普遍性を持つ物語

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物語を求める消費者と提供するメディア


最近、ワイドショー的ネタに事欠かないようですが、こんな記事を見つけました。

フィギュアスケートの羽生結弦さんも理系女子の小保方さんも「現代のベートーベン」も、みんな同じだ。

人々は物語を求めていて、佐村河内さんであれば「耳が聴こえない」作曲家であり、小保方さんであれば「割烹着を着たリケジョ」というバックグランドに重きを置いて報道され、人々はその情報を咀嚼しているということです。

人間が感動をしたり共感するシチュエーションというのは、とても普遍的なものだと思うんですね。逆境に立ち向かうとか、大きなギャップがあるとか。そして、今の情報社会はそういった普遍的な物語を欲していて、常にそういったシチュエーションに当てはめよう当てはめようとしてるんだと思います。言い方を変えると、逆に消費する側もそういう分かりやすい普遍的な物語を求めてるんですよね。

すこし話は逸れますが、最近ソーシャルでバズったネタを集めるポータルサイトが話題になっていて、海外の有名メディアが日本にも上陸したようです。こういったメディアもまた「可愛い猫の画像」とか「感動できる一枚の写真」とか万人が消費できる普遍的な物を探してるんですね。

立川談志さんが言うお笑いの共感


お笑いもまた、普遍的ということがキーになるコンテンツです。爆笑問題などが昔よくやっていましたが、時事ネタを扱う漫才があります。そのときのニュース(今だったら間違いなく佐村河内さんでしょうね)を引っ張りだして、いじくるわけです。みんなの頭の中にある共通の情報を刺激して普遍化するわけです。

お笑いには、そういう王道漫才に対して、シュールというジャンルがあります。昔、お笑いネタ見せ番組を見ていて特別審査員に立川談志さんがいたのですが、特別賞をラーメンズに授与していました。ラーメンズは王道から遠く離れたどちらかといえばシュールなコントで有名ですが、そのときの談志さんのコメントがこんな感じでした。

「誰もが知っている常識を共感の道具として持ってくることは簡単なのだけど、ラーメンズは人間の無意識化のところで共感を作りだしている」

時事ネタというのは、誰にでも理解できる情報であり、普遍的に共感を誘えるのです。しかし、シュールなコントは受け取り側に何のベースの知識もありません。なぜ常識的な共通項がないコントが普遍性を持つのでしょうか。

作家の村上春樹さんが考える物語


作家の村上春樹さんの作品は世界中で読まれており、日本を代表する作家です。しかし、彼の作品は日本を舞台にしており、日本人が主人公です。海外が舞台なわけでも、最初から英語という共通言語で書かれているわけでもありません。精神科の故河合隼雄先生の対談集「こころの声を聴く」の中で、村上春樹さんが以下のようなやり取りをされております。

村上「僕が物語を小説で書いてて思うのは、結局のところそれはシミュレーションなわけですね。疑似ゲームなんです。例えば自我と環境との間でいろいろ葛藤がありますね。ところがそれを書いても誰も納得できないんです。僕が例えば河合先生と喧嘩をする。で、頭に来る。これを誰か他人に説明しようとしても、僕の怒りというのはそのまま正確には伝わらない。何が伝わるかというと、なんか村上が怒っていたと、それしか伝わらない。僕がどれぐらい怒っていたかというのは伝わらないんですよ。」

河合「そのとおりです。」

村上「それをどう物語るかというと、エゴと環境じゃなくて、その両者の関係をそのまま意識の下部方向に引き下ろすんです。そして別の形でシミュレートするわけです。それを書くとよくわかるんですね。これが僕にとっての物語の意味であるというふうに思う。ところが夏目漱石の時代は、こんなことをやってても誰もきっと感じなかったと思うんですよ。彼が描いたのは現実世界で実際に発生するエゴと環境の葛藤なわけです。それを当時の人はすごく新鮮なこととしてひしひし感じられたと思うんですよ。ところが今先生がおっしゃったように状況が急激に拡大して、例えばベトナムとかアフリカの問題とか、月に行くとか、ソ連がなくなっただとかエイズだとか、いろんな問題があまりにも多すぎる。情報とか選択肢が多すぎる。だから葛藤自体が多様化してそういうレベルでは物語がうまく語れなくなってしまったような気がするんです。」


情報が氾濫している時代では、あるものを、そのまま語っても普遍性を持たない。ゆえに、それを物語として意識の下のレベル方に引き落として別の形に変えて提示する=物語になる、というお話です。
また、参加者から「情報が氾濫している時代に、個人のコミュニケートが断絶しているように思う」という質問に対しては、以下のように返答されています。

村上「それは、一種の井戸の中にいるもんだというふうに僕は思ってるんです。自分の井戸があって、自分の中にずーっと入っていかざるをえないと。昨日も河合先生とお話してたんですけど、みんなが自分の井戸に入って、ほんとの底のほうまで行くと、ある種の通じ合いのようなものが成立するんじゃないかと僕は感じるんですよ。だから井戸の中に入ってるんなら、そこから出ようとしないで、どんどん掘っていけばいいんじゃないかと僕は逆に思うんですけどね。バリアがあって、壁に囲まれてどうしてもコミュニケートできないというのは、やはり意識の上のほうでの考え方じゃないかという気がする。ここまで来たんだからもっと掘ろうじゃないか、という考え方もあってもいいんじゃないかなと思いますね。
僕が小説で書こうとしてるのは、ほんとの底まで行って壁を抜けて、誰かと[存在]というものになってしまうのが一番理想的な形だと思うんです。でもこれは一種の感想であって、テキストはみんな平等ですからみんな好きに考えていただくといいけど、僕は自分の物語を通してそういうイメージを持っているということですね。」


井戸掘りをして、意識の下に降りてただの[存在]になってしまった時、常識や既成概念などの上辺の情報が取っ払われて、真の普遍性とか共感があるのではないかと思います。ただ、そのためには個人個人が井戸掘りをして、孤独と向き合ったり一度溢れる情報をシャットダウンしたりという作業が必要なのです。

この対談は「現代の物語とは何か」というタイトルで1994年にプリンストン大学で行われたのですが、それから20年を経て、現在流通している「物語消費」の物語とは随分隔たっているなという感想を持ちました。
物事や情報を咀嚼するために、意識の下の方に降りて別の形でシミュレートする「物語」ではなくて、より刺激的で分かりやすい上辺だけの記号を貼り付けて「物語」と名付けているだけなのです。

あまりのもコンビニエントな方向に流れる「物語」がある一方、本当の「物語」を求める動きもあるのだと思いますが。