東日本大震災から3年。
避難生活などで亡くなった方を含め2万人余りが犠牲になりました
今も26万人以上が避難生活を強いられています
一方被災地では復興の槌音が聞こえるようになってきました。
果たしてこれからの復興はどのように進めていけばいいのでしょうか。
今日の「NHKアーカイブス」では過去の震災を記録した番組から復興へのメッセージを読み解きます
東日本大震災から3年がたちました。
今日は過去の震災の復興を記録した番組を通しましてこれからの東日本の復興に何が必要なのか考えてまいります。
スタジオには神戸大学名誉教授の室益輝さんにお越し頂きました。
どうぞよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
防災復興問題がご専門でいらっしゃいます。
室さん頻繁に東日本の各地の被災地に足を運んでらっしゃるという事ですよね。
平均すると月2〜3回というところかと思うんですね。
神戸で震災の経験をしたという事もあるんですが被災地がとても気になるっていうか少しでもお役に立てればという事で行かせて頂いてるんですけれども。
実際に伺ってそして話を聞いてどうなんでしょう。
東北の被災者の現状をどんなふうに今捉えていますか。
どうしても私たちは阪神大震災と比較してしまうんですけどそれに比べると困難さが全然違うというか私は5倍ぐらい東北の方が大きな問題を抱えているんだろうと思うんですね。
災害の範囲がとても広いという事があります。
それからもう一つは原子力発電所問題のようなさまざまな問題複合しているという事も大きな課題だと思うんですよね。
そういう中で阪神の時は大きな問題住宅を失ったという事なんですね。
かなりの人はいわゆるサラリーマンで会社が潰れるという訳ではなかった。
阪神の場合はね。
ところが東日本は仕事漁業とか農業とか全部駄目になってしまう。
仕事も失っておられる訳ですよね。
ですから家族や友達を失いあるいは住まいを失い仕事を失い更にはこれはとても重要な事ですがふるさとも失ってしまうという何重苦というかその困難なゆえにそう簡単に復興は進まないという事だと思うんですね。
その進まない中で東北の被災者がやっぱり先の見通しを求めてというかどうすればいいのかという事で悩み悩んで今日もおられるという事だろうと思うんですね。
そういう中で今3年たちました。
その3年という時間時期これはどういう意味を持つと考えたらいいでしょう。
大きなポイントで見る事とそれから現場に即して見る事と2つ問題があると思うんですね。
大きな目で見るという事はやっぱり今まで必死に被災者の努力で復興を頑張ってきてみた訳ですが3年をたって少し振り返ってみる必要が出てきたと思うんですよね。
私はそれを踊り場と言っているんですけど踊り場に来ているんだと。
踊り場から振り返ってみて次のステップの行き先を少し改めて考え直すそういう時期に来ているというふうに思っています。
それから現場に即してという事で言うと現場で一体今何が起きているんだろうかという事とても大切だと思うんですね。
それは私は今2年目3年目阪神の時もそうだったんですが仮設住宅から出られないでずっと取り残されている人とそれから何らかの形で住宅の再建ができて仮設から出ていく人という形でいわゆる格差が大きくなってきている訳ですね。
その格差が人々のある意味では心を傷つけたりしている訳です。
それは復興にとってみると僕は大きな障害だと思うんですね。
その格差とか考え方の違いをもう一度手直しをしてやはりその解消を図っていくような取り組みが必要だというふうに思っています。
まずご覧頂くのは阪神・淡路大震災の復興を記録した番組からです。
被災地の撮影を続けたカメラマンを取材したドキュメンタリーです。
20分余りご覧下さい。
神戸一の繁華街三宮。
写真家熊谷武二さんの思い出の街です。
神戸の異国情緒を撮影してはコンテストに応募していた20代の頃。
撮影帰りに立ち寄っては仲間と酒を飲み写真談議を戦わせた所です。
震災直後最初の写真を撮ったのもここ三宮でした。
あれから4年間通りを行く人々の姿は大きく変わりました。
夏商店街の片側の店が再開し活気が戻ってきました。
250軒の店が全半壊したセンター街。
今あのころの三宮はどこにも見当たりません。
(熊谷)一緒撮るで。
どういうコンセプトで?
(熊谷)え?震災から4年後人々はどうなったか。
ええやんええやんそれで!見るからに反しとる!反してる反してたらええねん!俺真ん中に…。
真ん中で。
もうちょい前でもうちょい前で。
はい。
いいそれ!いくでいくでそんなふうでよし!こっち向いてこっち!おいせえよ!
(熊谷)せえせえ早う!
(シャッター音)うん。
顔つきも全然違う。
当時はもうひきつってたしねすすけて皆真っ黒やったやん。
何日も風呂入ってなかったから。
お化粧なんかせえへん。
当時直後は女性はハイヒール禁止ね。
お化粧禁止。
そういう格好で街歩いてたら不謹慎や言うてみんながにらみつけとったぐらい。
もう今は完全にホントおしゃれな街に戻ってるもんね。
みんな明るいもん。
すごく表情も明るいし。
(熊谷)きれいな街になりましたよ。
神戸の震災復興を記録するために熊谷さんは独特の手法を考え出しました。
定点撮影です。
全く同じ場所から全く同じ構図で繰り返し撮り続ける方法です。
(熊谷)長時間にわたって街がどないしたら復興するかないう事で撮る方法がないかな思って2〜3日考えて定点で位置を決めて何か所か考えたら街が日にちずつに日記ふうに撮っていったら街がどのように復興していくかという様子が撮れるんちゃうかな思って。
ず〜っと撮り続けていまだに撮り続けてるんやけどね。
画面の左手三宮交通センタービル。
この建物がどう生まれ変わっていくのかを撮影した定点写真です。
巨大なクレーンは新しいビルの大きさを予感させました。
完成したビルは今三宮の代表的な建物になっています。
今でもせやねんけどもできるだけ邪魔にならんように当時もせやねんでへばりつくような感じで写真撮ってたんや。
それでもあかんかった。
みんなね「お前こんなん撮っておもろいのか」とか「何すんねんこんなとこで写真撮って」。
異様に見えるよね。
こんな記念写真みたいなカメラでこんなかぶってやったら。
被災地で記念写真撮ってるみたいなおっさんに見えたみたいで。
「こっちへ来て手伝わんかい」。
「米か金でも持ってこい」。
被災者たちの罵声を浴びながらも熊谷さんは粘り強くシャッターを押し続けました。
正確な記録を残す事の意味を確信していたからです。
(シャッター音)全壊していた阪神電鉄西灘駅は僅か半年で開通しました。
(シャッター音)初め復旧まで3年以上かかると見られていた阪神高速。
1年9か月で完成しました。
防音壁ですっかり形が変わっています。
熊谷さんは神戸の復興を見続けたいという強い思いで定点撮影を続けました。
それで分かった事はこの間も言ったけども大通りとか大きいとこはやるけどもそういう一般住宅個人住宅かな。
そういう所がなかなか復興しなかったりとかその明暗っていうのかな。
光と影の部分。
60か所撮って光の部分と影の部分がはっきりこの写真に並べた時に出てきたね。
ものすごい60か所の定点というのは何か意味があったと僕は思ってるけどね。
震災で最も大きな被害が出た地区の一つです。
今も町の至る所にがれきの山が見られます。
熊谷さんが定点撮影している60か所のポイントの中で最も復興が遅れている所です。
地震の直後の火災で御菅地区一帯4万5,000平米が焼失しました。
554棟あった家屋のうち520棟が全焼し108人の死者が出ました。
それから4年がたった今もさら地が目立っています。
家を建てる資金のない高齢者が多く住んでいた事や復興計画について神戸市と地元住民との話し合いがまとまっていない事が原因です。
ここで熊谷さんは忘れられない光景に出会いました。
亡くなった方と家族の方が多分焼死された方やと思うんですね。
目の前で遠巻きにしか見なかったけども亡くなった方の遺骨だと思うんですね。
家族で遺骨をこう拾ってる。
それはやっぱり…。
よう写さんかったわ。
震災って怖い恐ろしいもんですわホントに。
何かこうしてじっと立っとったらねやっぱりあの時の事思い出すんですよ。
今はこんな町になってるけど僕はあの時の事をいまだにずっと頭の中にあるんですよね。
衝撃的な光景を目にした御菅地区を熊谷さんが大型カメラで撮った写真です。
遺骨を拾っていたあの家族をはじめ震災前ここに住んでいた人々がどう生活を再建していくのか。
熊谷さんはそれを見届ける事にしました。
4か月後がれきの山は整地されました。
9か月後家が建ち始め人々の生活が戻ってきました。
震災1年後雪が降り被災者には冷たい冬でした。
そして今もさら地が目立っています。
東大阪市にある熊谷さんの自宅。
熊谷さんはここから2時間もかけて2年間200日以上も神戸にバイクを走らせました。
夢中で始めた1年目。
復興を確かめようと定点撮影に励んだ2年目。
そして3年目を迎えた時。
(熊谷)定点が3年ぐらいやってきた訳ね。
もう大体僕の中でこの様子がどうなるかってのが見えてきた訳ね。
ここにも建つものは建ったしさら地になるものはさら地になったと。
心の中で僕もゆとり出てきたけそれまでは「ここさら地になんか。
どうなんのやろ」とか「ここにどんな建物が建つやろか」とか「この状況はどうなんねや」とか言うて1年目2年目そればっかり考えてた訳やね。
次はどうやってといろんな情報聞いてたりとかやってたけども3年もやってたら「あっここはこんなもんが出来た。
あっここはいつまでたってもさら地や」と。
住宅地の定点撮影。
写真の中でいつまでも埋まらないさら地があります。
こうしたさら地を見ていくうちに熊谷さんは写真の撮り方を変えようと決めました。
ここにおった人たちはこのさら地の人たちは今どうしてるのかなという事に考えが変わってきた訳やね。
そうかここの人たちはあの仮設住宅におるんやと。
そういった人たちは今生活ぶりどんな事やってんのかな。
それできめ細かく全部撮ってどういう生活ぶりをしてたかという事をやっぱり撮りたかってずっと続けてんねんけどね今もね。
震災から3年目熊谷さんの姿が仮設住宅に見られるようになりました。
シミズさん夫妻。
膝には地震の時に助け出した犬のナナとハッピーを抱いています。
コヤマキヌエさん88歳。
手にしているのは木づち。
震災前からの靴の内職を今も続けています。
クリタノブオさん独り暮らしです。
ボランティアの若者からもらったポスターを大切にしています。
失業中のナベカワカズオさん。
避難所で使っていた炊飯器を今も大事にしています。
熊谷さんにラーメンをごちそうしてくれた横尾一郎さん。
新居に移ったらもう一度熊谷さんのカメラに収まる約束でした。
しかし横尾さんは市営住宅に移って間もなく亡くなりました。
写真には横尾さんが仮設住宅を出る時にもらった寄せ書きがはっきりと写っています。
公営住宅への住み替えが最も遅れている所です。
同じ頃ねずっと会ってきたら…。
この仮設住宅に住む…熊谷さんの撮影に早くから協力してくれました。
長尾さんは震災で妻と母親を亡くしました。
震災前ボランティアなどした事がなかったという長尾さんですが今仮設住宅でお年寄りたちの世話役をしています。
亡くなった妻と母親の供養になればという思いから始めました。
今長尾さんは朝晩2回30軒の家を一軒一軒訪問してお年寄りの安否を確かめています。
片づけたから。
もういっぱいあんた広げとったんや。
おばちゃんとこか?長尾さんがもうすごいお大事に力入れておかげで生きてます。
そう思ってますよ。
困った時は長尾さんに無理言いますからね。
ここ出たら別れるからどないしようかな…。
フフフフッ。
大丈夫大丈夫!まだ元気やから。
皆さんのおかげで頑張ります。
頑張って下さい!どうもありがとうございました。
風邪ひかんようにね。
はいどうも。
ご苦労さまです。
ありがとう!はいさよなら。
元気や。
なあ元気やな。
この仮設住宅ではこの4年間で38人の住民が亡くなっています。
ほとんどがお年寄りでした。
長尾さんが記録している亡くなった住民の名簿です。
(長尾)365日自分が倒れん限りは朝夕にして挨拶さしてもらうんやけどね。
僕はあの路地を曲がったらいつもだったら…しわだらけの笑顔を見る事ができた。
こっちへ来たらアル中のおっちゃんがおった。
こっちに来たらおしゃべりなおばあちゃんがおったっていう顔がもう何十も亡くなっとる訳でしょう。
ほやから隣の人は次は私の番でないんかと自分自身に言い聞かす訳やな。
あの人が亡くなったから年も変わらんし次は私の番でないか。
言い聞かすような生活でね。
自然と笑顔っていうのがないんやな。
線香の匂いが消えかけたなと思ったらまた違う所で線香が流れるでしょ。
その中で笑顔を持って歌を口ずさんで生きていこうなんていう事はとてもでないとできんわな。
だからこういう特殊な建物は一日も早う解消してあげないかん。
いい事したと思われへん。
震災が変えた仮設住宅での長尾さんの暮らし。
長尾さんは次の新しい生活が始まる時人生の新たなページを熊谷さんに撮ってもらいたいと願っています。
熊谷さんがこれまでに撮影した仮設住宅の住民は70人。
その中に熊谷さんが特に気にかけている一家があります。
3年前垂水区の仮設住宅で撮影をした三谷さん一家です。
地震のあとの厳しい生活の中でも温かな家族の絆を感じさせる写真です。
母親の三谷文子さん。
震災前から続けている新聞配達で家計をやりくりしています。
4年前震災に遭ったのも新聞配達の途中でした。
もう怖かったよ。
エレベーター乗るとこやったんだもん。
乗らなくてよかった。
三谷さん一家はおととしの1月に仮設住宅からこの市営住宅に移りました。
娘の祐生さん小学校6年生です。
ここに引っ越してきてから元気がなくなりました。
仮設住宅で目にしたいくつかの出来事お年寄りの孤独死や住民同士の争いそれが今になって娘の心に影を落とし始めたのではないか。
三谷さんはそう思っています。
自分の部屋に閉じ籠もりがちになりこれまで一日も休まなかった学校も三谷さんがなだめながら送り出す日が多くなりました。
行ってきます。
(文子)行ってらっしゃい。
三谷さんは去年自分も学校へ通う事にしました。
自分が頑張る姿を祐生さんに見せ元気になってもらおうと考えたのです。
三谷さんにとっておよそ40年ぶりの学校生活です。
30歳以上年の離れた若者たちに交じって慣れないパソコンや英語の授業ついていくのもやっとの思いですがこれまで一日も休まずに通ってきました。
そういうふうになる。
でもやっぱアオヤマ君の方がちょっとええな。
若さやなやっぱりな。
これだけはしゃあないな。
やっぱしゃあないねん。
これスピードがしゃあないねん。
それがもうカッキンコッキンになるわ。
三谷さんが高校に入学してから祐生さんの様子が変わり始めました。
母と娘の会話も少しずつ増えてきました。
期末テストがあんの。
なあ祐生。
数学は祐生に教えてもらう。
なっ。
でも今サインコサインちょっと分からん。
祐生も分からへんで。
サインコサインタンジェントなんか知らんやろ。
2年前仮設住宅で暮らしていた頃の写真。
この時まではまだ祐生さんには笑顔がありました。
この笑顔が戻ってきた時熊谷さんは再びシャッターを押すつもりです。
熊谷さんが大型カメラで撮り続けた写真は3万枚。
これからも一枚一枚の写真に神戸復興と人々の再生の物語が写し込まれていきます。
熊谷武二さんの撮影は5年目に入ります。
この記録ですけれどもどの辺りに注目されましたか?1つは新しいビルが建ってる横に大きなさら地が残っているという事ですよね。
それを我々は復興格差というんですけど家を建てられる人と建てられない人というものが非常にはっきり形になって見えてくるという…。
3年4年…。
数年そういう世界があったという事ですよね。
それが単に建物が建つ建たないではなくてそこに住んでいる人たちの心の中にいろんな影響を及ぼしてくるという事だと思うんですよね。
特に仮設に取り残された人から見ると焦りだとかあるいはいつになったら自分たちはちゃんと家が建てるんだろうかという思いが被災者自身を責めたてるようなところがありますよね。
写真家の熊谷さんが建物の撮影だけではなくて途中で人間を見る視点変えられましたよね。
とても大切なところなんですね。
家が建ってもあるいは仮設から出れて公営住宅に入ったとしてもそこに住んでる人が一体どういう今状況にあるのかという事を見ないと復興の全体図は見えないという事だと思うんですよね。
建物は表面的には復興したように見えるけどでも人の心の中の復興はまだ。
…という事だと思うんですね。
先ほどの映像の一番最後のご家族なんかは仮設にいる時は明るい笑顔だったのにむしろ新しい住宅に入った時に周りの人のいろんな事見る中で心が沈んでいくという話でしたよね。
まさにそういう意味で言うと単に建物が建つ建たないだけでは復興というのは図れない。
その中の人の心がどうなのかという事だと思うんですよね。
3年目というのは心の病というか苦しみというかそういうものがどんどんどんどん大きくなっていく時期だと思うんですね。
それは震災の直後というのは必死に頑張る訳です。
頑張る中でかすかな希望というものを感じながらいつかはきっと復興ができるんだという思いで努力をする訳ですけれども2年3年時間がたつにつれて疲れ果ててくるっていうか集中力が切れてくる訳ですよね。
そうした時に大きな穴が心の中に出来てしまう。
そこでガクッと来るという時期がある訳ですよね。
我々はそれを復興の2番底と言うんです。
被災の直後が…。
1番底。
それから頑張ってなんとか頑張ろうという事で仮設に入ってなんとか努力しようとする訳ですよね。
ところが努力したけれども努力は報われないというかだんだん先が見えなくなる。
やっぱりそこにかすかな希望が絶望に変わってきた時もう一度またド〜ンと心の中が沈んでしまう。
それを2番目の底っていう心理的な底があるという…。
それは今まさに3年4年の時が2番底という事。
そうですね。
この前も気仙沼のある仮設に寄らせて頂いた時にこういう話を聞いたんですね。
子どもさんが学校に行くと「お前のとこはまだ仮設にいるのか」と言われて「泣いて帰ってきた」って言うんですよ。
子どもが…切ないですね。
親の切なさの世界が子どもにまで及んでしまう訳ですよね。
それを聞いた親がやっぱりホントにつらくなって悲しくなると。
なんとか仮設出ないといけないというので無理やりその仮設を引き払ってその近くのちっちゃなアパートを探して引っ越したんだというお話を聞いたんですよね。
それなんかも1つの2番底だと思うんです。
次には立派な公営住宅が出来て入ろうと思ってたけれどもなかなかそれがうまくいかなくて…。
そういう意味で言うと出ていった人を羨ましいと思う気持ちが反面いつまでも仮設から出られない自分が情けないという気持ち反面でやっぱり心が沈んでいくという事が起きてると思うんですよね。
そういう意味ではなかなか被害といいましょうか災害の様子はホントに違っていまして一口にはなかなか教訓といいましょうか難しいかもしれないんですが…。
その住宅住まいだけではなくて暮らしの全体を見ないといけない。
そうすると生きがいがあるか仕事があるかあるいはコミュニティーの支えがあるかそういうものも見ていかないといけない事だと思うんですね。
そういう意味では仕事という意味で若干東日本大震災と重なる部分もあるかもしれないんですが北海道南西沖地震ですね。
奥尻島大きな津波で被害が起きました。
そこにも室さん随分通ってらっしゃるんですね。
そうですね。
奥尻も震災のあとからいろんなつながりがあって復興計画の相談にも乗った事があります。
そのあともずっと見てきているんですね。
その奥尻の場合もまさにそうで最初の3年はみんな住まいの再建というところに全力投球をする訳ですよね。
でも住まいが出来た時にポッカリ心に穴が開く。
それが一体何だろうかというとやっぱりもう一度海に出たいというような気持ちがみんな込み上げてくる訳ですよね。
そこで漁業の再興というか再建というふうに取り組まれる訳なので少し奥尻の復興を見ててもその地域経済の再建だとかあるいは生きがい仕事の復活だとかの大切さを我々教えられたと思うんですね。
それではその番組1996年地震の発生から3年後の様子を記録しました「にっぽん点描よみがえる島〜奥尻島、大津波から3年〜」。
10分ほどご覧下さい。
北海道奥尻島の夏の神事です。
漁の最盛期を迎える頃島の人たちは豊漁と海の安全を願って神に祈りをささげます。
日本海に浮かぶ奥尻島。
人口4,300人の漁業と観光の島です。
3年前の7月12日午後10時17分。
突如マグニチュード7.8の地震が発生。
その5分後高さ10mを超える大津波が島を襲いました。
(サイレン)海辺の町は大津波で流され辛うじて残った家も火災で焼けました。
地震と津波による死者行方不明者は奥尻島全体で198人に上りました。
島の姿は以前と大きく変わりました。
津波が襲った浜には総延長13kmにわたって防潮堤が築かれました。
防潮堤の高さは最高11mに達します。
その防潮堤の内側には新しい住宅街が建設されました。
津波で家が流されたあとに地盤を3m以上高くして造られました。
島の南端にいまだに家が一軒もない場所があります。
大津波の直撃を受けた…津波のあと住宅が建てられない地区に指定されました。
三方を海で囲まれ漁師たちでにぎわったこの土地にはかつて75世帯212人の暮らしがありました。
しかし今は地肌をむき出しにしたまま放置されています。
津波から町を守るために築かれた総延長13kmの防潮堤。
この防潮堤が町からの眺めをすっかり変えました。
ミウラ君がかつて住んでいた青苗5区は目の前に海の景色が広がっていました。
せっかくの海が見えない。
こんだけ高くしねくたってもいいと思うけどね。
もうちょい低くてもいいと思う。
こんな大きい津波来るんだべか?すごい変わってしまったよね。
住む家を失った人たちが暮らしてきた仮設住宅です。
人々はここで全国から寄せられた救援物資や義援金に助けられて生活してきました。
しかしこの仮設住宅に住めるのは役場の復興計画に基づきこの8月までとなっています。
最後までここで暮らしてきた人たちも新しい住宅に引っ越しを始めました。
島の高台では役場の復興計画に基づいて新しい町づくりが始まっています。
役場が整備した区画のあちこちで住宅建設が進められています。
区画整理して建てられた家々と広い道路。
その間には小さな公園も配置されています。
役場は島の人たちがこの町で暮らせるように家の新築費用の一部を負担する事にしました。
島に残るかどうか悩んでいた人たちのほとんどがこれで島に残る決心をしたといいます。
大津波から3年修復された港は久しぶりに活気を取り戻しつつあります。
復旧工事が終わりに近づき工事現場で働いていた漁師たちが港に帰ってきたのです。
島の漁師たちにとって夏は最も水揚げが多い季節です。
カレイヒラメイカツブ。
そして今年漁師たちが特に期待しているのはこれまで禁漁になっていたウニとアワビ漁の再開です。
奥尻島のウニとアワビは3年前の津波によって壊滅的な打撃を受けました。
それ以来禁漁を続けて回復を待ってきました。
調査の結果ウニは大きさも数も元の水準まで回復している事が分かりました。
一方アワビの回復は遅れています。
数が少ないばかりか大きさもまだ十分ではありません。
このままアワビ漁を再開すると取り尽くしてしまうおそれがあります。
結局今年もアワビは禁漁となりました。
アワビ漁の再開を期待していた漁師たちが組合の説明を聞くために集まりました。
組合はアワビを禁漁とする代わりにウニ漁を全面的に解禁。
しかも漁期を以前より延長するという案を示しました。
これからの奥尻の漁業者の生産増大という事を考えればやはりもう3年が過ぎたんでアワビなりウニなりというものを復活させなければ駄目だろう。
こんな事で実はアワビの操業という事も考えました。
なぜ今年はアワビを中止せざるをえなかったのか。
いろいろ検討すればもう一年我慢せざるをえないのかなと。
じゃああと一年もう一年ひとつ我慢してウニをそういう事であれば早めてそしてウニでアワビの生産の補完をしようと。
なんぼある時でもさみんな入った時でもさ5cm以下であれば話になんねえものとるものねぐなったらばちゃっこいものでもとってこないばなんねえべさ。
それはだから今言うように任してもらいたい。
したどもサイズのいいものを…。
組合員からはウニの漁期を延ばせば育ちきっていない小さなウニまでとられて貴重な資源が失われてしまうという発言がありました。
またウニ漁の開始時間を早くし過ぎるとほかの漁と重なってしまうので時間を調整してほしいという意見も出ました。
奥尻の海で再び漁に生活を懸けようとする漁師たちの白熱した議論が続きました。
津波で失われた資源が元どおりに回復するのに3年の歳月は短すぎました。
しかし厳しい現実を乗り越えて奥尻島の漁師たちは漁業の再興に乗り出そうとしています。
漁業産業の復興という意味ではどのようにご覧になりました?この奥尻の場合はやはり漁業と観光業しか生きていく道がないんですよね。
ですからそういう意味で言うと最初から漁業の復活をするという目標がはっきりしていたという事もあるのでやはり島を挙げて漁業の再建に取り組まれて私が思うのはかなりスピードを高めて復興を成し遂げられたと思うんですよ。
その決め手はどの辺りだったと思われますか?私はまさに被災者がしっかり議論をしたという事だと思うんですね。
一人一人がいろいろ意見を言って町づくりや漁業について意見を言ってそこからいろんな知恵が出てきて将来のビジョンというのがどんどん膨らんできた。
そのビジョンが膨らんで今の奥尻というのは確かに人口は減っているんですけどそれまでの人口の減り方ではなくてむしろ復興を進める事によって人口の減少率が止まっている。
若い人たちもどんどん島に戻ってくるようになった。
それはどういう事なんでしょう?例えば復興の在り方としてまず防災っていう事を考えますけれども。
復興というのは安全だけではない。
我々安全だけで生きている訳ではないんですよ。
安全というのは必要条件なので絶対必要なものだけど十分条件ではないんですよね。
安全だけでは暮らしていけない。
まさにそこに仕事があり生きがいがありあるいは人と人とのつながりがあり夢があり毎日毎日が充実している暮らしがあって初めて復興といえるという事だと思うんですよね。
そうすると防災だけ考えてたらいけないんだという。
そういう意味で言うと防潮堤について若者がこんな防潮堤がホントに要ったのかなと実感されていましたよね。
防潮堤が出来た事によって海が見えなくなる見えなくなると観光客が減るという問題が生まれてきてしまった訳です。
そうすると防潮堤が絶対要らないという訳ではないんですけれど造り方なりいろいろ工夫をすればよかったのではないか。
そうすると観光業という事と安全性という事を両立させる答えはないのだろうかというそこを知恵を絞ってもっと考えるべきだったという事を若者なんかもこの前お会いした時も言われてた訳ですよね。
奥尻の場合には防災という事とともに暮らしという事をベースにして復興を続けてきた。
だから今の姿があると考えていいですか?そうですね。
奥尻の場合非常に重要な事は…奥尻島にワイン工場が出来たんです。
もう数年になると思うんですよ。
とてもおいしいワインです。
それは奥尻の風土がブドウを作るのに適しているという事もあるんですけどそれを企画したのが若い経営者なんですよ。
若い経営者がブドウ畑をベースにしたワイナリーを造ろうと。
それはどういう事かというと奥尻の島に仕事を増やしてみんながここで暮らしていけるようにそこでブドウを作るという事とワインを作って販売するというそういう中で雇用も増やすし奥尻の誇りというんですかね奥尻ブランド奥尻のワインというものを広げていくという島としての一つの…気持ちを一つにできるようなそういう場所を作ったという事だと思います。
そういう意味ではホントに東日本の被災地の皆さんも学ぶべきところが奥尻にはありますね。
東日本の場合もさまざまな豊かな資源当然とてもきれいな海があってとてもおいしい魚が取れる所もありますし少し内陸に入ると豊かなお米が取れるしおいしいイチゴが取れるしいろんな果物桃が取れるとかそういうものもありますよね。
更に言うとその中にいろんなお祭りがあったりとか歴史ですよね歴史が残っていたりとかしてとてもいい資源がたくさんあってすばらしい所だと思う。
その資源を生かしながらやっぱり地域の再生を図っていくようなところをもっとしっかり考えていかないといけないと思うんですよね。
続きましては平成16年の新潟県中越地震の旧山古志村の復興の記録を見ていきたいと思うんですがこの山古志については注目する点というとどの辺りになりますか?復興には人と人とのつながりも必要なんですけれどもそれと同時に歴史とか伝統とのつながりというのはとても大切だという事を是非この放送から見て頂ければありがたいなと思います。
それではご覧頂きましょう。
地震から3年を経た2007年に放送されました「新日本紀行ふたたび闘牛が帰ってきた」からご覧下さい。
新潟県の中部人口28万の長岡市です。
旧山古志村で600年続いてきたといわれる闘牛。
3年前の新潟県中越地震で山古志は壊滅的な被害を受け住民は避難生活を強いられる事になりました。
以来年に7回ほどある闘牛は長岡市郊外にあるこの場所で開かれてきました。
山古志の闘牛のまとめ役松井治二さんです。
伝統を守るため仮設の会場を作り闘牛を続けてきました。
道路の整備などが進み住民の避難も解除され闘牛もようやく山古志に戻る事になりました。
(掛け声)この仮設会場での闘牛はこの日が最後です。
私ども頑張って…3年近くここで皆さん方の声援の中でお世話になりました。
これからここ山古志に帰りまた皆さん方の恩に報いるように頑張っていきたいと思いますから今後とも皆さん方のご支援本当にお願いします。
今日は本当にありがとうございました。
(拍手)
(一同)ありがとうございました。
山古志での闘牛の開催はおよそ10日後の8月15日です。
どうもありがとうございました。
平成16年10月23日新潟県中越地方を襲ったマグニチュード6.8の地震。
山古志ではおよそ600棟が全壊し至る所で大きな地滑りが発生しました。
松井さんたちが暮らす木篭地区は最も深刻な被害を受けた場所の一つでした。
土砂崩れによって川がせき止められ地区にあった多くの家屋が水没してしまったのです。
地震から3年8割以上の住民が山古志に帰り棚田や畑も昔ながらの姿を取り戻しつつあります。
山沿いの畑でナスやキュウリなど夏野菜の収穫が始まっていました。
きれいだね〜。
山古志の人々は仮設住宅に暮らしていた時も毎日1時間かけて山に通い畑を耕してきました。
今は多くの人が家に帰り以前と変わらない暮らしが戻ろうとしています。
その一方で300人近くが今も仮設住宅で生活しています。
松井さんも妻のキミさんと共にここで暮らしています。
住んでいた地区が水没し新しく造成した場所に移転する事になりましたがまだ家は出来ていません。
ごつい顔した…。
この日山古志での闘牛に牛を出場させる親戚が訪ねてきました。
久しぶりにふるさとで開かれる闘牛に向けて話を弾ませます。
今回お前の牛もどうなるやろうね。
いや〜どうだろ?
(キミ)でも今年は調子ええもんな。
牛の調子は。
どうだか。
松井さんたちは闘牛を開く事が山古志での暮らしを取り戻す大きな一歩になると考えています。
これからその厳しさをやって…地元の農家の人たちが集まって始まった山古志の闘牛。
松井さんは闘牛場の整備や大会の運営など裏方の仕事を一手に引き受けてきました。
ほかの人の牛を預かり世話もしてきました。
松井さんにとって闘牛は自らの全てを懸けてきたものなのです。
地震の1か月後松井さん夫婦が一時帰宅した時の映像です。
まだ水に沈んでいない場所を訪ねました。
松井さんたちは山の上にあった牛舎へと向かいました。
(キミ)ああ…。
(キミ)ごめんなさい。
ごめんなさい。
潰れた牛舎の下で数頭の牛が冷たくなっていました。
避難所がある長岡に戻ろうとした時です。
(キミ)あ〜!偉い偉い!ほら!お〜い!おいでおいで!お〜い!元気だった?山を出る前に放しておいた牛が生きていました。
でも元気な牛の姿を見て…。
みんなで頑張ります。
ね!山古志の人たちはヘリコプターをチャーターし山に残っていた牛を助け出しました。
みんなで手分けして山へ放していた牛を一頭一頭集めコンテナに乗せて運んだのです。
長岡市郊外に建てられた仮設の牛舎です。
助け出された闘牛はここに集められました。
山古志の人たち全てが避難生活を強いられる中ここにいる40頭の牛の世話は松井さんのところで一手に引き受ける事になりました。
松井さんの次男の富栄さんです。
仮設住宅から毎日ここに通い牛の世話をしています。
富栄さんは大学卒業後青森にある食品関係の会社に就職しました。
しかし地震で深刻な被害を受けたふるさとの人々の姿を目にして帰ってくる事にしたのです。
皆さん大変な思いをしてる中やっぱりこっちに帰ってきて何かできればななんて思って帰ってきました。
地震によって深刻な被害を受け一時全ての住民が避難した山古志。
今人々はその痛手から立ち直り昔からの暮らしを取り戻そうとしています。
松井さんたちが暮らしていた木篭地区では土砂で埋もれた墓を3年掛かりで掘り出しました。
傷つきバラバラになっていた墓石を元に戻しお盆を迎えようとしています。
この日はお墓に向かってお経を唱え魂を戻す開眼戻しが行われました。
土砂に埋もれていた墓石が再び先祖をまつるお墓としてよみがえるのです。
(鈴の音)
(読経)しかし全てのお墓が元に戻った訳ではありません。
まだ土に埋もれているものや誰のものか分からなくなったものが数多くあります。
(読経)毎年来られるし…
(取材者)長かったですか?ええそうですね。
闘牛大会当日。
早朝6時から準備作業が始まりました。
山古志の会場では幟やテントなどの設営作業が進められていました。
作業するのは地元の人や県内各地や東京などから来たボランティアです。
午前10時開場とともにお客さんが入ってきました。
地元の人たちだけでなく県外からの観光客も多くやって来ました。
この日の気温は33度。
むせ返るような暑さの中800人もの観衆が詰めかけました。
牛と人々の安全を祈願し会場に酒と塩がまかれます。
いよいよ3年ぶりの山古志の闘牛が始まりました。
(掛け声)松井さんも親子で対戦を見守ります。
山古志の闘牛は神にささげる神事であるため勝敗ははっきりとつけません。
どちらかが優勢になったところで勢子たちが牛を引き離します。
闘いで興奮した牛は引き離されると暴れるため危険が伴います。
闘牛の見どころの一つです。
(拍手)右が関脇照重。
左が大横綱の孫兵エ。
(掛け声)
(掛け声)照重が押し孫兵エが受けて立つ。
一進一退の攻防です。
今度は孫兵エが押し照重が受ける。
なかなか両者譲りません。
(掛け声)
(掛け声)勢子が止めに入りました。
勝負は時間切れ引き分けといったところ。
照重大横綱に対して善戦です。
闘牛は無事に終わりました。
家を奪われ住み慣れた場所を離れて暮らさなければならなかった3年間。
闘牛への思いが松井さんたちを支えてきました。
600年続いてきたという闘牛。
一度は山古志を離れましたが今ようやく帰ってきました。
地震によって失われた山の暮らしがよみがえろうとしています。
伝統行事というのはホントに大きな復興の力になるんですね。
復興では地域社会が一つになるという事がとても大切だと思うんですよね。
地域社会が一つになるために地域が今まで持ってきた歴史とか文化とか伝統が大きな役割を果たしてくれるという事だと思うんですね。
お祭りがあるとみんなが集まってくる。
それが地域の誇りであったりまさによりどころであったり心の支えであったりする。
そこでもう一度地域の人のつながりを再確認できる場所だと思うんですね。
山古志では住宅の復興がまだ十分進んでいないのに…。
その前に。
闘牛から復興した。
だからそれほど闘牛というのは大切だという。
そういうものっていうのは東北にもたくさんある訳ですよ。
獅子舞もありますし神楽っていうのもありますしね。
それから…。
相馬の野馬追なんかも…。
相馬の野馬追なんかすばらしい文化がある訳でしょ。
相馬の野馬追なんかにはいっぱい人が戻ってくる。
やっぱりそういう人をつなぐあるいは人を引き戻す力はとても大切で東北にはそういうすばらしいお祭りが残っている。
お祭りの周りにはコミュニティー人のつながりがちゃんとある訳ですよね。
だからそういうものを大切にしていけばまた東北も復活というか復興していけるんではないかと思いますよね。
僕は東北のあのすばらしい資源自然産業そういうものをやはり日本の我々にとってもとても大切なものだと。
まさに社会全体の問題として東北の復興を考えていかないといけないだろうと思うんですね。
私は今までも神戸の復興だけではなくて世界中のいろんな復興の取り組みを見てきたんですが結論から言うと復興で失敗した事例はないんです。
時間はかかります。
それから大きな困難も伴います。
でも最後には被災者の力をベースにして必ず復興は成し遂げられている。
歴史はそういうものだと思う。
ですから東北も今とても大きな壁にぶち当たっている部分がありますけれどもそれを粘り強くしっかり取り組んでいけば必ずそれは乗り越えられてその先には復興というものが輝かしい未来として表れてくるんではないかと思っていますので先ほどの神戸の例奥尻の例山古志の例からも学ぶところが多いと思いますが東北は東北の一つの新しいモデルとして是非復興を実現して頂ければありがたいなと思っています。
それを今3年たって改めて考えてみる時に来ているという…。
3年目というのはまさにそういう意味でもう一度少し全体を見渡してこれから進むべき道を再確認すると。
そういう時期だと思うんですね。
今日は室益輝さんと共にお伝え致しました。
どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
2014/03/16(日) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「震災3年 過去からのメッセージ〜神戸・奥尻・山古志〜」[字]
東日本大震災から3年。阪神淡路大震災からの復興では、復興格差や被災者の心の痛みなどの問題が顕著になった時期だ。過去の震災から今後の復興はどうあるべきかを考える。
詳細情報
番組内容
【ゲスト】神戸大学名誉教授…室崎益輝,【キャスター】桜井洋子
出演者
【ゲスト】神戸大学名誉教授…室崎益輝,【キャスター】桜井洋子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
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