東京大学大学院准教授 池上俊一
 
世界の国々の国力は、一般には、国内総生産とか軍事力によって測られていますが、文化の力も重要です。その点にもっとも敏感で、中世から現代にいたるまで、意識的に国造りに励んできたのが、フランスでした。フランスの最大の武器は食文化・美食で、お菓子はその代表です。

五世紀頃から始まるいわゆる中世と呼ばれる時代においては、修道院と貴族が、お菓子作りを率いていました。当時、修道院は大領主でもあったので、小麦や蜂蜜といった、お菓子作りの基本的な材料が、容易に手に入ったのです。神と人間とをつなぐための特別なお菓子が、修道士や聖職者によって食べられ、あるいは一般信徒にも分け与えられました。
これは二枚の鉄板に挟んで焼かれるお菓子で、フランス語でゴーフル、英語ではワッフルと呼ばれるお菓子の原型です。

また十一世紀末には、十字軍の遠征が始まり、王侯貴族や騎士たちが東方へと向かいました。十字軍には、キリスト教の聖地エルサレム奪回のための戦いという以外に、ヨーロッパとイスラムの文化交流という側面もあり、砂糖や香辛料、オレンジ・レモン・アプリコットなどの果物、砂糖漬けフルーツ、さらにはジャムなどが、イスラム世界からヨーロッパへと伝わりました。貴族たちは、お抱え菓子職人に、こうしたオリエントからの食材を用いて、さまざまなお菓子を作らせるようになったのです。

フランスの首都パリの王侯貴族たちの館でも、オリエントからの食材を使ったお菓子が作られたのですが、そのパリが現代につづくお菓子の都になった経緯をつぎにお話しましょう。十字軍の時代のフランス国王は、支配領域を徐々に拡大し、国王の宮廷の所在地であるパリは、ヨーロッパ随一の文化の都として、形を整えていきました。フランス菓子というのは、なによりも都会のお菓子であり、とくに大都会パリのお菓子として発達していきましたので、フランス菓子の歴史は、パリの発展と切り離すことができません。

中世につづく近世の時代には、フランスは他のヨーロッパ諸国からも、新たなお菓子をいくつも受容しました。一五三三年、イタリアのメディチ家からカトリーヌ・ド・メディシスが国王アンリ二世に嫁いだときに、砂糖菓子、マカロン、スポンジケーキそしてアイスクリームが伝わりました。
 
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またチョコレートは、スペインの王女アンナとマリー・テレーズが、それぞれルイ十三世とルイ十四世に嫁ぐことによって、フランス上流社会に広まっていきました。少し後の時代では、マリー・アントワネットが、オーストリアからクグロフやブリオッシュをフランスにもたらしました。フランスのしたたかなところは、こうして他の国々から学んだものを、独自に洗練させ、あたかも、自分たちが考案したお菓子であるかのように思わせてしまうところです。

十七世紀の絶対王政期には、フランスの国力は大いに強化されました。この時代、王の威光を輝かすために、ヴェルサイユ宮殿をはじめとする壮大な建築が造られますが、もうひとつ、総合芸術としてのフランス料理が、王の食卓のために準備されたことが重要です。王の権勢と料理の豪華さ・美しさが結びつき、それは、王に仕える貴族たち、あるいは王に謁見する外国の使節らにも見せつけられました。そこでは、美しく飾ることのできるお菓子が、重要な役割をはたしました。お菓子にかぎって言うと、ヴェルサイユ宮殿で王に寵愛された女性、そして王妃たちの貢献も小さくありませんでした。当時、女性はプックリ太っているのが良いとされたこともあり、彼女たちはお菓子を好んで食べましたし、また外国から嫁入りするに際して、母国のお菓子をもたらし、それがきっかけで、新たなお菓子がフランスの貴族社会に広まるようになったのです。モンテスパン夫人、ポンパドゥール夫人、そして王妃マリー・アントワネットなどがその役割をはたしました。
 
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こうしたヴェルサイユのお菓子は、貴族の夫人らによって模倣され、また彼女たちは、パリの邸宅にサロンを開き、お茶とともにこれらのお菓子を出しました。
十八世紀後半には、権力を誇った絶対王政も、財政難や海外領土の喪失で弱体化していきました。また商業活動を阻害する多くの法律や税関、封建的特権に、ブルジョワたちの不満が高まりました。そこで一七八九年七月十四日のバスティーユ襲撃をきっかけとして、フランス革命が始まりました。旧体制は崩れ去り、新しいブルジョワたちの時代がやってきたのです。革命後は、それまで王侯貴族に雇われていた料理人や菓子職人が行き場を失い、パリ市内のあちこちに、レストランやケーキ屋・砂糖菓子店を開くことになりました。現在、私たちを楽しませてくれている本格的なフランス菓子の誕生は、ブルジョワたちにお菓子が普及した、フランス革命後の十九世紀のことなのです。

この時代、人気のパティシエが幾人も登場します。もっとも重要なのは、アントナン・カレームというパティシエです。彼は、建築の知識をお菓子作りに生かした、ピエス・モンテを多数考案したことで有名です。
 
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これは今日のデコレーションケーキや、とくにウェディングケーキなどにつながっていきます。彼はシャルロット、ブランマンジェなどのケーキも考え出しました。ほかにも、ミルフィーユ、サントノレ、タルト・タタン、サヴァランなど、今でもフランス菓子の定番になっているケーキが、この十九世紀に作られました。また十九世紀の半ばには鉄道が開通しはじめ、フランスの地方菓子がパリで知られるようになりました。たとえば、日本でも有名なマドレーヌは、もともとフランス東部ロレーヌ地方の地方菓子でしたが、鉄道の開通により、パリの貴族や市民たちの手にも入るようになったのです。

こうした新たなお菓子の評判を高めたのが、フランス革命後に現れた美食評論家たちです。今のミシュランガイドのような、食通ガイドブックが作られ、食を、健康や道徳との関係で論じたり、新たに開店したお店を評価したりしたのです。グリモ・ド・ラ・レニエールやブリヤ・サヴァランが有名です。
 
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こうして美食の国フランス、お菓子の国フランスとのイメージが、世界中に広められていきました。

二〇世紀の二つの大戦の被害は甚大で、フランスは植民地を失い、国力は大幅に衰えました。しかしフランスは、大国ではなくなってからも、独自の外交方針を貫き、また文化的な優越性を保っています。その力の象徴のひとつが、お菓子なのです。世界に数あるお菓子の中でもフランス菓子がやはり一番だ、というイメージが皆さん方にあるとすれば、それは、フランスが長い歴史の過程で、フランス菓子をそのように見せるように、入念に仕立て上げてきたからなのです。文化立国としてのフランスが、グローバル化が進む世界の中で今後どのようになっていくのか、フランス菓子の命運とともに、期待を込めて注視したいと思います。