2012/02/16

モンスター25号[今月の暴言]

今月の暴言 ⑬

3月11日を前に、原発事故の幕引きを企む動きが活発化している。外務省で原子力交渉に携わった金子熊夫や、元東電取締役で日本原子力学会会長でもあった宅間正夫ら、原発の甘い汁を啜った連中が、NHKの放送した低線量被曝と国際基準の問題に触れた番組に対して「抗議」したのもその一つだ。「客観的なデータと理性を無視して原子力に反対……反対派の多くは長年この手の手法を使ってきました」「(今回のNHK報道は)環境修復や避難民帰還のハードルを著しく高める」「福島県の住民自身を一層不安に陥れ復帰を断念させうる」「放射線への恐怖が、医療現場での放射線診断を拒否し手遅れになるという可能性」……(「東京新聞」2月1日)。彼らは、原子力ムラの「健在」をアピールし、再稼働を狙うだけではない。かつてのABCCさながら、被曝データに舌なめずりしながら原発の輸出をめざす。反対派やメディアへの攻撃も、日に日に組織化されている。
(蝙蝠)

モンスター25号[反天ジャーナル]

生きてるうちが花なのか

森﨑東の映画「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」の上映と、その脚本家の話を聞く会があった。この間の反原発運動のなかで、あらためて注目され、各地で上映会が持たれているという。僕も公開翌年くらいには見ているのだが、細かいところはすっかり忘れていた。とりわけ、被曝労働者の現実が、これほど細かく描かれていたのかと。もちろんそれは、観る側の関心の強度というものにかかわっているわけである。

実は、「新宿芸能社シリーズ」とか、「女は度胸」「男は愛嬌」とか、結構森﨑映画は好きなのだが、これらと同様に市井の(というよりは下層の)バイタリティに満ちた群像が魅力的。だが、忘れ難いのは美浜の娼婦、「アイちゃん」である。とくに彼女が夜中の海岸で、自分が生まれてからいまに至るまで出会った人たちの名前を、一人ひとり数え上げていくシーン。映像は原発内部の労働者のリアルな姿(樋口健二さんが紹介するような)に切り替わり、それに名前を呼び出す声が重なっていく。名前の最初には、筑豊出身の子ども時代の彼女を抱っこしてくれたらしい、朝鮮人や沖縄人を多く含む炭鉱の人びとの名前がある。また、沖縄出身の主人公は、各地の言葉が交じり合った「方言」を使う。これらの「声」に、生の流動とその起点とを想った。
【北】

モンスター25号[主張]

今年も抵抗の声をあげるぞ! 2・11行動へ!

1月16日、「君が代」処分問題で最高裁が判決を出した。昨年も複数の訴訟に対する同時判決が言い渡されたが、今回も3件の同時判決言い渡しとなった。なんとも誠意のない話である。上告人は併せて171人。うち停職処分2人、減給処分が1人、あとの168人は戒告処分。減給1ヶ月の渡辺厚子さんと、停職1ヶ月の河原井純子さんは処分取り消し。そして停職3ヶ月の根津さんと戒告の168名に対しては上告を棄却。いわゆる「分断判決」だ。公表されている根津さんの言葉を少し紹介したい。

「積極的な妨害とはいえない不起立については救済の対象=減給以上の処分は違法、しかし、根津のように積極的に妨害、批判する者は許さない=停職処分は違法ではないとした判決でした。一方に救済する者を作り、そこを落としどころとして、しかも根津には止めを刺し、それを以って今後不起立をしようと思う教員に対する見せしめとする。裁判所はこうして、『君が代』裁判に幕を閉じようとしているように思う。終わった問題とすることで現場の教員たちの『君が代』強制に対する疑問や抵抗感を一掃し、闘いを潰す狙いがあったのではないか、と思います」。多くの人々の関心と注目をここで終わらせることなく、次につなげるための言論と行動の継続が求められていることをを痛感するのみ。ともに声をあげたい。

その2週間後の1月30日、土肥信雄元都立三鷹校長に対する敗訴判決が東京地裁で下された。学校運営を職員会議で決めるのは不適切との理由で職員会議での挙手や採決を禁じた都教委に対し、「民主主義的な議論を奪う」と校長会やメディアで繰り返し主張してきた土肥校長が、そのことを理由に退職前に受けた非常勤教員の採用に不合格となったというのが訴訟までの経緯らしい。詳細を知らないまでも、しかし判決のおかしさだけはよくわかる。都教委の通知に対し「挙手によって校長の決定権が拘束されていた一部の都立高校の状況を改善し、校長が権限を十分に行使できる環境を整えるためのもの」「教育への不当な支配にもあたらない」とし、そのような通知に異議申し立てする校長に対し「自分の考えに固執する姿勢からは職責を十分に果たせるとは考えられない」という理由で再雇用を拒む都教委の判断は不合理ではない、というのだ。

校長に絶大な権限を与えその校長を牛耳る、というこれまでの文科省や都教委の思惑をそのまま判決にしたような例だ。日本社会の歴史認識や価値観を育てる教育現場であるからこその締め付けなのだ。その下で闘いをいどむ教職員への連帯、民主主義を育ててはならぬという教育行政に介入しうる言論、どのような運動のあり方が可能なのか、引き続き問うていきたい。

自明のことだが、いまの日本社会を真っ黒にしているのはこの教育問題だけではない。すでに一年が経とうとする3・11で、潜在的にあった原発問題が抜き差しならないものとして大きく私たちの眼前にあり続けている。また、3・11以前からとり組まれていた諸課題の深刻さが、原発問題の大きさと緊急性によって、緩くなるはずもない。運動的にはかなり厳しい状態にありつづける。だが、これまで積み上げられてきたそれぞれの運動が、司法を動かし、行政の勢いをそぐ力としてあり続けていることも忘れてはなるまい。先の「君が代」処分の一部勝訴もその結果である。あきらめてはそこで終わりなのだ。

反天連はここ数年以上、戦後の国家再建に関わるところで学習会をつみあげてきた。そこで見えてきたことは、現在の原発問題・基地問題を筆頭に、米国と、戦前から力を蓄えてきた日本政財界の権力者たちが織りなす、妥協と相互依存と結託と密約などのもろもろである。そして、敗戦直後からの日本政府や右派・保守陣営の巻き返しのための執拗な活動の結果が現在の日本社会である。だが、どの局面においてもそれぞれに対抗言論、抵抗運動はあり続けたし、その結果の現在でもある。そして、この「未曾有」のこの局面においても、抵抗の人々は少なからずいるのだ。

私たちは例年どおり2・11反「紀元節」行動を実行委とともにとり組む(チラシ参照)。天皇制はかなりのピンチ状況にあるが、これまでもそうであったように粘り勝つつもりでいるらしい。私たちは「女性宮家」問題、政府主催による3・11式典等々、目前の課題に一つずつ取り組んでいくしかない。2・11を皮切りに今年も反天皇制の行動は街頭にも出て行く。多くの人々と問題意識を共有し、小異を捨てずに大同を模索する方向で頑張りたい。多くの方の参加を! ともに!
(桜井大子)

反天皇制運動 モンスター25号(通巻331号) 2012年2月7日発行

2012年2月7日発行

【扉】  (ぐずら)

【動物(あにまる)談義】"金正日Xデー"の巻
【状況批評】石油と国連常任理事国入りと「対テロ戦争」のための自衛隊スーダン派兵に反対しよう(池田五律)
 

【反天ジャーナル】・「そんなに多いわけじゃない」!?(ねこまた)
            ・ 生きてるうちが花なのか(北)
            ・「福島からあなたへ(微笑女)
 【太田昌国の夢は夜ひらく】23 「敵」なくして存在できない右派雑誌とはいえ・・・・・・(太田昌国)
【皇室情報の解読】 〈3・11〉災後一年の状況下で宣言された〈廃太子〉行動のゆくえ(天野恵一)
【声明】国家による死者の纂奪を許すな! 天皇出席の3・11「東日本大震災追悼式」に反対する
【書評】武藤一羊著『潜在的核保有と戦後国家』
     山本義隆著『福島の原発事故をめぐって』(栗原幸夫)
【ネットワーク】「原発? No, thank you!」ヨルダンの国会議員・弁護士は訴える報告(田浪亜央江) 【野次馬日誌】1月5日~2月1日
【集会の真相】・『首相官邸ど真ん前デモ』及び首相官邸申し入れ行動報告(北守/沖縄を踏みにじるな!緊急アクション実行委員会)
・自衛隊の南スーダン派兵を許すな(梶野/反安保実)
【反天日誌/集会情報/神田川】


●定期購読をお願いします!(送料共年間4000円)
●mail:hantenアットten-no.net(アットは@に変換してください)
●郵便振替00140-4-131988落合ボックス事務局

2012/02/01

【反天連声明】
国家による死者の簒奪を許すな!
天皇出席の3.11「東日本大震災追悼式」に
反対する


2012年2月1日
反天皇制運動連絡会

1月20日、政府は「東日本大震災1周年追悼式」を開催することを閣議決定し、内閣府に「追悼式準備室」を設置した。報道によれば、「追悼式」の会場は東京都の国立劇場で、1500名の規模。「地震発生時刻の午後2時46分に1分間の黙祷をささげる」「実行委員長を務める野田佳彦首相の式辞や、天皇陛下のお言葉、岩手、宮城、福島3県から招く遺族代表のあいさつなどを予定している」という。


1年前のこの日、筆舌に尽くしがたい惨事が東北を中心とする人びとを襲った。それまでの生活は一瞬にして破壊され、たくさんの命が失われた。それを目の当たりにした人びとにとって、また、そういった人びとに直接繋がる人びとにとって、この日が特別の意味をもつことは当然であり、失われた命に思いを寄せ、その死を悼むことはあたりまえの感情である。だが、国家が「追悼式」において果そうとしていることは、国家がそういった人びとの感情をすくい取り、さまざまな人の持つ多様な思いを、ある種の政治方向へと集約していくことにほかならない。だからこそ私たちは、国家による「追悼式」をけっして許すことはできない。


野田首相は、1月24日の施政方針演説で次のように述べている。「大震災の発災から1年を迎える、来る3月11日には、政府主催で追悼式を執り行います。犠牲者のみ霊に対する最大の供養は、被災地が一日も早く復興を果たすことに他なりません。……東日本各地の被災地の苦難の日々に寄り添いながら、全ての日本人が力を合わせて、『復興を通じた日本再生』という歴史の一ページを共に作り上げていこうではありませんか」。


「犠牲者のみ霊に対する最大の供養」が「復興」であるという。これは、例年、8月15日に天皇出席のもとで行なわれる「全国戦没者追悼式」における、国家による死者の「追悼」の論理とそっくりである。私たちは、毎年、「全国戦没者追悼式」への反対行動に取り組んでいるが、それは、戦争の死者を生み出した責任の主体に他ならぬ日本国家が、その死者を「戦後日本の繁栄」をもたらした存在として顕彰することによって意味づける儀式であるからだ。そこに決定的に欠落しているのは、その死をもたらした戦争に対する反省の意識である。国家がなすべきことは、戦争の死者を褒め称えることではない。被害者(戦場に駆り出された兵士たち、空襲や原爆投下などによるおびただしい死者、そして日本の植民地支配と侵略戦争によって生み出された他民族の被害当事者と遺族たち)にたいして責任を認めて、謝罪と補償(恩給などというものではなく!)を行うことである。


この8.15と同様の政治が、3.11においても起動されようとしている。そして8.15において隠蔽されるものが国家の戦争責任であるとすれば、3.11において隠蔽されるものは国家の「原発責任」とでも言うべきものである。


野田の演説において、地震・津波災害と原発事故災害とは、たんに並列されているだけである。地震・津波の被害をあれほどに拡大させてしまった責任は国にもあるはずだが、それ自体は「自然災害」ではあろう。しかし、それによって起こされた原発事故は100%の人災である。国家的なプロジェクトとして原発を推進し続けた国に、事故の根本的な責任があることは明白である。自然災害はおさまれば確かに暮らしは再建され「復興」に向かうはずだ。しかし、現在進行形の原発事故は、決して旧に復することのできない深い傷を、日々刻み続けている。原発政策をそのままにした「復興」などありえない。野田もこの演説で「元に戻すのではなく、新しい日本を作り出すという挑戦」が「今を生きる日本人の歴史的な使命」であるなどと述べている。だがそれは、「自然災害に強い持続可能な国づくり・地域づくりを実現するため、災害対策全般を見直し、抜本的に強化」することであり、「原発事故の原因を徹底的に究明し、その教訓を踏まえた新たな原子力安全行政を確立」することでしかない。こんなことは、従来の原発推進路線においてすら、タテマエとしては掲げられてきたことではないのか。


このふたつの災害を切り離して前者のみを語ることは、その責任を負っている国家にとっては、決して許されることではないはずだ。「追悼式」において、死者の死はもっぱら今後の「復興」にのみ結びつけて語られ、いまなお原発事故の被害を受け続けている人びとをも含めて、被災一般・苦難一般へと問題は解消され、それを乗り越えて「復興に向けて頑張ろう」というメッセージへと「国民的」な動員が果たされる。野田の演説にも見られる「全ての日本人」「日本再生」といった言葉は、多数の被災した在日外国人を排除するだけではない。被災者のおかれているさまざまな苦難の差異を消し去り、あやしげな「共同性」に囲い込み、挙国一致で頑張ろうと忍耐を求める国家の論理なのだ。


さらに、国家によって「追悼」されるのは、個々の固有の名を持つ死者ではありえない。儀礼的な空間の中で、具体的な個々の死者は、集合的に追悼されるべき単一の死者=「犠牲者」なるものに統合されてしまう。その抽象的な死者に対して、国家のタクトにしたがって、「国民的」行事として一斉黙祷がなされる。それはあくまで、儀式を主宰する国家の政治目的のための「追悼」なのだ。それはそのとき、さまざまな場所で、自らの思いにおいて個別の死者を悼んでいるだろうすべての人びとの行為をも、否応なく国家行事の側に呑み込み、その一部としてしまう。それが、国家による死者の簒奪でなくて何であろうか。


この儀式において、天皇の「おことば」は中心的な位置を占めるだろう。天皇は、昨年の震災直後にビデオメッセージを発し、また、被災地を慰問して回った。そこで天皇が果した役割は、被災者の苦難にたいして、その悲しみや怒りを、「慰撫」し「沈静化」させることであった。そのパフォーマンスは、マスコミなどで「ありがたく、おやさしい」ものとして宣伝され続けた。しかし、天皇とは憲法で規定された国家を象徴する機関である。そのような存在として天皇は、震災と原発事故が露出させた戦後日本国家の責任を隠蔽し、再び旧来の秩序へと回帰させていく役割を、精力的に担ったのだ。それこそが天皇の「任務」なのであり、3.11の「追悼式」において天皇が果すのも、そのような役割であるはずだ。


国家がなさねばならないことは別にある。震災と原発事故の被災者の生存権を守り、被害に対する補償や支援をし、さらには被害の一層の拡大を防止するためにあらゆる手立てが尽くされなければならない。そして、これまでの成長優先社会の価値観からの転換がなされなければならない。しかし、政府が行おうとしている方向性は逆だ。原発問題一つとっても、老朽原発の寿命の延長を可能にし、インチキな「ストレステスト」を強行して無理やり再稼働に進もうとしているではないか。それは、「復興」されようとしている社会が3.11以前と同じ社会であること、そこにおいて利益を享受していた者たちの社会であることを物語ってしまっている。この点で私たちは、国家による「追悼式」への抗議の声を、3.11というこの日においてこそ、反原発という課題に合流させていかなければならない。