環太平洋パートナーシップ協定の交渉が進む中米どころ山形では農家の間に危機感が広がっています。
頑張ろう!
(一同)お〜!ここ山形県でも後継者不足から耕作を放棄した水田いわゆる耕作放棄地が増えています。
国は後継者を育成する新たな政策を打ち出しました。
しかしその説明会で農家には戸惑いが広がっています。
そんな中山形県高畠町では都市の消費者と直接提携した有機農業で独自の道を切り開いてきました。
高畠町で有機農業が始まったのは41年前の昭和48年です。
そこに至る道のりは苦難の連続でした。
戦後農業機械や化学肥料の普及が急速に進み農家は農業の将来に大きな希望を抱いていました。
かつての重労働からも解放されてゆきます。
しかし農薬による健康被害など近代化には負の側面もありました。
農業近代化の弊害を身をもって体験した高畠の若者たちは昭和40年代化学肥料や農薬に頼らない有機農業に取り組み始めました。
都市の消費者も農作業の応援に駆けつけ全国に先駆けた産直が始まりました。
しかし昭和60年代有機農業を揺さぶる出来事が起きます。
空中散布をやめてほしいと無農薬米を購入している各地の消費者たちが駆けつけました。
若者たちは新たな有機農業の拠点をつくり空中散布を食い止めてゆきます。
堆肥や栽培法などに工夫を重ね高品質の米作りを追求しました。
日本の戦後を地方から見つめるシリーズ「日本人は何をめざしてきたのか」。
第8回は日本一おいしい米作りを目指した山形県高畠町の歩みです。
奥羽山脈の麓山形県高畠町。
人口2万5,000米や果物の栽培が盛んな町です。
有機農業の里として知られる…昔ながらの稲の天日干しが今も行われています。
杭掛け作業をしているのは星寛治さん78歳。
腰が据わらないとなかなか…。
高畠で最も早く有機農業に取り組み指導者として活動してきました。
昭和10年生まれの星さん。
9歳の時敗戦を迎えました。
戦後日本の農村で大変革が起きます。
GHQ連合国軍総司令部による農地改革です。
地主制度が廃止され多くの自作農が生まれました。
当時都会に暮らす人々は食糧難で飢えに苦しんでいました。
米の増産は緊急の課題でした。
食糧不足を克服するにはそれまでの農地では足りない。
政府は大がかりな政策を打ち出します。
森林や原野を切り開く…星さんと共に有機農業に取り組んできた…小学生のころから家の農作業を手伝ってきました。
戦後間もなく高畠を撮影した写真です。
米作りは過酷な重労働でした。
田植えも腰を折ってはうようにしての作業でした。
体が半分沈んでしまう泥沼のような田んぼもありました。
昭和30年代に入ると日本は鉄鋼石油化学など工業化が進みます。
経済成長率が年平均10%を超える高度経済成長の幕開けです。
都市住民の所得が農家を上回り農家の所得の向上が課題となってゆきます。
昭和36年国は農業の近代化と規模拡大を図る農業基本法を制定します。
(拍手)多額の補助金が投じられ農地の改良が進められました。
それまでの小さな面積の農地を広げる事業が全国で進められてゆきました。
これは土地改良事業以前の高畠とその周辺です。
曲がりくねった小さな田んぼでした。
土地改良事業で四角く整然とした広い田んぼに生まれ変わりました。
農機具メーカーは次々に新しい農業機械を売り出してゆきました。
耕うん機トラクター田植え機。
農家は新しい時代を実感していました。
二宮隆一さん64歳。
高校を卒業して農家の後を継いだのは昭和43年農業基本法制定から7年後の事でした。
既にかつての手作業による農作業は姿を消していました。
更に農業近代化で化学肥料や農薬が普及し米の増産が飛躍的に進みました。
一方村の若者たちの集団就職が始まります。
高度経済成長は都会の労働力不足を生みました。
農家の次男三男や娘たちが中学を卒業すると村を後にして都会で就職するようになったのです。
村に残った人たちも農閑期の冬都会へ出稼ぎに行く人が増えてゆきます。
農機具や肥料などを購入するために今まで以上に現金収入を必要とするようになったのです。
稲作の他にリンゴやブドウを栽培している中川信行さん73歳。
農業基本法制定の昭和36年高校を卒業して農家を継ぎその冬東京へ出稼ぎに行きました。
当時高畠町から出稼ぎに行く人は年間900人を超えていたのです。
出稼ぎをしていた若者たちに衝撃を与えた詩がありました。
「村の女は眠れない」。
福島の農民詩人草野比佐男がつづった詩です。
「村の女は眠れないどんなに腕をのばしても夫に届かないどんなに乳房が熱くみのっても夫に示せないどんなに腰を悶えさせても夫は応えない夫が遠い飯場にいる女は眠れない女の夫たちよ帰ってこいそれぞれの飯場を棄ててまっしぐら眠れない女を眠らすために帰ってこい」。
高校卒業後3年連続で出稼ぎをした二宮隆一さんもこの詩に大きな衝撃を受けました。
当時二宮さんや中川さんたち高畠の若者たちは熱心に青年団活動をしていました。
若者たちは政治や社会問題にも目を向けつつ自分たちの生き方を模索していたのです。
高畠の青年団は「出稼ぎ拒否宣言」を出します。
「俺は出稼ぎやめたゾ」。
出稼ぎをやめた若者たちは今までにも増して米作りに励みました。
渡部務さんもその一人です。
化学肥料を駆使し収量が多い品種を選んだ渡部さん。
1俵でも多く収穫する事を目指しました。
ところが昭和45年1970年国はそれまでの米の増産から180度反対の政策を打ち出します。
「米を作るな」。
減反政策です。
減反が始まった昭和45年の秋実りを迎えた田んぼで農家の人たちがまるで雑草のように稲を刈り取る姿が全国で始まりました。
実った米を廃棄する青田刈りです。
昭和42年米の生産量はピークを迎えます。
一方米の消費量はそれより4年前の昭和38年を境に既に減少に転じていました。
米不足から米余りの時代へと大きく変貌していったのです。
その大きな背景に食の洋風化がありました。
戦後の食糧難の時代アメリカは自国の余剰小麦を日本に食糧援助しました。
小麦は学校給食にも使われ子供たちはパン食に慣れ親しんでいったのです。
当時米は政府が全量買い取っていました。
昭和17年に始まった…主食である米を市場原理に任せず安定した価格で国民に供給するための制度でした。
しかし米の消費量が減り始め政府は大量の在庫を抱えるようになりました。
このまま余剰米が増え続ければ食糧管理制度が崩れると国は減反を始めます。
政策を大きく転換させたのです。
渡部さんは米作りの他に新たな活路を見いだそうとします。
国が農業基本法の下進める大規模な畜産です。
一家の1年間の収入に相当する借金をして牛舎を建てました。
しかし5年後のオイルショックで畜産は大きな壁にぶつかります。
生産向上に貢献した農薬もやがて深刻な問題を引き起こします。
当時使われていた殺虫剤の一つ現在では使用が禁止されている毒性の強い有機燐剤でした。
神経系を侵される中毒症状が各地で問題になりました。
星寛治さんは若いころ体が丈夫でなかった事もあって農薬で頻繁に体調を崩したといいます。
減反オイルショック農薬の健康被害…。
高畠の若者たちは将来を見いだせずに苦悩していました。
そんな中日本有機農業研究会を結成した一楽照雄と出会います。
一楽は訴えていました。
近代農業を「健康を忘れ地力を忘れた農業」と批判し有機農業の普及に努めていました。
その主張に高畠の若者たちは共感し昭和48年渡部さんや星さんたち38人の若者が高畠町有機農業研究会を設立しました。
有機農業では農薬や化学肥料を一切使いません。
とりわけ除草剤を使わない米作りでは夏の炎天下1か月以上除草を続けなければなりません。
農業近代化で解放された過酷な重労働に逆戻りするかのような農法でした。
出稼ぎ拒否をした二宮さんも参加しました。
ここで41年前無農薬での米作りに挑戦しました。
最初の2年間で高畠町有機農業研究会の会員は半分近くに減りました。
有機農業を始めて3年目の昭和51年東北地方は大冷害に襲われました。
夏になっても気温が上がらず実らない稲が各地で大発生したのです。
無農薬で育てた稲は化学肥料で育てた稲に比べて根が太く長く育っていました。
堆肥を十分に施すと微生物が活発に活動して土の温度が上がり冷害に打ち勝ったのです。
研究会設立から2年目の秋作家有吉佐和子が高畠を訪れます。
環境汚染問題を取り上げた「複合汚染」の取材でした。
「『土が死んでるってたとえばどういう事ですか』私が高畠町の青年に訊いたところこのとんでもない素人に分らせるにはどう説明したらいいかとみんな悩んだらしいのだがやがて一人が子供に話してきかすように方言のままで喋り出した。
『たとえばよ分りやすく言えばミミズのいねえ土の事だな。
硫安かければよミミズは即死すっから。
ミミズがいねえとよ土が堅くなってどうにもなんねえす』」。
「複合汚染」はベストセラーとなり高畠町有機農業研究会の知名度は高まってゆきました。
高畠の無農薬米は食の安全を求める消費者の関心を集めました。
都会の消費者たちが高畠を訪れて渡部さんたちに直接無農薬米を購入したいと申し出ます。
しかし農家だけでは生産に限りがありました。
そこで田植えや草取りなどの重労働を消費者たちに手伝ってもらうようになりました。
援農の始まりです。
渡部さんの家には年間100人もの人が訪れるようになってゆきます。
自宅に泊まってもらいさまざまな交流が生まれました。
・「鬼のパンツ」・「はこうはこう鬼のパンツ」・「あなたも私もおじいさんもおばあさんも」・「みんなではこう鬼のパンツ」
(拍手)高畠に新しい風が吹き始めました。
首都圏の2つのグループから始まった産直は昭和60年代には48団体に広がっていきます。
昭和44年には国の管理を通さない自主流通米の制度が始まっていました。
この制度を利用して無農薬米の価格を農家と消費者が話し合って決める独自の提携が生まれていったのです。
軌道に乗り始めた有機農業でしたが10年ほどたったころ大きな壁にぶつかりました。
ヘリコプターによる農薬の空中散布が広がり始めたのです。
空中散布は人手をかけずに広い範囲に効率よくまく事ができます。
高畠でも多くの農家が頼るようになってゆきました。
しかし地上での散布に比べてその濃度は30倍以上になります。
動植物への悪影響が出始めていました。
空からの散布は住宅地のそばにまで及びました。
畑の野菜にも被害が及びました。
当時空中散布を受け入れる田んぼには白旗望まない田んぼには赤旗を立てて操縦士に散布する場所を示しました。
しかし空中散布を受け入れる田んぼと受け入れない田んぼは隣接しているため赤旗を立てても農薬が飛散してしまいます。
心配した消費者たちが全国から駆けつけてきました。
ここが国道13号線なんですがこの辺一帯が先ほど申し上げました約300町あるわけでして。
消費者たちから不安の声が相次ぎます。
福島市の消費者グループの代表境野米子さんです。
何とか空中散布を減らしていけないか。
研究会のメンバーたちは動きました。
最初に空中散布を進めている高畠町農業協同組合に中止してほしいと要望書を提出しました。
当時農協で空中散布担当だった…当時空中散布を実施していない地区では農家が共同で重いホースを担いで地上散布をしていました。
しかし兼業農家や高齢者は重いホースを担いでの農薬散布が負担になっていたのです。
萩原耕重さん58歳。
当時有機農業研究会のメンバーでした。
しかし空中散布に頼らざるをえない大多数の農家の実情にも心を痛めていました。
空中散布にどう向き合うのか?研究会は発足以来の最大の危機に直面しました。
「環境汚染の原因は空中散布だけではない。
それだけを目の敵にしても地域の理解は得られない」と萩原さんは発言しました。
当時星さんと激しく対立した萩原さんです。
星さんが暮らす上和田地区です。
ここにはまだ空中散布が行われていませんでした。
なんとかこの地区だけでも空中散布を防ぐ事はできないか星さんはある提案を行います。
星さんの提案は1回だけ除草剤の使用を認めるという減農薬の米作りでした。
有機農業に参加する農家の裾野を広げていこうとしたのです。
こうして昭和61年冬減農薬の米作りを推進する…参加したのは73戸。
組合設立によって上和田地区への空中散布は阻止する事ができました。
組合にはこの地域で専業農家として生きていきたいと願う20代の後継者が多く参加しました。
当時28歳の遠藤五一さん。
農家の一人息子でしたが東北電力から入社の誘いを受け気持ちは揺らいでいました。
結局遠藤さんは専業農家として生きる道を選びました。
10年前無農薬米作りに挫折した二宮隆一さんも参加しました。
二宮さんはそれまで近代農法に取り組んできましたが限界に突き当たっていたのです。
基盤整備が遅れた上和田地区では昔ながらの曲がりくねった小さな田んぼが数多く残っていました。
大型機械による近代農法には適していなかったのです。
里山の自然に抱かれた…山から流れ出すミネラル豊富な水でおいしい米が育ちます。
里山の自然を生かして安全でおいしい付加価値の高い米作りを目指したのです。
独自の有機質肥料も開発しました。
会員の田んぼは全てこの肥料によって土壌を改良していきました。
頻繁に技術研修も行いました。
組合員全員が統一した栽培方法で稲を育て品質にばらつきが出ないようにしたのです。
「上和田有機米」としてブランド化を目指していきます。
日本一おいしい米を目指して遠藤さんたちは飽くなき探求を続けました。
発芽前の種もみを水につける浸水についても条件を変えて実験を繰り返しました。
冷たい雪解け水に20日間つける事でこれまでより丈夫な苗に育つ事が分かりました。
堆肥は微生物によって発酵し60℃もの熱を発します。
牛のふんともみ殻を混ぜ合わせて作る有機質に富んだ独自の堆肥です。
遠藤さんはこの堆肥を秋にまき半年間寝かせて豊かな土壌をつくり出してきました。
米のおいしさを競う「全国米食味分析鑑定コンクール」。
上和田有機米生産組合は平成14年から出品しています。
米のおいしさの指標である香りや粘りなどを「米のソムリエ」と呼ばれる鑑定士たちが審査します。
遠藤さんはこのコンクールで4年連続金賞を受賞しました。
評判は全国に広まり上和田有機米生産組合の米は通常の3倍の価格で取り引きされています。
日本一おいしい有機米としてブランド化に成功した高畠。
しかし農家の後継者不足がここでも深刻になってきています。
担い手がいない耕作放棄地が広がっているのです。
特に基盤整備が遅れた上和田地区などで放棄地が増えています。
遠藤五一さんたち高畠町の農業委員が実態調査を続けています。
耕作放棄地を引き受ける担い手はいないのか。
町では5年前から対策に取り組んできましたがなかなか成果は上がりません。
今高畠町で耕作放棄地は農地の5%に及んでいます。
農家の後継者不足を既に30年前に予測しその対策に乗り出した地区があります。
平野部にある小其塚地区です。
その中心となったのが…23歳で農家の後を継いだ山口さん。
近所の農家から「米作りをやめたいから代わりに田んぼを耕してほしい」と頼まれたといいます。
山口さんは自分が暮らす小其塚地区の将来を予測したいと地区の農家にアンケートを行いました。
その結果は予想をはるかに超えていました。
集落の32戸の農家のうち「後継者がいない」と答えた農家は27戸全体の85%近くもあったのです。
このアンケートに答えた…そして息子の…父親の栄さんは息子に後を継いでほしいとは思いませんでした。
父親が農協から言われるままに購入した農業機械の借金に苦しんでいたといいます。
農家が米作りをやめていく一番の原因は米の値段が安い事にあります。
特に平成7年1995年食糧管理制度が廃止されてからは米価は市場原理に左右されるようになり今では40年前の米の値段よりも安くなってしまいました。
山口さんは当初耕作を頼まれた田んぼを個人で請け負っていました。
しかし依頼者が増え1人では請け負いきれなくなっていきました。
会社組織なら小其塚地区全体の農地を請け負う事ができるはずだ。
そう考えた山口さんは友人の専業農家と一緒に株式会社を立ち上げたのです。
「ファームおそのづか」です。
株式会社ファームおそのづかを設立して農業をやめていく人の田んぼを請け負う事にした山口さんと友人の市川さん。
しかしそれを実現するためには大きな課題がありました。
それぞれの農家の田んぼはあちこちに分散していました。
しかも小さな田んぼばかりで作業効率が悪かったのです。
「効率的な作業ができるようにみんなの田んぼをまとめて広くしたい」。
集落の農家と時間をかけて話し合いました。
更にデータを集め将来像を描きました。
みんなが納得するまで6年間という時間をかけました。
集落全体が合意したあと土地改良事業を始めます。
工事は5年もの歳月を要しました。
土地の所有権は分散していましたが将来性があるとみんなが納得し農地の再配分が行われました。
6枚から13枚の小さな田んぼを1枚にまとめたのです。
1枚の田んぼを1ヘクタールに広げる事で25%のコストダウンを実現しました。
小其塚地区64ヘクタールの農地のうち2/3の40ヘクタールをファームおそのづかが請け負っています。
山口さんは土づくりも大切にしています。
全ての田んぼに堆肥をまきその半分で減農薬米を作っています。
高畠の有機農業の伝統を受け継いだのです。
ファームおそのづかの正社員は4人。
ふだんの農作業は土地を貸している元農家の人たちを時給で雇って手伝ってもらっています。
その多くは農業経験豊富な地元の主婦たちです。
住民が一丸となった農業経営が全国に先駆けて動きだしました。
11月末小其塚地区の人たちが収穫が終わった事を祝いました。
今ファームおそのづかに米作りを委託している元農家は28人です。
(歌声)米作りを株式会社に任せても地域の農業は守っていきたい。
村で生まれ育った人たちの思いです。
耕作放棄地の増加そして後継者不足。
この問題は高畠だけでなく全国の農村に広がっています。
国も2年前新たな政策を打ち出しました。
若い農業後継者を支援し担い手のない農地を集積していこうというのです。
新たな政策の説明会が高畠の各地区で開かれています。
「人・農地プラン」です。
地域で話し合い将来に向けたプランをまとめるよう求めています。
実現すれば国からの補助金が支給されます。
結局この地区には将来の担い手が現れずこのプランに参加できませんでした。
今グローバル化の荒波が日本の農業を直撃しようとしています。
TPP環太平洋パートナーシップ協定への参加です。
去年11月山形県では1,700人が参加したTPP反対大集会が行われました。
頑張ろう!
(一同)お〜!頑張ろう!
(一同)お〜!頑張ろう!
(一同)お〜!10月には40年間続いてきた米の減反の廃止を政府は打ち出しました。
補助金による保護政策を見直し競争を促そうというのです。
株式会社を立ち上げ効率的な稲作を進めてきた山口さん。
消費者にとって手ごろな価格でおいしい米を販売する努力を続けてきました。
しかし減反廃止となれば米価が更に下落しそれも行き詰まるのではないかと危惧しています。
上和田有機米生産組合も今悩みを抱えています。
有機農業が全国で広まり産地間競争が激しくなっているのです。
去年遠藤五一さんの長男優一さんが会社を辞めて後継ぎになりました。
しかし喜んでばかりはいられません。
息子の将来を考えると20年30年先が心配です。
遠藤さんたち上和田有機米生産組合ではTPP参加をにらんで中国への輸出へと動きました。
中国の富裕層に完全無農薬米を5kg1万円ほどで販売を始めました。
40年前に始まった高畠の有機農業。
都市の消費者との提携は今も続いています。
経済効率だけに左右されない自立する農業を目指して独自の道を歩んできた星寛治さん。
戦後幾多の苦難に直面しながらも高畠の農民たちは日本の米作りを守り続けてきました。
それは地域の人々のつながりや里山が育む村の姿を次の世代に伝えようとする試みでもありました。
今その歩みは大きな岐路に立たされています。
2014/02/01(土) 00:45〜02:15
NHKEテレ1大阪
戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 第8回「山形 高畠」[字][再]
有機農業の米作りで独自の道を歩んだ山形県高畠町。農薬の健康被害に直面した青年たちは有機農業で日本一おいしい米作りをめざした。曲がり角にたつ日本の農業を見つめる。
詳細情報
番組内容
有機農業の米作りを中心に独自の道を歩んできた山形県高畠町。米増産から減反へ、変転する農政のなかで、農薬の健康被害に直面した青年たちは有機農業へと進んだ。その活動は有吉佐和子の「複合汚染」で紹介され、安全な食を求める消費者との産直提携へと発展した。その後、農薬の空中散布をめぐって町を二分した議論を乗り越え、いま、日本一おいしい米作りで知られている。曲がり角にたつ日本の農業を高畠から見つめる。
出演者
【語り】加賀美幸子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
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