戦いという感じで何か緊張じゃなくて僕は緊張じゃなくてもう興奮ですよね。
それまで緊張してるんですよ。
どうなるかなっていろんな事を考えるじゃないですか。
ゲームの展開とかね。
こんな時にはこうしようという。
そんな事思うとどっちかと言うと緊張感の方が高いんですね。
でも出てった瞬間に「わ〜!」と待ち構えてるような歓声が何かそれが一気に興奮に変わるんですよね。
何か血の流れを感じるっていうんですかね。
ブワ〜ッとなって今戦ってるなというので自分の血がブワ〜ッと体に流れてる感じが実感できるぐらいの興奮度はありますよね。
そういう姿を見て私たち観客もホントに興奮した。
それがお客さんに伝わるんですね。
日本選手権の名勝負でしたけれどもここからは国立のもう一つの伝説大学ラグビーの人気カード早明戦についてです。
早稲田対明治ご覧下さい。
毎年12月の第1日曜日。
国立競技場は大観衆で埋まります。
観客のお目当ては大学ラグビー伝統の早明戦です
(実況)関東ラグビー戦の覇権を懸けた早大対明治の1戦は…。
早明戦が始まったのは今から90年以上前
フォワードを重視した縦の明治
バックスのボール展開を重視した横の早稲田。
対照的なスタイルが数々の名勝負を生みました
1982年には6万6,999人が詰めかけました。
この数字はオリンピック以降国立競技場の最多観客記録として今も破られていません
両チームを育てたのは対照的な名監督でした
明治を率いた北島忠治監督
1996年に亡くなるまで67年にわたり監督として指導に当たりました
多くを語らない北島監督でしたが口癖のように繰り返す言葉が一つだけありました
「前へ」。
ボールを持ったらとにかく前へ
(取材者)早稲田は走る展開のラグビーだと思うんですが…。
(取材者)前へ?ええ。
フォワードのスクラムを重視し縦の突破を狙うラグビーは長く明治の伝統として受け継がれてきました
勝敗よりもまっすぐ前を目指す姿勢で戦う事を選手に求めたといいます
球を生かせ球を生かせ。
一方の早稲田の礎を築いたのは大西鐵之祐監督
ボールを横に展開するバックス重視のスタイルを生み出し明治に対抗しました
分かるか?要するにこうしてブレークしてこう返ってくるやろ。
徹底的にデータにこだわる独自の戦術はその後の名将たちにも多くの影響を与えました
基礎技術基礎技術と言うけども基礎技術というものはある戦法に基づいてその戦法を達成するための技術が基礎技術であって…そしてその連中を技術的に立派なものにしてそしてその作戦にその戦法に習熟するような練習をさせていけば勝てるんだ。
縦の明治と横の早稲田
2人の名将が最後に直接対決したのも国立競技場でした
大西監督が不振の続く早稲田に復帰したその年圧倒的な明治有利の声を覆し早稲田が勝利を収めます
国立で数々の名勝負を生んだ2人の名将その亡きあとも早明戦の死闘は続いています
早明戦チケットが手に入らない時期もありましたし大変な人気でしたよね。
徹夜組も結構ありましたしね。
プレイガイドに徹夜組が並んでるとか。
でも途中でそれがちょっと危険なので抽せんにしたりとか。
とにかくそのチケットを取るのがまた一つのお祭りになって両大学がホント学生も含めてOBも含めてみんな楽しんでましたよね。
僕らはそのお祭りちょっと見に行こうかみたいな感じでほかの大学の人たちも来るとかラグビーファンの人たちがみんな。
ちょっと今度のお祭りに参加しようかなというような。
そういうとこがありましたよね。
でもどうしてそこまで何でそこまで人気だったんでしょうか。
スタイルが明確ではっきりしてたという事ですよね。
縦の明治と横の早稲田。
強い明治に勝つために早稲田がああいう戦いを考えていく訳ですよね。
そして12月第1日曜日決まってるという…。
これが分かりやすいんですよね。
平尾さんは同志社で関西でしたけど早明戦はどんなふうに見てました?僕はラグビー始めたのは中学の時からなんですがやっぱりその時から憧れのゲームだったんですね。
人がたくさん入るというのもそうですし今村上さんが言ったやっぱりゲームの進め方というかそれぞれのスタイルが対照的でしてそれが一戦交えるというのは非常に興味深いもんがありましたね。
何となく今はゲームの質感というかチームカラーもちょっと均質化しつつあるんですよ。
それがラグビーのだいご味を少し失ってきているような気もしないでもなくてね。
やっぱり早稲田と明治の戦いというのは全く違うスタイルのチームが戦ってこれどないなんのかなというような興味が非常に強かったゲームですよね。
平尾さんはどっちが好きだったんですか?僕はバックスだから早稲田。
早稲田好きだった。
それと両チームの気迫が伝わりましたよね。
これが伝統なんでしょうね。
先輩たちから受け継いだいろんなものがそこにあるんでしょう。
恨みもあれば何かいろんなものがそこにガ〜ッと凝縮されたものがやっぱりゲームに出てきますよね。
また選手だけじゃなくって学生私たちも含めて一緒になってやっぱり大応援しますからね。
1987年度の明治のキャプテン大西さん。
一平さんって書いて一平さんですよね。
闘牛場の闘牛になった気持ちになったって言ってましたね。
そこに放り込まれたら戦わなきゃならないみたいな。
お客さんが後ろからやりでなんか…。
「行け〜!」とか言われて…もう行くしかないみたいな。
それにしてもホント大西監督そして今出ていますけど北島監督ですね。
やっぱりこのお二人の存在は偉大ですよね。
そうですね。
北島さんというのはほとんど明治の創部数年後にはもう入部されてるのでそっからキャプテンになり監督になりでもう長いのでそれこそ明治のラグビーって北島ラグビーだと思うんですね。
…と言ってもいいと思うんですけど大西さんの場合はどっちかと言うと早稲田ラグビーというよりかは日本人に合ったラグビーを一生懸命考えた人だったと思いますね。
僕らやっぱり若い頃にだいぶ影響を受けたお二方だと思うんですよね。
大西先生なんかすばらしい理論お持ちになってたと思うし北島先生もすばらしい理論をお持ちになっててちょっと違うタイプだとは思うんですがやはり長きにわたって求心力になれたっていうのはどう言ったらいいのか美学とかですねお二方の。
それとか人間性だとかこういったものがやっぱり更に持ってる理論を上回るものを持っておられてそういうものに魅せられた人が非常に多いんじゃないかなと。
だから長きにわたって求心力になる。
そういう細かいノウハウというかそういう知識よりも懐の深さといいますかねそういうものがお二方ともおありになったと思います。
学生にしてみればどんと任せられるような方々だったような気がするんですよね。
だから力が発揮できたという…。
もちろん勝ち負けにこだわるというのは当然チームのリーダーとしては当たり前なんですがね。
それよりも何か学生がホントにその事に夢中になってやれるようなやっぱりバックグラウンドがこのチームにあったという事だと思いますしそれがやっぱりこのお二方によって作られたものが大きいんじゃないかと思いますね。
今お話伺ってまいりましたがこうして数々の名勝負の舞台となってきた国立競技場ですが今年から建て替えが始まります。
新しい国立は2019年に完成しましてそのお披露目は日本で開催されるラグビーワールドカップとなる予定です。
ここからはラグビー日本代表について見ていきたいんですが村上さん日本というのはまだまだ世界のレベルの中ではどうなんですか?今世界ランキングが14位なんですけど今世界トップテンに入るのが一つの目標にしていますがそれに近づいてきてるのは確かですね。
近づいてきてるとはいえなかなかやっぱり届きにくいところもあるんですがそれを言うとどういう事になりますか?ラグビーのプロ化というのが1995年から始まったんですけどそれまでラグビーって仕事とラグビーを両立するというような世界的にそうだったんです。
その1995年以降は世界でプロ化が進んで専門的にラグビーをプレーする選手とかコーチがたくさん出てきたんですね。
そこで理論が飛躍的に進んだんですよね。
そこに日本は完全なプロ化をされてないのでちょっと立ち遅れたと。
ですから昔は体格差体格差っていいましたけど今はラグビー理論の方で少し立ち遅れてる部分があるんですね。
ですからどうやってディフェンスを崩していくかという理論であるとか選手の体をどうやって作っていくかというそういったスポーツ科学の面のトレーニングの理論であるとかそういったとこはちょっとずつみんな遅れてるので今それを一生懸命上げてるところですよね。
そういう理論をずっと考え抜いてきた人がいるんですね。
先ほどご覧頂きましたけれども早稲田の監督として登場された大西鐵之祐さんでいらっしゃいます。
大西さん1966年に日本代表の監督に就任されましてその時に編み出された戦術世界でも注目を集めたんですね。
今度は2007年放送の「スポーツ史の一瞬魔術と呼ばれた組織プレー」からご覧下さい。
11年前79歳で亡くなった大西鐵之祐は今でも日本ラグビー界の巨星と呼ばれています。
東京・西麻布の自宅には50年間連れ添った妻アヤさんが暮らしています。
生前の大西がアヤさんの前で黙り込んでいる時はいつもラグビーの戦術ばかり考えていたといいます。
まあいらっしゃい!訪ねてきたのはラグビーの社会人チームサントリーで指揮を執る清宮克幸監督。
アヤさんとは家族ぐるみのつきあいをしています。
清宮にとって大西は早稲田の大先輩。
しかし生前の大西とはほとんど接する機会がありませんでした。
初めてここを訪ねたのは早稲田の監督をしていた時。
清宮は大西の練習ノートを見せてもらいました。
開いた瞬間戦慄が走ったと言います。
運動量を計算した物理の公式。
攻撃ラインが何秒でパスを回したか計測したメモ。
大西は徹底したデータ主義でラグビーを理論的に研究していたのです。
(清宮)科学なんですよ。
何となくこう走れとかっていう事じゃなくてこの角度と距離を全部緻密に計算してるんですよね。
ありえない。
ハハハッありえないですよ。
1966年日本代表の監督に就任した大西さんは3つのキーワードで世界と戦えるジャパンを作ろうとします。
その戦術のエッセンスをご覧下さい
当時の全日本強化合宿の映像です。
大西が監督になって初めて全日本は定期的に合宿を行いました。
「何でも器用にできる必要はない。
自分の持ち味に磨きをかけろ」。
大西はそう言って選手たちの特徴を見極めていきました。
一つのチームにまとめるには統一された明確な戦術が不可欠。
そう考えた大西は体の小さな日本人が世界と戦うための極意を3つのキーワードで表しました。
「展開接近連続」。
まずは…フォワード同士で押し合いをするスクラム。
当時スクラムでは少しでも陣地を稼ぐためボールを入れたあともすぐには外に出さずしばらく押し合いをしたあとバックスへと出すのが世界の常識でした。
しかし大西はボールを入れたと同時に素早く出すように指示します。
体の大きな外国人と無用な力争いをするのをやめ押し合う前にボールを外へと展開する作戦です。
スクラムの中にあらかじめトンネルを作っておきます。
フッカーと呼ばれる選手がそこから素早くボールを掃き出します。
ダイレクトフッキングという日本独自の技が完成しました。
次に…ボールがバックスへと展開されたあと相手のディフェンスをかわし抜き去るための技術です。
日本人が得意とするスタートダッシュで相手選手の懐に飛び込むように接近します。
そしてぶつかる寸前に味方へとパス。
相手選手はくぎづけにされ何もする事ができません。
味方の選手は簡単に抜けていきます。
この接近プレーの申し子ともいえる選手がいました。
センターの横井章。
Bブロックに転落したどん底の早稲田で大西の指導を受けた愛弟子です。
こう当たる。
当たっててもここにスペースがある訳ですよ。
これが今の人は皆こうなっちゃうからプレーできない。
あるいはこうなっちゃうからプレーできない。
ところがこう当たったらプレーできる訳。
高校時代はバスケットボールの選手だった横井。
身長165cmと小柄ながら相手にギリギリまで近づいてパスを繰り出すのは得意なプレーでした。
そして最後に…フォワードバックスが一体となり走って走ってパスをつなぎます。
日本得意のスピードを生かし相手を振り回す作戦です。
大西は技術だけではなく外国選手に気持ちで負けない事を求めました。
フォワードの山口良治その勇気を買われました。
やつらは手も脚も長えんだぞ。
力も強いんだと。
だから例えば大きな大刀を振りかざしているようなやつに小さな刀で「えい!」と離れてやってたって斬られるのを待つだけだというのはそのとおりなんですね。
顔を上にして一か八かダ〜ッと。
とにかく離れてチョロチョロやってたんではそんなもん捕まって取られるんだと。
一か八かどれだけ速く懐に突っ込んでいくかという事を…。
やっぱり大西さんのラグビーに対する姿勢愛情そういうものが選手の腹にすんなり収まって「よっしゃこの人の言う事を信じて戦おう」という事になって初めてそういういろいろなチームプレーというものが機能してくるんだろうと思いますしそれができたんだと思います。
あの時にね。
全日本の監督になって2年後の1968年。
大西の戦術を試すチャンスが訪れます。
ラグビーの強豪国ニュージーランドに遠征に出る事になったのです。
世界の中で日本のラグビーが評価の対象にすらなっていなかった時代でした。
ニュージーランドの大学やクラブチームを相手に10試合戦う初めての海外遠征。
テレビ放送された映像には小さな日本人が懸命に戦う姿を笑う観客の声が収録されています。
(観客の笑い)ラグビーを国技とするニュージーランドを相手に桜のジャージーの日本はどうしても勝つ事ができません。
ついに4連敗を喫してしまいます。
外国に勝とうと努力した2年間を無駄にしてなるものか。
大西はこの遠征中も日本と相手チームの戦況をノートに記し克明に分析しました。
「4連敗の反省」と記したメモ。
「攻撃はとれた」と手応えを感じる一方「敗因はそれ以上とられている事」と分析。
大西は更に攻撃力を高めようと決意します。
遠征の後半になって磨き上げた組織プレーに全員のタイミングがようやく合うようになりました。
相手と刺し違える覚悟の接近プレー。
センター横井が相手ディフェンスを完全に殺しながら絶妙のパス。
数々のチャンスを演出します。
スクラムを組んだと同時にボールを展開するダイレクトフッキング。
素早い飛び出しで相手ボールをも奪い取ります。
ボールを奪えばスピードを生かし組織プレーにつなげていく小さな日本人選手たち。
そんな姿に地元の観客もいつしか拍手を送るようになりました。
4連敗のあとはなんと5連勝。
中でもニュージーランドの23歳以下の代表選手を集めたオールブラックスジュニアに勝った試合は世界のラグビーファンをあっと驚かせました。
魔術といわれたプレーの裏側には緻密な戦術があったという事ですよね。
この当時の日本代表のやってるラグビーというのはもしかしたら理論的には世界に勝ってたかもしれないような時ですね。
ニュージーランドのチームに勝つためにいろんな事を考えながら選手も起用し新しい事もやっていったという事でこの遠征の成果はホントすばらしかったと思いますよね。
そういう意味ではそういう事を生かす日本にもこれからも勝てるチャンスというのはどうなんでしょうかしらね。
まず理論のところで負けてると日本の場合は絶対勝てないのでそこでどこまで上がっていくか。
今それはエディー・ジョーンズさんヘッドコーチがそれを作っていってますね。
提示して日本人に合う戦法をやってますね。
日本人に適した戦いじゃないといけないと思うんですね。
それはやっぱり敏捷性であったり持久力であったりというとこになると結局大西鐵之祐さんが言った「展開接近連続」になるんですけどね。
日本人にちょうど適した戦い方展開接近連続というのは何て言いますか大西さんはホントにいろんな意味でいろんな角度から考えてこの答えを導かれたとは思うんですよね。
僕らの時もこの言葉は代表チームでも当然…。
当然のごとく当然のごとく引き継がれてる訳です。
ただこの言葉だけを「これが展開である。
これが接近である。
これが連続である」という言葉を使ってその後ず〜っと日本もラグビーをしてきたんですが結局ここの言葉に至るまでのプロセスが僕は極めて大事かなと思ってるんですよね。
それがホントに分かっていればそこから先そこから先のまた変化が起こせるんですが大西さんが現場に携われなくなってからやはり言葉は生き残ってるんですがどうもそこから先のものが作り出せてないような気がします。
そういう意味ではその3つプラス何があればこれから世界と戦っていけると思われますか?例えば僕は接近という言葉もホントに日本人特有の強みを出した一つの戦略戦術の一つになりえる言葉ですからバッとこう…。
僕監督してる時に思ったのはやっぱり日本人独特の距離感のものすごくこまやかさがあるんですよ。
体の中にある目盛りが細かいんですよね。
例えば「おいちょっとこうしてみろよ」のちょっとのちょっとさがすごい細かいですよ。
日本人の場合?ええ。
例えばちょっと前へラインを深くしようかという事で後ろへ下がれという指示を出した時に後ろ下がれって言った時に日本人の後ろの下がり方はホントにピッと1歩下がるんです。
ほんのちょっと1歩。
1歩。
ホントちょっとですよね。
外国は?ちょっとって言うとそれがやっぱり1m2m単位になる訳ですよ。
やっぱり目盛りが日本人の方が細かい。
だから接近というのはどうもそれに基づいて作られたかどうか分からないですよ。
でも日本人に合ったような当たらない接触する手前の話ですから非常に細かな部分の繊細さといいますかこういうものを求められた僕はプレーだと思うんですね。
こういうものがやっぱり日本の中に息づいてるというかそういうものを更にどううまく進化させていきながら今のラグビーに合ったものに育てていけるかというのが多分これからの課題。
でもこの言葉に更にもう一つどうやって言うんですかね…。
何か上積みしていくものがないと今のラグビーには対応できないのかなという気はしますね。
ラグビーってホントにダイナミックでバ〜ッと開いた時の爽快感ですよね。
もう大好きなんですけどもそういうダイナミックの中に繊細さがやっぱりある。
そういうものを強みにしていかないとなかなか外国の選手大きな選手強い選手には勝てないんじゃないかなと思いますよね。
全体のレベルを上げるっていう事とあと個人が強くなる事もあると思うんですよね。
それが今南半球のスーパーラグビーというプロのリーグに田中文朗選手であったり堀江翔太選手であったり何人か日本人選手が行き始めたんですよね。
そういった選手が海外でもまれて個人がまた強くなってまた日本代表にそれが戻ってくるという事が徐々に…。
サッカーの日本代表に近いような事が起き始めているのでそれもすごく我々としては期待感を持ってるところですね。
平尾さん常々個は個人がとおっしゃってますよね。
もうラグビーはそこの…。
例えば戦略戦術も大事なんですがそれを実は組み立ててるのは個人ですからやっぱり個人が高いスキルだとか高いフィットネスがある事によって更に高度な戦略戦術が可能になるという事だと思います。
それがベースである個人がレベルがあまり高くないとなればやはり戦術もある限られたものしかできなくなってくる訳ですからそういう意味では非常に重要な事だと思いますね。
だから今若い選手が海外に出かけてプレーしてそこでいろんな技術を学ぶとか戦略戦術に慣れるというかこういうものも当然あるんですがそれよりもそこで彼らが対等に戦って得る自信が一番大きいんですよね。
それがそういうプレーヤーが増えてくる事によってまずグラウンドに立った時にまずここで五分であるという。
初めに「いや〜テレビで見た選手だな」みたいなこういう事で初めから少し負けてる感がまだまだあると思うんですよね。
それがやはり立った時に五分であるというところが非常にラグビーでは大きいなと思いますね。
だからそういう選手の活躍もこれから期待したいなと思います。
でもあれですよねあと5年で新しい競技場が出来てお披露目としてワールドカップ。
あと5年ですがどうですか?日本でワールドカップが行われるってちょっと我々世代から言うと考えられないような事なんですよね。
アジアで初めての開催でありますしこの機会を楽しまないのは損だと思いますね。
楽しむ試合改めて国立競技場で行われると。
その思いを伺うといかがですか?僕プレーヤーをしてる立場でホントにグラウンドに立って大歓声が沸き上がると自分の血の流れが実感できるというかそういう気持ちになったという話をしましたがさすがにもう自分がやる事はないんでね今度は日本代表のゲームだとかワールドカップでこういうゲームを見て僕が見てる自分がそのゲームを見てこの血の流れを感じるような白熱したゲームこういうものが行われる事をものすごい期待したいですね。
日本代表もそうですけれどもラガーマンたちが新しい競技場に国立競技場にまた名勝負を刻んでくれる事を期待したいと思います。
ホントどうも今日はありがとうございました。
どうもありがとうございました。
失礼しました。
2014/03/02(日) 15:05〜16:15
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「さよなら国立競技場 刻まれたラグビー名勝負」[字]
国立競技場が建て替えのため、その歴史に幕をおろす。国立は日本選手権をはじめラグビーの聖地だった。日本選手権や早明戦などの名勝負、名監督を平尾誠二さんと振り返る。
詳細情報
番組内容
【出演】神戸製鋼ラグビー部ゼネラルマネージャー…平尾誠二,ラグビージャーナリスト…村上晃一,【キャスター】桜井洋子
出演者
【出演】神戸製鋼ラグビー部ゼネラルマネージャー…平尾誠二,ラグビージャーナリスト…村上晃一,【キャスター】桜井洋子
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ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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