「哲学入門」というと、ソクラテスやカントなどの大哲学者の思想を解説した本か、あるいは「私が死んだら世界は終わるのか?」、「なぜ人を殺してはいけないのか?」といった、多くの人が一度は感じたであろう疑問から、哲学的思考に誘う、といったスタイルが思い浮かびますが、この戸田山和久の「哲学入門」はそれらとはまったく違います。
 今までの哲学的な問に対して、科学的世界観によって、それに答えたり、あるいはそれを解体したりしながら、「神は死んだ(ニーチェもね)」という言葉とともに世界の謎を解き明かそうとした本です。

 主にとり上げられる哲学者はミリカン、ドレツキ、デネット。デネット以外はあまり知られていない哲学者でしょう。しかもこの本は400ページ超のボリュームがあります。というわけで「読みきれるのか?』と思う人もいるかもしれませんが、哲学じゃなくても認知科学や脳科学などに多少なりとも親しんでいれば心配ご無用。ぐいぐい引っ張られる内容になっています。

 目次は以下の通り。
序 これがホントの哲学だ
第1章 意味
第2章 機能
第3章 情報
第4章 表象
第5章 目的
第6章 自由
第7章 道徳
人生の意味―むすびにかえて

 目次を見るとあんまり面白そうじゃないかもしれません。「自由」や「道徳」はともかく、「機能」や「情報」なんてものは哲学で扱うテーマではないと感じる人もいるでしょう。
 ところが、これらの言葉には共通点があります。これらの言葉が表すものは物理的に存在はしませんが、よほどの唯物論者でない限りこれらのものがまったく存在しない、とも言い切れないでしょう。
 著者は、これらのものを「存在もどき」と名付けていますが、これらの「存在もどき」を科学と調和する形で書き込むことがこの本のミッションです。「意味」、「自由」といったものが生物の進化の過程の中で生まれてきたことを示そうというのです。

 で、まずは哲学でも非常に重要な概念となる「意味」から入っていくわけですが、この「意味」を取り扱った第1章と第2章の半ばくらいまでは、やや「のれない」部分もありました。
 サールの「中国語の部屋」の議論を「カテゴリー錯誤」に陥っているとする議論は鋭いと思うのですが、その後はミリカンの「目的論的意味論」を持ち出してきます。
 この「目的論的意味論」というのは、「意味」を「本来の機能」という概念を使って自然の中の因果関係に落としこもうとする議論なのですが(詳しくは本書を読んでください)、この「本来の機能」というのが個人的には非常に引っかかります。
 人工物について著者は「人工物の場合は話は簡単である。本来の機能は製作者の意図によって特定されるからだ」(84ー85p)と述べていますが、本当に簡単なのでしょうか?
 例えば、朝鮮人の無名の陶工がつくった茶碗が千利休に見出され茶道の名器になって日本の国宝になったとします(こんなような例はあったはず)。それでも、「飯を食べるための器」という「本来の機能」は生き続けるのでしょうか?
 あるいは、ある人物の肖像画として知られている絵が実は別人の肖像画だった場合(源頼朝像がそうだと言われていますね)、そしてそれが未来永劫明らかにならなかった場合、「本来の機能」はどこにいくのでしょう?
 ここでの議論は、クリプキの「固有名」についての議論を思い出させるもので、個人的には腑に落ちませんし、嫌な感じがします。

 ところが、第3章の「情報」の後半あたりから非常に面白くなってきます。
 「物理的世界は因果の網の目であると同時に、情報の流れとしても捉えることができる」(141p)という考えのもと、解釈者を前提としない情報というものを導入し、そこから「表象」、「意味」といったものを導き出そうとします。

 第3章の「情報」についての分析はやや数学的で難しいかもしれませんが、第4章の「表象」、第5章の「目的」と読み進めると、著者が描こうとしている絵の形がだんだんとはっきりしてきて引き込まれると思います。
 個人的には、ギブソンの「アフォーダンス」の概念をつかって、情報が「記述的」であると同時に「指令的」であることを示しつつ、進化の中で生物はだんだんとこの「記述的」部分と「指令的部分」を分けて考えられるようになり、それが最終的に人間に特有の「そもそもいかなる特定の用途ももたない」純粋な事実の表象(256p) に至る、という議論は特に面白かったです。
 ギブソンについての本も昔読んだことがあるのですが、「こう使うのか!」と思いました(ここでの使い方はギブソンのものとは少しずれているとのことですが)。

 そして第6章の「自由」、第7章の「道徳」では、「自由意志は存在するのか?」、「道徳をいかに取り扱うべきなのか?」といった、いわゆる「哲学的」な問題に突入します。
 「ラプラスのデモン」に代表される「今の世界は先立つ世界を原因とするその結果なのだから、全知全能の存在は未来をすべて予測できる(だから、自由はない)」といった議論に対して、どう自由を擁護するのか?
 デカルトのような心身二元論を取れば楽ですが、当然ながらこの本ではそんなことはしません。あくまでも科学的な世界観のなかに「自由」や「道徳」を書き込んでいこうとします。
 著者は「自由」について、デネットの議論を紹介しながら、「自由」を「何事にもよらずに行為する力」のような神秘的な能力ではなく、「他のようにもすることができたという能力としての自由は、ようするに過去の間違いから学び、未来の行動を修正する能力に他ならない」(336p)とします。
 これもなかなかおもしろい議論ですし、また、量子力学の不確定性原理が自由の擁護の役には立たないという議論もしっかりとなされていて、この本が「最新の科学に逃げる」ような本ではないこともわかります。

 さらに第7章の、「自由と責任がなくなったら道徳はどうなる?」というペレブームの議論を紹介した部分も興味深いです。普通に考えると「道徳もなくなってしまうのでは?」という結論になったしまいそうなのですが、そうではないのです。

 このように盛りだくさんの議論を詰め込んだ本で、自分も全部咀嚼したとはとても言えないのですが、面白いです。
 この手の議論をまったく読んだことがない人には少し難しいかもしれませんが、最初に書いたように、認知科学や脳科学などの本を読んだことがあれば、哲学についての本をあまり読んだことがない人でも楽しめると思います(個人的には、読んでいる最中にダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』、ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』などを思い出しながら読んでいました)。

哲学入門 (ちくま新書)
戸田山 和久
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