その事件が起きたのはフィレンツェに近いプラートという中世から続く古い街でした。
逃げる中年男と逃げる若い女。
歳の差は30歳。
それは許されない恋でした。
画家であり修道士でもあった男は修道院から尼僧を連れ出し逃亡したのです。
すなわち…。
まさに大事件でした。
通常なら宗教裁判にかけられ破門どころでは済まされないスキャンダルです。
男はルネサンス初期の画家です。
このルネサンス最大のスキャンダルがやがて一枚の傑作を生み出すことになるのです。
それが今日の一枚。
もしかしたらこの絵から始まったかもしれないのです。
本当のルネサンスが。
フィレンツェにあるルネサンス芸術の殿堂その2階の第8室に今日の一枚があります。
縦93cm横62cm。
ポプラの板に描かれたテンペラ画です。
レオナルド・ダ・ヴィンチもミケランジェロもまだ登場していない時代の聖母子像です。
不思議な背景です。
窓辺なのかそれとも額縁の絵なのか。
壮大な自然の風景が描かれています。
その前で手を合わせ祈りを捧げる聖母マリア。
あどけなさの残る面差しに優美さと憂いの入り交じった繊細な表情をしています。
わんぱく小僧のような天使が2人幼子イエスを担ぎ上げています。
丸々と太った赤ちゃんですね。
母の胸に抱かれようとむっちりした腕を伸ばしています。
どこかユーモラスな顔は妙に大人びた目のせいでしょうか。
みごとなのはリッピの筆遣いです。
深い色合いの衣装の柔らかなドレープ。
フワリとなびく薄衣のベールの軽やかさ。
清楚にまとめられた髪と髪飾りの優しさ。
光を集めて放つ宝石の輝き。
その真下で祈りを捧げる無垢な瞳の静寂。
リッピは誰も見たことのなかった優美な聖母子像を描き上げたのです。
リッピの聖母は清純な美しさや優美さに溢れていながら同時に人間的です。
この絵は後世にさまざまな影響を与えた重要な分岐点となった傑作です。
レオナルド・ダ・ヴィンチも強い影響を受けています。
フィリッポ・リッピとはいかなる画家だったのか。
この聖母子像の何がすごいのか。
そのあたりを彼らに探ってもらいましょうか。
いよいよあと3か月ちょっとでワールドカップ!だとすると当然レオナルド・ダ・ヴィンチはトップ下で決まりだな。
ミケランジェロはゴールキーパー。
その守りの固さ大理石の如し。
なんちゃって!あとはラファエロをそうだな俺だったらここかな?マテラッティ何をしている?うん?あっアントネッリ警部。
イタリア代表の画家のベストイレブンで悩んでまして…。
それでカラヴァッジョの右サイドってやっぱレッドカードもらいそうですよね。
マテラッティそんなことより事件よ。
大事件よ。
警部容疑者は誰ですか?リッピよ監督のフィリッポ・リッピよ。
はぁ?あらゆる名画が画家のダイイングメッセージならばその謎を解くのが絵画警察。
マテラッティこの絵よ。
におうでしょ。
なんて優しい甘い香りだ!何言ってんの?犯罪のにおいがプンプンよ。
え?この聖母子像がですか?このマリアのモデルになった女性はいったい誰なのか?そこのあなた答えなさい。
この絵のモデルはリッピと駆け落ちをした修道女でのちに彼との子供までもうけた女性です。
名前はルクレツィア・ブーティ。
神に仕えていたはずの彼女は犯してはいけない一線を越えてしまったのよ。
さあこれは大変なことになってきたわ。
戒律を破った画家と尼僧がこの絵を生み出したというのか!そうこの絵にはフィレンツェ・ルネサンス誕生にまつわる驚愕のドラマが隠されていたのです。
フィリッポ・リッピが彼女と出会った瞬間新しい絵画の世界が動きはじめるのです。
その鍵を握るのはこの顔か?それともこの顔か?ルネサンスの都フィレンツェの街で今日の主人公フィリッポ・リッピが活躍したのはレオナルド・ダ・ヴィンチもミケランジェロもまだ登場しない15世紀初めのことです。
リッピはパトロンだったフィレンツェの最高権力者コジモ・メディチも手を焼くほどの破天荒な画僧でした。
では何が人々を魅了したのか?リッピは誰も見たことのない美をつくりあげたのです。
あるスキャンダルとともに。
フィレンツェ市内に今もリッピの生家が残されています。
フィリッポ・リッピは1406年頃精肉店を営む家に生まれましたが生後まもなく母を失い2歳のときに父を失い幼くして孤児になりました。
リッピを引き取ったのは生家の裏手にあったサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂の修道院です。
ルネサンスの画家たちを記録したヴァザーリはリッピについてこう記しています。
やがて画僧となったリッピの才能は周囲を驚かせるほど飛びぬけていました。
20代の頃の壁画です。
彫刻のような立体的な表現。
視線が交錯する多彩な顔の表情。
自らを投影したような少年たちの生き生きとした姿。
リッピはフィレンツェを代表する画家として頭角を現していくのです。
当時彼のライバルともいえる画家がいました。
同じ画僧のフラ・アンジェリコです。
アンジェリコは高潔な人柄で聖者のように生きた文字どおり天使のような画僧でした。
ヴァザーリはフラ・アンジェリコについてこう言っているわ。
修道僧の間でも怒ったためしがなくキリストの磔刑図を描くときには涙が頬をぬらさないことはなかったと。
まさに聖人だ!でリッピは?彼は大変な女たらしで気に入った女性を見かけるとその女をものにするためには自分の財産をすべてつぎ込んでしまうほどだった。
なんて男だ!俺みたいじゃないか!ハッ!2人は同じ主題を描いてもまったく違ったのよ。
黄金の光の中で昇天したマリアが我が子イエス・キリストから冠を授けられています。
周囲に集まるのはどこか人形を思わせる天使の合唱団や聖人たちの姿。
ではリッピの『聖母戴冠』は?天上の世界から地上の世界に来たようです。
おしゃべりさえ聞こえてきそうな活気ある光景。
人物一人ひとりのリアルな存在感。
世俗のにおいが画面の中に漂っています。
しかも自分の姿を絵の中に描きこんでいるの。
えっ!?どこに?頬杖ついてこちらを見ているこの修道士よ。
な…なんたる自己顕示欲!こんな暴挙リッピが初めてなのかもしれないの。
しかも宗教画にだ!私たちはリッピについてもっと知る必要があるわね。
聞き込みですね!絵画警察!おじゃまします。
ちょっと教えてもらいたいの。
フラ・アンジェリコの聖母は理想の姿です。
神秘的で超然としており人間的ではありません。
反対にリッピの聖母は優美であると同時にどこか悲しみを帯びています。
いずれ我が子が犠牲になることを知っている母親の顔なのです。
今日の一枚に描かれた聖母マリアです。
生きているような迫真の描写。
白い肌すっと通った鼻筋紅色の唇。
強調されているのは女性の美しさです。
リッピはまったく違うマリア像を作り上げたのです。
ではどうやって?フィレンツェから北西に15キロ。
プラートは中世から続く古い街です。
この街の大聖堂にリッピ最大の作品があります。
礼拝堂の主祭室の巨大な壁に描かれているのは聖人ステファノと洗礼者ヨハネの生涯を描いたフレスコ画です。
リッピは13年の歳月をかけてこの大作を描き上げています。
ところがそのさなかあるスキャンダルを起こしてしまうのです。
プラートに滞在中リッピは聖マルゲリータ女子修道院の司祭に就任しています。
そこでひとりの女性と出会ったのです。
ルクレツィア・ブーティ。
二十歳にも満たない尼僧との運命の出会いでした。
50歳のリッピが恋におちたのよ。
修道院の司祭と修道女。
許されない危険な恋だ。
だからこそ燃え上がる。
ついに2人は!リッピは修道院からルクレツィアを連れ出し逃亡してしまうのです。
司祭と尼僧の許されぬ恋です。
捕まれば死罪という命がけの逃避行でした。
このときルクレツィアは妊娠していたと言われている。
なんてこった!あ〜フィリッポ!世間から逃れるようにルクレツィアと暮らし始めたリッピは今日の一枚『聖母子と二天使』を描くのです。
依頼主がいたのか自らのために描いたのか定かなことはわかっていません。
ルクレツィアをモデルに描いた聖母マリアです。
最新の流行の衣装を身にまとっています。
優雅な髪飾り。
技巧を凝らした薄いベールの繊細な表現。
一心に祈る聖母の表情は憂いと喜びの入り交じる複雑なニュアンスが滲んでいます。
2人の天使に担ぎ上げられた幼子イエスが妙に大人びた目で母を見つめています。
禁断の恋の情熱がこの一枚を生み出したのです。
リッピはルクレツィアをモデルに多くの女性像を描きました。
若い頃のリッピの女性像は現実的ではありませんでした。
ルクレツィアとの出会いによってより現実的な描写へと大きく変わるのです。
惚れ込んだ女性だったからこんなに美しいマリアを描けたのか。
警部これで謎が解けましたね。
マテラッティ巡査本当にそう思ってるの?どういうこと?スキャンダルというわかりやすい物語にリッピの本当のすごさがかき消されてしまっているのよ。
例えばマリアはどこに座っているの?えっ?あ…。
そうマリアが座っている場所は椅子なのか木の枠の上なのかどうもよくわからないのです。
どうしてこのような描き方をしたのか。
それが問題。
ヒントはこの素描。
ウフィツィ美術館に貴重な資料が残されていました。
今日の一枚『聖母子と二天使』の素描です。
フィリッポ・リッピはデッサンの天才でした。
人体の造形への深い理解と卓越した輪郭線。
ハイライトが当たる部分は緻密な法則のように白く塗られています。
これが本画になると不思議な背景が加わるのです。
まるで騙し絵のような構図なのです。
どうしてなのか?背景に描かれているのは絵の中の絵なのかそれとも風景なのか?聖母マリアは凝った装飾のあるひじかけ椅子に座っているはずです。
ところが上半身は木の枠の中に入り込んでいます。
顔が隠れた奥の天使はどこに立っているのかわかりません。
背景にはまるで天上から見たような風景のパノラマが広がっています。
リッピはどうしてこの背景を描いたのか?それまで宗教画の背景は天上の世界を示す金箔が一般的でした。
リッピが風景を描いたのは社会の変化に敏感だったからでしょう。
これにはレオナルド・ダ・ヴィンチも強い影響を受けています。
リッピはここでも先駆者だったのです。
リッピは聖母マリアが額縁から浮き上がるような構図を作ることで神々の世界から我々の世界に聖母子を引き寄せたのかもしれません。
なるほどね。
でも何か違和感を覚えない?えっどこにですか?イエスの顔よこの目よ!ああなんとなくおやじ臭いですよね。
これがリッピの自画像だとしたらどう?うわっまさかまさか!?リッピの母親は彼を産んだときに亡くなってる。
確かに!リッピにとって母親は未だ見ぬ永遠の女性なのよ。
だとしたらすべての美しい女は永遠の女性だった!?この絵はもしかしたら恋の情熱と母を求めるリッピの叫びかもしれないのよ。
マンマミーア!この情熱こそが人間復興ルネサンスじゃないの?ああルネサンス!尽きることのない情熱で恋をした画家が命を懸けて一緒になった女性です。
その喜びがこの聖母を描き上げたのです。
あどけなさの残る横顔には生きた人間の繊細な感情が滲んでいます。
幼子イエスは肩に手を伸ばし美しき母の胸に抱かれようとしています。
フィリッポ・リッピが神の世界から人間の世界に母と子の肖像を取り戻したとき新しい絵画の時代が始まったのです。
最大のパトロンで芸術に造詣の深いコジモ・メディチはこんな言葉を残しています。
ヴァザーリの伝記で描かれる破天荒なイメージがあまりに強かったためリッピの芸術面への研究はいまだに十分とは言えません。
しかし彼こそ真に革命的な画家だったのです。
警部質問!スキャンダルを起こしたリッピは教会で裁かれなかったんですか?コジモ・メディチがローマ教皇に働きかけて不問に付されたのよ。
さすがメディチ家だ。
でそのあとどうなったんですか?63歳くらいで突然死んでしまうのよ。
女性問題がこじれて毒殺されたって噂があるわ。
最後まで男だったんだなぁ。
でもね晩年リッピの工房に一人の少年が入ってくるの。
えっ誰ですか?サンドロ・ボッティチェッリよ。
リッピの技術と精神はすべて彼に受け継がれていったの。
フィレンツェに春が来た!ってことかな。
もしこの一枚からルネサンスが始まったとしたら恋の情熱がその原点だったのです。
触れれば体温が感じられるような白い柔肌を愛でるように撫でるように描いたとき新しい時代が始まったのです。
フィリッポ・リッピ作『聖母子と二天使』。
ルネサンスの夜明けに。
2014/03/01(土) 22:00〜22:30
テレビ大阪1
美の巨人たち フィリッポ・リッピ『聖母子と二天使』[字]
毎回一つの作品にスポットを当て、そこに秘められたドラマや謎を探る美術エンターテインメント番組。今日の一枚は、フィリッポ・リッピ作『聖母子と二天使』。
詳細情報
番組内容
今日の一枚はフィリッポ・リッピ作『聖母子と二天使』。縦93cm、横62cm。ポプラの板に描かれたテンペラ画、後世に様々な影響を与え重要な分岐点となった傑作です。あどけなさが残った聖母マリア、対して二人の天使に担がれた幼子イエスは妙に大人びています。実はリッピの許されぬ恋と情熱がこの作品を生み出したのです。しかしマリアが座っている場所は椅子?木枠の上?なぜこのような描き方をしたのでしょう。ヒントは素描に…。
ナレーター
小林薫
音楽
<オープニング・テーマ曲>
「The Beauty of The Earth」
作曲:陳光榮(チャン・クォン・ウィン)
唄:ジョエル・タン
<エンディング・テーマ曲>
「終わらない旅」
西村由紀江
ホームページ
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趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
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