最近の大学生は、大学という機関に属しても、何をして良いのかわからないそうだ。
ゆとり教育の失敗は明らかであるが、それにともない、大学における「導入教育」が盛んに行われるようになった。
驚くべきことに、その内容は、「文章表現」や「情報リテラシー」、さらには「教員とのコミュニケーションの仕方」などなど、大学に入れば自然と身につくものや、大学に入る前にすでに身につけているはずの項目が並ぶ。
私の受験の頃は、大学で何をしたいかが明確であったし、小論文などの文章表現、超長文の英文読解、要約など、さまざまなことをすでに身につけていた。それは小学校くらいからそうだったのではないかというようなものもある。
この大学における「導入教育」の実態を知るにつけ、唖然とすることが多い。冗談ではなく、「単位とは何か。選択せよ」などという教科書まであるという。それを実際編集した教授によれば、難しく書くといけないというのが第一だったそうである。
日本の大学教育のレベルはいったい…。
私は大学院に入ってからずっと、大学生を教えてきたので感じていたことではあったが、「自分からする」という積極的な姿勢が年々感じられなくなっていったのを憶えている。
講義の前に、「事前講義」をしてあげなくてはならない。発表のための書籍を教えてあげなくてはならない。レジュメの書き方を教えなくてはならない…等々、本来、学ぶべきことの前に、教えてあげなくてはならないことが山ほどあったのである。
発表レジュメは本を丸写ししてくる学生。それもあちこちから引用してくるため、文体が滅茶苦茶であった。私は大学1年次に必要な書籍をほとんど暗記していたので、誰の著作を引用しているかすぐにわかった。それで仕方なく、それを「優しく」指摘し、もう一度自分の力で書かせた。その後の文章はひどいものであったが、引用して終わりよりはマシだと考えるしかなかった。
大学における「導入教育」はなくてはならないものになっている。これで大学1年次を過ごしてしまうなんて考えられない。大学はたった4年間。4年間のうちに最後には「卒業論文」を書かせなくてはならない。大学教員や大学院生がその指導にあたるわけだが、そんなことに時間を費やすのは徒労だ。
すべての学生がそうではないことは承知で、あえて大学の現状を嘆いている。
どの大学でもそうである。
私のように大学院博士後期を出た人間が専門分野を教えることができるのはラッキーなことであり、その他は上記のような仕事になるのかもしれない。それでもまだ仕事があれば良い方である。
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一気に書いて…いっそ海外に行ってしまおうかと思った。後輩も来年はロンドンである。夫とは別居になっても構わない。そういう研究者の先生はたくさんいる。
一昨日の大学訪問で、何やら重苦しさを感じたのは気のせいではあるまい。