言葉を扱う人物が言ったことです。
「病気ならブログもFacebookもやめろ」と。
言葉を発信するな、と。
そして、「俺を友達と思うなら、ブログもFacebookもやめろ」と。
この人との繋がりは切りました。
当然です。
それでも、タイトルの言葉「病気の者は言葉を発するな」は、
私にだけでなく、あらゆる悩みを抱えた人に対するものであり、
看過できるものではないと思っています。
看過するわけがない。
実際、自らに異変を感じて病院に行く人でも多く、自覚のあるなしの曖昧さゆえに
病院に行かない人も含めて、どれだけの人たちが多くの悩み、
苦痛を抱いているかは簡単に想像がつく。
冒頭の言葉など「血の通った人間ならば」、到底言えない。
でも、血の通った人間であっても言うという現実。。。
しかも、言葉を扱う、少なくとも人の感情や感覚に触れ、それを職業とする人物が言うことに驚く。
同時に、なんと情けない人間がいるものか、と呆れました。
それを言う権利は誰にもない。
悩みを持ち、深く傷ついた人たちがかつて多くの文学作品なり、芸術作品も生み出した事実。
吐露することで救われるならば、発信することは必要なことのひとつであると思う。
苦しみは吐露していい。身近な人にでもいいから。
自らを救うためならば、言葉にはまだ力があると信じてほしい。
そして、人に頼るでもなく、まずは「自ら立つこと」。
私はこのことが最も重要だと確信しています。
言葉を発するならば、誹謗中傷や酷い言葉よりも苦しみ抜いた上の自らの言葉で語れ。
言葉を発するならば、人の痛みを想像した上で語れ。
悲惨なことに、彼にはきっと永遠にわからないでしょう。
彼からの「○○の幸せを祈っています」の言葉は何も響かなかった。
これを読んだ者の中で悪意に満ちたままならば、
いつまでも誹謗中傷と酷い言葉を吐き続ける人生でしょう。
ふと、何かに気づいたり、優しい言葉をまだ記憶しているなら、
自ら立ち、苦しむ人のそばに寄り添うような言葉を発してほしい。
言葉は人に寄り添うものでありたい。
Joaillerie