2014.03.28
与えられた肉体スペックに関する責任の所在
ロースペックな肉体に生まれた場合、責任はどこにあるのだろうか。「親が悪い」とか考えたりするが、まあ運が悪いのである。中村雅俊の息子は低身長ハゲで薬物で捕まった。原辰徳の甥の菅野は優秀だが、実子はポンコツである。浩宮と秋篠宮の容姿スペックは格段に違う。精子と卵子は減数分裂で作られる。父親の遺伝子の半分で精子を作る。その組み合わせは840万通りある。染色体の乗り換えも含めるともっと多い。卵子も同じである。浩宮の容姿が悪くてなかなか嫁が見つからなかったのも、親のせいとは言えない。同じ両親から生まれた秋篠宮は容姿的に恵まれているから、運が悪いのである。われわれは責任の所在を探す癖が付いている。どこかに責任者がいるに違いないと思い、そいつに賠償させたいと考える。就職氷河期の時に自己責任という言葉が流行ったが、第二次ベビーブーム世代の前でバブルが弾けたので、運が悪いだけである。運が悪いという、責任者の不在性にわれわれは耐えられないので、自己責任という言葉が流行ったのだ。なにしろ責任者を探す病気が根深いから、本人に責任があると言うしかない。バブル崩壊は、地上げ屋に多額の金を貸し付けた銀行に責任があると言えるが、そう言ってみたところで不況が改善するわけではない。与えられた肉体とか生まれついた国とか時代とか、そういうのは、抗えない役割として与えられているのである。有史以来、大多数の人間が不平不満を持ちながらロールプレイしてきたのである。自由社会でも、要は、門閥や身分ではなく、与えられた肉体のスペックに応じたロールプレイをすることが求められるだけである。この前提となっているのは自殺の禁止であり、「この役はやりたくない」というのは認められていない。そして誰かのせいにするのも認められていない。自分自身の<責任>として引き受けるしかないのである。勝手に生み出される肉体に自我が芽生えて快楽・苦痛に左右される(大半は苦痛)という宿業に組み込まれているのである。
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