母の意に背き「絶対に死ぬものか」と誓う
1974年3月12日午前11時すぎ、その2日前にフィリピンのルバング島で救出された旧日本陸軍の元少尉・小野田寛郎(2014年1月16日没、91歳)が、マニラ空港から日本航空の羽田行き特別便で帰国の途に就いた。
同日16時半には羽田に到着し、戦時中の1944年にルバング島に赴任して以来、30年ぶりに祖国の地を踏んだ小野田は、その1週間後には52歳になろうとしていた。旅客機のタラップから降りてくる彼を、両親はじめ肉親が迎え、母・タマエは「寛郎、よう生きて帰ってくれた。あなたは偉い。ありがとうございました」と声をかけた。
だが、このとき小野田は「父も母も年をとったなあ」と思っただけで、とくに感激はなかったという。これというのも、日本の敗戦を知らないまま、30年間戦い続けてきた小野田にとって、故郷や肉親の話はタブーであったからだ。
一方、「よう生きて帰ってくれた」と出迎えた母だが、フィリピンに向かう息子から形見にと請われ、自分が嫁入りとともに持ってきた短刀を渡した際、「武運つたなく敵の捕虜になったら、これでいさぎよく自決しなさい」と告げていた。これは、旧日本陸軍の「戦陣訓」における「生きて虜囚の辱めを受けず」との教えとも重なる。
もっとも、当の小野田は、母の言葉にうなずきつつも、心中では「絶対に死ぬものか」と思っていた。それは小野田に命じられた任務が、ルバング島での游撃戦(ゲリラ戦)指導というかなり特殊なものであったからだ。
小野田が徴兵されたのは1942年、中学卒業後に入社した中国・武漢にある貿易商社に勤務中の頃である。予備士官学校では、死を覚悟した突撃戦を習っていたが、その後移った陸軍中野学校二俣分校(静岡県)では、一転して、どんな生き恥をさらしてもいいから、できるかぎり生き延びて、ゲリラ戦を続けろと教えこまれた。
ゲリラ戦では、臨機応変に行動することが何より重要だった。ゆえに二俣での教育は一種の自由放任であり、当時絶対の概念であった「国体」を批判したり、「八紘一宇」を疑ったりしても咎められず、むしろ「天皇のために死なず」という気風すらあったという。
二俣分校を卒業したのち、1944年11月末にルバング島に赴任する。このとき同島には陸海軍あわせ約200名の日本人将兵がいたが、部隊の大半はマニラに引き揚げる予定が立てられていた。すでにアメリカ軍のフィリピン上陸は間近に迫り、戦力の乏しくなった日本軍はマニラ防衛に集中せざるをえなくなっていたのだ。そのなかにあって、小野田たちフィリピン派遣軍は、ルバング島が米軍に制圧された場合、ゲリラ戦を組織するという任務を負っていた。赴任に際して参謀からも、「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っているあいだは、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使って頑張ってくれ」と念を押された(小野田寛郎『たった一人の30年戦争』)。
だが、現地の将兵は、敵軍が上陸したら玉砕するつもりでおり、山奥に移ってのゲリラ戦の必要を説く小野田に耳を貸そうとはしなかった。そもそも小野田の使命はあくまで「指導」であり、指揮権や命令権は認められず、行動を強いることはできなかったのだ。それゆえ、彼の存在は味つけにすぎないと、小野田少尉をもじって「野田醤油」と陰であだ名されたりもした。
そうこうしているあいだに米軍はルバング島に上陸、わずか4日間で日本軍を撃退し、全島を制圧下に置いた。小野田は、山中にやっと集結した日本敗残兵20数名で、ゲリラ戦に取りかかる。一カ所に固まっていては、敵にいつ包囲されるかわからず危険だとの海軍士官らの意見具申から、小野田は少人数のグループで分散して山中に潜伏することを決めた。ここから小野田は、島田庄一伍長と小塚金七一等兵、少しあとに赤津勇一一等兵を加えた4名のグループを率いて行動することになる。
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