このように日本は韓国に対して犯した罪も多く、韓国によって得た利益も多い。今日までに日本が得たものは、日本人のたゆまぬ努力とチャンスをものにする賢さによる、ということは否定しない。どこの国でも自分にとって有利なものを持ち込もうとするのは同じだろう。しかし、その過程で自分たちが隣国に苦痛と困難を与えたことを否定してはならない。それを申し訳なく思い、それによって苦痛を受けた隣国に対して配慮できる最低限の礼儀と良心くらいは持ち合わせるべきではないのだろうか。しかし安倍晋三首相を前面に押し立てている日本の国粋主義的ブームは、それとは正反対の道をたどっている。「昨日を忘れる忘却」「自分たちが他人に与えた苦痛と被害を度外視する利便性」は世界をあきれさせるどころか、怒りさえ買っている。
われわれが知っている日本人は「他人に害を与えない思いやりの民族」だった。われわれはそんな日本人と日本社会の正しさをうらやましがった。しかし、その礼儀正しさと正義が失われた。現在の日本は「他人の傷をさらにえぐる」、あるいはアイデンティティーに混乱を感じる異様な国へと向かっている。「慰安婦は存在しなかった」「独島(日本名:竹島)は日本の領土」「南京大虐殺や731部隊も身に覚えはない」とし、自分たちこそがむしろ戦争の被害者であると主張するなど、とぼけ一辺倒に走っている。こうした症状が、むしろ認知症によるものであることを願うばかりだ。
こうしたことが、昨日のことであり、終戦直後のことならばまだ理解できる。1世紀前にすでに世界の歴史の第1章として記録されたことを今になって「知らない」というのは、歴史を逆にさかのぼろうとする意図以外にどう解釈したらいいのだろうか。慰安婦問題だけを見ても、日本が過去の過ちに対する最低限の責任を果たしてさえいれば、韓国も「自分たちが守れなかった韓民族の痛みをわれわれの手で責任を取ろう」という議論を発展させていたはずだ。しかし、安倍首相をはじめとする日本のナショナリストたちが、そのチャンスをむしろ政治的に悪用することで、今後韓国と日本の関係は行き着くところまで行くしかなくなった。
日本の侍は命よりも名誉を大切に考えたと聞いている。今日の日本はその「侍」の子孫ではないようだ。過ちを犯せば、ひざまずいて切腹した日本はもう存在しない。日本は他の国に対して何をしたとしても、日本によって国を奪われ、日本によって分断の苦痛を味わうことになったわれわれにだけは、こうであってはならない。