第9回 平積みの一番上に置かれている本は汚い
書店に行くと、この連載の影響というわけではないのだが、ついつい色々な人の行動を観察してしまう。ぼんやり売り場を眺めていると、多くの人が気がつく最も特徴的な行動として「平積みの本を買う時には、何故かみんな一番上の本ではなく上から二番目の本を取る」というものがある。
当初私がこの行動を見かけた時に、その理由として考えていた仮説は「平積みの一番上にある本は、みんなが触ったり立ち読みしたりするため、本が汚くなっている。だから、購入する際はきれいな二番目の本を取っているのではないか」というものだ。
しかし、しばらく観察していると、立ち読みできないビニールで包まれた本であっても、上から二番目の本を取って購入しているケースを見かけたので、必ずしも「立ち読みの繰り返しによって本が劣化しているので上から二番目を購入している」という仮説が正しいとは言えない。
書店に訪れる度にそんなことを考えていたのだが、ある日、その考察をより進められるきっかけになるような出来事が起きた。
仕事の資料として、ある専門書を購入しようと書店を訪れた時のことだ。新刊書コーナーに、以前から気になっていた装丁の本が、POP付きで平積みされていた。
せっかく書店に来たし、ついでだからちょっと見てみようと、私が新刊書コーナーに近づいていくと、ちょうど仕事の休憩で訪れたのだろうか、サラリーマンが既にその本を手に取って立ち読みをしている所だった。
いつも私が立ち読みをする時には、恐る恐る本を手に取っているのだが、そのサラリーマンはかなり大胆というか雑に、本をおもいっきり開いて読んでいたので「それでは売り物の本に開きグセが付いたりしてしまうのでは……」と若干ヒヤヒヤしながら、立ち読みをするサラリーマンを横目で見ていた。
そして私も装丁の詳細が気になったので、平積みされていた一番上(もともと上から二番目)の本を手に取って眺めていると、立ち読みをしていたサラリーマンが本を平積みの一番上に戻した。私もその後すぐに、持っていた本を平積みのさらに一番上に戻した。
少し分かりにくいかもしれないが、この瞬間、元々平積みの一番上に置かれていた本が二番目に置かれ、元々二番目だった本は一番上へと位置が入れ替わったことになる。
私がそこから立ち去ろうとした瞬間、今度はまた別のサラリーマンがその本のところにやって来て、迷わず一番上ではなく、上から二番目(もともと一番上)の本を手に取りレジへと向かって行った。
つまり、後からやって来たサラリーマンにとっては、本のコンディションではなく、「一番上では無い」ということが重要であったことが分かる。
これは一体、どういうことなのだろうか。
本の状態という視点で見れば、一番上も二番目も紛れも無く「新品」だ。立ち読みしていたサラリーマンが多少大きく開いて読んではいたが、それくらいでは汚れたり開きグセがそこまで実際に付くことは無いし、最後に来たサラリーマンが避けた一番上の本に至っては、私は数秒しか触っておらず中を開いてすらいない。ということは、先ほど本を買っていったサラリーマンは「見た目では分からない何か」を嫌って、一番上の本を避けたということになる。
この「見た目では分からない何か」の正体について考えていくと、私たちの中に芽生えてしまっているある一つの意識にたどり着く。それは「一旦一番上に置かれてしまった本は汚いものである」という意識だ。外に晒されているもの自体を、私たちは心の何処かで無意識に避けている。頭では新品だということが分かっていても、外に晒されていない「綺麗な」ものを求めてしまう。
私たちはこういった価値判断を無意識に行い、その物の価値をどう見ても論理的とは言えないような全く根拠のない尺度で評価している。
無根拠で、説得力がないことが分かっていても、私たちはその評価軸から逃れることはできない。だから自分の判断を正当化するため、「埃が積もっているかもしれない」とか「誰が触ったか分からない」といった評価の根拠をどうにか頭の中で作り出していく。その結果生み出されるのが、今回のタイトルにもなっている「平積みの一番上に置かれている本は汚い」という言葉だ。
この「見た目では分からない何か」を避ける気持ちが、書店で本を買う時にだけ発生するものであればいいのだが、私たちの普段の生活の中でも、こういった非論理的な価値判断が、偏見による差別といったネガティブな感情とセットで現れることもあるため、非常に厄介だ。
しかし、この文章を読んだ皆さんなら、少なくとも自分の日々の判断がどういう心の傾向によって起こっているのかを気にかけることができるはずだ。予め自分の心の傾向を知っていれば、何かあった時に立ち止まって考えることができる。
誰しも判断を間違えて失敗してしまうことはある。しかし、その判断を間違えた時に立ち止まって考える事を忘れてしまったなら、未来へ向けての反省や改善、進歩なんてものは到底望めない。私たちの今の社会は、先人たちが少しずつ積み重ねてきた立ち止まりによる反省や改善の結果、できあがってきたのだから。
[まなざし:第9回 了]