希土色の刻

KidocolorOhmichi's Reminiscences

ビートたけしの“ボーヤ”[Phase1]

結局芸人の道を歩まず、一般人としての生き方を選んだ自分にとって、この時代の出来事で何一つ誇れるものはない。

しかし唯一他の軍団にはない勲章はある。それは当時の太田プロ、鬼の菊池マネージャーからの「ボーヤ卒業」の一言だ。

 

自分は現在も、過去の経歴を説明せざるを得ない場合「たけし軍団にいた」とは言わず「ビートたけしのボーヤでした」と言う。

これは菊池マネージャーに「お前らは“たけし軍団”じゃない。ボーヤだ」と常に言われていたから。

たけし軍団』は10名の“タレント”の事を言い、それ以降のメンバーは“ボーヤ”だったり“セピア”と呼ばれる。つまりタレントではないという意味。

だが、一般の視聴者はテレビに出てさえすれば“タレント”と思い込む。

しかし以前にも書いたが、殿はテレビに出しながら稽古をつけるつもりなので、ハッキリ言えば誰でも構わず出していた。

テレビに出演し「ギャラ」が発生していたのは先輩10人だけで、あとは定期的に殿から「小遣い」をもらう。(局からは当然ギャラは出ていた筈だが...)

ただしそれだけでも超御の字。一般的に芸人の弟子は自分でアルバイトをするのが普通だ。なにせ「勝手に来たあんちゃん」なのだから。

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当時、自分はニッポン放送の「出待ち」から、草野球の球拾いをし、顔を殿に覚えられ、ラジオでも少々名前が出て、スポーツ大将、風雲たけし城などにレギュラー出演をしていても、気は晴れなかった。

「お手軽にテレビに出たいのではなく、“自分で演るための”お笑いの修行に来たのだ」という意識だったので、ビートたけしの名の下にテレビに出る事は、全く望んでいなかった。ハッキリ言って嫌だったし居心地も悪かった。何かしっかりとした実になる「修行」をしたいーー

セピアは軍団を見ていたので「ああいうふうにはなりたくない」といつも言っていた。なぜなら「ビートたけしのお陰で存在している」然とした佇まいが格好悪かった。

現在も浅草キッドも含めたたけし軍団は一般のお笑いタレントの中でも「一人前」の扱いをされていない。その証拠に番組では彼ら自身の事ではなくビートたけしに絡めたエピソードを常に求められる。

彼らから“ビートたけしの背景”を取り去って、まともにタレントとして評価される者がいるだろうか。

他の芸人も「お前らと違って俺達は自力で出てきたんだ」と意地があり、認めない姿勢と抵抗が少なからずある。そして軍団はそれを感じてもいる。

 

ーー当時自分にとって、信頼できる相談相手はラッシャー板前だけだった。齢も1才違いで、俺が更新するまでボーヤの最長任期を務めており、「軍団の末っ子」として苦労をしていた。俺にとっては何でも話せる唯一の人ーー本当の意味で「兄さん」だった。

細かく言えばボーヤそのもので苦労したと言うより、ただでさえ殿のボーヤで目いっぱいなところへ、加えて調子に乗って分もわきまえない軍団があれこれ命じてくる。これではたまったものではない。

要するにボーヤをまともに(ホンの一ヶ月程度なら他にもいるが)務めたのはそのまんま東と松尾だけで、次にラッシャー板前になるが、その苦労を大半がわかっていなかった。

前述の悩みを打ち明けると「ボーヤしかない。ともかくキツイけど一番勉強になる」と、即座に勧めてくれた。この時点ではラッシャー板前からグレート義太夫にボーヤが交代し1ヶ月ほど経っていた。

1985年の春からは元気の出るテレビ、スポーツ大将、風雲たけし城のゴールデンタイムの番組と、純粋なコント番組のOH!たけしが新たにスタートした。それまでの世界まるごとHOWマッチ、おれたちひょうきん族スーパージョッキーに加えた「バラエティの黄金期」を迎えようとしていた。

そして殿からの指名で水島新太郎に切り替わったが「1ヶ月」の期限付きだった。セピアの人数も増えており「短期間交代制」の方針が出された。

丁度この頃、談かんから「大道もぷらぷらしてるなら勉強しに来い」と声を掛けられOH!たけしに見学しに行くようになり、それを認められると今度は殿からチョイ役で使われる事もあった。

 

ーーこの時期にちょっとしたエピソードがある。

水島新太郎が家の事情でボーヤを1日休まざるをえない状況があり、菊池さん指名の交代で俺がその日だけ務めた。番組は元気の出るテレビのロケだった。

殿と二人で過ごす時間は初体験。すさまじい緊張で臨んだが、何とかつつがなく無事に一日を終えた。

マンションに殿を送り自室に戻ると菊池さんから連絡が入った。当時は全て連絡は固定電話だ。

「殿が“鍵がない”と言ってるよー。ちゃんと渡したのー」と抑揚のない声。菊池さんは怒鳴る時と、意図的に怒りを殺し抑揚のない声の時がある。これが恐い。

ウエストバッグを探ると殿から預かったキーケースが出てきた。顔から血の気が引いた。鍵がない殿は途方に暮れて太田プロまで歩いて来たらしい。

慌てて事務所へ走った。走りながら逡巡した。

携帯電話のない時代「あれから殿はマンションのドアが開かず歩いて事務所までわざわざ歩いたんだ..」そう考えると堪らない。申し訳の立たない思いが強く湧き起こった。

当時のマンションから事務所までは徒歩で10分とかからなかったとは言え、天下のビートたけしが独り四谷を歩く姿を思い浮かべ胸を痛めた。

そして頭の一角に「残念だがこれはもう馘首(クビ)だな。俺あたりの人間にしては余りに大きいミスだ...」と肚をくくった。

事務所に着き、顔を見る事も出来ずキーケースを差し出し全身全霊でお詫びをした。それしかなかった。

「今までお世話になりました」の言葉を反芻しつつ殿の顔を見上げた。

その刹那、殿はニコッと笑い「そうか、探せば見つかるもんだろ」と、さも“なんでもないこと”と云った風で鍵をポケットに入れた。

想像もしなかったリアクションーーその瞬間「ああ、俺はこの人に一生頭があがらない」とカミナリに打たれた様なショックを受けた。

「包容力」などと軽い言葉も使いたくない。 

本当の意味で、はじめてビートたけしという「人物」に触れた瞬間だった。そしてラッシャー板前のアドバイス通り「俺はこの人の、仕事以外の身の回りの事一切に尽くしたい」と改めて決意したのだった。

この日を境にタレントのビートたけしから「俺の師匠」と捉え方が変わった。そんな出来事だった。

 

 

そのまんま東はなぜ『フライデー襲撃事件』に関しウソを語り続けるのか?

1986年(昭和61年)12月9日未明に発生した『フライデー襲撃事件』は一門にとって、今振り返っても最大のエポックだった。

事件の経緯と状況は『たけし事件―怒りと響き』(1987年)に詳しいので、細かな経緯はここでは割愛する。

 

「殿が行くと言えば即従えるか否か」

この事件は軍団内部では重大な「踏み絵」ともなった。

殿も現在「事件以前と以後の軍団は別物」と言い切るほどで、行動を共にしたかどうかの事実はそれほどまでに重い。

 

ーー一般社会でも、慕う上司に対し「この人のためなら死ねる」とは良く出る話だが、それは往々にして「そんな事態は起こりえない」とどこか本心ではたかをくくっているのではないか。

同様にたけし軍団も何から何まで世話になりっぱなしな殿に対し、事あるごとにそう口にしていた。

ーーしかし本件はまさに「そんな事態」が現実に起こったのだ。

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当時専任ボーヤであった俺の連絡により四ッ谷のマンションに招集された軍団達は、その時点では、殿の身につきまとっていた「問題」を何も知らなかった。

知っているのは事務所の人間以外は自分だけで、だから殿同様に怒りが滾(たぎ)っていた。殴り込みに行くのは当然とすら思えていた。

怒りで顔が蒼白となっている殿と対照的に、簡単に状況を説明されたにせよ、要領を得ない表情の軍団達は半ば「言われるがまま」タクシーに分乗し、文京区音羽に向かう。

守る物一つない自分は、この頃全てに捨て身で行動していたが、今思えば軍団は決してそうではなかった筈で、冷静に考えれば「集団暴行」として逮捕もあり得る。まともな人間なら逃げ出したいのが本音だろう。

「参ったなあ」とも「こんな事に関われば俺は終わり」と自己保身に逡巡していた事は予想できる。考えれば考えるほど不安は増すのも当然。家庭を持つメンバーもいる以上現実はそんなものかもしれない。

ーー知事になって以降、露出の増えたそのまんま東は、本件に関し質問されるまま得意げに、事件を面白おかしく語る場面は何度も見かけたが、その内容はほぼウソだ。

「何でもかんでも話を面白おかしくするのが芸人」と思い違いしている浅薄さだろうが、私はこれを決して許せない。

なぜならこの事件の持つ重要さと同時に彼はこの時「殿を見殺し」にしたからだ。

起こった事をそのまま話に出来ない事情があるのだ。

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今思えば、自己保身の意識が一番強かったのかも知れない。

俺も一時は同居させてもらい世話になっていた。どちらかと言えば好きな人だった。酒や遊びを教わったのはこの人だ。それだけに今回の事件では自分自身もショックだった。

 

ーー分乗したタクシーが音羽講談社前に次々と停車する。

殿はあの頃愛用していた墨紺のコムデギャルソンのコートをまとい、車を降りると講談社屋を見上げた。吐く息が白い。冬の夜空は澄み切って月が美しかった。

やおら振り返ると殿が「おい、お前ら、行くけど本当にいいか」と聞いた。

「ええ、充分に好き勝手させてもらいましたから」とガダルカナルタカが答えた。

俺はこの人のこんな所が好きだ。ひとたび事が起こるやスッと全てを捨てられるところがある。今ではついぞ聞かなくなった「義侠心」を持っている。自分を拾ってくれたという恩からかもしれない。

そしてこんな重大な問いかけに答えられるのは年長であるこの人しかいないーーいや、そのまんま東はどうした?

殿はふと左隣の建物に目をやるとそこには「大塚署」の文字が。思わず漏らした言葉が「こりゃ早いな」だった。

門傍の警備室に、俺は殿を追い抜き先に「フライデーは何階か」と尋ねた。10人ほどのいきり立った男が通る姿を訝しく思わなかったのかが、今でも不思議だ。

この頃ボーヤであった俺は常に殿の前か横に立って動く。向かう場所があれば先に走りドアをあける。

「嫌々後からエレベータに乗ったら出る時に先頭になった」とそのまんま東は語っているがウソだ。タクシーも同じで「先に降りる者は後から乗る」事など、規律は徹底されており、この時も先頭は常に俺だった。

 

ーー最初は誤って週刊現代の扉を開け、反対側と知り改めて講談社の扉を開く、

「おい。増子はどいつだ」

抑えた低い殿の声、ドスが効いている。

しかし編集部は明らかに「まさか本当に来ると思わなかった」といった面構えでデスクからこちらを見上げている。

間があった。応接にでも通されそうな気配があった。俺はそんな彼らの態度にキレた。怒声とともにフロアを突き進み、中央の机をひっくり返したーーこれが戦いのゴングとなった。

殿は名乗り出た増子の顔面に遠慮せず正拳をぶち込んだ。

殿は学生時代プロボクサーを目指していた。浅草時代は「左フックのたけし」と恐れられていた事もある。「ひょうきん族」でも同じくボクシング経験者の太平サブローと試合をしたことがあるが、容赦をせず圧勝した記憶がある。

足のフットワークが利き、型はプロボクサーのそれだった。柔道の型を見せる編集次長の風呂中とも組み合ったが、プロと素人ほどレベルが違っていた。

俺は本能的に「何かあってはいけない」と格闘をしながらも殿のやや後方に位置取り、様子をうかがっていた。これは自分の特徴で、混乱した現場では頭が妙に冷静になる。
揉み合う風呂中の顔面に、正拳がヒットするや腕のロレックスのベルトが弾けスローモーションのように飛び散った。

やがて後方から誰かが叫んでいる事に気付く、振り返るとずらりと並んだ大塚署の警官隊の姿が目に入った。やっと我に返ったーー万事休す。

 

ーー大塚署に移送され取調べが始まったが、人数が多く順番待ちとなった。待つ間は自然、セピアで固まり、水島、長嶋、大阪らと、とりとめのない話をしていた。

そこへ、チンピラよろしく大仰に肩を揺すりながらそのまんま東がこちらへ来た。いつもと違う陰惨な気配がした。

「おい。お前らわかってんだろうな、お互い殴り合ってケガを増やして調書に書いてもらえ。なあ、あいつ等を不利にさせんだよ。あ?分かってるな」とねじ込んで来た。

皆で顔を見合わせ「いや、仲間同士でそんな事は出来ません」と断る。当然だった。

すると「じゃあ俺が殴ってやるわ!」と間髪入れずに全員殴られた。理不尽もいいところだった。「何だよあいつ」ーー誰ともなくそう言った。

ーーその時は視界に入っていたが、意識をせず、後から思い出すような事がある。ふと、乱闘の場面にそのまんま東がいなかった事に気付いた。俺の位置は殿を見据えて誰よりも後方であって、その視界に彼は入っていない。

「おい。東さんってあそこにいたか?」と水島に尋ねる

「いや、大道さん。東さんと松尾さんは最初から後ろの壁に寄りかかってタバコ吸ってたよ」と、憚(はばか)るように言った。

ーーそうだ、記憶を手繰ると確かに左後方の壁際に何もしない人間が2名いた。ーーそうかあれが東さんと松尾さんだったのか。

そう考えると、先ほどの理不尽も合点がゆく。

彼が乱闘に加わらなかった理由は分からない。しかし、いざ終わってみると、これは師と弟子の絆を問われる一大事である事に気付いたのだろう。取り返しの付かない大失態だ。

冒頭に挙げた著書では乱闘の詳細の記載もあるが、この2人は具体的な乱闘の記述がない。「参加」とはなっているが、乱闘に加わっていないから書かれていないのだ。

軍団の長男は本来自分であって、むしろ、いの一番に暴れるのが筋だろう。軍団の取り柄は「殿への絶対忠誠」じゃなかったのか。それどころか半ば「殿を見殺し」にしたのだ。

これはただの乱闘ではなかったーーしかし完全に手遅れ。そう逡巡すると心が乱れ耐え切れなくなったのだろう。せめてものあがきで、「この手の場の立ち回りを熟知している」と強がって振る舞うことでなんらかの取り繕いになるとでも考えたのか。ともかく見苦しく哀れとしか言いようがない。

未だに殿にそれを詫びてもいないはずだ。

乱闘に加わった軍団達、彼らには直接暴れる理由など本来ない。しかし「殿がやるなら」と迷いを吹っ切りながら、愚直に乱闘に突入した。なんともバカバカしい。実に愚かだ。自らのタレント生命が終わるかもしれないのに。

しかしそんな愚かな行為であろうが、後方から眺める彼らの姿に俺は胸が熱くなった。はじめて本当の兄弟のように感じていた。皆、理屈ではない「共通の何か」を信じたこの乱闘だった。

この話は参加したセピアは全員知っている。何人かの軍団も知っている筈だ。知る者はあの時から彼を見る目が変わった。

「いざとなれば裏切る男」

「殿を見殺しにする男」

しかしもしかすると殿は知らないのかも知れないーーなにせ軍団の長男にしては余りに情けのない話だ。こんな寂しい話を誰が殿に告げる事が出来るというのか。一門の恥。

政治家になっても肝心な時に「一抜け」する身勝手な癖は直っていないように感じるがどうか。

たけし軍団は「本当の意味で恥になる話」は外に出さない。大抵が自分も「共犯者」でもあるし、それが務めと疑わない。しかしそれも単純に殿が怖いからに他ならない。だが殿が亡くなれば多分そうではなくなる。分裂し暴露本発刊ラッシュになるのではないか。

 ーー本件の価値は当事者にしか存在しない。外部の者から観れば「集団暴行」以外の何ものでもないし、解り得ないーーしかしそれでいい。解ってもらう必要などない。ただ...

 

 ーー東さん。本当に教えて欲しい。なんであんたはあの時殿を見殺しにしたんだ。あんたは何を考え何を恐れ何を守ろうとしたんだ。

あんたの人間性はあの時良くわかったから、せめてこれ以上、面白くもない作り話に塗り固めたウソを語るのはやめたらどうだ。殿を見殺しにしたあんたに出来る事はせめてそれぐらいだろう。

 

 

 

 

 

1984年12月於:有楽町ニッポン放送

去年までは体育の教師になるはずの自分が、その時ニッポン放送の玄関前に立っていた。

正確には道路を隔てた反対側の歩道からその光景を眺めていた。

深夜3時を回ろうとするこの時間に、おそらくはまだ10代と思しき50人ほどの女子達が始発覚悟で「出待ち」をしていた。

姦しいそれらのファンへ埋没するかのように、息を殺し思い詰めた表情で立ちすくむ数人、男子の姿にも気付いた。ーー弟子志願者である。

3時の放送が終了するや、玄関口からたけし軍団達がパラパラ姿を現し、そのタイミングに合わせるかのように白いセドリックが玄関前に停車する。

軍団は花道を作り、スムーズにビートたけしが車へ乗り込めるように段取る。

通常ファンは、その「軍団柵」ごしに嬌声とともにプレゼントを渡すなりビートたけしにコミュニケーションを取ろうとする。

「もしも自分に入門の使命があるなら必ず一発で叶うはず」

ーー若年固有の無根拠な確信を胸に自分はその「軍団柵」を超え、車の後部ドアに向かわんとするビートたけしの真正面に立ちはだかった。

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何と申し出たかは失念している。「弟子にして下さい」も図々しい。おそらくは「お傍で勉強をさせて戴けませんか」程度の、自分なりに最大限神経を使った言葉だったはずだ。

そもそも、弟子志願をするロケーションも考え抜き「弟子志願自体が図々しくはあるが、定番になっている場所の方が迷惑度は少ないであろう」との結論を出していた。

目が合い、少々困った顔をするとやおら談かんを呼ぶ。談かんからは「俺のアパートに来て下さい」と言われた。

 

ーーともかくその日から、かの、談かんのアパート「ゆたか荘」の住人に加わった。ただしこの頃は極めて不安な毎日だった。

そもそも軍団でさえ「一門」の形もなく皆「転がり込み」のまま『たけし軍団』に形成されただけで、自分も紛れ込めたのかさえも分からない。

初日に「まあ、草野球の球拾いでもしていれば、顔も覚えられるさ」という談かんの言葉を半分信じていただけだった。(今思えば何と優しい事か。その後志願者を問答無用で断り続けた自分とは違う!)

当時はバブル期。ゆたか荘も立ち退きを迫られ、まもなく引っ越しせざるを得ない状況。

「アパートの場所を知られてもどうせ引っ越すから構わない」との考えからか、ファンに住所を公開し堂々と談かんはファンに移転費用を募っていた。

そこで、寄付後のファンを駅まで送るのが自分の役回りだった。

...その頃高校生だったファンの皆さんも現在40才代な訳で、皆さんお元気だろうか。

嗚呼「ビートたけし一門」

ビートたけし一門」とは言うが、本人の言葉で言えば

「ウチは皆転がり込みで、一門なんてものはない」となり、実際「師匠」とは呼ばせず、本人からは「殿」と呼ぶように当時は言い渡されていた。

 

草野球で助っ人に来た事からの縁や落語界からの編入。そして直訴組。

直訴組は当初、自力で軍団から抜け出しピン芸人をと志向していた。しかし他の「中途採用組」は「たけし軍団」と言うタレント活動と受け止めていたし、そこから抜け出ようとも考えていなかった。

芸人で勝負を賭ける時期は一般的には精々1度きりで、それは既に終えている。残りのキャリアを、日本で知名度抜群なビートたけしの傍で活躍出来るならこれ以上の事はない。

 

ちなみにとんねるずは、ツーツーレロレロカージナルス同様「お笑いスター誕生」出身で、軍団の草野球に助っ人で出入りしていた。しかし当時の番組プロデューサー、赤尾氏を怒らせ、日本テレビからは締め出しを喰らい、「干されている」状況で先は見えていなかった。

当然殿は軍団に誘ったが、彼らは「もう少し自分達でやってみます」と断りを入れた。その後フジテレビの「オールナイト・フジ」でブレイクする。人生には何度も分岐点がある。長い目で見なければわからないが、全てに意味はある。

とんねるずの場合も新宿御苑の『KON』と言うショーパブに出入りしていた時に常連のフジテレビスタッフに見いだされての『ブレイク』だった。

とは言ってもカージナルスとんねるずになるはずもないしその逆もない。ひとつ言えることは「安直な判断に未来はない」と言う事だろう。とんねるずはそれを示したように思える。

そこを見極めたかのように当時のセピア若手は軍団よりとんねるずを尊敬していた。

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方や、直訴組は単純に素人だ。突然無闇にテレビに出されても、気の利いた事など出来ないーーというよりも、だからこそ勉強目的で弟子入りを志願して来たのだ。

どう勉強するのかーー実はここがたけし一門最大の問題かつ特殊な所で、まず師匠は日本で最も多忙なタレントである。故に軍団が芸事を教え授かる場面がない。そこで絡みのある番組で、それを同時に行おうとしていた。

いや、正確には「軍団に芸を教えよう」とは考えていなかったと思う、それをそのように本人が言ったとしても私は「それは後付けでしょう」とハッキリ目の前で言える。

殿は単純に“ビートたけしの番組”としてのクオリティに真剣だったに過ぎない。だから容赦もなかった。何かを教えようとしているよりも、余計な事をしでかさないように、リスク管理していた印象だった。

軍団のテレビ出演はすなわちビートたけしとの共演であり、いじられ役でもある。これを受け容れるのみだった。

当然、軍団のあらゆるリアクションは殿への“媚び”となり、それが体に染みついてゆき個性が死んで行く。あくまで“ビートたけし好み”のタレントに狎(な)れて行く。

自分は「このままではまずいな」とこの事態を深刻に受け止めていた。

反対の例で言えば『ダチョウ倶楽部』はそれまでは“やがて自然消滅するであろうタレント”に含まれていたような存在だったが『お笑いウルトラクイズ』でブレイクした。

評価がそれまで低かったが、じっくり独自の路線を歩んでいた“個性の強さ”が『お笑いウルトラクイズ』でビートたけしと絡む事で引き出された実例であり好例だ。

当時軍団は自らの地位がビートたけしによってもたらされている“現実”を頭の片隅で理解はしていても、TVの扱いやギャラから勘違いが生まれていたように私には見えた。

人間は弱い。それは結局30年後の現在まで続いているのだから。

当時口々に兄さん達は「独立」「独立」と言っていたが、次第に「さんざん世話になったのに離れるなど恩を仇で返す事になる」などと言い出し(飛び出して成功するなら師匠へ恩を返す事になるだろう!?)自己の立場を次第におかしな理屈で肯定し出した。

その実態を眺めていた自分は「修行を終えたらここから出なければ自分がダメになる」と決心した。

 

特殊な「たけし軍団」の構成

 今から思えば不思議だった。

たけし軍団(オリジナル10人)は、バンドがベースの「ザ・ドリフターズ」や「ずうとるび」でもないし、事務所が所属タレントをかき集めて作ったコント・グループでもない。

何が不思議かと言えば、プロの芸人と落語家と素人”が混在していた事だった。

当初は東、松尾(以降敬称略)から徐々にメンバーが増えた事から「たけし軍団」と括りの名前を付けた事によるいわば最初は「俗称」だった。

草野球の助っ人に来た芸人ーー既に旬の過ぎたようなその彼らに、ビートたけしが声を掛け、また立川談志一門からも師匠に頼み込んで弟子筋であるたけしさんに預けられたのが談かん(ダンカン)と言った具合で「結果的に」過去に例を見ない無茶な構成となった。

しかし、ニッポン放送の出待ち直訴で入門(正式には一門は存在しないので“入門”ではないが)した“素人”とはいえ、『弟子志願』を踏まえて入門したメンバー(東、松尾、柳、ラッシャーの4名)は当初「修行後自力で芸人になる」のが基本線だったはずで、そのために東は漫才を組み、松尾は浅草に修行へ行くなどの模索を続けていた。

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こんな調子でメンバーが増えた事から「たけし軍団ビートたけしの弟子」と簡単には言えない微妙さもあった。

大森は東に誘われコンビを組んだがぱっとせず、軍団に吸収されただけで、弟子志願をした事実はないし弟子の自覚もない。

タカ、枝豆もコントコンビのまま草野球の助っ人を経て加わり、談かん(ダンカン)は談志師匠に頼み込んで移籍して来た。義太夫は当初弟子入り志願者だったが、はじめはバンドのメンバーからの加入であり特殊だが、この何れも「軍団に加わった」意識はあっても「弟子志願者」ではない。

後に『たけし軍団ビートたけしの弟子』との一般世間の安直な認識のまま今日までずるずると来てしまった。但しビートたけしの言葉を借りて言えば、全員ボーヤであって弟子は1人もいない。

弟子志願を経て軍団に加わったメンバーには「俺の師匠はビートたけしだ」との意識はハッキリとある。そして早いところ軍団から卒業し独り立ちをしなければと考える。

しかし他の「中途採用組」は「たけし軍団でタレントとして食べて行ければいい」と考えていた様子だった。

これがなぜ一応にせよまとまっていたかと言えば「ビートたけしと言う名の重石」があったからで、いわばユーゴスラビアのチトーがビートたけしで、この人がいなくなればユーゴよろしく、即時紛争が発生し、空中分解した事だろう。

元々我の強い芸人、芸人志望者がまとまるはずもなく、そもそも先にいたメンバーからすると、途中から加わり延べのキャリアが長いからと、急に先輩風を吹かされて心中穏やかなはずもない。

そしてそれは折に触れ様々な蹉跌を生んだ。

 

拝啓 “あの”時代の自分へ

私が1984年12月に、有楽町ニッポン放送で入門を申し出てから早、2014年で30年の歳月が経とうとしている。

当時ビートたけしは37才。漫才から離れ、たけし軍団とともにコントや新たなバラエティの途を模索していた時代。しかし、世間の評価はまだまだだった。

そして翌年の1985年から怒濤のごとく新番組がスタートするや、各局8時台すべてを視聴率トップで制覇するという、まさに「バラエティ番組の黄金期」を迎える。

糸井重里をして「あとは総理大臣になるしかない」と言わしめた絶頂期。

しかし好事魔多し。当時群雄割拠であった写真ゴシップ誌にキャンペーンを張られ標的にされた挙げ句、そこから端を発した講談社襲撃事件で、タレント活動は謹慎という形で中断を余儀なくされる。

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半年後に、復帰はしたが事務所も変わり、世間の熱は一時ほどではなくなり、どこか本人も「勘を取り戻し切れない」まま、芸能活動を継続し、やがて映画に手を染める事になる。 

ピカソ風に言うならば『漫才の時代』『バラエティの時代』そして『映画の時代』と移り変わったといえようか。

 私はこのバラエティの黄金期から映画に手を染める初期までの1984年から1988年まで在籍し、うち2年間を付き人として傍らでプライベートも含め常に帯同していた。

結局バラエティ隆盛の時期全てを眼前で観る事が出来たのは振り返ると自分1人だけだった。

当初、ここで受けた薫陶を活かし芸能活動に邁進するつもりだったが、現在の私は芸能活動から離れている。

これまでにビートたけし本人は、様々なメディアで過去も含めた自己を語り、現在はその多くを書籍やインターネットで識る事が出来るようになっている。

軍団もテレビ番組で折に触れ、ビートたけしとのエピソードを語っている。

しかし自分がそれらを眺めつつ感じるのは、ビートたけしの魅力はそれほど簡単なものではないし、ともかく視点に疑問がある。一歩深い洞察まで辿り着いていない。

軍団が語れば自分達を擁護する意図で加工されるし、そもそも本人が語る時でさえ「主観」がどうしても混じる。

そこで、このブログでは“あの”時代を自分の視点で書きたい。それは記憶が薄れつつある自分に向けて書く。と言った主旨だ。

だから敢えて自分が観た「真実」とは言わない。

一時期、回想録として書籍化も考えた事もあり、その時は出版寸前まで話が進んだが、それをやるとたけし軍団浅草キッドと同じ次元の「過ち」を冒す事になると気付き中止にした。

それは「ビートたけしを利用して生きる」事に他ならない。私はそれを潔しとしない。嫌悪していると言っても良いだろう。

私はそれを拒絶し軍団活動から飛び出した人間だ。そのため、今後もその手の話に乗る事もないだろう。

例えば芸人ではなくともまず、何らかの仕事で世間に認知され、その結果、師がビートたけしであると後から判明するなら、「やはりビートたけしはすごい人物なのだ」と「宣揚」される。目指すはこれだ。

しかし初めからビートたけしの名や背景を借り世に出るのは「ビートたけしにメシを喰わせてもらっている」以外の何ものでもない。

本末転倒であり、その関係は「師弟」ではなくもはや「雇用」の関係と言える。

当初、弟子入りを必死に懇願した人間が結局は師におんぶにだっこしている現状に疑問がないのだろうか、私には不思議で仕方がない。

だからこそ、このブログのテーマは「真の弟子の在り方」を追い求めた私の生き方と言わせて欲しい。そしてそれは遅々としながら現在も進行中だ。

ともあれ、このブログは誰が目にする事なくとも、あの頃の自分に迫り、愚直に記することが出来れば良いと思う。

 

〈おことわり〉

本ブログではビートたけしは『殿』と表記、たけし軍団の敬称は略させていただく。