「サテライト「三国志」群像」

「三国志」は赤壁の戦いの後のほうが断然面白い

軍師・諸葛亮の本当の実力も分かる

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2014年3月25日(火)

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 2012年8月から2013年8月まで『サテライト「三国志」群像』のタイトルで連載された塚本青史さんの小説が、このほど単行本『サテライト三国志』上下巻として刊行された。

 『レッドクリフ』など、映画や小説、そして漫画やゲームと、三国志はさまざまな形で描かれているが、赤壁の戦いを山場としているものが多い。しかし、塚本さんは、戦いの派手さだけでなく、中盤から終盤にかけての機微にも注目してほしいという。

 書籍の出版を機に、塚本さんに三国志の読みどころについて寄稿していただいた。

 『三国志』というと、普通は歴史書の方ではなく、小説の『三国志演義』を指すことが圧倒的に多い。それゆえ、演義の方を正しい歴史だと誤解している向きも多い。

 例えば劉備と関羽、張飛が義兄弟になる「桃園の誓い」の場面や、諸葛亮が藁人形を使った船で、魏軍に矢を十万本を射たせて、刺さった物を呉軍の備品にした話は、演義の目覚ましいフィクションである。

 また、曹操が漢帝国を不法に乗っ取った大悪人で、劉備が漢の血筋ゆえに、祖国再興を図る善人的な性格の持ち主とするのも、演義における脚色といえる。

 歴史の実際は、漢の皇帝の政治的な力が下落して、乱れた世の中から野心の強い者どもが、天下取りに名告りを挙げて戦いを繰り返したという事だ。それが、この物語を通しての偽らざる姿である。

漢皇帝の無能振りや周囲の悪辣な行状は省略

 では、なぜ皇帝の政治力が落ちていったのかが、気になるところだ。簡単に言えば、後漢の後半に皇帝の夭逝が相次いだからある。幼い皇太子が帝位に即くと、母親である皇太后が摂政となり、彼女の一族(外戚)が幅を利かせて専制政治を行うのだ。

 しかし、幼帝が成長すると、無論不満を持ち始める。そのとき親身になって相談に乗ったのが、宦官どもであった。場所は、男子禁制の後宮である。ここならば外戚に立ち聞きされることもなく、彼らを抹殺する謀(はかりごと)を進められた。

 こうして、青年皇帝は思いを遂げる。ところが、今度は論功行賞で高い地位にありついた宦官どもが、専横の限りを尽くしたのだ。

 こういったことから、結局は漢の威光が隅々まで届かなくなり、秩序が乱れていったのである。つまり、人々の心の拠り所が崩壊したことになる。そのような社会状況を反映して、太平道なる新興宗教が隆盛した。

 この信者が膨らんで黄の頭巾を被り、不満を後漢の政府に向けていく。これが、黄巾の乱である。つまりこの乱は、太平道の信者を中心とした一種の宗教暴動だったのだ。

 大部分の『三国志』物語は、冒頭に184年の黄巾の乱を据えている。そして、彼らを悪人に仕立て上げて、成敗に加担した劉備や関羽、張飛、はたまた孫堅(孫権の父)、曹操らが物語に登場する切っ掛けとしている。

 だが、なぜ黄巾の乱が起こったのかや、それまでの漢皇帝の無能振りや周囲の悪辣な行状を省いている。あからさまに後漢の皇帝批判をすれば、劉備が漢を再興する大義がなくなると、懸念しているかのようだ。

 この後、外戚の権力者何進(かしん)の暗殺を経て、袁紹(えんしょう)らを中心とした宦官の殺戮、董卓の洛陽入城、汜水関(しすいかん)の戦い、長安遷都と進んでいくが、ここまでで、『三国志』前半の役者が揃い踏みすることになる。


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