■ 平成19年9月14日 周南市大津島 人間魚雷『回天』 最大の訓練基地
昨年平生町の回天関連施設「阿多田交流館」を訪れましたが、回天を知るなら当時最大の基地があった周南市の大津島を外す事は出来ないでしょう。
阿多田交流館を訪れた後、すぐに「大津島にも行ってみたい」と思っていたのですが、同時期に映画「出口のない海」が公開された為、ロケ地でもあった大津島は観光客が激増していました。
他の観光客が多いと落ち着いて見る事が出来ませんし、写真を撮っても絵になりません。
そこで、ブームが下火になるのを待っていたら1年が過ぎてしまいました(笑)。
更に、観光客の少ない平日を狙って今回のツーリングを敢行です。
午前8時半、LS125Rに乗って自宅を出発しました。大津島へは船を使って渡る為、最初に目指すのは徳山港です。
事前にネットで船の発着時間を調べて10:00発の便に乗る事にしていたのですが、徳山港は少し分かりにくい位置にある事から、何度か道に迷う事を想定してプランを立てていました。
遅くても20分前には港に到着して搭乗手続きを行う予定でしたが、予想以上に道に迷い、到着したのは10分前です。 バイクを止めて慌てて乗船券売り場へ向かうと、乗船券売り場は廃止されており、下記の場所で乗船券をお買い求め下さい…といった貼り紙がしてありました。 どこだ?ここ? どうやら徳山港のメインの建物の奥に大津島巡航の事務所があるようで、そこで購入する事になっていました。 うおおお…時間がないのに…! 走って売り場まで行き、券売機で乗船券を購入します。 回天のレプリカが展示してありましたが、じっくり見ている余裕はありません。大津島から帰って来た時に見る事にしましょう。 券売機で往復券を購入し、再び走ってフェリーまで戻り、出発時間ギリギリで何とか乗り込みました。 |
船内はガラガラです。平日の10時では通勤利用の人もいないでしょうし、予想通り観光客らしき人の姿も見えません。 船が発進すると、もの凄い振動と騒音が発生します。 客室内の液晶テレビは振動の影響でまともに映らなくなります。騒音はエンジン音だけに起因するものではなく、振動に共鳴した船体のビビリ音が主でした。 船体も船内も綺麗な印象でしたが、実際は古い船なんですかねぇ…? そしてこの船内から外を眺めていると、雨が降り出した事に気付きました。 最悪だ…、この先どうなるのだろう? |
船に揺られること約45分、大津島の刈尾港を経由して馬島港に到着しました。 フェリーから降りると「ようこそ 回天の島 大津島へ」と書かれた大きな看板が目に留まります。 周りにあまり人はいません。雨は小降りになっています。 私は最初に回天記念館へ向かう事にしました。 昔、回天の訓練基地があった場所には、現在は学校が建っています。この学校の敷地内にも当時の建物が幾つか残っているのですが、それはまた後で立ち寄る事にしましょう。 …しかし野良猫が多いな、この島は。 |
記念館へ向かう道と学校との間はコンクリートの塀で隔ててありますが、これは戦時中に島民が訓練基地内を覗く事が無いように作られたものだそうです。
当時の回天は○六(マルロク)兵器と暗号で呼ばれる程の最高軍事機密であり、一般人の目から隠す必要がありました。
搭乗隊員が回天によって戦死した事も、終戦を迎えてから一部の関係者の善意によって遺族に知らされた程で、海軍からは簡素な死亡通知しか無かったそうです。
やがて通路の脇に、通称「地獄の石段」が見えて来ました。 現在は危険なのでロープが張られて通行禁止になっていますが、当時はここを駆け上がらなければならず、訓練にも使われていたそうです。 当時は大きな扉があったそうですが、画像でも分かる通り、今は錆びた蝶番だけが残っています。 兵舎へ味噌汁を運ぶ際、ここを駆け上がるとこぼれてしまって「量が少ない」と怒られ、歩いて上がると「遅い、冷めてるじゃないか」と怒られたエピソードを聞いた事があります。 どれだけ大変だったのか、通行禁止でなければ是非私も駆け上がってみたかったですね。 |
記念館の正門を入ると、玄関までの通路沿いに烈士石碑が並んでいます。 特攻で亡くなられた方全員の氏名と出身地が書かれています。 私はあまり特攻隊員の氏名を覚えていないのですが、知っている名前を3名だけ確認出来ました。 黒木博司(岐阜県)・仁科関夫(長野県)・橋口寛(鹿児島県)の3名です。 黒木大尉と仁科中尉は回天の考案者という事で名前だけ知っていました。 橋口大尉は阿多田交流館で知りました。回天隊員の指導役をしていた人で、終戦の2日後に拳銃自決しています。 平生基地に所属していた橋口大尉の名があるという事は、ここの石碑は大津島基地所属の戦死・殉職隊員だけでなく、他の基地所属の隊員も全て記されているという事ですね。 石碑の数は多過ぎて数えられませんでしたが、資料によると搭乗員の戦死は106名と記載されており、確かにそのくらいの数はあったように思います。 |
烈士石碑の横には鐘楼がありました。ここの梵鐘には「平和祈念の鐘」と刻まれています。 これは回天烈士の霊と柱島泊地で謎の爆沈を遂げた戦艦陸奥の犠牲者を悼み、悲惨な戦争が繰り返されないよう願って1974年に作られた物だそうです。 その素材には、戦艦陸奥の三番砲塔にあった薬莢の砲金約100kgも含まれ、宇治・平等院の梵鐘(国宝)と同じ様式で作られているそうです。 また、「願わくば無名の防人として南溟の海深く安らかに眠り度く存知おり候」と、金剛隊の久住宏少佐の遺書も刻まれています。 |
慰霊の為の回天碑です。 右側の石碑には大東亜戦争で回天が使われた経緯と、烈士の芳名が記されています。 左側の石碑には回天を搭載して出撃した戦没潜水艦のリストが記されていました。 沈没した回天搭載潜水艦は8隻、死者は811名に上ります。石碑にはその8隻全ての艦名・出撃地・出撃日・戦没地・艦長名・乗員数が刻まれていました。 また、この回天碑の近くには別の石碑が2つありました。 1つは「英霊鎮魂」と刻まれ、巨人軍監督長嶋茂雄・平成8年3月1日と刻まれています。 もう1つには「浮きつ島鼓海を訪ふ」というタイトルの詩が刻まれていました。 平成5年5月22日に森繁久彌氏が作った詩だそうです。 2つとも、本人の書いた筆跡をそのまま石碑にしたものでした。 特に森繁久彌氏の筆跡は達筆過ぎて読みにくかったのか、隣に明朝体で書かれた案内板が併設されていました(笑)。 |
記念館の前に回天一型の模型が置かれています。 阿多田交流館や徳山港で見た映画撮影用の模型と違い、スクリューなど可動部の各所が一体成形により簡略化されていました。 また、炸薬を搭載する艦首部にも突起物(牽引・曳航用のフック?)が無く、完全に丸く成形されていました。 この模型は可動部分が少ない分、溶接箇所が少なくて全体的にスマートな感じを受けましたね。 当時の製造技術を考えると、まだ溶接の技術が確立されたばかりだったと思いますが、どちらの模型がより本物に近かったのでしょうか。 やがて雨が強く降り始めましたので、慌てて記念館の中に逃げ込みました。 |
記念館の中はあまり広くありません。私の他には来客はないようで、私の姿を見つけた係員の方が、慌てて館内に流れるナレーションのスイッチを入れていました。
阿多田交流館のように、来客の無い時は照明まで落とす…という事はないようですね(笑)。
館内はグルッと1周する作りで、壁面には戦争の情勢や経過を説明したパネルが並べられています。
その手前にガラスケースがあり、関連した品や模型・遺品・書物・写真などが展示されています。
受付で入館料300円を払います。年配の係員の方が話し掛けてきました。
係員「ここは初めてですか?」
私「ええ、阿多田交流館の方には行った事があるんですけどね。ここは初めてです」
係員「そうですか。どちらから来られましたか?」
私「岩国です。あと、ここは写真撮影しても良いですかね?」
係員「あ、はい、今のところは…いいですよ」
…今のところ?
係員「阿多田記念館は撮影はどうでしたか?」
私「ええ、あそこもOKでしたね」
係員「そうですか。陸奥記念館には行かれた事がありますか?」
私「はい。陸奥記念館も撮影はOKでしたよ。何だか昔はダメだったらしいですけど、私が行った時は大丈夫でした」
係員「そうですか。実は今、こういった施設での撮影が厳しくなって来ているんですよ。撮影した写真を悪用する人がいるみたいでしてね…」 私「悪用…ですか?」 反戦団体とか、中国・朝鮮人の関係でしょうか? 係員「それと個人情報保護法の関係もありましてね。展示している物に遺書とか手紙が多いものですから、問題になっているんです」 私「それなら大和ミュージアムのように、そういった品だけ撮影禁止にしたら良いんじゃないですかね?」 係員「うーん…しかしこういった戦争関連の施設では、既に9割以上が撮影禁止になっているんですよ。近い将来、ここも撮影禁止になる可能性が高いですね」 |
本来のこういった施設の使命は、戦争の悲惨さを後世に伝える為のものです。
撮影した資料が二次的に頒布されるのも、その目的の為にはむしろ好ましいはずです。メディアなどで広く取り上げられる機会があれば尚更大きな効果が期待出来ます。
遺族の方も、「自分達の個人情報が晒される危険性よりも、後世の平和を訴える方が重要」と理解した上で、個人情報を含む貴重な遺品を提供している訳ですから、その気持ちを無視して、他の目的の為に作られた個人情報保護法を一方的にここへ流用するのはどうかと思いますね。
さて、展示物を見ていきましょう。全てを紹介する事は出来ませんが、私が個人的に印象に残った物を幾つか挙げていきます。
まずこれは回天考案者の一人、黒木大尉の事が書かれたパネルです。写真に写っている人物が黒木大尉本人ですね。 黒木大尉は回天の訓練が始まって2日目に訓練中の事故で殉職しています。 昭和19年の9月6日、海が荒れていたので指揮官は訓練中止を命じましたが、黒木大尉と樋口大尉は「海が荒れているからと言って敵は待ってくれない」と反論し、その熱意に負けて訓練は開始されました。 しかし2人の乗った回天は海中に発進したまま浮上しません。夜を徹した捜索が続けられ、16時間後に発見して引き上げた時には2人とも死亡していました。 彼らは死亡するまでの間に、沈没状況の報告と回天に戦局逆転の希望を託す2000字の遺書(パネル左側に掲載)を残していたそうで、この報告を元に回天の改良が進められたそうです。 また、訓練生は「黒木・樋口に続け」を合言葉に訓練が再開されました。 |
こちらはもう一人の回天考案者・仁科中尉の遺品です。この人は遺書だけでなく手紙や訓練書など、自筆の書物を沢山残していました。 黒木大尉と共に回天を考案した仁科中尉は、訓練開始直後に黒木大尉から「恐らく2人のうちのどちらか、または両方が、訓練中に事故死するだろう。しかし残された者は決して訓練を中止する事無く、目的を達成しなければならないのだ」という内容の事を言われていたそうです。 間もなくその言葉通りに黒木大尉は事故死し、ショックを受けた仁科中尉はその後一心に訓練に励みました。その様子は周りの者が声を掛けるのを躊躇うほどの鬼気迫る勢いだったそうです。 やがて昭和19年11月8日に最初の回天特攻隊「菊水隊」の一員として出撃し、ウルシー環礁にて戦死しました。 |
これは当時の基地の様子を示す模型です。 画像は小さくて分かりにくいのですが、現在この記念館がある場所には予科練兵舎がありました。 調整工場があった所には、現在は学校が建っています。 水上機格納庫や飛行機整備場があった辺りが現在のフェリー乗り場のようですね。 基地を囲む塀は、現在も半分くらいは残っています。飛行科入口門がそのまま現在の大津島公園の門になっていたり、あちこちに当時の設備が残されているようです。 右側の洋上に写っている2本の黒い影は、ロ15号潜水艦・ロ16号潜水艦です。 画像では見切れてしまっていますが、この左の海岸線上に回天発射訓練基地跡(旧魚雷発射試験場)があります。 |
順路内側の壁には回天烈士の遺影が飾られています。 中には写真が無く、氏名だけ掲載されているものも数点ありました。 あまり鮮明でない白黒写真ですが、本当、あどけない表情の少年兵が多かったですね。まだ子供じゃないか…と思える顔立ちの人も沢山います。 人相や表情からその人の性格が伝わって来そうでしたが、20歳前後の若さで死を前提とした作戦に従事しているのに、何でこんなに温和な表情をしていられるのだろう…? |
この周辺には回天搭乗員の手紙なども沢山展示されていました。
多くは単品で展示されているのですが、その中に1つだけ、ある搭乗員が家族とやりとりしていた手紙を連続で展示しているものがありました。
まず最初に展示されていたのは、搭乗員○○(プライバシーに配慮)さんから父親に宛てた手紙です。内容は△△さんという女性との結婚を勧められた事に対しての返書でした。
その中には、△△さんとの結婚には異存ないものの自分はいつ死ぬのか分からない身、△△さんを若くして未亡人にしてしまうのは可哀想で耐えられない。この戦争を生き長らえる事が出来たなら結婚は厭わないので、その日まで待って欲しいのが実情である。しかし父も兄も△△さんも自分亡き後の事を充分に覚悟しているのであれば何時でも結婚する…という内容が記されていました。
この手紙の隣には、その△△さんから送られた手紙が並べられていました。プレートには「妻△△から○○に宛てられた手紙」と書かれています。
妻…という事は、最初の手紙の後に二人が結婚した事が窺われます。沢山の手紙が展示されている中で、唯一、時間の経過が感じられる手紙でした。
その手紙は、兄が遊びに来たとか姉がもうじき出産しますといった、○○さんがいない家庭での近況報告から始まっています。
近くの山に登ると○○さんの船が見えるような気がする、瀬戸内海の島影を見ながら幸福だった頃の思い出を抱き、武人の妻としての誇りを持って待っていますといった、戦時中ならではの言葉が続いています。
しかし、最後に本音を覗かせたと思われる一文がありました。
「貴方の妻なら知らせが有る迄家でだまって待ってるのが本当で、軍人の妻なら会いたいなんて我儘言ってはいけないか知ら、矛盾した気持があっちこっちと言ひ競ってゐます」
戦意高揚を謳う文書や手紙が多い中、僅かに記された弱音の一文に心を打たれました。
戦時中の人達は皆が精神的に強かった訳ではなく、私達と何ら変わらない弱さも併せ持っていたのです。
人間らしさというのは今も昔も変わらないな…と感じました。
伊号第58潜水艦の模型(木製)と構造図です。実物は全長108.7mもありました。 この模型は前部甲板に水上偵察機を1機、後部甲板に回天を4基搭載していた時期の物です(後の改装で航空機搭載設備を撤去し、前部甲板にも回天を2基搭載して合計6基としました)。 回天戦では金剛隊・神武隊・多々良隊・多聞隊として出撃した他、銀河隊の支援任務も成功させ、終戦まで生き残った潜水艦の一つです。 平生基地発の多聞隊として出撃した際は、広島・長崎に投下する原子爆弾を運び終えた直後の重巡洋艦インディアナポリスを魚雷で撃沈するという、大きな戦果を挙げています。 終戦の翌年である1946年4月1日、米軍の手によって長崎県・五島列島沖に海没処分されました。 |
これは映画「出口のない海」の撮影で使用された、回天内部を再現した模型です。 回天の内部を再現した模型は、世界中でこれ1つだけだそうです。 本物の回天より少し大きく作られているそうですが、それでもかなり窮屈そうでした。 計器類や操作レバーなどが沢山あります。映画の中でも再現されていましたが、かなり操作が難しかった事が窺えます。 敵艦への射角・速度・時間調整の他、燃料・酸素を消費した分と同じ重量の海水を注入して浮力を保つ等、これらの計算や操作を全てアナログ的に人間の手作業で行っていたというのが凄いですね。 また、この模型を見ると「回天は一度搭乗すると中からハッチを開ける事は不可能」という話が嘘だった事が分かります。中からでも開けられるよう、弁が付いていました。 ただ、海没してしまった場合は、水圧で開けられなくなってしまうでしょうけど…。 |
こちらは轟隊が出撃直前に撮影した写真です。皆笑顔で写っていますが、死を前にしてどんな心境だったのでしょうか。 この他にも回天搭乗員を撮影した写真が何枚かありましたが、全て笑顔で撮影されていました。 同じコーナーに遺書なども沢山展示されていました。血書で書かれた物も多いです その中に映画「出口のない海」のラストシーンで並木少尉が家族に宛てた遺書と同じ文面の物がありました。 実在の遺書の文面をそのまま映画のクライマックスに使用したんですね。 「お父さん お父さんの鬚は痛かったです」 「お母さん 情けは人の為ならず」 「忠範よ 最愛の弟よ 日本男子は御楯となれ 他に残すことなし」 「和ちゃん 海は私です 青い静かな海は常の私 逆巻く濤は怒れる私の顔」 「敏子 すくすくと伸びよ 兄さんはいつでもお前を見てゐるぞ」 遺筆 烈士氏名:上西徳英 (徳英から両親・弟妹へ宛てた筆) |
この他、回天の母と呼ばれる「お重さん」という女性の逸話も紹介されていました。
徳山で旅館を営んでいた女性ですが、隊員達を我が子のように可愛がり、出来る限りのもてなしをしたそうです。
ここのパネルでは、物資の乏しい時代に突然60人分のすき焼き会の依頼があり、食べ物だけでなくコンロやテーブルまでも近所を駆け回って集めた逸話が紹介されていました。
お重さんは、かなり後になってその時の士官が第1回の回天特攻隊「菊水隊」であった事を知り、出撃を報じた新聞記事中に隊員の写真を見つけてボロボロと涙をこぼしたそうです。
このパネルの傍には、隊員達がお重さんに宛てた感謝の手紙が沢山展示されていました。
血染めの鉢巻(写真下部)と、それを作った女生徒達の写真です。 この鉢巻は大戦中の呉海軍工廠で、回天の部品を製造していた広島県立呉第一高等女学校の四年生5人が作成し、回天搭乗員に贈った物だそうです。 死に逝く兵士だけでなく、残される方も血書を持って見送る程の決意が当然とされていた時代だったのですね。 親しい人が死んでいくのをただ見守るしかなかったのは、さぞ辛かった事でしょう。 写真上部に写っている書面は、名誉の戦死を遂げた海軍大尉とその家族に宛てた、当時の海軍大臣からの弔意の手紙です。 |
そして最後に…と言うか、順路的には最初の位置にあるのですが、視聴覚コーナーで「時代の証人」というタイトルのビデオを観ました。
当時の簡単な歴史を紹介すると共に、生き残った回天搭乗員の談話を紹介したビデオです。
既に高齢となった搭乗員が数人出演していましたが、皆さん落ち着いた表情をしておられました。
回天搭乗員となった時に死は覚悟していたので、戦後はどんな困難にも負ける事はなかった…との事ですが、確かに立派な身なりをされていたり、大企業の役員になられていたり、社会的に大成したように見受けられる方が多かったですね。
そんな方々が口を揃えて言われる台詞がありました。
「たまに徳山に帰った時には、海に行って水に手を浸けてみるんです」
「魚釣りが好きなんですが、時々ふと海水に手を浸けてみる事があるんです」
そして、それに続く言葉は…
「この海には回天と共に散った仲間達の血や肉があるんです。
海に手を浸けていると、皆が集まって来て自分の手を引いてくれているような…そんな感じがするんです」
非常に印象に残った言葉でした。
ビデオを観終わってから回天記念館を後にすると、既に雨は止んで青空になっていました。 先程通った正門へ向かうと、来た時には置いていなかった花が供えてありました。 どなたか遺族の方が来られたのでしょうか。 記念館の中へ入られた形跡はなかったので、献花の為だけに訪れたのでしょうね。 |
記念館の直ぐ下にある、無料休憩所「養浩館」です。 中に入ると休憩用のテーブルや椅子が並んでいるのですが、壁面を中心にこちらにも戦争に関係する資料が展示されていました。 写真などが多かったですね。 回天一型の模型や、回天という名前の日本酒、乾物類、冊子類も売られていました。 回天のデータを詳しくカラーで掲載した大きな冊子が興味を引きましたが、高価だったので購入は見合わせ、遺書などが掲載された小冊子を購入しました。昭和40年に発行された物です。 |
養浩館を出ると、麓まで降りて来て某食堂に入り、昼食を摂りました。
店員さんが無愛想でちょっと感じ悪かったのですが、海鮮かき揚げうどんを注文しました。
かなり厚みのあるかき揚げで「さすがに海の傍の食堂は違うなぁ」と驚いたのですが、この厚みが祟ってか、中の方はまだ充分に火が通っておらず、半ナマでした。
正直、そんなに美味しくなかった…。
こちらは大津島ふれあいセンターです。キャンプ場みたいなものですかね。 写真にあるような宿泊用のロッジが8棟、管理研修棟、炊飯棟、シャワー棟などがあります。 管理研修棟で職員さんに話を聞いたのですが、夏場の週末は殆ど予約で埋まっているそうで、特に毎年ゴールデンウィークには米軍岩国基地の外人さんが予約を入れるそうです。 先程記念館で観たビデオで元米兵が「戦争後期には日本軍は軍艦でも航空機で攻めて来ても全く恐るるに足りなかった。ただ一つ、回天だけはいつ現れるか分からない脅威だった」と言っていました。 その回天の最大の基地があったこの大津島で、現在の岩国基地の米海兵隊員達はどんな気持ちでキャンプをしているのでしょうか。 職員さんは企業向け研修室(100人収容)なども熱心に紹介して下さいましたが、一観光客に過ぎない私に研修室を宣伝しても利用する事は無いと思うんですけどねぇ…(笑)。 ここではステンレス製の栞を記念に購入しました。 また、大津島で発行している町内新聞も一部頂きました。凄くローカルな話題が掲載されていて、読んでいて微笑ましくなる内容でした。 |
回天発射訓練基地跡(旧魚雷発射試験場)へ向かうトンネルです。
このトンネルはかつて回天をトロッコに載せて運んでいたそうですが、レールは既に撤去されており、コンクリートで埋められた跡だけ残っていました。
少し低くなって凸凹しているので水分が蒸発しにくいのでしょうか。その部分だけ濡れていました。画像でも分かり易いですよね。
トンネルの中間点には枝道があり、ここから海岸に出られるようになっています。
空襲時にはここが指揮所になっていたそうですが、その建物は現在は跡形もありません。
右の写真はその先にあるパネルコーナーです。
トンネルの壁面に当時の写真パネルが展示されており、センサーが通行人を感知してナレーションを流すしくみになっています。
トンネル内では音声が響くので、突然始まるナレーションにビックリしました(笑)。
トンネルを出ると、すぐ正面に訓練基地跡がありました。当たり前ですが、映画で観たのと同じ建物ですね。
近くまでは行けますが、内部には入れないように金網のフェンスで仕切られていました。
左の写真は、当時回天を海面に降ろす為のクレーンが設置されていた跡です。
コンクリに埋め込まれる形で設置されていたようで、撤去時に切断されたようです。鉄製なので、切断面は激しく錆びていました。
右の写真は建物部分の床面です。九三式酸素魚雷を降ろして発射する為の溝が2本開いています。
かつては建物の天井にクレーンがあったそうで、そこから魚雷を吊り下げ、発射していたようです。
あくまで魚雷用なので、回天が入れるほどの幅はありません。
また、この訓練基地跡は現在では格好の釣り場となっているようで、この日も1人の釣り客がいました。
中年男性で、地元の人ではないそうですが、時々ここへ釣りに来ているとの事です。
撒き餌を投げるともの凄い数の魚が群がり、手のひらサイズのメジナが入れ食い状態でした。
これだけ釣れると楽しいでしょうねぇ。
「小物ばかりですよ」と謙遜していましたが、非常に楽しそうな笑顔でした。
回天記念館と訓練基地跡、この2つが大津島観光のメインスポットです。
後はどこを見て回るか、ちょっと悩んでしまいますね。
私は当時の建物の跡が現在の学校内に残っている事を事前に調べていましたので、そちらを回ってみる事にしました。
ここがその学校です。大津島幼稚園・大津島小学校・大津島中学校が1つにまとまっています。 掲示物によると小学生は6人しかいないようですから、幼稚園・中学校の生徒を合わせても全校生徒は10数人といったところでしょうか。 回天基地に関連する建物はグラウンドの傍にありますが、近年、学校に侵入した不審者が犯罪を引き起こすケースが相次いでいますので、ここは不審者と思われないように事前許可を得ておくべきでしょう。 校舎には近寄らないとは言え、一応敷地内に入る訳ですから。 正門を入って玄関に向かい、教員と思われる男性に声を掛けたところ、教頭先生でした。 見たところ40歳にも満たない感じの男性でしたので、その若さで教頭先生というのに驚かされます。 教頭先生は一通り施設の説明をして下さいました。 |
ここは変電所の跡です。 教頭先生の話では、現在は学校の体育倉庫として利用しているとの事でした。歴史的施設が台無しですね(笑)。 まぁ、内部の設備は終戦時に丸々撤去されたはずなので、建物だけ残しておくより再利用した方が良いとの事でしょうか。 入口が開いていたので中を覗いてみましたが、カラーコーンとか生石灰とかパイプ椅子などが積まれており、普通に小学校の体育倉庫として懐かしい感じがしました。 ただ、元々が変電所だったので、間取りが倉庫としての使い勝手にそぐわなかったのでしょうか。 複数の部屋を隔てていたはずの壁に強度を損なわない程度の穴を開け、通路にしている箇所もありました。 |
こちらは危険物貯蔵庫の跡です。 建物ではなく、岩壁に大きな穴を掘って内壁をコンクリで固めた施設です。 不慮の爆発などに備えて、強度が必要だったのでこの作りになったのでしょう。 回天記念館(旧予科練兵舎)に向かう道は、この貯蔵庫の上を通って行く事になります。 現在は市が倉庫として使っているそうで、毎年11月か12月に大津島内で行われているイベント「ポテトマラソン」用の器材を主に収納しているそうです。 |
こちらは魚雷点火試験場跡です。 パッと見は普通の建物です。あまり大きくありません。 当時は空襲の危険性があったはずなのに、こんなに目立つ真っ赤な屋根で良かったのでしょうか。 それとも、戦後に屋根を直されたのでしょうか。 また、点火試験を行うのに、こんな薄いガラス張りの窓があって良かったのでしょうか。 壁はコンクリ製、屋根の内側は沢山の鉄骨が剥き出しになっていました。 丈夫に作られていた変電所や危険物貯蔵庫とは違い、全体的に簡素な作りです。 こちらも現在は何かの倉庫になっていました。ロープ類を始めとしたよく分からない器材が、無造作に納められていました。 |
この3つの施設で学校内の散策は終了です。教頭先生にお礼を言い、馬島港側の道路に出ました。
そのまま馬島港周辺を歩いてみます。港には釣り人が多かったですね。
記念館内で見た訓練基地の配置模型を思い出してみると、この辺りに出撃桟橋があったと思います。
当時はここから内火艇に乗り、回天を装備して沖合いに停泊していた伊号潜水艦に乗り換えて出撃したそうです。
搭乗員達が最後に踏んだ日本の大地が、今私が立っているここだった訳ですね。
馬島港から大津島公園に入り、当時のまま残されている飛行科入口門を通って、港の反対側にある海岸に下りてみました。 大きな岩ばかりが転がっている海岸で、非常に歩きにくい足場です。遠くに訓練基地跡が見えます。 港側と違い、ここの水質は非常に綺麗ですね。私以外に誰もおらず、とても静かです。 足を滑らせないように注意しながら波打ち際まで行き、しゃがんで水中に手を入れてみました。 …不思議と冷たい感じがしません。 記念館のビデオで観た、生き残った搭乗員の方々の言葉の意味が分かるような気がしました。 「この海には回天と共に散った仲間達の血や肉があるんです」 |
さて、観光地は一通り回りました。ここからは一般の観光客とは違う行動に入ります。
私はこの島で暮らす人達の生活の場を見てみたくなりました。
そこで島の南側にある住宅地の方へ歩いてみました。
大津島歯科診療所の前を通過し、馬島局を過ぎると小さな漁港が見えて来ました。
私の姿を見た野良猫が、そそくさと立ち去って行きます(笑)。
ここが大津島の方々の普段の生活風景なんですね。沢山の漁船が並んでいるのは、漁業で生計を立てている方が多い事を窺わせます。 掲示板に貼ってあるチラシを見ると、フェリーが近々ドック入りするようで、発着時刻の変更スケジュールが掲載されていました。 また、周南市から移動図書館車がフェリーに乗って訪れているようですね。そのスケジュールも併せて変更になる事が記されていました。 あと、大津島地区の大運動会のポスターも貼ってありました。先程訪問した大津島幼稚園・小学校・中学校が主体となる運動会ですが、生徒の数が少ない事もあってか、地域の方々の参加も呼びかけてありました。 更に驚く事は、学校の参観日においても、生徒の保護者だけでなく地域の方々の参加が募られていた事です。 この島では、全ての行事に全ての島民が関わっているようです。 |
漁港の中心部にある、葛原神社です。 既にボロボロになっている小さな神社で、石で出来た鳥居もあちこちが欠けており、いつ倒壊してもおかしくないスリルに満ち溢れていました(爆)。 しかし、周辺はよく手入れされており、雑草なども殆どありません。 祭殿も殺風景で何もありませんでしたが、天井の梁の上に何本もあった木材の中に、良く見ると1本だけ船の魯が置いてありました。 ここは漁業の安全を祈願する為の神社のようですね。 私もお賽銭を投げ、帰りの船旅の安全を祈願しておきました。 |
さて、時間も押し迫ってきたので馬島港へ戻って来ました。
おや?回天という名が記された小型旅客船が泊まっています。
船の名前としてはちょっと不吉な感じがするのは気のせいでしょうか(爆)。
巡航船の時刻には少し間がありますので、港の待合室に入ってみました。
年配の方を中心に何人か船を待っている人達がいます。
乗船券売り場のカウンターでは、年配の男性が震える手でカキ氷を作っており、雑談の相手をしていた男性に手渡していました。
何だこれ?こんな所でカキ氷を売ってるの?…いや、売り場内に価格とか掲示されていないから、この男性への個人的なサービスなのか?
売り場の中には自販機が一つあったのでジュースを買おうとしたのですが、普通のジュースに混ざって堂々とビールが売られていました。
普通、ジュースと酒って同じ自販機では売らないよね?未成年の購入問題とかで。
…しかもビールだけ売り切れだし(笑)。
やがて巡航船が入港して来ました。 復路はフェリーではなく、この中型旅客船「鼓海U」に乗ります。昨年就航したばかりの新造船だそうです。 フェリーと同じく客室はガラガラでしたが、15:30と時間がまだ早いからかも知れませんね。 今日は平日ですから、夕方には通勤利用の客で混み合うのかも知れません。 出港した船内で今日撮影したデジカメの画像を確認すると、実に300枚も撮影していました。 自分でもビックリです。 徳山港と馬島港の間、往路のフェリーでは45分掛かりましたが、復路の鼓海Uでは僅か18分ほどで到着しました。さすがに速いですね。 |
徳山港に到着しました。
往路では全く気付かなかったのですが、フェリーと鼓海Uでは乗船桟橋が全く別の場所でした。
朝は出港時間ギリギリで飛び乗った訳ですが、乗り場を間違えていたら間に合わないところでした。危ない危ない。
今回は久し振りの船旅でしたが、とても充実した観光でした。
ツーリング記に載せたい写真も沢山あったのですが、容量的な問題もあって、断腸の思いでこの枚数に絞りました。
…それでも通常のツーリング記と比べて10枚程度多く掲載してしまいましたが(笑)。
ひなびた漁村が好きな私としては大津島の雰囲気は非常に和みました。
学校の雰囲気なども良かったです。学校の壁には、生徒さん達の手による大きなイラストが描かれていました。
しかし、重々しい歴史的背景を考えると、自分としては気楽に過ごせる島ではないなとも感じました。
今度は釣りやキャンプなどを目的として、仲間達と訪れてみるのも良いかも知れませんね。
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