英米におけるシャーロック・ホームズ人気はいまだに根強く、たとえば英国ではホームズとワトソンを現代のロンドンに移植したTVシリーズが3シーズン目を迎えたし、米国でも現代のニューヨークに二人を連れてきたTVシリーズ(しかもワトソン役は女性)が2シーズン目を迎えている。

 米国版シリーズ、36日放映の回で使われたトリックが、たまたま、いま、日本で話題になっている万能細胞「STAP」にちなむ物だったので以下に紹介する。

 ・・・何年も前から行方が知れずにいる女性について、誘拐犯から、身代金の要求書と共に身柄を預かっている「証拠」として切り取った両耳が夫に送りつけられてくる。ところが、やがて見つかった女性は五体満足で、両耳もしっかり揃っている。 DNA鑑定の結果、両耳は女性の物であることが示され、謎は深まるばかり・・・(ちなみに、被害者から切り取った耳を家族に送りつけるというプロットはコナン・ドイル自身がホームズ第14短編「ボール箱」で使用している)

 番組を見ながら私が咄嗟に思いついた謎解きは「誘拐は被害者の『自作自演』で、存在が知られていなかった一卵性双生児の片割れから耳を切り取って夫に送りつけた」だったが、そうだとしたら行方不明者が二人、それも「うり二つ」の行方不明者が二人いなければならないので、いかにも無理が伴う「謎解き」であった。

 はたして、ホームズが番組でした種明かしを聞いて私はいつにもまして自らの不明を恥じたのだが、なぜことさら今回我が身の不明を恥じたのかというと、トリックの元となった「耳」の実験データを10年以上前から熟知していたからに他ならない。基礎となる科学についてよく知っていたにもかかわらず、ホームズに指摘されるまで、その知識を犯罪のトリックに結びつけることができなかったのだから、いつもホームズから馬鹿にされているワトソンと変わらない屈辱感を味わうこととなったのである。

 ホームズによる種明かしの根幹となったのは、ハーバード大学チャールズ・バカンティ教授が1997年にした「earmouse(耳マウス)」の実験である(Plastic and reconstructive surgery 100:297-302, 1997)。人間の耳をマウスの背中に育てるというグロテスクな実験だったのであるが、どうやってそんな手品をしたのかというと、まず、(1)生体内で分解され得る化合物を用いてヒトの耳の鋳型を作成、次ぎに(2)鋳型を軟骨細胞と培養、試験管内で「耳」の形をした軟骨塊を形成、最後に(3)ヒトの耳の形をした軟骨塊を、免疫能を欠く(=拒絶反応の起きない)ヌードマウスに移植、することでヒトの耳をマウスの背中に育てることに成功したのである。単純化しすぎることを恐れずにいえば、外部器官としての耳(耳介)は、軟骨塊を皮膚が覆っているに過ぎず、バカンティの耳マウスも「(耳は単純な器官なので)その気になればこんなことができますよ」ということを示したに過ぎない。知られていた技術・原理を応用して視覚的効果の大きい結果を示しただけの仕事だったので、科学的意義という観点から言うと、「極めて価値が低い」業績だったのである(発表された雑誌の名だけ見ても、「インパクト」の低さは明瞭だろう)。

 以上が今回の犯行のトリックの基となったバカンティ教授の実験(別名「バカンティ・マウス」)であるが、「犯人は同じ方法を自分の耳と自分の軟骨細胞と自分の背中を使って実施した」と、ホームズは看破したのである(元々本人の細胞なのだからDNAが一致するのも当然である)。もちろん、女性は行方をくらました後形成外科医と結婚していたという伏線があり、「必要な知識と技術を提供しうる共犯者がいた」というお膳立てが調えられていたのであるが、私は、昔、ハーバード系の施設で研究していた時代、軟骨細胞の分化調節を専門としていたこともあって、バカンティ・マウスのことはよく知っていた。さらに、バカンティ教授の講演を聞いたこともあったし、元プロの軟骨研究者として、「素人」のホームズよりも詳しい知識を有していたにもかかわらずトリックを見破ることができなかったとあって、我が身の不明を大いに恥じることとなったのである。

 以上が、今回のTV番組のトリックの詳細であるが、この話がなぜ、いま日本で話題になっているSTAP細胞と関係するのかというと、「バカンティ・マウス」のバカンティは、「リケジョの星」ともてはやされた小保方晴子研究者の、ハーバード留学時代の「恩師」に他ならないからである。

 もっとも、日本では「恩師のハーバード教授」ということで偉い学者のように思われているかも知れないが、当地では「耳マウスを作る様な『怪しげな』(際物的)科学者」というイメージでとらえられている。幹細胞や再生医学の領域では「アウトサイダー(傍流)」に位置し、同業者から尊敬される様な業績は何も上げてこなかったし、ずっと「権威」とは正反対の位置に立ってきた人なである。はっきり言って「世間に知られる業績は『耳マウス』だけ」という存在だったのである。

 今回、STAP細胞作成の論文がネイチャー誌に発表されたという報に接した際、私が最初に抱いた感想は「最終著者のバカンティは『おっちょこちょい』扱いされている研究者だけれど、大丈夫なのかしら」という物であった。結果として、私の危惧が当たることになってしまったのであるが、普通、まともに運営されている研究施設であれば日常茶飯に生データの検証が行なわれるので、データの切り貼りとか差し替えとかは起き得ない体制が調えられている。今回の研究は、太平洋を間にはさんだ二箇所で実施された経緯があっただけに、「この部分はハーバードで検証済み」或いは「理研で検証済み」という形で、チェックから漏れてしまったのだろうか?

 現在、「共著者の中でバカンティただ一人が論文の撤回に同意していない」ということであるが、元々一流紙に論文を連発するような位置に立ったことがないだけに、「ネイチャー論文」という「大きな魚」を逃がす気にはなれないのだろうか?

 論文発表時、当地ボストン・グローブ紙に「耳マウスでしか知られてこなかった傍流の学者が大成果を物にした」とする趣旨の記事が掲載されたが、いまのままで行くと、彼にとって、「今後も、業績らしい業績は、耳マウスだけ」ということになりそうな雲行きである。