Scar
探していた相手がそこにいるのを見て私はソファーに近づいた。
ただ予想と違っていたのはその相手が眠っていたことだ。
舌打ちに似たため息を吐いてその隣に座る。
その振動で目を覚ますことを恐れながら心のどこかでは期待もしたが、それは裏切られた。
めずらしくこんな場所で深く眠っているらしい。
いつからだろう、ベクターはやたら私を睨むようになった。
思い当たる節は、もちろんある。
私が座ったことでクッションが傾き、バランスを崩した体がもたれかかって来る。
まいった…こんな状況は予想していなかった。
心臓が跳ね上がる音が聞こえる、それに耳を澄ませて目を閉じる。
できればそのまま無防備な体を抱きしめたいと思っている自分に気がつく。
それから、この男は何よりもそれを望んではいないと、何度も頭の中で反芻した事実を思い出す。
触れ合った部分から流れ込んでくる、決して求めてはいけない熱。
それを感じながらもう一度ため息を吐く。
気付かれるようなことをしたつもりはない。
だが偵察兵を務めるだけあってベクターはチームのことをよく見ている。
その上でクローンである私とオリジナルの不自然な行動と言動に気付いたのだろう。身バレしないように避けるのは当然のことだ。
私がこの手を伸ばした結果失うものはなんだろうか。
ベクターがハンクに向ける師としての信頼。他のチームとの関係。
そこに恋だのは存在しない、存在してはいけない。
人間はそういったものに左右されるのかもしれないが、我々は人間ではない。
人間の言う神様というものが、我々の様な異形にどこまで目をかけて関わってくるのかは知らない。
だが、今まで生きてきた中で過ごしてきた大切な時間のすべて、記憶のすべて。
それを全部壊して捨ててそれでもこの手を取るか。
伸ばしかけた手を止めて元の位置に戻す。
ベクターが望むなら、その未来もあったかもしれない。
だがそれはない、他の誰でもない。隣にいるのはオリジナルのハンクだ。
私が、今それ以外のすべてと天秤にかけているのはオリジナルの方だ。
積み重ねてきた時間のかわりにこの感情を粉々に砕く。
眠っている相手の吐息に混ぜて空中に飛散する。
そうやってまた時間を重ねれば薄まっていずれは消えてしまうのだろう。
私の記憶から消えるには長くかかるかもしれないが、それでもいい。
願うならば相手ができるだけ長く眠っていれば良いのにと思う。
永遠には届かなくても、近い何かの存在を今は少しだけ望んだ。
* * * *
つい、眠ってしまっていたらしい。
およそ自分らしくもない行動に驚きつつ体を動かそうとして、隣に誰かが居ることに気がついた。
明かりがついたままのトレーニングルームのソファーの上。
あまり記憶にない所を考えると、俺が寝てしまった後からやってきて隣に座ったのだろう。
まるで俺に寄り添うような形でマスターがそこにいた。
一瞬体が限界まで強張ったが、ほとんど聞こえないその呼吸は相手がまだ眠っていることの証なのだろう。
走らせた緊張をゆっくりと解くと同時に触れているその体から熱が伝わってきた。
訓練続きで育ってきたとはいえ、明らかに自分とは違うその熱、匂い。
至近距離でそれを感じて胸の奥が痛くなったことを自覚する。
恋愛、というのは自分達には関わりのないことだと思っていた。
縁のないものとして意識したこともなかった。特に、俺のような性格には縁のないものだと。
マスターに対するこの想いがそういったものだということも、思ってもいなかった。
チームの中でも特にトレーニングを共にすることが多い分気になるのだと捉えていた。
ただ隣に置かれていただけの手に、自分の手をそっと重ねようとして寸前で止める。
その行動に後から自嘲的な笑みが漏れる。
そんなことがしたかったのか俺は。
俺に対しての素直でないだの真面目だのという言葉を生きている間にどれだけ聞いてきただろう。
主にこの隣に居るマスターからだ。そしてそれはほとんどが決して褒め言葉としてかけられたものではなかった。
自分でもそう思う。堅物で真面目、そうだと思っていた。面白みのない奴だと仲間は揶揄したが、問題があるとも思えなかったし、俺にはそれが合っているのだと思っていた。
それが今…動きかけたこの手。
意識もない、動かない相手のそれに重ねようとした自分の手。
こんなことをしたいと思うのは、ただ『自分の師であるから気になる』というだけの感情では説明がつかない。
文献やTV、その他のメディアから入って来る情報に答えは出ていた。
これは恋愛感情だと解釈するのが一番合っているのだ。
偵察兵として、死神の弟子として、俺が思う通りに正しく生きてきた、生きていきたいと思っていた。
こんな俗っぽいような感情に呑まれてしまうことなんか望んでいなかった。
自分にはない強さを、自分とは違う正しさをそれを心のどこかで尊敬していた、ぶつかり合うこともあったがそれはそれで必要なことだと認識していた。
その上で楽しく過ごしてきた。師弟として、仲間として。
それは俺にとってとても大切な時間だったし、その思い出は確実に自分らしく生きる上での支えになっていた。
気付かなければそのまま、幸せなその時間を重ねることができたのに。
誰に対しても後ろめたい、心臓を引きちぎってすべてなくしてしまいたいようなぐちゃぐちゃとした気持ちにならずに済んだのに。
認めてしまってからはずっとつらかった。
拒絶されたあの日から、なるべく顔を合わせないようにしてきたつもりだった。
それがなぜ今よりによって隣なんかにいるのか…。
相手の、俺の頭に軽く乗っていた頭が急に重くなる。
マスターが眠ったままこちらに体重をかけてきたのだ。
だから、痛い。そんなことをされると、ただただ胸が痛くなるのに。
今体を離せば相手は目を覚ますだろう。
この状況から逃げることはできるが、この状況をマスターに知られてしまう。
それがどうしても耐えられず、動くことができない。
重くなった分なくなった相手との距離と近くなった熱と匂い。
聞こえるようになった鼓動に耳を澄ませて深く息を吸った。
ごめんなさい。
ただ、得体のしれない何かに向かって俺は謝っていた。
俺の抱えている感情は罪だ。誰が判断するかはわからないが良い事ではない。
いや、判断するのは俺か。そうだ、俺が認めていないんだ。
大切な師を、守るべき仲間を、こんな目で見たくなんかなかった。
相手に触れることを、あまつさえ触れられることなんか望みたくなかった。
ごめんなさい。
あきらめるから、もう、のぞまないから。
今だけ、マスターが目を覚ますまで、その間だけ。
この温もりを、鼓動を、ただ感じさせてくれ。
目を覚ましたら、もう何もなかったことにするから、どうかその時に、すべてを諦める勇気を、俺に…。
『どんな手を使ってでも構わない。ハンクに傷を負わせろ』
『本気で言っているのか、スペクター』
『心配するな、ベクター。何も大怪我を負わせる必要はない。数日では治らない程度のもので構わないからな』
『何の為にそんなことを……』
『……俺の推測が正しければハンクとローンウルフは恐らく、』
「………………」
隣で眠るマスターの背にそっと触れる。
緊張で震える指をなぞらせて、あの日の『証し』を確かめる。
「…………………ない……」
あの日マスターを掻き抱いた時に残した、俺の爪痕が。
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