「外食日本一 ゼンショーの“牛丼革命”」

全共闘、港湾労働、そして牛丼

小川社長インタビュー[1]発想の原点「資本主義のもとで貧困をなくす」

  • 飯泉 梓

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2010年9月21日(火)

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 トイレの壁にタイルが張ってあるけれど、そのタイルとタイルの間にある7ミリメートルくらいの溝を、ナイロンたわしで親指に力をいれて一生懸命落としていく。1年間全然磨いていないから、汚れがすごかった。このトイレのタイルの目地磨きが外食人生のスタートです。

吉野家自主再建に1人防戦を張る

―― しばらくして吉野家は経営危機に陥ります。

 その時、私はお店から本部へと異動になり、中小企業診断士の資格を持っていたからなのか、経理部に配属されることになりました。

 この当時考えていたのは「まあ俺がやるしかない」ということでした。業績が悪化して、どんどん銀行の風あたりが強くなっていく。ですが直属の上司である経理部の部長はいつもふらふらとどこかへ出かけてしまう。

 だから僕が矢面に立たされて、説明しなければならない。1人防戦を張ったわけですよ。

 銀行員は「もう牛丼なんていうのはピークアウトじゃないですか。外食業は日本では終わったんじゃないですか」とこんなことまで言う。

 「この野郎、そんなことはない」と胸の中で思いながら、必死に説得を繰り返しました。

 造船業から始まり、自動車産業まで、いつも日本は米国の10年後を歩いてきた。米国では今も流通業が成長を続けている。その様子を見て、ダイエーも店を開いた。外食業でいえば、マクドナルドでさえもまだまだ1万店しか出していない。外食業がピークアウトというのはおかしいんじゃないかと。近視眼的じゃなくて、もうちょっと歴史的に見てくださいという防戦をやったのですが、でもやはり銀行はなかなか信じない。

 銀行団は「国内については小川さんの言うとおりになるかもしれない。けれど海外が心配だ」という。当時吉野家はすでに米国展開を始めていたんですよね。

 それで僕が会計士と弁護士を連れて実際に米国にいってみた。実は、これが苦しかったのです。

―― 結局、1980年吉野家は会社更生法を申請することになります。

 米国に渡ってみると、予想以上の不良在庫があった。それでも必死に自力で再建する計画を作って提出した。しかし、銀行は踏み切れなかった。

 そこで僕は当時、吉野家の大株主であり、フランチャイズをやっていた新橋商事という会社に移ることにしました。そこで、経営再建に協力してくれということになったのです。

 だけど行ってみると、なかなかここも困難でした。この新橋商事は不動産の賃貸が収益の柱。そういう会社だとディシジョンタームがものすごく長い。ビルを作って60年で減価償却して…と、そういう感覚です。ですが外食産業というのは違う。『あ、いい物件が出た』となったら、明日手付け金を入れないと誰かに取れちゃう。こういう世界なんですよね。

 我がチーム、僕の部下も含めて、毎日一生懸命やっていたたけれど、すごいストレスが溜まってきちゃって、これはこのままやってもあかんぞと。どうせやるならもっとすっきりした形でやろうと考えた。そして自ら創業する決意をしました。ベトナムから米国が撤退して7年という時代でした。

(後編に続く)

■変更履歴
1ページ4段落目、「新潟」は「富山」の誤りでした。お詫びして訂正します。本文は修正済みです [2010/09/21 13:05]
4ページ下から2段目、「原価償却」は「減価償却」の誤りでした。お詫びして訂正します。本文は修正済みです[2010/09/22 13:25]

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