今日の横浜北部はやや寒かったのですが、朝から快晴の素晴らしい天気でした。日差しは「春」です。
さて、昨日のエントリーの続きを。
90年代に戦略学の分野で集中的に議論された、いわゆる「軍事における革命」(RMA)の主唱者たちが、
「
本物のRMAが起こるためには、技術面、ドクトリン・作戦面、そして組織面の、3つの分野でのイノベーションが必要だ」
と言っていたことを踏まえて、私は、
「
日本の“ものづくり”を中心としたテクノロジーの考え方というのは、それ以外の(2つの)要素を無視しているために、バランスを決定的に欠いている」
ということが言えるのでは、という分析をしたわけですが、最近入手した本の中で、これに加えるべき非常に興味深い記述があったので、それを簡単に触れたいと思います。
その本とは、
キッチンの歴史: 料理道具が変えた人類の食文化 ビー・ウィルソン (著), 真田 由美子 (訳)

というものです。
「なんじゃ、料理関係の本か」
と思ったら大違い。門外漢が読んでも最高に面白い本です。
いくつかの新聞の書評欄には、すでに料理や文化に詳しい専門家による書評が載っておりましたが、どれもやや的ハズレなコメントばかりでした。
なぜならこの本の真髄は、料理のための「道具」という、いわば
「テクノロジー」の歴史の考察にあるからです。
しかも私がとくに注目したのは、この本の第2章のナイフの歴史についての説明に出てくる、「
人間の歯並びが、ナイフの使い方の習慣の変化とともに変わった」という文化人類学者の見解を紹介しているところ。
詳しい説明は本書に譲りますが、ここで言及されているのは、人間の食習慣(ナイフとフォークを使って食材を細かく刻む
テーブルマナーの普及)が変わったおかげで、ヨーロッパの人間のアゴの噛み合わせが、18世紀後半から劇的に変化したということです。
なぜこの例が前日の「テクノロジー」に関するエントリーとのからみで重要だと思ったのかというと、それはRMAの提唱者たちの主張する、いわば
「ハード」「ソフト」「組織」
という3つの分野でのイノベーションだけでなく、
「
テクノロジーによる人間自身の変化・順応」
という決定的な「第四の要素」を忘れていることを思い起こさせてくれる、格好の例だと思ったからです。
これに似たような例としては、私が好きな、アメリカにおける19世紀の電信の発達の例があります。
この当時のアメリカでは、東部から流れてくるニュースを電信で伝達して、それを新聞にして印刷するということをやっていたわけですが、西部で新聞を作る際に、東部の方から流れてくるニュースに使用される言語が「標準化」されていないと、現地の新聞を印刷する時に支障が出てきてしまいます。
そのために言語が「標準化」され、いわゆる
「客観的な言語によって報道する」というスタイルが確立され、これが現代のジャーナリズムの源流となった、という例があります。
これはいわば「電信」という
テクノロジーが、人間が社会で使う言葉の「標準化」をもたらしたという一つの例でありまして、上記の「噛み合わせ」ほどではありませんが、それでも
テクノロジーによって人間そのもののが変化させられた、ということも言えるわけです。
フィクションの世界ですが、たとえば「ニュータイプ」になったアムロ・レイなども、テクノロジーによって変化した人間の例かと。
まとめて言いますと、もし日本が現在のような技術やテクノロジーの大転換期に生き残っていこうとするのであれば、ハードウェア重視の「ものづくり」だけではなく、それ意外の「戦略やドクトリン」(=ソフト)や「組織」、そしてさらには
第四の要素である人間自身も、変わっていくし、変わっていかないといけない、ということです。
ではこのようなテクノロジーの変化における人間自身の重要性に気づいている米軍は、これ対して何をやっているかというと、それはひたすら
「教育、教育、教育」
であります。テクノロジーが進む時代には、それに順応できるだけの高い知識を持った兵士が必要、ということなんですな。
元米陸軍の軍人でジャーナリストとしても有名なラルフ・ピーターズは
「
結局のところ、本当の“革命”は人間の頭の中で起こる」
という印象的な言葉を書いておりますが、これなどはRMAやテクノロジーの関係について、意外に深いところまで突いている言葉なのではないでしょうか。