2014-03-26
■恐怖は怒りを、怒りは憎しみを、憎しみは苦痛を呼ぶ 『アクト・オブ・キリング』

『アクト・オブ・キリング』鑑賞。
このあいだの都知事選で田母神を応援するデヴィ夫人を見た。「彼こそラスト・サムライです!」というお馴染みの文句を咆哮していた。ただ、なにぶん周囲を取り囲む品を欠いた連中と一緒だと思われてはかなわないし、耳が腐って落ちるような妄言を聞いてやる程度のヒマもなく、眼ヤニをほじるなどの「田母神の演説を聞く」よりも重要な雑事をこなすため、その場は後にした。
彼女の狂った言動に奇妙な違和感を持つ人は多いだろう。右翼団体フィクサー児玉誉士夫に、愛人としてスカルノ大統領の元へ送りこまれる。後に一夫多妻制の第三婦人として結婚するも、1965年の軍事クーデターにより立場を追われる。さらに、そんな境遇にあっても日本大使館から亡命許可は下りず終い*1。ことごとく「右翼」「日本」に裏切られ続けた経緯がある。その彼女が何故、田母神などという、それまで彼女を裏切り続けた側に与するチンピラの応援に馳せ参じているのだろうか?
本作には、彼女の引き裂かれ、破壊された自我を紐解きつまびらかにする糸口が見えたような気がした。
1965年のインドネシア軍事クーデター「9月30日事件」に乗じ、共産主義者掃討の令のもと(少なくとも)100万人を越す大虐殺が行われた。
本作の監督は当初、被害者への取材をしようとするも当局から接触を禁止され、加害者側への取材に方向転換を余儀なくされる。取材をするために会う実行犯たちは現在のインドネシア政府の礎を作った「英雄」と称えられ、過去の虐殺も自慢話として雄弁に語りだす。そんな奇妙な彼らに「当時の出来事をもう一度、演じてみないか?」と持ちかける。その信じがたいオファーが、しかも快諾されたことで作られたのが『アクト・オブ・キリング』だ。
ドキュメンタリーの醍醐味は「建前」や「先入観」「イメージ」「虚飾」のようなものがはがれて中にある「本性」や「本音」が剥きだしにされた瞬間であろう。しかし本作で被写体となった、虐殺加害者アンワル・コンゴは最初から自身の殺人を隠そうとはしない。いかに自分の殺人が効率の良いものだったかを自慢げに実演さえしてみせる。
当時、彼と一緒に殺害をした人々も一様に当時の殺害を同じように自慢する。ある者は当時つきあっていた華僑の彼女の父親を殺したことを自慢し、またある者はレイプ自慢さえする始末。一見、彼らの厚顔無恥さ加減は端から「本性」をむき出しているように思える。
しかし、自分の行った「殺害行為(Act of Killing)」を演じる(Acting)ことで「本性」自体が変質していく。自分自身が行った行為の恐怖により、自分自身が脅されていたことに気づいてしまう。『アクト・オブ・キリング』は恐怖による自我の破壊や分裂と、その病理を自覚するプロセスという、凄まじい瞬間が映されている。
そして、おそらく。デヴィ夫人は当時の恐怖の病理をかかえたまま、破壊された自我を求め彷徨っている。
人類必見作。
*1:トークショーでこのあたりの経緯について町山さんがつっこんでいたが、自ら辞退したという言い方だった