稲葉の素兎とは「豊国」に帰ってきた卑弥呼のことだった

 

はじめに

 

稲葉の素兎は、おとぎ話としてよく知られている物語である。しかし、単なるおとぎ話に過ぎないのだろうか。そんなことは決してありえない、と考えるべきである。高いコストをかけて、「古事記」という国記に記されているということは、国家にとってコストに見合うだけの重要な情報が、その中に含まれているはずであると考えたい。

 

誰も真剣に考察していなかったこの部分について、著者の上の様な信念から、今回この稲葉の素兎の物語を従来の既成概念にとらわれず、再考察してみた。
既成概念とは、いわゆる「近畿大和王朝一元史観」である。これに囚われている限り、真実は闇の中である。
おとぎ話は、なにかの真実を残そうとしているはずである。
真実とはなにか?それは忘却の彼方に忘れ去られようとしている、「筑紫の豊王朝史」の物語である。
だれかが、それをまた、語り継いでいかねばならない。

稲葉の素兎を考察するに当たって、著者のホームページであらゆる角度から検討した結果、次の6話は非常に密接な関連があることが解った。その6話とは

 

1.大国主と稲葉の素兎の物語

2.景行天皇の土蜘蛛退治

3.アカルヒメとアメノヒホコの物語

4.和気清麻呂と道鏡と宇佐の宮

5.カゴサカ王の菟餓野と仁徳天皇の菟餓野

6.神武天皇の東征途中寄った「ウサ国」と、ホツマツタエの「ウサ国」

 

である。

結論を先に言うと、この上記6話の物語の舞台がみな同じ場所、「豊国」なのである。

色々な名前で登場するが、全て同じ場所であると想像されるのである。そんな馬鹿なことが!と思われるかも知れないがそうなってしまうのである。

それではただいまから、不思議な世界へ皆さまをご案内いたします・・・・。

 

第一話 大国主と稲葉の素兎

 

プロローグ

 

稲葉の素兎というと、御伽噺で聞いたことがある。皆さまも多分一度はお読みになったことがあるであろう。大国主はなんて心の優しい人なのだというテーマで聞かされ、こんなに心の優しい人になるのだよと教えられたような気がする。しかし、著者は実際には人に優しいどころか、自分に優しく人につらい人物になってしまったような気がする。教育の効果も限界があるということか。

 

まそれはさておき、この物語も多くの紙数を割いているのだから、重要な情報がこの中に記述されているのであろう。それをこの第一話で調べていくことにする。

 

1.稲葉の素兎

 

古事記の大国主命紀に、稲葉の素兎の物語が出てくる。

古事記の本編と何の関係があるのかと思われるような挿入の仕方であるが、なにか重大な鍵がその中には秘められているのであろう。でなければ、国記に載せたりはしないであろうから。

 


「古事記」 大国主命 いなばのしろうさぎより

さて、この大国主神の兄弟には八十神がいた。しかし皆、国を大国主神に譲った。その譲った理由は――。

 その八十神は、それぞれ稲羽の八上比売を妻にしたいという心を持っており、共に稲羽に出かけた時に、大穴牟遅神に袋を背負わせ、従者として連れて行った。このようにして気多の岬にやって来た時、丸裸のが伏せっていた。そこで八十神はその兎に、「おまえがすべきことは、この海の潮を浴び、風の吹くのに当たって高い山の峰の上で伏せっていることだ」と言った。そこで、その兎は八十神の教えに従って伏せった。すると、その潮が乾くにつれて、その身の皮はことごとく風に吹かれて裂けてしまった。

 そこで、痛み苦しんで泣き伏せっていると、最後にやって来た大穴牟遅神がその兎を見て、「どうしておまえは泣き伏せっているのか」と言った。兎は、「僕は淤岐島にいて、こちらの地に渡ろうと思いましたが、渡る術がありませんでした。そこで、海の和邇を欺いて言ったのです。――私とおまえとで競い、仲間の多い少ないを数えようと思う。そこで、おまえはその仲間をいるだけ従えて来て、この島から気多の岬まで、皆で列になって伏せって並べ。そこで私がその上を踏んで、走りながら数えて渡ろう。そのようにして私の仲間といずれが多いかを知ろう――と。そのように言うと、欺かれて列になって伏せったので、私はその上を踏んで数えながら渡って来て、いざ地面に下りようとした時でした。私が、おまえは私に欺かれたのだ、と言うと、言い終わるや一番端に伏せっていた和邇が私を捕えて、ことごとく私の衣服を剥いでしまったのです。このような理由で泣き悲しんでいると、先にやって来た八十神が命令して、海の潮を浴び、風に当たって伏せっていろと告げました。そこで教えられた通りにすると、私の身はことごとく傷ついてしまいました」と答えた。

 そこで大穴牟遅神はその兎に、「今すぐにこの河口を訪れて水でおまえの身を洗い、その河口の蒲黄を取って、敷き散らしてその上に転がれば、おまえの身は元の肌のようにきっと癒えるだろう」と教えた。そこで教えられた通りにすると、その身は元通りになった。これが稲羽之素菟である。今は兎神と言われている。

 そこで、その兎は大穴牟遅神に、「あの八十神は、きっと八上比売を得ることはできないでしょう。袋を背負ってはいても、あなた様が得ることでしょう」と申し上げた。


 

この物語を分析する前に、登場人物を解説すると、大穴牟遅神とは大国主である。大国主とは、「大国」の王であり、大物主の異名も持つ。大物主とは、物部氏の祖先である。物部氏の一派が三輪氏で、中臣、藤原と名前を変えた。

次に、八上姫とはアメノヒホコ(=ツヌガアラシト=伊豆志大神)の娘(伊豆志袁登売=イズシオトメ)である(古事記 応神天皇紀参照)。

アメノヒホコとは、アカルヒメ(後で卑弥呼であると解る)を追って韓から渡ってきた人物であり、神功皇后、応神天皇の祖先である。

 

ここからは少しの間、迷探偵にお任せしよう。

さて、ある時、迷探偵は著者に頼まれてこの物語をぼんやり眺めていたが、例によって、クセの、何故何故が始まった。

何故、おとぎ話を国記に載せているのだろう、別紙にでもして子供に読み聞かせれば十分なのではないか、迷探偵も幼い頃読んだ記憶がある、国記にするには膨大なコストがかかるのではないか、それともコストに見合うだけの重要なことが記述されているのだろうか。

迷探偵はずっと民間の会社に勤めていたので、常にコスト意識が頭にある。無駄なことをしてはもったいないと言う意識が心の片隅に常にある。

 

重要なこと?そういえば「稲葉の素兎」と同じ「稲葉」の表記が、景行天皇の土蜘蛛退治の時の「稲葉の川上」にあったけれどなにか関連があるのだろうか。

そうだ!「稲葉」に関連することを調べてみよう・・・ということで本稿はスタートしたのである。

 

2.地名分析

 

そういえば、この物語の中の「和邇(ワニ)」は本物のワニではない。「和邇」と言えば言わずと知れた熊鰐(クマワニ)の「鰐」である。


日本書紀 仲哀天皇紀

9月、宮を穴門に建てて住んだ。これを穴門豊浦宮という。

治世八年1月4日、天皇は筑紫に行き、岡県主の先祖の熊が、来たことを聞いて、・・中略・・周芳の沙麼の浦に迎えた。


熊鰐とは文章の流れからいって、北九州洞海湾を根拠にする水軍である。

ならば「淤岐島」とはこれも文章の流れからいって、宗像沖の「沖ノ島」ではないか。

ならばさらに、「気多岬」とは、景行天皇が土蜘蛛退治をした「キタ国=碩田国=企救=北九州」のキタ岬である。

皆「筑紫・豊国」の地名である。

 

ここまで整理した迷探偵は、さらに整理してみることにした

 

@       「和邇」とは岡の港や洞海湾を根拠にしていた水軍である。本拠地は洞海湾内の岡田宮である。まさか、本物の「ワニ」ではないであろう。国記がまさかお遊びをやってはいないであろう。神功皇后・仲哀天皇を穴門まで出迎えたあの「和邇」である。

A       「おきのしま」とは「沖ノ島」である。日本中に「おきのしま」は2箇所ある。島根沖の「隠岐の島」と宗像大社の沖津宮の「沖ノ島」である。この場合は「沖ノ島」であろう。

B       気多岬の「キタ」とは第二話で景行天皇が土蜘蛛を退治する「碩国」のキタである。北九州の企救小倉周辺である

C       「素兎」とは「新羅兎」であろう。新羅から渡ってきたという意味である。新羅から九州に渡る最短コースは沖ノ島経由北九州である。

D       河口の蒲黄とは碩田国の小倉紫川河口の「蒲生」である。古代この辺りまで湾になっていたと想像される。神功皇后の船の帆を作る原料の蒲を採った場所である。「稲葉川の上流」でもある。

E       兎神とは「宇佐の宮の比売大神」である。宇佐の宮が北九州小倉に存在していたことが、後から明らかになる。

 

これらのことから「碩国」、「蒲生」「稲葉」「宇佐」をキーワードにして、さらに筑紫〜北九州豊前周辺を重点的に調べる必要があるのではないかと、迷探偵は著者に示唆したのである。

 

3.大国主命が覇者となれた理由と、宇佐の神がご神託の神となった起源

 

上記、素兎の物語を読むと、大国主が多くの八十神から国を譲られ、覇者となれた理由が二つあると書いてある。

そのひとつが、兎神を助けたことで、兎神から「あなた様が八上姫を得るでしょう」と「御神託」をいただいたこと。

二つ目が、実際に八上姫を得たこと。八上姫を得たものが、事実上「大国」の跡継ぎになれるという不文律があったのであろう。

 

大国主は、スサノオの娘スセリ姫、宗像三女神タキリ姫も妻にし、八上姫も得たために誰も対抗できる者がなく、それがために7〜80年に渡る、「大国」の長期政権を維持できたものと思われる。

したがって、魏志倭人伝に表れる、卑弥呼の「倭国」の前の代々の王とは、大国主のことである。

ただし大国主が一人の人物であったとは限らない。大国主は大穴牟遅神とも呼ばれ、事代主に受け継がれ、さらに2代目事代主に継がれていったとホツマツタエに書かれてある。古事記には、2度死んで蘇生したと書いてある。この意味は三代に渡って大国主が存在したと言う意味である。したがって三代で80年の治世である。

 

またもうひとつ、兎神が「ご神託」を述べて、それがそのとおりになったが、ご神託を述べる神として古代有名で、代々の天皇家も国家の大事の時に必ず伺った神社とは、いうまでもなく「宇佐神宮」である。道鏡事件の時に天皇の命で和気清麻呂が伺ったのも「宇佐の宮」である。

とすれば、兎神とはご神託を述べる神であり、兎神を祀る社が宇佐の宮であることになる。よって『宇佐神宮がご神託の神となった起源は、この「稲葉の素兎」にある』ということになる。

 

これこそ、この物語が訴えたかったことではないか。とこのように迷探偵は推理したのであった。

 

ここまでの考察から、稲葉と宇佐とは同じ場所にあり、しかも、兎神を通して宇佐と密接に繋がっているように見える。

そこで、稲葉の場所に宇佐の宮があったことを確かめるために、後で和気清麻呂の宇佐を訪ねてみる。その前にまず先に、景行天皇が土蜘蛛を退治した「稲葉」を調べに行こう。

 

第二話 景行天皇の土蜘蛛退治と稲葉

 

プロローグ

 

景行天皇というと、一般的に大和を出発して9年間も本拠の近畿大和を留守にし、北九州の土蜘蛛を退治し、九州を巡狩し、また近畿大和に帰っていったとされているが、天皇の都がもし今の近畿とするならば、都をそんなに長い期間留守にするはずがない。

そもそも景行天皇は、出発地が周防の佐波と記述されている。周防とは本説では、関門海峡周辺であるからほとんど九州である。

帰り道も、日向の高屋宮経由大和と書いてあるが、この日向の高屋宮と大和とは、著者のホームページ調査では筑紫〜豊前にあった。

ということは、景行天皇は、最初から最後まで九州に居られたということである。変な通説に惑わされないように。

 

寄り道はそこまでにして、迷探偵から「碩国」、「蒲生」「稲葉」「宇佐」というキーワードを中心に調べるようヒントを貰ったのでそれについて調べを進めていくことにする。

まず最初に、同じ表記の「稲葉」というキーワードを含んでいる、景行天皇が治世12年9月に周防の佐波を出発して土蜘蛛を退治し、11月に日向国高屋宮へ戻って来た時の、地名について調査してみる

 

1.景行天皇の土蜘蛛退治の話

 

景行天皇が土蜘蛛退治をしたときの記述が、長い行数をとって述べられている。一見したところ、何故土蜘蛛みたいな賊を退治するために、景行天皇自身が雨のように矢が飛んでくる死地に立って奮闘しているのかが理解できない。

迷探偵に言わせれば、この時に出てくる地名を記録しておく必要があって、この物語を記述しておいたのであると言うだろう。

何か重要な情報がこの中に含まれているのかもしれない。ちょっと長文だけれど辛抱してお付き合い願いたい。読むのが面倒な方は、キーワードの赤字の部分だけ読んでいただきたい。

 


日本書紀 景行天皇紀

治世12年秋7月、熊襲がそむいて貢物を納めなかった。そこで天皇は8月15日、筑紫に向かった。

9月5日、周芳の娑麼(すわのくにのさば)(山口県佐波)に着いた時、天皇は南方を眺めて群卿に言った。

大足彦忍代別天皇> 南方の方に煙が多くたっているな。おそらく賊であろう。武諸木、菟名手、夏花、行って見てまいれ。

多臣の祖の武諸木と、国前臣の祖の菟名手、物部君の祖の夏花が命を受けて様子を見に行った。

そこには、神夏磯媛という女が首長として(原文では「一國之魁帥」)多くの部下を従えていた。神夏磯媛は天皇の遣いが来たことを聞いて、磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を抜いて、上の枝に八握剣を、中枝に八咫鏡を、下枝に八尺瓊をかけて素幡を舟の軸先にたててやってきて言った。

(作者注)

素幡は白旗のこと。今と同じ抵抗の意志がないことを示す。

神夏磯媛> 我らは背くつもりはありません。どうか兵を送らないで下さい。

武諸木> よく分かった。それでこの辺りに天皇の意に従わぬ者はおるか。・・中略・・

天皇はようやく筑紫に到着し豊前国の長狭県について、行宮を立てて休んだ。その地を名付けてという。

冬十月、碩田国に到着した。その土地は広くて大きくて美しかったので碩田と名付けた。一行はさらに進み速見村に着いた。そこには速津媛という女性が住んでいた。彼女はひと所の長で天皇が来ると聞いて自ら迎えに出向いた。そのとき天皇に言った。

速津媛> この山には鼠の石窟とよばれる大きな岩窟があり、そこに二人の土蜘蛛が住んでいます。一人は青と呼ばれ、もう一人は白と呼ばれています。他にも直入県の裲疑野に打猿、八田、国麻侶の三人の土蜘蛛がいます。この五人は、かなりの力を持っていて仲間も多いのです。しかし彼らは皇命には従わず、もし強いて呼ばれたときは兵をもって戦うつもりのようです。

天皇> それはいかんな。

速津媛の話を聞いて天皇は来田見邑に留まることにして、仮宮を建てて住んだ。そして群臣に謀って言った。

天皇> 今より大軍をもって土蜘蛛を討とう。もし我が兵の勢いに押され山野に隠れられたら今後の憂いとなろう。

そして椿の木を取って椎(つち)を造りこれを武器とした。強い兵をえらんで椎を授けて山を登り草をはらって石室の土蜘蛛を襲い稲葉の川上に破り、ことごとくその仲間を殺した。辺りは血の海になり踝まで使った。時の人は、椿の椎を作ったところをつばき市といい、また血の流れたところを血田といった。

また打猿を討つため、ね疑山を越えたが、そのとき敵の射る矢が横の山から飛んできた。その様は雨が降るようだった。これを見て天皇は城原に帰って占い、川の畔に陣をおいた。兵を整え、まず八田をね疑山で討ち打猿はかなわないと思い降伏したが許されず皆自ら谷に身を投じて死んだ。

天皇ははじめ敵を討つために柏峡の大野に泊まった。その野に石があって長さ六尺、巾三尺、厚さ一尺五寸もあった。天皇は神意を問うため占った。

天皇> 私が土蜘蛛を滅ぼすことが出来るのなら、この石を蹴ったら柏の葉のように舞い上がるだろう。

そして蹴り上げると柏の葉のように大空に舞い上がった。それでその石を名付けて「踏石」という。このときにお祈りされた神は志我神、直入物部神、直入中臣神の三神だった。

11月、日向国について行宮を建てて高屋宮と名付けて住んだ。


 

上の日本書紀・景行天皇紀に出てくる地名を、智導世津翁が郷土史や「季刊邪馬台国」99号景行天皇特集等を参考にして調べた結果、次の第一表のような結果になった。

 

第一表

日付

地名

地名考察

治世12年9月

周防の沙婆

「枝三」のイワレのある、北九州市八幡東区枝光

同上

磯津山

小倉貫山の古名

同上

宇佐の川上

豊国の企救(小倉周辺の古代名、後の考察で古代宇佐があったと推定)

同上

御木の川上

豊前

同上

高羽の川上

福岡県田川市

同上

緑野の川上

小倉竹馬川上流、沼緑か

同上

豊前国長狭県

行橋市御所が岳近辺の長峡?あるいは小倉長野か長尾

治世12年10月

碩田国

キタ国(豊前の京都から見て北にあったことから命名)規矩、企救、聞、菊へ変化、北九州のこと。オオキタ(大分)とは決して読めない。

同上

碩田国の速見村

碩田国の中の一村

10

同上

来田見村の仮宮

碩田見→小倉朽網(くさみ)に変化

11

同上

直入県の裲疑野

裲疑=貫、抜きと変化。小倉貫山。貫は安閑紀の「大抜き屯倉」と同一

12

同上

椿市

行橋市椿市

13

同上

血田

北九州市小倉南区津田(和銅6年の好字改定の詔により血田→津田に改定と郷土史に記述あり)

14

同上

稲葉

小倉下貫村稲葉川

15

同上

裲疑山

小倉貫山(ぬきやま)=安閑紀の「大抜き屯倉」と同一

16

同上

城原

小倉北区城野

17

同上

柏峡の大野

小倉曽根柏谷(柏峡から訛ったか)、大野川あり。柏尾とは、柏の形の企救半島の付け根にある。

18

同上

踏み石

小倉曽根に現存する「帝踏石」。「タイトウ岩」とも呼ばれる。Google Earthで見える。「フミ国=不弥国」の暗号

19

治世12年11月

日向国高屋宮

飯塚市

 

上表で調査した場所はすべて、北九州筑紫〜豊前周辺ということは間違いない結果になった。

何故なら、周防の南方で京都の北(碩田)と書いてあるからである。京都とは景行天皇が「京都」と命名した豊前の長峡宮のある場所である。碩田国を、従来言われている「オオキタ」とは読まず、「キタ」と読むのは新しい読み方提案である。

 

すなわち、出てくる地名のほとんどが、古代に企救(聞、菊)と呼ばれていた北九州市豊前小倉近辺の古代地名である。通説で言われているような、例えば直入や速見の場所は、大分県ではない事が解る。

何故なら、直入県の裲疑野(貫野)であるから、貫とは豊前小倉であるし、碩田国の速見村であるから碩田国とは京都の北=企救の小倉であるからである。また、上表の19箇所の地名群の中で、突然直入や速見だけ離れ小島のように大分県に行ってまた戻ってくることなどなかろうし、そんなことをしていたら3ヶ月という期間の中で、賊を平らげてしまうことは無理である。

 

更に決定的なことは、第一表bP8の景行天皇が蹴ったと言う岩が、豊前小倉に「帝踏石」として現存しているということであり、これを日本書紀が記述したのが事実とすれば、この前後に大分や宮崎に行くことは無理であることである。

またなにかアリバイ崩しをしているような感覚になってきた。

 

第一表の考察で解った地名の場所を、地図上に書き入れてみよう。

 

 

第一図 景行天皇の土蜘蛛退治の場所

 

2.土蜘蛛退治考察

 

景行天皇の土蜘蛛退治の場所とは、ほとんどすべてが、上図のねぎ山(貫山)を中心としたねぎ山の南北の場所であることが、地図よりうかがえる。「古事記」には、景行天皇が土蜘蛛を退治したとき得た土地は、すべて「屯倉」にしたとある。歴代天皇が「屯倉」を持った中で、「屯倉」に関してはこの記事が初出である。ということは、景行天皇が、天皇家として始めて「自前の土地=屯倉」を手にいれたのである。

よって、天皇家の本来の出身地=本貫とは、第一図の範囲内である。

ねぎ山(貫山)の北側が、景行天皇の命名した「京都」の北にあったから碩田国(北国)と名のついた、キタ国(企救)であり、南側が豊前の京都である。

ところで、景行天皇が9月に周防の沙婆を発ってから11月に日向国高屋宮に戻ったが、この日向国高屋宮とは京都から一山西に越えた、飯塚(イフヤ坂)の立岩〜大分の場所である。

 

この地図を見ると、碩田を「オオキタ」と読むのは無理である、辞書にはそんな読みはない。碩田はあくまで「キタ」である。広くて大きい国と言っているから、東に瀬戸内海、北に響き灘・日本海が開ける企救国が相応しい。

 

そして、大事なことは、先ほど第一話「稲葉の素兎の物語」でキーワードを見つけたが、そのキーワードのほとんどが上記地図に表れていることである。「稲葉の川上」を筆頭として、「宇佐」、「碩国」、「蒲生(紫川の河口)」である。

したがって「稲葉の素兎の物語」と「景行天皇の土蜘蛛退治の物語」の舞台は同じ場所すなわち、「豊国」である。

 

次に、第一表での第一のポイントは「宇佐」であろう。「宇佐」とは大分県ではないかと誰でも思っているであろう。それを著者は豊前小倉に比定した。

宇佐が小倉にあったと特定することが、本稿では大変重要なことなのである。これについて第四、五、六話で詳細に考察するが、種々の証拠から、宇佐が豊前小倉にあったことが証明される。

 

第二のポイントは稲葉である。稲葉の場所をここ豊前小倉に比定することが、後で大変重要な意味をもつのである。後で解るが「稲葉」とは稲葉の素兎がたどり着いた場所であり、宇佐の宮のある兎神の土地なのである。

 

第三のポイントは、この話の筋の流れから言って、宇佐と稲葉がほとんど同じ場所であるということである。このこと事態が、重要な意味を今後持ってくるのである。

このことを記述したいがために、土蜘蛛退治という、書紀全体の中でそうたいして重要とは思えない話を、実に多くの行数をとって記述したのではないかと迷推理探偵は推理するのである。

 

第四のポイントは神夏磯媛こそが、稲葉にたどり着いて困っていた卑弥呼ではないかと言うことである。何故なら、神夏磯媛は原文では「一國之魁帥」となっており、つまり壹国の王=邪馬壹国女王=卑弥呼であるからである。それを景行天皇に助けてもらったのが「稲葉の素兎」である。

 

ま、早急に結論を出すのは止めにして、この第二話で得た大変重要な情報を持って次の第三話へ移ろう。

 

第三話 アカル姫

 

プロローグ

 

また迷探偵の登場である。迷探偵は考えた。記紀では、アメノヒホコ(ツヌガアラシト)とアカル姫の話が、かなりの行数を割いて詳しく記述されている。この話について、記紀の流れの中で、他の記述の何処の部分とどういう関連性をもつのかという考察を見た覚えが無い。この話だけが他の話とまるで関連性がなく独立しているなど全くありえないのに、誰も無関心のようである。

 

しかし、国記にそんなに行数を割いて無駄なことを書くわけが無い。

記紀を書いてある紙にしたって貴重な和紙であろう。色あせない墨、書くための労力、保存するための苦労等を考えれば、是非とも記録して後世に残しておかなければならない程重要な情報ではなかろうか。何故重要なのか?何が重要なのか?何を言いたいのだろうか?またまた迷探偵のいつもの何故何故が始まった。

 

そう言えば、アカル姫の逃げてきたルートが、稲葉の素兎が沖ノ島から渡って来たルートと同じではないか。この二つは何か関連があるのではないか、と迷探偵は考え著者に調べるよう示唆した。

ということで著者が色々調べたのが本話である。

 

1.アカル姫とアメノヒホコ(ツヌガアラシト)を追う

 

まず、アカル姫と彼女を追って日本へ来たアメノヒホコ(ツヌガアラシト)の、二人の行動を追ってみよう。

古事記、日本書紀両書をよりどころにする。

 


古事記 応神天皇紀より

すぐに麗しい嬢子(をとめ)になった。それで結婚して本妻とした。中略

「私の祖先の国に行きます」と言って、すぐに密かに小船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。これは難波の比売碁曾社に鎮座しているアカルヒメという神である。

そこでアメノヒホコは、その妻の逃げたことを聞いて、すぐに追い渡って来て、難波に進もうとしたところ、その海峡の神が遮って入れなかった。


日本書紀 垂仁天皇紀より

先帝の御間城入彦五十瓊殖天皇の御世に額に角が生えた者が、船に乗って越国の筍飯(けひ)の浦に流れ着いた。そこでその地を角鹿(つぬが=著者のホームページで博多と推理)という。

大加羅国(おおからのくに)の皇子で名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と申す。日本国に聖王が折られると聞いてやって来ました。穴門についたとき、その国の伊都比古という者に会いました。中略

また次のような話も伝わっている

都怒我阿羅斯等は娘(アカルヒメ)を捜して海を越えて日本までやって来た。探し求めた娘は難波に行って比売語曽社(ひめごそのやしろ)の神となった。また豊国の国前郡に行って比売語曽社になったとも言う。だからこの2カ所で祀られている


 

古事記の「アメノヒホコ」の話と日本書紀の「ツヌガアラシト」の話は入り組んでいるように見えるが、ふたりは同一人物であり同じ物語である。何故ならヒホコが追っていった娘(アカル姫)が、比売碁曾社の神で同一人物だからである。

 

これまで著者がホームページ上で調べた膨大なデータから読めることは、古事記・日本書紀・ホツマツタエその他の魏志倭人伝といった文献は皆しっかりとした共通の事実の上に立って、しかも共通の地図を使用して、さらに共通のキーワードを使用して記述しているということである。これは証明できるが別稿で。

解りにくいのは、ひとつの物語が各種文献に断片的に時代も名前も変えて記述されており、それらをどう繋ぎ合わせるかが難しく、それにはキーワードと土地勘と推理と先入観念にとらわれないことが必要だということである。それを迷探偵にお願いしているわけである。

 

細部については智導世津翁のホームページで考察しているので、次に重要なことのみ述べる。

ヒメコソとは「卑弥呼」である。「卑弥呼」は「ヒメコ」である。

上の古事記と日本書紀の記述を総合すると、そこに書かれてある大事なことは次のようである。

 

難波とは海峡=穴門=関門海峡、

ヒメコ(卑弥呼)の到着した国は豊国=日本国=卑弥呼の祖先の国、

日本国王=伊都彦=先帝の御間城入彦五十瓊殖天皇=崇神天皇、

比売語曽社の神=アカル姫=ヒメコ=卑弥呼

比売語曽社は難波の穴門(日本国)と、豊国の国東の2箇所ある。

 

これ以外には読めない。これ以外に読めばそれは曲解ではなかろうか。ポイントは「難波穴門」であろうか。古事記には「難波の比売碁曾社」、「アメノヒホコは、・・難波に進もうとしたところ、その海峡の神が・・」日本書紀には「ツヌガアラシトと申す。・・穴門についたとき」、「娘は難波に行って比売語曽社の神となった」と記述されており、比較して解読すると難波=海峡=穴門である。どちらか一方の書物だけではこうはならない。比較・解読が必要である。今までこういう解読方法を見た覚えが無い。

 

もう少し解説すると、アカル姫=卑弥呼とは、ヤマトトモモソ姫であり崇神天皇の姉である。崇神天皇は卑弥呼を補佐する男弟と魏志倭人伝に記述がある。崇神天皇は初代日本国王となって建国宣言を行った。日付は治世8年冬12月20日である。西暦では239年頃である。詳細は智導世津翁のホームページをご覧いただきたい。

 

これが重要な情報である。こう言うことを解説してくれた本があれば、今まで回り道をせずに済んだのにと思う。著者など頭が悪いものだから、迷探偵に色々ヒントを貰いながらやっとここまでたどり着いた。

 

智導世津翁はそれにしたがって、教えられたことを書いているのである。先入観念にまとわりつかれているときにはいくら頑張っても良いアイデアが出てこない。しかし、寝ている時は全く先入観念から解き放たれた状態になるのである。

 

このアカル姫=卑弥呼が韓から帰ってくる途中小船に乗って非常に難儀し、大国主に助けられ、豊国の宇佐(企救の小倉)について兎神として迎えられたというのがこの第三話なのである。兎神が大国主に「貴方が八上姫を得るでしょう」と御神託を下しその通りになったことが、兎神=宇佐の比売大神のご神託の起源なのである。

 

したがって、アカル姫の着いた場所の「穴門」=稲葉の素兎の着いた場所の「稲葉」=景行天皇の土蜘蛛を退治した場所の「稲葉の川上」である。

ここまで来てようやくいろんなことが解ってきた。さらに迷探偵は推理する。

 

迷探偵の推理は次のようである。

つまり、これまで考察した三話は、同じ話を色々な話に分解して繰り返し記述しているのである。

同じ話とは、「卑弥呼(=兎神=アカル姫)が韓から日本に帰ってくるときに、小船に乗って非常に難儀した。それを大国主が助けた。卑弥呼は大国主に八上姫を得るという御神託を下しその通りになった。そして「兎神」と別名をもらった。卑弥呼は、帰って来てから、さらに景行天皇の助けを得て土蜘蛛を退治した。土蜘蛛を退治した場所は、兎神の祀られている難波の比売碁曾社のある碩田国(企救)である。したがって、卑弥呼の最初着いた場所は、企救である。そして後に一國之魁帥=邪馬壹国女王となった」である。

卑弥呼は、そのときそのときで神夏磯媛になったり、アカル姫になったり、兎神になったり、ヒメコソになったりしながら何度も登場しているのである。

 

この迷探偵の推理の裏づけをするために、さらに次の第四話で考察する。

 

第四話 和気清麻呂の宇佐の宮

 

プロローグ

 

兎神が御神託の起源となった由来の、古代の「古宇佐の宮」=比売碁曾社が、豊国北九州小倉近辺にあったのではないかと、前の第三話までで考察してきた。そしてその場所が、紫川の河口で稲葉川の上流あたりではないかという所まで解ってきた。

 

しかしまだ具体的な地名が出るところまでは解っていない。はたと困った著者はそこで迷探偵に相談した。迷探偵はそこで、時代は違うがとりあへずは、宇佐の宮へご神託をいただきに行き、弓削の道鏡の野望を砕いたとして有名な、和気清麻呂について調べていくことを示唆したので、それについて調べを進めてみる。

 

1.和気清麻呂の流された大隅とは

 

迷探偵は今は引退した身であるが、現役時代仕事上で気をつけていたことがある。それは一人の人の言うことを聞いて信じてはいけないと言うことである。一人の人から進言されたとき、必ず他の複数の人に同じ事を聞くべきである。そう信じて仕事をしてきた。

 

何故か。

他人が嘘を言っている場合があるからである。

「他の複数の人に同じ事を聞く」・・・これはできるようでなかなか難しい。

何故難しいか。

人を信じないことになるからである。したがってこれを嫌う人が多い。

このジレンマを制御することが非常に難しいのである。その人の耳に入れば人間関係にひびが入る場合もあるだろう。しかし責任ある仕事をするためには仕方が無い。やはりジレンマである。迷探偵はどうしても「いい人」にはなれないのである。

トップは「いい人」が相応しい。

しかし裏切られる場合がある。またジレンマ・・・人間の永遠のテーマであろう。

このジレンマに現役時代は悩まされ、髪も薄くなってしまったのである。

 

通説と言われるものについても、100%信じていては間違っている場合もある。

ところで本題の、和気清麻呂の行った「宇佐」を調べる仕事が残っていた。先を急ごう。私に残された時間は少ない。

 


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』和気清麻呂

 

769年(神護景雲3年)、女帝孝謙天皇(称徳天皇)による弓削道鏡の取り立てに絡み、宇佐八幡宮における神託事件で天皇の逆鱗に触れ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国(現在の鹿児島県)へ遠島となった。・・・中略・・・

なお、宇佐へ配流の際に猪によって難事を救われたとの伝説(北九州市小倉北区など)から、護王神社・和気神社などでは狛犬の代わりに「狛猪」が置かれている。


 

この中で気になることがある。まず、「大隅」である。

「大隅国へ遠島となった」と書いてあり、大隅とは鹿児島と注があるが、実際に清麻呂が着いた場所は、穴門の難波の大隅である。大隅が鹿児島と注釈があるのは、偶然名前が同じだったというだけで、まったく根拠がない。何故なら、実際の行動を見てみると、小倉に着いて、追っ手から足の筋を切られたために、小倉の湯川で霊泉に入ったり、小倉の足立山に登ったり、宇佐に行って御神託をいただいたりしているからである。足が動かないのに、鹿児島の大隅から豊前の小倉まで来れるはずがない。

これらのことから、大隅へ遠島になったというよりも、道鏡失脚の工作をするために追っ手の手から逃れるために、豊前穴門の大隅へ逃れてきたように見える。

 

ちなみに「大隅」については筆者のホームページで、穴門付近にあったことを詳細に考察しているので、そちらをご覧いただきたい。

 

上の文章と同じ内容の事が、清麻呂が創建した唯一の神社といわれる、小倉の妙見宮御祖神社の由緒に書かれている。

 


妙見宮御祖(みおや)神社ホームページ 由緒書より 抜粋

 

当神社は、国体擁護の大忠臣として伝えられる正一位和気朝臣清麿公が創建した全国唯一の神社です。

称徳天皇の神護景雲三年(七六九年)太政大臣法王弓削氏道鏡が逆心の反乱をおこした。

公は、直ちに勅命をうけて宇佐神宮に使いとして行き、平城の京に帰り神のお告げを申し上げた。

【(神託)えあが国は開闢以来君臣の分自ら定まる。臣を以て君となすこと未だこれあらず。天日嗣は必ず皇緒を以てこれをつがしめよ。無道の人は宜しく速やかにこれを掃蕩すべし。】

これをきいた道鏡は大いに怒って、公は大隅国へ流されることになり、その途中宇佐の海浜の和気村にたどりついた。この時道鏡の追っ手から足の筋を切られた公は、たちどころに現れたに助けられ、宇佐の神前へと導かれ、十月三日再び神のお告げをうけた。公は神馬をかりて規矩群竹和山(現在の足立山)のすそにある石川村(現在の湯川町)に十月五日の夕方頃着いた。十月六日お告げどおりこの村の霊泉に浴した公は足がたちどころに治りました。足が立つ、足立の名の起こりとも伝えられている。足立は安立とも、安達とも、足起とも誌されている。さて公は、自ら十月八日足立山に登り、北辰尊星妙見大菩薩に天皇の御血統が安泰であり、反逆者がいなくなるようにと断食して祈った。十月十五日の未明に妙見さまが御降臨され、「汝の願い、ききいる」とのお告げがあった。翌年、光仁天皇宝亀元年(七七〇年)天皇の御血統は安泰し、妖人道鏡は下野国に流され、公は平城の京に呼びかえされました。よって公は、わが四男磐梨妙運をこの御降臨の地に送り、足立山妙見宮を十月十五日に創建しました。

後柏原天皇より「うら」の紋章を授かる。この紋章は、全国神社の紋章としては妙見宮だけのもの。


 

上記は、有名な話であるから、読者の方も一度は、ご覧になったことがあるのではないだろうか。この場合の大隅も、北九州企救小倉の大隅だと解釈した方が合理的である。一部の人が大隅を鹿児島と誤解しているのは、ただ名前が偶然同じであったという理由のみである。

実際に清麻呂が着いて行動しているのは、北九州豊国の地である。

ならば、北九州に大隅という地名が、本当にあったかと問われるであろう。

 

その答えは著者のホームページで考察しているが、応神天皇の難波の大隅宮、安閑天皇が言われた「牛を難波の大隅島と姫島の松原とに放たせ」の難波の大隅とは、北九州の穴門周辺なのである。よって清麻呂の流された大隅、大隅島とは、そもそも豊国穴門企救半島なのである。

 

それに、仮に「難波」が近畿だったら、難波の大隅に「流された」という表現はおかしい。

難波と大隅とを両方満足させられる地点は、北九州豊国以外にない。

 

著者自身が調べてきてやっと解ったことである。調べなければ言われるがままに信じていたであろう。これもネットで一般人でも古事記や日本書紀やホツマツタエを読めるようになったおかげである。

天動説を信じていた時代の一般庶民が、聖書を持っていなかったと同じことが、今までの我々の現実だったのである。その一般人でも記紀やホツマツタエが読めるようになった今の時代に、大隅が鹿児島であるという説明は通用しなくなったのである。

 

今や記紀は研究者のみのものではなくなった。我々一般人でも読めるようになったのであるから、万人の目から見て合理的な解釈を打ち出すべきであろう。

 

2.古宇佐

 

ではこの当時、古宇佐は何処にあったかである。妙見宮由緒書きに次のように書いてある。

「清麻呂は10月3日に宇佐に居て再び神のお告げをうけた、そして10月5日には小倉湯川に居た、10月8日足立山、10月15日に妙見さまが御降臨」と書いてある。

10月3日の宇佐が仮に大分の宇佐であるとすると神馬の背に乗っても10月5日小倉に居ることは無理である。よってこの宇佐は小倉にあった。では場所は?

 

その答えは妙見宮由緒書きにはっきりと書かれている。

つまり、「宇佐の海浜の和気村にたどりついた。この時道鏡の追っ手から足の筋を切られた公は、たちどころに現れたに助けられ、宇佐の神前へと導かれ、十月三日再び神のお告げをうけた」ということは清麻呂が猪と共に行った場所が古宇佐神宮である。清麻呂が猪と一緒に居る場所とは清麻呂が創建した唯一の神社小倉妙見宮である。証拠は妙見宮でしか見られない狛猪である。故に古宇佐=小倉妙見宮である。やっと卑弥呼(兎神)が沖ノ島から渡って来た場所が見つかった。

 

妙見宮のこま猪

由緒書

 

由緒書きはこれを残しておきたかったのであろう。「神馬をかりて」とは、日数のつじつまを合わせるために挿入させられた可能性が強い。

そういうことになれば、アカル姫=卑弥呼=兎神の着いた穴門の稲葉の場所とは、小倉足立山の麓ということに必然的になるのである。

 

3.古宇佐の地理

 

上で古宇佐があったと推理した小倉足立山とは格好が鷹が羽を広げたような形をしており、古名で筑波山とも竹和山とも呼ばれる。景行天皇の土蜘蛛退治のときの「鷹羽」とは足立山の麓の可能性もある。麓を流れる川は竹馬川、大野川、稲葉川、紫川である。

和気清麻呂が足を直すためにつかった湯川の霊泉もある。

 

この場所はこれまでの考察を総合すると、稲葉の素兎がたどり着いた稲葉であり、景行天皇が土蜘蛛を退治した稲葉川の川上であり、アカル姫が新羅から帰ってきた難波の穴門の日本国ということになる。妙見社のご紋が「裏菊」というのは何か「日本国」と関係がありそうである。

これはいよいよ持って、この場所を徹底的に捜索する必要がありそうである。

 

しかしここまで来てもまだ迷探偵は半信半疑である。どこか間違っているのではなかろうか。罠にはまっているのではなかろうか。迷探偵は確信が持てるまで捜査をやめない慎重な性格である。慎重な性格は時として優柔不断と見られることもあるが。

これまでの四話の中でキーワードが一致したのはたったの4つではないか。時代にしたって大国主やアメノヒホコや卑弥呼が登場するかと思えば景行天皇が登場するなど、時代が錯綜しているように見える。これについては、著者のホームページで、倭王・卑弥呼の時代に、複数王家が存在していた、ということで整理している。言い換えれば、縦に時間が流れているように見えるが、実は一部、同時代の事を縦の時間に繋ぎなおしているのである。

 

地名なんて、鳥取や島根に行けば稲葉の素兎に関係する地名がごろごろ転がっている。出雲大社や白兎神社や白兎海岸というはっきりしたものまである。それに引き換えこの足立山周辺には「兎」の「う」の字さえ見られない。もっとよく調べなければならないと迷探偵は考えた。

 

ならば、兎神の「兎」がもろに地名として現れる場所をさらに調べてみよう。そこではたと思い当たったのが神功皇后の話の中であった、「菟餓野」という場所である。もろに「菟」が登場している。しかもおまけに、「猪」まで登場する。「菟」と「猪」これは面白い、早速調べてみようと言うことで、迷探偵の指導で次のお話へ移ることにする。

 

考えてみれば、この迷探偵とは著者にとって、シャーロックホームズの相棒ワトソン君のような者である。互いに相談しあいながら進んでいるようである。

 

第五話 カゴサカ王の菟餓野と仁徳天皇の菟餓野

 

プロローグ

 

第四話まで考察してきたところで古宇佐は小倉足立山の麓にあったのではないかと迷探偵は推理してきた。

推理したといっても、なんだかファミコンのRPGゲームをしているような感覚である。作者が推理する道筋をあらかじめセットしておいて、ゲーマーがその道筋通りに問題を解決していく。迷探偵はその筋書きに沿ってゲームをしている。ひょっとして記紀の作者は、この中で壮大なロールプレイイングゲームを創り上げたのでは?という感覚に襲われる。

 

それはさておき、ここで思い出されるのは、神功皇后が三韓征伐後、鹿児坂王、忍熊王と対峙したとき、日本書紀や古事記は、「鹿児坂・忍熊の二皇子は兵を興して菟餓野に進出し、戦勝を占った時、突如として猪が現れて、鹿児坂王を喰い殺した」と記していることである。

 


古事記 仲哀天皇紀より

そして、オキナガタラシヒメ命が倭に帰り上ろうとすると、人々の心が疑わしかったので、喪船を一つ準備して、御子をその喪船に乗せて、まず、「御子はすでに亡くなられました」と言い漏らさせた。

 このように上り進むと、カゴサカ王とオシクマ王が聞いて、待ち受けて討ち取ろうと思って、菟餓野(とがの)に進み出てうけひがりを行った。そして、カゴサカ王が櫟(くぬぎ)の木に登っていると、そこに大きな怒り狂ったが現れ、その櫟を掘って、すぐにそのカゴサカ王を食い殺してしまった。


まさに、人を食ったようなお話であるが、記紀は真面目に人を茶化している。この問題を解けるなら解いてみよとゲーマーに問いかけているようである。解けないとしゃくだからなんとか頑張ってみよう。

 

カゴサカ王とオシクマ王とは、仲哀天皇の子であるから場所は豊国である。仲哀天皇の国を「豊国」としている理由は著者のホームページをご覧いただきたい。「豊国」とは先ほどの考察から穴門周辺にあった。したがってこの菟餓野の場所は穴門周辺である。

また、菟餓野とは兎が飢えて困っていた場所と読める。「兎が飢えて困っていた場所」とは「稲葉の素兎」がたどり着いて難儀していた場所すなわち企救の足立山の麓である。「猪が現れ、食い殺してしまった」とは和気清麻呂の猪を思い起こさせる。

 

足立山の麓は万葉集に数首歌われる豊国の企救の長浜、高浜があり、菟餓野とよく似た名前の「富野」と「宇佐」の地名がある。

これらを総合すると、菟餓野とは企救の野を表す言葉のように思われる。となにやら一方的に結論を出してしまったがこれは勇み足かも知れない。この程度の考察なら日本中に菟餓野が見つかるだろう。現に大坂にも菟餓野がある。

 

そこでさらに考えた。全く同じ表記の菟餓野が表れる文章がもうひとつある。

日本書紀仁徳天皇紀である。

 


(仁徳天皇)治世元年難波に宮を造って高津宮といった。

治世38年春1月6日、八田皇女を立てて皇后とした。

秋7月、天皇と皇后が暑さを避けるため高台に登っていた。すると毎夜、菟餓野の方から鹿の鳴く声が聞こえてきた。その声は物寂しくて悲しげだった。二人とも哀れを感じていた。月末になってその鹿の鳴声が聞こえなくなった。・・・・略


 

難波」とはこれまでの考察から穴門である。菟餓野とは、カゴサカ王の菟餓野と同じ表記であるから同じ場所である。上の話は続きの記述があって、「牡鹿が雌鹿のいる淡路島へ泳いで渡る途中、妻鹿の夢占いの諌めも聞かず行って矢に射られた」という物語の記述である。哀れな「鹿子(かこ)」である。

 

お急ぎでない方は日本書紀をご覧いただきたい。淡路島とは、関門海峡の二つの島「淡(粟)島」、「小豆島」の「淡島」と著者は考えている。いずれ別稿で考察する。ところで何故この物語を国記に記述しているのかと迷探偵は深く考えた。

 

そこでさてお立会い、「菟餓野の哀れ矢を射られた鹿子」とは先に考察した「菟餓野で哀れ猪に食われた鹿子(カゴ)さか王」である。さらに「妻の夢占いを信じず出かけた哀れ鹿子」とは「占い(宇佐神宮)の結果を信じず戦い敗れた鹿子さか王」である。

 

もうひとつある。鹿子とは水手も「カコ」である。「哀れ水手」とは戦えば負けると言う占いを信じず出兵し、白村江の戦いで敗れ水軍の大半を失い荒れ野となり、飢えている北九州の菟餓野を重ねているような気がするのである。万葉集にも「哀れ水手」を歌った歌がある。

 

これらが言いたいがために仁徳天皇紀の中で長い行数を使って記述したのである。なんと解りにくいことよ!なにか一仕事終えたような気分である。ま、ともかく解けてよかった、次のゲームへ進める。

次は「宇佐」にターゲットを切り替えよう。

 

第六話 神武天皇の宇佐とホツマツタエの宇佐

 

プロローグ

 

第五話まで考察してきたところで、古宇佐は小倉足立山の麓にあったのではないかと推理してきた。

もしも古代の宇佐がこの場所に確かにあったという結論が出さえすれば、これまでの考察は全て正しいことになる。

 

とはいえ今までそんなことを試みたことさえ聞いたことがない。100人のうち99人が、宇佐とは大分の一箇所のみと信じているであろう。何故なら厳然として宇佐神宮が存在しているからである。著者も宇佐神宮には少なくとも10回はお参りしたであろう。その格式の高さと圧倒的な存在感たるや、いつも行ってよかったと思うのである。

 

しかし、ヒメコソ=兎神は2箇所に祀られていると書かれてあった。もう一箇所とはどこか、それを本話で確かめることにする。

宇佐が登場する場面は著者が知っている限りでは次の2箇所である。最初にそれを見てみよう。

 

1.ホツマツタエの宇佐と神武天皇の宇佐

 

ホツマツタエの文章の中で宇佐に関する記述がある


ウサ県主のウサツヒコの国で、昔ホホデミ(ヒコホホデミ、ウツキネ)の故事にならい、アズマ歌を謡って新年を祝った国の名をトヨの国と名付けた


とある。この記事は、神武天皇の叔母のトヨタマヒメの時代の話で、神武天皇の時代の少し前の時代の記事である。

つまり、ウサの国が豊国に名が変わったわけである、何時変わったかは書いていない。しからば、穴門小倉付近が豊国であるならば、そのまた以前は「宇佐」という名前だったわけである。その宇佐の国のウサツヒコが、神武天皇の東征の時にも登場する。

 


日本書紀

日向を発って筑紫に進んだ。そして豊国宇沙に着いた時、その土人の、名は宇沙都比古と宇沙都比売の二人が足一騰宮を作って大御饗を献上した。


ホツマツタエのウサツヒコの国が宇佐から豊国に名を変え、その同じ宇沙都比古の豊国宇沙を神武天皇が訪れたのであるから、両者同じ国である。

 

2.足一騰宮とは

 

さてそれでは、この記事の「宇佐国」は何処にあったかを推理しよう。推理の足掛りはそれこそ「足一騰宮」である。その前に豊国とは穴門周辺であると解っている。では足一騰宮とは?

 

これについて何も手掛りがなく著者が悩んでいたとき、迷探偵はネットで調べるよう示唆した。そこでネットを検索してみると、「古代史よもやま話」さんのホームページに、「足一騰宮」とは「葦日明かりの宮」と読めると書いてある。

「日明かり」とはもろに北九州小倉区内の港の名前である。伊都国王の居たと思われる「伊都津=到津」のすぐ傍の港である。そのまた東隣は万葉集に数首読まれる企救の高浜、長浜である。

イメージ的には「葦干上がり宮」である。ひょっとしたら広島の厳島神社のような、葦の茂る水辺に太柱を建てその上に宮を建てていたかもしれない。

 

著者のホームページでは、龍宮城とは豊浦宮または豊明宮であったと推定している。穴門付近にあったとも推定している。龍宮城=豊浦宮(豊明宮)=足一騰宮である可能性もある。

しかもここからは、高殿を建ててそこから見れば、関門海峡(速吸門、穴門)を行き来する船と洞海湾に出入りする船と両方見られる。船の往来を管理する伊都国王の役所のある場所に相応しいであろう。

 

第二図 北九州企救

 

「葦日明がりの宮」と読むのがもし正解だとすれば、日と豊はほとんど同じように用いられているから、「日明がりの宮」=「豊明宮」であり、「日明かりの宮」=「日明カル宮」とはアカル姫の「アカル」と同じである。さらに「葦日明かりの宮」とは「朝日上がる宮」とも読め「日の本」の由来となったと推理する。

さらに豊明宮とは、豊明と豊浦で一対であったと考えられる。

 

3.ナゴの海

 

この地図に表れる海の管理管轄については、記紀に繰り返し記述されている。ひとつの例として仲哀天皇の治世八年豊浦宮に熊鰐が迎えに来た時熊鰐が言った言葉「穴門より向津野大済に至るまでを東門とし、名籠屋大済を西門とし、没利島(六連島)、阿閉島(藍島)を限って御筥とし、柴島を割いて供養の魚を捕るための地とする。逆見の海を塩地としたい」と言う文中の地名の名籠屋大済の西門(地図のさらに西の遠賀川河口から宗像・津屋崎)以外が全て上記地図に表れている。つまり、管理ポイントが2箇所、東門、西門を管理すれば国中の船の出入りが管理できると言うことである。

 

何故か!関門海峡を通過するには道案内がなければ通過できないからである。著者が幼い頃でさえタグボートで引いて道案内をしてもらわなければ岩礁に当たってしまうような狭い海の道である。まさに豊玉姫の海境=海峡=海の関所である。おまけに潮の流れが渦を巻くように速かった。まさに渦彦の居た場所であろう。現在は岩盤をダイナマイトで削り、大型船も通航できる、しかし水深20mであり、潜水艦は必ず浮上する。こういうふうに土地勘がなければ記紀は解読できない。

 

いくら外国から攻めてこようが上陸可能地点が関門海峡より西の2箇所のみであるから守りやすい。どちらかを閉鎖すれば更に守りやすくなる。仲哀天皇の豊浦宮に新羅の将軍が攻めてきたという神社伝承や、新羅の将軍の首塚があるから本当の話であろう。

後世の元寇のときには全国の港を使えない様に工事して、守る地点を博多の一箇所のみに限定したが故に守り通すことができたのであろう。

 

もうひとつ、上の文中に「名籠屋大済」とあるが名籠屋とは著者が別紙「天孫ニニギ尊が居住した国」の中で考察した、ニニギ尊は宗像の名児山の麓の長屋に居住したと言う結論と整合する。何故なら名籠屋とは長屋であり、同一の宗像の場所だからである。

さらに名籠屋のある場所の海は「ナゴの海」であり、万葉集に多く読まれているがこれは別稿で考察する。

 

 

結論

 

以上の第一話〜第六話の考察から、稲葉の素兎=兎神=卑弥呼=アカル姫=神夏磯媛=宇佐の比売大神であると解った。

アカル姫が着いて最初に建てたヒメコソ社=古宇佐の宮の場所は、「企救の日明り宮」=「日アカル宮」であると結論づける。

記紀の作者の用意した解答への道筋通りに推理したつもりである。

ひとつのゲームを終了したが、これが正解であるかどうかは読者の判断を待たねばならない。

しかし、それにしても2000年近く解けないゲームを創った人とは・・・・・。

 

 

参考文献

 

当文中に以下の方々の文献を参考にしおよびホームページより引用させていただいております。有難うございます。お礼申し上げます

 

1.ホームページ「私本日本書紀」
URLhttp://www2.loops.jp/~asukaclub/syoki.html#chapter21

2.ホームページ「日本神話の御殿」
(URL) http://nihonsinwa.at.infoseek.co.jp/index.htm
3.ホームページ「ホツマツタエ」
URLhttp://www.hotsuma.gr.jp/index.html
4.Googleマップ

URLhttp://local.google.co.jp/

5.北九州市街角探検

URLhttp://members.jcom.home.ne.jp/eirakuan/

6.季刊邪馬台国99号景行天皇特集

 

 

著者のホームページ

「古代史の謎を解く旅U」

URLhttp://www.geocities.jp/oden1947/

 

 

 

概略

 

稲葉の素兎はおとぎ話としてよく知られている物語である。しかし単なるおとぎ話に過ぎないのだろうか。国記に記述されているのだからそんなことは決してありえない、重要な情報がその中に含まれているはずであると考えたい。誰も真剣に考察していなかったこの部分について著者の上の様な信念から、今回この稲葉の素兎の物語を従来の既成概念にとらわれず再考察してみた。

記紀に記されている関連ある以下の六話についてそれぞれ考察をおこなった。

第一話

稲葉の素兎の古事記の記述は実際の地名を含んでいるものと考えて、分析し、キーワードとして「碩国」、「蒲生」「稲葉」「宇佐」を見つけた。

第二話

稲葉の素兎の「稲葉」と同じ表記の「稲葉」が景行天皇紀にあることに着目しその「稲葉」の場所を調べた。その結果稲葉のある「碩田国」とは北九州穴門の企救の国であると解った。

第三話

稲葉の素兎と同じルートで新羅から帰国したアカル姫の物語を調べた。

その結果アカル姫が着いた場所が難波の穴門であると解った。

この第一話から三話をまとめて考察し、稲葉の素兎とはご神託の神「兎神」であり、宇佐神宮の比売大神であり、二話の神夏磯媛であり、三話のアカル姫であり、全ておなじ卑弥呼の別名ではないかと推理した。

第四話

和気清麻呂は大隅に流されたことになっているが実際には企救の国で霊泉につかったり足立山に登ったり宇佐の御神託をいただいたりしており、この当時の宇佐は穴門にあったと推理した。

第五話

兎の名の入った「菟餓野」をカゴサカ王の話と仁徳天皇の話から場所を調べたところ、企救の野であり、宇佐の占いを信じず敗れた「哀れ鹿子」を言いたいための物語であった。

第六話

神武天皇の東征途中立ち寄った「宇佐」を調べたところ宇佐の「足一騰宮」とは「企救の日明り宮」=「日アガル宮」=「アカル宮」であり、卑弥呼=アカル姫=稲葉の素兎がたどり着いた場所であると解った。

 

以上から、稲葉の素兎=兎神=卑弥呼=アカル姫が着いて最初に建てたヒメコソ社=古宇佐神宮の場所は、「企救の日明り宮」=「日アガル宮」=「アカル宮」であると結論づけられる。




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