クリミアをめぐる問題――ロシアが恐れる「革命」の連鎖

ある重大局面の検証に際しては、たとえそれが瞬間的なものであったとしても、時間的な文脈を十分に考慮しなければならない[*1]。冷戦終結以降、ヨーロッパが迎えた最大の危機だとされる目下のクリミア問題は、水平的領土空間のみならず、過去と未来という時間的な文脈の中で捉えなければならない。

 

クリミア自治共和国政府による「分離独立」宣言、住民投票、プーチン大統領による編入承認という一連の出来事は、まさにこうした時間的な文脈を念頭に置かなければ、何が、なぜ起こっているのか理解し難いだろう。また、時間的文脈への配慮は、各国の思惑が複雑に絡み合う国際政治上の駆け引きが、その社会に暮らす人々を翻弄し続けているという歴史的現実を浮き彫りにする。

 

日々情勢が変化し、新たな情報が次々と入る中で、ウクライナの「革命」、そしてクリミアの編入までに、どのような流れ、関係があるのか、見えにくくなっているだろう。そこでまずは、ウクライナ、クリミアとロシアとの歴史的関係や、一連の報道を振り返ったのちに、なぜ、焦点がウクライナからクリミアに移りつつあるのか、そしてそこにある「何がロシアを突き動かしているのか」という疑問について考察を行いたい。

 

そこから見えてくるものは、ロシアの「プライドと偏見」、そして権力喪失という「恐怖」ではないだろうか。現実政治の世界にはおよそ似つかわしくない表現だが、事実それが脅かされた時、プーチン大統領にとっては「一線を超える」のだ。

 

 

クリミアという場所

 

■帰属の変遷

 

18世紀後半、エカテリーナ2世の南方政策によって、クリミアはロシア帝国に編入されることとなった。クリミア戦争、ロシア革命を経てソヴィエト政権に至ると、1920年にはクリミア自治ソヴィエト社会主義共和国の創設が許された。その後、1954年にはフルシチョフ[*2]によるウクライナへの移譲が行われる(後述するが、プーチン大統領は先日の声明でこれを「歴史の過ち」だと言及した)。

 

ソ連末期になると、スターリンによって中央アジア地域へ強制移住させられていたクリミア・タタール人の帰還が認められ、ウクライナで唯一の自治共和国として1991年にその地位を取り戻した。

 

首都はシンフェローポリで、人口196万人(特別市セバストーポリ市:38万人は除く)[*3]、住民比率はロシア人が58%、ウクライナ人が24%、クリミア・タタール人が12%程度であり[*4]、ウクライナの中でもロシア人比率が最も高い地域である。

 

1990年代半ばまで分離独立運動が盛んであったクリミアは、1998年にようやくクリミア自治共和国憲法が成立したが、(キエフの)最高会議の承認が必要とされる。

 

 

■ロシアにとってのクリミア

 

クリミアおよびセバストーポリはロシアにとって地政学的、心情的に極めて重要な場所[*5]だと言われる。他方、実利的な面においては、ヤヌコーヴィチ前大統領と「地域党」の基盤であったウクライナ東部地域と比較して、この地域は工業化の度合いが低い。言うなれば、ウクライナ東部の人々が仕事や経済的利益に基づいてロシアを支持しているのに対して、クリミアの人々はアイデンティティに基づいた心情的動機からロシアを支持している。この要素は今回の分離独立への動きにおいても大きな違いとなって現われている。

 

ただし、そうは言ってもクリミアは既に半世紀以上ウクライナに属しているのであって、ウクライナ人にとっても当然愛着のある土地である。風光明媚な景観や美味しいワインなどもあって、ヤルタをはじめとする黒海沿岸はソ連時代から人気のリゾートであり、春夏の休暇をクリミアで過ごすのはウクライナ人やロシア人にとって定番だと言える。いわば皆に愛されている土地なのだ。

 

 

シンフェローポリの中心広場。レーニン像が佇む。(2012年撮影)

シンフェローポリの中心広場。レーニン像が佇む。(2012年撮影)

 

セバストーポリの軍港。当時は特別な雰囲気は全くなかった。(2012年撮影)

セバストーポリの軍港。当時は特別な雰囲気は全くなかった。(2012年撮影)

 

 

■2013年までのクリミア

 

ソ連崩壊後、クリミアがウクライナの悩みの種であったことは否定できない。一昨年、筆者が当地でインタビューした際にも、「キエフ(中央政府)はクリミアをどう扱うべきかいまだに判断できないでいる」という見解が多く聞かれた。

 

90年代の分離主義運動を何とか乗り越えた後も、セバストーポリにはロシア黒海艦隊が駐留し続けていたし、帰還したクリミア・タタール人の土地、住居問題、あるいはロシア人、ウクライナ人との民族、宗教問題などは改善が見られずに、紛争の火種として常に懸念されていた。

 

一方で、市民の生活上の課題としては、インフラや道路など経済発展を求める声が強く、民族間関係などの優先順位は低い。総じて聞かれたのは、「独立直後の20年前と比較すると民族間の関係は好転している」という意見だ。彼らは同じ教育を受け、ともに学び、共通の問題を抱える中で、それぞれの民族が多様性を受け入れる土壌を形成してきたのだ。2012年の時点で、クリミア南岸地域はもとより、シンフェローポリ、セバストーポリでも日常はとても平穏で落ち着いており、民族間の緊張など少しも感じなかった。このような様子は、2000年代初めにクリミア・タタール人の社会統合と市民社会の構築に着目した分析において、当時すでに民族間の共存が保たれていた[*6]ことにも裏付けられる。

 

実際のところ、今回の事件が勃発するまで、ウクライナならびにクリミアでは、武力を伴う大規模な紛争が生じたことはない。衝突の火種は内在していたとはいえ、それが再燃化したのはロシアの介入によってもたらされたところが大きい。我々はこの事実を、すなわち、20年以上をかけて積上げられ、築き上げられてきた民族間の恊働や共生という事実をしっかりと認識した上で、分離や独立、ロシアへの編入という現実を受け止めるべきだろう。

 

 

クリミア自治共和国最高会議(議会)。ウクライナ語、ロシア語、クリミア・タタール語が併記されている。(2012年撮影)

クリミア自治共和国最高会議(議会)。ウクライナ語、ロシア語、クリミア・タタール語が併記されている。(2012年撮影)

 

[*1]ポール・ピアソン(2010)粕谷祐子訳『ポリティクス・インタイム―歴史・制度・社会分析』勁草書房。

 

[*2]フルシチョフ書記長はスターリンの死後、その独裁政治を批判した。クリミア移譲はウクライナへの融和策の一環として、ウクライナ・コサックの指導者フメリニツキーとロシア帝国との同盟300周年に合わせて行われた。

 

[*3]Україна у цифрах 2010, Державний комітет статистики України.

 

[*4]ウクライナ国立統計委員会(2001年国勢調査)。http://2001.ukrcensus.gov.ua/results/general/estimated/

 

[*5]クリミア戦争、第2次世界大戦と2度にわたり祖国防衛に貢献したセバストーポリはロシア人にとって唯一無二の英雄都市だとされる。同地域はソ連時代からの軍港拠点であり、政治エリートだけではなく国民にとってもクリミア、セバストーポリは誇り高きロシアの一部だという感情が根強い。

 

[*6]南野大介(2004)「クリミアにおける民族関係と紛争予防―クリミア・タタール人の社会統合と市民社会の構築を中心に―」『ユーラシアの平和と紛争』Vol.4 3-40。

 

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