SS投稿掲示板




感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[39533] 2024年のゲームボーイ【完結】
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/22 12:18
前作を読んでくださった皆さんありがとうございました。なんとか今作も最後まで書ききることが出来ました。新人賞応募のため、4月頭に削除予定ですのでご注意ください。
【小説家になろう様にも投稿しています】

(3/7 2-3が2-2になっていたので修正しました)

あらすじ
時は2024年。
「公営ギャンブル法」によって賭博が許可され、アーケードゲームが復古した時代。15歳の少年、レイこと宮本亜鈴はその中でもランカーと呼ばれるトップレベルのゲーマーだ。
彼にはそれ以外にも「検索士」という国が認めたハッカーの資格を持つという秘密があった。
5月の始め、亜鈴は人探しを依頼され、そして不思議な声の少女に出会う。
建築家を目指す同居人の英国少女リーナ、『最強の女』氷子とともに亜鈴は連鎖する事件に立ち向かう。



プロローグ

 二〇一二年四月一日

「……よし、これで大丈夫」

 男が、薄型テレビの電源をつけてそう言った。リモコンから照射された反応を受けるのは、アナログ放送に比べて一拍分遅い。見た目はまだ若いが、どこかくたびれた印象の男の横には、背の低い老齢の女性がたたずんで安堵の息をついている。

「繁、ありがとうね。急にテレビがつかなくなったものだから……」
「うちは父さんも昔から機械に弱かったからなぁ。地デジ切り替え、散々宣伝してたと思うけど。まあ、こんな田舎じゃしょうがないかもね」

 テレビの入っていた段ボールや、説明書などを片付けながら二人は会話を続ける。

「あなたがコンピューターに興味を持ったのが不思議なくらいだものねえ。あら、もうこんな時間。春海さんは、まだかしら?」
 二人は、居間に飾られた壁掛け時計を見た。時刻は昼の一時を指している。
「父さんのことだから、あの子に何か買うとか言い出して困らせてるんじゃないかな」
「そうねえ。初孫だし、レイちゃん、可愛いものねえ。……あら」

 トタトタと軽い音が響き、障子がするりと開けられる。小さな手が苦労してそれを閉める。
「おとーさん! にかいのテレビ、つかないよ!」
「あー、だから言ったろ? 昔のテレビは見れなくなっちゃったんだよ」

 父は屈んで子に視線を合わせ、苦笑しながら答えた。子供の方は首を傾げ、切り整えられた髪を一緒に揺らす。どうやら、理解するには幼すぎるようだった。

「あ、そうだわ。あなたの部屋、全然いじってないから。レイちゃんでも遊べそうなものが何かあるんじゃないかしら?」
 繁、と呼ばれた男の母親がそう言うと、首を傾げていた幼児は両目をきらきらと光らせる。

「おとーさん。たのしいの、あるの?」
 その言葉を受け、父は大きな手で子の頭をガシガシと撫でつける。
「そう言えば、もう何年も仕事ばっかりだったな……。よし、父さんに着いて来い!」
「うん!」



「おとーさん、これ、なあに?」

 まあ、見てろよ。そう言うと父は灰色のそれを持ち、ハーモニカのように一度息を吹きかけてホコリを払う素振りを見せる。そして、それを端子のついた穴にかちりと差し込んで、穴の手前にある、もうすっかり色の変わった安っぽい作りの電源を入れた。

先ほどまで砂嵐を映し出していた画面をビデオ入力に切り替える。するとそこには、原色で構成された動く画面と十六ビットの合成音が現れる。

「なにこれ!」
 父は口を横に開き、歯を見せて笑う。そしてテレビにかじりつく子の脇の下を両手で抱き膝に座らせて、その小さな手を支えるようにコントローラーを持った。

画面の中の赤いキャラクターが、父と子の手の動きに合わせてぴょんぴょんと動く。
ぼーっとしばらくその画面と手の動きを見比べた後、子供は唐突に理解した。

「すごい! すごいすごいすごい! ぼく、これ! ぼくがこれうごかしてる!」

 子供は父親からコントローラーを奪い取り、画面に目を釘付けにして何度も何度もキャラクターを動かす。稚拙だが、そこには遊びに対するこれ以上ないほどの真剣さがあった。

 ――ああ。そうだ。俺はずっと、これを忘れていたんだ。

そして父親はコントローラーをもう一つ引っ張り出し、食事の時間だとしびれを切らした妻が電源を無理矢理切るまで童心に帰って子供と二人で遊び続けた。

それが、すべての始まりだった。



[39533] 『ゲームボーイズ&ガールズ』1-1
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/02/26 01:49
二〇二四年五月七日

その部屋は外界から隔離されていた。深い茶のカーテンが隙間なく窓を閉ざしている。しかし、かすかな青い光が静かに空気を満たしており、暗闇からは遠ざけられている。
部屋の中にあるのは備え付けのクローゼットと少年が眠る布団、ラックの上に飾られた幾つかの精巧なプラモデルやフィギュアなどだ。そして特徴的なのが分厚い専門書(その多くが英語で書かれている)が並んだ大きな本棚と、壁に掛けられた四枚の大きなディスプレイ、机の横に立つ二メートルほどの四角柱の中に収められた青い光を発するサーバマシンだ。

少年の枕元に置いてあるスマートフォンが震えた。時刻は午前七時を示している。それと同時に窓際のコンセントから伸びるマルチタップに差された時間式タイマーが作動し、手作りだと一目で分かる簡単な作りの機械を動かす。それが紐を巻き上げるとカーテンが開き、室内は光で満たされた。温度を一定に保つ空調もやがて少しだけ強くなるだろう。
しかし、少年が目を覚ますことはない。彼の目にはアイマスクがしっかりと掛けられている。さらに両耳には黄色いスポンジ製の耳栓がされている。太陽の光とサーバのささやかな排気音は届かない。彼の五感は閉ざされていて、自然と目を覚ますまで深い眠りは続くはずだった。

「レーイ! 朝でスよ! 起きて下サい。ゴールデンウィークは昨日で終わりまシた!」

 金髪の、少女だった。長い髪をシニョンにまとめて、黒いシックな制服を見事に着こなしている。サ行が上手く言えないのは、英語圏特有のthの発音の名残だろう。
彼女はアイマスクと耳栓を少年から外し、人種が一目で分かる白い両手を、しゃがんで少年の両脇に差し込んだ。そして一度息を止め、力を入れて一気に彼をその場に立たせた。掛け布団はめくれ上がり、サテン地のつやつやしたルームウェアを着た少年の全身があらわになる。

「りーな、おはよう……」
「ほら、夜更かしをするからでス! 朝ごはんできてまス。行きまスよ」

 リーナと呼ばれた少女は甲斐甲斐しく少年の身支度を整える。まずは、レイと呼ばれた少年も例外ではない男性に特有の朝の生理現象など気にしない様子で服を着替えさせた。そして彼を洗面所に連れて行き顔を洗わせ、彼が歯を磨いている内に跳ねていた髪の毛を溶かし、顔をしっかりとタオルで拭いてやる。
意識がしっかりとする頃には、鏡の中には少年が見慣れたいつもの姿があった。

男の子にしてはやや長めの、光のあたり具合によっては青く見えるのではないかという黒髪。前髪は眉にかかる程度だが、もみあげを含めて逆卵型をした輪郭に沿うように口の横のラインまでそれは伸びている。襟の高いシャツに細長いネクタイを締め、チェックのタイトなパンツの腰元はシンプルなデザインのベルトで止められている。
何よりも印象的な、大きな目がぱちぱちと何度かまばたき、しっかりと意志を表す。
それを見て、リーナは満足気に頷いて彼の肩を両手で抱きながら華やかに微笑んだ。

「OK! おはようございまス、レイ!」



 二人にレイの母親の春海を加えた三人は、朝食の席を囲んでいた。テーブルに並ぶのは日本風にアレンジされた、あまり原形を留めていないイングリッシュ・ブレックファストだ。テレビがニュースを告げ、食器の音と三人の会話がダイニングには流れている。

「リーナちゃん、今日の予定はどんな感じ?」
「はい、午前はハイスクールで、午後はフィールドワークで立川まで行きまス」

「立川? また何か珍しい建物があるの?」
 レイの質問にリーナは人差し指を立て、チッチッと音を鳴らす。
「レーイ、そんなことも知らないんでスか? 有名な幼稚園があるんでスよ。天才サトーとテヅカのコラボレーションでス!」

 目を輝かせて様々な建物の素晴らしさを語るリーナを脇に置いて食事は進む。レイと春海はいつものことだと顔を突き合わせて少しだけ噴出すように笑った。

「レイは、今日はどうなってるんでスか?」
「ぼくはいつも通りだよ。特に問題がなければ五時には帰ってくると思う」

 息子の言葉に春海はニュースの映像を受けて思い立ったように反応した。
「んー、でも今日は連休明けよ。人が来るんじゃないかしら?」
「あ、そうかも。遅くなりそうだったら連絡するね」

 そんな、何気ない朝の一コマはあっという間に終わり、レイは食器を片付ける。その間にリーナはノートと筆記用具しか入っていないカバンに本格的な仕様のカメラを入れ、肩に下げる。レイも部屋に戻りノートパソコンをリュックに詰め薄い上着を羽織ると、家事をしていた春海に声をかけて二人は家を出た。



 二人はバイクに乗って道を走っていた。リーナが運転するのは女の子にも似合うデザインのホンダのバイクで、二人乗りが可能な国内には無い排気量のモデルだ。速度はゆったりとしたもので、法定速度をしっかりと守っている。数年前ならほとんど無視されていたそれは、自動車の自動運転技術のゆっくりとした普及と事故対応の監視カメラの増設などにより、二〇二四年の道路では当たり前のものだ。

登校の時間に被るのだろう。歩道にはちらほらと学校に向かう小中高生の姿が見える。自転車は車道の左端を走っており、リーナは所々でそれを追い抜いた。

少子化の影響もあるが、それ以上に学校教育は様変わりしている。以前と同じように集団での授業を行うものは八割弱といったところ。リーナのように特殊なカリキュラムを組んだフリースクールや、高専など専門知識を学ぶことを目的としたり、サッカーと野球が主だがアスリートを育成する学校などがおよそ二割。しかし、それ以外の選択をするものもいる。

リーナは最寄りの駅にほど近い小さなビルの前でバイクを一度止める。レイはヘルメットを外し、二人の座っていたバイクの座席部分にしまう。そして見送りの言葉をかけ、リーナが去った後、ビルの二階に上がり、鍵を開けて中に入った。その扉には『スタジオミヤモト』と表札が掛けられている。

それ以外の選択。働き、自分で金銭を稼ぐもの。彼は、この小さなオフィスの社長だった。



 レイはまず、音声認証で出社を記録した。これで警備会社の対応の状態が変わる。他の仕事であればともかく、彼の場合はセキュリティに気を使う必要がある。上着を脱ぎ、電気ポットでお湯を沸かす間に壁のホワイトボードに移動中に考えていたアイデアを書き出し、昨日まで続けていた作業を確認してまとめる。

お湯が沸いたことを知らせるアラームを聞き、マグカップにインスタントコーヒーと小さな冷蔵庫から取り出した牛乳を一緒に入れてカフェオレを作る。そしてそれを持って窓際の机に移動し、アーロンチェアーに座る。ノートパソコンをリュックから取り出してスリープ状態を解除。自作のRSSからニュースや新しい記事をチェックし、テキストエディタを起動させる。

音声認識機能で考えていた内容を頭の中から口に出し言葉に変えて、そして文字に落としこむ。変換間違いや上手く聞き取れなかった部分を手打ちで直し、コピーアンドペーストで文章を幾つか入れ替え、追加して整える。クラウドストレージでリーナと共有している写真のフォルダから画像を取り出し、ブログに記事をアップ。そしてまもなく日本語で書かれたそれを翻訳し、英語版のブログでも同様の作業を繰り返す。

十歳の頃から続けているブログの広告収入だけで、食べていくことは出来る。しかし、彼の本来の仕事はそれではない。

メールボックスを確認すると父のかつての同僚から依頼が来ていた。内容はアーケードゲームの3Dモデリングに関する処理の高速化だ。よくある仕事の一つで、何度も使っているオープンソースに手を加えたツールもある。
十時には依頼は終わり、電話で確認を入れてすぐにテンプレートから納品書と請求書を作った。売上は十五万。時給八万円程度の仕事になった計算だ。

圧倒的な生産性。知識と経験。そこに年齢は関係なく、成果、実力だけが評価される世界。世界は時の流れにより幾つかの古い仕事を失い、幾つかの新しい仕事を手にしていた。プログラミングはまだまだ必要とされる技能だが、これも彼の本来の仕事ではない。

一段落ついて椅子から立ち、マットを敷いてその上で硬くなった筋肉を解すストレッチを行う。それからは本業の一つである自分の手によるゲーム開発を進める。昼時には簡単なパスタ料理を作って食べる。その後少し昼寝をして、再び開発に戻る。
そして二時半過ぎ、インターホンが鳴った。彼のもう一つの本来の仕事を運ぶために。



[39533] 1-2
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/02/27 00:11
グレーのスーツを着た、中年の男だった。もし今もいれば、父親と同じくらいの歳だろう、とレイは思った。レイの姿を見た男は半信半疑でここが目的地であることを確認し、入り口と仕事用の机の間にある応接セットの前で名刺を交換する。レイが受けとったそれには男の名前、岩崎匠(いわさきたくみ)の他、所属する会社の名称や住所、連絡先が印字されている。

「宮本……?」
 男は、自分が受け取ったそれに書かれた文字を読むことが出来なかった。

「それ、『アレイ』って読むんです。白亜紀の亜に鈴って書いてアレイ。珍しいでしょ。プログラミングの用語から取っておとーさんがつけてくれたんです」
 親しい人はレイって呼びます。匠さんもお好きに呼んで下さい。そう、レイは告げ、二人は椅子に座った。

「はあ……。あの、む、娘を探してほしいんですが、本当にここで大丈夫なんでしょうか?」
 レイは膝の上のノートパソコンを開き、専用のブラウザを立ち上げた。ディスプレイに親指を押し付け、指紋認証を行い、短く操作する。

「探すのは、岩崎鳴(いわさきめい)。ぼくと同じ十五歳。G大の付属女子高の一年B組所属。出席番号三番。部活動などは特に行っていないが、中学の頃から子どもたちに読み聞かせのボランティアを行っている。本日は無断欠席のようですね」

 その情報を聞いて、匠は口をぽかんと開けた。何と反応していいのか分からなかったのだ。ただ、仕草だけがその内容が確かであることを表していた。

「はじめまして。ぼくは宮本亜鈴。昨年度の試験に合格した、最年少の国家一種検索士です」
 レイはにっこりと微笑んでそう告げた。



検索士。二〇二〇年の法改正により、大量に設置された監視カメラの映像や個人情報の閲覧において特殊な権限を与えられた国家資格。現在までに行われた試験はわずかに四回。科目はペーパーテストの他、セキュリティやプログラミングの実技を中心とし、思想調査なども行う。

毎回およそ一万人の受験者に対し、合格者は五%程度を推移している。この国には、まだ二千人以下しか認められたものはいない。合格者平均年齢は三五歳。合格後は自衛隊での訓練なども必須で課せられており、厳しい課程を耐えた者だけがその名を掲げることが許される。

オフィスの壁には、二枚の紙と一枚の写真が額に入れて飾られている。それは試験合格と訓練修了の証書だ。写真には髪の長い美人の女性と短髪のがっちりした教官らしき男に挟まれた亜鈴が迷彩服を着て並んで写っている。間違いなく、亜鈴は最年少の検索士だった。



「届け出のある行方不明者は今は年間十万人程度です。『遅れてきた世紀末』の前は八万人程度でした。ほとんどは未成年の家出で、九九%以上が見つかっています」
 それでも、毎年百人以上が本当に失踪しているんです。その言葉はレイの幼く、ともすれば女の子に間違われない顔の印象からは想像できない硬さを秘めていた。彼の父親も、その見つからない内の一人だった。

「む、娘は、見つかるんでしょうか?」
「その点は問題ありません。少なくとも検索士という制度ができてからは一般人の行方不明者はほとんど例外なく見つかっています。ただ問題は――」

 その見つかるまでの時間です。匠は、その言葉に不吉な響きを覚えた。嫌な想像が広がる。

「未成年者略取、誘拐は成功率の最も低い犯罪の一つです。この場合、犯人は必ず捕まります。しかしそれは被害者と加害者双方の無事を意味するものではありません」
 息を呑んだ匠は思わず顔を伏せた。数日前まで彼は、娘がいなくなるなんて想像もしていなかったのだ。

レイはその姿を見て、専用のブラウザからさらに情報を取得する。
「連休前の最終日、二日木曜十六時。校門のカメラに鳴さんの動画が写っています」
 レイは画面を匠の方に向けた。友人と話しながら歩くのは間違いなく、鳴の姿だった。

「こ、こんなにすぐに分かってしまうものなんですか?」
「はい。公共機関の動画閲覧申請に関しては即時許可が下りることがほとんどです。ここから先は契約書を作らないと捜査が許可されません。説明、よろしいですか?」
 匠はすっかり目の前の少年を信用していた。一度深く頷く。

「契約自体はサインだけで結構です。費用は検索士一人につき、一日十万円。その他交通費等の国に認められた経費がかかります。以上」
「それだけでいいのですか?」
「はい。人探しに関しては契約はとてもシンプルです。煩雑な手続きは必要ありません」

 匠は思わず椅子から立ち上がり、キーボードに乗せられていたレイの手を両手でしっかりと握りしめて頭を下げた。
「娘を、どうかよろしく、お願い致します……!」
 可能な限り、今日中に鳴さんを匠さんの前にお連れします。レイは真剣な表情でそう言って匠の顔を上げさせた。



「鳴は、ゴールデンウィーク初日、三日の朝に食事を済ませて家を出てから帰っていないんです」
 その言葉を受け、レイは匠の家の前の道路に設置された監視カメラの映像をすぐに確認する。

「確認できました。携帯に連絡は取れませんか? 鳴さんの友人に何か聞いたことなどもあればそれも」
「携帯は、ずっと使用中のようなんです。何度か繋がったんですが、出ることはありませんでした。学校にも今朝相談して、友人から話を聞いてもらったのですが手がかりがなく……」

「携帯のバッテリーが生きているようなら位置情報は特定できます。ただ、民間企業への問い合わせはどうしても最低半日程度かかってしまいます」
「か、構いません。ですがどうか、出来るだけ早く。あの子のことを……」

 その言葉を受けたレイは自らが管理する自分の情報源のサイトの一つを立ち上げた。そこに登録された数千人の中から今回必要な人材を探す。

今回使用するサイトは、依頼をこなすとポイントが与えられ、お小遣い代わりになるサイトだ。レイのサイトは依頼ごとの単価が高く、換金もすぐにできる。気になったニュースをまとめてほしい時などに普段は使っている。誰にでも出来そうな依頼が並ぶが、成果に応じて報酬は増額される。サイトを常用した結果、優良なユーザーが集まる結果となっていた。

ユーザーの中から、一般企業の管理する別のSNS内での発言をリストアップし、そこから判断できる鳴と繋がりのある人物を絞り込む。

この後のシナリオを考え、レイはメッセージを送った。すぐに返信が来る。管理者からの直接の依頼が稀に来ると噂になっていて信用もあったし、三〇分ほどの拘束時間で普段の十倍もの報酬が記載されていたためだ。

レイはノートパソコンを閉じてから立ち上がり、掛けてあった上着を着て身支度を整えた。
「ど、どうしたんですか?」
「ここで座っていても彼女が見つかるのには時間がかかります。あるいはぼくの方法ならそれよりも早く彼女を見つけることが出来るかもしれません。一度事務所を閉めます。夜の七時までに連絡を入れるので、それまで外でお待ち下さい」



 レイは事務所の前で匠と別れ、駅前で自動運転のタクシーを捕まえた。一応法律で義務付けられた運転手もまだ乗っているが、それはむしろ不具合が出たときのための整備士としての役割だ。講習を受けた主婦などがパートとして働いていることが多い。レイは注意深く情報を集めているが、大きな事故が起きたという話は聞いたことがない。文化として根付き、法律が整備されればやがて無人のタクシーも生まれるだろう。鳴の高校を目的地とし、移動の間に頼りになる相棒に連絡を取ろうとする。

「あ、ひょーこさんですか。亜鈴です。人探しの依頼を受けました。外に出て捜査してます。ここまでの進捗、送っておくので確認して下さい。そちらの仕事が終わり次第、お手伝いをお願いします」

 留守番電話サービスに要件を吹き込み、携帯の液晶パネルを鏡として利用するアプリで見た目のチェックを行い表情の確認をしていると、まもなく目的地に到着する。領収書を切ってもらい車から降りる。その後は協力者に顔合わせと説明を行い、考えていたシナリオ通りにことを進める。



「おねーさんたち、ちょっといいですか?」
 レイがにこやかにそう言うと、映像で見た鳴と同じ制服を着た三人組の女子学生が歩みを止める。そしてじろじろとレイの顔と服装を見た。

「ちょっと、男の子に声掛けられたのとかはじめてなんですけどお?」
「うちの男子部の子じゃないよね、制服着てないし」
「えーでもなんか、かわいくない? 中学生?」

 きゃいきゃいとかしましい三人組とレイの間に声が割り込んで来る。
「レイくーん、ちょっと待ってよ。私の方から説明するからさー」

 三人組にとっては、レイよりも見慣れたクラスメイトの顔である。自然、彼女の親戚だという話も、その後の説明もすんなり受け入れられる。

「というわけで、岩崎さんと一緒にボランティアやってるんだよレイ君は」
 なるほどーと三人はその言葉に頷く。彼女たちも鳴が読み聞かせをしていることまでは知っていた。しかし、それだけではレイがここにいる理由にならない。

「で、メイと知り合いなのは分かったんだけど、どうしてわざわざ学校まで来たの?」
「はい! 実は、この前の読み聞かせを鳴さん、無断で休んだんです。その前も、何か元気なかったし……。それでぼくに何かできることがあればって思ったんです」

 その言葉を聞いて、一人がいたずらっぽい表情をした。
「君、メイのこと好きなの?」

 その質問に対しレイはそれまでの快活な印象を崩し、顔を少しだけ赤らめて小さな声でもじもじと答える。
「は、はい。実は、そうなんです……」

 その態度に三人組は大いに沸いた。内一人は携帯を取り出し、レイの顔写真まで撮ろうとしてもう一人に止められている有り様だ。

ひと通り落ち着いて、三人は考える素振りを見せる。
「あー、関係あるか分かんないんだけどさ。休みの何日か前から確かにちょっと様子がおかしかったかな」
「そういえば、お金が必要だとか言ってたね」
「でもあの子、男と付き合ってるとか全然そんな雰囲気なかったよ? 妊娠したーとかじゃないと思うんだけど」

 今日も休んでたし、連絡取れないしちょっと気になるよねー。そんな三人組の会話が続く。

「うちの学校はアルバイト禁止なんだよね。知り合いの家庭教師とかはありそうだけど。うーん、なんだろ」
「ちょっと前だったらオッサンとデートしてお金もらうとかあったらしいけど、今だったら監視カメラがあってそんなのすぐ逮捕だしね」
「あんまりあの子そういうのしそうにないしね……。あ、でも」

 あの子、ゲーム結構得意だったよね。ぽつりとつぶやかれたその言葉を聞いて、レイは即座に反応する。

「もしかして、賭けてゲームとかしてました?」
「うん、たまにね。学校の帰りとか、今のゲームセンターは見てるだけでも面白いし」
「メイは落ち物とか単純なの凄い強いんだよね。あ、あとリズムゲーム凄い得意だった。十年くらいピアノやってるって言ってたし」
「お金ほしいなら休み中、籠もってランク上げてたとかあるかも」
「なるほどー、分かりました! 行ってみます。あ、あとこれお礼です」

 レイは会話を切り上げ、三人にコンビニで買っておいた未開封のチョコ菓子を渡す。
三人組の一人は名残惜しそうにレイの頭を撫で、一人に止められてようやく離す。

協力してくれた彼女たちのクラスメイトのユーザーにもその場で携帯からポイントを振込み、ついでにと余分に買っておいたお菓子も渡す。彼女はそれを受け取り、笑いながらまた頼みがあったら手伝うね、と言ってレイと別れた。三人組は見事に騙されていたし、協力者はレイの、これは内緒なんですけど、検索士の仕事なんです、という言葉にすっかりいい気になっていた。



 高校の立地的には、普段使っているのは池袋か新宿のゲームセンターだろう。しかし、それでは匠が問い合わせたのに学校で証言がなかったことに疑問が残る。一人くらいは顔を合わせていてもおかしくない。少し離れた場所の可能性が高いと判断したレイは、駅の監視カメラを家を出た時刻と移動時間を考慮して時間の幅を指定し、渋谷、新宿、池袋の順で絞り込んで検索をかける。

結果が出るまでの間にタクシーに再び乗り、中間点である新宿へ向かう。幾つかの画像が上がってくるたびに確認し、やはり渋谷駅で降りた可能性が高いことを突き止めた。

渋谷駅近くの主要なゲームセンターは二つ。一つは掛け金の高いランカーが集まる、元々はパチンコの会社だった『丸』の流れを組む『WAVE』。もう一つは大手ゲーム会社系企業『SS・Plane』直営の『プレインプレイ』だ。

どうやら、前者の方が鳴の目的に叶いそうだと判断したレイは迷わずそちらに向かう。そして、その先には深いブルーの光を発するレイの私室にあるサーバのような外観の建物があった。



中に入り、一階の飲食可能なスペースの端にある受付で若い店員に声をかけ、身分を証明する検索士免許を見せる。しばらくすると、レイは奥に通されて店長がその場に呼ばれた。

「検索士の方ということですが、何か当店に問題でもありましたか?」
「いえ、人探しの依頼を受けてこちらを訪れた可能性が高いとの結果が出たので、監視カメラとログの閲覧許可を頂きたいのですが」

「ログも、ですか」
「はい。ですが店の営業を止める必要はありません。カメラの方は、三日の十時から十二時までのものと、今日の開店から十二時までのものをまず見る予定です」

「かしこまりました。それならこちらとしても問題ないと思います」

 許可が降り、レイはさらに厳重に管理された別室に通された。売上等を確認、分析するためのコンピュータが置かれているそこで、必要とする情報を探す作業に取り掛かる。



[39533] 1-3
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/02/28 03:33
二〇二四年の世界を語る上で外せない年号が三つある。

一つ目は二〇一八年。中国で不況が起こり、世界は二〇〇八年のリーマン・ショック以来十年ぶりとなるチャイナ・ショックに巻き込まれた。しかし、日本に限っては逆の現象が起きた。
インテリジェンス・エクスプロージョン、『知識の大爆発』と呼ばれたその年、日本ではまるで示し合わせたように様々な技術が形になった。車の自動運転の完成、機械とバイオ技術の融合による介護の手間を四分の一にしたと言われる用品の普及、植物工場でのイノベーション、それまでの倍の容量を持つ小型バッテリーの実用化、異色なところではデビューからわずか三年で世界で十億部売れた、手塚治虫の再来と呼ばれる創作集団の台頭などである。それらは目に見える形で生活を大きく変えることはなかったが、雇用には大きなプラスの影響を与えた。

二つ目は翌二〇一九年。好景気で投機資金が海外から流入。日本はバブルに踊っていた。まだ若かった与党党首は平成不況がもう一度来ることを恐れた。今度同じことが起きれば間違いなく財政は破綻する。そう判断し、海外からの投資の規制法案と、財政健全化のため公務員を四分の一にする代わりに十%だった消費税を五%まで引き下げる公約を掲げた。公務員対民間企業の対立図式を作り上げた結果、マスコミを味方につけ選挙に辛うじて勝利する。
反発を受けながらも改革は断行され、自衛隊の人員は維持、教職関係者はむしろ数年をかけて三割増やすことを掲げて教育のレベルを上げようとした代わりに、それ以外の組織は事務手続きを機械に任せて大幅に縮小された(正確には解雇ではなく給与の平均が大幅に引き下げられた結果、退職者が急増した)。当然、警察もである。好景気の雇用情勢下で職を得ることは難しくはなかったが、治安の悪化はやはり避けられなかった。それに加えて老齢で仕事が見つからなかった者達からは憎しみを込めて『遅れてきた世紀末』と呼ばれている。

最後に二〇二〇年。自動運転技術が条件付きで認められた代わりにその事故対応と治安維持を目的とし、公的な場所への監視カメラの大量投入と検索士制度の導入がなされた。そして税収の増加を表向きの目的とし、実際は治安悪化により地下に潜ることを恐れてそれまでのものを含めてギャンブルが全面的に見直された。代わりに電子マネー取引による、記録の残る形での賭博の解禁、『公営ギャンブル法』が施行された。

翌年から国債残高は少しずつ減少に転じ始めた。諸説あるが、概ね二〇一九年の改革は成功だったと言われている。予測されていた公務員削減による給与水準の低下から来る民間消費の落ち込みは、『知識の大爆発』と『公営ギャンブル法』のおかげで当初予測されていたものよりもかなり小さな振れ幅に収まっていたからだ。
職を失った大人のための職業訓練校の整備が優先されたため、子供の教育に関しての改革は中途半端な形が続いていたり、他方、犯罪者増加による裁判手続きの簡略化が現在も模索されているなど、「普通に暮らしている分には変化を感じない」不可思議なバランスの上に成り立つのが、この二〇二四年の世界だった。



「Roiさん、ですよね?」
 人だかりの出来たFPSゲームの筐体から、勝利に対する称賛の声を浴びながら離れる少年にレイはそう問いかけた。

レイよりも随分と背の高い、ふちのない高級さを感じさせる作りの眼鏡を掛けた少年だ。野性的な笑顔が特徴で、しかし間違いなく一級品の精巧なテクニック持つことは今しがたのプレイで見て取れた。今どき珍しい詰め襟の学生服は脱がれ、脇に置かれたカバンに添えられており、シャツの上には薄手の鮮やかなオレンジ色のパーカーを着ている。間違いなく美形なのだが、明るい茶色に染めきられた髪だけがまったく似合っていない。

「ああ、そうだけど。おまえは?」
「ぼくはArrayです。今日のお昼前に対戦したSatsukiっていう女の子についてちょっとお話を聞きたいんですけど」
「どうやって調べたのかは知らないが、確かに覚えてるぜ。あの時間に腕の良い女子がいるのは珍しかったからな。話してやってもいい。でもな、タダってわけにはいかない」

 ロイは口を大きく横に開いて獰猛に笑った。獲物を見つけた肉食獣のようだった。

「お前もランカーだろ? 欲しいものがあるんだったら、賭けておれと勝負しろ」



「いつも『WAVE』をご利用の皆さんありがとうございます! 突然ですがただ今より、当店六階VIPルームにて、現在注目度No1.この三月に彗星のように現れ、複数競技でランク急上昇中の『Roi』vsその甘いマスクから女性人気も高く、総合ランカー歴は最初期から始まり実に四年にも及ぶ『Array』の三種九本のランカー対決が行われます!」

 事務所にいたものと同じであるとは思えない店長の陽気なアナウンスが流れ、同時にネット上で様子が中継される。レイは久しぶりのことにも戸惑うことなく、店のカメラをクラックし、画像認識ソフトを通すことで自分とロイの顔にそれぞれの使用するアイコン画像を貼り付けた。

「おーっと相変わらずニクい演出です、Array選手! ネットには自分の顔は晒さないという以前の言葉を守っています。気になる方は今すぐ渋谷『WAVE』までお越し下さい! 直接なら二人の顔を見ることが出来ますよ!」

 SNSを通して情報は拡散され、二人の試合はすぐにそれ自体が賭けの対象となる。戦歴が公開され、分析され、架空のしかし現実で意味を持つ金銭が動く。

「ゲームはArray選手から挑まれたため、彼が最初の種目を選択、それを受けるRoi選手が残りの試合で二種目を選ぶこととなります。九試合の内、半数以上を取った方が勝利となり、賞金は二人の間では十五万が動きます! 加えて皆さんの掛け金から五%が勝ち数に応じて与えられ、その他のルールは二人の間で取り決めがなされます!」

 機械的に生成された特製のWEBページには、中央に大きなVIPルームの映像、その下にレイとロイそれぞれが使う筐体の画面、その横に彼らの情報ページへのリンクとベットされた金額、掛け金の倍率が表示され、数秒ごとにその数字は変化していく。

VIPルームではその店にある全ての対戦可能なゲームの筐体が二台ずつ準備されている。その内の一つに二人はそれぞれ座る。筐体の置かれたエリアの外にはベットを読み取る機械とモニター、椅子が置かれており、その場に集まった若者が飲み物やお菓子を片手に試合が始まるのを今か今かと待っていた。

「まったく、大げさなことになりましたね」
「いいじゃねえか。人を驚かせたり、そういうのも面白いだろ?」
「ぼくだって同じ気持ちですよ。じゃなかったらここまで時間を費やしたりなんかしない。でも、それとは別に今回は負けるわけにはいきません」
「そうこなくっちゃな! もちろん、手加減なんてしないぜ」

 レイは最初のゲームに、ややマイナーなコンシューマ機が原作の、3Dメカアクションを選んだ。
二人は携帯のアプリを起動し、操縦席の中央に置く。ユーザーデータが認識され、賭けの内容が許可される。それを見て観客たちもアプリを立ち上げ、二人の機体選択、パーツのカスタマイズを待って思うままに手元の機械にかざし、ベットする。

そして、観客席からの秒読みをもって最初のゲームが始まった。



こいつ、おれのことを知ってやがる。それがゲーム選択がされた際にロイが思ったことだった。

公式のプレイヤーランクはおよそ二十種の主要な対戦型ゲームでの各ランキングから計算される。ランカー同士の対戦を成立させるために、スポンサーである主要メーカー三社から一種ずつ決められた三種のゲームには必須で参加する必要があるが、他への参加は個人の自由だ。
賞金がかかるようになってから、アーケードゲームの人口は増加した。年間利用者はユニークユーザー数でおよそ五百万人以上であり、さらに現在も増加中である。その中の総合ランクで順位を維持するだけで賞金が入るランカーと呼ばれる全国千位以内を目指すには、通常その三種の他、もう二種から三種程度を選んで各ランキングの上位に入る必要がある。参加人数が少なく狙い目と見られると新しくそのゲームに人が参入するので、上位の入りやすさは均衡が自然と取れるようになっているのだ。

ロイは解説された通り三月からランカー入りを目指してゲームに取り組んで来た。わずか二ヶ月のランカー入りは例を見ない速度である。彼の戦略は通常よりも多い、十種以上ものゲームに幅広く参入することでポイントを集めるというものだ。当然、一つあたりにかけられる時間は少なくなる。しかし、それは彼にとってあまり問題ではなかった。
彼は、同一ジャンルならゲームの基本的な構造は同じだと捉えている。そして、彼にとってのその認識は順位から実証されている。指定三種は別だが、あるゲームのランクの伸びが悪くなった時点で同ジャンルの他のゲームに参入することを繰り返し、その結果として今の地位を掴んだ。
普通であれば得意分野を持つプレイヤーとの一対一の勝負には「深さ」の面で敵わないはずだが、彼の並外れたセンスがその差を埋めていた。年齢がそう変わらなければ間違いなく最強プレイヤーの一角である。だが、今回に限ってはその優位は役に立ちそうになかった。



このゲームは……、反射能力よりもそれ以前の戦略部分の要素が大きい。パーツのカスタム種類が多すぎる。コアなファンは多いが、全体のプレイヤー数は少ないゲームの一つで常道がいまいち確立されてない上に、おれがまだ参入したてだっていうこともおそらくバレていやがる。

中距離からの障害物を上手く使ったコンボ攻撃でロイの機体の耐久力は徐々に削られ、やがて畳み掛ける突進でゼロになった。ほとんど一方的な試合運びだった。

テンプレのカスタムを狙い撃ちしやがったな……! クソッタレが。でもいいぜ。久しぶりに面白い相手だ。コイツとの勝負は単純なゲームの腕を競うものじゃねえ。情報戦と心理戦だ!



二試合目。レイは相手の動きに妙なものを感じていた。本気で戦っている気がしないのだ。ロイは威嚇のためにだけ射撃を繰り返し距離を取り、武器も最初とは異なる超長距離のものとなっている。何より、殺気とでも言えるような先ほどの試合で垣間見た反応速度がかなり鈍っている。

どういうことだろう? そう思ったレイは、一瞬、目の前の画面から半分だけ視線を切り隣の様子を見た。落ち物で見られる『凝視』と呼ばれる技術である。そこには、筐体においた携帯とは別の携帯を片手で操作するロイの姿があった。

やられた! そう思ったレイは、すぐに勝負を片付けるべく普段の自分の戦い方を改め、接近戦に切り替える。相手の機体はそれから逃げるようにフィールドをさまようが、やがて追い詰め何とか倒すことに成功する。しかし。

「十分に情報は集まったぜ。これから先、おまえに勝ち目はねえ」
 ロイはそう言ってにやりと笑った。



 三試合目はまさにその言葉通りの展開となった。過去のデータからレイの機体とパーツの選択は完全に読まれ、それへの対策を練ったカスタムでロイは迎え撃ったのだ。

通常であれば、多少相性が良い程度では急に選んだカスタムを使いこなすことはできない。それゆえにレイも、テンプレカスタムをしてくる中級者狩りの組み合わせと、自分の性格に合った、流れで追い詰める戦略重視の使い込んだ組み合わせの二種類を多少弄って使う程度だ。

だが、ロイは通常のプレイヤーとは異なるゲームの参入をこなしており、その対応力はそれだけを見ればトップクラスを誇る。彼には慣れない動作も結局はどこか触ったことがあるものの改変に過ぎない。最初のレイの猛攻を何とか耐えた後は見違えるように動きが良くなり、短い試合時間の中で、彼はほぼ完全にその機体を使いこなすまでになったのだ。



「こいつで、終わりだぜ」
 そう言ってロイは最後の射撃を行った。観客席の誰もがその場でレイの敗北を予期した。しかし。

「バカな!」
 爆煙の後、画面に映し出されたのはわずかに残った耐久力と、油断して動きを止めたロイの機体を、パーツの組み合わせによるきれいなコンボ攻撃で追い詰めるレイの機体の姿だった。

「おーっとこれはどうしたことでしょう!? ありえない事態が起こりました! 間違いなくあの一撃でArray選手の機体は倒されたはずです!」



「おまえ、今のどうなってんだよ?」

 試合は結局レイの勝利に終わった。だが、見ていた観客の中にも「不正」の二文字を疑った者は多い。しかし、その場でゲームのプログラムを書き換えることなどレイであろうとも出来はしない。レイは店長に歩み寄り、持っていたマイクを受け取った。

「今のプレイに関してですが、ゲームの仕様の穴をついたものです。3Dの描写速度が微妙に追いついておらず、特定のステージでぼくの使っていた機体では実際の見た目と当たり判定がわずかにずれる現象が起きます。通常であればまず問題とはならないのですが、Roiさんの場合、相手が動いた先を予測して攻撃する癖がありますので、そのわずかな差が見た目と与えるダメージの違いを生み出しました。何度でも再現可能な現象です」
 あ、ちなみに次のバージョンで修正されます。とレイはぽつりとこぼした。

バグと呼ぶにはあまりにそれは小さな隙間だった。そう、ロイの能力が高すぎるためにわずかに攻撃の着弾点がずれ、ダメージが予期していたものにはならなかったのだ。
このゲームは元はコンシューマ機のもの。アーケード開発は難航しており、レイもその助っ人として開発の手伝いをしていた。午前中に高速化を行ったのはこのゲームの次のバージョンだったのだ。
 レイの説明を聞いて、会場からは感嘆の息が漏れた。中には開発者一覧を検索し、その中にArrayという名前があるのに気づいた者もいた。

ロイは、それはそれは面白いものを見つけた子供のような表情を浮かべる。
「なるほどな。だけど、ここから先はおれが選ぶゲームだぜ。おまえならそれがどういう意味か分かってるはずだ」



[39533] 1-4
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/01 02:18
 次のゲームは、レースゲームだった。指定三種の内の一つで、アイテムなどの不確定要素のない、正統派を売りとしているものだ。こちらも元はコンシューマゲームだったが、先ほどのゲームとは開発費や知名度で天と地の差がある。その名を使いたがったスポンサーが法律の制定を前にブランドを開発チーム丸ごと買い取り、自社の主力製品と位置づけていたのだ。つまり、バグなどによる通常想定していないプレイングでの奇襲はありえない。その結果。

「おおっと! Array選手! 最後の抵抗、開幕の奇襲も虚しく躱されてしまった! 先ほどの競技とは異なりまったく良い所がない! これは勝負あったか!」

 レイは、三連敗を喫していた。レイも決して遅くはない。指定三種であることとは別に、純粋なドライビング技術を競うこのゲームは総合ランクに関係なく、これ専門でプレイする大人のプレイヤー『走り屋』も多い中、彼は一五〇位前後に入る実力を持っている。

しかし、このゲームに限っては、激戦区ながらロイの個別ランクはベスト十位以内に入る。彼の強み、幅広いゲームへの対応力は確かに注目に値するものの、同じ力を持つものは法律制定以前からの歴戦のプレイヤーの中には少なくない。彼の本当の強み。それは、どんなゲームでも最重要とされる能力の反射速度、それがずば抜けていることだった。

「読めてたぜ。最後に賭けに出てくるってことはな! 確かに開幕の接触でこっちのパーツを壊しちまえば思った通りの走りは出来ない。でも、おれは他のプレイヤーとは違うぜ。元々リアルでのカーレース経験もあるからな。純粋な速さだけで勝負が決まらないことなんて百も承知だぜ!」
 まあ、F3に行くって言ったら動画を見た爺様が腰を抜かしてライセンス取れる歳になる前に引退させられちまったけどな。ロイはハンドルを離し、そう呟いて苦笑いをした。



「さあ、ここまでの戦績は互いに三勝三敗! 一見互角のように見えますが、最後の競技はRoi選手が選ぶことが決まっております。まったく歯が立たなかった二種目と同じ結果になってしまうのかー!」

 司会の店長が場を煽る。それに応えるようにロイは両手を広げ上に突き出し、先ほどの勝ちを誇るような仕草を見せる。観客たちは否応なく盛り上がり、掛け金は積み上がっていく。
しばらく、レイは何も言わず口に握りこぶしを当てて考えこむ仕草を続ける。
薄い反応にしびれを切らしたロイが最後の種目を宣言する。しかし、歓声があがる前に場は突然の叫びで満たされた。

「ぜんてーい! へんかんっ!」

 やや高い、幼さを残したレイの声がVIPルームに響く。何を言ったのかその場の誰も理解できなかった。いや、一人だけ理解したものがいた。それはレイの横に立つロイだった。

「また、マイナー所の用語が出てきたな。それで、おまえはどうするんだ?」
「交渉に入ります。最後のゲーム、ぼくは代役を立てます!」

 レイの言葉に場はざわつき始める。司会役の店長も思わず言葉を失ってその場に立ち尽くす。その真意を問おうとすると、ロイは店長の持っていたマイクを奪った。

「がちゃがちゃ騒ぐんじゃねえ! これはおれとこいつの勝負だ。それに、最初に店長も確認してたはずだぜ。賞金と種目を選ぶ以外のルールはおれとこいつの間で決めるってな。さあ、交渉の時間だ。よく見とけ。これもゲームの内なんだぜ。納得できる条件じゃなきゃおれは了承しねえ」

 ロイはその一言で場を静まり返らせた。そして、店長の腰に刺さっていたもう一本のマイクをレイに放り投げ、その言葉を大胆不敵な笑みで待つ。

「はいっ! ぼくは今からランカーであるプレイヤーを探し、八〇分以内にこの場に連れてきます。そしてその人に僕の代わりに戦ってもらいます」

 だが、ロイはその言葉をすげなく却下する。
「それじゃ駄目だな。まず第一に、さすがに時間がかかりすぎだ。三十分なら待ってやる」

 ロイの反応をまるで予期していたようにレイは言葉を返す。
「いえ、ならば五〇分でどうでしょう」

 それに対し、ロイは思わず頬の筋肉を一瞬だけ緩めた。
「なるほど、交渉の基礎は分かってるみたいだな。時間はそれでいい。だが、まだ足りねえ。さすがに三試合全部他人に任せちまったら周りも納得しねえだろう。おまえはどうする」
「そうですね。なら、場を持たせる意味もありますし、一試合目はぼくがやります」

「残り二試合は両方とも他のやつに任せるっていうのか?」
 ロイの言葉は少しだけ緊張を場にもたらした。だが、それに答えるレイの次の言葉はその場の誰も予想していないものだった。

「いえ、最後の一試合はRoiさんにどちらと戦うかを決めてもらいます」
「おれに?」
「はいっ! ぼくは必ずあなたが戦いたいって思う人を見つけてみせます!」

 ロイは、その言葉を聞いて確信した。こいつはやっぱりおれのことを分かっている、と。
「そいつは面白え、強いだけじゃあ、駄目だぜ。おれは、おれが認めたおまえより戦って面白いって思えるやつじゃないと納得しねえからな!」



 二人は、すみやかにルールの細部を決めた。掛け金が動く場合は変わらずレイが責任を追うこと、ランクの変動に関しては今回は最終戦に限り無効とすることなどだ。周りからも文句は出なかった。類を見ない展開で掛け金は大きく膨れ上がっていたし、何よりそれが「面白そう」だと見ているものに思わせたからだ。
しかし、それを見るものの中にはレイの提案を疑問視するものもいた。ルール違反などと文句をつけるのではなく、それが果たして思った通りになるのかということについてだ。

一時間でランカーを連れてくる? 確かにここは東京でプレイヤー人口は多い。まだ不可能ではないだろう。だが、それはレイに前もって心当たりがあればの話だ。
自分にまったくメリットのない試合にわざわざ参加する? これも、レイと非常に深い仲のものであれば不可能ではないだろう。
あの反射速度を誇るロイが最終戦に選んだゲームで、この雰囲気の中、勝つことが出来るのか? それもおそらく二連勝。さらに一戦でそのプレイヤーの魅力をあのロイに分からせないといけない。可能なプレイヤーがどれだけいる?
 そして、それら全てを満たすプレイヤーが、果たして存在するのか?

 刻一刻と変化する賭けの倍率がそれに答える。その可能性は、あまりに低かった。



レイには、まったく心当たりなどなかった。

何人か知り合いの上位ランカーはいるが、それはどれも大人で、今はまだ五時前だ。ほとんどの会社で定時にもなっていない。わざわざ来てくれるだろうという人物はただの一人だっていなかった。

レイは、今こそ自分の持てる力の全てを開放した。手元に広げたノートパソコンから、自宅のサーバを起動し、現在自分の試合を見ている人数を割り出し、三十分程度で来れる範囲にいる人数を推測する。そして、これから行われるゲームの個別ランキングで上位から順番に、普段活動拠点にしている位置をネットから得た目撃情報と重ね合わせ、対象を絞り込む。
ロイの次のゲームでの個別ランキングは、一〇〇位前後だ。だが、参入した時期を考慮に入れれば、運の要素が低いジャンル的に実力はそれ以上のものがあると見て間違いない。
絞りこまれたのは、わずかに十人。しかし、その内半数は社会人であることがネット上にアップされていたプレイ動画から確認出来た。
レイは検索士の力でランカーの認証端末に使われる携帯の識別番号を取得し、その情報からキャリアの個人情報をハック。祈りを込めてメールを送った。

 どうか、ぼくを助けて下さい。あなたの力が必要です。

レイが最後に信じたのは、自分の頭脳などではなく、プレイヤーの誇りと、人の善意だった。



レイがメールを送ると、約束通りその瞬間からロイは自分の携帯のタイマー機能で時間を計測し始めた。しばらくすると、レイは携帯の画面を見て少しだけ表情を緩め、そしてどこかに電話をかける。内容は定かではないが、それほど長くは話していない。
十分ほどが経ち、店長がこれまでの試合の展開を再度解説し、やがてそれが終わるとレイとロイ、それぞれの戦歴について語る。場をしばらく繋いだものの、そろそろ限界だといったところで、レイは一試合目を持ちかけた。

「いいんだな?」
「はい。この後のことはもう大丈夫です」
「分かった。それじゃあ始めるぜ。準備して、曲を選びな」
 二人は準備を始めた。レイは店が用意した専用のシューズに履き替え、ロイは自分で持ってきていたよく手入れされた汚れのない底のすり減ったシューズを履く。
ゲームの種類はリズムゲームの一種で、画面に表示される矢印のタイミングに合わせて足元のパネルを踏むというものだ。

ロイは、レイとの対戦が実質これで最後になる可能性を考え、曲の選択権を与えた。二曲目はロイに選択権があり、三曲目があるのであれば自動で決める約束だ。

レイはそれを受けて、特殊な曲を選んだ。それはロイが二曲目に選ぼうと思っていたものだった。観客席のカウントダウンがゼロになると、曲というよりも、むしろ純粋な脚さばきを競うだけの音の連なりが会場に流れ始める。

二人はまったく同じ構えをとった。背中の部分に立つバーを両の後ろ手で握りしめ、ほとんど体重をそれに預けて腰を宙に浮かしたまま、まるで早回しのような速度で一心不乱に足元のパネルを、踏むというよりもむしろ連打するようにほんの一瞬ずつ触れては蹴り続ける。辺りには異様な音が響き、二人の筋肉は酷使され、完全な無酸素運動に入る。

曲はやや短めの三分間ほどだったが、間違いなくすべての曲の中で最も消費カロリーは大きい。最後の矢印が画面から消えると、二人は手をバーから離し、その場に崩れ落ちた。

ロイの、勝ちであった。最高点の百万点に迫る、九十七万点という、文句のつけようのないスコアだった。対するレイは九十万点。このゲームのランカーとしてはむしろ下位のレイのスコアとしては十分過ぎる点数。しかし、そんな健闘も、結果が全てのこの世界においてはあまりに残酷な意味のないものでしかなかった。

「……まあ、まあ、だった、ぜ。……ふう。ランクから見て、もう少しスコアは、低いと思ってたけど、これはやりこんでた、みたいだな」
「ふー、すー、はー。うん。普段、運動しないから、カロリー消費の、一番大きいの、なんだろうと思って、こればっかりやってたら、いつの間にか、ランカーに入ってたんです」

 この曲での対戦はほとんど行われていない。半ばネタ扱いされているもので、時々一人プレイが動画で上がるだけだ。しかし、目の前で起きた人間離れした二人の動きに会場の熱気は一気に高まった。

「これは物凄いものを見せてもらいました! 勝者はRoi選手でしたが、Array選手も大健闘! 上位ランカー並みの得点です! 勝ち目がないようなことを言っていたが、これは曲目によっては勝利もあり得るか? 先ほどの交渉はブラフだったのか!」

 興奮冷めやらぬまま、中継動画の視聴者数も増え、掛け金はさらに積まれていく。そして、二人が息を整え終わると、ほぼ満員の様相を呈していた観客席から、一人の少女が筐体の置かれたエリアへと進み出た。



[39533] 1-5
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/02 02:07
少女の周りは、空気が凍りついているようだった。日本人形めいたドールボブ。その髪色は、北欧の雪寒い針葉樹林の緑めいた深い深い黒。思わず、その場の誰かが息を呑んだ。少しだけ垂れた細く開かれた瞳、どこか憂いを帯びた表情。決して大柄とは言えないレイよりもさらに小柄な体形が、その全体のバランスをより一層危ういものとしているが、しかし不思議と人の視線を惹きつけてしまう。

レイは慌てて彼女の顔を画像認識ソフトを通してカメラにはアイコンとして映るようにする。そうすると、少しだけその口元が緩められた気がした。

「はじめ――まして。わたしは――HATSUNE。今日は――あなたの。顔を――見に来た」

 不思議な、声だった。言葉の途中で一度息を切る話し方自体は、奇妙なことではあるが、それほどおかしくは感じなかった。むしろ気になったのは、その声質だった。人の気持ちを揺さぶるような、落ち着けるような、矛盾した性質を持ち合わせているとしか思えない。聞く人によって感想が異なるのではないかという、そんな声をしていた。

「ハツネ?」
「初期の頃のボーカロイドの名前です。十五年くらい前に出て、大ヒットするきっかけになったやつ。キャラクターが有名だから、一度くらい見たことがあると思います」

 思わず名前を聞き返したロイに、レイが答えた。何故その説明が口から出たのか、レイにも分かってはいなかった。それが本名でないとはどこかで確信していた。それでも彼女の呼び名にはぴったりだと思ったのだ。

「準備を――するわ。手を――貸して」

 冬用と思われる厚手でぶかぶかのパーカーに、七分丈のジーンズ、素足にコンバースのスニーカーという、なんともでたらめな格好。パネルの端に腰を下ろすと、彼女は両足を伸ばしてレイの方に突き出した。
何となく、言葉もなくレイは靴を脱がしてやる。会話のないまま時間が流れると、沈黙を破るように三人のいる場所に誰かが踏み込んでくる。

「ちーっす。何でも屋、百(もも)でっす。ご注文の品、お持ちしました。料金とこちらにサインをお願いしまっす」

 そう言ってその場の誰よりも年上に見える大学生くらいの男はレイの方に袋を差し出した。レイはすぐに携帯で料金を振り込み、サインをして代わりに領収書と袋を受け取る。

「確かに受け取りました。またのご利用、よろしくお願いしまっす」

 男はすみやかにその場を去り、レイは袋から一本のペットボトルを取り出した。自販機やコンビニでは取り扱っていない、マイナーな白ぶどう味の飲料だ。これでいいのか、と確認すると、ハツネはこくりと小さく頷いた。蓋を開けて渡してやると彼女はそれを両手で持ち、顎を上げて静かに少しずつ口から体内に流し込む。白く上下する喉元が、どこか官能的だった。
気がつくとレイは彼女の手を優しく持ち、その場に立ち上がらせていた。そして、誰もが言葉を失ったままにも関わらず、対戦者の二人の自然な動きで二戦目が始まる。



ハツネが選んだのはNHKの教育用チャンネルでかつて流された童謡風の曲だった。
アレンジはあまりされておらず、どこか物悲しい曲がすっかり静まり返った会場に流れる。

レイと戦った曲に比べれば簡単なはずだとロイは考えていた。しかし先ほどよりさらに短いその曲が終わってみると、ハツネは実に十五万点もの差をつけて圧勝した。

前の曲とは、根本的に比較するものが違う。そう、ロイは思った。この曲は、正確さや速度を競うものではなく、リズム感を競うものだったのだ。曲が短い分、採点は恐ろしく厳しかった。自身も幾つかの楽器の経験があったため、これまでその点で劣っていると感じたことはなかったが、ここで初めてロイは越えがたい壁を感じた。おそらく、一つの物事に対し、膨大な時間を割いた結果がこの結果をもたらしている。そう、思わざるをえなかった。



会場はどこか静謐な空気を保ったまま、最終戦へと移ろうとしていた。しかし、その前にハツネは先ほどと同じようにパネルの端に座り、脇で見ていたレイに足を突き出した。レイは、先ほど届けられた袋から、ウエットティッシュを取り出し、ハツネの足を丁寧に拭いた。足の甲、足首、かかと、裏、土踏まず、指先の一本一本、その付け根、爪。それらをゆっくりと雪に触れるような力加減で。それが、ハツネがレイの頼みを受ける際に出した条件だった。
彼女はなすがままにレイの手の動きを受け入れ、時おりくすぐったそうにぴくりとその小さな足を震わせた。やがて、少しだけ湿った両足を見て満足そうに頷いた後、レイにまるで赤ん坊のように腕を伸ばす。レイはその両脇を支えてゆっくりと彼女を持ち上げた。

「わかったぜ、思ってたのとは違うが、なかなか面白いやつじゃないか。次の相手も、そいつで構わない」

 ロイのその決断は、幾つかの要素によってもたらされた。一つ目は、単純にこの女に勝たなければならないという、自分の負けをそのままにはしておけないプライド。もう一つは自動でテンポの激しい曲が選ばれた場合、レイの方がハツネより強敵になるのではないかという自身の戦略眼によるもの。そして、心の隅にあるのは出会ってからまだ短い時間だが好敵手であると認めたレイを取られたという、どこか嫉妬心じみた自分でも良く分からない感覚。



三人の思惑と会場の異様な雰囲気が絡み合い、ついに最終戦が始まる。
機械によって選ばれたのは、有名な洋楽だった。レイたちが生まれるはるか昔、今から六〇年も前の曲だが、一九九〇年に映画の主題歌に起用され、未だにCMや動画で使われることも多く、その場にいる誰もが聞いたことのあるほどの超有名曲。

ロイはその選択がされたのを見て、勝利を確信した。曲自体は明るくアップテンポで、横にいるハツネがそれを聞く姿はとても想像できなかったのだ。

曲が始まる。思った通り、リズムも取りやすく、簡単な部類の曲。しかし、ハツネには到底似合わない曲。
自分の足さばきを一つ一つ確かにこなしながら、ふとロイはやけに会場が静かであることに気づいた。いや、静かではない。気が付くと目の前の筐体から出たものではない一定のリズムの音が段々と大きくなっていく。これは、何だ? 

レイとの対戦でされたように、自分も画面と足元に可能な限りの集中力を注ぎ、わずかに右目だけを横のハツネに向けて凝視を行う。そこには、信じられない光景があった。

普通に、踊っている。

足だけを動かしているのではない。彼女のどこか眠たげな横顔はそのままだ。だが、全身を使いリズムを掴み、腕を伸ばしながら、身体を大きく振り、画面から当たり前のように目を離し、ときに回転しながら、ステップを踏みながら、ハツネは踊っている。しかしそれは単なるダンスではなく、ゲームの趣旨を忘れずに確実に足元のパネルを捉えている。

大きくなる音の正体は、観客たちの手拍子だ。レイが始めたのであろうか? 今やそれは観るものほとんどを立ち上がらせ、空気を大きく震わせるほどの音となっている。

唖然としながらも、ミスをせず最後の一音まで自分の動きを続けられたのは、ロイのプレイヤーとしての本能によるものと言うほかない。それは誇られるべきものだった。何よりも、彼自身は気付かなかったが、ロイは今までのプレイの中で一番うまく踊れていた。

そして、曲が終わる。一瞬の静寂。わずか一万点差でハツネの勝利が表示されると同時に、会場は歓声の爆発に包まれた。



[39533] 1-6
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/03 04:29
岩崎鳴は、すっかり憔悴しきっていた。

腰を少しだけ浮かし、自分の体形に合わない、大きな背もたれのついた椅子に座り直す。おずおずと右手を伸ばし、めくるように三本の指で牌をツモり、視線を雀卓にわずかに向ける。今引いてきた牌を見る。ここまで切られた捨て牌を、自分の分も含め都合三人分確認する。

きっと、また、上がられてしまう。

麻雀には、自信があった。彼女の自宅には全自動卓があり、父やその友人、ときには母親と、何度も卓を囲んだ。歳を経るごとに、段々と勝てるようになっていくのが嬉しかった。そのゲームは複雑で、知性だけでは勝ち得ず、しかし完全に運に依存するものでもない。効率だけを考えるのを止め、他のプレイヤーの考えを読むようになってからは、勝率はいっそう上がった。自分の名前の鳴だって、きっと麻雀用語から取られたものだと思うくらいだ。

女の子らしくない趣味だ。友人に話したことはない。だから、誰かが助けに来てくれるなんてことはありえない。

気づくと、麻雀で培った集中力は、他のゲームでも役に立っていた。父を救うために、金が必要だと思ってゲームセンターに向かったのは、ごく自然な選択だった。
事実、ゴールデンウィーク中は順位を大幅に上げ続け、もう四ヶ月も続ければランカーになれるだろうと観客も言うほどだった。一対一の勝負では連勝が続き、わずか四日間で五十万ほどを稼いでいた。カプセルホテルの代金と、食事代に少し使ったのを引いても大幅な黒字だ。
だから今日の午前、ランカーに勝負を挑んだのだって、勝算があると思ってのことだった。彼は確かに圧倒的に強く、自分はあっけなく負けた。五万ほど失ったのは悔しいが、より掛け金の高く、自分に合った雀荘を紹介してもらえたのは幸運だった。
言葉の通り、掛け金はゲームセンターよりも高かった。家でしか打ったことはなかったが、実力は確かなものだったようで、一度は百万も稼ぐことができた。だが、そこで帰る前に最後だからともう一勝負を受けたのが間違いだった。

もし、これで負けてしまったら、自分の負けは百万になる。

目の前の歯の欠けた男は、そんな自分の様子をニヤニヤしながら見ている。右側の男は、ピーナッツを右手で皿から掴み取り、口の中に放り入れ、下品な音を立てながら咀嚼している。逃げようと思っても、左に座る表情のない男を抜けられるとは思えない。そして、何よりも個室の出入口の側には、鼻の頭に傷のある、どう見てもカタギには見えない男が座っている。

どうしようもなく、牌を切る。それを見て目の前の男が手配を倒し、上がりを宣言しようとしたところで、開くはずのないドアが唐突に開いた。

「鳴さん、迎えに来ましたよ」

 見たことのない、少年だった。歳は自分と同じか、一つ下くらいだろうか。優しげに微笑む整ったその顔は、友人の一人なら一目で恋に落ちそうだなと、ぼんやり思った。

「ああン? なんだよ、坊主。ここは子供が来るようなところじゃねえぞ」
 その場にいた全員がそちらに顔を向け、上がりを邪魔された目の前の男が不機嫌な声を上げた。

「彼女を、連れて帰ります」

 その一言に、目の前の男は、思わず吹き出した。ひゃひゃひゃひゃと、息を吸いながら気持ち悪く笑う。
「その嬢ちゃんはな、自分の意志でそこに座ってるんだぜ」

 少年がその言葉に反論しようとすると、ドアの横の、今まで一言も口をきかなかった男がそれを制した。
「待ちな、坊主。そいつの言う通り、その嬢ちゃんは百万ほど負けてるんだ。それを何とかするまではここから離すわけにはいかない」

「彼女に支払い能力があるとは思えません。どうするつもりだったんですか?」

 鼻に傷のある男は、珍しいものを見るような目をして、すぐ横の少年の顔を見つめた。
「別に、風俗をやらせるとかは考えちゃいねえよ。どうせ、高校生くらいの歳だろう。今のこの国じゃあ、そんなことしたら俺達の方があっという間に捕まっちまう。外国に出りゃあ話は別だが、俺達はちんけなチンピラ崩れだ。そんなコネもねえ」

 意外にも、男はそんな常識的なことを言った。鳴は、少しだけ力が抜けた気がした。

「だが、半日ほど見たが、手筋はなかなかのもんだ。すぐに手放すのも惜しい。この雀荘で、オッサンたち相手にしばらく打たせる。娘か孫に小遣いをやるような気持ちになって、財布の紐も思わず緩むはずだ」

 その言葉を聞いて、鳴は思わず立ち上がった。父を救うためには、そんな悠長なことはしていられない。しかし、男の鋭い視線に貫かれ、声を出すことは出来なかった。

「百万って言えば、ちょっとした金額だ。ゲームが得意な今のガキなら稼ぐのだってそんなに難しいことじゃねえかも知れねえが、半年、いや、場合によっちゃあ一年くらいは生活出来る。それを、軽く見た結果がこれだ。少しばかし、お灸を据えてやらないといけないと、俺は思う。長くても精々一年、アルバイトさせるくらいは構わねえだろう?」
 男は、途中ほんの少しだけ実感が籠もった口調になり、最後は諭すように少年にそう言った。しかし、少年は横の男から一度視線を切り、壁の時計を見た。

「もう、七時までに一時間もないですね。それまでに彼女のおとーさんに連絡するって言ってあるんです」

「おい、話聞いてんのか? ガキィ?」
 歯の欠けた男は、苛立った口調で威嚇するようにそう言った。

「だから、彼女の百万の負けをなんとかすればいいんですよね。ぼくと、簡単なゲームをしませんか?」
 少年は表情を変えずにそう言って、つかつかと雀卓に歩み寄る。そしてマネークリップを懐から取り出し、卓の上によく訓練されたカジノのディーラーのように万札を広げてみせた。



「ぼくもできなくはないですが、鳴さんの方が強いでしょうし、何より麻雀は時間がかかり過ぎます。だから、麻雀牌を使った別の、ごく簡単なゲームです」
 鳴の前と右の二人は、卓上に広げられた紙幣に気を取られていた。間違いなく、本物の万札だ。数えてみると三十枚ほどあった。

「勝負はぼく一人対、そちらの三人。一度牌を配り直してから、合計一三回、配られた牌を選んで切るだけのゲームです」
 ただ、鳴の左の男と入口の男だけがレイの説明を聞いている。

「一勝負は十万円。十三回の勝負の内、ぼくが一〇回以上勝てば彼女は帰れます」
「坊主が負けた場合は、どうするつもりだ?」

 入り口の男が、レイに問いかける。レイは表情を変えることなく、それに答える。
「もしぼくが負けた場合は、別に先ほど言われた通りに彼女かぼくが働いても構いませんし、口座にすぐ動かせるお金が五百万ほどありますので、そちらから支払っても構いません」

 雀卓の三人が、言葉を失った。この少年は、それだけの金をすぐに自分の意志で自由に出来るというのだ。
「数字の書かれた牌は、数字が大きいほうが勝ち。九が切られた場合のみ、字牌が勝ち。字牌が切られた場合はもちろん、九以外の数字なら勝ち。それだけのゲームです」

「三対一っていうのは?」
「三人が切った内、一番大きな数字を切ったものとして扱います。一人でも字牌を切った場合は、他の二人から例え九が出ていても字牌が切られたこととします」

「同じ数字だった場合は?」
「引き分けで、次の勝負で勝ったほうが引き分けの勝負も勝ちとします」

「なるほどな……。パス無し一回勝負の大貧民みたいなもんか。それなら、確かに決着が着くのはあっという間だ。麻雀とは少し趣が違うが、別に思い入れがあるわけじゃねえ。ギャンブルとしてはシンプルで悪くない」

 おい、お前ら、受けてやれ。男の言葉を受けて、ゲームが始まる。



先ほどまでの勝負で使われた牌が一度卓に吸い込まれ、ガラガラと音を立てた後、再び現れる。鳴は、レイの後ろでただじっとその様子を見守る。

一ゲーム目。四人がそれぞれ切る牌を伏せて前に出す。そして伏せた牌を開く。
レイは、字牌である東を切った。目の前の男と右の男は九を切り、左の男は三を切っていた。レイの勝ちだ。

「あーッ、九がつえーんじゃねーのかよ! オマエも、オレが切ったんだから他の切れよ!」
「ンだと? テメエが頭使わねーのがわりいんじゃねえか」
 二人は互いを軽く罵り合い、次のゲームに移る。

二ゲーム目、目の前の男は字牌の白を切り、左右の二人は一と四を切った。それに対するレイの牌はなんと一。レイの勝利である。

「オマエ、分かってんのか? 一ってのは一番弱いんだぞ? 普通切らねえだろ。何で切ったんだ?」
「テメエがバカなんだよ。さっきのを受けて字牌を切ってくるのを読まれてんだ」
「ハア? マジかよ!」

 右の男の言葉を受けて、前の男は頭を捻りながら次に何を切るか必死に考えている。

 三ゲーム目、目の前の男と左の男は共に八を、右の男は六を切った。レイが切ったのは、九である。これで、レイの三連勝。

「クソッ! 八がつえーと思ったんだけどな」
「ああ、俺もそう思って八を切った。お前は良く考えたと思うが、こいつの読みが凄いんだ」
 目の前で悔しがる男に、無表情な男が慰めるように声をかける。

四ゲーム目は、レイが一を切り、字牌は出なかったのであっけなく負けた。読みを外してやったと目の前の男は欠けた歯を見せながら喜んだ。

五ゲーム目、レイは七を切り、他に切られたのは二、五、七。引き分けで次のゲームに持ち越しとなった。

六ゲーム目、二勝がかかったこの回、目の前の男は九を、左右の男は五と七を切り、レイは字牌の中を切り勝利を掴む。

「あーッ! これも読まれてたってのか!」
「……そうみたいだな。二勝がかかった試合だ。大きな数字を切りたくなるのを読まれたんだ」

 七ゲーム目、レイは五を切るものの、右の男が八を切り、他の二人は字牌を切らなかったのでレイの二敗目。
続く八ゲーム目も、レイは負けた。二を切ったがまたも字牌は場に出なかったのだ。

「これで、後がねえな! 残り五回、一度でも負けたらそれでお前の勝ちはねえぞ」
 目の前の男の言葉にも、レイは微笑を浮かべたまま反応しない。

しかし、九ゲーム目、レイが八を切って勝ったのを見て、右の男が突如声を上げた。

「やられたぜ……! たぶんこいつ、弱い牌を先に切って強い牌を残してたんだ。俺達が最初の方で九を使うのを予測して字牌も消費してる。こっちは強い牌が複数出ればその分無駄になっちまうのも計算済みか!」

 十ゲーム目、右の男から字牌が出た。字牌の南に対して、レイは三を切り、勝利。男は、レイが九を切ると考え、そこを狙われたのだ。

「ここまで、こっちの反応を読んでいやがったってことか? 末恐ろしいガキだぜ……」

 十一ゲーム目、左と前の男が字牌である二枚目の東と發を切った。レイは七を切り勝利する。
 十二ゲーム目、左の男とレイは八を切り、残る二人は四と二。引き分けで最終戦へ。

最終戦。前と右の男に残ったのは一と二。左の男が残していたのは、九。

「最後が引き分けだったときの取り決めは、なかったよな。どうするつもりだ?」
 そう言って、左の男は初めて表情を崩して少し笑った。三人の中で最も思慮深い男は、レイが最後に強い数字を残すと読んでいたのだ。そのため自分も九を残していた。しかし。

「いえ、その心配はありません。だって、ぼくの勝ちですから」

 レイが最後に開いたのは、白。字牌であり、男の九よりも強い。この瞬間レイの勝利が決まった。



[39533] 1-7
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/04 01:35
卓の三人は、半ば放心状態である。レイはゲームに使った牌を片付け始める。すると、入り口の方から低い笑い声が響いた。

「ふう、なかなか面白いもんを見せてもらったぜ。良い勝負だった。正々堂々やってたのかは分からねえが、それは嬢ちゃんと勝負してたときのこっちも同じだ。文句はねえ」

 当然ながら、レイはイカサマをしていた。

ゲームセンターでの勝負を終え、ロイから情報を得たレイはハツネと連絡先を交換して別れた後、一人で雀荘へ向かった。そして、中に入る前に雀荘内に仕掛けられたカメラから中の様子を確認していたのだ(民間企業内のカメラの閲覧は本来許可が必要で、それを無視すれば検索士といえど法に反する。しかし今回のようにギャンブルをする場所に設置されたカメラを見る場合など、幾つかの状況下では免責となる)。
この雀荘も届け出のしてある正式なものであり、そこでギャンブルが行われる以上、カメラの設置は必須である。だが、電子マネーを使わないギャンブルが行われていることまでは、何か訴えがあるまでいちいち確認はしない。それゆえ、鳴は本来有り得ない所持金マイナスまで追い詰められた。
鳴が負けたのは、単純な『通し』と呼ばれる手法によるもの。会話の中でどの牌を持っているか、切って欲しいかなどを、ごく単純なキーワードに潜ませて伝え、三対一で打たれた結果、鳴は敗れた。彼女は確かに腕は良かったが、自宅で知り合いとしか打ったことがなく、イカサマやラフプレイの経験がないところを突かれたのだ。

レイが目をつけたのは、この雀荘の全自動卓の数である。入り口からすぐの大部屋に五台の卓と、鳴が閉じ込められた奥の個室に一台の卓がある。しかし、届け出が出ていたのは五台分のみ。男たちは鳴を奥に誘う時、大部屋の卓を一台端に寄せ、使えなくしていた。これならば故障した時の予備であるなどと言い訳ができ、確かに届け出の数は問題にならない。だが、これをレイが調べた所、奥の卓は、イカサマ専用の卓であることが判明した。
鳴との対局では使わなかったものの、過去の監視カメラの映像から、奥で打った時は最後は必ず特定のメンバーが勝利しているのが確認できた。この卓は、遠隔操作で配牌を操作することの出来る改造卓だったのだ。

しかし、種が割れてしまえばどうということはない。カメラの映像から雀荘内に置かれた売上管理用のパソコンから遠隔操作をしていることを突き止めると、そこから先はレイの独壇場。セキュリティ意識の薄い、ネットにも繋いであるそれをクラックするのは、レイにとっては寝ぼけていても出来る簡単な作業。配牌を自分のシナリオに合わせて設定し、勝負に臨んだ。
全勝することも可能であったが、それではイカサマを疑われる可能性が高い。ゲームを成立させるためレイはあえて二、三敗はする必要があると考え、実行し、そして勝利したのだ。



「なあ坊主、俺達の仲間にならねえか?」
 傷のある男は、表情を緩めたままそう言った。

「いえ、ぼくにはやりたいことがあるので、お断りします」
 その言葉を聞いた男は、レイの顔をじっと見つめる。

「どうしても、か?」
「はい。どうしても、です」

 そして、息をついてから席を立ち、ドアに手をかけたまま部屋を出る前に一度振り返った。
「残念だ。おい、お前ら。約束だ。お嬢さんを返してやりな。後始末は、任せた」

 すっかり元の表情に戻った男はそう言って部屋を出た。すると、レイの左側にいた男が素早く椅子から立ち、ドアへの道を塞いだ。三人が次々に口を開く。

「アニキが気にいるなんて、珍しいじゃねーか」
「ここから先は、あの人には関係ない。俺達が良かれと思ってやることだ。お嬢さんは返す。だが、お前はそうはいかんな」
「まあ、首を縦に振ってくれれば悪いようにはしねえさ。俺達だって人を殺したりしてるわけじゃねえ。金稼ぎをちょっと手伝ってくれればいいのさ」

 レイはその言葉を受けて、まずは鳴を部屋から出してやるように言う。鳴はその場を動こうとはしなかったが、レイの前にいた男が無理やり外に連れて行く。

「断るって言ったら、どうしますか?」
「そうだな……。あの人のお気に入りだ。そこまで無理はしない。ここは監視カメラもあるから一度気を失わせてどこか目のない場所で、もう少し説得する。まあ、断っても目立つような傷はつけない。精々、一、二本骨を折る。それくらいだ」

「すみませんが、やっぱりお断りします」
「そうか。おい、抑えろ」

 左の男がそう言うと、右の男がレイの両腕を後ろから広げて抑えつけ、そしてカメラの死角となる位置に移動する。左の男はそれを見て、部屋の端に置いてあった黒い棒のようなものを掴み、何度かそれで確かめるように空を切った。そして、下から斬り上げるように振った。

衝撃。

男が振ったそれがレイに当たることはなかった。先ほど鳴を連れて出て行った男が、レイを襲おうとした男に、もの凄い勢いで突っ込んできたのだ。
結果、先程まで使われていた雀卓が巻き込まれてひっくり返り、卓の端に置かれていた万札がひらひらと宙を舞った。

「な、なんだ?」
「やべえ、あいつ、やべえよ……」

 よく見ると、突っ込んできた男の顔はすっかり膨れ上がっている。レイを抑えていた男が思わずその手を離す。すると、開いたドアの先には一人の女性が仁王立ちしていた。



印象は、黒。何物をも受け付けないとでもいうような、拒絶の空気を纏う、二十代半ばくらいの女性だ。黒い高級なスーツは細身の身体にフィットして、その黒髪と相まって喪服を思わせる。レイのオフィスに飾られた写真ほど、髪はもう長くない。それを高い位置でまとめ、短めのポニーテールにしている。その姿は、彼女にとっての戦闘服だった。

「ひょーこさん!」

 身体が自由になったレイが、名前を呼ぶと、少しだけ女性の表情が緩む。

「その子に、手を出そうとしたな」

 しかし、すぐに彼女の表情は消えた。両手に黒い革の手袋をはめ、かかとを上げ、半身となり、右腕を前に出し少し力を抜いて構える。

「クソッ、何だってんだよ!」
 レイを抑えていた男が叫び声を上げながら殴りかかる。しかし、次の瞬間には、殴りかかられた女性ではなく、殴りかかった男の方が足元をふらつかせ、やがて崩れ落ちその場に倒れる。

「一撃で……? お前、何物だ」
 突っ込んできた怯える男を払いのけ、無表情な男が彼女に問う。

「巴氷子(ともえひょうこ)。警視庁組織犯罪対策部、情報犯罪対策課所属、嘱託警部」
「嘱託警部……。元キャリアか。分かった。降参だ」

 男は、あっけなく両手を上げた。目の前の氷子と名乗る女性には、自分では敵わない。それほど危険だと判断したからだ。


警察組織は確かに縮小された。事務手続きは機械化で人はほぼゼロになり、危険性の少ないものへの対応は嘱託の元警官が対応するようになった。そして、殺人や組織犯罪などの凶悪犯罪に対応する部署は形を変えたがきちんと残っている。だが、時代の変化に伴い犯罪は変化している。検索士の登場もそれへの対応策の一つだ。従来とは異なる柔軟性を持った犯罪捜査官が必要となり、その中で生まれたのが氷子のようなキャリアの経歴を持つ外部協力者である。
彼女は通常の警官をはるかに超える実戦訓練を積んでいる。レイと自衛官と一緒に写真に写っていたのも、その内の一つである。



「亜鈴! 心配したんだぞぉ!」
 レイから話を聞き、次にやったら豚箱にぶち込むと脅しつけてから男達を適当に解放し、ビルを出たところで氷子はだらしなくまなじりを下げた。そして上から覆いかぶさるようにレイを抱きしめて、何度も頬ずりをした。

「くすっぐたいよ、ひょーこさん」
 その様子を見て、力が抜けたのか、鳴はぺたんとその場に座り込んだ。

「もう、大丈夫ですよ。おとーさんが、待ってます。帰りましょう」
 レイは氷子を苦労して引き離し、鳴を立たせて電話を手にとった。



「本当に、ありがとうございました!」
 事務所に戻り、鳴の顔を見た匠は、地面についてしまうのではないかと思うほど深く深く頭を下げた。

「いいんです。鳴さんも無事だったし、それがぼくの仕事ですから」
 レイは穏やかな声で答え、匠の顔を上げさせた。横にいる鳴は、どこかばつが悪そうな表情で顔を俯けている。

「まったく、いつもいつも本当にしょうがない子だなあ、亜鈴は。どうせまた、言っても聞かないんだろう?」
 氷子はレイの頬をつつきながら全然責める気のない声でそう問いただした。

「うん。だって、家族がいなくなったら、誰だって心配だよ。ぼくにはそれが出来るんだから、助けてあげないと」
その言葉に、氷子は頬をつつくのを止め、レイを優しく後ろから抱きしめた。

「ああ、分かっているさ。その代わり、またこっちの仕事を手伝ってもらうからな」
「うん!」

 少しすると、鳴もだいぶ落ち着いたようだった。それを見て、レイが氷子の腕から抜け出し、椅子に座る。

「まだ、聞いていなかったですよね。鳴さんがお金が必要な理由。良かったら、教えてくれませんか?」

レイが促すと三人も椅子に座り、そして鳴はしばらくしてから顔を上げた。
「父が、会社のお金を盗ったって、そんなことする人じゃないのに……。私、分かってたから、だから、検索士の人に捜査を依頼しようと思って。それでお金が必要だったんです」

 娘の言葉を聞いて、匠は表情を少しだけ崩し、わずかに涙を浮かべる。
「お前、そんなことのために……。私は、自分より、金より、お前の方がずっと大切なんだぞ」

 そんな二人の様子を見て、レイはノートパソコンを取り出して膝の上に広げる。そして、少しだけ身を乗り出した。
「どうやら、また依頼があるようですね」

レイの言葉に、二人は頷いてゆっくりと語り始める。

二〇二四年、東京。国家のあり方は少しだけ形を変えた。しかし、人の営みは変わらない。検索士であるレイの仕事は、まだ始まったばかりである。



[39533] 『ディスカバリー・チャネル』2-1
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/05 17:44
 二〇二四年五月八日

レイが聞いた鳴と匠の話をまとめると、以下のようになる。

一、四月二十七日、匠の務める会社『MD(ミュージック・ディガー)』で会社の資金が入った金庫が消えた。土曜だが出社した社長の寺尾が会社に来てすぐ、朝の九時頃に気づいた。
二、会社内の容疑者は五名。社長の寺尾、スカウトの小岩、会計の相川、マネージャーの新発田(しばた)、そして営業の匠。
三、金庫が消えたのは大規模なライブで全員が会社を離れていた四月二十六日の夜。その時間、監視カメラは故障しており、証拠となる時間帯の映像は保存されていない。
四、困った社長の寺尾は、音楽著作保護協会の『MRJ(ミュージック・ライツ・ジャパン)』の友人に相談。彼らを通じて検索士に事件の捜査が任された。その結果、唯一社長以外で会社の金を動かす裁量権を持つ匠が金庫を奪った犯人だとの回答を得た。
五、しかしながら証拠の類は提出されておらず、それに対する質問への返答もいまだない。
六、酔って帰宅した匠が零した愚痴を聞き、鳴は自腹で再度検索士に依頼しようと考え、その調査費用を得るためにゴールデンウィーク初日からの家出に繋がった。



レイは話を聞いて、依頼を受けた翌日の午前中に匠が無実である証拠を整えた。
まず、金庫の種類を国の税金管理システムに残された会社の備品購入リストから調査。金庫は海外製のもので、日本にはほとんど流通していないものだった。
そこで英語で書かれたその会社の製品ホームページを読んだ結果、金庫には通常のダイアル式ロックの他、音声による認識機能がついており、寺尾以外には開けられないことが判明した。

金庫を購入したのは寺尾のパソコンからで、実店舗ではなく専門のネット通販からだった。これは匠の話とも一致。その通販会社に問い合わせた所、金庫は正規品を輸入した物で確かに購入リストも残っている。だが、何かあった場合のサポートなどはメーカー問い合わせになるため時間がかかるとの回答を得た。その会社によると購入時に保険にも入っているが、仮に盗まれたとしても音声認識機能の不具合など、問題が金庫自体の不備によるものでない限り保証は受けられないし、もし受けられたとしても保証までは二ヶ月程度の時間がかかる。

また、金庫が無くなった夜の匠の行動を聞き、自宅に繋がる道のカメラやその他のカメラから映像を取得したが、不審な行動や金庫を運び込んだ映像などは写っていないのを確認できた。 それ以外にも、事件の日から本日までの匠の所有する口座等の写しから匠が金を手にした形跡がないことを確認した。

そして、それらの証拠を携えて、レイは依頼のあった翌日、五月八日の午後、匠と共に会社近くの喫茶店で社長の寺尾と話し合うこととなった。



「これらが、ぼくが鳴さんと匠さんから依頼を受けて調査した結果、集めることのできた彼の無罪を証明する証拠です」

 テーブルの上に置かれた画像を引き伸ばした写真や動画を保存したUSBメモリ、そして何枚かのコピーを寺尾はしばらくの間、真剣な面持ちで確認した。

「……なるほどな。これをたった半日で集めたってのか。確かに、お前さんはちゃんとした検索士ってやつのようだ」

 スキンヘッドの大柄な体形の寺尾は、渋い声でそう言ってレイの頭を乱暴に撫で付けながら、からからと笑った。扱いは子供に対するものだが、話はきちんと聞いてくれたようだ。

「オレもな、匠のやつがそんなことをするなんて思っちゃいなかった。こいつとは大学からの長い付き合いだ。かれこれもう二十五年近くになる。鳴ちゃんが生まれたばっかりのときに、前の会社を辞めて先の分からないオレを手伝ってくれた男だ。今更そんな裏切りをするなんてありえないってな」
 どうやら、目の前の大男は匠の敵ではないようだとレイは思った。
「だから、オレも警察に届け出とかはしていない。今週末まで待って、MRJの方から何も言ってこなければ他の所に調べるのを頼もうと思ってたところだ」

 匠の方も、寺尾とは深い信頼関係があるらしく、どうやらその点は分かっていたようだ。結局は、MRJの話を別にすれば疑われているというのは鳴の早とちりだったことになる。

「こうなったのも何かの縁だ。改めて、お前さんにうちの会社から依頼したい。あの金庫を探して欲しい」

 レイはその場でノートパソコンに入っているワードソフトを使ってテンプレートから契約書を作り、近くのコンビニでそれを印刷して寺尾にサインをもらい、依頼を受けた。

「では、早速幾つか聞かせてもらいたいのですが、製品情報を見たところ、あの金庫には位置情報機能がついているようです。寺尾さんもそれをご存知だと思うのですが、そちらは調べましたか?」
「ああ、オレも真っ先にそれを確認した。会社のパソコンに場所が送信されるはずなんだが、どうも電池切れか何かのようでな。表示がされないんだ」
「なるほど、少し調べてみます」

 レイはホームページから再度金庫のスペックを確認した後、午前中に問い合わせた会社に電話で再度確認を取った。電池は最新式のもので環境にもよるが、最低三年、長くて四年は持つとのことだった。金庫を購入してからはまだ二年ほどしか経過していない。

「うーん、おかしいですね。実物を見ないと分からないこともありますし、寺尾さん、新しい金庫を取り寄せてみてもよろしいですか?」
「ああ、構わない。買った時は二十万くらいだったかな。だが、そんなにすぐに手に入るものなのか?」

 大丈夫だと思います、とレイは答え、何でも屋「百」に連絡を取った。相談すると、特急料金込みで三十万、品を確認するだけなら販売元と交渉した結果返品出来るので後で十八万返金、品自体は二時間後には寺尾の事務所に届けてくれるとの返答を得た。

「じゃあ、会社で待つか。うちの奴らにも話を聞いたほうがいいと思うしな」
「はい。あ、ところで、金庫の中ってどれくらい入ってるんですか?」

「言うのを忘れてたな。五千万ほど入ってる。うちの会社は最初経営が苦しかった頃の名残で給料支払が月末じゃなくて月初めなんだ。給料は直接渡す形にしててな。その分の金と、この前のライブの売上、それに今度のプロモーション用の資金を都合してもらった分が入れてあったんだ。個人的なツテでな。以前干されてるのを助けたことのある有名な演歌歌手なんだが、現金しか信用しない昔気質の人なんだ」
 五千万というと、結構な金額だ。ましてやこの時代、正社員が五人の零細企業としてはそうそう現金を扱うことはないだろう。レイも会社の社長なのでそれくらいは理解できた。
「珍しいですね。今どきライブの売上管理が電子マネーとアプリ形式じゃないなんて。他のは現金にこだわりある人がまだ結構いますから分からなくもないですけど」

「ああ、音楽の好きなオレみたいなオヤジ世代向けのイベントを定期的にやってるんだ。さすがにうちもそのときくらいだな、ライブで現金を扱うのは。そこらへんは感性が古いんだが、歳をくっても本物は分かるもんだ。うちの今イチオシのバンド、すげえ受けてたんだぜ。金持ってる世代だし、お布施の意味もあるんだろうな。うちは物販が強くて、他のバンドも含めてその分だけで一千五百万くらいあった」

 どうやら、見た目に似合わずこの社長は意外とやり手らしい。そんな話を聞きながらレイたちは会社に向かった。



寺尾の会社、MDは賃貸契約の事務所ではなく、小さな自社ビルを持っていた。一階が物販のアイテムを管理する倉庫、二階が様々な楽器の置かれた練習用にいつでも使える防音室、三階が事務室として使われている。
 レイは一通りビルの中を寺尾に案内された。その結果新しく分かったことは三点。

 一、金庫は三階、事務室に置かれていた。
二、監視カメラを設置しているのは一階の倉庫と三階の事務室のみ。事件当日に壊れたのは事務室のカメラだった。
三、事件当日は大きなライブがあり、一階倉庫に長く使っている搬出業社が立ち入っていた。そのスタッフと会社の全員は搬出作業をし終えると、そのままライブに向かった。

当然、搬出業社が怪しい。しかし、事務室には通常の鍵の他、指紋認証型の鍵がかけられており、社員の誰かの手引が無ければ中に入ることは出来ないとのことだった。

「まあ、アタシ達も岩崎さんがそんなことする人じゃないとは信じてはいたさ。でも、さすがに五千万だからね。魔が差すこともなくはないかと思う金額だよ」
 そう答えるのは、スカウトの小岩。三十代後半の恰幅の良い女性で、愛嬌のある顔立ちをしている。会社に来たのは十年前で、交渉事に強く、会社の経営が安定し始めたのは彼女のおかげだと、匠と寺尾の信頼も厚い。

「そうですね。でも、うちの会社は小さいですから。その分、お互いのことも知ってるし、お金が本当に必要なら貸し借りするくらいの信頼はあると思ってたんですけどね」
 小岩の言葉に答えたのは会計の相川。見た目に気を使わない、まず地味と言っていい感じの、眼鏡の女性だ。寺尾の親戚で、大学卒業後、世界を三年ほど旅して色んな音楽を聞き歩いていたという。七年前に会社に加わり、近々結婚する予定があると寺尾は添えた。

「あと、新発田って男がいるんだが、今日はライブがあってそっちの準備に行ってる。ちゃらちゃらした野郎だが、音楽への情熱は本物だ。大学時代はこいつもバンドをやってたが売れなかった。卒業後すぐに知り合いだったうちに来て、まだ五年しか経ってないがプロデュースの才能はある。今、いろいろ頼んでるデザイナーをこいつが見つけてな、ここまで物販が強くなったのはこいつのおかげだ」

 しばらくして、何でも屋「百」が依頼した金庫を持ってきた。
「うーん、これはなかなか困った感じですね」
 レイがそれを見て分かったのは四点。

一、金庫自体が二百キロあり、一人では到底運べないこと。
二、電子的な回路は金庫内に収められており、外からそれをハックして音声認識を突破するのは不可能な作りになっていること。
三、位置情報機能用の電池も中にあり、開けなければ交換できないこと。
四、物理的な破壊は素材の性質上、大型の土木機械でもない限り不可能であること。

「あのよ、気になってたんだが、一ついいか?」
「あ、はい」

「音声認識ってのは、どれくらい信用できるものなんだ?」
「そうですね、ぼくも専門ではないのでそこまで詳しくはないのですが、この金庫のように初めに音声を吹き込んでそれと照合するタイプなら、相当精度は高いはずです」

「オレも、一度自分の声を携帯に吹き込んで試してみたがそのときは開かなかったぞ」
「ああ、肉声じゃないと駄目な作りにしてあるんでしょうね。それこそ専門の機械とかじゃないとレコーダーの精度が低くて通らないんだと思います」

 レイのその言葉を聞くと、寺尾は少し顔をしかめた。
「どうしたんですか?」
「実は、この会社を始める前、オレは声優業界にいてな。俳優崩れだったんだが、そっち方面ではまあまあ仕事をもらってたんだ。アニメはもちろん、洋画の吹き替えなんかもだいぶ出てた。その音声を組み合わせて使うってのは無理なのか?」

「ボーカロイドみたいなことが出来るかってことですよね。無理だと思います。そもそもあれは音楽用ですし、きちんと人に聞かせられるレベルに達するのは相当難しいです。腕の良いPでも、機械的制約もありますし、どうしても人間の声と比べると違和感が残ります」
というか、比べるものじゃなく別のジャンルとして考えるべきだとぼくは思ってます、とレイは付け足した。

 金庫を何でも屋に返し、この日の調査はひとまず終わることになった。明日以降は物販アイテムの搬出に関わった業社を調べますと告げ、帰ろうとするレイを寺尾は最後に少しだけ引き止める。

「そうだ、良かったら新発田が行ってるしライブハウスも見てくれ。話はつけとくからよ。さっき話したバンドが今日も演るんだ。あ、チケットは後で精算になっちまうが、いいか?」
「いえ、本当に良い物だったら普通に払いますから、大丈夫です」
「言ってくれるな。まあ、楽しみにしておいてくれ」
 寺尾はそう言うとニヤリと笑ってレイを見送った。



[39533] 2-2
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/06 19:17
「レイ! そこどいて下さい、写真撮りまス!」

 リーナは、ライブハウスの建物を丸々収めるようにカメラのシャッターを切った。フラッシュが数回炊かれた後、打ちっぱなしのコンクリートで出来た、ひどくシンプルな作りの画像に残されたそれを見る。

「どうしたのリーナ? 初めて梅干しを食べたときみたいな顔だよ」
「建物がイングランドと違うのは分かりまスけど、道が狭すぎまス! ここの収容人数は千五百人ってウェブに出てまシたよ? 地震とかあったらどう避難するつもりなんでスか!」

「ぼくに言われても。建築基準法とかは守って作られてるはずだから大丈夫なんじゃないかな」
「建て直されたの三年前なんでスよ、ここ。ケチケチしないで隣の建物だけじゃなくてこの区画丸々買い取るべきでシた」

 レイはリーナをなだめながら建物の中に入った。そして、入り口で携帯のアプリを使い機械に読み取らせてチケットを買い、リーナもそれにならう。

「こういうところはいいでスね。人数の把握もしやすいシ、電子マネーはもっと日本以外にも普及するべきでス」

 二人は飲み物を受け取りホールに入る。収容人数は確かに屋内としては大きく、ステージは後ろからだと結構な距離がある。段ボール製の吸音材が壁に張られているのを見ると、リーナが再び声を上げた。

「Amazing! この発想は素晴らしいでス! 張り替えればすぐ壁をキレイに出来るシ、内装を簡単に変えられまス!」
「リーナ、他の人が驚いてるよ。せっかくライブを見に来たんだからそっちに集中しようよ」
「自分勝手なのはどっちでスか。レイが昨日連絡なくて帰りが遅かった上に、今日も一人で夜出かけるとか言い出すからでス! まだ始まってないんだからいいじゃないでスか」

 今の状況は、MDから一旦家に帰ったレイが夕食時に春海とリーナの二人に話を切り出し、リーナがどうしても着いて行くと言って聞かなかった結果によるものである。
内装を二人で見回った後、ドリンクを飲みながらレイは携帯のチケット画面から今日のライブの内容について確認した。

「えっと、今日は、MDの『残響』と他の会社所属の『F・Flower』の対バンだって。三曲ずつ交代でそれぞれ九曲演奏して、入れ替わりのときに投票でどっちが良かったか賭けられるみたい。ゲーム以外でもあるんだね」

「oh! それいいでス! 音楽やる人はみんな貧乏でスから。んー、凋落著しいUKロックも見習うべきでスね。アレ? でもゲームセンターみたいな読み取り機械ないでスよ?」

「ああ、あれは賭けられる金額が高額になる可能性があるし、ランカーの順位によっていろいろ変わるからね。こっちは賭けるっていっても一口千円までの少額だから特殊な機械読み取りじゃなくて事前に設定したアプリので十分なんだよ」

 そんな雑談をしていると、あっという間にライブ開始の時間となり、二つのバンドのメンバーがステージ上に顔を出した。
この日演奏する二つのバンドは両方ともガールズバンド。『残響』はボーカル兼ギター、ベース、ドラム、シンセサイザーの四人組で、『F・Flower』はギターとベースのツインボーカル、もう一人のギター、ドラムの四人組だ。どちらも年若いメンバーだが、『残響』のボーカルはその中でも特に若く、高校生くらいにレイには見えた。

メンバーの紹介とMCが終わり、『F・Flower』から演奏が始まる。
四回スティックを打ち鳴らし、ドラムが叩かれ、ギターとベースが入る。やがてギターボーカルの癖のある高く歪んだパンキッシュな声がステージから響く。

レイとリーナはホールの中央付近でそれを眺める。音響がかなり良いらしく、前列でないにもかかわらず音が身体に当たるのを二人は感じた。ステージ近くでは熱心なファンや、ライブそのものを楽しむのが好きな人々が飛び跳ねながら体全体でリズムを刻んでいる。

圧倒的な技量を持つギターソロの間奏を終え、再びのサビ。音の響きは壁とその場の人々の身体に吸い込まれ消え去っていく。
曲終わりに短いMCが入る。今日の対バンのテーマは「叫び」。始めと終わりの三曲はそれぞれのバンドのオリジナル曲を、間の三曲はカバー曲を演奏するとの説明。そして次の曲名が発せられると会場が一気に盛り上がった。

次曲は二本のギターが厚い音を重ねながら始まり、ベースがボーカルを担当した。思わず耳を傾けてしまう、すんなりと入ってくるタイプの声質。歌詞はあえて聞き取りにくい作りのようだが、明らかに観客の熱量が先程よりも大きい。やはり、ギターの技量は相当なものだ。そのぶん時おり暴走しすぎるようで若干ボーカルの音を邪魔する箇所があったものの、全体的な完成度が高いおかげでそれほど気にはならない。
そして休みを挟まずに三曲目に入ると、ツインボーカルが互いを高め合うように疾走感のあるメロディーを歌い上げる。観客の盛り上がりもいっそう高まり、ステージ上のメンバーに当てられた照明が彼女たちの額に浮かぶ汗を光らせた。

 曲が終わると、次はいよいよMDの『残響』の出番となる。レイはそれをワクワクしながら待っていた。『F・Flower』と『残響』のリーダーがハイタッチをして前列付近のファンもまた入れ替わる。一部の機材の調整が行われ、そして演奏が始まった。

それは、イントロから名曲の予感を感じさせるものだった。次いで、ボーカルの女性とは思えないほど力強く、だが透明感のある声が曲を引っ張る。全体的には疾走感のあるロックだ。しかし、シンセサイザーの電子音がそれを少しだけ柔らかくしている。それはどこか、あるボーカロイドの曲の流れを組んでいるようにもレイは感じた。ボーカル兼ギターに比べると、他三人の技量は二段以上落ちるのは間違いない。先ほどのバンドよりも演奏力は低い。しかし、作曲とボーカルのレベルが段違いだ。気が付くと、レイは目をきらきらと光らせて吸い寄せられるようにステージに近寄った。導入曲としては完璧な出来だった。

しかし、二曲目、三曲目と続けられる内にその期待は裏切られた。
曲の出来は相変わらず良い。だが、明らかにメンバーの技量が追いついていない。素人であるレイにも練習不足であることが何となく分かるほどだ。それだけならまだしも、ボーカルの熱量が一曲目に比べると明らかに小さい。レイは、まるで魂が抜けてしまったようだと感じた。

『F・Flower』の二度目の演奏は三曲とも一つのバンドのカバーだった。ソロギターの圧倒的な技量を活かした選曲で、相当な思い入れがあるのが聞いていて分かる。レイも、カバー元が知りたいと感じていた。元が男性バンドの曲なので、女性ボーカルでは少し力が足りないが、観客にはほとんど気にならない。『残響』の二、三曲目で下がった熱量を取り戻して再びステージ前にいる観客の動きを激しくさせた。

しかし、『残響』に再び演奏が回ると、その熱はまた去ってしまう。カバー曲は十五年ほど前の有名なアニメソングが続く。曲は先ほどよりも難しくなく、演奏の完成度は高いのだが、ボーカルに力が戻らない。そして、二曲目の終わり間近にハプニングが起きた。ギターの弦が切れたのだ。
二曲目を何とか演奏し終えたものの、ギターを交換するタイムロスで観客はしらけてしまう。これは賭けの方も勝負あったとレイも思った。しかし。

ギターを予備に交換した後で、ドラムがボーカルに声をかけると、ボーカルは少し躊躇した後で小さく頷いた。ほんの少しの沈黙が訪れる。マイクに息を深く吸う音が入り、そして。

それはまさに『叫び』だった。

ステージが震えた。上っ面だけではない、その人間の根源の部分から来るような悲鳴にも似た声。観客は、レイも含めて声を失った。そして、一瞬にして熱を取り戻す。その細い身体のどこにそんなエネルギーが隠されているのか。声量はマイクが不必要なほどに大きく、人の波を突き抜けてホールにビリビリと響き渡る。

誰でも知っている現代ロックの原点と言われるバンドの曲。原曲はもっと軽いサウンドだが、アレンジが上手い。ボーカルの力を活かしてきちんと『残響』というバンドの特徴を出している。足を引っ張っていると思われていた他のメンバーもしっかりとバンドの一部になって、どこかばらばらだった音がきちんと音楽になっているのだ。
リーナも大興奮でレイに抱きつきながら激しく飛び跳ねる。あれほど大きいと感じていたホールが小さくなったような一体感を全員が感じていた。

『F・Flower』の三度目の演奏は前に比べると勢いを失っていた。先ほどの曲に当てられてしまったようだった。そして、何とか『残響』に繋ぐと、ここでまた演奏は意外な展開を見せる。

先ほどまであれほどロックを奏でていたバンドが、まるで別のもののようにポップを弾き始めたのだ。全面に出ていたボーカルとギターは主張を控え、シンセサイザーと調和しながら分かりやすく受け入れやすいサウンドを響かせる。
ボーカルの力はさっきの曲ほどではないが、メンバー全体が一体となって曲を奏でているのが分かる。何より、曲のメロディラインが信じられない程にキャッチーだ。観客も非常にノリやすい、演奏というよりもステージという言葉がしっくりくるパフォーマンスが続く。

曲が終わると、二つのバンドは再び顔を合わせ、中央に出てきたライブハウスのオーナーが賭けの結果を読み上げる。前半の不調のせいで僅差だったが、『残響』の勝ちだった。勝者の権利として、アンコールを一曲無難にこなし、ステージは幕を閉じた。



「どう、したの」
 ライブの後、関係者IDがなかったために控室のあるエリアに入れなくて立ち往生していたレイに声をかけたのはハツネだった。

「レイ、知り合いでスか?」
「うん。昨日助けてくれたHatsuneだよ。君はどうしてここに?」
「わたしがライブに来たら、おかしい?」
 少しだけ、ハツネの頬が膨れた。

「ううん、そんなことないよ。実は、『残響』の会社のマネージャーさんに会いたいんだけど、この先に行けなくて」
「そう。少し、待って」
 そう告げると、ハツネは携帯を取り出し、ぼそぼそとした声で誰かと話した。

それから三分ほどすると、奥の方から『残響』のボーカルが姿を表した。汗で濡れたせいか、ライブ中とは違うシャツに着替えている。
「……どうして来たんだよ。来るなって前に言ったじゃないか」
 ボーカルの女性は苦い表情でハツネを責める。
「偶然。近かったから」
 ハツネの言葉を聞いた彼女はマニキュアが塗られた爪を噛もうとして、歯に口をつけたところで指を話す。

「それで、呼び出した理由は」
「この人、Array」

 顔を指さされたレイは苦笑して、ハツネをフォローするように免許を出した。
「それじゃ分からないよ。えっと、仕事の用事でMDの新発田さんにお話を聞きたいんですけど」
「検索士? ちょっと前にできた資格のあれか。分かった、こっちに来て」

 レイとリーナは奥に通される。しかし、ハツネは一緒に行こうとはしなかった。
「ここで、お別れ」
「そっか、また助けてもらっちゃったね。ありがとう」
 レイが微笑むと、ハツネは眠たげな表情を少しだけ崩し、顔をほんのり赤らめる。

「別に、構わない。今度、お礼してもらうから。一緒に、遊びましょう」
「うん! ぼくも君と遊びたいと思ってたんだ」

 そんな二人の間にリーナが素早く身体を入れて割り込む。
「レーイ、早く行きまスよ。もう九時半でス。時間、時間」
「分かったよ。じゃあ、またね」



「連絡したよ。物販がもう少しで落ち着くから、そうしたらこっちに来るって」
 三人以外に誰もいない控室で、『残響』のリーダーは携帯をしまいながらそう言った。
「ありがとうございます」

 レイがリーナと雑談をしていると、ボーカルの彼女はちらちらとレイの様子を気にするような素振りを見せた。ステージ上の姿とは異なる、歳相応の女の子の様子だ。
「どうしたんですか? あ、名前もまだ聞いてなかったですね。ぼくはさっき見せたと思いますけど、宮本亜鈴。検索士です」
「あ、うん。私のことは……」

 そこで彼女は言葉を一度切り、何かを探すように宙に視線をさまよわせた。
「ミヨコ、って呼んで。他のメンバーもそう呼ぶから」
「はい。それで、何か気になることでもあるんですか?」

 ミヨコはショートカットの前髪をかき上げるように額を抑える。
「ええと、あの子とどんな関係なのかと思ってさ」
 その言葉には先ほど見せた刺々しさだけでなく、どこかハツネを心配するような響きがあった。レイがどう話そうか考えていると、リーナが携帯の画面を彼女に見せる。

「これ、昨日の動画でス。知らないんでスか? 一日で三十万再生されて有名な動画サイトの総合ランキング一位になってまス。レイはランカーなんでス。この対戦の最終戦で助っ人を引き受けてくれたんでスよ」
 ミヨコはおもむろにリーナの携帯を手に取り、目を見張いてそれに釘付けになった。レイとリーナはその様子に顔を思わず見合わせる。

「彼女のこと、知っているんじゃないんですか?」
 その言葉に少し慌て、ミヨコは携帯を手放す。
「あ、ああ、ごめん。あの子は、何というか、ちょっと不思議なところがあるだろ? ……学校の後輩、なんだけど、私も知らないことが多いんだ」

 会話が途切れたところで、控室の扉が開いた。茶髪の男が入ってくる。
「いやー、ゴメンねー。社長から連絡はもらってたんだけどさあ。たぶん来るってだけだったし、こっちも仕事があったもんでねー」

 まだ若く見える細身の男は、スーツの上着を脱いでシャツの袖をまくり上げている。先ほどまで忙しかったのが見て取れる姿だ。レイと名刺を交換した後、新発田は右手に持っていたミネラルウォータを飲み、椅子に座った。

「へえー、その歳で検索士かあ。凄いねー。大学時代の友達がいる有名な会社でも一人いるかいないかって言ってたよ」
 新発田は名刺を回して何度か裏と表を見てから軽い口調でレイにそう話しかけた。
「やりたいことがあったから、頑張って勉強しただけですよ。それで、少しお話を聞きたいんですけど」
「うん、なんでも聞いてよ」

 そして、レイは一通り新発田から事件についての話を聞いた。搬出に使った業社は責任者こそ正社員だが、それ以外はアルバイトだということ以外に特に新しく分かったことはなかった。

「でも良かったよ。盗まれたっていっても使い込んだ楽器とか、音源のマスターとかの取り返しがつかない物じゃないし。金庫がなくなったっていっても、開かなかったんでしょ?」
「……ええ、まあそうですね」

「俺もしばらく『残響』のプロモーションの手伝いで忙しいからそんなには手伝えないけど、何かあったら言ってね。『残響』、なかなか良かったでしょ。友達とかに押してくれると嬉しいなー。あ、そろそろ時間も遅いしこっちも撤収作業があるからいいかな?」
「はい。聞きたいことは聞けたので、大丈夫です。お忙しい中ありがとうございました」



[39533] 2-3
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/07 12:40
 二〇二四年五月九日

「おいおい、こいつはどういうことだ?」
 依頼の翌日、昼食の後で社員を物販倉庫に集めるように言われた寺尾は、目の前の光景に口をぽかんと開いた。

「依頼の品、きちんと見つけましたよ」
 どこか得意気に少しだけ胸を張るレイが手の平を載せているのは、無くなったはずの金庫、まさにそのものだった。

「昨日の感じだと全然手がかりがないと思ってたんだが、どうやって探したんだ?」
 寺尾の疑問は自然なものだった。だが、レイはそれに答える前に視線を別の方向に向ける。

「それよりも、ぼくが気になっているのは、あなたがなぜ寺尾さんを裏切るような真似をしたのかということです。新発田さん」

 レイの言葉に遅れて、その場にいた全員が一斉に一人に顔を向ける。視線の先にいる新発田は、泣きそうな顔をして、床に頭を擦りつけた。

「すいませんでしたッ、社長ッ!」
 潔い、態度だった。そして、その姿を見た寺尾は彼を責めようとはしなかった。
「それだけじゃ分かるものも分からねえぞ、新発田。説明してくれ」

 新発田は四つん這いの体勢から、一度顔を上げ、正座をして背筋を伸ばした。
「俺が、あの奇妙な電話を受け取ったのは、先月の終わり頃のことでした」
 そして、新発田は語り始める。彼の身に起きたことを。

四月の末、会社が社長の知り合いの演歌歌手を通して現金で貸し付けを受けた数日後、彼の携帯に突如、非通知の電話がかかってきた。最初はイタズラかと思ったが、万が一だが仕事関係の可能性もあったため、彼は電話に出た。すると少ししてそこから聞こえてきたのは、聞き覚えのある声のメロディーだった。そして、その曲が終わった後で、加工され元が分からなくなった合成音声は彼に告げた。
 今流したのは『コズミック・ガーデン』の未発表音源だ。表沙汰に出来ない事情でこれは世に出ることはなかった。彼らの解散の原因は、この曲を含めたアルバムを出せなかったことにある。お前が私との賭けに勝ったなら、このマスターを渡す準備がある。

「おいおい、冗談はよしてくれ。『コズミック・ガーデン』って言えばゼロ年代ロックシーンの最先端を牽引したバンドじゃねえか!」
 気が付くと、新発田はぽろぽろと涙を零していた。
「あのバンドは、俺にとってのヒーローだったんです。初めて聞いた時は、中学のときだった。バンド自体はもう解散して三年くらい経ってたけど、今でもあのときの衝撃は忘れられない。俺が、音楽をやるきっかけになったのも、あのバンドを越えてやろうって思ったから、なんです」

 新発田は、バンドを辞めた後も、良い音楽を世に出すのを諦めることだけはなかった。だからこそ、今の道を選んだのだ。彼はしばしば、自分の給料を使って目をつけた高校生にきちんとしたライブハウスで演奏する機会を提供したり、場合によっては金銭的な理由で手放さざるを得なかった楽器を買い戻し、修理した上で元の持ち主に出世払いだと言って返すこともあった。それらは、その筋では密かに噂になるほどのものだった。そんな彼だからこそ、プロデューサーとしては無名に等しいのにも関わらず信用し、彼に全てを任せたバンドは少なくない。

「俺、調べました。あの金庫はよっぽどのことがない限り本人にしか開けられないって。うちのバンドの音源とか、楽器とか、取り返しのつかないものなら、絶対に、許しはしません。でも、金なら、俺にでも稼げる。だから、もしものことがあったら一生タダ働きだって、漁船に乗ってだって、何だってするからって決めました。それで、次の日に電話が掛かってきた時に、賭けに乗るって答えたんです」

 賭けは、その金庫を一度だけ開けることに挑戦し、開けられるかと言うものだった。 
 新発田が返答をした際、事務室の監視カメラは特殊な方法で一時的に録画を止められるので、いつも使っている業社が搬出をしている間に携帯に着信を入れたら事務室の扉を開けるようにと告げられた。
しかし、新発田はすぐにはオーケーを出さなかった。万が一、どこか遠くに金庫を持ち去られれば、約束自体が意味のないものになりうる。だからこそ、彼は相手に条件を出した。

「その条件というのが、あの日にライブが行われたホールの奈落で金庫を開けるというものだったんでスね」

 奈落とは、舞台やステージの下の部分のことを刺す。今回の場合、どちらかというと『迫り(せり)』といった方が正しい。コンサートホールなどの仕掛けの一種で、人が床下から登場する演出などに使われる。

「はい。うちのバンドはあんまりそういう演出はしないし、あの日の流れは前もって分かってたから。あそこなら、相手も変な動きは出来ない。それで、搬出用の車に偽装した金庫を載せて向こうでスタッフに化けたそいつらと金庫を運び出しました。その後は、俺の目の前で金庫を開けようとしたけど、ダイアルロックしか解除出来ないって言って、そこまでは思った通りでした」

 前日の新発田は、「金庫は開かなかった」と証言した。この言葉に違和感を感じたレイは、社長から新発田に送られたレイの訪問を伝えるメールの内容を、事件関係者の特例を利用して調べあげ、矛盾を確定させた。メールには、「高校生くらいの検索士が事件のことで話を聞きに行くかもしれない」としか書かれていなかったのである。
レイがこの日、午前に倉庫の物品を搬出する車の監視画像を追うのと平行して行ったのは、事件当日のライブ会場の設計図を得ることだった。そして、それを手にした後は建築士を目指しているリーナから話を聞き、金庫の大きさと重さを考慮して幾つかそれが隠せそうな場所のリストを作成。それに従ってレイが会場を調べた結果、金庫は新発田の言葉通り、奈落で見つかった。

「あいつらは帰る前、俺に例の曲が入ったCDを渡しました。でも、それには半分の曲しか入っていないって。あいつらの一人は、次にあそこであの仕掛けが使われる五月十八日までそのままにしろって言いました。残りの曲は連休明けに届くようにしてあるって」

 それが、新発田が罪を着せられた匠を庇うことの出来なかった理由であった。

「でも、もちろん納得できませんでした。だって、こっちが待つ内に金庫が持って行かれちまったら全部パーです。だから、俺は必死に考えました。それで、あいつらが帰った後、すぐに何でも屋に頼んだんです。仕事が終わって解散になったら、頼んだ加速度センサー付きの防犯装置をあの金庫に取り付けました。位置情報が俺の携帯に届くようにして、仕事の最中も三十分起きごとくらいに確認してたし、夜は大学の後輩に一時間交代で共有したアカウントを確認させました。反応は動いてなかったし、マスターも昨日家に帰ったら、届いてました。話がおおごとになって昨日は切り出せなかったけど、今日中には言い出すつもりでした」

 新発田の告白を聞いて、寺尾は眉をひそめながらも怒鳴り散らしたりはしなかった。
「しょうもねえヤツだな、本当に。だが、まあ、いい。中身は無事なんだから」

 そして、寺尾はダイヤルを回し、音声認識を解除するために鍵となるキーワードを口にした。三十秒近くある長い台詞で、何かの舞台に使われたもののようだった。
「恥ずかしいがな、オレが俳優として唯一きちんとした役をもらえたときの台詞なんだ。こいつのおかげで声優にも誘われて、カミさんとも会えたし、思い入れがあってな。……お、開くぜ」

 そして、開かれた重い扉の先には。
現金は、一円も残っていなかった。



「おい! こいつは一体どういうことだ!」
 寺尾が思わず叫ぶ。新発田は何がなんだか分からないといった顔。レイも、信じられないといった表情を浮かべている。

「まさか、一度開けられた?」
「待ってくれよ、こいつの音声認識は普通じゃ突破できないんじゃないのか!」

 新発田ァ! と叫ぶ寺尾の声が倉庫に響く。新発田は金庫を覗き込み、顔を青くしてブルブルと震え、その場にすとんと膝をついて崩れ落ちた。
「嘘だろ……。俺、確かに確認した。ま、まさか防犯装置自体が一度取り外されてたのか」

 新発田の言葉に反応したのは、リーナだった。
「レイ、どういうことでス?」
「いや、ぼくにもわけが分からないよ。あの装置自体は最新式で、ここに運ぶために解除するのにはぼくでもかなり時間がかかったんだ」

 その場にいる誰もが言葉を失っていた。立ち直るのが一番早かったのは、寺尾と新発田に割り込み、金庫の中を確認するレイだった。最初の疑問点だった、金庫の中の位置情報を告げる機能のための電池はやはり取り外されている。

「……おかしい。突発的な新発田さんのアイデアで追加されたそれをすぐに外すのは難しい。それなのに、金庫が開けられるまで半日くらいしか経ってない? 無くなった日からぼくが見つけるまでかかったのは十二日。いくらゴールデンウィークで平日が少ないって言ったって、それだけの時間があれば人材は見つかるかもしれない。でも、やっぱりたった半日じゃ……」
「つまり、どういうことでス?」
「考えられる可能性は、二つ。一つは、犯人の仲間に開発者レベルであの種類の機器そのものに詳しい人物がいた場合。でも、これは電池をわざわざ取り外したことと矛盾する。金庫を開けた時点でもう相手の勝ちだから。位置情報を気にする必要はない。犯人は、金庫の内部機構までは詳しくない。だから、わざわざ電池を取り外したんだ。つまり可能性が高いのは二つ目。今、寺尾さんがやったように、正攻法で音声認識を突破して金庫を開けた場合」

 寺尾はレイが考える間、何度も金庫を開けたり閉めたりを繰り返していた。話していた通り、携帯に吹き込んだ声では金庫の扉が開くことはなかった。
「だが、故障しているようには見えないぞ。音声認識機能が突破される可能性はほとんどないんじゃなかったのか?」
「……ゼロであるとは言えません。無責任で申し訳ありません。ですが、その場合、相手は相当に高度な技術と専門の機械を持っていると言わざるを得ません」

 倉庫の中の空気のよどみを払うように、レイはノートパソコンを取り出し、事件当日、夜のライブ会場近くの道路に備え付けられたカメラの画像を取得する。一台、不審な車両が駐車場に向かうのが確認出来た。しかし運転手の顔はカメラからの距離、解像度の問題や夜で暗いこともあり、判別は難しい。レイは、何とか確認できたその車のナンバープレートから持ち主の情報を問い合わせた。その返答を待つことにして、全員で事務室に移る。
通常の業務を落ち着かない様子で何とか続けながらMDの社員は待ち、レイとリーナは事務室の一角で見落としがないか調査を続ける。しかし定時にもうすぐなろうかという五時少し前、レイの携帯やパソコンにではなく、寺尾の携帯に予期せぬ連絡は来た。

「……はい。お世話になってます、寺尾です。例の話は、どうもありがとうございました。今、ちょっと立て込んでて、借りたお金の話とも関係あるんですが、迷惑はかけませんので。……え?」

 金庫の件でまだ狼狽から立ち直りきってはいなかった寺尾の顔色が、会話が進むに連れてどんどんと悪くなる。声も小さくなり、数分して電話を切った後、彼はぼんやりと呟いた。
「うちは、もう駄目かもしれねえ……」

 MDへの死刑宣告。それは、三千万の資金を融通してくれていた歌手からもたらされた、突然の貸し付け取り消しの申し出だった。



[39533] 2-4
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/07 12:44
 さすがにこのタイミングで、MDに不利益が重なるのを無視するレイではない。関係者特例と判断し、速やかに件の歌手の通信記録について調査を行った。期間の長さによる数の多さもあり、さすがに内容まではすぐには調べられなかったが、寺尾はそれで十分だと答えた。

「相手が分かっただけで十分だ。この、ここ数日のあいだに何度も電話してる男。そいつは、オレが声優を辞めてこの会社を作るきっかけになったやつだ」

 十五年前。中堅の声優だった寺尾は、同じ業界にいる若手女性声優と交際していた。そして、今は彼の妻である彼女に対し枕営業を迫った事務所に腹を立て、彼女を強引に別の事務所に移籍させ、自分は声優を辞めて友人である匠と会社を立ち上げた。
幸い、音楽は寺尾も好きだったし、主題歌だけでなく声優の曲も売れ始めた時代で彼自身も何曲か歌わされていた。番組の音楽制作関係者のコネもあった。その上、匠は大手レーベルで既に十年近く経験を積んだ会社の若きエースだった。
アニメ主題歌の歌手を選んだりプロデュースするのは上手くいった。しかし、しばらくすると寺尾の妻に枕営業を迫ったプロデューサーは経営側に周り、彼の会社の妨害をするようになった。MDはスカウトの小岩を迎え、それまでとは違った領域でアーティストを発掘する方針に舵を切った。やがて寺尾を追うようにして音楽業界に転身したその男に何度か妨害を受けることもあったが、ライブでの物販とチケット代、そして音源のダウンロード販売を重視したMDの経営に大きな影響を与えることはもうなくなっていた。

「あの野郎にそんなコネはない。テレビ音楽関係者にかなりの影響力を持つのは事実だが、それは仕事に死に物狂いだった結果で、そのぶん余計なことをしている暇はなかったはずだ。紅白のプロデューサー様だからな、今となっては」

 寺尾の言葉通り、レイが調べたものの、ここ数週間の男の通信記録は歌手や業界関係者で埋め尽くされていて、勤怠記録も長時間に及んでいる。とても事件を企む余裕などはなかった。

「事務所をこのビルに移して二年。会社も安定してきたし、今回の貸し付けがあったから貯めこんでた資金はビルを買ったときに借りた金の返済に当てちまった。当座の活動資金だけなら調達は何とかなったが、指定された期間内に追加で三千万返すとなると金が足りねえ……」



 葬式めいていた場の空気を吹き飛ばしたのは、底抜けに明るい声だった。
「諦めるにはまだ早いでス! 前提変換でスよ。今この国だからこそできる方法があるはずでス、レイ!」

 リーナの言葉に、レイは何故思いつかなかったのかといった様子で手を鳴らし、彼女に抱きついた。
「リーナ愛してる! そうだ、お金を取り戻すんじゃなくて、稼げばいいんだ!」

 そんな二人の様子を何が何だか分からないといった様子で見つめるMDの一同。レイは彼らにも分かるように、詳細を考えながら賭けの説明を始めた。



 場所は東京から遠く離れ、イギリスはロンドン。ステーション・ロードの一角にある、赤茶のレンガと緑に塗られた壁の、古ぼけた建物にあるオフィス。出社して少し経った一人の女性が、携帯にかかってきた電話を受けた。
『Hi,Mum!  アイリーンでス!』
 娘であるリーナの声を聞いたのは、彼女の母、ブリジット・ノウルズである。

『あら、リーナ、こんな時間に突然どうしたの? 電話は休みにしかしないんじゃなかったのかしら』
『実は今日、用事があるのは私じゃなくて、レイなんでス。すぐ代わりまスね』
 そう言うと、かつて日本に滞在したとき聞いた、懐かしい声の少年が出た。

『お久しぶりです、ブリジットさん。今日は、ビジネスの提案があって、少しお話がしたいのです。お時間よろしいですか』
『レイ、いきなりビックリしたわよ。どうしたの? ビジネスってことは、私の仕事に関係があるのね?』
 ブリジットが確認するように問うと、Exactly!(もちろん!)という元気の良い声が返ってくる。

『そうです。世界最大のブックメーカー、ウィリアム・ヒルと賭けをしたいんです』
 レイの言葉を聞いたブリジットは、いままでのことを思い返し、ため息をついた。

『あなたとの賭けに、最近はほとんど勝てていなんだけれどね、こっちは』
『今回は、そちらの勝率もかなり高いと思います。フィフティ・フィフティか、むしろそちらが七対三くらいで有利です』
『まったく、本当なんでしょうね。とりあえず、詳しく話を聞きましょう』

 ブックメーカー、それは欧米に存在する賭け屋のことである。二〇二〇年以前の日本では、『ノミ屋』と言われ違法とされていた方式を扱っている。
賭博には二種類の方式がある。日本でかつて許されており、法律改正後も取られ続けている胴元が必ず儲かる、プレイヤーとプレイヤー間で掛け金が移動するパリミュチュエル方式と、胴元とプレイヤーの間で勝負が行われる、このブックメーカー方式である。
リーナの父は建築家であり、その仕事で数年のあいだ日本に家族と住んでいたが、母であるブリジットもまた、賭博の法律改正に関して政府の有識者会議で意見を述べたことがある。
結果、やはり日本では公営とする場合、胴元が必ず勝つ方式が取られるべきとの結論に至ったが、それ以外にも彼女により多くの知見がもたらされていた。間接的にだが、彼女がこの国の今の状況に与えた影響は大きい。

『ギャンブルとは、それ単体で成り立つものではなく、何かの競技やイベントを盛り上げるため、または新しい技術の発見を促す起爆剤としてのために存在する』。それが、レイの賭けごとの師匠である彼女の、今も変わらぬ信条であった。



 レイは事件のことを伏せながら、今回のイベントの提案と賭けの内容についてブリジットに説明を行った。
『という話なんですが、どうでしょうか?』

 電話の向こうから聞こえてくるのは、少し不安げな、母性本能をくすぐる声。この少年が交渉に際し、自身のことを完全に理解、そしてコントロールできることは今までの経験から分かっていた。賭けの目的は彼女自身のそれに対する信条に合致している。しかし、会社のマネージャーとしては娘にいいところを見せるためという理由で提案を受けるわけにはいかない。
しばし時間を取ってレイの言葉を反芻し、採算がとれるかどうかを確認する。その上で、ブリジットはレイに対し、幾つかの条件をつけた。レイはその言葉を予期していたかのようにイエスと答え、二人は契約の詳細を詰める作業に入った。



 その日の夜、突然呼び出された『残響』のメンバー四人が聞かされたのは、会社の命運を懸けた自分たちのプロモーションについての説明だった。

「みなさんには、今週の日曜、五月十二日〇時から十三日〇時まで、丸一日かけたイベントを行ってもらいます。今回の目標は、楽曲のダウンロード販売と物販の利益合わせて三千万! 一曲百円のシングルなら手数料抜きで三十七万五千回、六曲入りのミニアルバムなら七万五千回のダウンロードが必要です。物販はTシャツが仮に一万枚売れても一千万程度の利益にしかならないので、あくまで端数程度だと考えておいてください」

 最初にレイの言葉に反論したのは、ドラムのハタ。長い黒髪に眼鏡をかけた彼女の、落ち着いた声が事務室に響く。
「少し待って欲しいんだけど。確かに売れ始めてきたところだっていうのは私達も感じています。ライブも最近は九割がた人で埋まるようになってきましたし。でもね、一曲目のダウンロード数、まだ五千くらいなんですよ。ちょっと目標が重すぎると思います」

 それに対し、レイはパソコンの画面をスクリーンに映して説明を続ける。
「今までのような地道なやり方では、確かに厳しいです。だから、三つの策を練りました」

 一つ目は、イギリスにいる彼女たちと同年代のバンドと期間内における楽曲のダウンロード数を競い、それを賭けにするというもの。一口百円で参加しやすくし、それによる直接の利益ではなくPR効果を目的とする。日本の賭けは法律に従いMDが胴元となり、イギリスでの賭けはウィリアム・ヒルが担当する。

「あ、あのう。向こうは英語圏だからアメリカのストアとかでも曲が売れるんだけど……」
 心配そうな声を出したのは、シンセサイザーのイザワ。背の高い大柄な、しかしどこか柔らかな物腰の子だ。

「そこで二つ目でス! 私とレイが力を貸しまス。日本以外のストア対応は任せて下サい!」
 リーナの言葉に反応したのは、ボーイッシュな服装がよく似合う、好奇心を隠し切れないといった様子のベース、ソガメ。
「それで、三つ目は?」

 レイは、イタズラっぽい笑みを浮かべた。
「みなさんには、今作っている最中の新曲の音源収録に加えて、丸一日で六つの場所でライブを行ってもらいます」
 言葉が終わると同時に、レイはスクリーンに映される画面を一日の進行表に変える。説明を聞く内にメンバーは驚きながらもチャンスだと目を輝かせた。そんな中、ボーカル兼ギターのミヨコだけがどこかぎこちない表情だったのに、レイだけが気づいていた。



 イベントの開催までは、わずか二日しか時間がない。MDの社員たちは通常のライブの準備に追われ、レイもまた数多くの仕事をこなす必要がった。
まず、イベントの成功以前、成立させるための準備。これは大きく分けて三つあった。

一つ目は、賭けの相手となるイギリスのバンドを見つけること。これがレイにブリジットから課せられた賭けを認めるための条件である。これには、ブログが役に立った。レイのブログ「レイのいろは帳」は日本語版で月に百万以上の閲覧数、英語版「Array’s NOTE」に至っては世界合計で月間五百万以上のPVを誇る。中でもイギリスの閲覧数はリーナの影響もあって多い。
「面白いもの」を紹介するレイのブログではしばしばコンタクトを取ってきた読者とメールや音声チャットなどでやり取りを交わすことも少なくない。その中の音楽に詳しい人物を頼り、今回の賭けにふさわしい、今まさにブレイクしそうなバンドを発掘。その後、そのバンド「UNION GENE」のリーダーとSNSを通じて出演交渉を行い、結果、彼らの所属する事務所を含めて賛同を得た。
ここまでに掛かった時間はわずか六時間程度である。当初考えられていた最大の問題を、レイはそれだけの時間でこなした。しかし、他にも仕事が山積みであることを考えれば、それくらいの速度でもギリギリなのだ。

二つ目は、本来MDのコネではライブを行えない場所の使用交渉だ。これには、レイのランカーとしての名前を使い、まず三箇所を確保。そして、リーナの「ある力」を使って二箇所を確保した。これにMDの普段使っているライブハウスからの一つを加えて合計六箇所を予定通り確保することに成功した。
一般人にはそれほどでもないが、特定の業界に対してはそれなりに名前が売れていることと、信頼されている人の紹介を使ってこの問題は解決された。

三つ目は、今回必要だと思われるプログラムを書くこと。所々の理由から、幾つかの場面で問題を解決するためにレイのプログラマとしての腕が必要とされた。これに対し、レイは考えうる状況を想定。よく使う既存のソースコードをコピーし、今回のために修正を加え、幾つかのプログラムに関しては新規で書き下ろすこととなった。
並のプログラマでは不可能な速度でも、レイにとってそうであるとは限らない。彼は、最年少の国家一種検索士である。それに恥じないだけの技量と、ここまでの経験がそれを可能にした。



二〇二四年五月十一日

深夜二時頃、MDの事務室では社員のみんなが死んだように眠っていた。それも仮眠に過ぎず、四時頃には起き出さなければとても間に合う状況ではない。その中で、一つだけ起動を続けるパソコンがあった。無論、レイのものである。今回必要なプログラムの八割を書き終え、テストとバグ取りの前に仮眠を取ろうと思っていた彼を訪れたのは、下で新曲を完成させようとメンバーとセッションを続けているはずの、ミヨコだった。

「お疲れ様です。そちらはどうですか?」
 レイは彼女に言葉をかけながら、何でも屋に届けさせたハツネおすすめの白ぶどう味の飲料を段ボールから取り出して渡した。
「あ、ありがとう。新曲は、何とかなりそうだよ。……うん、おいしい。私もこれ好きなんだよね。あんまり売ってないけど。……ねえ、ちょっといいかな」

 ミヨコに誘われ、二人は会社の外に出た。そしてレイは、大げさな動作で深呼吸をしてから硬くなった身体を解きほぐすように伸びをした。
細い月が夜空に浮かび、静かな夜の街には人の営みが続いていることを示す人口の光がぽつぽつと灯っている。どうやら、天気の面では心配なさそうだった。

「……君はさ。今回のイベント、上手く行くと思ってる?」
「もちろんです」
 静かに問うミヨコに、レイは絶妙なタイミングと自信に満ちた声で返した。徹夜にも関わらず、彼女の目を真っ直ぐに見つめるレイの瞳は光を失うどころか、ますます力に溢れている。

やっぱり。そう、ミヨコは思った。レイの反応は彼女が予想していたものとほとんど変わらないものだった。出会ってからそれほど時間は経っていないが、おおよそ思ったとおりのタイプの人間だと彼女は感じていた。

「私は、そんなふうには、思えない」
 ミヨコは、逃げるように目を逸らした。

「……君には、分からないよ、きっと。だって、強いから。普通の人とは違うから」
 出会ってから短い時間で、仕事のパートナーとしてMDの社員たちから頼られるレイの姿がミヨコの脳裏には浮かんでいた。
しかし、なぜ自分が本来苦手とするタイプのレイに対し、こんなことを話そうとしているのかは彼女自身には分かってはいなかった。それには、何かに対する代償行為と、そしてほんの少しの期待のようなものが含まれていた。

「この前のライブを見てた君にはバレてるかもしれない。……私はさ、ビビリなんだよ」

 それから、ミヨコは途切れがちに自分の過去について語った。
幼い頃からピアニストになるべく育てられた彼女は、確かに疑うことのない豊かな才能と、大成するのに不可欠な、真摯に努力する資質を持っていた。しかし、大きな舞台になると緊張から結果を思うように残すことが出来ず、いつしか両親から見放され、一度は音楽から離れた。
それでもどこかで諦めたくない気持ちがあったのか、高校に入り、強引に誘われた軽音部で先輩たちとバンドを組むことになった。彼女はそれを本気で断ろうとはしなかったのだ。
練習は問題ない。難しい挑戦ではあるが、曲を作るという新しい楽しみも覚えた。心配だったのはライブだったが、メンバーと出会って最初のライブとなる高校の文化祭を、ピアノのときとは違う「一人でない」感覚に助けられ、なんとか乗り切ることができた。それからは、学外でも活動を行うようになり、幾つかのライブの後でMDにもスカウトされた。
しかし、彼女自身の問題が完全に解決されたわけではなかった。やはり大きな舞台になると彼女はパフォーマンスの質が安定せず、プロモーションは考えていたよりもずっとゆっくりと進む結果となった。

私がこんな性格じゃなかったら、先輩たちが高校にいる内にもっと売れてたのにな、と呟く彼女の少し垂れた目には涙が浮かんでいた。

「私はみんなの期待をまた裏切ってしまうかもしれない。だから――」
 何かを続けようとしたミヨコの言葉を遮るように、彼女よりも少し背の低いレイが頭を撫でた。

「――それでも、あなたはここまで来たんです」
 そして、ミヨコの両目に滲んだ涙を拭いながら言う。

「何度失敗しても、見捨てられても、音楽を捨てられなかった。もがいて、また失敗して、それでも認めてくれる人がたくさんいたから、ここにいるんです」
 レイは、彼女の俯く顔を両手で逃げられないように抑える。

「おとーさんは、言ってました。ゲームは一人じゃ作れないって。できたとしても、自分の想像を超えるようなものは作れないって。だから、仲間が必要なんだって」
 レイの瞳には、いつもよりずっと強い光があった。

「自分の力だけじゃ手に入らない、一番大切なものを、あなたはもう持っているんです。だから、きっと大丈夫」
 ぼくも、いつかそんな仲間がほしいんです。そう言ってレイは微笑んだ。

「私にも、出来るのかな……?」
 その言葉に、レイは深く頷く。
「ミヨコさんだから、出来るんです」

 ミヨコは、ほんのわずかだけ顔を上げる。
「例え、音楽に世界を変える力が無かったとしても?」
 レイは、ミヨコの言葉と視線から逃げずに言った。
「例え、ゲームに世界を変える力が無かったとしても、僕は、そうするんです」

 いつしか、ミヨコの目には、それまでに無かった強い熱がこもっていた。
「分かったよ。どっちみち、それしかないんだ。私にやれるだけ、やってみる……!」



[39533] 2-5
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/08 14:58
 二〇二四年五月十二日

日が変わると、それまでPVが流されていただけの生放送動画の画面が切り替わった。

部屋の入り口、上部の角に取り付けられたカメラが斜めからの角度で室内の様子を映し出す。四人組のガールズバンドが、イベントの始まりとなる一曲目を奏で出した。
放送のための音響機材は専用のものが揃えられておらず、音質はそれほど良くはない。しかしながら、もはや名曲であることに疑いのないその曲に、画面の前に座るまだ少ない閲覧者達は釘付けになった。

ミニアルバムに入れる六曲を演奏し終えると、彼女たちは新曲の練習を続ける。今度は、人に聞かせるためのものではない。何度も間違いながら、心地よい緊張感の中でコミュニケーションを取り、その完成度を高めていく。閲覧者の一部はその光景に飽いてブラウザのタブを閉じた。しかし、彼女たちのファンは深夜にも関わらず、話を聞きつけて少しずつ動画に集まろうとしていた。

楽器を一度片付け、水分を取りながら練習を終えた四人は部屋を出る。そして、少し厳ついデザインをした三菱のミニバンに荷物を積み、深夜二時の街に繰り出した。
車中では、ダッシュボードと二列目のドアの横に取り付けられた二つのカメラが交互に彼女達を映し出す。それに映るのはカメラを意識せず、今日の流れの確認や、新曲についての意見するミュージシャンとしての姿。それに、まだ成年していない少女たちのありのままの益体もない会話だ。

車で二十分ほど夜の道を走ると、下北沢近くのレコーディングスタジオに到着する。彼女たちは荷物を降ろし、赤いTシャツを着たスタッフやレコーディング・エンジニアと思われる人々と合流した。しかし、彼女たち四人以外の顔は画面に写されてはいない。顔のある部分には、アルファベットのDの大文字をかたどった円の中に音符が描かれた、MDのロゴが表示されている。
準備が整うと、新曲のレコーディングが行われる。限りなく真剣に、しかし時おり発せられる彼女たち以外の声はボーカロイドのものに加工されていて、その空気をユニークなものに変えていた。朝の六時を過ぎると、起きだした業界関係者がSNSでその動画を知り、閲覧数が増え始める。

レコーディングを終えた彼女達と機材を載せ、ロゴに顔を隠されたスタッフが運転を代わる。車は環七通りから永福料金所を通って新宿線に入る。その間、彼女たちはポットに入れられたお湯からインスタントの味噌汁を作り、四人分の大きなお弁当箱に入れられたおにぎりや玉子焼き、ウインナーをじゃれつきながら食べる。少女たちの賑やかな朝食がゆっくりと続けられ、五十分ほどすると立川にある目的地に到着した。
それは、ドーナツ型をした不思議な建物だ。機材を整えると、その中心で彼女たちはミニアルバムの六曲と、続いて先ほど収録したばかりの新曲を演奏し始める。
カメラが突然に切り替わる。視点が彼女たちを写していたものからぐんぐんと上空に移り、その建物全体を写しだした。気が付くとドーナツ型をした建物の平らな屋根部分では、ロゴで顔を隠された百人近い子どもたちが日曜の朝だというのにぐるぐると走り回っている。
カメラが再び切り替わり、演奏を終えた四人がその様子に驚いた表情を見せる。屋根に上り子供に触れようとするが、伸ばされた腕はその身体を通り抜けた。そこにいたのは、実在しない映像の子どもたちだったのだ。
テクノポップやロック調にアレンジされた童謡を、架空の子どもたちに見守られ彼女たちは再び演奏する。音楽が好きで好きでたまらないといった様子が、画面を通じて見ている者の童心を呼び覚ます。

九時を過ぎると、彼女たちは子供のように揃えて、ありがとうございました、と頭を下げた。そして機材を再びミニバンに積み、移動を開始する。
中央自動車道を移動する間も映像はとぎれない。賭けの相手であるイギリスの「UNION GENE」がライブを終え、日本との時差で日が変わったばかりの時間にも関わらず、練習をする姿が映された動画を見て、彼女たちは触発されている様子だ。

およそ一時間後、彼女たちは秋葉原に降り立った。駅を少し離れた中央通りに面したメーカー直営のビルに入ると、その中ではたくさんの若者がランカーになるべく、あるいは純粋に、ゲームを楽しんでいる。彼女たちはそのイベントステージで、再びのライブを行った。
合計七曲の演奏。疲れている様子などは微塵も見せない。観客は一人残らず顔をMDのロゴで隠されている。中には携帯でその動画を見て、面白いと笑い合う者もいた。

演奏を終えると、観客たちを引き連れて彼女たちが幾つかのゲームをする姿が映し出される。レイがロイと対戦したリズムゲームでベースのソガメとシンセサイザーのイザワが対戦し、ドラムのハタは太鼓を叩くゲームでリズム感を披露、そしてミヨコはギターを演奏するゲームの前に立ち、備え付けのものではなく自らのギターを筐体に繋ぐ。どこか余裕が見られる笑顔のままでハイスコアを叩きだした。

観客たちに見送られ、中央通りを渡る姿は、先日のライブでカバーしたバンドの有名なジャケットのようだ。細い道を進み、古ぼけた小さな建物の中に入ると食券を買う。席に座った四人の前にはやがて、それぞれが頼んだ定食がご飯を大盛りにして差し出され、先ほどのゲームについて会話をしながら食事が進む。
食事を終え店を出ると、誰ともなく時計を見た。カメラに映し出されたそれは、午後一時半少し過ぎを指し示している。四人は楽器を担いで大急ぎで走りだす。そして、車の通行がなくなった中央通りに繰り出した。

彼女たちを見ようとする観客が円で取り囲みながら、その道路の真ん中でライブが始まる。何曲か演奏を続けると、それまでのMDのロゴとは違う、彼女たち以外の初めての人物が画面に映しだされた。
3Dで描かれた、スキンヘッドで眼帯をした、格闘ゲームのキャラクターだ。彼女たちに襲いかかるそれに、ミヨコがギターのヘッド部分をバットのように両手で持って振り回す。するとそのキャラクターは画面の端に吹き飛ばされ、いつの間にか動画の上に表示されていた体力ゲージがゼロになりYou Win! の文字が踊る。
しかし、それもつかの間。何人ものボスキャラクターたちに囲まれる彼女たち。そこで彼女たちがこの前のライブで披露したカバー曲を奏でると、別のキャラクターが輪の中に現れる。
四人を助けに入ったのは緑のレオタードに軍人めいた赤いベレー帽のキャラクター、髪をお団子にまとめたチャイナ服のキャラクター、セーラー服にブルマ姿の黒髪のキャラクター、そして少女じみた青い服に黒いタイツをはいた金髪のキャラクターだ。
『残響』がテクノポップ風にアレンジしたゲームの音楽を奏でると、キャラクターたちの動きは鋭さを増し、敵をあっという間に駆逐する。観客たちは近くのビルのディスプレイに映しだされた、目の前で見る実際のそれとは違う、そのゲームのような演出にしばらくぽかんとした後で沸き上がった。

歩行者天国でのライブを終えると四人は荷物を持って走り去り、少し離れた場所で再びミニバンに乗り込む。二十分ほど移動すると、そこはかつての電波塔、東京タワーの足下だ。
荷物を下ろすとエレベーターに乗り、四人は展望台に向かう。画面は切り替わり、空からの映像が映し出され、彼女たちの声が流れ始めるとともにライブ会場へと接近していく。
外からの映像が中に再び戻る。気が付くと、ここまでの放送のおかげか人は満員だった。この日四度目のライブであり、疲れもあるはずだが、それ以上にここまでの経験で彼女たちの演奏はどんどん良くなっていく。

その後は、しばらく飲み物を片手にここまでの放送で寄せられた質問に答えるトーク番組が行われた。わずか二日で進められた準備や、彼女たちの結成の逸話、残り二箇所でのライブの告知などがなされると、彼女たちはその場所を後にする。

移動した先は、先日レイたちが『残響』を初めて見たライブハウスだ。機材の準備を済ませ、彼女たちは控室でようやく一息つく。お腹すいたあ、という声に応えるようにスタッフの一人が何故か炊きたての炊飯器と海苔、塩、それに何種類化の具材をテーブルの上に置く。
こっち忙しいから自分たちでそれ食べて、と告げられると動画内のコメントが一斉にそれを笑う。彼女たちは手を洗うとあまり慣れていない手つきでおにぎりを作り始める。どうやら一番うまいのは最年少のミヨコのようだった。それに対する再びのツッコミが動画を埋め尽くし、食事を終えるとステージの様子が映し出される。

元々今日ライブを予定していた二つのバンドの対バンが画面の半分を、控室でこの後の準備をする彼女たちの様子がもう半分を埋める。午後八時半頃になり、ようやく彼女たちの出番がやってきた。

会場は、事前の告知がなかったにも関わらず超満員だった。前のライブを見に来ていたのは八百人ほどだったが、『残響』がステージに立つ頃には千五百人の収容人数をオーバーしているのではないかというほどの人の密度。

そこからはまさに圧巻だった。一日のあいだにすっかり本物になった七曲に加え、十曲を超えるカバーを披露し、何人もの観客がダイブをする。建物全体が人によって揺れているのではないかと錯覚するほどの盛り上がりだ。

惜しまれながらライブを終えると、彼女たちはそのままの姿で物販の対応に向かった。搬入されていたアイテムは小さなものまであっという間に売り切れ、近々通販を行いますとチケットのアプリにポップアップが浮かぶ。

最後の客がライブハウスを後にすると、四人はその場に大の字になって寝転んだ。そして、スタッフから白ぶどう味の飲料が差し出され、それを喉を鳴らして飲み干すと、いよいよ最後となるライブの会場に向かう。

ライブハウスから十五分ほど移動し、ある六本木のビルの地下。どこか近未来的な、黒い空間に青と白の光が踊るそこで、彼女たちは演奏を始める。
疲労は既に限界を通りすぎて、もはや彼女たちを動かしているのは精神力だけだ。しかし、その音は先日見せたものよりもずっと高いレベルに到達している。今までになかった何かを、彼女たちは確かにこの一日で手に入れたのだ。

そして、曲が進み、残り数曲となったところで、アクシデントが起きた。
会場の、全ての明かりが突如として消えたのだ。
演奏も、途中で途切れてしまった。動画内に流れるコメントが彼女たちを心配する。そして、九十秒ほど暗闇が続いた後――。

再び明かりが照らされると、そこには五人目の姿があった。3Dで表現された、緑色の古いボーカロイドが、ミヨコの横に立っている。

曲調はロックからテクノポップに変化する。初めて合わせたにも関わらずミヨコとボーカロイドが見事なツインボーカルを、動画を通して世界中に響かせる。今や、生放送の動画には新しく人が入れないほどの閲覧者が集まっている。その様子を実況するつぶやきも、勢いを増していく。

そして、最後の音の残響が消えると、日が変わり、長い長い一日が終わった。



[39533] 2-6
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/09 12:20
 二〇二四年五月十三日

 ミヨコが目を覚ますと、少しだけ膨らんだ彼女の胸元がもぞもぞと動いた。シーツをめくると、そこには黄緑色をしたジャージ姿のレイが抱きつくように眠っていた。顔を赤くしながら周りを見回すと、自分と同じベッドでイザワがレイのお腹に抱きつくように、もう一つのベッドではハタとソガメが音も立てずぐっすりと眠っている。どうやら、何度か使ったことのあるMDの事務所近くのホテルのようだった。

「レーイ! もう五時でスよ! いつまで眠ってるんでスか!」
 ドアを開けて突然入ってきたリーナがミヨコからレイを引き離す。その様子を見て、思わずミヨコは声を出した。

「あ、あの。会社、大丈夫だったの?」
 その言葉を聞くと、リーナは何を言っているんだろうといった表情を浮かべる。

「何言ってるんでスか。お金なら午前の内にとっくに返してありまスよ」
 まあ、何曲売れたのかはこの後の打ち上げで発表でスけどね、とリーナは付け足す。ミヨコたちには、状況がまったく飲み込めていなかった。



「「一芝居打ったあ!?」」

 『残響』のメンバーは声を揃えて寺尾に聞き返した。在庫が空っぽになったMDのビル一階倉庫には、スタッフが用意した料理や飲み物が折りたたみ机の上に並べられている。
「そうだ。金自体は、オレが自分の資産から一千万、新発田に金を貸してもう一千万、匠が五百万、小岩と相川が二人で五百万出して会社に貸付る形を取った。それで、後片付けが済んだ今日の昼に金は返した」

 ミヨコは、自然と疑問を口にした。
「それなら、私達あそこまでする必要なかったんじゃ。なんで、そんなことを?」

 寺尾は、目の前の少女が昨日のライブをこなした者と同一人物であることに不思議を感じた。
「まあ、チャンスだと思ったんだな。お前らに発破をかけるための。このまま行っても中途半端なことになりそうだったのをずっと悩んでいたんだ。そこに今回の事件が起きて、レイが色々アイデア出してくれたから、やってみようと思ったんだ」
 ちなみに、オレ達に金が返ってくるかどうかはこれから発表だ、そう寺尾が続け、レイが頷いて壁のスクリーンにパソコンの画面を写す。
「皆さん、お疲れ様でした。えっと、曲のダウンロード数については最後に発表して、今回のイベントの功労者についてまず話そうと思います」

 最初に画面に映された写真は、MD社員一同のものだ。
「MDの皆さんは、二日という短い準備時間の中でライブの全般的な準備、無茶な時間帯でのレコーディングの準備と、生放送と音楽番組のベテランカメラマンさんを説き伏せて撮影の準備をしてもらいました」

 次に映されたのはレイの写真だ。
「ぼくは、ランカーと検索士のコネでゲームセンターと秋葉原の歩行者天国、それに最後の動画サイトが運営しているライブ会場の使用交渉を行いました。他には、一般人の方が映る際の顔にロゴを入れるプログラムの改良、上空から低予算で撮影するために大型のラジコンヘリの自動操縦プログラムを書いたりしました。あ、秋葉原で出たゲームキャラクターはおとーさんの仲間が社長をやってる会社に、最後のボーカロイドの3D映像は、ぼくのプログラミングのししょーで有名なPに頼みました」

 そして、画面が切り替わる。リーナの写真が映される。
「一番頑張ってくれたのは、リーナだと思います。あの幼稚園と東京タワーの使用許可をもぎ取ったのは彼女です。皆さんの会話を逐次翻訳して、海外向けの動画にコメントをつけてくれたのも、彼女です」

 ドラムのハタが眼鏡の縁を抑えた。
「彼女に、そんなコネがあるの?」
 レイはブラウザを開き、リーナの名前を検索しながら答える。
「リーナは、日本の色々な建物のプロデュースに関わっているんです。この国には色んな建築物があるけど、建物としての機能ばかりに目がいっていて、文化的なポテンシャルを十分に引き出せていないってよく言ってます」
「そうでス。ルーヴル美術館とかは平均して毎日何万人とか人が来るんでス。日本にも面白い建物たくさんありまスけど、建てる技術ばっかりで活かす力が全然足りまセん。東京タワーが一時的に取り壊されそうになったのも、そのせいでス」

 中学時代、リーナは東京タワー取り壊しの反対署名を集め、建築家としての父の知名度を知った都知事の気まぐれでそのプロデュースを任された。そして当初の期待を裏切り、同級生でランカーだったレイを通じて企業にかけあい、東京タワーを総合ランキングとは別の、あるゲームの年に一回に行われるトーナメントの決勝リーグ開催地としたのだ。
彼女はそれ以外にも、外国人観光客向けの案内を充実させたり、怪獣映画ファンに向けたイベントの開催などの指揮を取っており、その筋ではすっかり有名人だった。
 話を聞いた『残響』のメンバーはどこか唖然としながらも、合点がいったという様子。そして、レイはいよいよイベント結果の発表に移る。

「じゃあ、まず、ライブの動員人数から。東京タワーのライブはローカルのテレビに出してもらう代わりに売上を頂いていないので、お金を取ったのは五つ目の会場だけですね。これは千五百人、定員いっぱいでした。チケットが千円なので、これ自体の利益は百万に欠ける程度ですが、物販が完売したので、合わせてここまでで一千万の利益です」

 その場にいる全員から、おおお! と興奮した声が上がる。続いてレイはブラウザを開き、タブを分割して動画を写しだした。

「次に、動画の再生数です。後で広告料が振り込まれまれる分の『残響』の動画については一日で六十万再生ほどです。ちなみにイギリスのバンド『UNION GENE』の動画は、プレミアムリーグの最終節でライブを行った影響が大きくて百万再生を越えてました。今回の動画に関しては、分割して販売するか無料公開で広告料を得るか、また後で話し合う予定です」

 そして、ついにメインとなる楽曲ダウンロードに画面が移る。
「音源のダウンロードについては、七曲個別の合計で五十万、ミニアルバムで三十万回のダウンロードがありました。これで約一億五千万の利益です。『UNION GENE』は約二億円程度の売上だったのを確認しました」

 『残響』のメンバーが今までからは考えられないダウンロード数に目を輝かせた後、世界には手が届かなかったと顔を伏せる。しかし――。

「これに日本語、英語以外のストアの分を合わせると、昨日終わり時点の為替レートで利益は二億二千万になります。賭けは、『残響』の勝ちです』
 スクリーンにはストアの管理画面が映し出されている。確かに、ダウンロード数と売上金額はレイの言った通りの数字を示している。

「日本以外のストア対応って、言ったでしょ? 英語だけなんて、言ってませんよ」
 レイは、上手くいったとでもいうように舌をぺろりと出して笑う。そして、すぐさま駆け寄ったリーナ以外のその場にいた全員にもみくちゃにされた。


レイのブログは、広告料だけで日本語、英語版合わせて今や一月に百万以上を稼ぐ。ブログを始めて五年になるが、日本語版を作って一年ほど経った後、英語版を作ってしばらくすると、他の言語で勝手に翻訳したものが出るようになった。
考えた末、レイはそれぞれの管理人にコンタクトを取り、条件を飲むなら是非翻訳を任せたいと伝えた。条件は二つ。一つ目は、翻訳版に対してすべての責任をその管理人が負い、レイには責任が追わないことを明記し、その契約書を作ること。二つ目は、もし何かの機会に手伝ってほしいことができた場合、可能な限りレイをサポートするというもの。
レイは、金銭についてロイヤリティを取るなどということはしなかったのだ。それよりも、より多くの人に楽しんでもらうことを選んだ。それは、今もどこかで生きていると信じる父親に届けるためでもあった。
今回レイは、その管理人達の力を使い、『残響』を支援したのだ。



外に出せないお金に関する話が終わった後は、改めて今回のイベントで無理をさせてしまった関係者への慰労会が会社近くの店で行われた。
『残響』のイベントは大手ポータルサイトのトップページに載ったこともあり、取材の申し込みが昼間はひっきりなしだったということをメンバー達は聞いた。
詳しい話は後日段取りを済ませてからとなるが、寺尾の知り合いである有名な音楽雑誌のライターと、今回のイベントをいち早く広めてくれた大手音楽ニュースサイトの管理人だけはその会に呼ばれており、メンバーはイベントを終えた直後の感想を短く話した。



 時間は夜の九時過ぎ。大人たちは酒も入りかなり場も混沌とする中、レイは場の空気に当てられた熱を冷まそうと店の外に出た。すると、遅れて人の気配がした。
「ああ、いた。急にいなくなったからびっくりしたよ」
「ミヨコさんも、熱くなって出てきたんですか?」
「うん、そんなところ。岩崎さんとかすごい酔い方してるよ。ふだんはあんなに真面目なのにね」
 そう言ってミヨコは思い出したようにくすくすと笑った。

「ねえ。本当に、いろいろ、ありがとう」
 ミヨコの顔からは、それまでのどこか神経質じみた苛立ちが消えていた。
「いいんですよ、仕事ですから。それに、ぼくも『残響』のファンの一人ですから」
 今の二人の距離は、随分と近いものになっている。それは既に、気を許した者同士のものだ。

「あのさ、初めて私達の曲を聞いたとき、どう思ったのか、教えてくれないかな。どの曲が良かったのか知りたいんだ」
 その声に、苛立ちはない。ただ少しだけ、不安と期待が入り混じったような、そんな声だった。

レイは、腕を組んで両目を閉じてしばらくの間、何かを考える素振りを見せた。
「難しいです、とても」
「直感でいいんだよ。簡単な好き嫌いでもいいからさ」

 ミヨコの言葉を聞いて、じゃあ、と前置いてからレイはその問いに答え始める。
「ぼくは音楽をやっていないので、専門的な知識とかないのが前提ですけど。一番凄かったのはやっぱりあのカバー曲です。他の人の盛り上がりも一番だったと思います。ただ、実はぼくはあの曲をそれほど評価していません」
 ミヨコは特に口を挟まずにただじっとレイの言葉をその横で聞いている。

「オリジナルじゃないっていうのが、やっぱりその理由ですね。ぼくもゲームを作るので、真似よりもその人の作ったものが見たいですから。その上で、一番良かったと思うのは、矛盾しますけど、二曲あります」
 レイはそこで一度言葉を切り、小さく息をはいた。

「バンドとしての完成度は、やっぱり今回のライブでも最後に歌われた曲です。単純にぼくがゲーム音楽として使いたいっていうのもありますけど、それを差し置いてもやっぱり凄い曲です」

 まだ物心付く前だが、その記憶だけははっきりとしている。父と初めてゲームをしたときに聞いた、あの合成音の名残を残す、ワクワクする感覚をレイは思い出していた。それは、今もずっと変わらずに彼の胸の中にある。

「でも、それはバンドとしての一番です。ミヨコさんが一番輝いていたのは、ライブで最初に歌った曲です」
 今までレイと同じように道路に視線を向けていたミヨコの顔が、レイの方に向けられた。
「歌っているとき、本当に楽しそうでした。それがぼくにも分かったんです。本当に凄いものを見つけたときってああいう顔をするんですよね、人って。ぼく、それが凄く好きなんです。だから、あの曲がぼくは一番好きです」

 話しながらレイも、自然とミヨコの方に顔を向けていた。ミヨコの垂れた目は、どこか熱を帯びたように少しだけ潤んでいる。少しだけ間を置いて、彼女は恥ずかしげに頬をかいた。
「お願いがあるんだけど、私も、リーナみたいに君のこと、レイ君って呼んでもいいかな」
 レイの、はいっ、もちろんです、という明るい声を聞き、ミヨコはレイの頭を撫でた。それから、ほんの少し戸惑うように視線をさまよわせたあと、一度小さく頷く。

「『残響』ってさ、私がつけた名前なんだ」
「ミヨコさんが?」
「うん。先輩たちに誘われてバンドを始めて。みんな、初めはもの凄く下手くそだったんだよね。音楽の経験があったのは私だけだったし。練習して少しずつ上手くなって、それで、文化祭でカバー以外にも、レイ君が良いって言ってくれたあの曲をやろうってなったときにさ、みんながバンドの名前を私につけてくれって言ってくれたんだ」

 ゆっくりと語り、ミヨコは一度、短く天を仰ぐ。
「みんなには、私達の音楽が聞いてくれた人に長く残るようにつけたって言ってあるけど、本当は、違うんだ。一度音楽から逃げた私だけど、それでもやっぱり捨てきることなんて、できなかった。そんな私に残った音。ミヨコっていうのは、苗字をいじったあだ名。私の本当の名前はね、響っていうんだ。だから、『残響』。ちょっと恥ずかしいけど、レイ君にも名前で呼んでほしい」
 一呼吸分の間をおいて、はい、響さん。という声が夜の街に短く溶ける。

響は、その言葉で熱に浮かされたようにその頬を朱に染め、ゆっくりとレイに顔を近づける。そしてーー。

「そこまでっ」
 重なろうとしていた二人の顔と顔の間が、何か板のようなもので遮られた。

「私の目の黒いうちは、不純異性交遊は禁止だ!」
 そう言いながら、二人を引き離し、捕まえたレイの脇をくすぐるのは氷子だった。
唖然としたあと、見られていたことに気づき響は顔をさらに赤くする。
「くすぐったいよ、ひょーこさん」
 これは罰だぁ、と言いながら指先をうねうねと動かし、氷子はレイと身体を密着させながら明らかに行き過ぎのスキンシップを取っている。
 数十秒ほどそれが続き、脇を閉めて距離を取り、レイは響の影に隠れて息を整える。

「それで、どうしたんですか、こんなところで?」
 ようやく落ち着いたレイが、響の横から顔を覗かせる。
「いろいろ大変だったようだな。ひとまずお疲れ様。だが、忙しいからといって問い合わせた情報に目を通さないのは駄目だぞ。ほら」
 そう言って、氷子は先ほどから手に持っていたバインダーを渡す。レイはそれを響を伝って受け取った。

付されていた紙を読んだレイは、さっと顔を上げ、真剣な目で氷子を見つめた。
「これって」
 レイの声に、氷子は軽く頷いて、右手を軽く握った。
「ああ。亜鈴が問い合わせていた車の情報だ。オフィスのファックスに届いていたんだが、春海さんに迎えを頼まれたついでに持ってきた。それで居場所を聞いてここにくる前に、緊急だからと部長と少し電話で話してね。じきじきの指名を受けたんだ」

 そこには、例の車の持ち主の経歴、大学を卒業した後フリーターをしている男であることなどと、MRJ名義で借りている駐車場にそれが止められているということが書かれていた。
「どうやら、約束通り仕事を手伝ってもらうことになりそうだな」
 氷子はにやりと笑って、左の手のひらに右の拳を軽くぶつけて打ち鳴らした。

金庫の中身は、まだ見つかっていない。事件は、新たな局面を迎えようとしていた。



[39533] 『イリーガル・タワー』3-1
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/10 04:34
二〇二四年五月十四日

「おおぅ、レイ君、しばらくぶりだネ。元気にしていたかな?」
 一人の男が、特別捜査室に入ってきた。実際の年齢は六十を過ぎているが、顔や動作から見て取れるそのみなぎる活力は、まだ五十代半ばといっても違和感がない。
渋谷警察署の一室に置かれたそこは、捜査室としての体裁を辛うじて保つ程度にはスクリーンや机と椅子、コピー機が揃えられている。しかしどこか雑多な印象で、急ごしらえなのが分かる。部屋にはレイの他、入ってきたその男性を含めて、もう一人の男性と、二人の女性がいた。

「はい! ぶちょーさん、お久しぶりです。検索士としての仕事、なかなか面白いです」
白髪の混ざったオールバックにあごひげ、そして広い肩幅にスーツを合わせた渋い男は、レイの言葉を聞いてまるで孫に見せるようにニコニコとした表情を浮かべている。

「部長、以前と比べて亜鈴に対する態度が随分違いますね」
 冷たい視線で男を射抜くのは氷子だ。それは、とても目上の人間に対して適切な態度とは思えない。

「巴くん、昔のことは昔のこと。今は彼が優秀だと私もちゃんと分かっているのだからそれでいいじゃないかネ?」
 その追求に対し、男は少しだけ目を泳がせて答える。彼の名は米村十四朗(よねむらじゅうしろう)。氷子がキャリア時代所属しており、今も協力を続けている組織犯罪対策部の部長である。

「部長、挨拶はそれくらいにして、そろそろ本題に入りませんか?」
 レイのいる机に寄りかかるようにして立つのは、ツーブロックパーマの男だ。日に焼けた肌、スーツの下に纏うのは適度に鍛えられた筋肉。声も落ち着きがあり、三十を前にして油の乗った時期の、まず美男と言って文句の出ない人物だ。

「ええい、健士! 亜鈴にくっつくな! お前のせいであんなに純心だったその子が女をたぶらかすことを覚えてしまったんだぞ! どう責任を取ってくれるんだ!」
 氷子の言葉に対し、やれやれ、と肩をすくめてみせる姿はどこか芝居がかっている。それでも不快にならないのが、この男、青山健士(あおやまけんし)である。

「そうですよー。青山さん、レイ君連れて女子大生ナンパしに行ったんでしょ? さすがに私も引きます」
 追撃するのはどこかまだ幼さを残す、スーツに着られている印象の強い、ガーリーショートの女性だ。言葉とともに青山を両手で押して離し、今は両手でレイを愛玩動物のように可愛がっている。

「おいおい、真里ちゃん。そいつは少し酷いんじゃないかな? レイ君が悪い女に引っかかる方がずっと困るだろ?」
 青山の言葉に、それも一理ありますねー、とどこか間延びした声で反応する。彼女は鍵本真里(かぎもとまり)。氷子が通常の警察組織から離れる際に、その後釜として自衛隊から引きぬかれた異色の経歴を持つ女性だ。

「あー、そろそろ、話してもいいかネ? 積もる話はご飯のときとかに、ゆっくりして欲しいんだよネ」
 一同がその言葉に向き直り、少しだけ居住まいを正した。米村はレイのノートパソコンにUSBメモリを差し込み、一つのファイルを開かせる。

「さて、今回問題となっているのは、MRJ、ミュージックライツジャパンの不正資金問題だヨ。ここは元々、様々な楽曲の著作権を管理してたわけだけれども、『遅れてきた世紀末』の一環で社団法人が見直された結果、一度潰れそうになったんだよネ」
「ああ、そこまでは詳しくないですけど、組織自体は知ってますね。自分が学生の頃から、ネット上で色々騒がれることも多かったように思います」

 青山の相槌に、米村はうんうんと肯定の意を示す。
「そう、それで組織の長が二〇二〇年に変わったんだよネ。この人が結構なやり手で、低下してた収益がちょっとびっくりするくらいに回復したんだヨ」
 米村の合図でレイが写すのは、ファイルの次のページだ。そこには、折れ線グラフでMRJのここ十年ほどの収益が描かれていた。

「なるほどー。これはちょっとびっくりですねー。この収益を得るようになった方法が問題なんですか?」
 鍵本の疑問に、米村は少し口を尖らせて、首を振った。
「いやあ、それは違うんだよネ。この収益っていうのは、だいたいが外国に進出したカラオケボックスの楽曲使用料から取ってるんだけども。それ自体は特に問題はないんだよネ」

 米村がさらにレイに促し、次のページが表示される。そこには、大手カラオケチェーンの東南アジアに進出する姿を取り扱った新聞記事や、現地の店舗の写真などが映されている。
「そうすると、何が問題なんですか?」
 口から出たのは氷子だけだったが、その場の全員が同様の疑問を抱いていた。

「うん。実はネ、どう見繕っても収支が合わない所があるんだよネ。現地の子供に音楽の普及とかボランティアもやってるんだけど、その建物を建てたりしてるし、代表が代わってすぐ職員を一度大きく入れ替えているのに、給料の水準が以前と同じままだったりしておかしいんだよネ」
 ふむ、とその言葉を噛み砕くようにして少し考え、青山が口を開く。
「なるほど。確かに少し気にはなりますね。ですが、どちらかというと自分たちの仕事というよりも、マルサに任せるべき案件なんじゃないですか?」

 その当然の指摘は、米村も予期していたものだったのだろう。レイの顔を見て、頷いて更に次のページが映される。
「もっともな話だよネ。ただ、ここからが本題。MRJの一部の人間が、仕事として結構な頻度でタイとかに行ってるわけだけれども。どうやら、そこで人身売買に絡んでいる可能性があると調べが出てるんだよネ」
 一瞬表情を曇らせたのは、レイである。氷子はその様子に、まるで全てが分かっているかのようにいち早く気付き、彼を心配そうに見つめた。
青山が気をかけるようにレイの肩をもみほぐし、レイは氷子に大丈夫だよ、と小さく呟いた。

「うん、話を続けるネ。君たちは、「タイの花嫁」って知ってるかナ? 日本人とかに向けて中国とかその他タイとかの東南アジアの女性を結婚相手として紹介するサービスを営んでいる会社がもう十五年以上前からそれなりにあるんだよネ」
 レイはそれを、どうやら今は規制が厳しくなった、いわゆる「出会い系」の一つのようだと認識した。

「これも、それほど悪いことばかりじゃないんだヨ。元々はお見合いの新しい形みたいなものなんだからネ。ただ、当然色々と問題は起こりやすくなるのは想像の通りだヨ。仲介業者の信用、それが本当に合意によるものなのか、金銭的なやり取りの多寡、結婚自体が何か別の目的があったのじゃないか、とかネ」
 二〇二〇四年の日本でも、風俗産業は依然として存在している。アダルトビデオを制作する会社などは規制を嫌って海外に籍を置くことも増えた。直接のサービスを含むものは、元々無認可だったり法に反するものも少なくなかったが、監視カメラの設置により少なくとも都市部ではかなり問題が減少していた。かといって、海外にそのはけ口を求める人数が増えたかというと、そこまでは定かではない。

「で、権利団体とか色々な所から突き上げがあったみたいでネ。元々は、二年くらい前から別の部局が海を越えて調査をしていたわけ。それで、向こうのマフィアがらみのやばい会社が一件あってね、そこの顧客のリストを追う内に、MRJの関係している名前が出たんだヨ」
 レイが頷き、次のページを表示すると、そこには昨夜氷子が持ってきたバインダーの情報が記されていた。

「この青年。中堅の私立大学を卒業後、フリーターをしてお金を貯めてからは外国をいろいろ見ていたようだネ。それで、タイにとかカンボジアにも訪れているわけだけれども、そこの買春の顧客リストに載っていたわけ。成人女性なら、グレーゾーンでこっちも文句は言えないんだけど、そのリストはどうやらまだ幼い少女のものだったようでネ。これはさすがに問題なんだヨ」
 女性二人が露骨に表情を濁らせる。レイは、あまり想像がつかない様子。青山の表情は変化がなく、内心を読み取ることは難しい。

「すぐにその男を捕まえるわけにはいかないんですか?」
 鍵本が所長にどこか底冷えのする笑顔で聞く。しかし、返ってきたのは予想と異なる返答だった。
「うーん、ここからが妙な話なんだけれども。どうやら、この青年が買ったとされる少女はそういった行為に及んでいないようなんだよネ。それどころか、青年が仕事を見つけて色々世話をしてやっているようなんだヨ。おかしな話だよネ?」
 女性たちの表情は晴れた。しかし、その代わりに新しい疑問が浮かぶ。
「ですが、それならば何が問題になるのですか?」
 氷子が問いかけ、米村はレイに促して最後のページを表示させる。そこには、見覚えのある画像が写っていた。

「それで、レイ君のあの問い合わせがあったわけだヨ。MRJと青年が繋がったんだネ。聞いてみると金庫に入っていた五千万が消えたという話で、これも気になったんだヨ。偶然かもしれないけれど、これらの点が繋がるか少し調べてみようと思ってネ。今回のチームを組んだわけ」
 一同が頷き、早速捜査に取り掛かろうとする。しかし、その前に米村は彼らを引き止めた。

「あの、怒らないで聞いて欲しいんだけれども。最初に出た収支関係も問題になってて、国税局の立ち入り捜査が二日後の午後にあるんだよネ。何とか話をつけて一緒に立ち入りできるようにしたから、そのときまでに今回のことについて調べて、必要な人だとか証拠を確保してほしいんだヨ」

 氷子と鍵本は無表情で顔を見合わせたあと頷いて、流れるような動きで米村の身体を絞め技で抑えた。
そして携帯に以前撮っておいた、お祖父様なんて大嫌い! という孫娘の声を耳元で繰り返し再生する。すると、やめて、やめてぇ! というみっともない声が室内に響いた。

「謝っているじゃないか、勘弁しておくれ。レイ君の方の事件も急だったし、検索士は元々、数が全然足りてないんだ。ただの不正経理問題として処理される前にこちらが関わるのには今しかタイミングがなかったんだヨ……」

 検索士は試験が厳しく、その人数は現在千五百人から二千人の間である。訓練を修了した後は政府と自衛隊がスカウトを行い、真っ先に人員を確保している。他では大企業がセキュリティ対策要因として高給で迎え入れることが多い。
一方、警察はサイバー犯罪に対応するために人材確保を急務としているものの、中々予算面で十分な条件を用意できず獲得競争では後塵を拝している。そんな中、レイのようにわずかにいる自営業者にしばしば協力が求められることがあるのだ。

 年若い女性二人にぺこぺこと頭を下げる米村。レイと青山は、そんな三人の様子を意識的に無視をして、この二日間の動きについて相談をはじめていた。



[39533] 3-2
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/11 12:48
二〇二四年五月十五日

「いらっしゃい。遠い所をようこそ。昼時だから、メシ食いながら話をしようか」
 おーい、と声をかけてしばらくすると男の妻らしき女性が、盆に乗せて食事を持ってきた。
たこめし、玉ねぎとわかめの味噌汁、メンチカツ、ブロッコリーとじゃこを炒めたサラダが来客用の机に置かれる。お茶が入れられ、三人に行き渡ると食事が始まった。
レイと真里は、淡路島のある酒造を訪れていた。その理由とは、目の前にいる男に会うためである。

「これ、おいしいです! 遠出するの久しぶりだったけど、これだけでも来たかいがありあました」
 レイが、目を輝かせながら箸を進め、真里は彼の唇の横についた米粒を指で取ると自らの口に入れる。
「レイ君、それじゃ困りますよー。ほら、そろそろ本題に入りましょう?」
 真里に促され、レイは携帯を取り出してある曲を再生した。すると、目の前の男はあからさまに驚いた様子を見せた。
「これは俺達の……。いったいそれをどこで手に入れたんだい?」
 そして、レイは目の前の男、『コズミック・ガーデン』の元メンバー、高橋にこの曲のマスターを手に入れた経緯を話した。
「なるほどね、君はこの前のあの動画の仕掛け人だったんだ」
 レイの目の前の男は、かつてのトレードマーク、金髪でこそないが、どこか人好きのする顔立ちは当時の面影をまだ残している。人気だったバンド解散時の年齢は三十半ば。今は、五十になった。結婚して妻の実家であるこの酒造の後を継ぎ、レイと同じくらいの子供もいる。

二日という短い時間でできることは限られている。その中でレイは検索士の力を用いてネットから情報を得るのではなく、あえて自分の直感を信じ、事件で新発田が手に入れたマスターテープの関係者に話を聞こうとしたのだ。
『コズミック・ガーデン』のメンバーは四人。その内一人は海外に住んでいて、もう一人は音楽関係の仕事でやはり今は海外に出張中、もう一人は九州にいるのが分かったがコンタクトを取るのは難しそうで、高橋の居場所だけがすぐに特定でき、さらに話も聞きやすそうだった。
解散後、他の三人は別のバンドを組んだり、数年もすればミュージシャンというよりもそれに関連した仕事についていた。高橋だけは子供が生まれることもあり、別の道を選んだ。しかし、音楽を完全に辞めてしまったわけではない。
彼は、ライブなどを行うことこそないが、様々な楽器を自分が演奏している動画をネットにアップしていたのだ。レイは、そのマイナーだが音楽が好きだということが素人の自分にも分かる動画を見て、彼に会うことを決めた。

「話してもらえますか、解散の原因、そのマスターのことについて」
 レイの真剣な瞳に、高橋はどこか懐かしいものを見た。茶をすすり、湯のみを置く。
「そうだね、もうそろそろ時効になると思うし、君だったらいいかな。もちろん、他の人には言わないでくれよ」
 そして高橋は語りだす。彼らのバンドに起きたことを。



『コズミック・ガーデン』は七枚目となるアルバムの制作に、悩んでいた。バンドを十年ほど続けて、ある程度の成功も得た。そんな彼らに立ち塞がったのは、ある種のマンネリから来る停滞と、周囲からの重圧、そしてそれぞれが自らに課した越えるべきハードルの高さであった。
六枚目のアルバム制作も、すんなりとは行かなかった。しかし苦労して作ったそれが評価されたことが、彼らにもう一度それを越えようという意識を植えつけた。だが、それは簡単にはいかなかった。
ライブハウスツアーやイベントへの参加が増え、そのぶん曲を作る時間は思うように取れない。だんだんとメンバーの仲はギスギスし始めた。自分たちを騙すように活動を続け、一度あるライブで失敗をしたことが彼らに決断を促した。一月ほど、ライブを休止し新曲の制作に専念することになったのだ。
メンバー四人は東京を離れ、結婚を控えていた高橋の彼女の実家がある淡路島を訪れた。最初の十日ほどは休養とばかりに少し季節外れの海を満喫し、音楽からは離れた。しかし、メンバーは雄大な自然の中でそれまでのしがらみを忘れ、自分の立ち位置を再確認することができた。残り三週間ほどの日程は、全員が圧倒的な集中力を見せた。満足なスタジオはなかったが彼らの新曲の制作は順調に進んだ。
東京に戻り、彼らは早速レコーディングに取り掛かった。曲の完成度は、前作を大きく上回る出来となった。彼ら自身にもその自負があったし、気難しいと有名なレコーディング・エンジニアもいい仕事が出来たとこぼしていた。

しかし、それが発表される段階になって、問題が起きた。
今までの活動の集大成となるアルバムだ、今後も活動を続けるかは分からないが、彼らはかつてツアーで一定の評価を受けたアメリカの市場にもう一度挑戦したかった。そしてどうアルバムを売るか、日本版と米国版、二つの権利関係が悲劇を生んだ。
日本で出した販売元と、かつて米国版を出した販売元が仲違いをしたのだ。日本の販売元はどちらも自分達が権利を持つことを主張し、アメリカの販売元は海外では満足な販促活動も出来ないとそれをこき下ろした。
そんな中、仲裁に入ったのが、音楽に関する権利を扱うMRJだった。しかし――。

彼らには、外国のやり手企業とやりあうだけの交渉力はなかった。
ならば何故、その交渉に手を挙げたのか。もちろん理由があった。
ある女性二人組のユニットが大ヒットの後、国内からはほとんど姿を消した。しかし彼女たちは音楽を辞めたわけではなかった。アメリカでインディーズからやり直し、カートゥーン・ネットワークで異例だった日本人としての主題歌が評価され、ディレクターの英断で彼女たちのキャラクターがアニメ化した後は、アジアを含め海外で唯一といっていい成功を果たした。
海外で出たぶんの曲に関しては、国内にもたらされる利益はほとんどなかった。MRJの当時の代表を始めとした人間は、それに自分たちが関われなかったことに焦りを感じていたのだ。
その上、音楽CDは売れなくなり始めた時期であり、出始めたスマートフォンのストアによる音楽ダウンロードという新しい波も来ていた。MRJの収益の基板が、揺るがされようとしていた。『コズミック・ガーデン』はそんな自分たちとは関係のない周囲の欲と時代の波に巻き込まれたのだ。

そして交渉は決裂。問題が複雑化し曲を出せなくなった時点で、疲れ果てたメンバーの総意として解散を決めた。それは、彼らが最後に出すことの許された唯一の叫びだった。彼らの意志は固く、ファンに惜しまれ、謎を残しながらバンドは解散した。しかしその報復として、MRJに預けていたマスターテープが、彼らのもとに返ってくることはなかった。



「なにかを作るっていうのは、ものすごく膨大なエネルギーがいるんだ。それはたぶん、音楽以外でも同じだと思う。君も、あれだけのイベントをやったから、少しはわかるかな」
 高橋は、レイのことを見た。その頷く姿は、とても十五歳には思えない。娘に言われていた通り、どうやら彼はハッカーで、ゲームのプレイヤーで、そしていずれゲームを作る者であることが何となく理解できた。

「そろそろ時間なんだけど、何か聞きたいことはある?」
「いえ、お話を聞けて助かりました。ありがとうございます」
 レイと真里が頭を下げると、高橋は席を立って事務所の机の引き出しから色紙とペンを取り出した。
「約束通り、娘のためにサインをくれないかな。ランカーである君の、ファンなんだ」
 レイはそれを受け取ると引き換えに、自らもリュックから色紙とペンを取り出す。事情を話した新発田にねだられたものだ。こっちもサインがほしいです、とレイが告げると顔を見合わせた後で二人は思わず吹き出した。



「それにしても驚きましたねー。レイ君、有名なんですね」
 真里が声をかけると、助手席で頭をゆらゆらとさせていたレイが意識を取り戻した。
「んぅう……。そうですね。一応、公式ではぼくの顔写真は上がってないはずですけど。隠し撮りとかは止められないですからね。イベントにもたまに出てるし、その辺は有名税として割り切るしかないと思います」
 車の振動が眠気を運んでくる。ゴールデンウィーク明けからの疲れも溜まっているのだろう。レイは集中力不足を感じ、ノートパソコンを閉じた。真里と会話をしながら、携帯でハツネに今度いつ遊ぶ? とメッセージをやりとりするアプリで連絡を取る。

「ちょっと、お疲れですか?」
 レイの眠たげな様子に、どうやら真里も気づいたようだ。ハンドルを握りながらそんな声をかける。
「恥ずかしながら。ここ一週間でほぼ徹夜が、だいたい四日あったかな。少し眠ってもいいですか?」
「もちろんですよ。明日が終わったら後はこちらの仕事ですから、もうひと頑張りしてもらうためにも休んでおいてください。東京には夜の八時過ぎにはつきますから。四、五時間くらいはゆっくりどうぞ」
 その言葉に安堵して、レイはリュックから取り出したアイマスクを身に付ける。そして座席を少しだけ倒し、後部座席に置いてあったタオルケットを被った。



 耳元が騒がしいことに気づいたレイが目を覚ましたのは、それから三時間ほど後のことだった。アイマスクを取り去り、椅子を起こしてから前を覗くと車がアリのように行列を作っている。速度は随分とゆっくりで、時速三、四十キロ程度しか出ていない。
「どうしたんですか?」
 隣でハンドルを握る真里も眉根を寄せて、少し困った様子だ。
「んー、ストライキ……。いえ、サボタージュのようですね。この時期に渋滞なんてないので音楽をかけていたら聞き逃してしまったようです」
「自動運転車の投影型ガラスなら交通情報ぐらい表示されるんですけどね」
「そんな予算あるなら、人材確保に使いますよ」

 それもそうですね、と答えてからレイは携帯を取り出した。ハツネからの返信はまだ返ってきていないようだった。今はそのことについては後回しにし、交通情報を検索する。
「自動運転の法案整備に対する運送業者のデモ? 面倒くさいなあ。あんまりカッコ悪いところ、見せないでほしいや」
 そんな呟きに、真里は少しだけ表情を緩める。
「みんながみんな、新しいものをすんなり受け入れられるわけじゃないですからね。少し、休憩にしましょうか。あと十分ほどでサービスエリアに入りますから」



 上郷サービスエリアにで降りた二人は、少し早めの夕食を取ることにした。車は結構な台数が止まっていたものの、夕飯の時間帯からずれるためか本格的な食事を摂っている人は少ない。二人はレストラン「三河亭」で八丁味噌担々麺と一色うなぎのひつまぶしを半分ずつ食べた。
「美味しかったです! でも、いいんですか? 経費落ちないんじゃ?」
 いえいえ、気にしなくていいんです、と真里は笑った。
「部長のポケットマネーで出させますからー」
「ひょーこさんが聞いたら、怒りますよそれ……。自分たちだけ美味しいもの食べてって」
「いっつもレイ君を独り占めしてるんだから、たまにはいいじゃないですか。それに、タイだってグリーンカレーとかありますよ?」

 昨日、会議の後で散々ぐずりながら氷子はタイに飛び立った。二泊三日の強行軍の大半は現地調査に使われる。果たしてまともな食事が出来るのだろうか、レイがそんなことをぼんやり考えていると、どこかで見た顔がそこにいた。
「あれ、Arrayはんやないですか。こんなとこでどないしたんですか?}
 明るい髪色の、二十歳ぐらいの女性だ。レイはその上着に見覚えがある。
「お知り合いですかー?」
「あ、何でも屋の人ですよね。ぼくは仕事で淡路島に行った帰りなんですけど。そちらこそどうしたんですか?」
「へえ。ウチも仕事なんです。大きな荷物をちょっと運ばんといかんのやけど、この渋滞じゃ、今日中はちょっと無理かもで困ってるところですわ」

 そんな話をしていると、外から拡声器による割れた音が聞こえてくる。出て様子を見てみると、どうやらトラックの運転手たちによるデモ行為のようだった。その場にいる人に自分たちの正当性を訴える男と、取り巻きの三十人ほどの賛同者、そして家庭用のビデオカメラで様子を撮影する若い男がいる。
しばらく主張が続けられ、レイはあくびをして時間を確認する。真里にそろそろ行きましょうか、と言おうとしたところで、隣にいた何でも屋の女性が男の方にずんずんと歩み寄った。

「アンタなあ、みんな迷惑してんのやで! 何言うのも勝手やけど、他の人巻き込んだらそんなん、うまくいくわけないやろ。もうちっと考えんかい、このアホ!」
 拡声器を手にしていた五十前くらいの男は、その電源を一度切り、表情を歪めた。
「俺だって、好きでこんな仕事してるんじゃないんだよ。公務員として二十年働いて、ようやく家を建てたと思ったらいきなり給料半分になるとか言われて、ほとんど無理やり転職だよ! それでまた仕事がなくなりそうなんだ、君みたいな若い人だって、他人事じゃない。このままじゃどんどん働く場所がなくなっていくんだぞ!」
 その場で、しばらく言い争いが続く。何でも屋は熱くなりやすいタイプのようで、周りの人間もそれに油を注ぐようなヤジを飛ばし、ヒートアップしていく。

段々と罵倒の言葉もきつくなる。何でも屋が拡声器を男から奪い取り、その場に叩きつけて破壊すると男もさすがに堪忍袋の緒が切れたのか、その右手を大きく振りかぶった。
レイと真里がそれを止めようとしたところで、間に合わず渇いた音が響く。しかし、近づいて見るとそこには意外な光景があった。
浅黒い肌の男が、何でも屋を庇うようにして男に立ちはだかり、頬を思い切り叩かれたのだ。

「シゴト、ないのつらいです。ストライキ、するのもわかります。でも、おんなのひとに手をあげるの、ダメです」
 大手運送業者の制服を着た、アジア系の男だった。片言で何とかその場を収めようとしている。しかし、その話し方と態度が気に食わなかったのか、拡声器を持っていた男は外国人の男の胸ぐらを掴もうとした。
「その人の言う通り、それ以上は、ダメですよー。まだやるというのなら、こちらもそれなりの対処をしないといけません」
 男の手を掴み、捻じり上げたのは細く目を開いた真里だった。警察手帳を出すと、さすがに周りの人間も勢いを失い、その場は収まった。



「いやあ、ほんま、えらいすんませんでした。社長にも、いっつもすぐカッカするのどうにかせえって言われとるんですが、こればっかりは性分みたいで……」
「いいんです。おんなのひと、マモルの、とうぜんです」
 騒ぎの後、フードコートの中で四人はテーブルを囲んでいた。

「すごく、カッコ良かったですよ」
 レイが嬉しそうに褒めると、男は照れくさそうに頭を掻いた。
「ふふ。そうですねー。あ、でも、あなたもお仕事で困っているんじゃないですか? その服装から見て、同じ運送業の人ですよね?」
 真里の言葉に、頭を掻いていた男は少し落ち込んだ様子を見せた。
「ハイ、じつは、そうなんです。きょうじゅうにトウキョウにつかないといけないんですが、すこし、ムリそうです……」

 その言葉に、きらりと目を光らせたレイは、離さず持ち歩いていたリュックからノートパソコンを取り出した。
「それなら、ぼくたちも東京に帰らないといけないので、何とかしましょう。少し待っていて下さいね」
 レイはグーグルの提供する地図のルート検索をプログラムによって現在位置と今回の目的地に最適化。警察に協力している特例を使い、申請なしで高速道路に設置されたカメラから渋滞の規模を確定させ、最短ルートを調べあげる。
「今は、五時前ですね。ギリギリになってしまうと思いますが、何とか日が変わるまでにはつくと思いますよ」

 画面に映した地図を見せると、男は感激した様子でレイの両手を握りしめた。
「やっぱり、ニホンのひと、いいひとばかりです。ゴチョウさんも、わたしのムスメ、たすけてくれました!」
 聞き覚えのある単語に、レイと真里は顔を見合わせた。MRJに関連があるかもしれない、買春組織のリストに名前が載っていた青年。彼がネットでよく使う名前が『伍長』だったのだ。



[39533] 3-3
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/12 12:34
二〇二四年五月十六日

『それではよろしいですか?』
 インカム越しに、レイの少し高い声が青山と真里に届いた。渋谷区上原にある七階建てのビル近く。二人が乗る車は前方に連なる税務調査職員の車両を追いかけている。
「ええ、大丈夫ですよー。先輩はどうですか?」
 真里の声に、レイは電車の乗り換え時間から氷子の現在位置を調べる。
『遅れて合流します。えっと、空港は出てるので、二時間はかからないと思います』

 青山がハンドルを切り、遂に目的となるビルに到着する。事前の連絡に従った職員の誘導で、地下にある駐車場に車を停める。
「こちら青山。ビルの地下駐車場に着いた。では、予定通り、自分と真里ちゃんは伍長と呼ばれる人物の捜索を行う。平行して例の金庫に付着していた毛髪と比較するためのサンプルを収集。新しく決定的な情報を掴んだ場合は理事長に任意同行をかける」
『それで問題ないヨ。ただ、君の聞いたガラの悪い連中っていうのが気になるネ。荒事になりそうな場合は、くれぐれも注意するように』
 米村の言葉に二人は短く、了解、と返した。いよいよ、ビルの捜索が始まる。



サービスエリアでレイが出会った男は、伍長と名乗る人物が三年前に助けた少女の父親だった。彼の村を洪水が襲い、村人の多くは生活のために借金を負った。そしてマフィアをバックにつけた金貸しに村の若い女を取られた所を、洪水から復興するためのボランティアに訪れていた青年が助けようとしたらしい。
青年自身は現地のマフィアじみた連中に返り討ちにあったそうだが、それを見かねたもう一人の日本人(伍長にはボスと呼ばれていた)、が話をつけた。
その後、伍長の交渉により、MRJは村に幾つかの施設を建てた。それにより、雇用が生まれ、村は復興した。
与えられた仕事がいつまでも続くわけでもなく、村の若い男の多くは伍長の影響か、王国軍に志願したらしい。一方、少女を助けられた父親は娘の進学費用のため、日本に出稼ぎに来たとのことだ。

MRJと青年の繋がりは確認できた。しかし、それがどの程度深いものであるのかはまだ確認できていない。そして、いい話だけというわけでもない。
伍長とボスと呼ばれる男は、村の若者達としばしば軍事訓練のようなものを行っていたらしい。それもあって兵士になることを志願するものがかなり多かったのだ。
この話は、現地でマフィアを数人半殺しにして聞き出した氷子によって裏が取れている。加えて、そのボスと呼ばれる男により、数回に渡り人身売買のネットワークを用いて孤児や若者などが集められていた。
犯罪の匂いを嗅ぎ取った氷子は、その集められた人々のリストを入手。数名を訪ねたが、またも奇妙な事態が発覚する。
彼らのいる場所のほとんどがバラバラになっているのだ。特定の店で働かせたりなどはしていない。男性は村の若者と同じく、軍に志願する者が多かったものの、所属などはそれぞれ異なる。女性は、性産業に従事するものはゼロではなかったものの、かなり少ない。通常の水準と比較してもおかしいとは言えない。

一体これはどういうことなのか。氷子が話を聞く内に浮かび上がってきたのは、『学校』と呼ばれる教育施設の存在だ。
どうやら、それはMRJの関連施設のようだった。
元々、タイの教育水準はかなり高い。識字率は日本、シンガポールに並ぶレベルである。しかし、仕事に役立つような専門の教育機関はそこまで整備されているわけではないし、芸術分野の教育に関しては、日本ですらそれほどうまく行っているとは言えない。
そこに、MRJは参入していた。現地の企業をスポンサーにつけて、基礎的な仕事の技能を身につけ職を斡旋するとともに、心を豊かにするという名目で毎日三十分から一時間程度の音楽の授業を行っているらしい。日本向けの活動案内としては、日本の楽曲を現地で親しませるため、カラオケという娯楽を普及させるため(曲の権利料がMRJに入る)、日本の音楽教育にフィードバックするために効率の良い教育方法を模索しているとのことだ。

一方、青山は数少ない、前の理事長時代から残る女性職員と一晩の『話し合い』をして内部の事情を探っていた。
突然人員が入れ替わったことは不安だったが、新しい理事はやり手で、給与が下がることなどはなかったという。税の申告漏れなどがあったとしても穏便に対応するのは間違いないとのことだ。
しかし、彼女には気になることが二つあった。一つ目は昨年の夏、三週間ほどの長い夏休みがあり、その後、警備の業社として柄の悪い男がしばしば出入りをするようになったこと。二つ目は、それと前後してビル全体のセキュリティのレベルが跳ね上がったことだ。理事は昨今の社会情勢を見た結果だというが、どうにも物々しい雰囲気が漂っている。何より、彼女のように以前から残った職員には入れる部屋が制限されるようになったとのことだった。



捜査は順調に進んだ。職員は協力的で、紙の資料や各種記録媒体等が次々と一階に運び出されていく。税金の申告漏れは早い段階で確認出来ており、調査の職員は肩透かしをくらっていた。
真里と青山は、その場にいる職員から話を聞いていた。ガラの悪い男たちは、やはり警備会社の人間だとの答えが判を押したように返ってくる。
幾つか部屋を見て回った後、どうやら伍長の存在を知る職員はいないと結論づけられた。
気を入れ替えて真里は自動で動く掃除機を部屋に放ち、そこに吸い込まれた毛髪をレイが作ったプログラムで確認する地味な作業がしばらくの間、続けられる。

「青山さん、そんなところでさぼってないで、他の部屋の確認をしてくださいよー」
 真里の視線の片隅では、先ほどから青山が確かめるように何度も規則的な動きで部屋を歩きまわっていた。
「ちょっと、待ってくれ。一階を一通り見て回って思ったんだけど、なんだか、おかしくないか?」
 青山は大理石の床を、何度か革靴でコツコツと叩いた。
「おかしいって、何がですか? 確かに、職員が協力的過ぎるのはちょっと違和感を感じますけど……」
 真里が手を止めて部屋を見回した。特に変わったところはない。
「いや、そんな目に見える部分じゃないんだ。……いや、待てよ。レイ君、このビルの見取り図を送ってもらえるかな」
 はい、と答えてレイはすぐに青山の携帯に取得しておいたビルの設計図を送る。元々が隠し財産などを見つけるための調査であり、この準備はごく当然に行われていた。
「うん、これはたぶん気のせいじゃないな。真里ちゃん、ちょっと確認したいことができた。ここは任せるよ」
 そう言い残して、青山は携帯を手に部屋から出て行った。



それから三十分程かけて、青山は一階と地下の駐車場をくまなく歩きまわった。一階では運びだされた資料の確認をしていた職員や真里などがその姿をちらちらと何度も見る。
そして、ようやくその歩みを止めた青山は、突如として一階のある部屋に向かって走りだす。
「やっぱりだ。歩数から計算した見取り図上のフロアの広さがおかしい。いや、一階は問題ない。問題は、この下だ」
 そう言うと、青山は部屋に置かれていた会議用の大きなテーブルを端に寄せ、床の敷物を引き剥がした。
そして、耳を床につけながら中指の第二関節でコツコツと確かめるように叩く。数回それを繰り返し、やがて音の響きが違う場所が見つかる。
そのタイルに指をかけ、力を込めて持ち上げる。するとそこには、ぽっかりと地下に通じる穴があり、降りるための梯子がかかっていた。
青山は一度呼吸を整えた。そして状況をレイに伝えようとしたところで、ビルの中にけたたましい警報音が鳴り響いた。



「駄目だ、ドアが開かない。窓も防火シャッターが降りてる。完全に閉じ込められた」
『こっちも、同じような状況ですー』
 警報が鳴ると同時、通常のビルとしてはありえないほどのセキュリティシステムが作動した。青山と真里は分断され、それぞれが居た部屋から身動きが取れなくなっていた。
『ひょーこさんが着くまであと十五分ほどです。それまでに、できることをやりましょう』
 レイは、ビルのセキュリティシステムがどのように管理されているのかを調べる。検索士の警察協力時の特例を利用し、主要な警備会社の顧客リストを閲覧。するとそこにはMRJの名前は載っていない。
当然、会社にはネット回線が引かれている。しかし、そこから見られるのは業務に関するフォルダだけだ。どうやらビルのセキュリティは外から介入できない、スタンドアロンなものらしい。

『セキュリティシステム用のサーバがどこかにあるはずです。でもそれは、先程からの税務調査では報告に上がってきていません。すぐには分からないところにあると見るのが自然でしょう』
 見取り図と、スマートグリッドによる部屋別の電気消費量を見比べる。明らかに電力の消費が大きい部屋は二つ存在していた。
『一つは最上階、七階のレコーディングルームです。確かに録音機材などが大量にあれば素人には判別が付きにくいと思います。そして、もうひとつは、今青山さんがいる部屋です』
 やれやれ、と口に出しながらも、青山はレイの言葉を聞いてほとんど自動的に身体を解きほぐす動作を行っていた。
深く呼吸し、筋肉を程よい緊張状態に置き、意識を研ぎ澄ます。
「オーケー、鬼が出るか蛇が出るかは分からないが、行ってみるよ」
 そして青山は、暗闇の中へと梯子をつたい、潜っていく。



 梯子をちょうど一階分の高さ降り、大人一人が辛うじて通れる広さの短い横穴を抜けると、殺風景な風景が広がる。打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた、照明しかない八畳ほどの狭い部屋である。
部屋の隅には向こう側が見えないドアがある。しかし、そこにすぐ辿り着けるわけではない。一人の男がその前に立ちはだかっていたからである。
「よう、いらっしゃい。残念だけど、こっから先へは行かせらんねえな。しばらくここでじっとしててもらえると助かるわ」

 なるほど、確かにこれは柄の悪い男だ、と青山は思った。スーツを着ているが、サラリーマンのそれではない。それほど大柄ではないその男は言葉と裏腹にかかとを上げ、すぐに動ける姿勢を保っている。軽く握られた拳は遠目から見ても、人を殴るためのそれである。
「残念だけど、こっちも仕事なんでね。それに、少しは捜査に進展がないと、後から来る仲間が怖そうだ」
 そうかよ、と男は文字通り唾を床に吐き捨てる。そして、身体を支えていた両のつま先でステップを踏み、伸ばした腕で間隔を測りながら距離を詰め始めた。



 この動き、ボクサーのそれか。それも中々に鍛えられている。恐らくは、訓練で付き合ってもらった自衛隊員以上の強さだな。
青山は男とリズムをずらしてステップを刻み、左腕を前に伸ばしてファイティングポーズを取る。右利きの割合は、およそ九割。単純にいつもと違う方向から拳が飛んでくるだけで相手は相当に戦いにくい。

互いの距離が狭まり、ジャブの応酬が始まる。拳の振るわれる速度は、男の方が速い。グローブなど力を制限するものをつけられていないそれは、頬に切り傷をつけるほど鋭い。ライト級の鍛えあげられた肉体は、拳を含め既にそれ自体が凶器である。

手数の多さ、一発の威力。そのどちらも男が上回っている。そして、見た目とは異なり、男の攻撃は中々に慎重だ。ジャブやフックが飛び交うが、威力とともに隙も大きくなるストレートは放ってこない。長丁場に慣れた、八ラウンド以上を戦うA級ボクサーだと青山は読んだ。
まずいのは、ダウンを奪われることだ。ここはリングの上ではない。一度倒れればその場で勝負は着くと見て間違いない。青山は顔を重点的にガードし、致命傷を避ける。しかし、その代わりに上半身の守りは緩み、下から突き上げる、お手本のようなストマックブローが決まる。
身体が一瞬持ち上がる。打撃の瞬間に力を入れた腹筋が威力を弱めるが、悶絶ものの一撃だ。
青山は顔を下に向け、両手は膝を抑えて酸素を何とか取り込もうとしている。男は一瞬、笑いたくなるのをこらえ、右腕を大きく引き、伏せられた顔面に渾身のアッパーを繰り出す。

次の瞬間、男の視界がぐるり、と回った。

一瞬、何が起こったのか理解できない。分かるのは、背中から倒れ、その場に仰向けに倒れて天井を見つめていることだけだ。
腰に青山の腕が絡みついている。タックルされたのだ。ボクシングは、立って戦う競技であり、組み敷かれれば起き上がるすべはない。男は自分の置かれた状況を瞬時に理解した。歯にぎりぎりと力を込め、肘を尖らせて背に振り下ろす。しかそこに青山の身体はなかった。
一瞬腕を離し、ほとんど脚の動きだけで体勢を入れ替え、青山は男の背中を取ったのだ。
じたばたとみっともなく暴れるが、それも既に後の祭りである。青山に両腕で首を決められた男は、数十秒の後に意識を失った。



「何だこりゃあ……」
男を倒して開いた扉の先には、異様な光景が広がっていた。
 二十台ほどのエアロバイクに虚ろな目をした男たちがまたがっていたのである。
上半身裸で、そこには心拍数か何かを測る計器が取り付けられている。部屋の四隅には大型のスピーカーが置かれており、そこからはおよそ曲とは言いがたい何か奇妙な音の連なりが発せられている。
その中の一人に近づき、青山は目の前で手を振ったり声をかけるが反応はない。男はエアロバイクの数字をじっと虚ろな目で見つめ、一定のリズムでペダルを漕ぎ続けている。
そこに表示されているのは時間だった。少しずつそのデジタルな数字は減り続けている。残り時間は五分を切っていた。それがゼロになったとき、男たちに何が起きるのか、青山は嫌な予感を感じ取り男のそばから離れる。

視線を他に向けると、入り口とは別のドアが二つあった。向かい側の壁の一部はガラスになっており、奥に何があるのかを確認できる。青山はその部屋に続く、先ほど入ってきたドアと向かい側にあるドアを開く。そこには静かな排気音を出すサーバーマシンが置かれていた。



「レイ君、青山だ。探しものが見つかった。今からそっちで動かせるようにする」
 そう言うと、青山は携帯を取り出して、充電器の代わりとなるUSBジャックを使ってそれとマシンを接続した。
しばらくレイがキーボードを叩く規則的な音が耳元から響き、ふう、と満足気な息が零れた。
『ご苦労さまです、エレベーターを含めて幾つかのセキュリティは七階の方がまだコントロールしてますが、これで大体の扉は開くことができます』

 その言葉に青山はやれやれ、と零したが、それもつかの間。先ほどの部屋から流れていた音楽がぴたりと止まり、ガラスの向こう側で男たちがエアロバイクから降り始めたのだ。
その内の一人と目が合う。すると、ガラスの向こうの男は口を大きく開き、何事かを発した。それに続いて、汗で上半身を濡らした男たちの視線が青山の方に一斉に向けられた。



『悪い、こちらはどうやら籠城するしかなさそうだ』
 インカム越しに聞こえてくるのは、青山の声とドアを叩く拳の音だ。
「そうですかー。でも、何とかなると思いますよー」
 セキュリティの一部が解除され、部屋から出た真里の間延びした声が一階の廊下に響く。その視線の先には、獰猛な笑みを浮かべた氷子の姿があった。
「亜鈴、待たせたな。ダンジョン攻略に取り掛かる」



[39533] 3-4
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/13 12:08
 氷子の言葉を受けて、亜鈴はまずマップの準備をすることにした。
自宅サーバに接続、リーナと共同で作った、設計図から建物の内観を3Dに複製するソフトを起動させる。CADによって描かれた平面上のそれは、瞬く間に外から透けて見える三次元の七階建てのビルとなる。
画面上に浮かび上がったそれに、さらに掌握した監視カメラの映像から確認できた制圧対象となる男たちを画像認識ソフトで追跡。その動きを赤い点として表示させる。
最後に、不必要な戦闘を避けるため、防火扉の効率のよい閉じ方の手順を計算する。パズルゲームで最小手順を導くためのコードが瞬く間に改変され、CPUにほとんど負荷を与えずにあっという間に答えが導かれる。
「準備、できました。ぶちょーさんとぼくで二人をオペレートします!」



『最終目標は、七階のレコーディングルームです。でもそこに至る前に、アンブッシュを防ぐために、こちらが掌握していないエレベーター付近の防火扉で隔離できない部屋を制圧する必要があります』
 レイが二人に作戦目的を告げる間に、米村は税務調査の職員たちに一階の出入口付近の部屋に避難するように指示をする。
一階、青山の降りた部屋の扉をロック。これで、地下から地上に進入することはエレベーターを動かさない限り不可能だ。そして、税務調査の職員たちが一つの部屋に集まったのを見計らってその部屋をロック。これで後顧の憂いはない。準備が整い、真里と氷子は耳元から聞こえる声に従って、美しいまでに暴力的なその力を解き放とうとしていた。



レイが防火扉を操作しながら、米村の指示で真里と氷子はツーマンセルを組んで階段を上る。二階は完全にレイのコントロール下にある。二人は慎重に抑えるべき部屋の扉を開き、カメラの死角となる部分を確認しては制圧を進めていく。

「警察だ。ここの人間か、警備会社の人間かは知らないが、武器を捨てておとなしくその場に伏せろ」
 三階に上がり、エレベーター前の廊下で氷子は三名の男と向き合っていた。
ヘルメットに顔を覆い隠すための布。ポケットの多い黒のベストに、膝当てのついたズボン。銃こそ持っていないが、その腰には警備会社の多くが採用している電磁警棒が備え付けられている。
男たちは、氷子の言葉をまったく気に留めない様子で、それを引き抜いて構え、隊列を組んだ。

「そうか。残念だよ。じゃあ、くたばりな」
 言葉と同時、氷子は床を蹴り、一番手前にいる男に肉薄する。
その動きは男が自然と予想していたよりも速い。いや、通常見ることのない特殊な上半身の動きによって相対したものに実際よりも速いと感じさせる。歩幅が広めに取られ、長い距離を少ない歩数で移動する、古武術における縮地とよばれるもの。
一瞬の反応の遅れが、実践では命取りとなる。それを男は今まさに知ろうとしていた。
ぎらりと輝きを帯びた氷子の二対の瞳が、男の、人体の急所を服の上からでも確実に見抜く。どこをどう打てば、それを的確に破壊できるのかを、彼女は知っていた。
縮地によって懐に潜り込み、咆哮とともに、ガードされていない喉元を貫手が襲う。
男はその攻撃で、ただの一撃で戦闘を続けることが不可能となる。
喉元に氷子の人差し指と中指が突き刺さり、男の口から液体が飛び散る。これでも、致命傷ではない。それは、少しだけ手加減されたまだ制圧用の攻撃だ。殺傷を目的としたものではない。氷子は左に飛んで液体が身体にかかるのを防ぐ。いや、既に次の攻撃に移ろうとしている。

一瞬、先頭の男がやられるのに気を取られた残りの二人。その内の近くにいる一人に、警棒を構える暇を与えずに氷子は拳を振りかぶる。
ほとんど見え見えのテレフォンパンチと言っていいそれ。男は反射的に手で顔を守る。しかし、予期していた攻撃は来なかった。その代わり、一瞬身体がふわりと浮かんだ後、床に寝転がり声も出せずに悶絶した。
氷子の、金的を狙った膝蹴りである。これも手加減しているとはいえ、必殺の威力を持つ攻撃だ。残った一人と、監視カメラ越しに戦闘の様子を見ているレイと米村の二人の股間にも思わず冷たい風が吹く。

仲間二人が瞬く間に地に伏せるのを見て、残った一人が叫びながら警棒を振りかぶる。いくら氷子といえども、それを防御なしに受ければただでは済まない。
氷子はそれを、真正面から迎え撃った。ただし、拳によってではなく、そのスラリとした脚によってだ。スラックスに包まれた右脚が空を切り、ヒールのない靴が男の手を正確に捉えて握られていたものを吹き飛ばす。
唖然とした男が飛んで行く警棒を視線で追うと、世界が回る。頭がぐらぐらと揺れる。氷子の追撃、右ストレートが顎先を捉え、脳震盪を引き起こしたのだ。男はその衝撃に抗うことが出来ずに、その場に倒れ伏した。



続く四階、そこはまだレイの支配下だ。ロックのかかる部屋とかからない部屋の数を確認。ロックのかからない、背後からの奇襲を防ぐために抑えるべき部屋は六つ。
氷子と真里は、互いに視線で合図して扉が開くと同時に部屋の中に飛び込む。だが、そこには誰もいなかった。
それを繰り返すこと六度。三階とは比べ物にならないほど、あまりにもあっけなく攻略は完了した。
『油断しないで下さい。五階から上は向こうにコントロールされています。電気の使用料はまだ増え続けています。敵はさっきので終わりじゃありません』
 ああ、心配するな。どこか陶然とした表情で、氷子は耳元から聞こえるその声に返すために呟いた。そして二人は壁際を慎重に進み、五階への階段へと近づいていく。


セキュリティシステムはビル内の地下と七階、二つのサーバによって管理されていた。それぞれが互いを補いあうような作りになっており、万が一どちらかが故障したとしてもビル全体の守りは維持される。
地下のサーバではおよそ八割を一階から四階まで、残り二割を上層階及びエレベーター管理のバックアップに、七階のサーバではその逆の割合でシステムは管理されていた。
レイが地下のサーバを手中に収めた際、まず行ったのは下層階のシステムの掌握だ。相手にも管理者がついており、こちらの動きに対応して七階に置かれたサーバ、二割のリソースで下層階のシステムコントロールの奪い合いが行われた。
電子戦こそが、レイの戦場である。初めて見たシステムであろうと、それを構築する基礎的な構造に差異は少ない。リソース的にもこちらが有利であり、負ける理由は存在しない。
プログラムを書くのに使われていたのはC言語。レイが初めて触った言語であり、ゲーム開発にも多く使われる他、エレベーターの管理等にも使われておりセキュリティシステムにも多く使用されている。
使用する関数、ライブラリも見慣れたものであり、レイは瞬く間にそれらを都合よく書き換え、下層階の支配を自分のものとした。
対して、リソース的に不利となる上層階のコントロール奪取も諦めたわけではない。
エレベーター、及び七階の守りは相当に硬い。相手もなかなかの腕のハッカーである。しかしながら、力の配分にほころびが見える。五、六階の監視カメラと防火扉のセキュリティはあと五分ほど待てば突破できるところまで来ていた。


だが、氷子はそれを待とうとはしなかった。レイは画面に釘付けになっており、気付かない。真里の静止を振り切り壁から顔を出し、上へと続く階段を見上げる。
ポケットに忍ばせていた小さなコンパクトを取り出し、開いてからそっとそれを投げる。
すると、それが段差の一つに着く前に弾けるような小さな音がした。
跳ね返り、氷子の顔に飛んできたそれを反射で回避する。近くの壁にぶつかって床に落ちたのは、ゴム製の非致死弾である。
相手は、飛び道具を持っている。しかし、それは実弾を用いたものではない。


警察組織の改組により、日本では銃を持ちうる人間の数は大幅に減少した。民間人が持つことを許される猟銃なども取り締まりが強化され、位置情報機能を付与することが義務付けられている。
さらに、不法に所持される銃に対する取り締まりも強化された。空港での検査は探知プログラムの改良によりたとえ分解されていてもそれが銃だと見ぬくし、水際での輸送も人工衛星からのリアルタイムの監視と高度に発達した物流業社同士のシステムですぐに足がつく。
数丁の銃ならともかく、国を揺るがすほどの武器を集めたテロ行為などはまず引き起こすことが不可能だ。一方で、民間警備会社の台頭によりモデルガンの販売台数は増加傾向にあった。


スーツの上着を脱ぎ、両手で頭からかぶさるようにそれを身にまとった氷子は、廊下から助走し勢いをつけて階段を駆け登った。
高速で自らのテリトリーを犯す動きに反応して、ゴム弾が氷子を狙う。だが、階段の内側から外側、さらに内側へと、ひらがなの「く」の字のように駆け上がる氷子の動きをそれは捉えきれない。
辛うじて一発がマントのようになびくスーツにぶつかり、そして氷子の背に命中する。しかしその威力はいささか減じられており、その意識を刈り取るほどではない。

踊り場近くに差し掛かった氷子は、スーツを握っていた両手を離す。ふわりと風に舞うビニールのように漂う上着。そして、氷子は走りの勢いを保ったまま跳躍した。
踊り場を狙っていた銃口は、その突飛な動きに一瞬反応が遅れる。
氷子は、階段の内側にある円筒形の手すりを足場にし、その不安定をものともせずに、さらに獣じみた二度目の跳躍を見せる。
踊り場を省略し、ぶつかる前に壁を蹴って跳躍の勢いを相殺。階段に降り立った氷子は少し上にいる、自分を狙う敵を視認する。

敵は、確認できる限り二人。三階で戦ったのと同じ服装の、しかしモデルガンを両手に構えたそれだ。
一人はあまりのことに呆然とし、もう一人は自分の職務を異常な状況下でも忘れることなく、氷子にその銃口を再び向けた。
にぃ、と氷子はその端正な顔立ちを歪めるように口を三日月形にして、酷薄な笑みを浮かべた。
男がトリガーに人差し指を掛け、それを躊躇いなく引き絞る。
駆け上がる氷子と、吐き出された銃弾の相対距離はわずか一秒未満でゼロとなる。

しかし、氷子はそれを安々と回避してみせた。
銃口と目が合った瞬間、それが何であるかを認識。トリガーに指が掛けられ、引き絞るタイミングを見計らってから首を左に振る。剣道における「面」を回避するための動きである。
俊敏な動作は、そこだけがまるで早回しになった映像を見ているかのようだった。
階段を飛ばしながら駆け上がり、二人の敵の前に降り立った氷子は、その両手を大きく広げる。そして、男たちのヘルメットに包まれた頭を左右から瞬間的に掴んでぶつけあう。
カーボン製のそれがぶつかる音が響き、銃を取り落とす二人。そこにさらに、腰に差していた先ほどの男から奪った電磁警棒の電源をオンにして躊躇なく叩きこむ。
両手に握られた二刀のそれから発せられる電流が、二人の意識を奪い取る。氷子は、わずか十秒足らずで五階への道を確保した。



『ひょーこさん、あんまり無理しちゃダメですよ』
「ごめんな、亜鈴ぃ~。もうしないから許して、な?」
 叱られながら頬を緩ませる先輩の様子を、真里は頭を抑えて見つめていた。
気を取り直したレイから、上層部の監視カメラや防火扉の大部分も支配下に置かれたことが伝えられる。五階を制圧し、階段に人もいない。真里と氷子は六階の制圧にとりかかる。
防火扉は抑えたが、残った二つの部屋だけが監視カメラのコントロールを奪いきれないでいる。その片方の部屋の前に立ち、氷子が中に突入し、真里が廊下を見張り奇襲を防ぐ役を引き受ける。
合図と同時に、氷子が部屋の中に飛び込む。部屋の隅に先ほども見た警備員姿を確認すると、氷子は即座にそれにめがけて突進する。
しかし、氷子がドアと離れると同時に、ドアが締まり、オートロックが作動した。
「レイ君!」
 真里が異変を察知して声を上げる。
『トラップです! すみません、開けるには少し時間がかかります!』
 ええ、罠みたいですね。そう呟いた真里の視線の先には、もう一つの未制圧の扉から出てきた三人の男が立ちふさがっていた。



男たちは、言葉もなく戦闘態勢を取った。まず立ちはだかったのは二人の男。一人は両足を肩幅に開き、拳を構えてやや猫背になりながら覗きこむ典型的なボクシングのスタイル。もう一人は左手を前に出して足を前後に大きく開いた柔道のスタイルだ。
先ほど氷子が制圧したのは、格闘技に関しては恐らく素人だった。しかし、今向き合っている三人は、そうではない。年齢こそ三十前後で選手としての全盛期は過ぎているが、それをかなりのレベルで修めた者であることを、彼らの纏う独特の雰囲気から真里は感じ取っていた。

柔道家が気合の叫び声とともに距離を詰め、スーツの襟首を掴もうと腕を延ばす。
真里はそれに、稲妻のように鋭いハイキックで応戦する。男の伸ばされた腕に当てると同時、素早く引き戻し、細かくステップを踏み再び攻撃の姿勢を取る。
位置取りを変え、向こうずねを狙ったローキック。さらに上げられた腕でがら空きになった横腹にミドルキックが突き刺さる。男女の体格差があるものの、男は着実にダメージを負っていく。

真里は闘いながら残る二人の様子にも気を配らなければならない。しかし、それには思ったより労力を割く必要はなかった。ボクサーは戦いにどう入っていいのか、戸惑う様子を見せていたし、背後の大男はまったく動こうとはしない。
スポーツとして、それを修めた人間がそれを実戦で使うには、異なった訓練か、命をかけた戦いの経験が必要であるということを真里は痛いほど知っていた。
真里はかつて、大学時代にプロとして生きていくか悩んだ末に、人の役に立つために自衛隊に入ることを選んだ。そしてそこで磨き上げた修斗の技を、氷子という同じ女性でありながら理不尽なほどの力を持つ存在の前にほとんど為す術もなく敗れた経験から学んだのだ。
柔道家の足がふらつき始めたところで、真里は体格差と速度を活かしてその懐に飛び込む。そして、男のお株を奪う一本背負いを決める。床に叩きつけずに、あえてその手を途中で離す。男の身体がわずかに飛んだ先には、ボクサーがいるのは計算済みだ。
衝撃で床に倒れた二人に、電磁警棒でとどめの連撃を放ち、意識を刈り取った。

残ったのは、身長百七十センチに満たない真里よりも頭ひとつ大きく、体重は優に三倍はあろうかという大男だ。
巨漢は気が付くと上着を脱ぎ捨てていた。そして両の握りこぶしを床につき、前傾姿勢を取った後でぐっと反動をつけるようにして一目散に真里めがけて突進する。
体格の違いは、そのまま破壊力の差だ。相撲取りは、短い立合いに特化しており、長いラウンドの試合ではスタミナ不足で満足に力を発揮できない。しかし、それが実践であればどうか。
体当たり、あるいは圧倒的な威力の張り手。その一撃だけで女性である真里はひとたまりもないだろう。
真里は、突進してくる男を躱そうとはしなかった。広げられた両の手の平に、自分もあえて突進する。だがしかし、男の突っ張りは真里の顔面を捉えることなく、虚しく空を切った。
その細身を活かし、真里はスライディングをして、力士の開いた股の間を滑り抜けたのだ。
男が反転し、真里に再び襲い掛かるべく立合いの構えを取ろうとした時には勝負は着いていた。
閉じ込められていた氷子が制圧を終え、レイによってロックを解除された部屋からタイミングを見計らって抜け出てきていたのだ。
男は、自分に何が起きたのかもわからないまま、電磁警棒のえじきとなって意識を失った。

真里と氷子はいよいよ目的地、レコーディングルームのある七階への階段を上る。一瞬の安堵と再びの緊張。そんな中で、モニターに映らない、予期せぬ二つの影がビルに近づくのに気づいた者はいなかった。



[39533] 3-5
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/14 12:28
『十分下さい。この類のパスワードなら力づくで突破するのが一番早いです』
 七階。他の部屋を制圧し、残すところはついにレコーディングルームのみとなった。
レコーディングルームはスタジオ部分と機械の置かれた部分、二つの入り口があり、中でつながっている。氷子と真里は、二手に分かれてそれぞれのドアを塞いだ。
邪魔が来ないことを確認し、氷子が携帯を取り出す。そして、部屋のドア横に取り付けられた暗証番号を入力するタイプの古い施錠システムに接続する。数字とエンターキーの十のボタンが配置されたそれが要求するのは十四桁の番号だ。
英字の大文字小文字、記号を含まない単純な数字だけの羅列であれば、桁数が大きくともそれほど突破は難しくない。十四桁の数字であれば、一般的なPCでも三日程度あれば総当りで突破することが出来る。
レイは、システムそのものを書き換えるよりも、力技で総当りした方が突破はたやすいと判断した。自宅サーバの演算能力を使い、一秒間に十億以上ものパスワードが次々と正誤を判別されていく。

五分ほどが過ぎる。レイは期待値的に数分以内にロックが解除されるだろうと画面から一度視線を切り、飲み物を手にした。すると、ふと目にした画面には予期せぬ事態が映っていた。
エレベーターが、動いているのである。
未だにコントロールを奪取できていないそれが、押されたボタンの命令に従って淡々と上昇していく。
『ひょーこさん、真里さん! 新手です、エレベーターから誰か来ます!』

 レイの叫びが終わると同時に、真里は自分の視界の端でその扉がするすると開くのを目撃した。それから降りる男の姿を視認し、それまで細めていた目をうっすらと開く。
「どうやら、そのようですねー」
 男と目が合った瞬間には、真里は既に床を蹴っていた。有無を言わさぬ奇襲だった。



 氷子がその場を離れなかったのは、単純に職務に忠実であるということの他に、真里の実力であれば不測の事態にも問題なく対応できると判断したからである。
しかし、その信頼が結果として更なる窮地を招いた。
『ひょーこさん、真里さんが……!』
 レイの呆然としたつぶやきに反応し、氷子はその場を躊躇わず離れた。

スプリンターのごとき敏捷性でたどり着いたエレベーターとスタジオへの出入口の間にいたのは、服の埃を払うような動作を見せる百八十センチを越える大柄の男と、廊下の端に寝かされた、意識を失った真里の姿であった。
「貴様あァ……!」
 氷子は、そう言ったきり言葉を発するのを止めた。代わりに、右腕を軽く伸ばし、半身となり、細かくステップを刻み始めた。

「待て、私は――」
 高級そうな黒いスーツを着た、広い肩幅の男が何かを言おうとすることはかなわなかった。
氷子の獣じみた高速の移動。そして、その動きから繰り出される左手のジャブ。それをブロッキングした男の右の手の平が渇いた音を立てたのが、開戦の合図となった。

止められた拳を握られないように氷子は素早く腕を引く。機械によってよく磨きあげられた床をキュキュと細かいステップで鳴らしながら間合いを測る。
強い、意志を感じさせる瞳の男だった。このビルの中で今まで相対して来た相手よりは幾分か若く、氷子と同年代であることを伺わせる。
先ほどの攻撃に反応して、男の身体は自動的に迎撃の構えを取っていた。氷子と同じ、拳による打撃を戦略の中心とした構え。
再び接近し、氷子の左右のコンビネーション、細かい連打が男の上半身を狙う。しかし、その打撃のほとんどを、男は肘で受けたりスウェーによって回避する。
攻撃を受けきった男は左から氷子に様子見のジャブを繰り出すが、氷子はバックステップによりその場から既に離脱。拳は振り切られることなく、男の鋼じみた自制心で止められていた。
数回軽く飛び跳ねるようにステップし、息を整えた氷子は再び攻撃を仕掛ける。
先ほどと同じ、右手から繰り出されるジャブ、男は顔面めがけて飛んでくるそれを防ぐため、ガードを上げた。
それを予期していた氷子は、その拳を途中で止める。そして、踏み込んだ左足をそのまま軸として、腰をぐるりと回し、全体重を掛けた渾身の回し蹴りを男の脇腹に叩きこむ。

それは、完璧な形で入った一撃だった。だが、男がその場に倒れ伏すことはなかった。
靴と、男の服越しに氷子は何が起こったのかを悟った。この男は、上着の下に何かを着込んでいる。
氷子は、右足の甲がじんじんと痛むのを感じた。血がにじむほど強く唇を噛むことでその痛みをわずかでも麻痺させる。振り切った氷子に襲いかかる男の追撃、顔を狙った右のアッパー。
それを、今の蹴りで軸足として使った左足で床を蹴り、バク転して回避。再び距離を取る。

どちらもが、恐ろしく実戦なれした強者であることをここまでの短い戦闘で理解していた。
痛めた右足、純粋な体格による筋力差、服の下に防御のために何かを仕込む周到さ、それらを考えながら氷子の頭脳は目の前の敵を打ち倒すための最適解を貪欲に求めた。
そして、氷子は上着の内側に仕込んでいた電磁警棒を取り出してナイフを持つように右手で構える。すると、男も腰に差していた同じモデルのそれを取り出して氷子に向けた。
先に一撃を入れた方が戦いを制する。ここから先は一瞬が命取りとなる。
二人の間にある空気は、まるで警棒が秘めた電気がにじみ出るかのように張り詰める。
互いに間合いを測り、いつ仕掛けるのかフェイントを入れながら駆け引きを行うが、どちらもがそれに釣られることはない。
どれほどの時間が経っただろうか。実際には数十秒だが、それは二人にとってはるかに長いものとして感じられていた。
呼吸と足の動きのリズムが合い、互いがついに激突する。

まさにその瞬間、レイの声が響いた。
『ひょーこさん、その人は敵じゃありません! 警備会社『S2C』の人です!』
 インカム越しに聞こえたその言葉に、氷子は大きく後ろに下がる。そして、やがて警棒を握っていた右腕を下げた。
「どういうことだ、お前は一体……?」
 男は、氷子が構えを解いたのを見て、腕を下し、表情の緊張を解いた。
「ようやく、話が通じるようになったか。仲間が、ここを内偵していた。俺は、その迎えだ」
 警棒を収め、二人は互いの身分を証明する物を見せ合った。真里も意識を取り戻し、場の緊張が解けたときにインカムから声が響く。
『君たち、何やってるの! 敵さん、部屋から出てるヨ!』


 
米本の言葉に、まだ作戦中であることを思い出した氷子と真里は、続く指示に従って階段を全速力で駆け上り、屋上に出た。
すると、そこには。
 空気をかき混ぜながら爆音を鳴らす、まだそれほどビルから離れていない一台のヘリの姿があった。
氷子はそれを素早くレイに報告する。銃があれば、撃ち落とすことも考えなくはなかったが、中に乗っている人間の命は保証できないし、周囲への被害も大きすぎる。今、彼女たちにできることはなかった。
二人の後を追いかけて、屋上に出た男がそれを見た。そして初めて動揺した姿を見せる。
「やられた、空から逃げるつもりか……!」


 三人はビルの屋上でなすすべなく立ち尽くした。
頭を掻きむしったあと、少し考えてから男が携帯を取り出す。そして親指でパネルを素早く操作するが、今までにない焦った様子で首を振った。
「どうやら、あいつの携帯は壊されたようだ……。位置情報の追尾が途切れている」
 ヘリが去り、屋上にはひゅるひゅると弱々しく風が吹いている。この後どう動くかそれぞれが考えていると、氷子のインカムにレイから連絡が入った。氷子はこわばらせていた顔を緩めながら話を聞く。そしてまた仕事用の表情に戻してから男に向き直った。
「おい。あのヘリ、何とかなるかもしれん。だが、こちらは人員が足りない。上司が戦闘になってから要請しているが、ここを片付けてもう一時間はかかる。そちらで何とか出来るか?」
 男は氷子の言葉に頷いて、躊躇なく電話を掛けた。
「私だ。佐倉のバカがヘマをした。即応部隊をD装備で五分以内に準備させろ。場所は――」
 一度言葉を切り、男は氷子の方にちらりと視線を向ける。氷子は、耳元から聞こえる声をそのまま伝えた。
「多摩川だ。二子玉川緑地運動場にヘリの自動操縦を乗っ取って降ろす」



[39533] 3-6
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/15 16:51
 氷子の苦戦を見るやいなや、レイは男の顔を素早く画像検索にかけた。
動かすことは出来ないが、エレベーターのカメラ自体は生きている。十分に新しいそれは男の表情をしっかりと捉えていた。見た目の雰囲気から、犯罪者であるとはどうにも思えなかったし、ここまで制圧してきた人間とはどうにも毛色が違う。
犯罪者のデータベースではなく、登録のある警備会社の社員リストにそれをかけると、果たしてその中のひとりが高い一致率を示した。大手警備会社『S2C』の取締役の一人だった。
レイの機転により勘違いは正された。そして男と氷子の戦闘が終わり、直後に屋上の様子を聞いたレイの頭脳は息つく間もなく、さらにクロックを上げて演算を始めていた。

ししょー、借ります。

そう呟いたレイは、地表から遥か千キロ以上離れた人工衛星群にアクセスした。
衛星通信を通じて、災害対策としてヘリに積まれたテレサットシステムにより、機内の様子を確認する。
中にいたのは、氷子と同じ年令くらいの女性が一人と、苦みばしった顔をした若い男だった。女性の方は、どうやら気絶しているようだ。そして、男が操縦桿に手をかけていないにも関わらず、ヘリは順調に飛行を続けている。

自動操縦プログラムが使われている。
それを確信したレイは、そのプログラムを素早く解析する。
先日の『残響』のイベント時に、自らも自動運転プログラムを作成していたので、ソースコードを読めばそれがおおよそどんな内容かは把握できる。
 だが、一つ大きな問題があった。地面を走る自動車の自動運転プログラムは実用段階を越えて、普及の段階に入ろうとしているものの、天気や風速、地表との距離など様々な変数を必要とするヘリの自動運転技術はまだそのレベルに至っていないのだ。
レイは、それをラジコンヘリのプログラムを作成したことにより知っていた。ラジコンヘリは、重量的にも大したことがなく、撮影用のカメラさえ無事なら地表に下ろす際はプロペラを止め、人が受け止めることも出来た。だが、今回はそういうわけにもいかない。

今回追わなければならないヘリも、着地に関してはレイの作成したプログラムと大差ない。
どうやって屋上にヘリを持ってきたのかは分からない。初めから置いてあったのか、戦闘になって慌てて応援が屋上に着陸したのか。氷子と真里が倒した人物の誰かが操縦していたのか。だが重要なのは、今あの中にそれを操縦できる人間はいないということだ。
とりあえず、目的地となる座標に関しては書き換えはすぐに済んだ。もしものことを考え、また、追いつける場所として高速道路に近い多摩川の河川敷をレイは選択した。ヘリはゆっくりと進路を変え、中に乗っている男に気付かれないように他に遮るもののない上空を飛行する。
どうやら、男も今の状況は上手く把握できていないようだ。操縦桿に手をかけることなく、ただじっと外を見つめている。
氷子にそれを告げたレイは、リュックを背負い、ノートパソコンを開いたまま、隣で他の部署へ応援要請を行う米村に真剣な面持ちのまま告げる。
「ぶちょーさん、ぼくが、あのヘリを直接着陸させます。多摩川まで車を出してください」



 レイの言葉を受けた米村は、まったくタイムロスなく決断した。準備ができたレイを担ぎ上げ、階段を駆け下り、鍵を管理室から奪い取るとパトカーを警察署から発進させた。
サイレンを鳴らすと、自動運転の車は直ちに車体を脇に寄せ、エンジンを止める。その動きに釣られるように徐行する一般車両を、米村の車両は迷いなく時速百キロ以上の速度で追い抜いていく。
信号は、レイの指示によって道路交通センターを通して進路に合わせて全て青に変わった。これも、自動運転車が一般道を走るにあたり整備され始めたものだ。全国的にはまだ完全に置き換わってはいないが、主要な都市圏ではLED信号への切り替えと合わせて交換されている。
首都高速三号渋谷線に渋谷入り口から入り、百四十キロもの速度を出して空けられた車線を進む。トラックを追い抜き、あっという間に池尻、三軒茶屋を通過。わずか十分強で用賀を降り、環八通りに入る。
郵便局前を右折して、都道三一一号線に入ると、米村はようやく速度を八十キロ程度に落とした。

そして、後ろでごそごそとリュックを漁るレイをミラーで確認し、そこで初めて声をかける。
「レイ君、直接着陸させるって、どうするつもりなのかナ?」
 がちゃがちゃと音を鳴らして取り出されたのは、あるコンシューマーゲーム機のコントローラーだった。まとめられていたケーブルがほどかれ、その接続口が変換器を通し、ノートパソコンに繋がれる。
「ヘリの自動運転プログラムは、まだ完璧じゃないんです。天候的に、一定の高度を保ったまま空を飛ぶのは問題ありません。ただ、着陸は、まだ人の手が必要です」
 言いながらコントローラーを握り、確かめるようにボタンを押したり親指でぐりぐりとアナログスティックを回すレイの姿がフロントミラーに映る。米村の額から、たらりとひとすじの汗が流れ出た。
「あの、まさか。それを使ってヘリを着陸させるつもりじゃないよネ……?」
 オプション画面でコントローラーの動きを設定。ノートパソコンに映される機内の様子を見ながらかすかに速度の増減や進路の細かい変更を行い、問題なく操縦できることを確認した後で、レイは顔を上げた。
「大丈夫です。ゲームでやったことがありますし、自衛隊の訓練でも何回か操縦させてもらってますから」
 言葉のあとの一瞬の沈黙。まあ、免許とかは年齢制限とかもあるし取ってないですけど。ぽつりと付け足されたそれが車内に響く。すると今度こそ米村の顔から、溜められていた汗がぶわりと一斉に吹き出した。



レイと米村は目的地に到着し、パトカーから降りて周囲の状況を確認する。金曜日の午後なので、全面が使われているわけではないが、それでも部活動などでそれなりの数の野球場やサッカー場、テニスコートなどが使われている。
それから十分ほど後、運動場には似つかわしくない、物々しい装甲車じみたトラックが姿を表した。駐車場を無視し、米村の指示で奥へと進んでいき、パトカーの近くで停車。すると氷子と真里、それに彼女と戦った男以外にも六人ほどが荷台から吐き出されていく。
 全体的に黒い動きやすさを優先した上下に、顔を覆う透明なバイザーがついたヘルメット、腰には電磁警棒を差し、それにポリカーボネート製のライオットシールドを手に持った物々しい装備だ。それのどれもに社名があしらわれている。
六人の内、二人ほどは女性だった。元々はストーカー対策のために立ち上げられた個人向けの警備会社だけあって、その名残かもしれないと氷子は思った。レイの姿を見つけ、声をかけようか迷った末、表情を見て集中を妨げないように他の人間と話して準備を進める。
しばらくして、米村によって呼ばれた消防車が到着する。その直後、レイは真里にノートパソコンを持たせて、おもむろに北北西の空を見上げた。
「来ます!」


 
太陽は傾き始めており、高さは三十度程度、向きは西。ヘリがゆっくりと速度を落とし、グラウンドに映す影を大きくしていく。レイは、パソコンに内蔵されたマイクの電源を入れた。
「今から、こちらで操作してヘリを降ろします。そちらが用意していたものも含めて出回っている自動操縦機能はまだ不完全で、着陸は手動で行わないとダメなんです。危ないので、操縦桿に手をふれないでください」
 機内の無線から流れた音声に、乗っていた男はぴしりと固まり、その表情を固くして激しく胸を上下させた。それから、分かった、とだけ短くレイに返す。
レイは、上空に浮かぶその機体と、画面の中の様子をじっと見比べて深く呼吸をした。

ばらばらというメインローターの回転音が運動場に響き渡る。自動操縦プログラムは停止し、レイの手がそれを引き継ぐ。一瞬だけバランスを崩して機体を揺らすが持ち直し、テニスコートとサッカーグラウンドの間の芝生を目掛けて、ヘリが高度と速度を落としながら入ってくる。
やがて、横方向の動きがほとんどなくなり、機体がしばらくホバリングすると、レイが慎重にコントローラーのボタンを操作する。五十メートルほどの高さから、それは空気をかき混ぜながらゆっくりと舞い降り、影を中心にレイたちが立つ芝生を波のように揺らす。

その場にいる、誰もがその様子を固唾を呑んで見守っていた。
高度は十メートル、五メートル、三メートルとゆっくりと下がり続ける。やがて垂直で二メートルを切った瞬間、突然の風で少しだけ傾いた。そしてそのままの体勢で足のようなランディングギアが芝生に着き、その傾きによる衝撃を吸収し、ヘリは少しずれて地表に到達した。
レイが息を吐いて額を袖口で拭う。しばらくするとメインローターとテールローターは回転を完全に止め、揺れていた芝生は動きの原因を失い、その場に沈黙が訪れた。



「いいか、両手を上げて降りろ。それから、ヘリから五メートルほど離れたら両手を背中で組め。うつ伏せで芝生の上に寝るんだ。隣にいる女には何もするな。余計な動きをしなければ手錠をかけるだけだ。中の様子は見えている。分かったら今、両手を上げてみろ」
 氷子がレイのパソコンを通じて男に呼びかける。
一分ほどして、男がその指示通りにすると、『S2C』の社員たちが素早くヘリの搭乗口を塞ぎ、氷子はそれを確認して男に手錠をかけた。
その様子を見て、氷子と戦った男がヘリに乗り込む。そして、布団のように女性を肩に担いで出てくる。
「大丈夫だ、こいつは気絶しているだけだ」
 そう言うと、ピシャリとデニム生地のショートパンツに覆われた尻を叩く。あひゃあ、と声を上げてサイドテールの女性は目を覚ました。辺りには先ほどまでの緊張は消え、弛緩した空気が訪れる。

「うー、先輩……、乱暴だって」
「このアホウが。あれほど脱出は早くしろと言っておいただろう。どれだけ迷惑をかけたと思っているんだ」
 じたばたと暴れる女性をそっと芝生の上に降ろすと、男は一度深々と頭を下げる。それから十五センチほど下のレイの目と視線を合わせた。
「少年、君の名は?」
 男がそう言うと、レイは懐から名刺を取り出し、男もそれにならった。周囲の人間を置き去りにして奇妙な名刺交換が行われる。
「私は、市原光太郎(いちはらこうたろう)。『S2C』の取締役、副社長をしている」
「ぼくは、宮本亜鈴です。検索士とゲーム制作の会社を経営しています」
 二人が名乗ると、先ほど救出された女性が市原の腰に片手で抱きつきながらレイと強引に握手を躱した。
「あたしは、佐倉輪(さくらりん)。君、いい腕してるじゃないか。セキュリティは専門じゃないけど仕事じゃ使うし、まあまあ自信あったけど。あんなにすぐ突破されるとは思ってなかったよ。うちの会社、来る気はない?」
 にかりと口を横に広げて佐倉が笑うと、すかさず真里に男を任せた氷子が割って入り、その握られていた手を引き剥がした。
「こらこらこらあ! うちの子に、何を言ってるんだ! 今回の件についてもまだ詳しい説明を受けてないんだからな!」
 氷子に威嚇され、佐倉が市原の影に隠れる。だいじょーぶだよ、ひょーこさん。という言葉に氷子は自分の物だと主張するように後ろからレイを抱いた。
「詳しい話は、これからゆっくりすることにしよう」
 市原は氷子に向けてそう告げ、集められていた部下たちに撤収を告げた。そして、レイの顔を見る。
「そして、亜鈴君、世話になったな。今回のことは、一つ借りだ。何かあったら、いつでも言ってくれ」
 そう言って、大きなゴツゴツとした手が差し出される。それを、レイは自分の意志でしっかりと握った。
「はい! そのときはよろしくおねがいします」



米村の指示で消防車が帰り、新しく来たパトカーに捕まった男が載せられる。
市原と佐倉は会社のトラックに乗って社にそれを置いた後、すぐに渋谷警察署に向かうことを確認してからその場を去っていった。
嘱託の警官にヘリの保存を任せ、レイたちもまた、その場を離れて元の場所へと帰っていく。
それまで携帯にひっきりなしに着信が入っており、署に戻る途中で青山に電話をかけ直す。ビルの方も応援が到着し、もうすぐ一段落つくとの報告を受けた。
ビルにいた男たちの取り調べは、この後行われる。過酷なスケジュールであったことからレイがこれ以上この仕事を手伝うことはない。
だからこそ、わずかに半日だけ遅れたのだ。
ヘリを追う内に、ビルから抜けだした車が一台あったことに気づくのに――。



[39533] 『アンリミテッド・バトルフィールド』4-1
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:b89231d8
Date: 2014/03/16 12:19
二〇二四年五月十七日

 ふう、と息をついてから氷子は自販機で買ったミネラルウォーターを一口飲んだ。背後に気配を感じ、少し離れるようにして振り返る。
「お疲れ様。そっちはどうだい?」
 氷子と同じように、取調室から出てきた青山だった。
「弁護士を呼べと言ったあと、少しずつ自供してるが肝心なことについては知らないだとさ。仲間のことについても口を割らない。だんまりというわけじゃないから余計にタチが悪いな」
 青山が携帯を自販機にかざすと、電子マネー決済が行われ、気の抜けた音が鳴る。がこん、と缶コーヒーが取り出し口に落ちた。
「こっちも同じだ。他も似たようなものみたいだな。どれも前もって準備されていたような受け答えらしい。時間稼ぎされてるみたいで気に食わないが、録画されてるから脅しつけるわけにもいかないし困ったもんだよ。十年くらい前だったら取り調べなんて密室で、もっとえげつないことやってたらしいけどね。あ、レイ君はどうだい?」
 プルタブを開け、缶コーヒーを一口飲むと青山は氷子に尋ねる。話をしながら氷子は携帯を操作していた。
「ん、こっちはあの佐倉とかいう検索士に手伝ってもらってるから、来週一度来てくれればいいとメールしたところだ。……さすがに疲れたんだろう。多分寝ていて、電話には出ないな」
 昨日の夕方、渋谷警察署で改めて事情が説明された結果、誤解は解けていた。あのヘリでの追走劇で救出された佐倉輪は、『S2C』の専属検索士だったのだ。
「内閣府と外務大臣から直々の内偵依頼、だったっけか。まあ、そのぶん司法取引はやりやすそうだけど、秘密主義にも困ったもんだ。おかげでこっちは、一台車を取り逃してるっていうのに」
 ヘリを追う間に、一台の車がビルから脱出を遂げていた。監視カメラから乗っていたのは三名ほどであることが確認できている。しかし、その後の足取りが掴めていない。
「信用されるためとはいえヘリの自動操縦プログラムを書いたのはやりすぎだったな。あれがなければ代表も伍長とかいう青年も捕まっていただろうに」
 ビルを脱出した車は、そう遠くない立体駐車場に入った。しかし、そこから出てきた車を高速の料金所で捕まえた結果、乗っていたのは代表や伍長とは異なる人間だった。
「車の交換か。シンプルだけど、そのぶんはまりやすい手だったね。輪ちゃんが話しただけじゃなくて、検索士のこと、相当調べられているみたいだ」
 立体駐車場の出入口に取り付けられていた監視カメラは以前からある少し前のモデルで、ナンバープレートはともかく、中の人間の顔まではっきりとは捉えていなかったのだ。
やり取りを終え、青山と氷子はそれぞれの仕事に戻って取り調べを続けた。二時間後、リーナからかかってきた電話でレイの失踪が告げられるまでは。



その日、レイが起きたのは九時少し過ぎだった。前日、リーナに朝は起こさないように頼み、たっぷり十二時間寝た後でレイは布団から這い出して大きく伸びをした。
春海も既に出かけており、家にはレイの他に誰もいない。身支度を整え、シリアルと牛乳で簡単に食事を済ませると、レイは急に空いた一日で何をするか頭を悩ませた。
部屋の片隅に積まれた、未開封のAmazonの段ボールに入ったゲームをするのもいいし、電子書籍で気になった小説の続きを読むのもいい。先週から働き過ぎたので、今日は仕事は頭から外そう、そう考えたレイは、家にいるのも不健康なのでひとまず外に出ることにした。

十時頃、レイはホームグラウンドである池袋駅近くのゲームセンター『GiGO』にいた。
セガ直営の有名なゲームセンターで、古参や格闘ゲームプレイヤーの層が厚いそこにはレイの父の友人もよく訪れていた。小さい頃から週に何度も足を運ぶそこで、レイはロイに敗れたリズムゲームの強化に取り組む。
シューズも自前の物を用意しており、休憩を適度にはさみながら一時間ほど汗を流す。気が付くと、レイの周りには何人かのランカーが集まってきていた。
その多くは男性だが、数名女性もいた。この前の対戦について会話をする。年齢も容姿もバラバラだが、ゲームという糸で繋がれた関係は、普通の学校にいては味わえないものだとレイは思っている。

都合十五曲ほどを終え、早めの昼食かなと思ったところで思わぬ来客が訪れた。息を切らしてフロアに駆け込んできたのは、先日イベントを手伝った『残響』のリーダー、響であった。
「レイ君、た、すけてぇ……」
 顔を赤くし、鼻をすすりながら膝をつき、響は自分よりも背の低いレイの上着の裾を掴んでそう口にした。



レイは泣きじゃくる響をなだめながら、ゲームセンターから外に出て、近くにあるカプリチョーザに入って食事を摂りながら話を聞くことにした。
アイスティーを少し飲むと、ようやく響は落ち着きを取り戻した。
「妹がね、レイ君に初めて会ったあの日の夜から、帰って来ないの……」
 レイがリュックから取り出したハンドタオルで、響は涙を拭いながらそう言った。
「妹さんですか?」
「うん、君も知ってる。Hatsuneって言った方が早いと思う。御代志音芽(みよしおとめ)。あの子は私の、二つ下の妹なんだ」
 

ピアニストの父と母を持つ響と音芽は、生まれたときから音楽の英才教育を施され、将来を嘱望されてきた。両親は二人に優しく、音楽はとても楽しい物だった。響が緊張によりコンクールでなかなか結果が出なくても、それを責めることはなかった。
それが、おかしくなったのは二人の母親が死んだときからだ。二人を残し、両親は三ヶ月ほどの日程で海外のコンサートツアーに出た。ツアーの評判は良く、数カ所を回った時点で成功は約束されていた。しかし——。

途中、治安の悪い中東のある国でコンサートを行ったのが、二人の母の最後の演奏となった。
テロに、巻き込まれたのだ。母親は死に、父も大怪我を負い、以前のように音楽を奏でることはできなくなった。それが、地獄の始まりだった。
響がコンクールで結果を出せないと、父はそれを責めるようになった。音芽は、音楽どころか声すら出せなくなった。やがてMRJの代表の地位を得た父は、生活費に十分な金こそ入れるものの家によりつかなくなり、響は一人で自分と、妹の面倒を見なければいけなかった。


「高校に入って、私は音楽をもう一度始められた。自分で曲をかくことを始めたのもそれからだった。……実はレイ君が褒めてくれたのは、私がうまく書けた、唯一の曲なんだ」
 そうつぶやくと、響は滲んだ涙を隠すように顔を伏せた。
「最初の曲は、すごく良かった。でも、先輩たちのやりたい音楽とは少し違ってた。そんなときに、あの子を起こしに行ったら聞いちゃったの。あの子が作った曲を」
 母の死から一年半ほど経過し、音芽は生活に支障がないくらいには回復していた。歌うことは出来なかったが、ピアノは弾けるようになっていたし、何より、彼女のパソコンには大量の自作曲が入っていた。

「どうしたんだって聞いたら、ボーカロイドで作ったんだって答えたんだ。曲はすごい出来だったけど、あの子はどこにも公開してなかった。それで、私はバンドでやりたいから曲をくれって頼み込んだんだ」
 音芽はそれに対し、異を唱えることはなかった。響は曲をアレンジし、自分が作った曲としてバンドで演奏し、やがてMDにスカウトされた。
「嫉妬、していたんだと思う。あの子は、私よりずっと才能があったから。言い出せなかったんだ、他のみんなには。ランカーになっていたことも、レイ君が教えてくれるまで知らなかった。帰りが遅くなったり、何日か帰らないこともあったけど、こんなに家を開けたことはなかったんだ。父のところに行ってたっていつもあの子は答えてた。それで、今日の朝、警察から電話が来て。父の行方を知らないかって言われて……。あの子にも、父にも、連絡が取れなくて……」
 響は言葉を続けられず、ただ子供のように鼻をすする。レイはその様子を見て、テーブル越しに顔を拭いてやった。
「たったひとりの、妹、なんだ。だから、お願い。あの子を、音芽を、助けて……」
 タオルに顔を押し付けて、嗚咽する響の両手を、レイはしっかりと祈るように握った。
「Hatsuneは、いえ、音芽は、ぼくの友達です。だから、大丈夫。必ず見つけてみせます」
 


話と食事を済ませたレイは、この後の動きについて響と相談した。響は自分も何か手伝うと言って譲らなかった。しかし、場合によっては昨日のMRJのビルのように危険が伴う場合もある。
そう判断したレイは、響をタクシーに載せて事務所に案内する。ディスプレイを机に並べ、決まりを無視して検索士の力で監視カメラの映像をチェックすることを任せた。何かやるべきことがあれば、暴走することもないだろうとの判断である。
響を事務所に置いたあとは、荷物を取りに行くと告げて一度家に帰った。響から離れて自室で可能な限り捜査を進め、場合によっては氷子に助けを求めるためでもあった。

家に着き、シャワーを浴びて下着を替え、部屋で捜査を始めようとすると、想像していなかった相手から着信が来た。ロイとの対戦の後で番号を交換した、音芽からである。
「亜鈴ですっ。今、どこにいるの!?」
 しかし、電話の向こうから聞こえてきたのは、音芽の声ではなかった。
『残念だが、お嬢ちゃんじゃない。無事に返して欲しければ言う事を聞いてもらう』
 機械で加工され、元が分からなくなった合成音声だった。
『通信機器に手を触れるな。電話しようとすれば分かる。この携帯は電源を切らずに、イヤホンで話せるようにしろ。それくらいは持ってるだろ? それが準備出来たら、手に持てるカバンか何かに、適当に本でも入れて三分以内に外に出ろ。パソコンとかは置いていけ』
 ごくり、と思わず息をのむが、レイの頭脳は回転を止めない。
「待って下さい。音芽の無事が確認できないと、そちらの言うことは聞けません」
『安心しろ、嬢ちゃんはすぐ横にいる。外に出たら話をさせてやる。だから、今すぐにさっき言った通りにしろ』
 一切の交渉の余地のない宣言だった。今できることを考え、レイはただ準備を進めた。携帯にハンズフリーマイクを繋ぐ。リュックを置きクローゼットから取り出した中学時代に使っていたカバンを取り出し、専門書と、少し考えてその他、棚にあった幾つかの物を入れる。

外に出て家から離れると、ようやく電話口から音芽の声が聞こえた。
『Array?』
「うん。そうだよ」
『言う事、聞いちゃ駄目』
「それは、ぼくが決める。いくつか質問するけどいいかな?」
 レイは、それから音芽本人だと確認するために何度か質問を繰り返した。好きな飲み物の味、この前の対戦相手の名前、そのときに踊った二曲の曲名、『残響』のメンバーの名前などだ。
特に、不自然な間などはなく、本人であることが確認できたところで、再び合成音声が代わる。
『確認は出来たな? それじゃあ、次は歩いて移動して、駅近くのコンビニに入れ。そこで、適当に飲み物か何か買え。そうしたら袋をカバンを持っている手と逆の手で持って外に出ろ』
 声は、「カバン」と言った。動きをどこかから見張られていることをレイは悟った。両手を塞ぐのは、筆談やメールなどを防ぐためか。言葉の通り、十五分ほど歩き、コンビニに入ったレイは飲み物とお気に入りのチョコレート菓子をあるだけ買い、外に出た。

『よし。これから移動してもらうわけだが、バイクには乗れるな?』
「はい、運転は出来ます。でも、免許は持っていません」
 それに対する応答はすぐには返ってこなかった。代わりにガサガサと紙か何かの擦れる音がする。
『……少し待て。また嬢ちゃんと話させてやる』
 数分間、それからレイは音芽と話した。この前の『残響』のイベントのことなどを、なるべく不安にさせない内容を選んで会話が続けられる。
『よし、さすがに自転車は乗れるな?』
「はい」
『なら構わない。これから電車で移動してもらう。駅に入れ』

 声に従い、レイは西武鉄道の池袋線から特急に乗った。二時間弱ほど合成音声と音芽、それぞれ交代しつつ会話する。そして秩父市のある駅で突如降りるように促された。
駐輪場で指定されたBMCのカーボンフレーム製ロードバイクを、番号ロックを解除して受け取り公道に出る。そして、ドロップハンドルに荷物を引っ掛け、携帯をハンドル部分の器具に取り付けた。電話と地図アプリの示す道に従って、慣れない道を十五分ほど駆け抜ける。
ロードバイクから降りるように言われ少し歩くと、車の通行すらほとんどないその道に、一人の男が立っていた。資料で見た男、伍長と呼ばれる青年だった。



[39533] 4-2
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/17 14:41
「亜鈴どのでござるな?」
 伍長と呼ばれる青年は、MRJのビルにいたモデルガンで武装していた男たちとほとんど同じ服装をしていた。ただ、腕に巻かれたスカーフと、胸元につけられた無線機だけが異なっている。
「はい」
 レイと伍長の距離は、十メートルほど離れている。氷子たちと異なり、レイには反撃される前にその距離を詰めることはできない。
「拙者は伍長でござる。安心めされい。音芽どのは無事でござる。亜鈴どの選択次第では、すぐに会わせてあげられるでござるよ」
 辺りは無数の細く背の高い木に囲まれた林になっており、陽の光は遮られ、少し薄暗くなっていた。心なしか、都心部よりも温度が低く、風も少し出ている。伍長は、モデルガンを持っていないグローブを嵌めた左手を上げ、その人差し指を伸ばした。

「選択肢は二つ。一つ目は、拙者たちの仲間になること。一旦着替えて荷物を処分してもらった後、音芽どののいる場所に通すでござる。この場合は、半年ほど我々の仕事を手伝ってもらうことになり申す」
 おそらく、それなりに計画されていたのだろう。自転車の件はリーナと一緒にバイクに乗っているところを見られていたのだろうし、着替えや荷物を処分しろというのは、位置情報を告げるデバイスなどを警戒してのことだ。検索士であることも調べられている。
「二つ目は?」
「うむ、拙者たちとサバイバルゲームで勝負して、そなたが勝ったら、無条件で音芽どのを返すでござる。ただし、負けた場合はやはり仲間になってもらうでござる」
 レイは、ほとんど悩むことなく、やります、と答えた。信用できるかは分からないが、いずれにせよ音芽に会わなければいけないし、勝負の流れ次第では敵の戦力を削ることが出来るかもしれないと考えたのだ。
レイの宣言を受け、伍長はニヤリと笑った。そして、ルールの説明が行われる。

 一、フィールドはこの林一帯。相手との距離が一定以上離れると鳴るビーコンを装備する。鳴る音は複数の種類があり、互いの居場所の索敵と、逃亡を禁止するために使われる。
二、レイは伍長が来ているものと同じベストを着る。ビーコンが仕込まれている他、一定以上の衝撃でダメージ判定が行われる。互いのライフは五。レイは一人で、伍長は仲間三人とそれを二、二、一で分配する。一人のライフがゼロになるごとに次の相手が戦闘に参加する。
三、ベストとビーコンは連動しており、ダメージを受けた後、相手との距離が二百メートルほど離れるまで、再びの攻撃はカウントされない。

「ルールは以上でござる。何か質問はあるかな?」
 ルール説明をしている途中、伍長とレイの間に大男が現れ、レイの装備を置いた。ベスト、モデルガン、大量のゴム弾、ブーツなどだ。ゴム弾は予備を数カ所に配置してあるので、弾切れはないとのことだった。
「いえ、それで大丈夫です。ただ、一つだけ聞きたいことがあります。どうしてこんなことをするんですか?」
 伍長は、それを聞いて少しだけ眩しいものを見るような目をした。
「Arrayどの、そなたはすんなりとこちらのいうことを聞くような御仁ではござらぬ。しかし、先日あれだけの勝負を見せたランカーでござる。ルールが決められていれば、こと賭けに関しては自らを欺くような真似はしないでござろう。ゲームでは敵わないかもしれないでござるが、サバゲーなら拙者も負けないと自負があり申す。そう思ったのでござるよ」

 レイはその言葉に一度だけ頷いた。そして指示された通り携帯の電源を切り、荷物と一緒に置く。それから少し待って下さいと断った後、コンビニの袋から箱買いした一個三十円ほどの小さなチョコ菓子を取り出し、五個を一気に食べてミネラルウォーターで流し込んだ。
カロリーを摂取すると、残ったチョコ菓子をポケットに詰め、カバンに入れていた自前のグローブを取り出して両手にはめる。そして上着を脱いで与えられたベストを着こみ、ヘルメットとゴーグルをつけ、ブーツに履き替えた。
無線でレイのビーコンの反応を確かめると、伍長は自分の携帯のタイマーを起動させた。六百秒後に戦闘を開始すると告げられると、レイは素早くその場から走り去り、林の中へと身を隠した。



頭の中で三百秒を数えたところで、レイは走るのを止めた。
レイはモデルガンその他装備の重量、地形の起伏と走ったペースを変数として移動距離を暗算。およそ一キロ弱だとの解を得る。渡されたネットに繋げないGPSと地図機能、時計のみが使える小型のタブレット端末で現在位置を確認すると、計算はおよそ合っていた。
 昨年の夏休み、検索士の試験合格後の自衛隊での訓練をレイは思い出す。
これは、サバイバル演習がもっと本格的になったものだ。荷物はあの時よりずいぶん軽い。生き延びることよりも、戦うことに軸が置かれている。そう、考えた。

実弾は撃たせてもらっていないが、今持っているのと似たモデルガンでかなり訓練はさせられた。木の一本にポケットに入れてあったペンでバツ印をつけ、それに向けて試射を行う。
モデルガンは一般的なサバイバルゲームに使われる、セミオートで何十発も連射されるタイプではなく、一発一発撃つごとに引き金を引かなければいけないタイプのものだ。今回の趣旨には合っているが、そのぶん、命中率を上げるために射程は短くなる。
三十メートルほど離れた場合、まず当てられないだろう。およそ、十メートル程度の近距離での戦いが今回の肝となるはずだ。距離によって着弾点がどれくらいずれるのかを確認しながらレイは攻撃のイメージを築き上げる。
しばらくすると、タブレット端末が六百秒を告げるアラームを鳴らす。
身体は今の装備にだいぶ慣れた。位置的にはバトルフィールドの外縁部で、これ以上進むと逃亡されたと判断される。準備はできた。そう考えたレイは試射を止めて方向転換。そして息を整え、ビーコンの音を頼りに木の影に身を隠しながら敵の姿を探し始めた。


 
敵との距離を告げる音が段々と小さくなり、消えたり鳴ったりを繰り返した後、やがて完全に途絶えた。
接敵の予感を前に、はやる鼓動を抑えながらさらに慎重に移動する。すると、視界のはるか彼方に何かが動いたような影がちらりと映った。そちらの方に視線を固定し、レイは木の陰から顔を覗かせて様子を伺う。
自分とそれほど変わらない体形の敵は、こちらから見て斜め前方に移動している。
彼我の距離は百メートル程度。まっすぐ追うのではなく、回りこむようにしてその背後を取るように息を殺し、足音を立てないように後を追い、距離を詰める。
木を壁に使いながら、残り三十メートルほどまで近づいたところで、レイは一度深呼吸する。
そして、敵が周囲を確認し、さらに前方に向かうのを見た瞬間、地面を蹴って木の影から飛び出した!

ブーツの裏面が擦れ、ざざざと鳴る地面。風が林を吹き抜け、その音が伝わりレイの接近に気づいた敵が振り返る。
しかし、その瞬間にはレイはもう十メートル程度の距離にいた。
振り返ると同時、レイが銃口を敵の上半身に向け、トリガーに指をかける。
引き金を引こうとした瞬間、しかしレイは一瞬だけそれを躊躇した。
遠くから、後ろからでは判別できなかったが、敵の一人目は女性だったのだ。
そのわずかなラグを見逃さず、敵は反射的にレイに攻撃を行う。
それに慌て、レイも人差し指を振り絞る。やがて、吹き飛ばされるほどの衝撃。ほんの一瞬だけ遅れてくる痛みを我慢しながら、レイはその場に踏みとどまる。敵ものけぞり、銃を抑える左手は跳ね上げられていた。

ベストと連動したビーコンから、ダメージを受けたことを知らせる音が鳴った。
最初の攻撃の結果は相打ちという結果。事前の説明では、ベストへの着弾から一秒程度で攻撃はノーカウントとなると伝えられていた。着弾はほぼ同時と判別されたようだ。



ルールに従い、一度歩きながら互いに距離を取って再び攻撃が可能になるのを待つ。どうやら、痛みはあるがベストに当たればアザが出来る程度で済みそうだ。身体の調子を確認しながらレイは次の戦いをどう切り抜けるかを思案する。
最初の戦いでは、自分が一瞬ためらったのがまずかった。あれさえなければ、ほぼ完璧な奇襲になっていただろう。次があれば先に攻撃を仕掛け、敵に反撃される余裕など与えないが、先ほどのような幸運が何度も続くとは限らない。
考えろ、考えろ、考えろ。
やがて、周囲の環境と自らの身体性能を比較したレイの頭脳は、一つの策を生み出した。



ビーコンが戦闘再開を告げ、一人目の敵は進む向きを変えて索敵を始めた。
事前の説明で、検索士は自衛隊での訓練を受けていると知っていた。しかし、思ったよりもずっとその能力は高かった。まだ中学を卒業したての子供と、どこか侮っていた気持ちを引き締め直す。
 初めて使う装備で攻撃を当てた命中精度、見事に奇襲に繋げた気配の消し方と接敵の技術、そして何よりも、一瞬射撃を戸惑ったもののこの異常な状況に真っ向から立ち向かう精神力。それら全てと、一撃目の痛みがレイを警戒に値する敵だと刻みつけていた。
もう、不意打ちは喰らわない。
前後左右、警戒をいつものサバイバルゲームや、伍長との訓練通りに行う。さらに、耳を澄ませ、感覚を研ぎ澄まして音や気配に気を配る。奇襲が最善だが、仮に真正面からぶつかっても、武器の慣れという優位を活かし、一メートルでも遠くから先に仕掛ける。
そう決意し、レイを探すこと十分ほど。一度目の会敵に比べると距離が縮まるペースがゆっくりなのをビーコンの音から感じていた。敵も、二度目の戦闘で慎重に動いているのだろう。そう判断し、さらに感覚を研ぎ澄ましてレイの姿を探す。

さらに十五分ほどが過ぎる。だが、レイの影すら見えない。距離と移動範囲から、見当違いの方向を見ているのは確率的に低い。もしや、既に後ろを取られているのか? いや、この頻度で周囲を見回しているのだ、さすがにまったく気づかないということはありえない。
集中力を切らせばやられる、そう思い直し、一度目を閉じてじっと周囲の音に耳を澄ませる。

衝撃。
胸元に痛みが走り、女はその場に思わずうずくまった。ダメージを受けビーコンがライフがゼロになったことを告げる。一体、どこから攻撃を受けたというのだ? 鋭敏になった耳が、急激に近くなる足音を拾い上げる。
そして、背後から生温かい息を吹きかけながら、這うように首もとを二本の腕が滑る。抗うことも出来ず、痛みよりむしろ官能的な快楽を感じながら、女の意識は絞め落とされた。



「彼女がやられたようですな」
 タブレット端末がダメージ判定を告げるのを確認すると、大岩のような男は伍長に敬意を払うようにそう言った。
「そのようでござるな。やはり、亜鈴どのはなかなかの手練れ。自衛隊での訓練は伊達ではないといったところでござろうか」
 どこか嬉しそうに答える伍長に、大男は出撃を宣言する。そして自分のビーコンの音に従って、一目散に林の中に飛び込んだ。



大男はビーコンの反応に従ってレイを探す。すると、音が消えしばらく経ったところでもぞもぞとうごめく影を見つけた。船首像のように、両手を手錠で細い木に繋がれた仲間の女の姿だった。
「どうした! 敵はどこにいる!」
 大男が、声を大きくしながら女の口に噛まされたタオルを外してやる。すると女は突然叫んだ。
「後ろッ!」

 男は振り返るまもなく背中に攻撃を受けた。痛みに顔を歪めていると、その首にレイの細い腕が巻き付いて締め上げようとしてくる。
 男は太い首に力を込め、攻撃に抵抗する。丸太のような手応え。レイは、二つ目の目的である意識を途絶させるのが失敗に終わったのを感じ、その場を離脱しようとする。しかし、男は巨体に似合わない敏捷性でレイの腕を掴み、人形をおもちゃ箱に放り込むように宙に放った。
「貴様ァ、木の上に身を潜めていたな! 狙いは悪くない。だが、俺に格闘を仕掛けたのは間違いだ! そのような細腕で、この肉体を制圧することが出来ると思うなど、笑止千万!」

 レイはモデルガンをその場に放り投げ、一目散に逃げ出した。その場でルール無視の格闘戦になることを恐れたのだ。反射的に男も追いかけようとするが、女に止められてその場にとどまる。
「あの子、私達を倒すだけじゃなくて、動けなくしようとしてるわ」
「どういうことだ?」
「多分、あの女の子を助けるためなんでしょうね。全てを鵜呑みにしないあたり、やっぱり普通の子じゃないわ。こちらとの交渉とか、色々と考えているみたい」
 なるほどな、と男は呟き、彼女に使っていたモデルガンとレイの落としたモデルガンを見張らせる。そして戦闘再開が告げられるのを待ちどっしりと迎撃の構えを取った。



男は女の繋がれた木を中心に、渦を描くように索敵を始めた。ゆっくりと走りながら辺りを見渡し、やがて木から五十メートルほど離れたところでレイを見つけた。モデルガンを構えながら瞬間的に速度を上げ、襲いかかる。
レイはダメージを受けるリスクを負ってでも、まず自分の銃を回収しなければいけなかった。
木と木の間を縫うように走り抜け、男の銃撃を回避する。射撃の腕はそこまでではないようだ。女を繋いだ木に着くと、自分のモデルガンを拾い上げ、再びその場を離れようとする。だが、男は思ったより足が速く、方向を変えた際に背中に攻撃を当てられてしまった。
これでお互いのライフは残り合計三ずつ。レイは次の攻撃の方策を逃げながら考えるのだった。



ビーコンが戦闘再開を告げる。距離が離れたことからレイは走るのを止めて歩きながら息を整える。こちらの攻撃を当てて、さらにできれば一人目と同じように相手の意識を奪いたい。だが、体格差的に同じ方法は不可能だ。どうすればいいのだろうか。
ギュルギュルと、エンジンのようにレイの頭脳は回転を始める。しかし、それが十分な時間を得る前に、男はレイの前に姿を表した。信じられない程の発見の速度である。
今はまだ準備ができていない。慌ててその場から逃げるレイだが、男の方が足は速い。
百メートルほど走った所で距離を詰められ、レイは背中にさらなる攻撃を受けた。これで、レイの残りライフは二。
身体能力面で完全に負けている敵に対し、どう対処するのか。レイは、去っていく男の後ろ姿を見ながらある覚悟を決めた。



男は、女ほどモデルガンの扱いは上手くなかった。命中精度が保証される射程は短く、また、身体が大きいために的にもなりやすい。だが、それを補って余りある身体能力ともう一つの力を持っていた。
レイを見つけたのは、単なる偶然ではない。ビーコンから戦闘再開が告げられる時間と、レイの走る速度から、それがまっすぐに逃げたのか、大きく方向を変えたのかを割り出して追いかけたのだ。
レイのように計算してそれを行ったわけではなく、サバイバルゲームの経験からそれを意識せずに男は行うことが出来るようになっており、さらにそこに直感がプラスされている。今回のルールにおいて、モデルガンの扱いが苦手という欠点を補って余りある力だった。
再びの戦闘開始が告げられ、男はレイの姿を追い求めて重戦車のように林を駆け抜ける。そして、こちらに向かってくるレイの姿を見つけると、モデルガンを構えながら瞳孔を広げて興奮を露わにした。



真正面から来るか!
男はレイのその選択に思わず肉食獣じみた笑みを浮かべた。確かに、銃の扱いはレイの方が上手い。正面から攻撃を仕掛けるというのも、射程から考えれば合理的な選択といえる。だが、それはあくまでターゲットが動かない場合に限る。
二十メートルと少し離れたところで、レイは走りながら引き金を引いた。男は、その動きに合わせて腕を前に交差させて防御。手首の部分に命中。ヒットの判定は鳴らない。
距離が縮まり、今度は男が銃を撃つ。レイはモデルガンを手放し、飛び込み前転で回避する。面食らった男がレイ飛んだ方向に向き直る。すると、レイはその右手をまるでマウスのポインタのように銃に見立てて男の胸に向けた。

BANG!

レイが叫ぶと、男は胸に先ほどの攻撃とは比べ物にならないほどの衝撃を受けて吹き飛ばされた。起き上がろうと手の平を地面に着くと、そのむき出しの手首がレイに掴まれる。すると感じたことのない痺れが身体を突き抜け、抗うことも出来ずに一瞬で男の意識を刈り取った。



レイは、自分の非力を知っていた。
自衛隊で訓練したと言っても、せいぜい相手に出来るのは一般人程度だ。格闘技を本格的に習っていた人間などには敵わない。しかし、しばしば無茶をするレイは、せめて自分の身を守る手段を持とうと考えた。
その結果、造られた道具の一つがコイルガングローブだ。

動画サイトで見た、使い捨てカメラで作ったコイルガンの威力を知り、レイはそれと電磁警棒の機能を組み合わせたグローブを作った。
 機能は二つ。一つ目は、音声認識機能を引き金として人差し指に装填した弾となる物質を高速で撃ち出す機能。その威力は瓦を貫通するほどのものだ。二つ目は電流を流して意識を奪う機能。手首の内側のボタンを押すと、電磁警棒並のそれが敵を襲う。
威力はあるが、せいぜい三発程度しか撃てない。レイは考えた結果、切り札を使うことで先のことよりも今の窮地を切り抜けたのだ。



レイは気絶した男のズボンを脱がせた。そして先ほど女を繋いだのと同じような細い木を見つけると、男の胴をズボンの股部分に当て、木を軸に後ろに回した両手首を縛り上げた。
男との戦いでは随分と走らされた。一息つきたいところだが、三人目の敵との距離を知らせるビーコンは無情にもその遭遇が段々と近づいていることを知らせる。いずれにせよ、敵のライフは残り一だ。レイは、ひとまず距離を取って体力を回復させたあと最後の攻撃を仕掛けることを決意した。



十五分ほど見つかることなく、レイは体力を回復させることが出来た。決着をつけるべく、敵との距離を縮めるように動く。すると、それほど経たない内に伍長の後ろ姿を発見した。どうやら、木の上も気にする一方で背後の警戒のレベルは若干低くなっているようだ。
今が機だと判断し、レイは四〇メートルほどの距離から全力でダッシュを始めた。距離が二十メートルほどになり、伍長が振り返るのと同時にレイは銃口をその胸に向けて構えた。
伍長が振り返り、レイが目を細めて引き金を引く瞬間、レイの腹を衝撃が襲った。
一体、何が起きたのか。レイは、すぐそれに気づいた。前方の木の枝の股に挟まれた銃口が、伍長が先ほど向いていたのとは逆、自分の方を向いていたのだ。伍長の手には細くキラキラと光る細いものが握られている。

トラップだった。背後の警戒をあえて怠ったように見せ、その実、じっと伍長はレイが罠にかかるのを待っていたのだ。伍長は釣り糸か何かを使って仕掛けを作り、仲間の銃でレイを攻撃したのだ。
攻撃が命中し、レイの動きが一瞬止まった隙を見て伍長は素早くその場を離脱した。これで、互いの残りライフは一。後のない最終決戦が始まる。



小柄な体形を活かし、レイは木と木の間をすり抜けるように走る。氷子のように常人離れした動きは出来ないが、それでも運動神経は良い方だ。先ほどの男はともかく、伍長相手であれば真正面からの攻撃が一番成功確率が高い、そうレイの頭脳は判断した。
だが、ついさっきのようにトラップにやられる可能性は潰さなければならない。伍長が続けて同じ手を使うとは考えていないが、それでも警戒は必要だ。あえて姿を見せ、一度引きつけるように場所を移動しながら戦闘態勢を整える。
まだ昼過ぎだというのに薄暗い林の中。二人の距離は百メートルをとっくに切り、視界にはまだ小さいものの、相手の姿がしっかりと映っている。
距離が縮まるにつれ、モデルガンを握る手にも自然、力が籠もる。しかし、過度の緊張は正確な射撃の妨げとなる。攻撃範囲にはまだ遠い。この戦いは、性質上、近距離のものとなる。

だが、それ自体がレイの策だった。
コイルガンは、下手をしなくても五十メートルもの射程を持つ。
二十五メートル程度の距離で、先制攻撃を仕掛ける。仮にそれが外れて倒せなかったとしても、相手をひるませることは出来るはずだ。そこにモデルガンによる追撃をかます。より遠くから相手を一方的に攻撃する、大艦巨砲主義的な思想。
一対一の戦いにおいて、十分な命中率が約束されていればそれは必勝の策となる。
コイルガンの弾速から、それを回避することはモデルガンの攻撃を回避するよりも難しい。五十メートルを切り、レイは一度左手で木の幹を掴んでぐるりと方向転換。そして、先のことを考えない全力疾走に入る。
装備込みでも相対距離がゼロになるまでは六秒もかからない。ましてや、コイルガンを撃つまではわずか三秒程度だ。モデルガンを持つ右手から力を抜き左手だけで支える。そして走りながらレイは攻撃目標となる伍長の上半身を射抜くように見据える。

しかし、距離が四十メートルを切ったとき、伍長は地面に身体を投げ出し、その場に伏せた。何か策があるのか? いや、それは悪手。機動力を失った体勢ならば距離を詰めればこちらが決定的に有利。回りこんで背中にコイルガンを撃ちこむ!
そう判断したレイは、まっすぐに進んでいた走行経路を、少しだけ横に曲げる。だがしかし。

次の瞬間、レイの脇腹を衝撃が襲った。
勢いに押され、その場につんのめって倒れる。
一体何が起きたのだ? ビーコンは、無常にもレイのライフがゼロになったことを告げている。呆然とするレイ。伍長は頬につけた銃身を離し、レイの姿を捉えるために閉じていた左目を開いた。

狙撃したのだ。およそ三十メートルほどの距離から、全力で走っている動く目標のレイを。面積の小さい脇腹を狙い、ダメージ判定が通る威力はあるものの腕が良くても精々十五メートルが射程のモデルガンで。それは、単純な、技術がもたらした結果。
 
まだ立ち上がれないレイに、伍長が走り寄って来る。最後の抵抗として何かされる前に、伍長は腰に差していた電磁警棒で無慈悲にレイの意識を刈り取った。



[39533] 4-3
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/18 13:11
 目を覚ましたレイの視界に最初に映ったのは、自分の髪を撫でる音芽の姿だった。
「気がついた?」
ソファーで、音芽の膝を枕にして横になっていたのだ。音芽に返事をし、立ち上がって服装や部屋の様子、そして身体の調子を確かめる。サバイバルゲームを終えたときと、同じ格好をしている。特に痛むところなどはない。
「うん。ぼくは、負けたんだね……」
 レイは手を何度か閉じたり開いたりした。それから、部屋を見回した。窓のない部屋だった。机と椅子、小さなテーブルとソファー、ベッド、本棚などがある。学生寮を思わせる簡素な作りだ。PCもあるが、どうやらネットは通っていないようだった。

「どうして、来たの?」
「響さんに、頼まれたんだ」
 レイが答えると、音芽は少しだけ表情を緩めた。そう、と呟いて手持ち無沙汰に視線をさまよわせている。その様子を見て、レイはしばらく考え込んだ後、ポケットを探った。そして入れっぱなしにされていたチョコ菓子を取り出す。
「転んだりしたから割れてるけど、食べる? ゆっくり話せなかったし、君のこと、いろいろ教えてほしいんだ」


 
音芽からはいろいろな話を聞くことができた。作曲をするようになり、響に曲を提供したこと。それが父親の耳に入り、仕事を手伝うようになって良く分からない音を作らされるようになったこと。昨年の夏過ぎから特にそれが増え、先週の対戦が知られ、半ば監禁状態に置かれるようになったこと。
「助けに来てくれて、嬉しかった。でも、あなたを巻き込みたくなかった」
 音芽は、いつものどこか超然とした態度を崩し、顔を伏せたまま人形のように言葉を失った。
「ううん、この前は、ぼくが助けてもらったから。響さんにも頼まれたし、それに、ぼくたちはもう、友達だから」
 努めて明るく振る舞うわけでもなく、それがごく自然なことであるというレイの態度に、音芽は頬をぴくりと震わせた。そして、再び口を開いた。
「最初に、助けられたのは、私だから」
 それって、どういうこと。そう言おうとしたレイの口を立てた人差し指で塞ぎ、音芽は微笑んで過去を振り返った。



母の死から一年。響はピアノを辞め、父はMRJの代表の仕事を得て家に寄りつかなくなっていた。音芽はと言えば、まだ上手く言葉を発することも出来ずにいた。そんなとき、彼女は一つのブログに出会った。それが、レイの始めたばかりのブログだった。
それは、自分に近い視線の人間が書いているように思えた。語り口はまだ拙いが、何かを伝えようとする気持ちが伝わってくる、そんな記事があふれていた。気が付くと、週に数回更新されるそれを楽しみにしている自分に気づく。そして、ある日、その記事が取り上げられた。
ボーカロイド、というものがある。合成音声により、歌を歌わせるソフトのことである。大手動画投稿サイトで爆発的な人気を獲得して以来、それによって造られた楽曲が一般にも流通し始め、売り上げランキングの上位に入ることも今となっては少なくない。
ゼロ年代後半から知名度が上がり、やがて市民権を得たが、市場に出回っているものの数千倍、いやそれ以上もの楽曲が評価されずに眠っている。レイは、しばしばそんな中で気になった曲をブログで紹介している。最近発掘したものだけでなく、自分が知らない昔の曲なども。
その日紹介したのは、二〇〇八年に発表され、あるメジャーアーティストによってカバーされたこともある曲だった。印象的でポップなメロディーに、ボーカロイドの無機質な声がぴったりなそれは、何故か音芽の心に深く染み入るように響いた。
数十回、数百回とそれをリピートし、調べる内に音芽は何故その曲が自分を惹きつけたのかを知った。それは、ポップ・レクイエムとでも言うべき、死者を弔う歌詞が当てられた曲だったのだ。

こんなにも、音楽は、自由。
それは、クラシックや流行りの楽曲しか知らなかった音芽の音楽観を打ち壊すほどの衝撃だった。気が付くと、音芽は数百日ぶりとなる自発的な外出をし、そのソフトを買い求めていた。 自分のパソコンにインストールし、見よう見まねで曲を作り始める。無我夢中で、何時間でもそれを続けられると思った。十時間以上が過ぎ、心配した響が部屋をノックする。空腹に気づき貪るように食事を摂る。テレビのついた食卓は、いつもより少しだけ音が多い。響は言った。声、出るようになったね、と。母の死から、少しだけ立ち直っている自分に気づいた。



「だから、私は、あなたに会いたくて、あの日、助けようと思った」
 レイは、目を閉じたまま、ただじっと音芽の言葉を聞いた。そしてそれが終わると、隣に座る彼女を優しく抱きしめる。
伝わるんだ。ぼくがやっていたことは、意味があることなんだ。
再び開かれたその瞳は、澄んだ冬の夜空に輝く一等星のよう。強い輝きを発し、宇宙という絶対の孤独にありながら、しかし人を引きつけてやまない、そんな光を宿している。自分は、直接戦うのが仕事じゃない。かつて氷子に言われた言葉を思い出す。
そこに迷いはなく、そこに焦りはなく、そこに絶望はなく。ただ一度、父に教えられた、自分にとっての金言を口にして、彼女を救い出すことを決めた。



約二時間後、それまで固く閉ざされていた部屋の扉が突如として開かれた。中に入ってきたのは、五十過ぎの髭を蓄えた男性だった。片手にコンビニの袋を携えている。どうやら、レイがそれまで音芽に聞いた通り、夕食のようだった。
「君が、亜鈴君だね? 私は、音芽と響の父、御代志彰(みよしあきら)だ。少し、話がしたい」
 気が付くと、扉は後から入ってきた男によって塞がれている。レイは、その男に見覚えがあった。先週、鳴をイカサマではめた雀荘にいた男たちの親玉だ。男のことを後回しにし、ソファーに座って彰の顔を見据え、その話に耳を傾ける。



 六年前、彰はテロにより妻とその怪我で自らのピアニストとしての可能性を失った。半年ほど静養したあと、演奏だけでなく編曲にも携わっていた彰は、MRJの代表となる。そのとき、彼の中にあったのは、未だ止むことのない激しい怒りであった。
音楽で、世界が変えられるだなんて思ったことはない。だが、わずかでも人の心を癒やしたり良い方向に向かわせることはできる。彼の積み上げてきたものや思いは、一瞬でなくなった。
そして彰は、音楽を使った復讐を決意した。
MRJの代表という肩書は、非常に都合の良いものだった。テロをするには、武器がいる。それには、金がいる。日本には大量の楽曲があったが、それを世界に売る技術はお粗末だということを彰はそれまでのピアニストとしての経験から知っていた。
彰は、自分の計画に役に立たない人間を理由をつけて入れ替えた。甘い汁をすすっていただけの人間は社団法人は法律が変わると旨味がないからと説得して他の職場に飛ばし、有能なプロデューサーを集め、企業と協力し、海外に日本の曲を売るために死に物狂いで働いた。
現地のテレビ番組のBGMには、ほとんど無料で曲の使用を許可した。一方で、新しい音楽が進出先で芽吹こうとした場合は、手を回してそれを徹底的に排除した。ライブハウスなどはMRJが抑え、レコーディングする場所そのものを使えなくすれば、そもそも音源自体が完成しない。
三年もそれが続くと、その国の音楽は日本のそれに強い影響を受けるようになる。すべての国で上手くいったわけではないが、こと音楽市場が未成熟な、経済的にもまだ途上の国においては思った通りの結果が得られた。
自分から音楽を奪った頭の悪い暴力は、その国に芽吹くはずだった音楽の自然な流れを歪ませる結果となったのだ。それは、金銭的には大した意味はないのかもしれない。だが、大量に流されるそれは、人の思考をほんのわずかでも確かに変えた。それは、文化的な侵略だった。
そこで、彰の復讐は終わらなかった。まだ、彼が満足するほど、暴力を音楽で屈服させるには足りなかったのだ。
そんなとき、彰はある研究を見つけた。それは、音の力で人の力をどれくらい引き出せるかというものだった。学問をする人、スポーツ選手、格闘家、そして、軍人。それらの能力を引き出すのに適した音の追求。彰はそれに、没頭した。
研究は、ある程度の成果は出たものの、彰が満足する程ではなかった。そんなとき、彰は響がバンド活動を始めたことを知る。偶然聞いたその中の一曲が、それまで散々聞いたある特定の音の並びを持っていることに気づいたのだ。
そして、それを作ったのが音芽だということを知り、彰は彼女に自分の研究を手伝わせた。MRJの地下で行われていた実験は、その集大成だった。それは、既に洗脳の域に達しており、特定の手順を踏むことで人の思考を通常より強く操作できる力を持つまでとなった。



「今回、こんなことになったのは非常に残念だ。地下が見つからなければ私も、ことを荒らげるつもりなどなかった。あと少しで研究がまとまるところだったのだからね。凡俗は金のことしか考えないが、そんなものは惜しくないのだよ」
 目の前のどこか疲れた男は、そう言って言葉を切った。レイは特に反応することもなく、ぼんやりとその姿を見つめている。扉を塞いでいた男がそんな二人の様子を見て口を挟んだ。
「相変わらず、父娘揃って言葉が足りてねえな……。坊主、今回お前を呼んだのは当然意味がある。俺達は、近いうちにこの国を出る。嬢ちゃんも一緒にな。それで、お前にはこの国から電子的に追手がかかるのを防いでほしいってわけだ」
 古傷のある鼻の頭を一度なぞり、男はレイの顔を見た。
「音芽は、それでいいって言ったんですか」
「やっぱり、すんなりとはいかねえな。まあ、大体気づいてると思うが坊主が見つけた金庫の音声認識を突破したのは、その嬢ちゃんだぜ。実験のために色々いじってるからな。あんなのは朝飯前だったぜ」

 男の言葉を聞いて、音芽は少しだけ動揺した様子を見せた。
「私、聞いてない」
「聞いてなくたって、そうなんだよ。MRJの中に死蔵されてるのに比べたら、よっぽど意味がある。あの曲は五千万くらいの価値はあるんだろ? 俺としてはビジネスのつもりなんだよ。普通の法律と比べたら分かんねえけどな」
 MDの社長、寺尾と深い因縁を持つプロデューサーから、金庫の情報を得た男は、金を得るため、そして音芽を巻き込むために例の事件を起こしたのだ。音芽は父の行動には、納得はできないが理解はしていた。しかし、それだけでは万が一のとき外国にまで一緒に行こうとはしないだろうと考えた男の保険が、今このとき力を発揮していた。
 震える音芽の手を握り、優しく微笑んだ後で、レイは彰と男に向き直った。
「それで、返答は?」

 音芽から手を離し、レイは人差し指で右目の下を引っ張り、口を開けてべー、と言いながら舌を突き出した。そして、男が怪訝な表情をした瞬間、それまでの問答の最中、ソファーとの間に敷いていた左手を抜き出し、握っていた灰色の何かを彰にめがけて放り投げた。
 なんだ、これは。思わず受け取った彰が、そう言おうとしたのを男が遮る。

「危ねえッ!」
 動き出しが見えないほどの速度で男は飛んだ。彰の手から薄いメモ帳くらいの大きさのそれを奪い取り、部屋の隅に投げつける。すると、それは壁に当たる直前、風船が破裂するような音を立てて四散した。
一瞬、その様子に気を取られた彰に、レイが飛びかかる。しかし、それは男によって防がれた。
「やっぱり、お前、とんでもねえな。念の為に着いてきてよかったぜ。他のやつだったら今ので代表を人質にでも取って脱出するつもりだったんだろうが……」
 男と彰には、わずかに破片がぶつかり、顔に小さな切り傷が出来ていた。音に反応して、伍長がたまらず部屋に飛び込んで来る。
「いったい、どうしたのでござるか!」
「気にするほどのことじゃねえ。こいつがちょっとやんちゃしただけだ」
 レイは、何とか男の拘束から抜けだそうとするが、まるで大岩にでも押しつぶされているかのようにびくともしなかった。
「これで、分かったろ。おとなしく、言うことを聞け。悪いようにはしねえ。半年ほどで、嬢ちゃんと、ござると一緒に日本に帰してやるからよ」

 嫌だっ! 伍長が何かを抗議しようとする前に、叫び声が部屋に響いた。
「お前、今の状況を、分かってるのか? もう、切り札なんてないんだ。お前は、負けたんだよ」
 男は、言いながらレイを押さえつける手に込める力を少しずつ強くしていく。だが、レイは表情を変えようとはしなかった。

「おとーさんは、教えてくれた。迷ったら、面白そうだと思った方へ行けって。そっちは、全然面白そうじゃない。だから、絶対に嫌だ!」
 聞き分けの悪い坊主だ。そう呟いて男はレイの髪を掴み、そして容赦なく平手で打ち付けた。口元からわずかに血が滲んだ。それを止める声は、意外な方からもたらされた。
「亜鈴どの。もしや、お主の父上は、宮本繁というのでござるか?」
 大きく目を見開いた、伍長だった。レイは、小さく、だが確かに頷いた。
「知ってるのか、ござる?」
 伍長は、高校時代にさんざん遊びつくした何本かのゲームと、それを作った人を調べたときのことを思い返した。
「ゲーム業界では超、有名人でござるよ。大学時代に同人サークル『サムライ遊戯』を運営、四本のゲームを出し、卒業後はベンチャー企業でエンジニアとして働いた後ゲーム業界へ転職。そして、わずか六年でゲーム業界最高のプログラマと言われた御仁でござる」

 男は、伍長の言葉を受けてレイの調査報告書を思い返した。
「だが、こいつの家は母子家庭じゃなかったか?」
「繁どのは二〇一八年の年末、北米のカンファレンスで講演を行った帰りに、行方不明になっているのでござる。雲のように消えて以来、行方も掴めず遺体も見つかっていないはず」
 おとーさんは、生きてる。そう、レイは男に押さえつけられながらも答えた。
「そんなにな、坊主が思うように都合よく世の中はできてねえんだよ」
 男は、レイに吐き捨てるようにそう言うと、頭を床に押し付けるべく力を込める。しかし、レイはそれに抗って言葉を続けた。
「き、たんだ。メール、が。おとーさんが、つくってた、ゲームの、おとーさんしか、書けないコードの続きが、ついてたんだ……!」
 男は、レイを抑えていた手を一度離し、そしてその胸ぐらを掴んで宙吊りに持ち上げた。
「だから、何だってんだ! それで、今お前が助かるわけじゃねえんだぞ。認めろ。お前は、負けたんだ」

 レイは、まったく怯むことなく、男の目を見据えて、その部屋にいる全員に聞こえるように言った。
「まだ、音芽の歌を、聞いてない。ここにいる、誰も。それを聞いたら、きっと」
 突然の指名に、それまでの出来事で頭が真っ白になっていた音芽が、ようやく気を取り戻した。部屋にいる四人の視線が、彼女に突き刺さっていた。



[39533] 4-4
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/19 13:08
「……無理。私には、出来ない」
 音芽は、苦しんでいた。レイを助けたいという強い思いとは裏腹に、彼女には踏み切れない二つの理由があったのだ。一つ目は、作曲や楽器を弾くことこそ出来るものの、未だ歌声を取り戻せていないという能力的なもの。しかし、レイはそれに異を唱える。
「大丈夫。君は、もう歌えるようになってるんだ。自分では気づいてないかもしれない。でも、この前の対戦の時、君は小さくだけど確かに踊りながら歌を口ずさんでた」
 ロイとの最終戦、レイが始めた観客の手拍子に従って、会場は音に包まれていた。そんな中、一番近くにいたレイだけが音芽のその歌声を確かに聞き取っていた。レイがランカーだと知った音芽は、自分もリズムゲームをする内にいつしか自然と歌声を取り戻していたのだ。

「それでも、やっぱり、私には、できない……。音楽じゃ、世界は変えられない」
 もう一つの、拭いがたい理由。それは精神的なトラウマだった。父と母のピアノが好きだった音芽は、世界に評価されたそれですら悪意の前では無力だということを知っている。それが、彼女のどこか投げやりな思考を作り上げていた。
「いいんだ、世界なんて、変えなくたって」
 レイは、先日の響の言葉と、『残響』のライブを思い出しながら音芽に語りかけた。
「ゲームも、音楽も。本質的には比べるものじゃない。それが良いと思ったら、それがその人にとって正しいだけなんだ。『残響』のライブを見て、ぼくは君が作った曲がすごく良いと思った。それに、初めてあったとき、なんて素敵な声なんだろうって思った。だから、ぼくはただ君の歌を聞きたいだけなんだ」

 レイが話し終えると、その胸ぐらを掴んでいた男が何かを言おうとした。しかし、伍長がそれを止めた。好きなだけやらせて、納得した方がこの後がやりやすくなると進言したのだ。
 音芽の記憶は自然と呼び起こされていた。彰に呼ばれてこの部屋に閉じ込められる前、最後に見に行った姉のライブと、そして、その後動画で見たイベントでのライブを。なぜ、自分があの場所にいないのだろうと、初めて思った。彼女は、その感情を、自分が歌に飢えているということを、いまここに至り自覚したのだ。
「歌う。私は。歌いたい。いま、ここで」



 レイも、彰も、男も、伍長も。その場にいる誰もが反応する前に、音芽は息を吸い、確かめるようにその独特な声を部屋の中に響かせた。他の音を奪いさるそれは、震えることなく、圧倒的な声量。鳴り止まぬそれに、誰もがあっけにとられた。
 およそ、三十秒にも達しようかという、長い長いロングトーン。一度確かめるように頷く音芽。そして、床を何度か踏みならしリズムを刻み、息を吸うと今度こそ彼女の歌が始まった。

 イントロで鳴るはずのパイプオルガンの音はなく、ゆっくりとしたリズムの音芽の声だけがその曲を曲としてならしめる。
 古い曲だった。知名度も高くない曲で、その場にいた中で知るものは一人もいなかった。しかし、その曲は多くのアーティストによって何度もカバーされたことのある曲で、楽曲の持つ力という点ではずば抜けていた。
 曲と曲の合間には、即興のジャズを思わせるスキャットが音を引き継いだ。それは、本来失恋について歌った曲だったが、音芽は死別の曲として歌い上げる。解釈が決定的に異なっている。だが誰もそれに違和感を感じることがないほどの、それが本来の曲であると思わせるほどの、有無を言わさぬ圧倒的な表現力だった。

 音芽は、いままさに音楽が自由であることを、自分に出来る全てを持って体現していた。
三分半ほどの曲が終わり、どこまでも伸びるような声が消え去ると、レイを締め上げていた男は自分の手から力が消えていたことに気づく。しかし、これで終わりだと声を上げようとしたのを、レイが遮った。
「まだ、音芽の歌は終わってません」

 男が抗議する前に、音芽は次の歌を歌い始めた。どこかで聞いたことのあるメロディが普段の音芽からは考えられない声量で響く。有名な女性シンガーライターが作ったゲームの主題歌になった曲の英語版だ。
 先ほどの曲と同じようにゆっくりとしたテンポ。だが途中、音芽はそれをガラリと変えて声だけでテクノ風に仕立て上げながら歌う。やがて、部屋から漏れる歌声と、帰って来ない伍長達を追って仲間達が部屋に入ってくる。
 しかし、その触れることすらはばかられる理解しがたい迫力が、音芽の歌を止めさせはしなかった。

 曲が終わり、息つく間もなく音芽はさらに歌い続ける。マイナーな曲、メジャーな曲、ゆったりとしたバラード、レゲエ、ポップス。音芽の声域はあり得ないほどに広く、そしてその声にはやはり人の心を打つ何かがあった。
 選曲にはおよそタブーはないと言って良い。歌うことが楽しくて仕方ないという、初めて飛べるようになった小鳥のように音芽は歌い続けた。
 歌いはじめから十曲、およそ三十分強が過ぎ、音芽は最後にレイのブログで知った、自分が立ち直るきっかけとなったボーカロイドの曲を歌う。気がつくと、彰を含めた何人かの瞳からは涙が流れ落ちていた。歌い終えると、音芽はどこか満足げにその場にいる者達に深く一礼した。



「……これで、満足しただろう」
 すっかりレイを掴んでいた手を離して自由にさせていた男は、頭をかきながらつぶやいた。
「確かに、凄かった。音楽なんて良く知らねえ俺にだってそれくらいは分かる。きっと、嬢ちゃんはすげえ歌手になるだろう。だけどな、それでお前達を解放するほどの理由にはならねえ。それとこれとは別なんだ。……別なんだよ」
 どこかばつが悪そうに、しかし険しい表情を保ったまま、男はレイに告げた。しかし、レイから帰って来た返事は、意外なものだった。

 いえ、ぼくたちの、勝ちです。

 男がその言葉の真意を確かめる前に、部屋が、いや、建物全体が凄まじい轟音と衝撃に襲われた。
 バランスを崩し、男以外の全ての人間が床に倒れこむ。なんとか姿勢を維持した男はいち早く立ち直り、異常に対処すべく仲間に入り口を確かめるよう告げた。しかし、一人が慌てて部屋から出ようとしたところで、つむじ風のように一つの影がそれを吹き飛ばし、姿を現した。

「助けに来たぞ、亜鈴!」
 グローブを身につけ、完全に戦う体制を整えた、氷子であった。



[39533] 4-5
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/20 12:28
 レイの口元に乾いた血がこびりついているのを見て、氷子は激怒した。後ろから押さえ込もうと忍び寄る男の仲間を一瞥もくれず、裏拳で壁に叩き付ける。そして、男に飛びかかろうとするが、しかし、その動きは止めざるをえなかった。男が、左腕でレイを抑えたのだ。
「そんなことをしても無駄だぞ。逃げ場はない」
 部屋の入り口に立つのは、市原だった。ヘリのときと同じく、『S2C』の社員六名ほどが装備を整え、建物を取り囲むべくトラックから降りようとしていた。

 畜生、さっきまでのは時間稼ぎだったのか! だが、いったいどうやって連絡を取ったんだ? いや、爆発物の例もある。何を隠し持っていても不思議はない、か。男は、内心で湧き出る焦りを辛うじて表情には出さずに氷子を睨みつける。



 レイの切り札、それは、レイが買ったお気に入りのチョコ菓子と同じ袋に入れられていた。検索士の誘拐を恐れる国から持たされた名刺大のそれを、レイは常にポケットに忍び込ませている。身体検査を行った伍長はサバイバルゲーム前にレイがそれを食べるの見ていたため、中身の一つが別だとは思いもせず、見逃していたのだ。
 音芽との会話を続けながら、レイは氷子と市原に助けを求めるのにその小型デバイスを使用した。さらにソフトウェアの制御装置の甘さを利用して、カーネルを書き換え、バッテリーを異常に発熱させ、小型の爆弾としたのだ。
 その無謀な行為は、彰を人質に取るためのものではなかった。十五年ほど前の携帯型ゲーム機で起きたバッテリー加熱事故を元にレイが考えたそれは、氷子たちに連絡を取った証拠の隠滅と、音芽の歌による時間稼ぎに繋げるための布石だったのだ。



 緊張、膠着する場を打ち破るのは、男に抑えられているレイの声だった。
「交渉、しましょう」
「なんだと?」
「あなた一人なら、この場から抜け出すことも出来るでしょう。でも、それじゃ互いに消耗するだけでいいことは何もないはずです」
 そんな必要はないッ! そう叫ぶ氷子を、レイはひどく穏やかな声でたしなめた。

「十八日、あなた達が新発田さんに金庫を開けるように告げた日は明日です。おそらく、万が一に備えて海外にでも逃げる準備をしていたのでしょう。だとすれば、昨日の無茶な逃亡劇も納得がいきます」
 男の思惑は、完全に読まれていた。横にいる彰に関しては、既に諦めている状態だ。舌打ちをして、レイの話を聞く体勢に入る。
「……条件を言え」
「音芽から聞きました。ここは元々サバイバルゲームの会場だったそうですが、伍長さんの交渉で買い取った後は大学が合宿所として使っているそうですね。あなたや仲間の一部は、元々格闘技をやっていたのは知っています。訓練する場所くらいはあるんでしょう? そこで、氷子さんと一対一で戦ってもらいます」
 確かにここには宿泊用施設の他、体育館もある。レイはそれをサバイバルゲームの最中に確認しており、建物が複数あったことが中に踏み込まなかった理由でもあった。
「その女が、俺に勝てると思ってるのか? 昨日の映像は見てるが、随分舐められたもんだな。いいぜ、だが、こちらからもひとつ条件がある」
 金庫から頂いた五千万のうち、いくらかは昨日のヘリ代に使っちまった。その分の五百万と、俺が買ったらもう五百万、用意しろ。男のその要求に、レイはイエスと答えた。



 氷子と市原、そして男の仲間達がレイの指示で部屋から外に出る。そして、レイは氷子から渡された予備の携帯で何でも屋にある依頼をし、その後リーナに連絡を取った。
『いつも無茶ばっかり! 心配したんでスよ!』
 電話口で騒ぎ立てるリーナに、建物の構造を調べてトラックを突っ込ませる提案をした彼女も相当だとレイは内心苦笑する。
「それより、リーナに頼みたいことがあるんだ。今から一時間以内にこれから言うことを準備してほしい」
 リーナにやってもらうことを告げたレイは、携帯で幾つか調べた後でさらに数カ所と、先日ロイと対戦したゲームセンター『WAVE』に電話をかけ店長と話し、さらに響に連絡を取った。その後伍長と氷子から、リングの準備が整ったテレビ電話を受けたレイは、時間の許す限り携帯で情報を発信する。一時間が少し過ぎた所で、外に一台のヘリが降り立った。依頼を受けた何でも屋だった。

「無理を聞いていただきましたね。ありがとうございます。体育館の方に頼んだものはお願いします」
『いえいえ、お得意様ですし。それに、うちの社員も先日世話になりましたんで。これからも贔屓にして下さいな』
 目の前の少年が、いったい何をしているのか、少しずつ男も理解し始めていた。この状況でも、やはり思考が普通の人間のそれとはかけ離れているのを認めざるを得ない。レイの合図で、部屋に残っていた全員が体育館に移動する。
 そこには、四方をロープで囲まれたリングと、何でも屋が持って来た撮影機材が整えられていた。即席の、格闘技の試合会場だった。



「湯波さんがむかし所属していた事務所が今回の試合のプロモーターです。ファイトマネーはスポンサーのぼくが二千万、今もネットなどから集めている残りの金額と合わせた一億円の十パーセントを、法律に従って勝者と運営に分配します。分配金一千万のうち、五百万を運営に例のヘリ代その他として、残りの五百万を氷子さんと湯波さん、勝った方に与えます」
 そんな所まで、引っ張り出してきやがったのか。男は思わず悪態をついた。男の名は湯波武(ゆばたけし)。かつて日本チャンプに輝き、世界戦に挑んだこともあるプロボクサーだった。
 会場の準備が整えられ、氷子は何でも屋に届けさせたオープンフィンガーグローブと、黒を基調に青いラインが入った上下セットのウェアに着替えてストレッチを行っていた。時刻はまもなく、夜の九時になろうとしている。しかし、レイの携帯に表示される掛け金の総額は、目標の一億の三分の一程度だった。

「そっちのやり方でファイトマネーが準備出来ないなら、こんなお祭り騒ぎはなかったことにしてもらうからな」
 苦い表情の男に、横にいた音芽が反応した。
「私も、賭ける。あの人に、五百万」
 彰から受け取った携帯で、音芽は自動生成の特設サイトから氷子にベットする。目の前で大金がぽんぽんやり取りされるのを見て、湯波は痛くなる頭を抑えた。これだから、今のガキは恵まれているって言うんだ。
 だが、金額はようやく四千万といったところ。湯波は、さすがに一億なんて金額は集まらないだろうと鼻を鳴らし、腕を組んで着替えようとはしない。



 一方その頃、渋谷『WAVE』では週末のランカー対戦イベントで五人抜きを果たしたロイが、飲み物を片手に一息ついていた。先週のレイとの対戦の影響で、ロイとの対戦を希望する相手や、イベントの観戦者は普段よりもかなり多く、会場は超満員だった。
「店長、忙しそうだな」
 イベントの合間には、ネットで一気に人気となった『残響』がライブを行っている。それ以外にも店長は慌ただしく何かの準備をしていた。
「嬉しい悲鳴、と言いたい所だね。この前、君と戦ったArray君に頼まれて追加のイベントがあるんだよ」
 店長の言葉に、ロイは携帯からサイトを確認する。すると、そこには確かにイベントの主催者にレイの名前があった。そして、画面をしばらく見たロイは、おもむろに声を上げた。
「よう、おっさんたち。勝てると思ってたオレにボコボコにされた今の気分はどんな感じだ? いつまでもしけたツラしてないで、もっと楽しめよ。この後のイベント、オレは五百万賭けるぜ」
 そう言いながらロイは携帯を操作し、入金画面のキャプチャをコメントと一緒にSNSに貼りつける。この前は、最後まで戦ってないからまだお前との決着は着いてねえからな、そうロイは誰に聞かせるわけでもなくひとりごちた。そして店長がもうすぐ終わる対戦イベントの後の告知を行うと、氷子と湯波の試合は、一気に注目を集め始める。



 リーナが作っていた湯波と氷子のMADムービーがネットにアップされると、爆発的に賭けられる金額は上がっていく。ランカーなどが大量に持つ、円に換金する前のポイントと、スポンサーが出す以外は一度に大金を大金を賭けることは法律で禁止されている。
 しかし、ゲームセンターにいた数百人、ロイのSNS経由やランカーイベントを動画で見ていた数千人、リーナと湯波の元事務所の宣伝でイベントを知った格闘ファンが数百円から一万円程度を賭けた結果、金額は八千万を突破。そして、それから間もなくのベット画面の更新で、一気に一億を突破した。
 氷子が湯波の前に立ち、リングを首を振って指し示した。画面を確認した湯波は、諦めたように頷く。
「合意と見て、よろしいですねっ」
 レイの言葉を背に、湯波は体育館入り口の更衣室に準備を整えに行った。



「時間無制限一本勝負、ルールは総合格闘のUFC、ヘッドギアをしない以外は修斗に準拠して行う。用意はいいな」
 スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツ姿となった市原がマイクを手に、リングの中央に立ちコーナーにいる氷子と湯波に確認する。カメラがリングを映し出し、二人がそれに頷く。画面の向こうでは、店長が二人の名をシャウトする。そして、リング脇のレイによって鳴らされたゴングの音が体育館に響き試合の開始を告げた。



[39533] 4-6
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/21 12:21
 氷子が一礼し、湯波がそれにならう。コーナーから出た二人はリングの中央で一度拳を合わせ、そして軽くバックステップする。シューズなしでのリングの感覚を掴むように湯波が床を踏みしめようとすると、二メートルは離れていた氷子の顔がすぐ目の前に飛び込んできていた。

そんな大振りは、俺には当たらねえッ!

湯波の目は、氷子の素人には見えない速度の左ショートフックを完全に捉えていた。スウェーで頭を瞬間的に後ろに引き、最小限の動作で攻撃を回避する。そしてお見舞いとばかりにカウンターのジャブを氷子の顔に放った。
だがしかし、その拳が繰り出された瞬間には、氷子の身体は左足を軸にくるりと回っていた。攻撃が空を切り、面食らった湯波は一度距離を取った。息を整えながら猫背気味に氷子の動きを観察する。すると、どうにもおかしなことに気づく。

この女、これがMMA(総合格闘)ルールだって分かってんのか? キックもタックルもしてくる気配がねえ。……こっちの土俵でも俺に勝てるとたかをくくっていやがるのか、それとも油断を誘ってやがるのか?

 迷いは隙を生む。しかし湯波はそれに影響されるほど甘い男ではなかった。一度戦いのスイッチが入ってしまえば、相手が女だろうと子供だろうと殴れるのが、今の湯波だった。東南アジアの裏通りでマフィアとやりあった経験がそれを彼に叩き込んでいたのだ。
湯波はパンチ以外の攻撃に対処できるように、距離を取りアウトボクシングに徹する。その場にとどまることはなく、足を動かし、コツコツとジャブを積み重ね氷子との間合いを測る。氷子の手足はスラリと長く、この距離にも対応できるはずだ。しかし彼女は距離を詰めてからの大振りの攻撃に拘っているために、湯波はそれを容易く回避することができた。



「先輩、完全に頭に来てますねー」
 真里はパソコンのディスプレイに映された氷子の試合を見ながら呟いた。渋谷警察署の一室には彼女の他、米村と青山もおり、その戦いの様子をじっと見守っている。
「レイ君は無事みたいだけどネ。彼女の逆鱗に触れるなんて、相手の方が可哀想だヨ」
 米村は氷子の訓練風景を思い出し、顔を左右に小さく振る。練習試合でオリンピック金メダルを取った男性の柔道家に勝ったのは記憶に新しかった。
「いや、この男はそんなに甘くないですよ。女性を殴るのに戸惑っている様子がない。確かにこれはルールのある試合ですけど、心構えは完全に実戦のそれです」
 青山が言うと、次の瞬間試合は大きく動いた。



百七十センチを越える女性にしては大柄な、湯波とさほど変わらない身体。しかし、筋肉の量はやはり男女差がある。にも関わらず氷子のパンチは小さな一発すら湯波が戦ってきた並のプロボクサーをはるかに越える威力を持っていた。
拳への体重の乗せ方、脚のバネ、理想的なフォーム。血の滲むような努力か、天性のものか。それが氷子の力の原動力だった。しかし、通常なら速すぎて見えない攻撃も、綺麗過ぎるという欠点がある。湯波はそれを手に取るように見て取れたのだ。
タイミングを掴み、湯波は左右のコンビネーションを繰り出す。氷子の右腕を払いのけ、一発目がとっさに引かれた左腕に当たる。後ろにのけぞりながら引いた右腕と左腕が十字のブロッキングスタイルを作り、二発目がそれに阻まれる。そして、ねじり込むように打たれた三発目がその防御を打ち崩し、四発目の左ストレートが氷子の顔面を捉えた!

だが、その手応えは湯波が予想していたものとは少しだけ異なっていた。
氷子はあえて踏み込み、顔を無防備に晒しながらほんのわずかに前進した。結果、湯波のパンチは体重が乗り切る前に口元に当たる。下がることなく唇から血を滴らせながら、氷子は獰猛に笑った。唾液に濡れたマウスピースがぬらりと輝き、左のストレートが放たれる!



画面の前の人間には、完全にその左は湯波の右頬を捉えたように見えた。だが、氷子の手応えは違っていた。骨の砕ける感覚がしない。それは、本来必殺の一撃であったはずだった。しかし湯波は、攻撃が当たる瞬間とっさに首を回し、氷子の攻撃をいなして威力を減じたのだ。

やべえな、今のでここまでダメージがあるのかよ。こいつ、本当に女なのか? クソッ、ふざけんじゃねえ。リングの上で負けられるかよ!

 感情に反して、湯波のファイターとしての感覚はむしろ冷静に場を把握していた。ダメージを受けたことから、バックステップで氷子と距離を取り回復に努めようとしたのだ。何故か、目の前の相手は追撃のチャンスを活かそうとはしてこない。
氷子は、確かめるように今しがた湯波の顔面を捉えた左手を何度か握り直した。そして、あろうことか湯波から目を離し、リング脇のレイの姿を一瞥する。そして、動じることなく試合を見るレイを確認すると、次の瞬間一気に床を蹴って湯波との距離を縮めた。



ビリビリと、湯波の左腕に重い痛みが走った。先ほどまでのパンチとは異なる、全く別の痛みだ。間合いが、遠い。氷子の伸びきったミドルキックを、湯波は辛うじて反射的に防いだのだ。勝負は、単純なボクシング一辺倒のものから、総合格闘へと変化しようとしていた。

さっきまでのは坊主のカタキを取るためってことか、舐めてくれるぜ。何でもありなら余裕だと思ってるのかもしれないが、残念だったな。今の俺はもうボクサーじゃねえ!

脇を上げ、両手のガードは先程までよりも高くなっている。後ろ足に重心を乗せることで、顔の位置もそれに伴ってやや下がりわずかにそれまでより氷子と距離を取った。タイの国技、ムエタイの構えであった。
ジリジリと間合いを計った後、湯波は飛んできた氷子のミドルキックを同じくミドルキックで迎撃し、さらに続けて反撃のローキックを放つ。膝裏にそれは命中し、少しだけ氷子は体勢を崩した。警戒した氷子は蹴りを放つのを止め、タイミングを見計らって湯波にタックルを仕掛けて寝転ばせようとするものの、しかしそれは湯波によって見事に切られてしまう。



ボス、本気なのでござるな。あの御仁が強いのは分かっておりましたが、それほどなのですか……! 拙者、ボスが負けるとは微塵も疑っておりませぬ。しかし、ボスがこの勝負、勝つべきなのかどうかは、分からないのでござる。

伍長は、湯波と出会ったタイでのことを思い出していた。無謀な正義感を振り回し、マフィアに殺されかけた自分を助けてくれた恩人。それが湯波だった。悪さもいろいろしたが、湯波のそれはただの悪事ではなく、自らの中に一定の確かな基準を持っていた。
だからこそ、自分のサバイバルゲーム仲間以外の、数十人にも及ぶ元プロの格闘家たちも彼に従っているのだ。ただ、強いこと。それが、彼らにとってのかつての絶対の価値観だった。
湯波は、表舞台から姿を消してなお、その力を磨くことを辞めはしなかった。公式試合という形でリングに立つことはなかったが、賭けが公然と行われるムエタイの野良試合では、最初こそボクシングとの違いに悩んだものの、試合を重ねる内に力をつけ正式なチャンピオンにも勝ったことがある。
 さらに、他のジャンルの格闘家が集まってからはそれぞれに対抗するために総合格闘ルールで力を磨いた。タックルを切る技術を身につけたのもその一環だ。湯波はカリスマだけでなく、まさに文字通り、力によっても仲間を従えていたのだ。



パンチを当てるため、湯波は氷子の足を止めようと慎重にキックを当て続ける。隙のできやすいハイキックは控え、ローとミドルを左右両方の足を使って読まれないように繰り出す。リーチの長さと攻撃速度から、氷子はそれを簡単に避けることはできなくなっていた。
ときおり、あまり見たことのない身体の動かし方で回避されることもあったが、試合の流れは湯波に傾きつつあった。だが、湯波がそれに油断することはない。

予測できない足の動きをしてくることがあるな、この女。主要な格闘技とはだいたい戦ったが、こんなの見たことねえぞ。だが、攻撃にはおかしなところは今のところねえ。何かを待っていやがるのか?

氷子の足の動かし方、それは青山から学んだ古武術の一種だ。一方、総合格闘そのものはアマチュア最高峰の真里から学んでいる。普段はそこにずば抜けたの身体性能が加わり、ほとんど敵なしだったが、氷子は今、類を見ない苦戦を強いられていた。



「先輩がこんなに苦戦するなんて……」
 真里は、画面の中の様子が信じられなかった。例え男であっても、氷子が苦戦する所をみたことがなかったのだ。
「真里ちゃん、氷子の強さってなんだと思う?」
 横から口を挟んだのは青山だった。二人は画面から目を話さずに会話を続ける。
「そうですね、あの身体能力は男性と比べても凄いですけど、やっぱり、学習能力の高さでしょうか」
 最初こそ身体能力に物を言わせた戦いをしていたが、専門だった修斗で必須のタックルに対する技術やその他複数の技を組み合わせて試合を組み立てることをあっという間に身につけたかつての氷子を思い出した。
「それも、もちろんある。でもやっぱりあいつの一番すごいところは、勝とうという意志と、そこから来る、どうやって勝つかっていうのを絶え間なく考える力だと自分は思う」
 青山は、大学時代の氷子を思い出した。中学から剣道一本だった氷子に少し教えた古武術であっという間に勝てなくなったこと。彼女が一度だけ自信を粉々にされるほどの敗北を喫したこと。そして、いなくなった父を探そうと大学の研究室で学ぶレイを見て、立ち直ったこと。
相手も、間違いなく強い。だけど、レイ君が見てる前で氷子が負けるところは想像できない。
それが、氷子と最も戦い、最も負けた男、青山の偽らざる感想だった。



 そろそろ、潮時だな。氷子の足は試合が始まった当初に比べればもはや止まっていると言っても過言ではなかった。その上、右脚から蹴りを繰り出すことは極端に少なく、どこか痛めているようだ。湯波は、それを見逃さず、容赦なく重点的に狙い続けた。
世界戦で負けて、再起のためのトレーニング地に選んだタイで自己防衛とは言えマフィアを撲殺したのが六年前。それ以来、表舞台から湯波は姿を消した。それからは用心棒のような仕事を受けたり色々とした。そして、伍長を助け彰と会って仕事を手伝うようになった。

俺を倒したチャンピオンが、ドーピングで王座を剥奪されたって聞いた時はガックリ来たぜ。日本チャンプって言ったって、ファイトマネーは大したことなくて、バイトしないと食っていけなかったな、あの頃は。
あと何年か生まれるのが遅ければ、ボクシング一本でも食っていけてた、か。ギャンブル様々だ。いい時代になったもんだぜ。だが、これでいいんだ。今の俺は、今まで以外の流れじゃありえねえ。
目の前の女は、お世辞抜きにあのとき負けたチャンピオンよりも強い。だが、俺はそれに勝つ。そして、強くなったことを自分自身に証明する。それだけが、試合に極限まで集中した湯波の意識の中で、勝負とは別に考えられていたことだった。



やがて、氷子は痺れを切らしたのか大振りの左ストレートを湯波に目掛けて放った。

来たぜ、今しかねえ!

湯波はそれを完全に見切り、右腕で氷子の腕を払いながら顔面目掛けてカウンターを放つ。
お手本の様な綺麗なカウンター。しかし、氷子はそれこそを待っていた。
それまで止まっていた足が嘘のように動き、右手が湯波の迫り来る腕を掴む。そして、強く床を踏みしめると、氷子は湯波を背負うように投げ飛ばした!
瞬間、湯波に流れる時間はそれまでと異なり、とてもゆっくりと流れ始める。

まだだ、まだ負けねえ!

ギリギリと奥歯を噛み締めた湯波は、常人離れした反応で身をよじる。そして身体が床にたたきつけられる前に何とか受け身を取った。体勢を立て直そうとした湯波だが、しかし、時間の流れは元の早さには戻ろうとはしなかった。
影を作るのは、氷子の身体。容赦無い前蹴りが湯波の身体をロープ際に吹き飛ばす。さらに立ち上がる前に左のアッパーが腹筋を突き上げ、ロープに押し込んだ。そして、膝から力が抜け、崩れ落ちるように下がった顔に、氷子の右拳が突き刺さる!

めきり、ごり。

もはや首を振ることもできず、鼻骨の砕ける音を聞きながら、湯波はもう一度ロープに叩きつけられ、その場に倒れ伏した。



目を覚ました湯波を見て、伍長は鼻に突っ込んでいた血まみれの綿棒を抜き取った。
「俺は、負けたのか」
 傍らには、伍長や仲間の他、グローブを外して上着を来た氷子と、レイの姿があった。レイは湯波の言葉に、はい、とだけ短く答えた。
「坊主、お前には、その女が勝つのが分かってたのか?」
 湯波を囲む仲間の一人には、雀荘で氷子に降参した無表情な男も混ざっていた。
「ひょーこさんは、湯波さんを倒したチャンピオンを、倒してるんです」
 それは今から半年以上前のこと。レイが検索士になって初めて直面した事件。ドーピングが明るみになり、ボクシング界から追放された男が日本で起こした事件を解決したときのことだ。
「あの時は、ナイフを使われたからな。こっちも武器を使っている。純粋な格闘なら今回の方がよほど強かったさ」
 言いながら、氷子はレイの頭を撫で回した。湯波は、その言葉を聞いて目をつむった。
「約束だ。逃げねえから、逮捕するなりなんなり、好きにしろ」

 周りにいた男たちは何も言わなかった。その代わりに言葉を発したのは、上着を来た市原だった。
「それは困るな」
 市原は手にしていた携帯を氷子に渡し、通話が終わるとレイが何事かを彼女に耳打ちする。
「うちの会社が、今回最後に手を上げたスポンサーなんだ。社長が、人材不足だからお前たち全員、リクルートしてこいと言ってな。国内では昨日の事以外大したことはしていないだろう。研究成果の引き渡し、その他司法取引で何とかなるように話はつけてあるそうだ」
 試合前、一気に賭けてある金額が増えたのは、『S2C』がスポンサーに手を上げたからだった。結果としては賭けられた金額は一億二千万を超えていたが、それで勢いがついたのは否定出来ない。
 氷子にいじられながら、どこかくすぐったそうに笑うレイを見て、湯波はため息をついた。

「負けたよ、坊主。お前の勝ちだ」
 そうつぶやき、伍長の手にあった濡れたタオルで顔を覆った。



[39533] エンディング
Name: 木島俊◆ab90de53 ID:3634fadc
Date: 2014/03/22 12:16
 二〇二四年五月三十一日

「お久しぶりです、彰さん」
 用意された部屋は生活に必要な物がおおよそ用意されていた。司法取引に応じた彰は、処遇が決まるまでの間、外に出ることを許されていないのだった。彰は前置きなく訪れたレイと、机を挟んで向かい合う。
「……必要なことはだいたい話したと思うが、何かまだ私に用があるのかね?」
 彰がそう問うと、レイはリュックの中から一枚の紙とペンを取り出した。
「実はですね、音芽をぼくの会社で雇いたいんです。それで、彰さんの許可が欲しくて来たんです」
 彰は紙が自分の方に向けられて机の上に置かれるとそれを流し読みした。レイが持ってきたのは、契約書だった。雇用条件について書かれているようだった。疲れきった様子の彰は、特に口を挟むことなくそこにサインをする。
「ありがとうございます」

 レイがそう言うと、二人の間には沈黙が訪れる。契約書とペンがリュックにしまわれると、彰はおもむろに口を開いた。
「一つ、聞きたい。君は、私のしたことについてどう思っているんだ?」
 それを聞いたレイは、どこかきょとんとした表情。んー、と手を顎に当てて少し悩む。
「ぼくは音芽を連れて行かれたくなかっただけで、彰さんがしてきたことには特に何も。ぼくがやりたいことじゃないっていうだけで、彰さんがやりたいと思うなら、それでいいじゃないですか」
 彰は目の前にいる、娘と同い年の少年を、奇妙な生き物を見るような目で見た。
「善悪には、興味が無いと?」
 取り調べを受ける間、復讐だという理由以外にも、何かあるのではないかとさんざん勘ぐられた後だ。にも関わらずこの少年だけは、捕まえた時も今も、それを一切聞こうとはしなかった。それが、彰にはどこか不可思議に思えたのだ。
「それって、そんなに大事なんですか? 別に人を殺めているわけでもないし、他の人が気にするのがぼくには良く分からないんです」
 格好いい悪役ならむしろ弱いヒーローより魅力的ですよ、などとレイは口にする。そして、立ち上がり出ていこうとしたところで、思い出したようにリュックからケースに入った二枚のCDを取り出して机の上に置いた。
「忘れてましたけど、響さんのバンドのアルバムです。あと、こっちは音芽が作った曲が入ってます。聞いてあげて下さい。それと二人から伝言です。今年は一緒にお墓参りに行こう、だそうですよ」
 リュックを背負い、部屋から出ていこうとするレイ。扉に手をかけたところで、彰は亜鈴君、と名前を呼んで引き止めた。
「娘を、よろしく頼む」
 机に手をついて頭を下げる彰に、レイは元気よく返事をして出て行った。



「あーッ、ヒョーコ! 近すぎまスよ、レイから離れて下サい!」
 彰との面会を終え、レイは氷子の車で移動した。事務所に入るなり、中にいたリーナがベタベタとレイの身体を撫で回す氷子を引き剥がしにかかる。
「こっちは昨日までまたタイに行かされて、色々後始末が大変だったんだぞ。少しくらいいいだろう? ほら、亜鈴。頑張った私にご褒美だ。マッサージしてくれ」
 ぎゃあぎゃあとじゃれるように言い合いを続ける二人を尻目に、レイはソファーに座って携帯をいじっていた音芽の横に移動する。
「彰さんから、許可、もらってきたよ。そっちはどう?」
 途中のコンビニで取ってきた契約書のコピーを取り出し、レイは音芽に尋ねた。
「うん、こっちも、バグはないみたい。リーナと二人で、十分テストした」
 そう言って、音芽はレイに携帯の画面を見せた。そこには、ゲームのエンディング、スタッフロールが流れている。
「レイ、私も手伝ったんだから、きちんとご褒美下サいね」
「分かってるよ。それじゃ、音芽。ぼくの会社にようこそ。改めて、これからよろしくね」
 リーナをたしなめ、レイは音芽に手を差し出す。すると音芽はそれをためらうことなく、しっかりと両手で握った。
「こちらこそ、よろしく」

 しばらくお見合いが続き、リーナのいつまでやってるんでスか? という言葉で二人は手を離した。そしてレイはノートパソコンを開き、アプリの管理画面を開いた。
「準備はこれで全部終わったね。ぼく個人じゃなくて、会社としての初めてのゲームのリリースです。みんな、色々手伝ってくれてありがとう。これが一本目で、これからどんどん面白いゲームを出していけたらいいなと思います。じゃあ、公開しますね」
 レイがそう言うと、他の三人も肩から覗きこむように画面を見る。そして、トラックパッドをレイの指が滑り、二度軽くタップする。すると、公開するかどうかの確認画面が表示された。
おとーさん。これが、ぼくたちの最初のゲームです。
心のなかでそう呟いて、レイ達は息を合わせてエンターキーを押した――。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.114765882492 / キャッシュ効いてます^^