2014.03.23
人から必要とされない問題
「付いてこい」
カチェリーナはナスターシャに背中を向けると歩き出した。
ナスターシャはマフィアの群れを見て臆していたので、おずおずと従った。
そしてカチェリーナの部屋に招き入れられた。
「本当にひどい状況になっている。これだけ愚かしい、なんの大義も理念もない騒擾があり得るだろうか。暫定政権もCIAが後ろ盾になっているから、無教養の極右が政権を握り続けて長期化する事態も予想される」
「どうするんだよ」
「CIAとロシアとは別の第三極を提示しなければならない。ウクライナはキエフ大公国の正統継承者なのだから、それを主張する」
「おまえ外国に逃げればいいじゃねえか」
「グルーシェンカとリザヴェータはすでに国外だ。わたしと国外で合流する約束をしたのだが、最初から反故にするつもりだった。ネオナチやCIAやプーチンを敵に回すのだから、ウクライナのマフィアを動かす必要があり、それが出来るのはわたししかいない」
ナスターシャはさきほど城の入り口のロビーのところで見た恐ろしい男達を思い出した。あわや失禁するくらいにナスターシャを脅えさせた連中が、カチェリーナをボスとして認めているのだ。世界史の本に載るような悪人を父に持つカチェリーナを蔑んでいるつもりだったが、このカチェリーナの肝の据わり方にはナスターシャも恐れ入るしかなかったのである。ナスターシャのように臆病でパニックばかり起こしているアスペルガーとは違うのだ。
「愚かな暫定政権をCIAやEUが支えていて、どこのメディアも立ちすくんで模様眺めをしている。言論の自由は死んでおり、この死に体の世界をプーチンが蹂躙しているのだ。わたしが第三極に名乗りを上げる取っ掛かりもない。この閉塞を打破する媒体が必要だ」
「どんな媒体だよ」
「真性引き篭もりしか思いつかない。圧倒的な影響力を持つ超巨大ブログだが、どこの政治勢力とも繋がっていない。CIAやプーチンを自由に批判し、この膠着状態を揺り動かす力がある」
「なんで僕がそんなことしなくちゃいけねーんだよ。ブロガーはマフィアの味方じゃねーんだ。真性引き篭もりは僕が書きたいことを書く場所だ。ドブスは死んでろ」
ナスターシャは叫んだ。
「既存のメディアはすべて死んでいる。CIAやプーチンの御用メディアに成り下がっている。真実を流し、人を動かせる自由なメディアは真性引き篭もりしかないんだ」
「僕は知らねーよ。世界なんか滅びろ」
ナスターシャはそう答えたが、ふと今までの人生で一度も体験したことのない不思議な感情が芽生えてきた。アスペルガーの脳味噌の片隅に、ある種の人間的な感情が芽生えてきたのである。この感覚にナスターシャは戸惑ったが、何とかそれを理解しようとした。おそらくそれは矜持だった。貧しい身体と冴えない容姿をもって生まれ、アスペルガー症候群でもあったから、親から嫌悪され虐待された。学校でも地獄のようないじめを受けて不登校になった。なまじ理屈に強いだけに、他者への鋭い指摘が反感を買い、人とわかり合うことがなかった。世界の矛盾への激昂で頭が張り裂けそうだったナスターシャが生み出したのが真性引き篭もりである。遠慮無しに理屈を並べ立てることが許される場所だった。だが超巨大アクセスを手にしても、満たされなかった。そこに愛はなかったのだ。アスペルガー特有の鋭い理屈が見せ物になっていただけだ。しかし、現在のナスターシャを困惑させる、この新しい感情は、それとは違う道を示していた。ナスターシャは生まれて初めて人から必要とされたのである。どこにいっても迫害され追いやられてきた。そういう自分がウクライナを救うためにブロガーとして筆致を振るうことを求められているのだ。
「お、おまえの口車なんか僕は乗らないからな」
ナスターシャはそう言ったが、今さらになって、この城での生活がいかに快適だったか思い起こした。殴られることもなく、いじめられることもなく、欲しかった機械類を買いまくり、趣味を満喫していたのだ。
ナスターシャは自らの冴えない容姿を恥じていたから、ウクライナ最高の美少女とされるカチェリーナを憎んでいるつもりだったが、こうやって必要とされると、生まれて初めて承認されたという意識が芽生え、アスペルガーの乏しい感情ながら、今まで自由にさせてくれたカチェリーナへの感謝も少しだけ生まれてきた。
「こ、この城が潰れても困るからな。何を書けばいいんだよ」
「おまえは教養はあるからキエフ大公国の歴史くらい知ってるな。13世紀にモンゴルに侵略されるまで、ウクライナ人とロシア人は同じだった。国民国家という近代的な概念はこの時代には乏しく、どこまで同じ国民だと思っていたかは知らないが、ともかく同じだった。キエフ大公国のスラヴ人のうち、モンゴルにゴマをすって子分になった連中がロシアとなった。モンゴルとロシア人はかなり混血している。誰が見てもわかる証拠としては、ソビエト時代のブレジネフ書記長の顔だ。ロシア人なのにほとんどモンゴロイドと言っていい」
「プーチンのユーラシア主義も、モンゴルの血だと書けばいいんだな」
「ウクライナこそキエフ大公国の正統な継承者である」
「わかった。書き始める」
ナスターシャは自室に戻ると、記事を書く準備をした。ブレジネフの顔写真を検索し、あらためてモンゴロイドそのものの顔を確認した。レーニンの曾祖父がモンゴル人であることははっきりしているし、ロシアは数百年モンゴルの支配下にあったから、モンゴルの血がたくさん流れていて当然なのだ。ベルリン陥落の時にドイツ人女性が10万人くらいレイプされたが、これはモンゴルの血がなしたものだと書くつもりだ。今まで鍛え上げた理屈の力で、プーチンのモンゴル的な侵略願望を断罪するのだ。ナスターシャのタイピングはかなり早いのだが、やたらと長文になる癖が災いし、一時間経ってもチンギス・ハーンがモンゴル帝国の統治者になるところまで話が進んでない。チンギス・ハーンを英雄ではなく、邪悪な存在として捉え直すから、かなりの文字数が必要なのだ。ここからモンゴルがキエフを陥落させるところまで書くのに100年掛かりそうである。真性引き篭もり始まって以来、最も長い記事になることは間違いなかった。
カチェリーナはナスターシャに背中を向けると歩き出した。
ナスターシャはマフィアの群れを見て臆していたので、おずおずと従った。
そしてカチェリーナの部屋に招き入れられた。
「本当にひどい状況になっている。これだけ愚かしい、なんの大義も理念もない騒擾があり得るだろうか。暫定政権もCIAが後ろ盾になっているから、無教養の極右が政権を握り続けて長期化する事態も予想される」
「どうするんだよ」
「CIAとロシアとは別の第三極を提示しなければならない。ウクライナはキエフ大公国の正統継承者なのだから、それを主張する」
「おまえ外国に逃げればいいじゃねえか」
「グルーシェンカとリザヴェータはすでに国外だ。わたしと国外で合流する約束をしたのだが、最初から反故にするつもりだった。ネオナチやCIAやプーチンを敵に回すのだから、ウクライナのマフィアを動かす必要があり、それが出来るのはわたししかいない」
ナスターシャはさきほど城の入り口のロビーのところで見た恐ろしい男達を思い出した。あわや失禁するくらいにナスターシャを脅えさせた連中が、カチェリーナをボスとして認めているのだ。世界史の本に載るような悪人を父に持つカチェリーナを蔑んでいるつもりだったが、このカチェリーナの肝の据わり方にはナスターシャも恐れ入るしかなかったのである。ナスターシャのように臆病でパニックばかり起こしているアスペルガーとは違うのだ。
「愚かな暫定政権をCIAやEUが支えていて、どこのメディアも立ちすくんで模様眺めをしている。言論の自由は死んでおり、この死に体の世界をプーチンが蹂躙しているのだ。わたしが第三極に名乗りを上げる取っ掛かりもない。この閉塞を打破する媒体が必要だ」
「どんな媒体だよ」
「真性引き篭もりしか思いつかない。圧倒的な影響力を持つ超巨大ブログだが、どこの政治勢力とも繋がっていない。CIAやプーチンを自由に批判し、この膠着状態を揺り動かす力がある」
「なんで僕がそんなことしなくちゃいけねーんだよ。ブロガーはマフィアの味方じゃねーんだ。真性引き篭もりは僕が書きたいことを書く場所だ。ドブスは死んでろ」
ナスターシャは叫んだ。
「既存のメディアはすべて死んでいる。CIAやプーチンの御用メディアに成り下がっている。真実を流し、人を動かせる自由なメディアは真性引き篭もりしかないんだ」
「僕は知らねーよ。世界なんか滅びろ」
ナスターシャはそう答えたが、ふと今までの人生で一度も体験したことのない不思議な感情が芽生えてきた。アスペルガーの脳味噌の片隅に、ある種の人間的な感情が芽生えてきたのである。この感覚にナスターシャは戸惑ったが、何とかそれを理解しようとした。おそらくそれは矜持だった。貧しい身体と冴えない容姿をもって生まれ、アスペルガー症候群でもあったから、親から嫌悪され虐待された。学校でも地獄のようないじめを受けて不登校になった。なまじ理屈に強いだけに、他者への鋭い指摘が反感を買い、人とわかり合うことがなかった。世界の矛盾への激昂で頭が張り裂けそうだったナスターシャが生み出したのが真性引き篭もりである。遠慮無しに理屈を並べ立てることが許される場所だった。だが超巨大アクセスを手にしても、満たされなかった。そこに愛はなかったのだ。アスペルガー特有の鋭い理屈が見せ物になっていただけだ。しかし、現在のナスターシャを困惑させる、この新しい感情は、それとは違う道を示していた。ナスターシャは生まれて初めて人から必要とされたのである。どこにいっても迫害され追いやられてきた。そういう自分がウクライナを救うためにブロガーとして筆致を振るうことを求められているのだ。
「お、おまえの口車なんか僕は乗らないからな」
ナスターシャはそう言ったが、今さらになって、この城での生活がいかに快適だったか思い起こした。殴られることもなく、いじめられることもなく、欲しかった機械類を買いまくり、趣味を満喫していたのだ。
ナスターシャは自らの冴えない容姿を恥じていたから、ウクライナ最高の美少女とされるカチェリーナを憎んでいるつもりだったが、こうやって必要とされると、生まれて初めて承認されたという意識が芽生え、アスペルガーの乏しい感情ながら、今まで自由にさせてくれたカチェリーナへの感謝も少しだけ生まれてきた。
「こ、この城が潰れても困るからな。何を書けばいいんだよ」
「おまえは教養はあるからキエフ大公国の歴史くらい知ってるな。13世紀にモンゴルに侵略されるまで、ウクライナ人とロシア人は同じだった。国民国家という近代的な概念はこの時代には乏しく、どこまで同じ国民だと思っていたかは知らないが、ともかく同じだった。キエフ大公国のスラヴ人のうち、モンゴルにゴマをすって子分になった連中がロシアとなった。モンゴルとロシア人はかなり混血している。誰が見てもわかる証拠としては、ソビエト時代のブレジネフ書記長の顔だ。ロシア人なのにほとんどモンゴロイドと言っていい」
「プーチンのユーラシア主義も、モンゴルの血だと書けばいいんだな」
「ウクライナこそキエフ大公国の正統な継承者である」
「わかった。書き始める」
ナスターシャは自室に戻ると、記事を書く準備をした。ブレジネフの顔写真を検索し、あらためてモンゴロイドそのものの顔を確認した。レーニンの曾祖父がモンゴル人であることははっきりしているし、ロシアは数百年モンゴルの支配下にあったから、モンゴルの血がたくさん流れていて当然なのだ。ベルリン陥落の時にドイツ人女性が10万人くらいレイプされたが、これはモンゴルの血がなしたものだと書くつもりだ。今まで鍛え上げた理屈の力で、プーチンのモンゴル的な侵略願望を断罪するのだ。ナスターシャのタイピングはかなり早いのだが、やたらと長文になる癖が災いし、一時間経ってもチンギス・ハーンがモンゴル帝国の統治者になるところまで話が進んでない。チンギス・ハーンを英雄ではなく、邪悪な存在として捉え直すから、かなりの文字数が必要なのだ。ここからモンゴルがキエフを陥落させるところまで書くのに100年掛かりそうである。真性引き篭もり始まって以来、最も長い記事になることは間違いなかった。
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