3.29.2014


岸 政彦

第4回 物語の外から

戦争体験者の方の語りを聞いたことがある。

私の大学の学生たちが主体になって開くイベントが毎年あって、昨年度のテーマが、戦争体験を語り継ぐ、ということだった。戦争を体験された語り部の方を何人かお招きし、講演会を開催した。その講演会のあとは、壇上でそれぞれの思いを語ってもらうシンポジウムも開かれた。私は学生たちから、そのシンポの司会を依頼され、よろこんで引き受けた。会場にはたくさんの学生や教員たちが集まった。

イベントの当日、すこし早い時間に集まり、学生スタッフたちが語り部の方がたに私を引き合わせた。そのとき、短い時間だったが、語り部のひとりの男性とお話しした。かなりの高齢だったが、とてもお元気な方で、初対面の私に、控え室でお茶を飲みながら、本番の時間になるまで、たくさんのお話をしていただいた。





戦争末期、南洋の小さな島に配属され、米軍と闘ったが、部隊は玉砕し、奇跡的に生き残ったという。

戦場の様子が詳細に、まるで現場にいるかのように熱っぽく語られた。そして、話が、仲良くしていた戦友が米軍機の機銃掃射によって、目の前で亡くなった場面になると、その男性は涙を流した。かすれそうになる喉の奥から無理やり力ずくで言葉を押し出して、私にむかってなおも語り続けた。

本番の時間になり、その男性はつめかけた学生たちの前で、さきほど控え室で私に語ったのとまったく同じ語りを語りはじめた。

そして、話が戦友の死にさしかかったとき、男性はやはり、同じように涙を流し、力を振り絞って語り続けた。聴衆も引き込まれて聞いていた。

そのとき、最前列に座っていた会場係の学生のひとりがとつぜん、男性の目の前に、「あと20分」と大きく書かれたカンペを掲げた。

完全に話が途切れた。男性は目をむいて大きく驚き、小さなかすれ声で「もうそんなに時間が」とだけつぶやいた。それまで全身をつかって熱っぽく語っていた彼の語りは、そこで中断され、10秒か20秒か、かなり長い間、聴衆が静かに見守るなか、一言も出せなくなり、ただ狼狽して、黙り込んでしまった。

やがて男性は、すぐに語りの「軌道」を立て直すと、何もなかったかのように、それまで通りはっきりと大きな声で、迫力のある語りを続けた。

*  *  *

イベントが終わってから、その学生に、「あのタイミングで出したらあかんで」とだけ伝えた。真面目な学生なので、スケジュール通りすすまず、予定を大幅にオーバーしてもなお続く男性の語りに、やきもきしていたのだろう。

*  *  *

それにしても、その語り部の男性はもう何年も、各地の学校や地域の集会で、同じ話を何度も語っていて、そういう「現場」には慣れているはずだ。だから、時間が足りなくなったり、途中でカンペが差し込まれたりすることにも慣れているはずなのに、なぜあれほど驚き、混乱し、狼狽してしまったのだろう。講演の途中での10秒の沈黙は、とてもとても長いものだった。

控え室で私とふたりで語り合っていたとき、彼は、戦友の死の場面で、ほんとうに涙を流した。そして、その直後、本番の会場で、満員の聴衆にむかって、同じ語りの同じ場面で、また同じように涙を流していた。

おそらく彼は、毎日のように日本各地のそういった集会で同じ話をして、同じ場面で同じように涙を流しているのだろう。

そのとき、彼は何かを「語っている」のだろうか。むしろ、彼は語りにつき動かされ、語りそのものになって、語りが自らを語っているのではないだろうか。

*  *  *

神戸に「人と防災未来センター」という施設がある。阪神大震災の被害や復興についての資料館である。地震直後の街並みを実物大で再現したリアルな展示もある。

そこで、地元市民の語り部の語りを聞くことができる。毎年、ゼミの学生を連れて見学しているのだが、ある年に行ったときの語り部の女性の方は、近所の小さな子どもが亡くなる話をして、聞いている学生たちもみな泣いていた。

それはとても辛い話だったが、私は聞きながら、こういう話を何度も何度もくり返し人に伝えることそのものが、とても辛いことだと思った。

お話が終わってお礼を言うときに、体験したことだけでなく、その体験自体を繰り返し人に語るのは、しんどいことじゃないですか、とたずねた。

その女性はそう聞かれてむしろ戸惑っていたようだった。おそらく、自分自身がしんどいとか辛いとかいうことよりも、その話を世界に伝えることの大切さのほうが、はるかに大きかったのだろう。

*  *  *

ある強烈な体験をして、それを人に伝えようとするとき、私たちは、語りそのものになる。語りが私たちに乗り移り、自分自身を語らせる。私たちはそのとき、語りの乗り物や容れ物になっているのかもしれない。

物語というのは生きていて、切れば血が出る。語りをとつぜん中断されたあの男性の沈黙は、切られた物語の静かな悲鳴だった。

あるいは彼は、その一瞬のあいだで、1945年の南洋の小さな島と、2013年の大学のキャンパスとを往復したのだろう。その時間と空間の距離をほんの数十秒で飛び越えるあいだ、沈黙が彼を支配していたのだ。

だが、そうした強烈な物語と、私たちがふだん語ることとのあいだに、それほど大きな差があるわけではない。

さらに、自己をつくりあげ、自己の基盤となる物語は、たったひとつではない。そもそも自己というものはさまざまな物語の寄せ集めである。世界には、軽いものや重いもの、単純なものや複雑なものまで、たくさんの物語があり、私たちはそれらを組み合わせて「ひとつの」自己というものをつくりあげている。

*  *  *

以前、沖縄で、1972年の復帰前に、本土へ就職や進学のために移動し、のちにUターンした人びとに、その生活史の聞き取り調査をした。その記録は拙著『同化と他者化』(2013、ナカニシヤ出版)におさめられているが、そのなかに、ある女性による、次のような語りがある(206頁)。

たまにテレビとかね、なんかで、いま考えたらね、『オキナワの少年』って、芥川賞とった、『オキナワの少年』ってあったね、峰なんとか(東峰夫)、この人の(小説の)映画があったわけ。わざわざね、京都までね、友だちと見にいってから、(映画に出てくる)オバアとかね、沖縄訛りとかね、(米軍用機の)爆音とか、出るわけ。泣いてた、ずっと(笑)。もう、見れんかった、ずっと泣いてた、もう。もう沖縄に心が飛んでから。

映画、映画でしたよ。そうそう、『オキナワの少年』っていう映画があったわけ。友だちと行こう行こうってからね、いったらもう、もう気持ちは沖縄に通じてるわけ。この主人公と自分がダブるとか、もう、見れんかった、もうずっとずっと泣いてね。いるときはふつうだけどね、いったん離れたら、やっぱしね。故郷っていいものだとかね。

これを語った女性は、1952年に沖縄県内に生まれ、高校卒業と同時に本土の文具メーカーに就職し、働きながら短大にも通った。そして、1973年に帰郷している。この間の本土での暮らしについて聞いていて、上のような物語が語られたのである。

戦後、本土復帰前に、きわめて多くの沖縄の若者たちが、東京や大阪にあこがれ、本土に渡っていった。かれらはやがて、大半がUターンしていくのだが、その語りにしばしばあらわれるのが、こうした「ノスタルジックな語り」だ。

遠く離れた本土の街で、ふるさとの沖縄を思いつづける。東京や大阪での暮らしは楽しく、「第二の青春」と語る語り手も多かったが、それでもやはり、かれらはUターンしていった。

私ははじめ、この語りを、遠く離れた地でふるさとを懐かしむノスタルジックな語りとして、あるいは、本土へ移動することでより強められる「沖縄アイデンティティ」をあらわす語りとして聞いていた。

調査がおわり、音声データを書き起こしていて、私はこの映画のことを、記録にあたって調べてみた。東峰夫原作の『オキナワの少年』が映画化され上映されたのは1983年のことだった。だから、彼女がそれを、本土で暮らしているあいだに観たはずがない。

この映画の主人公は、復帰前に東京に集団就職した青年である。おそらく彼女は、あとになって沖縄へUターンしてから、本土で暮らしていたときの自分を懐かしく思い出しながら、この映画を観たのだろう。そしてそれが、さらに数十年経ったあとで本土で暮らしているときの自分を語るときに、そのまま重ねられてしまったのだろうか。

ここでは、自分が本土で暮らしていた物語と、この映画自体の物語、そしてこの映画を観たときの物語、そして、それをさらに時間が経ってから私に語るときの物語が、いくえにも複雑に重なっている。複数の時間がぶつかりあい、重なりあって、おたがい矛盾しながら、しかしそれでもなお、本土へ移動したあと沖縄へと帰還した「この私」のノスタルジックな物語が語られているのだ。

かけがえのない、世界にたったひとつの私の物語のなかにある、いくつもの矛盾と錯誤。





*  *  *

さらにいえば、私たちは、物語を集めて自己をつくっているだけではない。私たちは、物語を集めて、世界そのものを理解している。ある行為や場面が、楽しい飲み会なのか、悪質なセクハラなのかを、私たちはそのつど定義している。さまざまな物語や「話法」を寄せ集めて「ひとつの」世界をつくりだし、解釈しているのだ。

そうやって私たちは、日常的に、さまざまな物語を集めて生きているのだが、いつもそれがうまくいくとは限らない。物語は生きている。それは私たちの手をすりぬけ、私たちを裏切り、私たちを乗っ取り、私たちを望まない方向につくりかえる。それは生きているのだ。

*  *  *

ある小さなマンションに暮らす家族のことで、そこの自治会の方から個人的に話を聞いたことがある。

若い夫は現役のヤクザで、家族にひどい暴力をふるっていた。妻は出会い系サイトなどを使って個人的に売春をしていて、二人のまだ小さな息子を隣室に追いやって、自宅で客を取ったりしていた。

息子たちは妻の連れ子で、再婚相手である男性から壮絶な虐待を受けていた。詳細は省くが、子どもたちへの暴力がきっかけで男性は逮捕され、刑務所に行った。そして、妻は子どもを置いてどこかへ消えた。残された子どもたちは施設へ預けられた。

一家がバラバラになっていくちょうどそのころ、マンションのその部屋の、すぐ下に住む別の住民から自治会に苦情が寄せられた。

どうもその家族が暮らしていた部屋は、ゴミ屋敷になっていたらしい。大量の害虫が発生し、階下の部屋の天井には真っ黒なシミが浮き出し、強烈な悪臭があたりに漂った。

私はその自治会の方から、ここまでの話を聞いていた。

何ヵ月か経ってから、ひさしぶりにその自治会の方に会ったとき、その家族が暮らしていた部屋の、その後の話を聞いた。

父親が収監され、母親が蒸発し、子どもたちが施設に預けられ、無人となったその部屋だが、その後も悪臭や害虫の苦情が何度もくり返され、マンションの管理会社の立ち会いのもとで、自治会の方が合鍵でその部屋の扉を開いた。

そこで見たのは、家具も何もない、からっぽの、きれいな部屋だったという。

*  *  *

単に、階下の住民が何かを勘違いしただけなのだろう。真相も何もはっきりしない、特にドラマチックなこともない、ただこれだけの話だが、それにしても、自分では見てない、話に聞いただけの「からっぽの部屋」のイメージが、妙にいつまでも印象に残っている。

途中まで私は、よくある話といえばよくある話だが、それにしても、と暗澹たる思いでこの話を聞いていた。暴力、貧困、虐待、売春、そしてゴミ屋敷。一連の「家族解体」の物語を、私だけでなく、それを聞いたものはみな、そういう物語として受けとっていた。

ほんとうにたいしたことのない、たったこれだけの話なのだが、それでもその最後の話を聞いたときの、急においてけぼりにされたような感覚は、いつまでも消えない。

たったこれだけの物語に、あまり過剰に「無意味」という意味を読み込んではいけないのだろうが、この話の全体が、ピントが合わず、いくらがんばってもはっきりした像を結ばない。

*  *  *

もう10年も前、当時私と連れ合いが住んでいたマンションで、おはぎときなこという猫を飼っていたのだが(いまも飼っているが)、この猫たちを屋上で散歩させるのが日課になっていた。

ある夏の夜。出張か飲み会か何か忘れたが、私が家にいないときだったので、その夜は私の連れ合いがひとりでおはぎときなこを連れて屋上に上がっていった。

マンションの住民は誰もほとんど屋上を使うことはなく、灯りも点いていなくて、真っ暗だった。時間はそんなに遅くない、19時ごろだったらしい。連れ合いが猫たちを連れて階段をあがると、屋上の出口に見たことのない段ボール箱があった。猫たちは気にせず広い屋上に駆け出していった。見知らぬ大きな段ボールに驚いた彼女は、なんかへんなもの入ってたら嫌やな、と、そっとそれを突っついてみた。

すると、ガサガサっという音がして、わっ、どうしようどうしようと思ってたら、なかから若い女の子が出てきた。普通の、大学生ぐらいの、地味な子だったらしい。身なりも普通で、手ぶらだった。そのとき、猫が屋上にいたから、猫たちを守ろうと、連れ合いは強気に、何してんのっ、と聞いた。返事も反応もなく、むこうもおろおろしていた。こっちも怖いし、とにかく警察に連絡しようと、携帯を取りにいちど階下の自分の部屋に戻った。そして、また屋上に戻ってみると、そのほんの一瞬のあいだに、女の子は、段ボールごと消えていた。猫たちは家のなかに逃げ帰っていた。





最初にこの話を連れ合いから聞いたとき、まるで幻覚かなにかのようだ、と思った。もはやこうなると、いかなる物語を使って解釈することもできない。ただ、とても不思議なことが起こったんだよ、というしかない。だからこの話は、他人に伝えることがとても難しく、これまでほとんど人に話したことがない。

*  *  *

私たちの自己や世界は、物語を語るだけでなく、物語によってつくられる。そうした物語はとつぜん中断され、引き裂かれることがある。また、物語は、ときにそれ自体が破綻し、他の物語と葛藤し、矛盾をひきおこす。

物語は、「絶対に外せない眼鏡」のようなもので、私たちはそうした物語から自由になり、自己や世界とそのままの姿で向き合うことはできない。しかし、それらが中断され、引き裂かれ、矛盾をきたすときに、物語の外側にある「なにか」が、かすかにこちらを覗き込んでいるのかもしれない。



写真:西本明生( http://akionishimoto.com/


著者紹介
岸 政彦(きし・まさひこ)

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(続く)