柏樹利弘
2014年3月24日11時30分
川崎市幸区の多摩川の河川敷にある戸手4丁目の一角。ここに戦後まもなく在日韓国・朝鮮人が住み始めて60年余り。わずかに残ったトタン屋根の住宅が、スーパー堤防などの都市開発で消えようとしている。地域を歩き、この街に生きた人たちの思いを聞いた。
JR川崎駅から北に2キロ足らず。多摩川沿いに200メートルほどの集落が続く。
かつては約1キロにわたって並んでいた。住民登録していない人も多く、住んでいた人数は市も分からない。いまこの街で暮らすのは3世帯。ほかに古紙回収業者の事務所やキリスト教の川崎戸手教会、廃屋などが並ぶ。
1961年から2005年まで住んだ岩本守男さん(80)に話を聞いた。
両親と一緒に静岡県から上京し、人づてにここを紹介してもらった。丸太とベニヤ板を組んで家を建てるところから始めた。集落の人が営む古紙回収業を手伝い、何とか生計を立てた。「苦しかったけれど、集落の中には焼き肉屋や赤ちょうちんの店があり、よく酒を飲んでいたよ」。卵や唐辛子などの食材を融通し合った日々を懐かしむ。
堤防はなく、雨で水位が上がるとたびたび畳から水がしみ出てきた。1999年の豪雨では床上64戸、床下12戸の浸水被害が出た。雨の降り方から「危ない」と判断すると、若者がお年寄りを連れ出し、近くの小学校や教会の2階に避難させた。「俺みたいな大工仕事が得意な人間が借り出されて、水害のたびに街を作り直したよ」
おすすめコンテンツ
※Twitterのサービスが混み合っている時など、ツイートが表示されない場合もあります。
朝日新聞社会部
PR比べてお得!