八紘一宇(はっこういちう)とは、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」から作られた言葉で、大意としては天下をひとつの家のようにすること。転じて第二次世界大戦中に大東亜共栄圏の建設の標語のひとつとして用いられた。
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日中戦争から第二次世界大戦まで、大日本帝国の国是として使われた。1940年(昭和15年)7月26日、第二次近衛文麿内閣は基本国策要綱を策定、大東亜共栄圏の建設が基本政策となった。基本国策要綱の根本方針で、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことと定められた。東京市では「八紘一宇」の思想を直接に指導・訓練する国策協力組織として肇国奉公隊が結成され、市役所組織の軍事体制化に活用されるなど、日本国内各所で東アジアにおける東亜新秩序実現の為のスローガンのひとつとなっていた。
日本の降伏後にGHQに占領されると、神道指令で、国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における使用が禁止された[1]。
現在における日本の代表的な国語辞典では、「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」[2]、と説明している[3]。また、世界大百科事典では、「自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・正統化する思想・運動である超国家主義の典型」[4]と説明されている。
日蓮宗から新宗教団体国柱会を興した超国家思想をもつ田中智學[5][6]が1903年(明治36年)、日蓮を中心にして、「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味で、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」(八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)から「八紘一宇」としたものである。この八紘の由来は、
九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也
– 『淮南子』地形訓
である。本来、「八紘」は「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語となった。「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味する。
東京裁判において「田中上奏文(Tanaka Memorial)」を歴史的真実として判決を導く裁判を進めていた検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、…一九三〇年に先立つ十年の間…これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが[7]、清瀬弁護人は『秘録・東京裁判』のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている[8]。
1957年(昭和32年)9月、文部大臣松永東は衆議院文教委員会で、「戦前は八紘一宇ということで、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発しておったようであります。」とも説明、1983年(昭和58年)1月衆議院本会議で、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。」と説明した[9]。
一方で、八紘一宇の考えが欧州での迫害から満州や日本に逃れてきたユダヤ人やポーランド人を救済する人道活動につながったとの評価もある。上杉千年は、「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している[10]。
また、八紘一宇の思想自体に問題があるのではなく、軍部が都合よく利用したことが問題とする声もある。
宮崎県宮崎市の中心部北西の高台、平和台公園(戦前は「八紘台」と呼ばれていた)にそびえ立つ塔。正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。設計は、彫刻家の日名子実三。現在は「平和の塔」と呼ばれている。
神武天皇が大和に東征するまでの皇居と伝えられる皇宮屋(こぐや)の北の丘に1940年(昭和15年)、「皇紀2600年」を記念して建造された。建築にあたっては、日本各地や日系人が多く住む中南米やハワイ、同盟国であったナチス・ドイツ、イタリア王国からの寄付、さらに日本軍の各部隊が戦地から持ち帰った様々な石材が使用されている。高さ37m、塔の四隅には和御魂(にぎみたま)・幸御魂(さちみたま)・奇御魂(くしみたま)・荒御魂(あらみたま)の四つの信楽焼の像、正面中央に秩父宮雍仁親王の書による「八紘一宇」の文字が刻まれている。内部には神武東征などを記した絵画があるが非公開。第二次世界大戦敗戦後に「八紘一宇」の文字と荒御魂像(武人を象徴)はいったん削られたが、後に再興された。この復元運動の中心となったのは、観光立県・宮崎の生みの親であり、当時は県の観光協会会長だった岩切章太郎宮崎交通社長だった。
この塔の建立に当たっては日本全国からの国民の募金・醵出金がその費用の一部に充てられた。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックの際は、聖火リレー宮崎ルートのスタート地点にもなった。
中村、平野は「世界共産化」という意味で「八紘一宇(為宇)」を用いていると中川八洋は述べている[11]。