留年した年、親からの仕送りがストップしたため、1年間日雇いのアルバイトをした。
残す単位は2単位だけなので、学校に行く必要はほとんどなかった。
夕方6時から翌朝8時まで、自宅付近にあった運送会社の集配所で、荷物(ダンボール)の仕分けをする仕事だった。
アルバイトに集まるのは合計7人くらい。顔ぶれは毎日ほとんど同じ。
学生や見知らぬおじさんが来ることもあったが、二日以上勤務する人は本当にまれだった。
たまに続けて出勤する人もいたが、数週間くらいで来なくなってしまい、またもとのメンツに戻る。
学生では一人もいなかった。
勤務時間が長いし、ずっとダンボールを移動しつづけるのは本当に辛いし、常連メンバーの雰囲気も独特だった。
夕方に倉庫に到着すると、倉庫の片側半分くらいが、うず高く積まれたダンボールで埋まっている。もう片側には運送トラック用の搬入・搬出口が8カ所ほどある。
僕たちアルバイトの仕事は、ダンボールに貼り付けられた伝票を見て配送先を確認し、それに応じたトラックの搬出入口までダンボールを運ぶことだった。
この作業が、夕方から翌朝までひたすら続く。休憩時間は1時間。
たしかアルバイト求人票には「倉庫内軽作業」とあった気がする。
日給は1万円だった。
軽作業といっても、これはフォークリフトなどの重機を使わない作業ということで、人力でやる分には重くて仕方がない。
とくに古着が詰め込まれたダンボール、それから木枠に収められた小型エンジンは、手首が抜けるほど重かった。
朝方になると、その他の社員が出勤してきて、小さなフォークリフトを器用に運転し、人間の手では運べないような荷物を整理する。
そうこうするうちに運送トラックがやってきて、ドライバーたちが僕たちの仕分けた荷物をトラックの中に積み込み、各地域に向かって発車していく。
アルバイトが終わったら、近くの吉野屋に入り、牛丼を二杯食べ、その足で銭湯に行き、自宅に帰るなり泥のように寝るという毎日を繰り返した。
銭湯に行き、風呂桶にとった水を身体にかけると、真っ黒になった水が排水孔に流れていった。
最初はびっくりしたが、どうやらフォークリフトがはき出した真っ黒な粉塵が、身体中の体毛に張り付いているようだった。
鼻の穴に指をつっこむと、指先が真っ黒になるので分かった。
常連のアルバイトメンバーは、自分を除いて全員住む家がないようだった。
といってもこれは仲良く話してくれた人から聞いたことで、直接本人に確認したわけではない。
日給が1万円あればアパートを借りれると思うのだが、そういうことを聞ける雰囲気ではなかった。
どこで寝泊まりしているのか聞いてみると、大抵はクルマの中らしかった。
グチらしいものをこぼしているのは聞いたことがなかった。
そういう人が話すのは「自分は昔はこうではなかった」だとか「自分は昔上場企業に勤めていた」など、言い訳じみたことばかりだった。
たまに来る学生は「キツイ」「ツライ」と思ったことをそのまま言って、そのまま来なくなった。
常連メンバーが自分のことを話そうとしないのは、美意識というよりは、言っても仕方がないという感情からきていたのだと思う。
そこに踏みとどまるために、そうせざるを得なかったのだと思う。
それが奇妙に居心地がよかった。
人に対する優しさでは決してないのだが、そう錯覚してしまうようなところがあった。
半年ほど経ってようやく打ちとけたおじさんとだけたまに会話した。
それが経営が手詰まりになり、奥さん子供と離れて、今は独り身とのことだった。
一時期は羽振りがよかったらしいが「今はこんなや」と言って笑って見せる。
このあたり、他のメンバーとは明らかに違っていて、それが自分に話しかけてくれた理由なのだろう。
この元社長から「化粧の濃い女の人は、お願いすればやらせてくれる」と教えてもらった。
「本気でお願いすればいける。一度ではだめ。そこであきらめず、タイミングを見計らってお願いしつづけろ。そしたら三回目くらいでやらせてくれる」らしい。
そうしたら「ここが社会の底辺だ。ここでの仕事を続けることができたのだから、どこに行ってもがんばれるはずだ」と太鼓判を押してもらった。
いい思い出になった。
でも、この時の経験以上につらいことがなかったかと言えばそうでもない気がする。会社勤めのほうが辛いことの方が多い気がする。
今でも自分がなぜそのアルバイトを続けることができたのか、はっきりと説明できない。
なんとも言えない居心地のよさがあったのはたしかだが、それだけが理由かと言われるとそうでもない気がする。
そういう仕事をする素養があるのかもしれないがよく分からない。
今から15年くらい前の話。あの頃のことを今でもたまに思い出す。
別にたいした内容の話ではないけど、あまり人には言わないようにしていた。
今回はじめて書いてみた。
あの人たちは今どうしているのだろう。