http://www.nytimes.com/2014/03/03/opinion/krugman-the-inflation-obsession.html
The Inflation Obsession
クルーグマンの3月2日のコラムの翻訳です。
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インフレ執着症 The Inflation Obsession
最近、Fedは2008年の重要な年の金融政策会合の議事録を発表した。それを読むと気が滅入るばかりだ。
ひとつには、それによってFedの人々が迫りくる経済危機に対してまったく無策だったということがわかるからだ。しかし、そんなことは今ではみんな知っている。本当に衝撃的なのは、彼らがまちがった考えにとりつかれていた、ということが示されるからだ。経済は急降下しつつあった。しかし、Fedの人々が話し合っていたのは、インフレのことばかりなのだ。
『アトランティック』のマシュー・オブライエンが次のような計算を行っている。2008年の8月の会合では、インフレに関しては322回言及されている。それに対して、失業に関する言及はたったの28回、体系的なリスクや危機に関してもたったの19回しか言及されていない。2008年の9月16日の会合では――リーマンが崩壊した日の翌日だ!――インフレに関しては129回言及されている。それに対して、失業に関しては26回、体系的なリスクや危機に関してはたったの4回なのだ。
大恐慌を研究してきた人々は、当時の金融政策の議論の愚かさに驚いている。例えば、イギリス中央銀行は破壊的なデフレスパイラルに直面していながら、インフレの脅威に執着し続けた。ラルフ・ホートレイの今では有名になった言葉で言えば、「それは、ノアの洪水の最中に「火事だ! 火事だ!」と叫ぶようなもの」なのである。しかし、金融危機に直面した現代の金融政策当局も、3世代前の同業者とまったく同様に、まちがった考えに執着していたわけだ。
そして、これは2008年のまちがった呼びかけという以上のものだ。有識者と思われている人々の考えが、状況がどんどん悪くなっているにもかかわらず、物価の上昇の脅威という考えに凝り固まっていたのである。この5年間、CNBCを見ていたり、ウォールストリート・ジャーナルの意見欄を見ていたり、さらには、著名な保守的経済学者の意見に耳を傾けていたなら、上昇しつづけるインフレが今にもやってくる、という警戒が発令され続ける国に住んでいるのではないか、と思いたくなる。
どうしてインフレに対する執着が生まれるのだろうか? ひとつの答えは、インフレに執着する人々が、潜在的なインフレ(underlying inflation)と、主に石油系の燃料や食料品によって変動する主要な物価指数の短期の変動とを区別することができないからだ。特にガソリン価格は、ある特定の年のインフレに大きな影響を与える。そしてその価格が少しでも急上昇すると、必ずインフレに対する脅威が叫ばれる。しかし、そのような変動は将来のインフレとは関係ないのだ。
また彼らは、停滞する経済では貨幣の増加がインフレ上昇にはつながらない、ということも理解できていない。僕はこれについて指摘できたし、実際に指摘してきた。ただし2008年、あるいは2009年初めの時点では、それが理解できないとしても、それなりの理由があったのだろう。
しかし、重要なことは、インフレに対する執着が毎年、毎年まだ続いている、ということだ。その想定される根拠は危機以後の事実によって完全に否定されているにもかかわらず、だ。これは、まちがった分析という以上の要因が働いていることを示唆している。つまり、根本的なレベルにあるのは、政治的な力学なのだ。
このことは、誰がインフレに執着しているのかを見れば、はっきりするだろう。Fedは縮小するのではなくて、緩和すべきだ、と考える少数の保守派もいるが、彼らは影響力があるにしてもほんのわずかだ。全体の勢力図から言えば、ほとんどの保守派はインフレ執着者で、インフレ執着者のほとんどは保守派である。
どうしてこれが問題になるのだろうか? ひとつの答えは、インフレ執着的な考えには、民間部門が最善策を知っているのだから、政府は経済的苦境を緩和しようとすべきではない、という考えが反映されているからだ。1930年代、フリードリッヒ・ハイエクやジョーゼフ・シュンペーターのようなオーストリア派の経済学者は、金融緩和によって不況に対処しようとするあらゆる政策に反対した。シュンペーターに言わせれば、そんなことをすれば、「不況の機能をちゃんと完了させるのを妨げてしまう」ことになるわけだ。現代の保守派は、そのような冷酷さをそれほど表に出していないが、本質的には同じである。
このような政府の政策に反対する考え方のもうひとつの側面は、財政政策であれ金融政策であれ、経済を押し上げようとするする政策は必ず悲惨な結果をもたらす――ジンバブエになるぞ!――という考え方である。この考え方は非常に執拗で、どれほどまちがっていても、毎年、毎年あらわれてくる。
そして、上記のような考え方が、経済がどれほどひどい状況にあっても、引き締め政策を行い、罰を与える政策への偏愛と結びついているのである。かつてイギリスのジャーナリストのウィリアム・キーガンは、これを「サド-マネタリズム」(sado-monetarism)と呼んだが、そのような考えは現在でも死滅していない。
これは重要なことなのだろうか? たしかに、Fedはサド-マネタリズムの考えには染まっていない。注目すべきは、2011年にガソリン価格の上昇がインフレの代表的な物価指数を短期間押し上げ、共和党員がドルの「減価」(debasement)に対して怒りの叫びを発し始めたときでも、Fedはパニックには陥らなかった、ということだ。
しかし、インフレ執着者の叫び声のおかげで、Fedが委縮してしまった、というのも事実だろう。もしそれがなければ、Fedはもっと大胆に行動できたはずだ。そして、インフレ執着者の叫び声は、いまだに解消されない雇用危機に対して何かしようとすれば必ず反対する一部の世論の温床にもなっているのだ。
すでに言ったように、大恐慌期の政策決定者がまちがったのは明白だ、と僕らはずっと考えてきた。しかし、(訳注 2008年の)大不況が起こったとき、そして今度は正しい対策を行うチャンスを与えられたのに、結局僕らは同じまちがいをくりかえしてしまったのだ。