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幼馴染の自動販売機にプロポーズするに至った経緯について。

作者:二宮酒匂
 町に雪ふる二月十四日の午後、文房具屋の前。そこで中学の制服姿の少年少女が対峙している。
 学生服を着た少年の方は僕だ。微妙にのけぞり気味。なぜかというと、
「これ、チョコ! 義理じゃないから!」
 目をぎらぎら光らせた同級生の少女が、自販機前に足をふんばって両手で包みを差しだしてくるので。
「あ、その、えーと……あ、ありがとう」
 チョコを受け取ってから僕が返した最初の言葉はへどもどした情けないもので、同級生はいよいよ眼光を鋭くして早口で要求を叩きつけてきた。
「それで!? 返事はどうなの!」
 僕の正面に仁王立ちするその少女とは、小学生三年生のころからずっと同じクラスだ。でもこんな決死のおももちは初めて見る。
「う、嬉しいんだけど、ほら、僕らはまだ中学生で」
「なにカマトトってんの? 付き合ってる子たちなんて学級内に何人もいたじゃない!」
「ほ……ホワイトデーまでに返事するってことでいい?」
 切実にこれ以上この場でこの話をしたくなかったので、とりあえず僕はそう言う。バレンタインデー、学校帰りにいつもの自販機前でだらだらと時間をつぶしていたのがまずかった。まさか僕を探して帰路まで追いかけてくる子がいるとは思わなかったんだ。
 が、
「遠い高校の試験に合格したんでしょ。月末にはこの町出てくって話のくせになに言ってんの?」
 冷ややかに指摘されてぐっと詰まる。
「も、もちろんそれまでには返事するよ」
「男らしくないよ。この場で聞きたいの!」
 即座に却下される。おかしい。愛の告白というより決闘を申し込まれているような気分になってきた。
 ……ちょっと現実逃避を許してほしい。ドラマや漫画なんかでは情熱あふれる少年少女が人目をいとわず好きな人に劇的に告白、なんてシーンがあるだろ。あのシチュって、「それだけこのキャラは相手が好きなんだ」もしくは「こいつはそれだけ思い切った行動をするキャラなんだ」って印象づけたい作者の思惑なんだろうけど……実際には僕らみたいな思春期はじめごろの子供の大半は、大人よりよっぽど羞恥心を持ってると思う。そうそうあんな派手なことやれたりしないんだ、仲間内でのノリっていう魔法の空気でもないかぎり。
 何が言いたいかというとつまり、告白する場面を人に見られるなんて僕ならまっぴらごめんだ。
 だって、告白される場面を見られてるだけでこんなにも恥ずかしいんだから。
「あ、あのさ……町中だし」
 ちょっと移動しようよ、と続けて申し出るつもりだったけれど、同級生には首を振られた。
「いまは誰も見てない。だからいまのうちにすっぱり決めて!」
 見てるんだよ。きみには姿が見えてないだけで。
『ばか、見るな。空気読んであっち向いててよ』
 僕は同級生の肩ごしに、威嚇と懇願の混ざった視線を送る。自販機前にたたずむ着物姿へと。
 ……そして軽く絶望。
 あの自販機の精(♀)、目を丸くして思いっきりガン見だ。「うわー。うわー」とつぶやきつつ興味津々に見入ってきてる。
 泣きぼくろを目尻に添えた瞳を輝かせ、開いた(じゃ)の目の和傘をくるくる回すその興奮っぷりが心底うっとうしい。……黙って静かにしてさえいれば“黒長髪の艶っぽい和装美人”の外見なんだけど、中身がこれなものでふだん色気のかけらもない。
 あげく僕にだけ聞こえる声をかけてきた。
「知識はあったけど初めて見た! これが人間の求愛行動なんだね、少年! 君たちはつがいになるの?」
 うちの神社にこの騒がしいモノノケをおとなしくさせられる御札とかないかな、と考える僕。

………………………………
………………
……

 自販機の精は僕の渡したコインを硬貨投入口に入れる。上品に言ってレトロ、率直に言ってオンボロな筐体(きょうたい)からがしゃこんと音がした。

  〽今日もあなたはペープシコーラー♪

 でたらめな歌を口ずさみ、自販機の精は取り出し口にかがみこんだ。彼女は長い髪が落ちかかるのを片手で押さえながらコーラの缶を取りだす。いつものように。
「なんで僕のときだけ変な歌なんだよ……どの商品買ってるとか歌うなよ、顧客情報の漏えいだぞそれ」
 僕は彼女に憎まれ口を叩く。いつものように。
 ただしこの日は、そのあとが常とは違った。彼女は持ったコーラ缶を開けないまま、不可解だとばかりの口調で問い詰めてくる。
「ところで、なんでさっきの子を振っちゃったんだい」
「……早く寄こせよ、コーラを」
「いい子だったじゃないか。ちょっと肩に力入ってたみたいだけど、それだってしょうがないと思う。だって人って恋をするといろいろおかしくなるそうじゃないか、同じ人間なんだから君はわかってあげないと」
「ちっ、マジうっせーなーこののぞき見ババア……」
「シェイクいくよ、少年」
「やめろ! 炭酸飲料でそれだけはやめてください!」
 しゃこしゃこ本当に缶を振りはじめた自販機の精を必死で制止にかかる。揉みあって缶をなんとか奪った。
 乱れた長い髪を直しつつ、自販機の精がぶんむくれる。
「ババアとはなんだい、私はまだ二十歳ちょっとだ! 外見年齢が実年齢とちょうど釣り合ったところだよ!」
「自販機の耐用年数は調べたら五年だったぞ、すでに他人様(他の自販機)の四倍生きてるじゃねーかおまえ!」
 あと、精神年齢は確実に伴ってない。
 ぷんすかしながら赤いくくりひもで髪をたばね直していた彼女は、ぽつりと言った。
「あれかな。遠恋ってやつになるから断ったのかい」
「まだ首突っこんでくるのか……別にそれが理由じゃないよ」
「あの子を嫌っていたようにも見えなかったけど。君たちは子供のころから仲良くしていたじゃない。ときどき私のところにも一緒に来てジュース買っていったでしょう」
 こいつ同情してるのかな、と僕は気づいた。あの同級生はこいつにとっても小さなころから(一方的にだが)たびたび見かけた町の仲間だったはずだ。
 振られた女の子を思いやる、おせっかいな街角の自動販売機。
「そりゃ幼稚園からの友達のひとりだったんだから嫌いなわけないだろ。どっちかといったら好きだし、いい友人だったけど、だからって付き合うのは別の話だ」
 答えながらも、僕は思い出していた。最前の同級生の告白を。
『断られるのはわかってた。ケリつけときたかったんだ、返事ありがと』
 つくづく女だけど男らしいやつだった。ちょっと感傷を覚えながら僕は缶を開ける。
 プルトップを起こしたとたん、汚らしくごぽごぽとあふれだすコーラの泡。
 ……中身を落ち着かせるのを忘れてた……
 もったいねーと毒づきながら僕は缶をかたむける。むせないよう注意しながらさっさと泡を処理している僕の横で、「別の理由……」首をかしげて考えこんでいる自販機の精がぽんと手を叩いた。
「あ、わかった。ほかに好きな子がいるんだ。だから断ったんだね」
【 たんさん が 気管 に INしました 】
 僕はカニよろしく泡をのどから逆流させた。うつむいてせきこむたびにコーラの気泡が口を押さえた手指の間からあふれる――こらえようと唇を閉じると鼻から噴出。
【 たんさん が 鼻孔 から OUTしました 】
「し、染みっ、炭酸がっ! 鼻の粘膜に!」
「何やってるんだい、キタナイなあ。君はほんとうに子供だね」
 悶絶する僕を前に呆れた声を出す自販機の精。この女……!
 が、殺意が高じる前に自販機の精は僕に歩みよってきた。彼女のとりだした手巾が僕の鼻に当てられて、(たちばな)の花に似た良い香りが鼻奥に届いた。
「はい少年。ちーんしなさい、ちーん」
「う、うるせえ!」
 顔が真っ赤になっている自信がある。僕は自販機の精からあわてて身を離し、学生服の袖で鼻をぐしぐしとこすった。彼女は気にしたふうもなく手巾をしまう。
「あーあ、コーラいっぱいこぼしちゃったね。なんなら前みたいに私のぶん分けてあげようか。どうせ私は一口で足りるし」
 こいつはなにも食べないがただ一日一回、自分の本体から缶を買って飲まねば元気が出ないのだという。
 分けてあげるとの申し出に、僕は手を振って断る。
「そう?」
 自販機の精は自分のぶんの缶を買ってきた。柔らかそうな朱唇が、缶の飲みくちに触れる。もっと子供だったころ、僕は彼女が一口だけ飲んだ缶の余りを毎日もらって飲んでいた。そのことを思い出して今ごろどぎまぎしはじめ、僕は彼女の唇から視線をそらした。
 ……どこで道を踏み外したんだ、僕は……
 動揺を心底情けなく感じつつ、ちょっと来し方を思い返してみる。

   ●   ●   ●   ●   ●

  〽わがふるさとは くすのきの若葉ほのかに香に匂ひ
   葉広がしわは手だゆげに 風にゆらゆる初夏を

 最初は、母さんに連れられて幼稚園にいく途中だった。
 甘く澄んだ歌声が耳にとどいて、幼児の僕はふりかえった。

   葉もりの日かげ散斑(ばらふ)なる (ただす)の森の下みちに
   葵かずらの(かむり)して 近衛使いの神まつり

 文房具の店にくっついた自動販売機の前。そこに、彼女は立っていた。
 着物姿だ。匂やかな水色綸子(りんず)の小紋を着た、二十歳ごろの美しい女の外見。

   (ぬり)(ながえ)の牛ぐるま ゆるかにすべる御生(みあれ)の日
   また水無月の祇園会(ぎおんえ)や 日ぞ照りしらむ山ぼこの……

 涼やかな面立ちに、目端に添った泣きぼくろが一点艶めかしさを添えている。長い黒髪は半ばを赤いひもでくくられ、肩ごしに胸前にまわされている。彼女の背後では、閉じた朱色の和傘が自販機の横にたてかけられてあった。
“テレビのなかのひとみたい”
 それが当時の、語彙(ごい)のとぼしい僕が抱いた第一印象。
 母に手を引かれてうながされてもぽかんとして見続けていた。
 じっと見つめていると向こうもそのうち僕に気づいたようだった。「……かなたへ、君といざ帰らまし」で歌いやめて、少し驚いた顔をしている。ややあって彼女は、にこにこしてこちらに手をふってきた。
 びくりとして、僕はその人を指さしながら母さんを見上げた。しかし母さんは「なあに。なんなの、ジュース飲みたいの? 幼稚園に行くからいまはだめよ」と困った笑顔になっただけである。
 そのとき幼児の僕は気づいた。
“おかあさんには、あのおねえさんがみえていないんだ”と。
“あれはちがう。にんげんじゃない”
 直感で断定し、僕は女の存在をそれ以上訴えようとはしなかった。
“おかあさんはからだがよわいんだからおどろかせてはいけない”
 以来、文房具屋の前にさしかかると、僕はぐいぐいと母さんをひっぱって早く離れるようにしていた。
 人間ではないその女は、ちょっと傷ついたような寂しそうな顔で見てくる。



 小学校に上がって少ししたころ。
 登下校に母さんの付き添いもなくなり、下校路の大部分を一人で帰るようになって(今から思えば防犯上どうかと思うが)、当時の僕は大変困っていた。
 一人だと、あの僕以外には見えない女が怖い。
“あれはぜったいにんげんじゃない”
 その確信のもと、僕は遠回りしてでもけっして文房屋の前は通らないようにしていた、のだが……あるとき、女が傘を広げて鼻歌交じりに町のなかを歩いているのを見てしまった。
 僕は恐怖した。
 ジバクレイ(地縛霊)とかなんとかいうあれで、あの自動販売機の前から離れられない存在なのだろうと思っていたのに、相手は予想外にフリーダムな行動を取っている。いくら出没場所を避けようとしても、町中でかち合う可能性が出てきたのだ。
 どうすればいい。
 いろいろ考えたすえ、ある昼下がりに当時の僕は勇気を出した。ひとりで文房具屋の前に行ったのだ。
 そこで、変わったものを見た。

  〽なにをか贈ろ、花贈ろ
   憂い顔なる此方様(こなさま)

 楽しげに歌う彼女は、自動販売機の前に屈みこんで缶を取り出そうとしていた。片手に下げた花のかごからは、嗅いでいると疲れが消えていくような芳香が立ち上っている。

   華籠(かこ)に摘みきた白うばら
   君ます方に参りたやと

 彼女の後ろにはヘルメットをかぶった中年の土木作業員が立っている――その作業員のおじさんは、女が見えているわけではないようだが、飲み物を選ぶボタンを押したまま、放心したように動かなくなっていた。
 震え上がる僕。
 現在では見慣れた光景だが、当時の僕にとってはそれは魔女が妖しげな術を使っているとしか見えなかった。いくらいい歌声にいい匂いだからって初見じゃ怯えたって無理ないはずである。
 作業員のおじさんは最初、なんだか機嫌悪そうに眉をしかめていたのだけれど、歌にあわせてちょっとずつしかめっ面が柔らかくなっていっていた。
 着物姿の女がコーヒーの缶を取り出してふりむき、魂を抜かれたみたいにぼんやりしているおじさんに渡す。
「はい、『当たり』を出したあなたにサービス。こんなものしかないけど」
 かれの肩のところに、かごから白い花びらをつまみ出してふりかけながら。
「じゃあね。またここで買ってね」
 缶を受け取って、おじさんは夢から醒めたように目をぱちくりさせる。首をかしげながら、僕とすれちがって立ち去っていく。――疲れを癒すいい匂いが、花びらとともにおじさんの服に移っていた。
 女は見あげている僕に気づいて、にっこりした。
「あ……君、やっぱり私が見えるんだ。上の神社の子だね。だからかな?」
「きえろ、おばけ!」
 かがみこんで目を合わせてきた彼女の笑顔に、持ちだしてきた浄めの塩を思いきり投げつけた。
 顔面に塩をぶつけられて彼女は目が痛いと泣きだした。
 泣きながら持っていた和傘をふりかぶって剣道の面撃よろしく僕の脳天に振り下ろした。
 こぶができて、僕も泣いた。



 相手の攻撃は普通の打撃だったし、喧嘩のあと呪われて死ぬような事態にもならなかった。
 そのため少しずつ警戒は薄れ、やがて僕は彼女と話すようになった。
「私はこの自動販売機に宿った意識が形をとったものだよ、少年」
 胸をえへんとそらして、その女は主張する。
付喪神(つくもがみ)ともいうね。つまりこう見えて神の端くれであり、君は私にそれ相応の敬意を払わなければなら」
「あ、ツクモガミ知ってる! ヨーカイの一種だってアニメで見た!……やっぱりお化けじゃないか!」
 僕が食塩の袋(500グラム入り)をランドセルからとりだすと、彼女は泣きそうな顔になって開いた傘をバリアみたいにかまえる。
「お、お化けじゃない!……とは言い切れないかもしれないけど、私はなにも悪いことをしていないし塩で(はら)われるようなケガレた存在でもない! 塩なんかぶつけられたって痛いだけだよ!」
 自動販売機の精。
 名無しの彼女を、僕はそう呼ぶことにした。
 最初は自販機の妖怪と呼んでいたのだが「妖怪なんて可愛くない呼び方はいやだ妖精にして」と彼女は猛抗議してきた。
「僕の倍はあるいいトシした見た目のくせになにが妖精だよイタイタしい。痛ピクシーとなら呼んでもいいけど」と答えたところ、つかみ合いの喧嘩になった。
 こいつオトナのおねーさんなのは外見だけだ、と完全に悟ったのはその時である。最初の喧嘩のときから薄々わかっていたが。
 とにかく、すったもんだの末に精とだけ呼ぶことで決着を見た。
 その自販機の精だが、見た目は人間でも、話を聞いたらやっぱりありえない存在だった。
 まず睡眠を必要としない。
「眠いという感覚がよくわからないよ。しんどくならないのかって? 動けば疲れるけれど、しばらく立っていたら治るしね」と彼女は言う。
 寒暖を感じることもないらしい。
「寒い熱いも知識としてしか知らないなあ。少なくとも、人間のように季節に合わせて着込んだり脱いだりはしなくても大丈夫だよ」
 着替えの必要がない。
「服はこれしか持ってないの。……汚くないよ、泥ついたってコーヒーこぼしたって時間たてば元通りになってるんだから!」
 年をとらない。
「私が出てきたのは十六年くらい前かな。最初からこの姿だったよ」
 これだけならちょっと羨ましいくらいである。だがひとつだけ当時の僕が同情したことがある――
 彼女は物を食べない。
 お腹が空かないだけでなく、料理の本に載った写真を見せても、おいしそうとは思えないらしい。ためしに彼女を夕方の商店街にひっぱりだし、お惣菜が売っている店先を見せてみたりもしたが、やはり無理だそうだ。
「人間って本当にああいうものを口に入れたいって思うのかな。うーん、どう例えればいいのかな。食べられそうだけど食べたくもならない、そういうものが少年にはないかい?」
「消しゴム」
 となりの席の田中くんが『カマボコと思えばいける』といって消しゴムを食べてみせたけど僕はそれを見ててもぜんぜん食べたくならなかったよ――細部はうろおぼえだが、そのようなことを彼女に話したと思う。自販機の精は「ここの文房具屋でも消しゴムを並べているけれど、あれを食べる人間もいるんだね」と感心したあと、
「そうだね。たぶん私にとっての『人間の食べ物』は、君にとっての消しゴムと同じだと思う。それ自体は見ていても嫌悪感が湧くわけじゃないし、やろうとすれば食べられるはずだけど、試したくもならない」
 ではなにも口にしないのかというとそうでもなくて、缶ジュースや缶コーヒーを一日一回飲んでいる。つまり自動販売機で売っているものなら口をつけるのだという。
「これだけは体が欲するというのかな? 飲まないとなんだか落ち着かないんだ」
 後から知ったが、神へ供えられた飲食物を神饌(みけ)というんだそうだ。
 正確には、彼女は賽銭(後述する)を使って自分で飲み物を買っているので、供えられたものとは言いにくいけれども。
 なお、缶の中身すべてを飲む必要はなく、“神饌を口にする”という行為そのものが重要とかなんとかで、少し口をつけるだけでじゅうぶんらしかった。一方、困ったことに神饌は新しいものでなければならず、飲み残しを次の日に飲んでも効果はないのだそうだ。だから彼女は毎日、自分の本体(?)から缶を一本買っている。
 で、それが僕がこいつと仲良くしはじめた理由でもある。
「はいどうぞ、少年」
 彼女は僕がその場にいると、缶の中身の大部分をくれるのである。お手軽に懐柔された僕。
 中学生の今ではそうでもないが、小学校のころの僕にとって毎日コーラが飲めるのは魅力的だった。
 当時、僕は自分から父さんに申し出て一切のおやつを辞退していたのである。……家の金を使いたくなかった。その一方でこうして外にジュースを飲める場を確保していたわけで、要するに銭に卑しく口も卑しい子供だった。
 そんなわけで下校途中に文房具屋前に立ちよって、変なお化けにおごってもらう日々が続く。



 ……通って数年もするとその自動販売機が意外に、というか異様に繁盛していることに気がつく。
 その夏の日も、自販機の精が一口だけ飲んだコーラを僕がかたづけている前で、三人もの客が順番待ちの列をつくっていた。上機嫌となった自販機の精は雨もないのに傘を差してくるくる回し、列の横で野ヒバリのように歌っている。

  〽「夏」の帝の「真昼時」は 大野が原に広ごりて
   しろがね色のぬのびきに 青ぞらくだし天降(あもり)しぬ

 さらに二人の通行人が「なんだかのど渇いたな」という顔つきで集まってくる。そして列に並ぶや夢遊病患者みたいなぼんやりした表情に変わる。ぼーっと瞳の焦点をさまよわせながら無言で金をのろのろ取り出す人々。
 セイレーンかよ……と僕は、歌で人をひきよせる、ゲームに出てきた怪物を連想する。さすがにもう自販機の精を怖がりはしないが、この光景を見ていると若干引く。……こういう売り方ってアリなんだろうか。
「あのさ、おまえの歌なんだけど……」
 缶を手にした人々が解せぬと首をひねりつつ去っていったあとで、僕はためらいがちに話を切り出した。彼女の歌のアブない効果について聞きだし、場合によってはそれをやめるよう言うつもりだったのだが、
「もう、またおまえなんて生意気な口づかいする。
 あ、歌のこと? なんで歌ってるかというと、わたしの本体はもともと缶が買われたときに音楽が流れる仕様だったんだよ。十何種類もパターンがあって、設置された当時は最先端だったんだから」
 本体を振りむいてちょっと誇らしげにそっくりかえる自販機の精。
「いや、そこ聞きたいんじゃなくてさ……」
「でも、設置されて四年もしたある日、とつぜんその機能が壊れちゃったんだよね。気がついたら私は傘をさしてここに立ってたんだ。それからずうっと本体の代わりに歌わせてもらっているよ」
 目を細めて懐かしげに来歴を語る彼女。
 どうにか話を戻させて聞き出したところでは、
「え、人をおびきよせる効果なんて私の歌にないけれど? 列ができてたからみんななんとなく寄ってきたんじゃない」
 とのことだった。信用ならない。
「失敬だね。そんな催眠音波商法してないよ。歌に多少のリラックス効果はあるけど」
「あの効きっぷりはリラックスってレベルじゃないだろ!? 客が目ェ虚ろにして、飼いならされたゾンビみたいになってるじゃん!」
 歌だけではない。
 彼女の本体の繁盛(はんじょう)には、ほかにもいくらかのからくりがあるようだった。
 自販機の精は割と町中を出歩いているようで、僕が十歳になったある日うちの神社に来た。
 学校から帰ってみたら境内に剪定(せんてい)バサミを持った彼女がいたのである。

  〽庭にかくるる小狐のー 人なきときに夜いでてー
   秋のぶどうの樹の陰にー しのびてぬすむつゆのふさー

 鎮守の(もり)で木の花を剪り、歌いながらかごにせっせと摘んでいる。歌と違って隠れも忍びもしない泥棒。
「何やってんのさ」
「あ、少年。花いただいてるよ」
「せめてうちにキョカを求めなよ」
 植えた花ってわけじゃないし、ジュースの恩もあるからいいけどさ。
 しかし彼女は「許可もらったよ?」と神社の本殿のほうを指さした。……深く追求してはいけない気がひしひしとしたのでそこは無視し、花を採るわけを訊く。
「当たり景品として使うんだよ、これ」
 そう言われて、彼女の本体が当たり機能付きであることを思い出す。
 ……そういうのって普通は缶をもう一本もらえるとかだと思うんだけど……
「もしかして音楽機能とおなじ事情? 景品が当たる機能ももともとは本体についてて、それが壊れたから代わりにおまえがやってるの?」
 たずねたら自販機の精が返事に詰まった。図星か。
 何度か当たりが出るのを間近で見たが、彼女が「おめでとう! おめでとう!」と言いながら花びらや木の実を相手にふりかけるのである。
 ちょうどいいから前からの疑問をぶつける。
「あの花まき儀式、客の得になるの? 花なんて食べらんないし、いい匂いの生ゴミばらまいてるだけじゃない?」
「生ゴっ……た、ただの花じゃないもの! 歌より強力な癒やし効果が宿ってるんだから。言祝(ことほ)ぎと手摘みの花の(なかだち)により、神力があなたの心と体に活力を与えます。ふふん」
「えっと、よくわかんないけど『神の祝福で回☆復』ってこと?……ゲームじゃあるまいしー。うさんくささ極まれりって感じ。僕なら缶もう一本のほうがいいな」
「君みたいな寝て遊んでを満喫するお子様にはこのサービスのありがたさが実感できないんだよ! 癒やしの力は疲れのたまった大人には評価されるの!」
 半泣きで罵ってくる自販機の精。
 じゃあその癒やし効果ここで試させてよと要求したが、
「あ、それは駄目。買って当たりを引いたらやってあげる」
 とたんに冷静に戻った彼女に拒否された。
 お客じゃない人に景品をあげるのは自販機のモラルに反するとかなんとか言われて、断固としてつっぱねられる。日頃はわりと甘っチョロい自販機の精だが、この件では頑固だ。やむなく僕は引き下がり、ふと訊いてみた。
「……その力って病気とかも治せる?」
「ううん、病気は難しいなあ。疲れがたまったのが理由の風邪くらいには効くけど」
「そうなんだ」
 世の中そんなにうまい話なんてないな、と残念に思う。



 いかに歌や花のおまけがついてこようと、自販機の精そのものの存在は僕以外に認識されていない。だから「なぜか心身が楽になった」ことと「その前に自販機で缶を買った」ことに因果関係があると知る客なんかいないはずだ。
 なんだけど、リピーターの多さをそばで見ていると、人間って無意識でも快さには反応して体で覚えるんだなあと納得する。
 ……しかし自販機の精は、たまに本体を残して散歩や花摘み(トイレに行くことの隠語じゃないよ)に出かける。その間に買った客には当然おまけがついてこないわけで、そうなると彼女の本体はただのボロい自販機である。
「だって一日中ずっとおなじことやってたら飽きるよ」ユルい付喪神の弁。
 とはいっても、人間基準でいうと自販機の精は勤勉に働いているほうだ。休日なんてないし。
 あまり客が来ない時間帯になると、竹ぼうきで文房具店の前を掃いていたり、火箸にゴミ袋をたずさえて路上のごみを拾ってまわったり、美化活動にいそしんでいる。おかげでこのあたりの道路や公園はやたらクリーンだ。清掃道具は文房具屋のものを使っているという。彼女が道具を手にしていても通行人は目さえ向けないので、どうやら道具もいっしょに見えなくなっているようだ。
 なお公園のベンチに新聞や小説などが放置されることがあり、自販機の精はそれを拾ってきて捨てる前に自分で読んでいる。
「ううう、この読み物は初めて読む種類だけどわけがわからない」
 目をぐるぐる回してオーバーヒート気味の彼女の手元を横からのぞきこみ、僕は彼女と同じくらい真っ赤になった。
「それはエロ本というんだよ自称神の端くれがんなもん読むなよ!」
 なぜ僕が単語を追っただけでそれが官能小説だとわかったかというと、クラスメートが教室に持ってきたブツを男子全員興味しんしんで読み回したからだ。しかし神職にたずさわる家の子としては、付喪神だろうとなんだろうと神と付いたものがヨゴレアイテムに触れているのを放置するわけにもいかない。
 だからお願いだ。だれのしわざか知らないが、フ○ンス書院は処分するなら指定された青少年有害図書回収ポストに捨ててほしい。でないとアホな付喪神が拾い読みする。



 十二歳、僕は中学生になった。
 さすがにそろそろ飲み物のおすそわけをありがたがる年齢でもなかったが、僕は彼女から遠ざかることはなかった。むしろ毎日のように暇を見つけて彼女のところに立ち寄るようになっている。主に求めるのは、彼女の歌の癒やし効果である。
「また何か聞かせてよ」
 地面に尻をついて自販機の本体に背をあずけ、僕はあくびしながら要求した。
「それはいいけど……なんか最近、疲れてるね?」
 自販機の精が心配気に眉を寄せる。僕はあくびしながら答えた。
「新聞配達始めたんだよ。朝が早いから眠くてさ」
 僕は一部だけ正直に答えた。町中を駆けずり回っているのだから配達のことはどうせそのうちこいつにもバレる。
 父さんの持ちこんだ内職を主に僕が片づけていること、学校から帰宅してそれに一日六時間ついやしていることなどは伏せた。
「新聞配達? なんでそんなのしてるの?」
「貯金が無上の趣味で」
「……君ってけっこうお金にがめつい子だね……私の本体から缶買ってくれることほとんどないし」
「いいだろ別に。たまに自分で買うときはいつもおまえんとこから買ってるんだから」

  〽この夕ぐれの静けさに、(たま)はしのびに息づきて、
   何とはなしに、おもひでに、二つの花の香を嗅ぎぬ。

 歌が体に染みいってくる。他の人間への効果ほどではないが、彼女の魔法は僕にも少しは効くのだ。陶然と聞き入りながら考えるともなく考えた。
 心地いい。
 歌のことだけではなく、自販機の精といっしょにいると、空気が楽だ。
 会話していようと沈黙していようと気詰まりがみじんもない。考えてみれば、そんな相手はけっこう貴重かもしれない。



 自販機の精と話していることを人に知られた。
 ある日、また彼女と話していると後ろで、ぎぎぃと木戸が開く音がした。
 カッパの干物のようなしわくちゃの老婆が、戸のすき間からうろんげに僕を見つめている。
「あ、いつも店の前で騒いですみません……」
 赤くなる僕。自販機の精の姿はほかの人には見えないのだから、客観的に見たら僕はひとりで空中に向けてしゃべっている変な男の子に映るだろう。
 その老婆がだれかというと文房具屋の主である。
 ……ほとんどの自動販売機が置いてあるのは実は公道上ではなく私有地だ。土地の持ち主は、置き場所を貸して売り上げの何%かのキャッシュバックをいただく・もしくは(非常に少ないが)機体ごと買い取って自分の土地に置くというシステムらしい。
 そんなわけで自販機の精の本体も、道路に接してはいるが文房具屋の敷地内に設置されている。
 古ぼけた瓦屋根に木目黒ずんだ板壁のこぢんまりした文房具店舗は、こういっちゃなんだけどおんぼろ小屋にしか見えない。江戸時代から建っていましたと言われても納得できそうな見た目で、塗装の色があせた古い自動販売機(彼女の本体)ですらその前にあっては文明開化の象徴に見える。
 文房具屋の店主も一世紀くらいは生きてそうな女で、姿だけなら自販機の精よりよっぽど妖怪じみている。その店主が開口一番に言った。
「あんた、オザシキ様と話ができるんかいね」
 僕は耳を疑って自販機の精を見る。彼女は苦笑している。
「店主さんも私のことが少しだけわかるの。……君みたいに会話や触れ合うことまではできないけれど、私がいることだけは感じるみたい」
「なるほど……でもオザシキってその呼び名はどういったわけで」
 僕の疑問に、店主は自販機の精のいるほうを指さした。
「その自動販売機にザシキワラシ様はとっ憑いてるじゃないかね。その方のおかげで、置いてある自販機の売り上げが伸びてあたしの小遣いが増えたよ。文房具の売れ行きも悪くないしね」
 なるほど。会話できないとこういう思いこみからくる誤解が生じるのか……
 売れ行き堅調なのがほんとに自販機の精のおかげなのかは確定していないだろう。そもそもザシキワラシじゃないし。が、誰も困っていないんだから訂正する必要はないかと思い直す。
 店主は表に出てきて、曲がった腰をさらにかがめて地面になにかを置いた。
 見るとそれは小鉢で、缶一本ぶんの小銭が入っている。
「一日一回、オザシキ様にお供えしてるのさ。今日はまだだったからね」
 僕がわけをたずねると店主はそう答え、手を合わせて自動販売機をおがんだ。その前で自販機の精が深々とお辞儀を返す。
「いつもお賽銭(さいせん)をありがとう、おばあちゃん。これのおかげで日々の糧を口にできます」
 つまり僕が毎日おすそわけにあずかっていた缶飲料の資金源は、この賽銭だったわけである。
「あ、あの……実は僕」
 正直にそのことを店主に告白すると、「オザシキ様が許してるんだろ。なら別にいいよ」とあっさり許可された。
 いい人だと感謝の念を抱いていたら、「あんたんとこはおっかさんが大変だからねえ。オザシキ様もそれで目をかけてるんだろうね」と言われる。僕の表情が微妙にこわばるのを見て「や、これは余計なこと言ったかね」と店主は首をふってつぶやき、店の中へと戻っていった。
 僕は横顔に感じる。自販機の精の視線がそそがれているのを。
 彼女はきょとんとしている。
「君のお母様がどうかしたのかい、少年」
 僕はその問いかけに、やや強い口調で答える。
「別に。ちょっと病気」



 市内の総合病院。ベッド横の椅子に座ったままうつらうつらしかけて、僕ははっと頭を起こす。新聞配達やら内職やらで、やっぱり眠い。
 特に内職、雀の涙の報酬なのにあんなに手間がかかるものだとは思わなかった。
 はやく働いて稼ぎたい。父さんは怒るだろうが、中学を卒業したら高校には行かず就職するつもりだ。どうせ最終学歴にかかわらず僕は最後は神社を継ぐ。そんなことよりいまうちには目先の金が必要なのだ。
「ちょっと何か飲んでくるよ、母さん」
 白いシーツに横たわって点滴を受けている病人は、僕が声をかけると笑みをうっすらと浮かべた。生命力の薄い、白く儚い笑顔。ここ数年、長い入院か家で臥せるかをくりかえしてきた母さんの肌は、すっかり色が脱けて青白くなってしまっている。ほほえんだのは、薬の副作用で苦しんだあとでうなずく力もないからだ。
 目覚ましに、階下の飲食コーナーで据えつけの自販機からコーラひとつ買う。ふだんはしない贅沢だが、たまにはいいだろう。あいつの宿った自販機以外から飲み物を買うのは久しぶりだな、となんとなくここにはいないはずの姿を思い浮かべつつ飲んだ。
 いた。
 トイレから母さんの病室へと戻る途中、廊下の突きあたりによく知った後ろ姿を見かけた。髪の長い着物姿の女性が角を曲がって消えるところ。
 自分の顔色が変わったのがわかった。
 走って追いかけたくなるのをこらえ、まずはベッドにいる母さんに「ごめん、またちょっと外す」と言い置く。
 足早に歩いて自販機の精の姿を探す――階段の踊り場で壁にぐったりよりかかっている彼女を見つけ、周りに響かぬよう注意しながら声を荒げた。
「何でこんなところにいるんだよっ! まさか僕のあとつけてきたのかっ」
「ごめんなさい」
 力のない声に怒りのあらかたを削がれ、僕は自販機の精をよく見つめる。口元を押さえてうつむく彼女の顔色はひどく悪かった。
「……顔青いぞ」
「……病院の空気が、ちょっと私には合わないみたい」
「余計なことに首つっこんでくるからだろ……」
 彼女への心配が急につのり、あまり強く言えない。
『病院は白く清浄な世界――に見えるし、清潔さに気をつかうという意味では事実そうだろう。けれど、患者は血を流し、何人かはそこで死ぬ。血や死を(けが)れとする神道的な視点においては、汚穢に満ちた場所でもある。おおっぴらに口にできることじゃないが』と、以前そんなことを父さんが言っていた。自販機の精も神の一種なら、病院と相性が悪くても不思議じゃない。
 ごめんねまた今度、と言ってふらふらと彼女は立ち去っていった。
 後日。
「母さんはある日倒れて入院したんだよ。よくある話だって」
 僕はぶすっとしながらも、自販機の精にあらかたの事情を説明した。
「たしかにあまり良い容態とはいえないけど……治療さえ受けてれば、別に今すぐ死ぬような病気じゃないんだよ。ちょくちょく家に帰ってこれるくらいに安定してるし」
「……うん」
 自販機の精はずっとしおれている。
 病院の空気に()てられたままなのか、あとをつけたことを悪いと思っているのか、単純にこちらに同情しているのかはわからない。
 それとももしかしたら、こういう話をずっと彼女には打ち明けなかったから落ちこんでいるのだろうか。いつもうざったいくらい元気なこいつが沈んだ表情をしているのを見ると、わけもなく胸が締め付けられて、腹が立ってくる。
「だから辛気くさいのやめろって。大変だねといちいち人に言われんのがもううんざりだったから……おまえに限らず、自分から人には話さなかっただけだよ」
 それに、慰めを言われれば言われるほど、かえって不安が募るのだ。
 僕は首を振り、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「ほんとに大丈夫なんだ。難しい病気といったって、移植手術を受けさえすれば治るんだから」
「『手術』?」
 とたん、自販機の精が顔を上げて目を大きく見開いた。急に彼女が間近に迫って「うわ!」と僕はのけぞる。
「……私は『手術』というものは話でしか知らないけれど、それをやれば君のお母様は治るの?」
「な……治るよ」
「ほんとに?」
「治るって言ってるだろ!」母さんは治る。治るに決まってる。「なんなんだよ、さっきから!」
「『手術』って、いつやるの」
 真顔で雰囲気を張りつめさせ、自販機の精はたずねてくる。
 僕はほぞを噛んで正直に告げた。
「はっきりした時期はわからない」
「え?」
「いつ手術できるかわからないんだよ! 移植手術というのは登録された提供者(ドナー)が死、えっと、提供できる状態になるのを我慢して待つしかないんだ。手術を受けたがっている患者は他にもいて、順番待ちだし……母さんも何年も待たされてる。順番はもうすぐ回ってくるはずだけれど……」
 日々の薬代や入院費で、うちの経済状況は逼迫(ひっぱく)してしまっている。肝心の手術については親戚や、最悪の場合、氏子や他の神社に頭を下げてまわればお金を借りることができるだろうが……それにしても、先が見えないのは少々、きつい。
 お金はまだいい。考えたくもないのは、待っている間に母さんの容態が決定的に悪化して手遅れになる事態だ。
 呆然と視線をふたたび落としていた自販機の精が、思いつめたように発言した。
「私、力になれると思う」
「何を――」
 口をつぐんで僕は彼女を見る。ささやかだが不思議な力を持つ自販機の精を。
 一気に口内が干上がったかのように感じる。僕の声はひどくかすれて響いた。
「まさか……治せるの? 母さんを?」
「ううん。前に言ったように、治すのは私の力では無理。だけど……『手術』の日まで保たせるくらいなら、たぶん」



 一輪挿しに立てられたコスモスの花が、甘い香りを台所じゅうに撒いている。
 優しい魔法。
「夕飯の支度なんていいのに。僕がやるって」
 エプロンをつけて流し台の前に立つ母さんに僕は声をかける。
 だいじょうぶ、最近はとても調子いいのよと母さんは微笑む。それは知っている。以前に比べて顔色は格段によく、何よりこうして家にいて臥せることもないのだ。治ってこそいないが、無理しなければほぼ通常の生活ができるまでになっていた。
「それじゃ任せるけど無理するなよ。あと、ちょっと出かけてくる」
 いってらっしゃいと柔和な声を背に聞きながら、僕は自販機の精のもとへ行く。
 ここ数ヶ月母さんが元気なのは、彼女のおかげだ。
 自販機の精がもたらしてくれる“当たり景品”の効果。
 神頼み――もっと早く、しておけばよかった。
「今日も買わせてもらうから!」
 僕はにこにこしながら、自販機の精のところに駆け込む。無言でうなずく彼女の本体に千円札を入れ、一番安い水の缶を十本つぎつぎ買っていく。
 自販機の精とふたり、息をつめて、本体の腹についた“当たり”のランプが点灯することを願う。……当たりが出る確率は十五分の一くらいに設定されているという。
 当たり来い、当たれ、当たれ。
 ……もう一枚千円札を追加までしたのに、その日は当たらなかった。
「二十回続けて外れちゃった……」
 悄然として、それから僕は彼女をちらりと見る。厚かましいことを口にする羞恥と、浅ましい甘え心をこめて。
「お金もうないけどさ、その……今回も、ツケでいいかな」
 僕が当たっても当たらなくても、彼女は二日に一回はうちに来てくれて、母さんのために“当たり景品”――癒やしの花を与えてくれる。すでにこうしたツケは八回分は溜まっている。
 ……当たりを出していないのに特別扱いに甘えて癒やし効果をほどこしてもらう僕の行いは、まちがいなく駄目なんだろう。
 おそらくこれは彼女の自販機としてのモラル、あるいはルールに反することなんだ。彼女が最近悩んでいるように見えるのはこのことと無縁ではないはずだ。
 彼女は、それでも僕の要求に、覚悟を決めたようにこくんとうなずいてくれた。
 申し訳なさで胸がいっぱいになるが……それでも僕は、母さんが人並みの暮らしを送っているといういまの幸福を手放したくなかった。



 さらに二ヶ月して秋が終わったころ、待っていた日が予想よりも早く、唐突に訪れた。移植手術が行われることになったのだ。
 僕は真っ先に自販機の精にそれを告げにいった。
 深い安堵の表情で、彼女は息をついた。
「よかった……野山の生きた花や芽を集めるのが大変になってきていたから」
 それを聞いて僕は背筋を寒くする。そりゃそうだ。冬になるとそうなるのを忘れていた。
 つくづく幸運だ。
「治るんだね、これで」
 ぽつりとつぶやいた自販機の精に僕は力強くうなずく。
「母さんは手術に耐えられる体力だって戻ってる。きっとだいじょうぶだ。
 あの、……ぜんぶおまえのおかげで……その……」
 素直に礼を言うつもりだったのに、面と向かうと妙に照れて言葉にしにくい。
 自販機の精は「君がたまに殊勝だと調子狂うなあ」とはにかんだ笑みを見せる。
 ただその直後、彼女の表情にどこか憂わしげな色がかすめたのが、気にかかった。



 暗い冷たい空が頭上にのしかかってくる。
 冬の暮れ方、葬儀の終わったあとだった。僕はのろのろと自販機の精に報告する。
「手術自体は成功したんだ。患者は死んだけどさ。……この医者の冗談って定番らしいけど、つまんないな、ほんと」
 自販機の精は言葉を失ったかのようになにも言わない。僕の表情を一目見たときから凍りつき、両手で口元を押さえたまま立ち尽くしている。
 僕は彼女に背を向けた。
 見つめていたら、ふとしたはずみに彼女をなじってしまいそうだ。筋違いだとわかっていても。
「手術以前に、患部がとっくにあちこち転移してたって……潜伏してて検査しても見つけられなかった、なんてふざけたこと聞かされた。手術して少ししてから、ありえないほどの速さで一気に増悪して、手がつけられなかったらしいんだ」
 目を覚まさないまま昏睡状態になって、二度と母さんは起きなかった。苦しまなかったことを喜べばいいのだろうか。
「医者には、冬までもってたのが奇跡だったって言われたよ。本来なら夏前には死んでたはずだったって。まるで不思議な力で病状の進行が止まってたみたいだ、って。
 ……最初からわかってたんだな、おまえには」
 僕は彼女を問いつめる。
「あの日、初めて総合病院に来たときに……母さんを見たときに……母さんがもう死ぬって、おまえにはわかってたんだ。そうなんだろ」
「『手術』したら……治るのかと、おもってた」
 自販機の精のかすれ声を聞いて、唐突におかしさが胸の底からこみ上げてきた。
 失笑を噛みつぶすと、それは苦いうめきに変わった。
 手術で治るんだと、僕は断言した。他の可能性など無理やり消して。こいつはそれを信じた。「手術」まで母さんの命を保たせられれば、彼女のよく知らないその方法で母さんは助かるのだと。だから、“当たり景品”で母さんの命をつなぎとめてくれた。
 彼女の非などなにもない。
 だが、
「なんで、教えてくれなかったんだよ。母さんの寿命が尽きてるって」
 それを僕に告げてもどうにもならなかったのはわかっているけれども。自販機の精が僕を悲しませまいと気をつかって伏せていたのはわかるけれども。
 心が千々にささくれて、
「子供扱いしやがって、余計な気を回すなよ……!」
 悲鳴のようにほとばしった激情の声を、彼女にぶつけてしまっていた。
「正直に言って覚悟させてくれていたら……一度は母さんはもう大丈夫って思ったのに……期待をもたせたあとで、駄目でしたなんてっ、急に突きつけられたらかえって苦しくなるばかりじゃないか!」
 ――そうやって支離滅裂に八つ当たりを吐きつづける僕の背に、温かさが寄りそった。
 花橘(はなたちばな)の袖の香とともに両腕が、ふわりと僕の頭を抱く。
 彼女の涙が僕の首筋を濡らす。
 ごめんね、ごめん、と謝る彼女の涙声。
「悲しませてごめん。たいしたことができなくてごめんなさい」
 小刻みに震えて、僕はややあって首を振った。
「ちがう……おまえがあやま、る、ことじゃ……」嗚咽のしゃっくりで言葉が途切れはじめる。「ほんとは、いままでありがとって、言わなくちゃ、って、ここに……」
 最後に数ヶ月、母さんを人らしく生きさせてくれてありがとう。かろうじてそれだけ言うと、首に回された彼女の腕をすがるようにつかみ、僕は思い切り泣いた。
 母さんの死のあと、だれかの前で初めて流す涙だった。



「誰それがあと何年生きられるのか、そういう細かいことは私にはわからない。ただ、“最期のとき”が来たら、直前にわかるだけ」
 自販機の精はあとになってそうぽつぽつ僕に語った。



 公園の、咲き誇る梅の下。僕はベンチで横たわっている。
 自販機の精にひざまくらされながら。
 ……母さんの死からまだ数ヶ月で、どうも何もやる気が起きなかった。
 父さんや、学校の友達と一緒にいるときなんかはもう普通にしていられるけれど……ひとりになるとなんだか、胸の芯を抜き去られたかのように思考も気分も虚ろになる。このごろは、夕食が終わるや次の朝になるまでベッドに横たわって天井を見つめながら過ごしてたりする。
 そんな僕に気を揉んであれこれおせっかいを焼くのが自販機の精だ。今日も「梅がみごとだから見に行こうよ少年」などと言い、僕の手を引いて連れ出した。
「観梅なんて平安貴族みたいなお上品な趣味がチュウガクセーにあるわけねーだろ」と憎まれ口を叩きながらもついてきた僕。
 ベンチに座ってぼけっと梅を眺め、持ってきた缶コーラを久々に分けあって飲み、「梅は『(うま)し花』が語源なんだよ」と怪しげな説をぶつ彼女の話に適当に相槌をうち――いつのまにか彼女の太ももに頭を置くようにしてベンチに寝かされている。
「やっぱりまだしんどそうだね。寝てていいよ、少年」
「ダウンジャケット着てても寒いっつの、寝れるかよ……」
 口でそう言いながらも僕は身を起こさなかった。ほんとうはぜんぜん寒く感じていいない。彼女の温かく柔らかい感触に接していると、なんだかとても安心するし気分がぽかぽかしてくる。
「あんまり、僕に構うのよせよ……」
 すごく心地良いのだけれど気恥ずかしさもやっぱりあって、そう文句を垂れた。
 自販機の精は意に介さない態度である。彼女はそっと笑って、自分のひざの上の僕の頭を撫でた。
「しかたないじゃない。君は私にとってひとりだけ会話できる人間で、弟みたいなものだもの」
「……あっそ」
 弟と言われて、妙に面白くない。
 ――……。
“なんで面白くないんだ?”
 急に、
 猛烈に、
 気恥ずかしさが十倍二十倍くらいにふくれ上がった。
 紅梅の花を背景にほほえむ艶やかな小紋姿が、僕の脳裏に焼きつく。泣きぼくろのある蠱惑的な目が優しげに見つめてきている。自販機の精がとんでもなく綺麗な女性であることに、僕がほんとうの意味で気がついたのはこの瞬間だった。
「げっ」
 動揺し、変な声が漏れた。
 待てどうも混乱しかけている、と急速に茹だちはじめた頭で考える。
 この心の動きがいかなるものか整理しなければ――整理もくそもあるか、こんな現象あれしかない。
「機械か妖怪かという相手に……! さ、最悪だ僕の青春!」
「なあに? また私の悪口かなにか言ってるのかい?」
 聞きつけた自販機の精がじと目になる。
「いや、待った、違うからっ!」
 おちつけ、と心中で唱える。よく考えろこんなやつを好きになるとかありえない。ぶつぶつ否定材料を口にして並べ立てる。
「そうだ……こいつはガキっぽくて、すぐムキになって、世間知らずのくせに大人ぶるし、服装が時代劇だし、歌も著作権切れてるすげー古臭いのばっかだし……」
「悪口三昧吐いてるでしょ! まな板の上の鯉体勢でいい度胸だね!」
「いででででで」
 目を三角にした自販機の精が僕の鼻をつまんで上に引っぱる。キツネ顔と化す僕。
 制裁の直後、彼女がふと心配気な表情になった。
「顔、さっきからどんどん赤くなってるけれど……これって病気かなにか?」
「わ、ちょ、なんでもない! 病気じゃないからのぞきこむな!」
 まずい。頭で彼女の残念なところをいくら数え上げても、“でも裏表ないし優しい”とか“すごくいい匂いする”とか、心が勝手に擁護をならべたてやがる。おかげで顔の熱も心悸の高まりもまるで引かない。とっさに視線と話をそらす。
「そ、それより、元気が出るようになにか歌ってよ」
 彼女の歌にはリラックス効果があるのだから、そのあいだにこの緊張・動悸加速状態も収まるだろうと当てこんでもいる。彼女はこほん、と咳払いしてから応えてくれた。

   〽まだあげそめし前髪の りんごのもとに見えしとき
    前にさしたる花ぐしの 花ある君と思ひけり
    やさしく白き手を伸べて りんごを我に与えしは
    薄くれないの秋の実に 人恋ひそめしはじめなり

「………………おまえ、それ、わざと?」
「? なにが?」
 島崎藤村の“初恋”という詩だ、たしか。
 しかしこいつのことだから、この歌選んだことに深い意味ないんだろうな……と、自販機の精の本気で小首をかしげる様子を見て僕は嘆息した。

   ●   ●   ●   ●   ●

 顔から火が出そうになり、僕は回想を終了させた。
 あああああと叫んでうずくまりたいという衝動。どこで決定的に道を踏み外したか答えは出ている、確実にあの梅花見のときだ。一番大切な人を失ったあとで、一番大切な女性ができた日。
 その相手である人外女が無神経なことをずけずけ訊いてくる。
「それで、君にはほかにつがいになりたいと思ってる子がいるのかい」
「もうその話はいいっつーんだよ! いまはマジで恋愛なんか興味ないの!」
 熱い顔を全力でそらしながらあさっての方向に怒鳴る。
「あ、それとも引越していった先で作るつもりなのかい、少年。うん、それがいいのかも。そばにいる子を選ぶほうが寂しくないものね」
「……おまえさー……やたらしつこいと思ったけど、また変な気回してるだろ。母さんのことなら一年前じゃねーか、僕はとっくに立ち直ってるよ。現在まるで寂しくなんかねーから」
「私はいますごく寂しいけどなあ。少年が来月にはいなくなっちゃうこと思うと」
「…………そ、そう、か」
 僕もほんとはおまえと離れるのは、とぼそぼそ続けたが、あまりに小声すぎて彼女には届かなかった。彼女はさみしげに微笑する。
「うん。でも、君が一人前の神主になるためならしかたない」
 僕が行くのは、神道系の大学付属の高校だ。
 神職になる道はいくつかあって、そのうち簡単なものはコネで現役神職の推薦状をもらうこと。これは実家が神社だと簡単だ。母さんが病だったころは僕は中学卒業したらすぐ働くつもりだったから、いずれうちの神社を継ぐとしてもこの方法を選ぶつもりだった。
 けれど母さんは死んだ。父さんは僕にちゃんとこの道の教育を受けさせたがっている。いろいろ考えて、僕はこの町を出ることになる試験を受けた。
 自販機の精(好きな奴)から離れたいわけじゃないけれど、
「だから君が、知らない人ばかりのところに行っても寂しくないように、つがいを作ってくれたらなと思って」
 ……この発言でもわかるとおり僕に望みは皆無。自販機の精がこっちを男として意識する様子はない。
「いらないお世話すぎる、見合いセッティング好きなおばちゃんかよ。だいたい寂しくないようにってことなら友達で十分だろ」
「え、でも普通の人間は年ごろになったらお相手作るものなんでしょう」
「敵を作るぞその発言。恋人作らない奴も作れない奴も普通にいるっての」
 こいつはそもそも恋愛感情というのがどんなものか理解できているのかさえ怪しい。
 そして僕は、僕に告白してきた同級生と違い、“告白して振られてでもケリをつけたい”とは思っていないのだ。むしろ、試験を受けて町を出て行く理由のひとつは、そばにいることではずみで想いを告げてしまう事態を避けるためだ。
 告白すれば確実に彼女を困らせるだけで終わる。好きな相手でなくとも彼女のことは大切だ。昔から街角にいた自動販売機の精。誰よりそばにいて安らぐ友達で、姉みたいなもので、母さんのことで恩がある相手。
 それらの絆まで、一時の気の迷いで壊したくない。だから告げない。
 代わりに僕はぶっきらぼうに彼女に言う。
「こっちに実家があるんだし、ちょくちょく帰ってくるよ」
「うん。知ってる。帰ってきたら顔見せてくれると嬉しいな」
「もちろん」
 ちょっと距離をおけばこの不毛な想いは薄れるだろう。


    ●   ●   ●   ●   ●


 大学の寮では実家から催促されようとなかなか故郷に帰らない者も多い。俺のひんぱんな帰省を理解不能と評するのは、そういう同寮の寄宿人の一部だ。
 故郷の駅の改札から出たとたん、通りの向こうから呼ばれた。
「少年! 少年少年少年っ」
 目を輝かせた自販機の精は、開いていた和傘をもどかしげにたたんだ。小紋の袖をひるがえし、雪駄でぱたたたと駆けてくる。俺は苦笑で待ち受ける。
「おかえり!」
 笑顔を弾けさせて彼女は、俺の右腕に飛びつきぎゅっと抱きしめてきた。一瞬どきりとしたが、帰省するたび彼女の激しめの親愛表現にさらされるのは割と慣れている。
「ただいま……おまえはいつでもほんと変わらないな」
 こっちはだいぶ変わったのに、と思いながら彼女を見下ろす。
 もう三年半前となった中学卒業のころ、俺はいまほどのっぽではなく、目線は彼女と同じ高さにあった。
 眼鏡もかけていなかったし、「俺」ではなく「僕」と自分のことを呼んでいた。
 無事に付属高校から大学に進み、俺の容貌に子供らしい可愛げがなくなった今でも、自販機の精は俺を小さな弟のように扱うのだ。
「それで、なんで駅で待ってたんだ、おまえ」
「前回の帰省から一ヶ月も間があいたでしょう。そろそろ帰ってくるかなと思ったときに散歩を兼ねてたまに駅に見に来てるの。今日はじめて大当たりした!」
 どや顔で胸をそらす自販機の精。外見キツネ系美女、中身ワンコ系。俺は目を細め、犬耳とぶんぶん振られる尻尾が彼女についているところを想像してみる。和む。
 と、右腕をぐいぐい引っ張られた。
「さっそく私の本体のところに寄っていくよね!」
「なんだ、目当ては俺の財布か。はいはい立ち寄るよ。文房具屋のばあさんにも久々に挨拶しとくかな」
「うふふ」
 上機嫌に笑う彼女。
 帰省のたびいつも俺は彼女のもとでコーラを買い、長時間昔のように並んで話す。別になんということもない学校と寮(向こう)での暮らしの話、故郷(こっち)で起きていたことの話、その他とりとめのない雑談――けれど彼女とのその時間が、じつのところ帰省の主目的だ。親父には悪いが、自販機の精がいなければこの町に帰るのは年一回か二回で済ましているだろう。
 いつまでも変わらない故郷の象徴は、いつ帰っても喜んで出迎えてくれる。
 ……その周囲を見れば、変化した部分がないわけではないけれど。
「ばあさんが園芸趣味に目覚めたのか?」
 彼女の本体のもとを訪れて、俺は開口一番そう言った。鉢植えやプランターの花が自販機をとりまいていたので。
「ううん、花を植えてるのは私。お客さんからはおばあちゃんがやってると思われてるだろうけど」
「おまえが? なんで?」
「最近、『再開発』とかで近くの空き地がどんどん潰されて、当たり景品のための花を採れるポイントが少なくなってしまったんだよ。だから自分で花を増やして補おうかなって」
 言われてみれば、花のほとんどはそこいらで見るような野山の花である。
「採集から農耕へ文明を進歩させたか……それはいいが花の入れ物が汚ないな」
 俺はしゃがんで植木鉢やプランターを検分し、欠けたりひびが入ったりしていることを指摘した。自販機の精が恥ずかしげに首をすくめる。
「その……捨てられていたものを使ったので……」
「ビジュアルをよく考えろ。壊れかけの古くさい自販機が、落ち武者のかぶとに土詰めたみたいな植木鉢をしたがえてるこの光景を。ただよう陰々とした雰囲気で常連客も遠ざかりかねん。あ、もしかしてこの植木鉢連中も化けて出るのか? 付喪神の百鬼夜行だな」
「君は昔っから口が悪くてこまっしゃくれたイヤな子だったねひと月ぶりに思い出したよ!」
「……『しょうがないから俺がきれいなプランターを買ってきてやろう』と考えていたが、考えなおすことにする」
「君は昔から根はいい子だったね! えらいえらい」
 見る間にてのひらを返してにこにこしはじめた自販機の精が、しゃがんでいるこっちの頭を撫でてきた。……胸のうちにくすぐったさと小さな腹立ちが芽生える。
“……こっちはもうすぐ成人だ、歳を取らないおまえの外見年齢をもうすぐ抜くんだぞ”
“俺たちはもう並んでも姉弟には見えない。俺は弟として扱われたいんじゃない”
 そんならちもない言葉がのどまでせり上がってくる。黙って腹の奥に押し戻した。告白しないと決めたくせに、我ながらあきらめが悪い。
 ……高校に入ったときは、いったん距離をおくことで気の迷いが晴れるはずだと確信していたのだが、あいにくそんなことはなかった。
 決めた。
 やっぱりそろそろ恋人を作ろう。この不毛な恋を一刻も早く断ち切ってやる。
 そこまで決意して、俺は気分転換にスマートフォンを取り出した。植物図鑑アプリを起動させる。
「何してるんだい? それはなんだい」
 俺の背にかぶさるようにして、彼女が肩口からスマフォの画面をのぞきこんでくる。くっそ毎回毎回少しは距離の近さを意識しろこの女――とひっそり腹のなかで毒づく俺。なおこっちの意識の90%は背に密着した柔らかい重みやら温かさやら橘の匂いやらに振り向けられて、せっかく開いた植物図鑑の情報がほとんど頭に入ってこない。残り10%の思考能力でどうにか情報処理、返答。
「咲いてる花の種類を調べてんだよ」意馬心猿(ムラムラ)去りやがれと念じながらまず季節で検索、花弁の色や葉のかたちで絞り込む。「これはカタバミだな。これは萩……これはジシバリか」
 無心の検索が功を奏し、煩悩の波が徐々に引いていく。花の美しさを愛でる余裕も出てきた。こういった野の花は野の花なりに、華やかとはいえないが清雅なおもむきがある……
「ん? と思ったらこの花はけっこう派手だな」
「あ、それ珍しい花でしょう。うふふ、いままで見たことがない種類なんだ! 見つけたときは嬉しかったよ」
「ほう」
 検索。
 ………………。
 ……この花は、
「Oh……! ポピー……!」
 恐怖のあまり外国人みたいな声を出す俺。
「あ、ポピヰっていう花なのかい? ヒナゲシに似てるね。人が立ち入らないやぶの奥にいっぱい咲いてたのを見つけたから何株か採ってきたよ」
「こ、こ、このアホ、ポピーってのはケシの花の総称だがこれは海外産の法に抵触する品種だ、群生していた場所を詳しく言え、だれかが隠れて麻薬畑を作っている可能性がある! いやまずこのプランターを即刻処分しろ、文房具屋のばあさんをアヘン原料栽培容疑で逮捕させる気か!?」
 ぶっそうな世の中になってきたものである。
 こんな調子で彼女がまた何かやらかしていないか心配で、俺の帰省の頻度は下がらない。“離れていれば想いが薄れる”もなにもないわけで……確実に最大のアホは俺だ。



 その翌夏の帰省で、同行した連れに腕と腕を組まされながら文房具屋の前を通りかかった。
 自販機の筐体(きょうたい)が開いていた。そのすき間から小紋の布地に包まれた丸いお尻が突き出されてもぞもぞしている。自販機前にはレンチやドライバーなどの整備道具が散らばっていた。
 なにやってんだあいつ、と俺は連れにひっぱられながら自販機の精の後ろ姿を注視する。と、彼女は視線を感じたのかふりかえった。
「あっ、おかえり少ね……ん……」
 鼻の頭に汚れをつけた笑顔が凍った。
 彼女の視線は、俺の右腕をかかえこんだ連れに固定されている。「ねえ、あつーい。早く行こうよ」とせっつく声をだすゆるふわ茶髪の女性に。
 ごしごしと顔の汚れを袖でぬぐい、自販機の精はこっちに歩み寄ってきた。
(よう。自分で本体を整備するスキルなんてもってたのか)
 俺の超小声でのささやきを無視し、隣に並んで歩きながら自販機の精は顔を寄せてきた。こそっと問いかけてくる。
「そのひと、どういう関係?」
 どうせおまえは他の人間には見えないし聞こえないんだから普通に訊けばいいのに、と思いながら俺は答える。
(そろそろ察するスキルを身につけろ。彼女だ)
「……この前連れてきた子と違うじゃないか」
(そこも察しろと言ってるんだ。前のには振られた)
「またぁ!? 去年から数えて四人目じゃない!」
 並んで歩きながら、自販機の精が呆れた声をだす。
(うるさいな、好きこのんで短期破局くりかえしてるわけじゃない。昨今の神職業界のもっぱらの懸案は嫁と跡取りの確保だぞ)
 本当のことだ。大半の神社は儲かっておらず因習が多い業界ということもあり、なにげに嫁いできてくれる女性が少ないのである。そのせいで伝統とともに血が断絶した社家なぞ腐るほどある。『だから愚息よ、出会いの多い大学のうちにうまく相手を確保しておけ。後から嫁探しに血眼になる手間が省ける』というのがうちの親父の教えだった。
 というわけで、と俺は右腕につかまる新恋人を指さしてぼそぼそ。
(俺の故郷見てみたいと言いだしたので連れてきた。うまくいけば嫁候補になってくれるかもしれない)
「そういう打算むき出しだからすぐフラれるんじゃないかい……?」
 白い目をしたのち自販機の精は、にっこりして「……じゃ、またね」と手を振った。
 なんの気なしに俺は答える。
(ああ、また後でこっちに来る。こいつ暑さでばててるし実家で休ませるから、そのあいだにちょっとくらいなら抜けだしてこれそうだ)
 自販機の精が複雑な表情になった。戸惑いをおもてに出し、遠慮がちに眉をひそめて、……ほんのすこし困り顔が嬉しげに見えた気がしたのは、俺の願望だったかもしれない。
「カノジョさんについててあげたほうが……一人きりにされたら心細いんじゃないかな」
 たしなめられて、俺はようやく自分の非常識な思考に気がついた。
(あ、ああ。そうだな。……じゃ、また今度にゆっくり)
「うん」
 立ち止まった自販機の精がほのかな笑みを浮かべた。
 しばらく歩いて、自分の馬鹿さ加減にげんなりする。不毛な恋を断ち切る決意でこうして相手を作っているのに、その相手より自販機の精を優先していたらなんの意味もない。隣にいる恋人に対しても罪悪感がいまさらながら湧く。
 その恋人には、二週間後に振られた。



 七人目に振られたのをきっかけに、人間相手に恋愛ごっこを試みるのはやめた。
 不本意ながら俺が女をもてあそんでは捨てる男という事実歪曲もはなはだしい噂(毎回振られるのはこっちなのに)が広まり、大学内で友人からすら鬼畜メガネと呼ばれるようになったことも一因だ。結局、卒業までそのありがたくないあだ名はついてまわった。



『ごめん、これ以上あんたのそばにいるの無理。あたしといても何してても他の女のこといっつも考えてるのが丸わかりなんだもん』
 七人目の、最後の恋人に別れ際に投げつけられた言葉。
『なんかふとした瞬間に寂しそうな顔見せるのが気になったから、最初はきゅんって来て声かけたけどさぁ……あたしのことまるっきり眼中にないんだってわかっちゃうと、だんだんナメんのもいいかげんにしろって気分になってきちゃうんだよね。
 どこのだれか知んないけど、そんなに好きならさっさとその人のとこ行けば? じゃあね!』
 大学時代のことをぼんやり回想しつつ、スーツにネクタイ姿の俺はあかね色の空をあおいで嘆息した。
「そりゃ付き合った相手にことごとく愛想尽かされて当然か……」
 慚愧の念をかみしめながらもいまも俺の足が向かっているのは、文房具屋の前だ。
 彼女の姿が目に入れば、それだけで気分が浮き立ってセンチメンタルな気分が吹っ飛んでしまうのだから救いようもない。
 通りを竹ぼうきで掃いている自販機の精は、こちらに気がついて目を丸くした。
「どうしたの。まるでサラリーマンみたいな格好だね」
「そりゃサラリーマン目指してるというか、就活の面接帰りだからな」
 答えると彼女は首をかしげる。
「あれ、いまは実家で出仕(神職見習い)やってるんじゃなかったの?」
「その立場だけど、給料が無いも同然だからな……兼業する。若いうちにちょっと貯めときたいんだよ、金と社会経験を」
 平日はほかで働き休日に本業、という兼業スタイルの神職は珍しくなくなってきている。金はなくとも社会的な信用と氏子・同業者人脈のある神主業は、就活にはちょっとだけ有利だ。
「そういうわけで、しばらく就活するよ」
「お勤めしてもこの町から出て行くということは……ないよね」
「ああ。修行のかたわらだからな」
「よかった。また寂しくなるのは嫌だもの」
 嬉しそうにほころぶ自販機の精の表情に、一瞬心臓をつかまれたような気分になった。この女深い意味なく思わせぶりなことを言いやがって、相変わらずたちが悪い。
「あ、お掃除すぐ終わるからもうちょっとだけ待っててね、少年」
「……はいはい」
 植木鉢をよけて彼女の本体に歩み寄り、俺はコーラを買う。

  〽森のねぐらに夕鳥を
   ふもとの里に旅人を
   静けき墓になきがらを
   夢路の暗にあめつちを
   送りて響け暮の鐘。

 穏やかに歌いながら竹ぼうきを動かす彼女を、夕日が照らしている。
 本体によりかかってコーラを飲みながら俺はそれを見つめた。
 彼女の最前の言葉を考える。寂しくはないが俺はたまに虚しくなるぞ、と声にせずつぶやいた。
“おまえ、いつまで俺のことを「少年」って呼ぶんだ?”
 見た目だけなら俺のほうが年上になっているのだ。
 俺が白髪の老人になってもまだおまえは、その呼び方で俺を呼ぶのだろうか。いつまでも変わらないその姿で。
「そろそろ出会って二十年近くか……」
 不毛な初恋をこじらせてからは十年近く。中学生のころは一時の気の迷いだと思っていたのだが、いまだに思い切るに切れていない。かといって想いを告げるつもりにもなれない、現状でもそれなりには幸せなので。
「……我がことながらこんな優柔不断野郎のどこが鬼畜なんだか」ぼそっと自虐。
 俺のことを悪しざまに言うならヘタレ眼鏡のほうがより当を得た呼称だろう。
 なお就活だが、衣料品を取りあつかう企業に就職できた。……製品を見たときはちょっとたじろいだものである。





 アラサー突入前に、俺は無事禰宜(ねぎ)に昇格。
 業務の合間に抜け出してきて、いつもの文房具屋前。
「少年、そういえば今年の『バレンタインデヱ』には誰かからチョコレートもらったのかい」
「梅雨時にもなってなんでいきなりヤソ教の聖人がぶっ殺された日の話だよ。こちとら日本の神に仕えてるんで、そんなバテレンデーとは無縁です」
 投げやりに、ただし声は低めて俺は話す。白衣に浅葱色の差袴(さしばかま)という神職の日常衣装なので、通行人の注目をいつもより集めやすいのだ。
「またひねくれたこと言ってる。今年はもらえなかったんだね」
「巫女のバイトやってる人たちが昔っから毎年くれるつーの。……全員既婚のうえ俺は親父のついで扱いだが」
「君のモテ期って大学で終了したからねえ。ふふ、すっかり女っ気なくなっちゃったね。毒牙にかかる子がいなくなったからこれが世間のためかな?」
 また意味なく開いた傘をくるくる回し、俺のとなりで自販機の精は楽しげだ。
 その満面の笑顔の理由、ほんの少しくらいは独占欲が満足したからであってほしいもんだ――などと思いつつ俺は彼女の軽口に応酬する。
「毒牙ってなんだよ……モテ期だのなんだの、年々人間社会のろくでもない語彙と知識ばかり増やしやがって」
 唯一の人間の会話相手である俺にも少しは責任があるだろうけれど。
「てか、昔はおまえ自身が俺に『つがい作るといいよ』とか勧めたじゃねーか」
「あれは……遠くに行ってしまう君が寂しくないかと思ったからだよ」自販機の精は少しはにかんだ表情を見せた。「いまの君は地元にいるじゃない。知り合いがたくさん……私だってこうして近くにいるし、だからもう寂しくないでしょう」
 俺はふんと鼻を鳴らす。“寂しくはないがたまに虚しい”といつぞやも思ったことが胸に浮かび上がってくるのを無視し、
「それで、唐突にバレンタインの話を出したのはなんなんだ」
「うん。私のところにジュース買いに来た女の子たちが、クラスの男の子に告白するという話をしてたんだ。それを聞いてたら、君がむかし私の目の前でチョコ渡されて告白されたこと思い出して」
「ああ……そんなこともあったな……」
 なおあのときの同級生はすでに既婚者だ。諸事情あって最近、ひんぱんに顔を合わせている。
「この際だ、言わずにいられないから言っておくが……」
 クイッと俺は眼鏡を押し上げる。
「俺はあの軽薄な風習が嫌いだ。チョコ自体好きじゃないんだ、たいていは甘ったるくて口にあわない。そこに加えて手作りアピールとかなんなんだあれ、湯せんして溶かしたチョコを固め直しただけだろうが。『乙女のマゴコロが付加価値なの☆(ゝω・)vキャピ』などとほざく手合いには虫唾が走る。あんなもので女に恩を着せられて嬉しがる男の気が知れないな。友達チョコだのホワイトデーの三倍返しだのに至ってはそんなルールを最初に定めた奴に殺意すら覚える。本気の告白でもないものを押し付けられたあげく一ヶ月後に金を使わされるんだぞ意味がわからない。かといって好きでもない女からの本命チョコもあれはあれで面倒くさい。で、どっちにしろいらないと面と向かって本音表明したら“なかまをよぶ”コマンド使いやがって女子が周りにわらわら湧き『ひどい! 冷たい!』『そんな人とは思わなかった!』『本性あらわしたのね、眼鏡吸血鬼!』『冷血ヅラしやがってよぉ!』『死んで!』と手をとりあって集団詠唱はじめるんだぞ。とにかくバレンタインなんぞ面倒なだけだ」
 暗黒をどろどろ口から垂れ流していると、自販機の精が苦笑した。
「うーん……そこまで嫌いならしょうがないかな。君が欲しいなら、『溶かして固め直したチョコ』でよければそのうちあげてみようかなって思ってたんだけど」
「リアリィ!?」
 →弾かれたように向き直る↑キュッと背筋を伸ばす↓轟沈土下座(所要時間計0.8秒)
「欲しいです! ください!」
「………………あ、うん……まず立とうか」
 引いた声にはっと我に返る。そそくさと袴のひざを払って立ち上がり、とりつくろいを試みた。
「まあ、いろいろ言ったが実のところ、くれるというならもらわなくもないといったところだな。……痛ましげな視線はやめろ!」
「君……あれだけ文句言っときながら、本音はそこまで女の子からチョコが欲しかったんだ……」
 まごうかたなき哀れみの視線が地味に心をぐりぐりえぐってくる。くそ、他の奴からだとどうでもいいのは本当なのに。まさかこいつからもらえるとは思っていなかったので、ふってわいた機会に反射で食いついてしまった……!
 恥ずかしさで歯ぎしりする俺を前に、自販機の精は袖で口元をおおってぷっと吹き出した。
「うふふ、いいよ。人間でない女からもらうのでも君が満足なのなら、おばあちゃん家の台所借してもらっていつか人間の食材加工にも挑戦してみる。材料のチョコばかりは用意してくれないとどうにもならないけど。あと味にも期待しないでね、私味見はできないし」
 屈託なく笑う彼女に、俺はおそるおそる訊いてみた。
「あの……ところで、どういう意味でチョコをくれると」
「え? なに……ああ、そういう」ちょっと頬を染め、ぱたぱたと手を振って彼女はおかしそうにした。「あはは、何いってるの。君は人間で私はそうじゃないでしょ。つがいになりたいと私が思ったりしたら変だよ」
「……はい、そうですね……正論デスネ……」
「『面倒くさい』なんて警戒しなくても私、そんな意味で君にチョコ贈ったりしないよ。だから安心して」
 朗らかな声でとどめを刺され、俺はひざから崩れ落ちそうになる。
 ……これまでは、実は彼女が稀代の悪女という可能性もあると一縷(いちる)の望みをかけていたのだが……つまり、期待をもたせるような発言の数々は、こちらの心中を見ぬいた上で無垢を装ってからかってきているのではないかと。
 その望みは絶えた。この女、本当の本気でこっちを「対象外」にカテゴリしてやがる。
 仕方ない。とにかく来年にチョコはもらえそうだしそれで満足しよう。



 チョコをもらうことはなかった。
 生涯忘れることのできない一連の出来事は、そのときもう始まっていた。



 ひと月後、最初の抜き差しならない状況におちいった。
 また社を抜け出てきた俺が缶を買おうとすると、自販機の精は足もとのバケツから缶を取り出したのである。
「はい少年! 井戸水で冷やしたコーラだよ!」
「…………おまえ……」
 井戸水って……
「……だめだよね、やっぱり」
 笑顔をひっこめて彼女はうなだれる。どうも空元気だったようだ。
「さすがに微妙にぬるいもん飲みたいとは思わないな。なんなんだ、いったい」
 不審を覚えて問いただすと、自販機の精は消えそうな声を出した。
「クール/ホット機能が不調で……もうすぐ完全に壊れる……」
「致命傷じゃねえか!」
 唖然と口が開く。つまりジュース系が冷えない、ホットコーヒー系が温まらない状況になるのだ。
「か……確実なのか?」
「機能が“最期のとき”を迎えてるのが見える……」
 俺まで頭を抱えたくなる。彼女が長年あまりにも変わらないため、老朽化した本体も永遠に動き続けるような気がしていたのだが……錯覚だったようだ。この日まで機能していたことが奇跡の一種だったのだろう。
 自動販売機の耐用年数は五年。彼女の本体は三十年近くここにいるのだ。
「いますぐ修理業者を呼ぶというのは」
 言いながらも俺は連絡のために携帯電話を取り出しはしなかった。ある危惧を覚えていたから。その懸念は残念ながら的中した。
 自販機の精はさらに深くうなだれる。
「……業者さんは私の状態を見れば修理じゃなくて、『ひどすぎるからまるごと交換しろ』と言うと思う」
 彼女の語るところによればだいぶ前、俺と出会う以前に、点検に来ていた業者が自販機本体を取り替えようとしたそうである。文房具屋の店主が『このままにしとくれ』と強く主張してくれたために、彼女はどこにも行かずにすんだのだという。
 蝉の声のみがしばし俺たちのあいだに響いた。
 しかし、いつまでもふさぎこんでいるわけにもいかない。井戸水温度の微妙にぬるいコーラを取り上げてひとくち飲み、俺は訊いた。肝心なことを。
「……おまえ、どうしてもここで本体を助けて缶を売っていたいか」
 自販機の精は面をあげ、まつげをしばたたいた。うろんげな表情の彼女へとさらに言葉で踏み込む。
「壊れた本体からおまえという意識は切り離されているようにしか見えない。自動販売機としてのあり方にこだわらなければ、どんな生き方でもできるんじゃないのか。なんなら俺は……」
 困ったように彼女が首をふるのを見て、俺の提案は立ち消えになった。
 彼女は話した。言いにくい打ち明け話をするようにおずおずと、しかし奇妙な確信のこもった声で。
「もしも……本体のサポートができなくなって、本体の売り上げがなくなったりしたら、きっとここにいる私は消えてしまう」
「……消えるだと?」
「付喪神なんていっても、私はあくまで本体が無くした機能を補うために生まれた意識なんだもの。それなのになんの役にも立たないなら、存在する意味が無いってことになるから」
 自販機の精は、ぶるっと震えた。心細さを面に出して。
「でも、もう……どれだけがんばっても駄目かもしれない。クール/ホット機能が壊れたら、私のサポートくらいじゃ追いつかないよ。きっとお客さんは来てくれなくなる」
「ちょっと待て」
 俺も総毛立った。あることに思い当たって。
「本体が無くした機能を補うためだといったな。それだと、もしもおまえの本体を修復できたとして、その場合でもおまえは消えるってことなのか」
 長いためらいののち、彼女はうなずいた。
「そうかもしれない……すべての機能が直ったら、補う存在である私の必要はなくなるから」
 俺はめまいを感じた――彼女はいつまでも変わらない、いつでもいてくれる存在だと思っていた。
 違った。本体が完全に直っても、完全に壊れて売り上げがなくなっても、彼女は消えるのだという。思ったよりずっとあやふやな、狭間に生じた夢幻のようなあり方だった。彼女の“人や物の最期のときに敏感”という能力は、もしかしたらこのためなのかもしれない。最初から、死にかけの自販機によって生み出された存在なのだから。
「……なかなか厄介な」
 自分の声が絶望でひび割れかけている。それに気づき、俺はぱちんと両頬を叩いて活を入れた。
 彼女が消えてゆくのを黙って見ているつもりなど微塵もない。
「……ひとまず、客足を離さなければなんとかなるんだな」
「――え」
「どうなんだ。『売り上げが出ている』あいだは消えずにすむんだろう」
「う……うん、たぶん。だから応急処置で井戸水を試してみたんだけど」
「氷水と発泡スチロールの箱を持ってくる。いや、最近は、缶を冷却する機能がついた電動のクーラーボックスがあったはずだ。それを買ってきて冷やした缶をプールしておこう」
 要は小型の缶飲料冷却器だが、さほど高くなかったはずだ。本体の陰にそのクーラーボックスを置いておき、客が自販機のボタンを押したらすかさず買われた缶と冷やしてあった缶を交換。朦朧とした客に手渡して終了。これで当座をしのぐしかない。
「ホット機能は……湯せんして缶を温めるか。手鍋に保温鍋、簡易ガスコンロ、温度計でも揃えるか。
 おまえ、小道具が多くなっても、お得意の催眠音波で目の前に立った客をごまかすのは大丈夫だろうな?」
 確認すると、自販機の精はあわててうなずいた。
「歌が届かないような遠くから見たら違和感覚えられるだろうけれど、近くに来た人はなんとか操作できると思う」彼女は口をむずむずさせて泣きそうな笑顔を見せた。「……あの……とても助かるよ……ありがとう」
「礼なんかいちいち言うな。ほっとけるわけがないだろう」
「……うん」
 ぶっきらぼうにうっかり本音を口走ってしまったが、照れている余裕は今回ばかりはない。
 これが根本的な解決ではなく一時しのぎにすぎないことは、双方ともがわかっていた。
 彼女が言ったとおり、自販機本体のクール/ホット機能は数日後に停止したが、「応急処置」のために売り上げが極端に落ちることはなかった。
 延命できたことをささやかに喜ぶ前に、次の嵐が来たけれども。





 神道式の葬儀ではないのになぜ神社の息子が来ているのだろうと他の参列客が好奇の視線を向けてくる。それを背中に浴びながら、俺は焼香をすませた。
 文房具屋の店主のために。
 火葬場から帰ってくると、俺は故人の営んでいた店舗のほうへと向かう。
 自販機の精は小ぬか雨のなか、傘をさして無言でたたずんでいた。打ち沈んだ様子の彼女の瞳には、大粒の涙がたたえられている。
 近寄ると彼女は向きなおって俺を傘に入れ、それから俺の黒スーツの胸に顔を埋めてきた。
 かすかな嗚咽。
 おばあちゃんの命を延ばすことさえできなかった。彼女はそうつぶやいてすすり泣いた。こいつにとってはあのばあさんが、年老いた親のようなものだったのだろう。俺の胸にも悲しみが鋭い針のように刺さる――母さんを亡くしたときのことを思い出し、俺は自販機の精を抱き寄せる腕に力をこめた。
「どうしようもない。できることはやったんだ」
 店主の“最期のとき”が来ていると自販機の精が俺に相談したのは、一ヶ月前。
 店主を説得し、命を少しでも延ばさせるため“当たり景品”を毎日引かせるのは容易だった。店主は自販機の精の存在を知っていたし(ザシキワラシと最後まで勘違いしていたが)、その場所は文房具屋の目と鼻の先だったから。もちろん病院に検査にも行かせた。
 ……病とまったく無関係に、歩道に乗りあげてきた車にはねられるなど思わなかった。
 せめてもの慰めは、本人があまり生に執着していない様子だったことだろうか。
『あんたやオザシキ様が心配してくれるのはありがたいけどねえ、もう長く生きたし。お迎えが来るなら来るであたしゃかまわないんだよ』と苦笑していた姿を思い出す。
 あの老人はずっと、自販機の精を守ってくれた。
 自分が死んだあとのことまで考えてくれたのだ。
 のちに知ったところでは、店主は身内に遺した遺言で、自販機のことに触れてくれていた。
『店の外の自動販売機は残しておくこと。決して潰したり引き取ってもらったりしてはならない』
『自動販売機には毎日小銭をお供えすること。缶一本ぶん買えるだけを』
 そのふたつである。
 けれどこの先、それが守られる保証はなかった。特に二番目は。
 遺言状が公開されたとき、自販機に関わる部分が読み上げられると、遺族たちは不可解だと首をひねったらしい。それも当然なのだろう。
 俺は、彼女を守ることをだれかに任せるつもりはない。



 亡くなった店主の遺族は、ただの一週間で賽銭を持ってくるのをやめた。
 それを責めるのは酷だろう、かれらにとっては意味不明の遺言だっただろうから。前の日に供えた小銭がなくなっているのを見ても、カラスなり悪餓鬼なりが持っていったとしか思えなかったはずだ。
 だから俺はかれらの代わりに、自販機の精のもとに毎日賽銭を運んだ。



 遺族は、本体への缶の補充は最初からしようともしなかった。
 確かに店主の遺言ではそのあたりまで言及されていたわけではない。俺は大量の缶をよそから買い込み、自販機の精とともに補充作業した。
 金額上の利益が出ているかなどはどうでもいい。ただ自販機の精の「存在する意味」を守るために本体に缶を売らせ続ける。



 文房具屋の内部ごと自販機への電気も止められた。
 ライトアップを始め、本体のほぼすべての機能が停止。
 真っ青になって、俺は遺族のもとに電気を通してもらうよう談判しに行く――はったりをきかせるために狩衣(かりぎぬ)姿で訪問し、自販機に魂が宿っていることなど一部の真実を明かす。
「はあ……悪霊お祓いのたぐいですか? 違う? 宿っているのはアラタマ(荒霊)じゃなくニギタマ(和霊)? ようわかりません、そんな区別。けったいなこと言われても困りますわ、神主さん」
 遺族はこちらをあからさまに警戒しており、こいつは御札かなにか売りつける気か、それとも本当に頭がおかしいのかと推し量るような目で見てきた。「電気料金は全額こちらが負担します」の一言で、目に見えてその警戒は和らぎ、電力会社に連絡してもらうことができたが。
 彼女の本体はなんとか再稼働を果たした。
 ……最後の悪あがき。



 晩秋のころ、無人となった文房具屋のあたりにはお化けがいると噂が立つようになった。
 遺族に話したことが歪んだ形で漏れたのか、それとも単なる偶然か。
 偶然としても理由はある。人が住まない家屋は急速に荒廃の雰囲気を宿していくのだ。自販機の精がかいがいしく文房具屋の屋内外を掃除しているのだが、もともと古い建物だったこともあって、市民に漠然と気味悪がられる流れは止まらない。……あるいは掃除が行き届いているからこそ、「まるで人がずっと住んでいるようで不気味」と思わせてしまったのかもしれない。
 夜になると通行人は足早に、文房具屋の前を通り過ぎるようになった。自動販売機への客足もしぜんと遠のく。
 町のあちこちで噂が立つ。
「そういえばあの場所、昔からなんだか雰囲気が違うよね」
「あれ、あんたもそう感じてたの?」
「よせよ、俺だけじゃなかったのか」
「なんだよお前ら。いまどき『わたし霊感あるんです』かよ。笑えるからやめろって」
「いや、でも、あそこの自販機で缶買うときとか、なんだかおかしいって俺も思ってたわ」
 それが快く、優しい感覚であったことは忘れられる。「他と空気の違うスポット」であることそのものがささやかれ、恐れられる。
 にわかに「幽霊の出る場所にある自動販売機」を誰もが避けるようになった。
 こればかりは、お手上げだった。



 この季節になるとクーラーボックスを使って缶を冷やす必要はない。実際、俺が口に含んだコーラは凍る寸前だった。
 初冬の夜。自販機本体のライトが周囲を照らしている。
 会社帰りの俺は本体の側面にスーツの背をあずけ、自販機の精は隣でクーラーボックスに腰かけている。彼女はアウトドア用簡易コンロにかけた保温鍋で缶コーヒーをことことと湯せんしている。弱々しく聞こえるほどの静かな歌がつむがれていた。

  〽ただふれたまふことなかれ
   秘めてぞ清き恋なるを
   もしかかる世に罪やどる
   星墜ちゆけばいかにせむ

 その歌声が最後で急にかすれ、彼女は口を押さえてけほんと咳をした。
 聞きとがめて、俺は眉を寄せる。
「……おい。今日の神饌はもう飲んだんだろうな」
 神饌が切れたことで彼女に生じる実害は、その歌声の力が弱まるという形であらわれる。少し前、一時的に彼女への賽銭が途切れたときに俺はそれを目の当たりにしていた。
 こちらの確認に、自販機の精は少し笑ってみせた。こっちが安心できるような笑顔ではない――疲れを宿して、少し困ったような、力なくごまかすような笑みだった。思わず苛立ちの声が漏れた。
「声が妙だと思った。やっぱり飲んでないのかよ」
「……ごめん。忘れてた」
 嘘をつけ。厳しく問い詰めたくなる衝動を俺はこらえた。
 ここ最近、自販機の精には元気がなかった――もともと、店主が死んだあたりからふさぎがちではあったが、ここ数日はとくにひどい。
 神饌を口にしないほどにナーバスになっている姿は、見ていてつらい。
「……コーヒー温めすぎだ、煮込んでどうする。人目につく前にそろそろ火を消せ。鬼火だなんて噂が出たら客離れるぞ」
 洒落でもなんでもなく、現状ではそういった「目撃証言」は簡単に出てきかねないのだ。
 自嘲の声を彼女は出した。
「あはは……お客さんなんて、とっくにほとんど来なくなってるよ」
「おい!」
「……ごめんね。でも、どっちみちもう、私の本体は……」
 彼女は前方の地面に茫洋と視線を落とした。
「せっかく、ちょっと前に電気通してもらったのにね……いよいよ限界みたい。あと一ヶ月ももたないと思う」
 彼女の言葉に合わせたかのように本体のライトが急に弱まり、一瞬光がぶれた。最近、こうなることが多い。それもどんどん頻繁になっていく。
 最初にクール/ホット機能が壊れたのは前触れでしかなかったようだ。
 本体の最期がまもなく来る。そして、存在する意味のなくなった彼女も消えてゆくのだという。
 血の味を俺は舌の上に感じた。われしらず唇の端を噛み破っていたらしい。
 顔をこわばらせる俺の前に、自販機の精がそっと立った。
 頬を、するりと撫でられる。
「ありがとう……いっしょうけんめい助けようとしてくれて」
 諦めがもたらしたのか、その微笑みには透きとおるような儚さがあった。
「消えてしまう前に、いまのうちに言うね。君に会えてよかった。ずっと、君といるのが楽しかったよ」
“俺はこういう笑顔を前にも見た”
 突然のフラッシュバック。失った儚い笑顔。病院のベッドに横たわる母さん。
 その幻影が弾けたとき、俺は彼女の両腕をつかんで体勢を入れ替え、本体に乱暴に押し付けていた。
 食いしばったあごのあいだから獣のうなりのような声を押し出す。
「ふざけるな。これからもずっといろ」
 間近にある彼女の驚いた表情が、泣きそうにふにゃりと歪んだ。
「でも、少年……」
「消えるな。いやだ」
「い……嫌だって言われても……私はもう本体をサポートすることはできない。本体そのものが壊れるんだもの。存在する意味がもうないんだよ」
「意味ならある」
 『秘めてぞ清き恋なるを』――彼女の今しがたの歌を思い浮かべる。別に清い恋をしたいなどと思っていない。俺はこれまで、彼女との関係を壊しかねないリスクの高い行動を選ばなかっただけの話だ。
 けれど放っておいても、その安定は壊れる。このまま何もせず永遠に失うくらいなら――
「俺はおまえが好きだ」
「私だってそれは、そうだけど……」
 これほどまでに率直に告げても、自販機の精は俺の告白を正確に理解はしていないようだった。彼女と俺との間に異性としての関係などありえない、と心の底から思い込んでいるのだろう。俺を見つめる彼女は、嬉しげではあるが困ったような、わがままを言う弟を見つめるような表情をしている。
 これまでの俺なら勇気を出せずに尻ごみして、引き下がっていただろう。
 けれどこの夜、気がつけば「違う!」と俺は勢いのまま吐き捨てていた。
「俺はおまえを姉や友人として慕ってるわけじゃあない。……いいや、それもあるんだが……つまり……全部の意味で、好きなんだ」
 じわじわと、彼女の表情が変化する。
 目をぱちぱちさせる。戸惑い。かすかな理解。理解の拡大。口がぽかんと開く。
「え、」
「愛してるんだ」
「な、何言っ……」自販機の精の声が動揺しはじめる。「こ、こんなときにからかうのはやめて!」
「こんなときにからかうとでも思ってるのか? いままで言わなかっただけで、ずっと好きだった。おまえのところに缶を買う客がだれも来なくなったって、そいつら全員合わせたより俺一人のほうがずっとおまえのことを欲してる」
「う、うぁ……」
 自販機の精が身をわななかせた。その背後で本体のライトが明滅する。見えにくい逆光のなかにあってさえも、彼女の顔が真っ赤になっているのがわかった。
「それだけじゃ“存在する意味”が自分にあるとは思ってくれないのか?」
 訊ねると、おびえたようにびくっとその肩がはねる。
「私、君とつがいになるようなこと……考えたことないよ、そんなの……」
「じゃあ、これから考えるようにしろ」
「待って、わ、私は自動販売機の付喪神で、君は人間じゃないか……おかしいよ、こんなのは……」
 下がった眉、伏せられた目。弱りきった表情は羞恥に赤らんでいる。
 こういうときにはこんな顔をする女だったのか。ぞくりと背筋に妖しいものを覚える。
 また、ふっと本体の明かりが消えた。彼女の上気に合わせて、闇のなかに花橘の薫りが強まった。
「何がおかしいんだ。この国では狐の精も雪の精も樹木の精も人間の妻になったことがあるんだぞ。……とにかく、そういう覚悟だけしとけ」
 数秒後、明かりがついたときにかろうじて俺は彼女の腕を放した。
 一歩下がって深呼吸し、理性をどうにか取り戻す。
 彼女を取り巻く状況が絶望的になって以来、最後の手段としてひとつ考えてきたことがある。彼女が消えずにすむかはわからないが、何もしないよりはるかにましだ。
「うちに来い。ばあさんの遺族と話つけて、おまえの本体は神社に引き取ることができそうだ」
 消耗したようにぐったりと本体によりかかる彼女は、紅潮したまま唇を引き結んで俺と目を合わせない。――かまうものか、こいつが俺を嫌おうとどうしようと、もう想いはぶちまけてしまった。どのみち俺はこいつが消えないための行動をするだけだ。
「親父には俺が話すから、うちの神様にはおまえが話せ」



 烏帽子(えぼし)をかぶり狩衣をまとう。
 (ぬさ)を手にもち、(くつ)で境内の玉砂利を踏み、正式な神主装束を身につけて俺は眺める。
 注連縄(しめなわ)を巻かれた自動販売機を。
 彼女の本体を店主の遺族から買い取った。やや頭のおかしい神主の酔狂な申し出としか思えなかったであろうが、かれらは喜んで「扱いに困るがらくた」を手放した。
「……これになんの意味があるの」
 後方から、低く抑えた声。
 俺はふりかえって、離れたところにたたずんで顔をそむけている自販機の精に告げた。
「おまえをうちの神社の配神にする」
 多くの神社には、主神のほかに複数の神が拠る。境内に小規模なほこらがあるのは珍しくない。主神に対し、そのような神を配神という。
 彼女が人々の役に立たなくなったとしても、神として正式に祀られてしまえば“意味”がそこに生じる。神格化というのは、意味付けのなかで最も強力なものだ。
 彼女は“人に奉仕する自動販売機の精”から“人に祀られる祭神”へと属性を変える。それによって、神としての存在を安定させられるかもしれない。
「そんなの……」
 説明を聞いて彼女は口ごもる。
 俺もわかっている。本体を神体として祀ったところで彼女という意識が消えずにすむか、なんの保証もない話だ。
 それでも、全くの的外れではないはずだ。
「ちゃんと効果が出てるだろ。おまえ、本体から神饌を買えなくなって何日になる。だが、ここにいればあまり調子が悪くならないだろう?」
「……神力が満ちている場だから、たしかに調子は悪くなりにくいけど……でも、時間の問題だよ」
 こちらに目線をけっして合わせず、彼女は怒ったように眉を寄せたままだ。告白して以来、何日もずっとこうである。
 俺はため息をつく。
「おまえなー、ネガティブ発言はやめろというのに。あと、そろそろこっち向けよ」
「きゃぁっ!」
 歩み寄って肩に手をかけた素っ頓狂な声があがった。じゃっと玉砂利を鳴らして彼女はとびすさる。
 傘を広げて盾のように構えた。久々に見る傘バリア。
「な、何するの!」
「……このくらいでなにを動揺してんだよ、いまさら。そっちからこれまで俺にどれだけべたべたしてきたかわかってんのか。長年生殺しにしやがって」
「そ、それは、君がそんな目で私を見てると思わなかったからっ」
 おたおた言い訳しながら自販機の精は耳たぶまで夕日の色になっている。要するに、ひどく意識されているらしかった。
 正直に言って、これまでまったく男として見られていなかった立場からすると、警戒されて傷つく一方でちょっとだけ愉快な気分でもある。それに――
「俺が嫌いになったか」
「そうじゃない!……そうじゃないよ、ただ……」
 警戒といっても、嫌われたわけではないらしい。そうと知りつつわざと落胆の色をにじませて確かめてみると、すぐに否定された。
 まずい、嬉しい。そんな場合ではないのに頬がゆるみそうになり、それをこらえながら「ただ、なんだよ」と表向きぶっきらぼうに訊いてみる。
「……あんなこと言われたって、困る……」
 こちらにつきだした傘の柄をにぎったまま、自販機の精は目をぎゅっと閉じた。
「わからない。……私は、君のことが好きだけど、どういうふうに好きなのか……君に言われたこと考えると胸がぎゅって詰まるし、もしかしたらこれ、君と同じような意味の『好き』なのかなって」
「え!?」
「でもそんなはずないって思うし……人間に嫁いだ精がいるなんて言われたって、これからそういうふうに君のことを見られるなんてとても思えないよ。君の奥さんになるところなんて現実味わかない」
「え」
「……たぶん、そうなっても嫌じゃないけど、嫌じゃないかもって思えるんだけど、考えていると恥ずかしすぎてわけがわからなくなる……」傘から手を放し、彼女は顔を覆う。指のすきまからのぞく顔は真っ赤。「これまではどんなふうに好きだったのかも、考えれば考えるほどわからなくなっちゃった……ううう馬鹿、あんな告白、迷惑もいいとこだよ! 『考えろ』なんて言われてから頭のなかが君のことばかりになっちゃってるじゃないかぁ……なんで胸おさえてひざついてるの?」
「おまえ……一言ごとにこちらを振り回しやがって……」



 最後は、けっきょく神頼みだ。

  〽神領(かむしら)す庭の八乙女(やおとめ)の、打ち振る鈴の音に乗りて、天下れよかし星車。舞い舞う領巾(ひれ)比良比良(ひらひら)と、赫顔乙女(あからおとめ)の立ち舞うに――

 本殿のほうから自販機の精の歌が響いてくる。俺は離れた社務所の壁に背をあずけてそれを聞いていた。
 居候の木っ端神としてはるか格上の神に仁義を通しているのかなんなのか、彼女は毎日、うちの神様へ歌の奉納をしている。
 ただ、まだ目通りするには至らず、神社の一柱となる許可を求めてはいないらしい。
「はやく話を通せよ」
 ため息混じりにつぶやく俺。
 自販機の精は、この神社に引き取られることについて完全にはふんぎりがついていないようなのだった。
 原因は明らかに俺。成功すれば“神と神官”の間柄とはいえ、俺は彼女のそばに常にいることになる。なのだが、俺の気持ちを知ったいま、彼女はそのことにひどく臆病になっているようだった。
『私たちがいっしょにいるところが想像つかなくなっちゃった。だって君はずっと弟みたいなものだと思ってて……それ以外の関係でずっといっしょだなんて、どう過ごせばいいのか……』
 先刻、彼女は真っ赤な顔を覆って切れ切れに声を絞りだしていた。前のような関係でよかったのに、と思っているのは明らかである。
「んな理由でここまできて二の足踏みやがって……」
 消えるかどうかの瀬戸際でそんなことにこだわるなよ、とは思うのだが。俺自身も長いあいだ新しい関係に踏み出せなかったので、理解はできなくもない。
 ……勢いでやった告白自体が余計なことだったかもしれない……
 まあいい。彼女の意思がどうあれ、俺は彼女が消えずにすむよう神格化作業を最後までやり通すだけである。
 と決意してはいるのだが、やはり本人の意思で受け入れてもらえればそれに越したことはないのだ。
 うだうだと悩んでいると、境内の入り口からずかずかと入ってきて話しかけてくる者がいた。
「おーい若。これ正月のバイトん時の巫女服。クリーニング終わったから返しに来たよ」
 神社の紙袋を手に提げ、タバコを咥えたセーターの女。かつての小中学での同級生だ。中学卒業のとき告白してきた奴である。現在は既婚。
 不定期ながらたまにここで巫女のアルバイトをやっているため、時期によってはひんぱんに顔を合わせる相手だ。
「ところで、あれなんなのさ、若。なんで注連縄巻かれた自動販売機が境内にあんの?」
「若はやめろ。普通に名前を呼べ。あとまがりなりにも巫女経験者が境内でタバコくわえてんじゃねえ」
「参拝客がいたら灰皿にカタすって。それよりあの自販機。あんたがやったとみんなに聞いたけど、おじさんがよく許したね」
「……まあな……」
 傍から見たら意味不明の申し出をどう納得してもらうか頭を悩ませたというのに、すんなり通って俺がいちばん驚いている。いや神社本庁や氏子に説明しなきゃなんないだろそんなさらっと許していいの? と思わずこっちから訊いたくらいだ。
 そうしたら親父はものすごく嫌そうな顔で答えた。
『あの雑神にそこまで入れこんでおいて何を言っている。断ったら一生根に持つだろうが。こちらの首を絞めかねんばかりの必死な顔になりおって』
『はあ!? あいつが見えてたのか親父!?』
『ぼんやりとな。……馬鹿たれが、「たまに空中と会話する神社の息子」として氏子がたの噂になっていることを自覚しろ。座敷牢に入れる必要があるかと戦々恐々観察していたら……』
 俺にあいつが見えるのだから、理屈でいうと親父にも見えても不思議ではない。だがそれにしても、あっさり許可されたのは驚きだった。それを質したところ、
『母さんが死ぬ少し前、うちに花を持ってきていたのはあの雑神だろう。悪いものでないことはわかる。
 祭神として正式な登録まではもちろんできないが、事情があるなら境内に置くことは認める。費用は自分で負担しろ』
 親父もなかなか破天荒な人だと思う。
 元同級生が「ま、いいや」と話題を変えてきた。
「それよりほら、今日バレンタインだからチョコどーぞ。あ、昔と違って義理ね」
「言われんでもわかっとるわ。おまえ亭主持ちだろうが」
 正直いまはそれどころではないが、いちおう礼を言って受け取……
「……おい……袋に『業務用』と書かれているうえに開封済みだが」
「だってダンナにあげた手作りチョコの材料の余りだもん」
 ……現在はこんな感じで後腐れなく同僚づきあいしている。
 と、ずいと手を出された。
「……なんだよ」
「例のもの持ってきてくれた? あんたの外の勤め場でのアレ。ホワイトデーのお返しはいらないから早く渡してほしいんだけど」
「余り物処分させといてお返しを要求するのか……いや、いい。持ってきてるからさっさと持っていけ」
 図々しいマダムに成長した元同級生を早く追い払うべく、俺は神社の紙袋に入れた“例のもの”を取ってくる。中身は俺が勤める衣料品会社の製品の、新型サンプル数種類。
 ぶっちゃけ女性用水着だ。
 若い女性のテスターを募集中でな、と巫女勢に洩らしたら「あ、やりたい」と手を上げたのがこの元同級生なのである。
 渡す前にふと訊いてみる。
「しかし、いまは真冬だが……近場に温水プールなんてあったかな。家で着けるだけで楽しいもんかね」
「んあ、別に泳がないし。最近ダンナとの夜がマンネリ気味になってきたんで新鮮な刺激を」
「あっすみませんバイトさん、鳥居の内側は浄界なんでヨゴレ発言はNGで。つーかそんな用途なら誰が渡すか!」
 道理で露出度高めの水着なのに軽くOKしたわけだよ!
「えー。ここ縁結びや子宝祈願もつかさどる神社じゃん、むしろ正しい方向性だと思うけど」
 煙をくゆらせながら平然とのたまう元同級生。……以前までの自販機の精とは別の意味でまったく色気を感じさせない、ある意味貴重な友人である。
「……もういいや面倒くさい。風呂でもいいから水には浸かれ、水着のテストにならん」
 投げやりに押しつけかけ、ちょっと考えて、新型水着の入った紙袋を俺は足もとに下ろした。
「渡してやる代わりに、少し相談に乗ってくれ」
「あん?」
 いぶかしげな元同級生は、「実は女心についてなんだが」と俺が切り出すと片眉を上げ、巫女服の入った紙袋を置いた。
「ほー。こりゃ驚いた、あんたが色恋沙汰で真剣になる相手がいるとは思わなかったわ」
「そ、そんなことはどうでもいい。……実は、かなり親しかった奴に告白したんだが、困惑されて」
「フラレたか。『あなたのこと大切だけど友達にしか見られません』ってやつね。よくあるよくある」
「いや振られてはいないんだが……」まだだ、まだのはず!「どうも宙ぶらりんというかだな、相手が戸惑っているというか混乱してるというか」
 別に自販機の精とくっつくことが目的ではなく、彼女を説得して神格化を受け入れさせるのが目的なのだが、この場合似たようなものかもしれない。
 というわけで以下、付喪神だの消えるだのは伏せて適宜話を改変しながら説明。
 最後まで聞き終えた元同級生は、無表情ですぱーっとタバコをふかした。
「のろけかっつーの。聞くかぎり相手が初心(ウブ)いだけだ、完全に脈ありだろ。その女あと少しで陥ちる」
「マジで!?」
 つい身を乗り出した。いやほら……くっつきたくないわけじゃないし。
「その状態なら、押せ」
「お、押せばいいのですか」元同級生(♀)の男らしい断言に思わず敬語が出る。
「ひたすら押せ。すでに一定の好感度があって相手がぐじぐじ迷ってる状況なら、ちょっと強引なくらいに迫れ」
「強引に……わかった、やってみよう」
「あ、もちろん空気は読んでね。しつこい男は場合によっちゃ一気に醒められるから」
「難易度高いわ! 強引としつこいの境目はなんだ!?」
「不快かそうでないか」
「感覚的すぎる! 役に立たないアドバイスしやがって!」
 頭をかきむしらんばかりにうめく俺に、ふんと元同級生は鼻を鳴らす。
「心というものを相手にしなきゃなんないのが恋愛なのに簡単なわけないでしょ。相手の様子を推し量りながら押したり引いたりすんの。あんたがこれまで女心に真剣に向き合ってきていれば、ちょっとはそのへんの機微もわかったでしょーに」
 むむむと俺はうなり、大学時代のことをあらためて悔いる。いま考えてみれば俺はまがりなりにも交際した女性たちに対し、適当きわまりない態度をとっていた。告白されて漫然と付き合い、相手をろくに理解しようともせず面倒くさいことは流し、すぐ愛想を尽かされて捨てられた。そんな繰り返しがまともな経験になったはずもない。
 いざ本命の相手に向き合う段になって、過去のツケを払わされた格好。
 元同級生が携帯灰皿にタバコを押し付けながら「悩め悩め。まー、駆け引きできないならできないで手がなくもないけど……しかし、ハイリスクな作戦だ……」と声をひそめた。
 俺はつられてごくりと固唾を飲む。
「いちおう聞こう。どんな手だ」
「引く選択をはなから捨ててごりごり押せ。相手が動揺しているうちに言いくるめて押し切って既成事実まで一気に持ちこめ。失敗したら絶縁され、ことによっては手錠が待つが、成功時のリターンも大き」
「鳥居くぐって去にさらせ」
 へいへい水着持ってくかんねー、と元同級生は紙袋をつかんで社務所を出ていく。
 あんなのに知恵借りようとしたのが間違いだった。頭を振って俺も紙袋を手に外に出る。
 とたん、自販機の精にばったり出会った。歌の奉納を終えていたらしい。
 彼女は無表情で、こちらの顔をまっすぐ見ている。
 ようやく目を合わせてくれた――と安堵する間もなく、彼女が静かな声を出した。
「いまの女の人、あの子だね。君に昔チョコ渡してた人」
「あ、ああ。あいつここの巫女でさ。言っとくが今は人妻だぞ」
「今年ももらえてよかったね」
「よく見ろ、業務用のうえ開封済みだぞ!」
 焦った声を出しながらも、これまでとは自販機の精の反応が違うことに気づき、俺は心臓がはねるのを感じた。もしかして妬いている……のだろうか? そうだとしたら嬉しいのだが。
 咳払いをして、俺は軽い話題を持ちかけてみる。
「そ、そういえば、去年約束したな。手作りチョコをくれるんだろう。
 ここに材料があるわけだが、なんならさっそく炊事場でやってくれても……」
 駄目もとでかかげたチョコを、彼女は感情の読めない瞳で見つめた。
 長い沈黙。
 場の空気のいたたまれなさに俺が冷や汗をかいて「やっぱりいい。悪かった」と言いそうになったとき、彼女は腕を伸ばしてチョコレートを受け取った。
「溶かして、固めるんだね」
 胸にチョコを抱いて、彼女はぽつりと言葉を続ける。
「ほかに」
「あん?」
「ほかになにか、前から私にしてほしかったことってある?」
「え? え、ええと」
 急なその質問に、妙に鼓動が速まる。変な願いが浮上する前にあわてて俺は無難なことを言った。
「そうだな、お、おまえが別の格好するところは見てみたいと思ってた。いつも同じその水色の小紋じゃん。いやすごく似合ってるよ、ただ一度くらい他の衣装も見てみたいだけで!」手に提げていた紙袋を俺は持ち上げる。元同級生が返してきたクリーニング済み巫女装束。「た、たとえばこれなんかどうだ」
 彼女の手が紙袋をとっていく。
「着替えればいいの?」
 なにか妙だ――俺もさすがに勘づいた。
 自販機の精は目を伏せる。
「ほかにも……君がしてほしいことがあれば、なんでもしてあげるよ。今日だけ。だから」
 消え入りそうな声で、俺を振った。
「人間のつがいを、見つけなよ」
 無言となって俺の横を通り過ぎようとする。その腕を、とっさにつかんだ。
「ま……待て」
 びくっと震えながらも、彼女は今度は逃げようとはしなかった。
“押せ”
 元同級生のアドバイスが頭に浮かぶ。手のひらがにわかに汗ばむのを感じながら、俺はなにか言おうとした。なにを言えばいいだろう? なにを――
 そんなことは、決まってる。
 ただ率直に心を吐露すればいいだけだ。
「……おまえの意思を無視して、こんなこと急に進めたのは悪かったよ。そりゃ振られたのは無理ないと思ってる。でも、俺はおまえと『つがい』になれなくたっていいんだ……いやなりたかったし、残念だけど……」
「放して。お願い」
 小さいが拒絶のこもった声。
 心に痛みと怯みを覚える。だが俺は、彼女にこちらを見てもらうために口説き方を教わったのではない。
「聞いてくれ。消えないでほしいだけなんだ」
 彼女の肩が震えた。
「どんな形でもいい、この先もいっしょにいられればそれでいいんだ。だから神社にいてくれよ。うちの神様にもお目通りしろよ、なんとかしてくれるかもしれないだろ。――おまえに願うことはそれだけだ」
「やめて!」
 いきなり彼女が悲鳴のように叫んだ。うつむきながら。
「私だってこの先も、君にそばにいてもらいたかったよ! いっしょにいたかった、恥ずかしかっただけで……ほんとは……」
 俺は絶句した。黒雲のように不吉な予感がこみあげ、首筋にぞわっと鳥肌が立つ。
「……何があった」
 自販機の精はこちらを見た。瞳から希望の色が消えていた。
「もう……さっき、勇気を出してお目通りしてきたの。御鏡に」うちの主神の神体は鏡。「ここでは私を受け入れないって。鏡のなかの私を見たら、私の“最期のとき”が映ってた」
 チョコの袋を握りしめた手で、彼女は俺の手を払う。
「今夜にも私の天命は尽きるから……さよなら、少年」
 そして、神社から姿を消した。

   ●   ●   ●   ●   ●



 冬の夜の雨が町にそぼ降っている。
 神社を飛び出してきた自動販売機の精は、二つの袋を手にして、煙雨のなかをとぼとぼ歩く。ふだんなら傘を差すが今はどうでもよかった。
 寒さはもとより感じない。ぐっしょり濡れた髪や服、裾の泥はね、いずれも放っておけば一時間とかからず乾いた清潔な状態に戻る。
 たとえそうでなかったとしても、彼女はもう気にもしない。
 どうせ彼女が存在できるのは今夜が最後なのだから。
 ――助かるかもなんて期待しちゃったな。
 あの社の神の一柱となることを、そこの主神に拒絶された。どうして駄目だったのかはよくわからない。本殿でかの高位の神と対峙したとき、直接言葉をかけてももらえなかったのだ――神体の鏡に映った自分の姿に、逃れがたい天命を見せられただけだ。どのようにしてかはわからないが、まもなく、まちがいなく、付喪神である彼女の最期の瞬間がやってくる。
 本体はまだあの神社だが、拒まれた自分はもうあそこにいられない。
 ――どんなふうに消滅するのかな。
 あてどもなくさまよい続けるうちに、精神的な疲弊を感じる。
 悄然とした足取りで、彼女は誰もいなくなった思い出の場所に向かった。



 自動販売機の本体がなくなって、文房具屋の軒下はがらんと虚ろ。
 板壁によりかかって自販機の精は虚空を見つめる。
 彼女はずっとここで店主とともに生きていた。店主に彼女の姿は見えなかったけれど。
 しばらくすると、彼が現れた。意地悪で生意気な小さな男の子。彼女と話せる唯一の人間。
 どんどん育って大きくなっても、生意気さはまるで変わらなかった。
 けれど本当は母親思いの優しい子だった。
 彼の母の病と、その死を自分が引き伸ばしたことを考え、自販機の精はぼんやりと思い当たる。
 ――神社に置かせてもらえなかったのって、もしかしたらああいうことしたからかな。
 彼が当たりを出さずとも、癒やしの力がある“当たり景品”を毎日彼の母のために使った。彼女は万人に公平に振舞ったとはとうてい言えない。社の主神はそこを見て彼女を、祀られる神としては不適格と判断したのかもしれない。
 それとも、尽きていたはずの彼の母の天命を無理に引き伸ばしたことが咎められたのだろうか。
「でも、それが理由で消えるなら、しょうがないかなあ……」
 いけないことだとわかっていても、彼女はああせずにはいられなかった。
 後悔もしていない。彼があのとき、彼女の腕のなかで泣きながらありがとうと言ってくれたときにそれはぬぐい去られた。
 頬にかすかな微笑みを刻みかけて、彼女はそれを消した。
 うつむき手元を見る。お菓子と衣装の入ったふたつの袋。最後に彼から受け取ったものだ。手放す気には、なれなかった。
「……勢いで飛び出してきちゃったな」
 彼が望むことを最後にしてあげるつもりだったのに。
 のろのろとチョコレートをひと粒彼女は取り出す。
 円盤型の、十円玉ほどの大きさ。神饌しか口にしない彼女にとっては本来「異物」でしかないそれ。食欲をそそるとはとうてい言えない――けれど、ためらったあとに口に含んだ。
 どうせ、消えるのは間近だ。溶かして固めて彼にあげるはずだったそれの味を、最後に知っておきたかった。
 神饌としてのコーヒーやジュース缶以外で初めて口にする食物は、ひどく甘くて、少しほろ苦い、胸が詰まる味だった。
 ひと粒食べたことで、なぜか拒否感は和らぐ。
 もうひと粒。もうひと粒と時間をかけて味を確かめながら、彼女は想う。“少年”を。
「……きらいだ、あんな子」
 もっと前に、きれいな気持ちのまま消えさせてくれればよかったのに。あの子が余計なことをしたせいで――想いを彼女に告げてきたせいで。彼女の胸のうちにあるものを自覚させて、膨れ上がらせたせいで。こんな惨めで悲しい気分で消えないとならないのだ。
「いっしょにいたいよ」
 知らずぽろっと未練が口からこぼれた。「消えたくないよう」目からこぼれたしずくを雨に濡れた袖でこする。
 それにしても、なかなか服が乾かない。心なしか、もう神力が弱まっている気がするからそのせいだろうか。
 服……彼女は手にしていたもうひとつの袋に視線を落とした。


   ●   ●   ●   ●


 上古の世には、好いた女と結ばせてくれなければ社を焼くと神を脅迫した男もいたらしい。
 本当のところ俺は、自分がそうしないとは言い切れなかった。もしもあいつをこのまま失うようなことになれば、俺は自らの神社に究極の罰当たりをしでかした禰宜として新聞に載るかもしれない。
 母さんが病に倒れたとき、俺はうちの神様に毎朝祈った。けれど高位の神であるはずのうちの主神は助けてはくれなかった。本来の天命を歪めるとわかっていても力になってくれたのは、自動販売機の付喪神だった。
 そして、あいつが消えそうないま、主神はあいつの救済をも拒んだ。
 ――御神体の鏡にひびくらいは入れてやる。
 ぶっそうなことを念じながら、俺は彼女を探す。ちょうちん型の懐中電灯をかかげ、コートを着て暗い町を駆けまわる。雨が降っているあいだも、雨が止んでもずっと走りつづける。
 けれども彼女は見つからない。
 文房具屋前には二度立ち寄った――あいつが来るならここだと踏んで。しかし影も形も見当たらなかった。
 まだ来ていないのだろうか。どこか全く別のところをさまよっているのだろうか。まさか、とっくに泡のように消えてしまっているのだろうか。
 気がおかしくなりそうな焦慮をけんめいに抑えつけ、俺は路地という路地を照らしてまわる。
 神になどもうすがるものか――と思いながらも、走りながらいつしか祈っていた。世の中の吉善事凶悪事(よごとまがこと)つかさどる、ありとしあらゆるもろもろの神に。あいつを取り戻させてくれと。
 ひざに手を置いて荒い息をつく。呼吸を整える。辺りを見回せばまた文房具屋の近くに来ている。
“もう一度見に行こう”
 曇ってずり落ちかけた眼鏡を外し、レンズが砕けんばかりに握りしめて歩き出したときだった。
「お、何してんのあんた」
 買い物袋を手にして道を歩いていた人影が、手を上げて挨拶してきた。
「あーそうそう、あたしうっかりしてたんだけどさー。昼間の」
 元同級生の声――俺は一瞥もせず会釈だけして、文房具屋前へと急ぎ足で向かう。
 かまっている暇はない。
「あっちょっと、話あるんだって。今日巫女服返して水着引き取ったつもりだったけど、あれ」
「悪いが後日でたのむ!」
 レンズの曇りを拭きとりつつ、血走った目で元同級生をふりかえり怒鳴る――が、マイペースな元同級生はこちらを見ていなかった。俺の向かう先に視線をそそぎ、何だありゃとばかりに眉を上げている。
「わお、見て見てあそこ。真冬なのに水着の人がいる」
 元同級生は「なんだろあれ。新手の露出趣味かなー。でもスタイルいい人だからなんかの撮影かも」とのんきな声でくっちゃべっている。俺は前を向き、眼鏡をかけ直しながら語気荒く言った。
「露出趣味の変態などどうでもいい! 通報でもしと……け……」
 沈黙する。
 文房具屋前から少し離れた街灯のところに人だかりができており、その中心に自販機の精がいた。
 白ビキニの水着姿で。
 いつもの着物のなごりは足元の濡れた白足袋(たび)と雪駄だけだ。
 彼女はがたがた震え、「見ないでー」泣きそうになっていっしょうけんめい腕で通行人の目から体を隠そうとしている。赤面しきった彼女は俺に気づき、安堵と憤りと羞恥のないまざった表情を浮かべた。
 ひときわ冷たい木枯らしが辻に吹く。
「…………何やってんだおまえ」
 思わずそう言ってしまうようなシュールさはさておいても、この状況は奇妙だった。
 なぜ、自販機の精の姿にほかの人間が視線を注いでいる?
 それに……震える彼女はまるで、寒がっているように見える。
 はっと我に返り、細かい事情はあとまわしにして俺は彼女の元に駆けつけた。「わ、わ。あわわ」口もろくにきけなくなっている自販機の精は、震えながらこちらの胸に顔を埋め、俺を盾にして群衆の視線をさえぎろうとする。
 自分のコートを脱いで彼女を包む。がるるると周囲に威嚇を飛ばすと、物珍しげに立ち止まっていた群衆があわてて足早に散った。
「どういうことだ……この格好」
「こっちが訊きたいよ!」自販機の精が泣きべそ気味にわめいた。「きっ、君に文句言わなきゃ収まらないっ、なにこの破廉恥な衣装っ!?」
「……兼業先の会社の新製品サンプルだ」
 昼間、元同級生が引き取っていったはずだが。
 俺がふりかえると、後ろにいた元同級生が「あー。それそれ」と手を打った。
「それをさっき言おうとしたのさ。水着の袋持って帰ったつもりだったんだけどさー、紙袋開けたら返したはずだった巫女服入ってたのよねー。ほらどっちも神社の紙袋に入ってたじゃん? 間違えちゃったみたい」
 ……つまり、俺が「着てほしい」と自販機の精に渡した紙袋の中身はこの肌露出の多い水着だったわけか……
 俺は腕のなかの自販機の精に向き直る。
「で、なんで着てるんだ」
「いつまでたっても着物が乾かないから! いつもならすぐ元通りになるのにっ! だから服換えようとして、袋開けてみたらこんな頭おかしい布きれでっ!」
 憤激もあらわにこちらの胸をぽかぽか叩いてくるのはさておき、彼女の言葉に俺はさらに瞠目した。
 乾かない?
 これまでの例だったら、時間がたてばすぐ綺麗に元に戻るはずなのに。
「……消えるときは君がくれた服を着ていようと思ったから着たけど、そうしたらさっきから私変に、っちゅん!」口早な訴えの合間に可愛らしいくしゃみを自販機の精はひとつした。「なんだか肌がすーすーして痛いし、体が勝手に震えるし」
「それは……」
 俺は彼女のむき出しの腕をつかんだ。
 冷たい。ただ、にぎっていると、冷えた肌の下には温かい血が流れているのがわかる。
 まるで、人間のようだ。
「おまえ、それは、『寒い』って感覚だ」
「こ……これが? でも、なんで? なんで急に私……」
 自販機の精は混乱した表情となる。
「そうだ、それにさっき私、大勢の人に見られてた……君にしか見えてないはずだったのに」
 元同級生を手招きし、俺は自販機の精を示した。
「こいつが見えるか。この水着の女が」
「何言ってんの? 当たり前じゃない、先にあたしがその人の姿見つけてたでしょ」
 肯定されて俺は確信する。
 もう間違いなかった。自販機の精の肩をつかむ。
「おまえ……人間になってるんじゃないのか」
「……やっぱり?」
 彼女自身もうすうす思い当たっていたのだろう。固唾を飲んでそう答えた。
 見交わす瞳で、互いに同じことを考えているのがわかる。
 ――“最期”は?
 またふりむいて俺は「鏡。鏡を持ってないか」と元同級生に問う。
「鏡ぃ? 化粧用コンパクトミラーでよけりゃ携帯してるけど」
「すまん。それをこいつに見せてくれ」
 元同級生が突き出した鏡面を、穴の開くほど自販機の精は見つめた。
 視線を凝らすこと数分――やがて彼女は呆然とつぶやいた。
「見えない」
「見えない?」
「天命が尽きかけてるところが見えなくなった」
 ……考えてみればそれはそうだ。人間となっているんだから天命を()る力もないに決まっている。
「でも」鏡から俺の顔へ視線を移し、彼女は言った。「根拠はないけど、付喪神としての私がおしまいになって、それで終わった気がする」
 それにはどういうわけか俺も確信があった。もう彼女は大丈夫なのだと。
「だがなんで、人間に……」
 俺が疑問を口にすると、自販機の精(正確には元というべきか)は何かを思い出そうとするかのように視線をさまよわせ、「あれかな」とつぶやいた。
「チョコレートを。君から受け取ったチョコを口にしたよ」
 神饌以外のものを口にした――その言葉を聞いて、俺ははたと思い当たった。
黄泉比良坂(よもつひらさか)御饌果(みけこのみ)食まば幽世(かくりよ)止定(とどめおかれ)む、だ」
「え?」
「別の世界の食べ物を不用意に口にすれば、その世界の住人となって留まらなくてはならなくなる場合がある。神でさえも」
 それはこの国の神話に出てくる、もっとも古いルールのひとつだ。
「え……と、人の食物を口にしたから、私は人間になったということ?」
「さあ、自分で言っておいてなんだが、そんな単純なものかどうかは……」
 俺は“元付喪神”となった自販機の精の頬に触れる。
「あるいは、うちの神様がおまえをこうしてくれたのかもな」
 先刻さんざん胸中で呪っておいてなんだが、なんとなくそんな気もしていた。うちの主神が縁結びの神でもあったことを思い出す。
 それとも、知り得ない他の要因によるものか。
 人は死ねば神と()る。
 では神が最期を迎えた場合は――人に、なることもあるのだろうか。
 いや、奇跡の理由はなんでもいい。ほんとうの答えはきっとわからないのだろう。それよりもいまずっと重要なのは、
「とにかく……よかった。消えずにすんでよかった」
 腕を彼女の背に回し、その細身がたわむほどきつく抱きしめた。
「いっそ消えちゃいたかったよさっきは! 人にじろじろ見られるのがあんなに恥ずかしいものだなんて思わなかったっ」
 ほんのり染まって文句を言いながらも、自販機の精は抱きしめ返してくれた。俺は胸の底から吐息をつく。
「二度と会えないかと思ったんだぞ」
「う、うん……」
「もうどこにも行くな」
「……うん……少年」
 詰まった声でしんみりと言った自販機の精が、くすん、と鼻をすすってひたいをこすりつけてきた。
 が、
「あっ、待って、まだ人が見てるから」
 彼女は急に慌てた恥じらいの声をあげた。元同級生のことを指しているのだろう。たしかに俺も横手からまじまじと遠慮のない好奇の視線が突き刺さってくるのを感じる。
 しかし、そんな視線はささいなことにすぎない。
 彼女は無事だった。そして人になった。そうとわかったらわかったで、なんというかこう、心中噴き上がるものがある。
 意識せざるを得ない。
 人と神の属性差という最大の障害が消えたことを……!
「ね、あの、ちょっと放して少年、見られてる! すごい見られてるから!」
「結婚してくれるなら放す」
「するからまず離れ――え、は、ええええ!??」
「ありがとう」
 抱きしめていた彼女の身を解放すると、「待って! いまのは違うから! しょ、承諾してないそんな簡単にっ」頬を燃やした自販機の精が口をあわあわさせてつかみかかってくる。横からは元同級生の「え、なにこの急展開」というつぶやき。
 急ではない、決して急じゃないさと俺は内心つぶやく。十年ごしの、ずっと溜めこんでいたものが、初めての告白時を上回る勢いで溢れ出しているだけだ。とはいえ頭の芯が熱くなっていることに自覚はある。
 ――過熱上等。頭が冷えたら、勇気が出せないもとの俺に戻りかねない。
 昂ったまま突っ走ってやる、と目を据わらせて、彼女の両肩に手を置いた。
「すまん、いきなり結婚は飛ばしすぎたな。ではあらためて、ぜひとも結婚を前提にお付き合いしていただきたく……」
「ばっ、ばばバカじゃないのかい!? 変わってないじゃない! ひ、人前で何言ってるの君!? きゃ――!!」
 再度抱きしめると惑乱の叫びが上がった。
 もがいている彼女をしっかり捕まえたまま、俺は元同級生をちらと見た。よくわかんないけどあれだ行け、と元同級生が目で伝えてくる。
 ええと、なんだっけ口説きのアドバイス……そう、確か、『相手が動揺しているうちに言いくるめて既成事実に持ちこめ』だった。
 つまり冷静にさせないで押し切れと。
 ……そして自販機の精はどうやら自分の色恋方面では相当な恥ずかしがり屋だ。特に第三者にそれを見られるのは当たり前だが免疫がないはずだ。まして今夜はじめて人に見られる存在となった彼女は、ただでさえ人の視線に敏感のようである。この弱点を利用しない手はない。
「おい、ちょっとそこで立会人になっててくれ」
 元同級生に打診すると、「おう」と打てば響くように快諾される。
「ほんとに何言ってるの君!?」
 自販機の精の悲鳴を流し、俺は遠い遠い目をして語りはじめた。
「長年、おまえのそばにいられるだけでいいと思ってきた。けれど今回のことでよくわかったよ。いつか失うかもしれないと思ったら、やっぱり欲しくなるんだ。おまえが人間になってくれたいま、遠慮するつもりはない。俺のものになってくれ」
「やめてえええええ! 遠慮して! 人前だよ!」
「この先も俺のやることは変わらない。おまえが神だろうと自販機だろうと人だろうとバックアップし続ける。なにがあったって俺が守る。できれば一生そばで守らせてほしい。そういうのは置いといても、おまえしか見えないくらい好きなので嫁に来てくれませんか」
「た、助けてくれるのは嬉しいけどっ! 嫁ってだからそういうこと恥ずかしげもなくっ……!」
 ひたすら口説くうち、彼女の顔の紅潮は首筋にまで染みていく。
 なお、元同級生はいつのまにか業務用チョコの袋を発見してポリポリかじりながら、映画でも見るようにじーーーっと見てきている。
 とっくりと見るがいい――現在の俺はすでに思春期の多感な少年ではない。ほどよく羞恥心が摩耗したスレた大人である。第三者の面前で思いのたけをぶちまけるくらい恥ずかしくなど…………猛烈に恥ずかしいが、
「あの……ほんと待って……せめて後でふたりきりで……」
 俺の数倍は羞恥に身もだえしているやつが腕のなかにいるので、その熱を感じていると耐えられそうである。
 奇しくも昔、ここで俺は同級生に告白され、自販機の精はその一部始終を横から見ていた。告白する者される者見物する者、全員それぞれ役割を代わり、あのシチュエーションがいまここに再現されている。
 自販機の精には気の毒な気もするが、これも因果応報というもの。あと、神社から逃げられて心配させられた恨みもちょっとある。
 茹だってぷるぷる震えだした彼女を決して離さず、切々と十年来の想いを訴えつづける。遠い目で。
「おまえは俺にとってふるさとの象徴だったんだ。子供のころから街角で見守っていてくれて、俺が高校大学に行っていたあいだもずっとこの町で待っていてくれた。帰省すると喜んで出迎えてくれた。俺はあのころ、おまえに会いたいから帰ってきていたんだ」
「お願いやめて少年……恥ずかし死ぬ……」
 俺が垂れ流すポエムのこれ以上の詳細については割愛。ぶっちゃけ自分でも記憶に残したくない。
 長いあいだ溜めに溜めてきた愛の言葉を、これでかき捨てとばかりに俺は吐き出していく。冬の夜の文房具屋前で、水着にコートをはおった彼女に。横からは、ポリッポリッポリッポリッと元同級生が無言でチョコをかじる音が響く。
 最終的に自販機の精は頭のてっぺんから湯気を立ち上らせ、
「わかったから……つがいになるからやめて……」
 蚊の鳴くような声で承諾の言葉を吐き、目を回してがくりとうなだれた。
 業務用チョコを食いきった元同級生が、無表情でびしっと親指を立てた。
「お幸せに」


   ●   ●   ●   ●


 神社の向かい側に我が家がある。
 病院での検診から帰ってくるなり自販機の精は冷蔵庫からコーヒー缶を取り出し、わなわな震える手でそれを開けようとした。付き添いとしていっしょに帰ってきた俺は彼女から、缶をあわててとりあげる。
「カフェイン控えないとだろ、産まれるまでは」
 たしなめるように言ったが、自分の顔がいま気持ち悪く笑み崩れていることは自覚している。
 彼女の妊娠が発覚して以来、気を抜けばすぐ破顔してしまうのである。親父が買ってきてくれた各種マタニティグッズを袋から取り出しつつ、俺は満面の笑みを咲かせた。
「いやあ行ってみてよかったな病院! 『検査されたらおまえの以前の正体がばれたりしないか』と最初は冷や冷やしてたけど、そんなことにもならなかったし」
 彼女がはじめて体調の悪さを訴えたため、青くなって先日病院に連れて行ったのだ。
 そうしたら産婦人科を勧められることになった。
 考えてみれば当然なのだ。彼女はもう俺以外の他人にも見えるし、接触も会話もできるようになっている。ものを食べる、夜は寝る。髪も爪も伸びる。完全に人間と同じになっているのだから、子供ができてもおかしいことはない道理だ。
 そして今日、正式な検診で、妊娠三ヶ月目が確定した次第である。
「そりゃいつかはそうなったらいいなあと思ってたけどさ。でもうちに来て半年せず孕むなんて! なんて優秀な児童販売機、なんちゃっ……おっといけない、浮かれすぎていろんな意味で最低なギャグが口をついて出ちまった」
「うわああん馬鹿あぁぁぁ!」
 自販機の精が涙目でキレた。
「いてっ」
 ぼこん。ふりおろされた和傘がこちらの頭にヒット。
 彼女の涙声がきんきん高まる。
「産む機械呼ばわりしたね!? なら君は自販機を孕ませた機械性愛者(オートエロティシスト)だよこの性的倒錯者のど変態! この助平、このオオカミ、この邪念まみれの節操無し! なっ、なにがふるさとの象徴だ、なにが『俺が守る(キリッ)』だ!? あれだけ君子然とした言葉を並べ立てといて、私をここに連れてくるや月も変わらないうちに不埒(ふらち)きわまりない行いに及んだのは誰だ!? し、しかも以降も隙あらばとばかりに……! この少年あらため不潔神主、『半年せず』もなにもあるか――! 因を植えたら果が生っただけだよ、君自身がやったことじゃないかあああ!」
「まあ……それは……俺も男なので」
 好きな女と一つ屋根の下という状況が誘惑的にすぎた。十年告白をこらえた経験があるので我慢できるだろうと思っていたが、いかんせん認識が甘かったという次第である。
 念のため言い添えるとあくまでも合意のうえだ。押しに弱く迫るとおろおろする彼女が面白可愛くてつい悪乗りする・最初はからかい半分だったのがしだいにこっちの理性も薄れる・最終的にふたりとも雰囲気に流されるままことに及ぶ、といったなし崩し展開だったが。いちおう同意は取り付けた、なし崩しに。
「愛してるよ」
 正面からぎゅっと抱きしめたらぎゅうううっと両頬をつねられた。
「ごまかそうとするなぁぁ!」
「ははは、怒るおまえも可愛いなあ」
「君なんかだいっっっきらいだ――!」



 注連縄が巻かれた自動販売機の本体は、けっきょくうちの庭に鎮座している。周りで親父の盆栽と並んで花を咲かせているのは、自販機の精が世話している植木鉢やプランターだ。
 その本体の前で口づけを重ねると、つぶった目元を彼女は含羞に染めた。
 雨だれが傘を打つ音を聞きながら俺は思う――雨が強くなる前に仲直りできてよかった。でないと、傘に入れてもらえずずぶ濡れになるか、ひとり屋根の下に退散するかになったところだ。
 まあ、雨が降りだしたので彼女が折れてくれた面がなくもない。それまではそばで俺が謝ってもむすっとそっぽを向いていたのだが、雨滴が地を叩きだすとこちらの袖をひっぱって無言で傘に入れてくれたのである。
 とにかく、おかげで喧嘩は長引かずにすんだ。
「赤ちゃんのことは私だってすごく嬉しいよ。でも」唇を離すと、蚊の鳴くような声で彼女は言った。「……家族が増えるのは、もうしばらく君とゆっくり過ごしてからでもよかったのに。そう思ったら腹立っちゃって」
 恥ずかしそうに見上げてきて、ややあって自販機の精はくすりと笑う。
「ずっとむかし最初に話したときを思い出すね。あのときみたいに傘で叩いちゃってごめん、痛かった?」
 手を伸ばして、微笑みながら彼女はこちらの頭を撫でてきた。俺はその手をつかむ。
「……もう一回キスしていいか?」
「な、なにまた急に――」
 小紋からたちのぼる花橘の香が、ふたり入った和傘のうちにこもる。


   ●   ●   ●   ●   ●


  〽かなたへ、君といざかえらまし。




                     〈了〉

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