そして東京大学というのはそもそも官僚養成大学からスタートしていて、体制の人材供給の象徴的な大学でもあった。
『何だ、こんなのは権力の増殖機構であって、いま民衆が大変な目にあっているのに、ものすごくおかしいじゃないか』と、自己否定しました。
本当のことを言うと苦渋の決断だった部分もあります。一生懸命受験勉強して、せっかく入った大学だけれども、自らを否定しなければならない。ただこれだけのことを言ってきたのだから、自分なりのケジメをつけなければならないと、結局大学を辞めました。
港湾労働者とともに改革目指す
―― 大学を辞めて、港湾会社に入社して、労働者を組織されます。
社会主義革命というのは、プロレタリアと労働者階級を組織しなければならない。ですが、結構、日本の労働者もぬくぬくしちゃってきていた。電機労連(労働組合電機連合)や自動車総連(全日本自動車産業労働組合総連合会)といったところは分配にあずかって、リッチとは言わないまでもそれなりの生活をしてきた。
そういう意味で底辺に近くて、故に革命的である港湾労働者に目を付けました。
ただ労働者というのは仕事ができないやつの言うことはきかない。まず仕事で認められなきゃならない。
自ら労働者とともに働きました。仕事は非常に厳しかったです。何十トンもあるような機械を船に積み込まなければならない。ワイヤー、ロープの選定から始まって、それをどういうふうに荷物に掛けていくか。一つ間違えれば命を落とすことになります。
いつも危険がつきまとっていました。自分自身も大けがをして2回入院するはめになったし、死に損なったことが何回かあった。その情景というのが意外とよく覚えているんですよ。死の間近はスローモーションみたいにゆっくりと良く見えるというけれど、そんな感じだった。
現場で認められ、一目置かれるようになるまで3年かかりました。