情報学の情緒的な私試論β

太陽が眩しかったから

連帯保証による罪悪感搾取で駆動していた「10年泥」も終わったので会社員を卒業しようと思ったけれど、「生き甲斐搾取」を求めて次の10年を続ける

photo by Wanderin' Weeta

入社して最初の10年は泥のように働け

 「10年泥」とは「入社して最初の10年は泥のように働け」の略で、IT業界などで引用されて一時期流行っていた。

 西垣氏は伊藤忠商事の取締役会長 丹羽宇一郎氏の「入社して最初の10年は泥のように働いてもらい、次の10年は徹底的に勉強してもらう」という言葉を引用し、「仕事をするときには時間軸を考えてほしい。プログラマからエンジニア、プロジェクトマネージャになっていく中で、仕事というのは少しずつ見えてくるものだ」と説明。これを受けて、田口氏が学生に「10年は泥のように働けます、という人は」と挙手を求めたところ、手を挙げた学生は1人もいなかった。

 説明については一理ある。自称「仕事が出来る」25歳前後の人々の話にザワザワする感じや、無茶な案件を気合と根性で何とかした経験から成長するのも事実ではあろう。でも、「泥のように」って「眠る」に掛かる事だし、その時の意味って「疲れ果てて死にそうに眠ってる」ということなので、なんていうかローテンションな居酒屋甲子園の姿を連想する。

連帯責任による罪人扱い

 私は現在32歳で、22歳の時に社会人になったので、まもなく社会人満10年になる。ここ数年は減ったけれど、それでも月の残業時間平均は60時間を超えるだろう。120ヶ月と考えると累計7200時間。50日間以上連続出勤したこともあるし、深夜の2時過ぎまで働く事が1ヶ月近く続いた事もある。通勤に往復4時間近く掛かる所に飛ばされたり、深夜の泊まり込み対応が当日に決まったり。同じ境遇の中で休職や入院をした人数は両手では数え切れない。

 それで何かの「やり甲斐」を感じてたかと言えば、そんなことはなくて、まさに『すき家のワンオペ問題って「やりがい搾取」というより「罪悪感搾取」なのだけど、「罪悪感」って連帯があると案外脆い - 情報学の情緒的な私試論β』の話である。既にリーダーが倒れてて、お客さんに謝罪する事からスタートするみたいなムリゲーの一番の問題は、客先への誠意として罪悪感があるフリをしているうちに、徐々に本当の罪悪感が植えこまれいって、それ相応の扱いをされ始めることにある。借金の連帯保証人のようなもので、他人の借金を返すために身を粉にしていく事が多かった。全く誇らしいことではないが、結果として「10年は泥のように働いた」のではないかと思う。

10年経ってみて

 もちろん、色々な弊害もある。少なくとも体調や人間関係については良い影響がなかったし、要素技術としても枯れ過ぎたまま歳を重ねてしまった。パラメータ配分を歪に間違えて一般生活を歩むための能力値自体は実質LV10相当で固定化してしまったけど、レベル自体は順当に30まであがっていて、振り分けし直すにも必要経験値が多くなってるみたいな状態。「成熟」を動機として拒否しているわけじゃなくて、それに足る実際的な能力が足りないままなのだと思う。

 元の言葉だって終身雇用制が前提になっていて、最初の10年は辛いだろうけれど、次の10年で報いるといったような意味合いもあったのだろう。けれども、今の会社で3社目なわけだし、仕事を振る方は別に報いる気なんてないと理解しながらも「10年泥」のようにそれを期待するような言葉を信じるように強要された事こそが苦痛だった。もちろん、現状肯定のための色々な言い訳や、良い効果の話もできるのだけど、それは労働基準法を守らなくてよい理由にも、黙らなくてはいけない理由にもならないとは思う。その辺の事は『「何かを期待して裏切られた世代」のダウナーなオフ会〜毎日新聞社『リアル30's "生きづらさ"を理解するために』 - 情報学の情緒的な私試論β』にも書いた。

次の10年は卒業してから考えたい

 それでどうしようかと考えた時に、「じゃあ10年で辞めよう」というが昨年の10月ぐらいまでの結論だった。その頃のエントリを読むとそういう事ばかり書いている。それはプロブロガーになろうとかじゃなくて、実家暮らしをして、比較的作業範囲が決まっている派遣やアルバイトをしてもあまり問題がないということだ。在宅で出来るフリーランスの口が見つけられればなお良いとか、調理師免許も欲しいとかはあったけれど。

 でも、結局はやめてないのが実情で、用意していた退職エントリは無駄になった。なんでかと言われれば格好悪い事しか言えないのだけど、事実なんだから仕方ない。

「生き甲斐搾取」ならされたいのかも

 その中のひとつとして「生き甲斐搾取」のようなものはあるのかもしれない。仕事そのものへのやり甲斐とかは全くないし、罪悪感の方は最悪だ。

 でも、「生き甲斐」についてなら、まだ余地があるのかなと。それはむしろ仕事の外の事で、旅行したいとか、恋したいとか、美味しいものが食べたいとかでもよいのだけど、そこにはお金がかかる。嫌いなものを無理に好きになるのは無駄なので、嫌い度合いを下げる事に注力して、代わりに好きなものをより好きになった方がよいというのがポイント。

 嫌い度合いを下げるためには、やり甲斐などは見出さずに淡々と関わる。その一方で拘束時間が長くなるような無茶には応じない。そもそも辞める気だったわけで、それでクビにされるなら会社都合退職で失業保険給付が早く始まるから、それもよいだろう。

普通の物理と論理の飛躍

 そう考えると、まだ辞めるのはもったいないんじゃないかとも思ったのだ。もちろん「程度の問題」については色々と行動を起こしている。来月から実家暮らしだし、転勤も解除された。ブログも少しは役立つ程度になってるし、それなりにスキルも付けた。

 まぁ普通の行動をしているだけなのに、そこに過剰な意味付けをしてる何時もの中二病なんだけどね。いきなり物理層をガラッと変えるのは何かと難しい。ただし、同じ行動の軌跡であっても、その理由が異なる場合には「次の一手」に差が出る場合もある。

 労働者としての剰余価値搾取から逃れられないのであれば、幻想の「やり甲斐」や「罪悪感」ではなくて、「生き甲斐」に振り分けていきたいのである。少なくとも、それを「試みる」こと自体がひとつの「生き甲斐」にもなると思うのだ。

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あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。

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