日本に住んでいる唯一のマスター・オブ・ワイン取得者だったネッド・グッドウィン氏が、最近日本を去って故郷であるオーストラリアに帰りました。なぜ彼は日本を去ったのか、香港誌への寄稿に思いの丈を綴っています(The Galapagos Problem | Prestige Hong Kong、同じものがジャンシス・ロビンソンのサイトでも公開されています、Why Japan has lost its MW)。

そこには日本のワイン業界に対する閉塞感がにじみ出ています。日本のワイン関係者は、これを重く受け止めるべきではないかと思います。僕のような素人が偉そうなことを言ってもうしわけありませんが、ワインは楽しむもの、それが一番大事なことだと思うのです。

しかし、せっかくの彼の文章も英語のままでは、日本で知られないままであろうと思い、ネッド・グッドウィン氏の許可を得て翻訳することにしました。語学力不足により、意味不明になってしまったところも多々ありますが、氏の気持ちは伝わるのではないかと期待します(誤訳などについては修正しますのでご指摘ください)。また、これを拡散いただけたら幸いです。

ガラパゴス化の問題 2014年3月6日
日本には、ほとんど11年間住んでいました。この国はいろいろな意味で私にとってはいい国でした。そうでなければここまで長く住んでいなかったでしょう。交換留学生として15歳のときに福井県の田舎にきた思い出のときが、このような地球上で最も外に対して閉じていて、奇妙な場所に住む土台を築きました。しかし、そろそろ引き払うときが来たようです、少なくともしばらくの間は。

福島の原子力発電所の大事故とその余波によって、同僚や友達が帰って行きました。私にとって、さらに悪いことは日本が再び右傾化していることです。安部総理とその縁故からの悪臭が漂っています。教師は過去の軍国主義の風味がある国歌を歌うことを拒否して首になっています。秘密保護法は施行され、ほかにも日本を再び「誇りある国」に戻そうという力がここかしこで起こっています、それがどういう意味であろうとも。教科書は官僚主義に振り回され、歴史をなかったものであるかのようにシュレッダーにかけています。これはワインには関係ありませんが、ワインを楽しむことや家族とその生活に影響を及ぼしているのは確かです。

日本に住んでいる間、私はワインのバイヤーや教育者としてプライベートなコレクターやロックスター、大使館、航空会社などをコンサルティングする機会を得てきました。しかし、2010年に日本で唯一のマスター・オブ・ワインになって以来、増えた仕事の多くは海外から来たものでした。このこともあって、私はワイン界の多くのことが日本では気付かれなかったり単純に無視されたりしていることに気が付きました。もちろん、日本には独自の固有なトレンドがあります。日本人はそれを日本の「独自性」として感じています。この言葉は安部総理の下で文化的に同質な国際通貨を振り払おうという試みで新たな牽引力を持つ(訳注:ここのところ、意味がよくわかりません)ようになっており、また過去への言及を減らし、現在を容認するものとして使われています。結局のところ、もし日本人が独自のテイストを持つのであれば、歴史と現状についての独自な展望もあるのでしょう。


独自性の幻想は危険です。それは心を閉ざし、エリート主義に陥ることの根幹です。ワインに携わる多くの日本人が素晴らしいサービスを提供し、細部にまで注意を払い、知識を得るために努力する一方で、そのような細部へのこだわりはワインの本質的な役割である喜びをもたらすもの、少なくとも私はそう思っています、を不明瞭にしてしまう危険があります。

日本のソムリエはワインのフォイルを使って見事な置物を作ったり、テロワールに熱狂したりします。しかしワインがおいしい飲み物や、会話の潤滑剤、記憶の化身として喜びをもたらすことを消費者に伝えるのには失敗しています。ワインは積極的に販売されることはなく、自らを奨励するものとして使われています。ワインはバッジや古臭いスーツや精巧なオーナメントとして自分の身を飾るものなのです。男性も、女性も、犬さえも、誰もがいわゆるソムリエです。しかしソムリエ資格を取った人の中で実際にワインの仕事をしている人はごく少数です。資格は、肩書が実際の価値や才能よりも重要な文化の中で、単に履歴書を飾るものなのです。さらに、評論家は議論や討論よりも調和を重んじる文化においては存在しないのです。

「クラシックな」とか「自然な」といった不明瞭な描写がワインのサークルでは交わされますが、何十年ものデフレや不況、知らないものへの恐れ、の後でワインは寵愛を受けることがなくなっています(訳注:ちょっと意味不明です)。そのような状況で価格は下がり、大幅なディスカウントが起こり、セールスパーソンは実際の価値があるワインを勧める能力がありません。結果としてリスクが避けられると思う地域からの安価で品質が低いワインが売られることになります。

例えば、安いボルドーはおそらく地球上のワインの中で最も魅力が薄いワインだと思うのですが、南ローヌやスペインのワイン、その他のもっとコスト・パフォーマンスが高いワインよりも多く売られています。結果として特定の異端を除いてはワインシーンは瀕死の状態です。30年にも渡って一人あたりのワイン消費は2リットル周辺をさまよっているのです。

ワインの喜びをもたらすものという潜在的な力は日本ではワイン業界で働く人によって否定されることがしばしばあります。グラスワインを飲んだお客さんに2杯めを勧めなかったり、空のグラスを埋めたりしないことは日本の「独自性」だと言われました。同じように最初のボトルを空けてしまったグループに次の1本を勧めなかったり、お客さんが選んだワインよりちょっとお金を出せばずっといい品質のワインが買えることを勧めなかったりするのも、同じような文化によるものです。

このことは技術やアイデアにおいて日本以外の国において消滅したり好まれなくなったものが、日本では流行ったりするのとよく似ています。このような単独性は日本では「ガラパゴス化」として知られています。ガラパゴス化は、日本で男女間の給料や役割に大きな隔たりがあること(女性は消費や生活の品質の牽引力であるのに)、ATMで海外のカードが使えないこと、ソムリエ組織が時代に逆行していること、そして日本のWebサイトデザインが多くの情報を与える一方でどうやってそれを使うのか直接的な説明がないこととも共通しています。JALのサイトがその一例ですが、ほかにもたくさんあります。

ガラパゴス化は社会学的かもしれませんし、政治的な基礎かもしれません。ワイン関係であろうとなかろうと有害なものです。ほかの場所で何が起こっているのかを知ることができず、無知や昔ながらの庶民と上流階級の意識に根ざす狭量さの証拠です。日本人は貧乏でもなければ教育を受けていないわけでもないことが、さらに苛立たしく感じます。これらの偏狭さは恐れから来たものです。無知への恐れ、海外のやり方への恐れ、外国語への恐れ、面目を失うことの恐れ。例えば、最近のANAの広告では海外の顧客が金髪のカツラとピノキオのような長い花を持っていました。しかし、最大の脅威は日本がやってきた方法と違う方法がよりよいかもしれないということなのでしょう。

実際、多くの日本人の流行仕掛け人は、世界のあらゆるところで起こっているワイン作りやスタイルや飲み方のトレンドを知りません。例えば家庭で飲む人の数が増えていることは、彼らにとって役立つ情報なのに、それを共有できません。さらに悪いことには彼らの多くは「クラシック」な地域以外のワインは捨て置く教義に依存しています。これらの教義はワインの階級を支えているのです。特に日本ソムリエ協会を。繰り返しますが、彼らはエリート主義に依っており無知に寄りかかり、コミュニケーションスキルは低いままです。ソムリエの教科書でボルドーとブルゴーニュにどれほどのページが割かれ、他の地域がほんのちょびっとしか載っていないことを見れば、それは一目瞭然です。

それでも、私は日本の多くの面が好きなのです。若いころの越前大野における経験と切っても切れない関係にあるのです。私は日本の一時滞在者ではあり続けます。根強い自己中心主義や必要なリスクを負わないといったことはあっても多くのレベルで社会的に発展しています。また生活するのに安全でまっとうなところなのです。このことには乾杯したいと思います。

しかし、私はワインが社会の進化の文脈で飲まれるときを楽しみに待ちたいのです。バブルの幻想やロスジェネ、地震の傷跡、長引く不況とつまらない仕事、そういったものが、確立した規範が取り敢えずは安全であっても将来は見当違いになっていくような人生の荒波にしがみつくことを強いられないような社会として現れるときを(訳注:すみません、意味不明です)。私はより高品質な生活への機会が育まれるような社会を待ちたいのです。よりよい都市設計や住居、レジャー、時間よりも才能がものをいうような適正な労働時間と給料、修正主義でない歴史、きれいな環境へのポリシー、ワインを飲むことの本能的で喜びのアプローチを。それはワインをステータスだったり、批判的に捉えるのではなく、目ではなく鼻や口で味わうことです。

結局のところ、ワインは美しいものであり、多くのカルチャーや気候からやってくるのです。人がその価値を認めるまで、ワインは飲まれるものであり楽しまれるものであるという単純な原則は、獲得が難しいのです。

(了)