2001年11月14日 「戦時性的強制被害者解決促進法案」の提出
2002年2月10日~14日 インドネシア「慰安婦」問題視察

日本政府は従軍慰安婦問題について、サンフランシスコ条約と二国間条約で解決済みであり、また元慰安婦に対してアジア女性基金において償い事業をしているので、日本政府から改めての補償は必要なしとの見解を出しています。
元「慰安婦」に対して必要なのは「個人単位での補償」「日本政府からの正式な謝罪」であると考え、法案を提出しました。
その法案を持って、インドネシア政府と、元慰安婦との懇談へ向かいました。
あるNGOの調査ではインドネシアには約2万人の性的被害者がいるとも云われています。インドネシアに対しては個人単位での補償金は支払われては居ません。高齢者施設の設立にアジア女性基金の「償い金」が使われているだけです。今までの日本政府は「日本政府もインドネシア政府も戦後賠償済みであり、両者とも解決済みと認識している」との見解を出していました。今回調査に行って分かった事は「インドネシア政府も元慰安婦も、個人単位での補償を望んでいる」ということでした。
アジア女性基金では「インドネシア政府が元慰安婦の認定をしないために、個人単位での補償金の供与が困難である」との見解を出していました。
しかしながら今回、インドネシア社会省との懇談会では「個人単位での補償金の支払いを要求する声があがっており、インドネシア政府としても個人単位での補償をしてもらいたい」という要請がありました。
「元慰安婦の詳細なデータを出す作業は、インドネシアの文化においては難しい」との社会省の見解に「元慰安婦を探し出すことは犯人探しではない。本人や家族の名誉のために、勇気をもって言い出した人に対してだけでも、補償金を支払うべきではないか?言い出した、その人の名誉のためにも必要ではないか?言い出せない人にはしなくてもよい。そうすれば少しはことはすすむのではないか?」との提案をしました。
これにインドネシア社会省は強い賛同を示しました。
アジア女性基金とインドネシア政府には「覚書」といわれるものが存在します。何度もアジア女性基金に対し「覚書」の提出を要請してきましたが、「インドネシア政府の了承を得られない」との回答で、一向に提出してくれなかった経緯があります。
今回社会省へ出向いたことで「覚書」を提出してもらいました。
インドネシア政府は「インドネシアは、民主的な国になった。隠す事は何も無く、『覚書』を結んだ当事の政府と現在の政府は違ったものである」という発言があり、いかに日本が民主的ではなく、いつまでたっても発展の無い国であることがわかりました。
さらに「日本がこの『覚書』の内容を変更したいと申し出れば、いつでも変更する。インドネシア政府は個人の名誉を大切にしたい」との見解も示しました。
しかしながらこの「覚書」の作成においてアジア女性基金はインドネシア政府が「名乗り出ることは文化に合わない」というのをあらかじめ知って、作成したのではないか?との印象ももちました。また、日本政府が申し出れば変更したい、というが、日本とインドネシア政府がどっちつかずで投げ合っているのではないか?とも思いました。
今回のインドネシア視察では、たくさんの情報を得ました。どの出会いも、個人補償が必要であり、政府の謝罪を望む、私たちの主張を支える出会いでした。

元兵補、元慰安婦との懇談

元慰安婦たちの話を、直接聞きました。
彼女たちは13歳~15歳で日本軍に強制的に連れ去られました。そして日本の女性の名前を付けられ、訳もわからないうちに、性的暴力を受けました。その当時、メンスのはじまっていない女性もいました。性的な道具として機能しなくなると、捨てられ、死んでいった女性たちが大勢いたそうです。その死んでいった友人たちの為にも、名乗り出たと云っていました。
「名乗り出る勇気はどこから出たのか?」との質問に対し、「名乗り出なかったらこの問題の上に正義は無いと思う。奪われた正義を回復したい。経験した苦しみや、自分より前に死んでいった友達の叫びを背負って、私たちは名乗り出た。名乗り出る事によって、『金はもらったのか?』と村の人から揶揄されることもあり、大変辛い」と元慰安婦は口をそろえて云いました。
また、アジア女性基金が建てた「高齢者施設」に入りたいか?との質問に対しては、「一度も誘われた事がない。たとえ誘われたとしても、自分の住む家があるので、施設には入りたくない」と云いました。
私は、「過去に縛られた法律よりも、今の人権を社会正義で守ることが必要である。個人の名誉のためにも、たくさんの人たちに名乗り出てきて欲しい。勇気をもって生きてきたことに感謝する。そして日本政府は個人補償をきちんとすべき」と、元慰安婦たちに伝えました。
この発言を聞いた元慰安婦、元兵補の人たちから、大拍手がおこりました。

アジア女性基金(AWF)建設の高齢者福祉施設「ブディ・ダルマ」視察
「高齢者施設」に入居している人たちは、日本に良い印象を持っている人たちです。戦時中、色んな形で慰安婦は集められました。「高齢者施設」に入居している人たちは誘拐や、ひどいことはされていないひとたちです。怒っている人たちは、こんなところに入らないはずです。
彼女たちは「日本の歌」を歌ってくれました。

コフィファ前女性問題担当大臣との会談
コフィファさんは「個人単位で補償をすべき」との主張を持った人です。私たちの提出した法案に大賛成してくれました。

アミン・ライス国民協議会議長への表敬
「日本の政権を握る自民党や、企業の人たちは経済の関係の事ばかり言う。経済関係を浴するには、過去にこだわらず、過去は終ったことにしている。過去を考えず未来を考えよう!!となってしまう。両者にとってより良い未来を作るには、本当は過去の過ちを謝罪して、未来を作っていくことだとおもう」という私の発言に対して、アミン・ライス国民協議会議長は「田嶋氏の意見に大賛成する。現在未来は過去のものと切り離せないと思っている。過去の問題をきちんとすべきである」と述べました。

ユスビル法務人権大臣との面談
ユスビル法務人権大臣は日本とインドネシアの経済関係を大切にする、いわば自民党のような若手議員です。
「日本とインドネシアとの政治的関係を優先的に考えるべきである。また元慰安婦問題は未解決だが、自分から国際裁判所に訴えるのは自由である。慰安婦問題は、日本側の問題である。政府としては二国間の経済的関係を大切にしていきたい」と発言したユスビル人権法務大臣に対し、「二国間の経済問題、政治問題を優先的に考える大臣には失望したが、慰安婦の問題を未解決だといったのには、希望が持てた。もっと日本がイニシアチブを持つべきであるというのも、賛成する。慰安婦の問題は日本国内の問題であるが、しかし慰安婦が訴えるのは勝手にしろというのは酷いと思う。法務大臣という立場上、賛成しかねるというのは理解できるが、難しいといって逃げないで欲しい」と食い込みました。
女性の問題ごときで、インドネシアと日本の経済の太いパイプを壊したくないという印象を受けました。

ヌルシャバニ国民協議会議長との夕食会
ヌルシャバニさんは、NGOの代表から国民協議会へ選出された方です。
ヌルシャバニさんは
① 被害者に対する謝罪
② 色んな形の慰安婦がいるので、その要求もさまざまであり、さまざまな形に対応できる補償をすべき
③ 慰安婦の社会的認知
が必要だと述べました。犠牲者に対して最も大切なことは、正しい情報を与える事も大切であると述べました。
また私たちが訪イする2週間前に社会省はNGO団体を集め、意見聴取を行ったそうです。社会省としては、個人補償に切り替わると、お金が入ってこない。実はネコババしているのではないか?との疑念を持っているそうです。


宮原エイジ氏(元日本軍兵士)との懇談

カリバタ英雄墓地

独立記念塔見学

大使館によるブリーフィング

ルハディ社会省次官、プジ総局長との会談

竹内在インドネシア大使主催夕飯会

2002年3月19日 内閣委員会で質疑
●インドネシアの元慰安婦の惨状
●人権の視点とジェンダーの視点をもった政府からの、公式な謝罪と個人への補償の必要性
●提出した法案の慎重な審議と参考人の聴取の必要性
●国会議員の意識の低さ、慰安婦への認識の甘さの指摘
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2002年7月15日 内閣委員会で質疑
●「慰安婦問題を解決することは、国際的に信頼を回復する手段である」
●「戦時性的強制被害者法案」審議への、担当大臣としての福田官房長官の出席を要求
●「ハンセン病問題を解決した、総理や官房長官の英断が、『慰安婦問題解決』にも必要である」
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2002年7月16日 内閣委員会で質疑
●福田官房長官、外務省田中均アジア太平州局長が、「慰安婦制度」に軍の関与があったことを認める
●「『男女共同参画社会基本法』の11重点目標のうちの7項目に『女性に対するあらゆる暴力の根絶』という項がある。現実の問題で、女性はさらわれて性奴隷にされている。ちょうど従軍慰安婦で軍が関与をして女性たちをさらって性奴隷にしたのと同じことが現在も行われている。例えば、昨年十二月の第二回児童の商業的性的搾取に反対する世界会議で出された国連の資料によれば、過去三十年間で性的搾取を目的にした人の密輸の被害に遭った女性と子供はアジアだけでも三千万人以上になる。現在でも、性奴隷の問題は終わっていない」
●「慰安婦問題を取り扱う部署を男女共同参画局に作ったらどうか?」と福田官房長官に対し提案。福田官房長官は、「実現にむけて検討すべき」と答弁
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2002年7月23日 内閣委員会で答弁
超党派(野党3党~民主、共産、社民)での共同提案の法案の審議は、内閣委員会で行われた。
過去、同様の法案を3回提出し、いままで審議もされぬまま、3回とも廃案となっている。今回内閣委員会において、私はオブザーバー理事だったので、理事会の場で、そして委員会の場で、法案審議の必要性と、法案を通す努力をしてきた。
慰安婦問題は、現在、AWFを管轄する外務省が担当窓口となっている。しかしながら慰安婦の実態やこれからの方針について、担当する部署が決まっていない。質問となると、いつも外務省と、内閣府でたらいまわしにされてしまっている。さらに内閣を統括すべき官房長官である福田官房長官も、審議への参加が積極的ではなく、責任を逃れているような、さらには触れたくない問題であるという姿勢が見受けられた。慰安婦問題の窓口を一本化し、問題解決の促進にあたるべきではないか?と提案した。
●「慰安婦問題は、女性の問題である。世界の人口の半分を占める問題である。切り離れて慰安婦問題が存在するのではなく、児童虐待も、日常生活の中の女性への暴力も、すべてにおいて一本の道、女性の人権という道につながる問題である」
●「慰安婦問題を解決することは、日本も国際社会で認められ、信頼される国となるファクターになる」
●法案成立に賛成を示すインドネシア社会省の紹介
●「女性の人権と尊厳を取り戻す男女共同参画社会を形成するためにも、過去の慰安婦問題の解決に、政府は政治的な決着をつける必要がある」
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2002年8月18日~20日 フィリピン「慰安婦」問題視察

「慰安婦」被害者との懇談会
被害者との懇談会は、3つの慰安婦の団体から、60人以上もの被害者とその支援者が集まった。3つの団体は、今まで同時に会することがなかったが、この時はじめて3つの団体から89人もが集まった。被害者たちは、日本政府の心からの謝罪がほしいと、主張している。
そこで私は、「日本人で戦争に加担した人たちは、あまりにも悪いことをしてしまったから、認められない状況にある。相手の人格を崩壊させることをしたということを認めると、自分の人格が崩壊してしまう。インドネシアの政府の高官も、みんなジャスティスよりも経済の発展を優先に考えている。政府は女性が置かれた状況をわかってくれていない。でも少しずつ変わり始めている。一歩一歩やっていくしかない」と話した。

バヤン・ムナの方々との食事会

ダビバス議員(下院)との懇談
ダビバス議員から、私たちの法案を支持する決議を検討する採択をされたことを報告された。その決議は関連委員会である女性委員会との調整で検討されるという。

ロザレス議員(下院)との懇談
女性委員会の委員でもあり、人権小委員会の委員長をやっているロザレス議員は、決議はされているのではなく、議案として付託されているとのこと。フィリピン政府に対して、マクドゥーガル報告を受けて、慰安婦問題を解決すべきだと詰め寄っている。下院には38人の女性議員がいるが、連携して活動していきたいと懇談した。私は、具体的スケジュールを作り、高齢になった被害者に対して、いち早く法案を成立させるための材料にしたいと話した。

ローレンレガルタ議員(上院)との懇談
ローレンレガルタ議員との懇談でも、女性の人権として慰安婦問題を捉えるべきだと意見が一致し、フィリピン上院でも、決議をあげるという約束をとる。

フィリピン外務省との懇談

フィリピン外務省は法案成立を支持しているということがわかったが、日本の自民党勢力の動向をうかがっているようにも見受けられた。
2002年9月26日 決算委員会で質疑
日朝平壌宣言を受け、経済援助のあり方について質疑
●「北朝鮮では『慰安婦』と名乗りをあげている人たちが218人いる。その被害者への個人補償をすべきである」
●「新しい経済援助のかたち、各個人にも行き渡るような援助を日本政府がイニシアチブをもってすべきである」
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2002年9月30日~10月2日 台湾「慰安婦」問題視察
 台湾は日本政府からの正式な賠償金に先立って、一人200万円ずつ被害者に対して配っている。これはどの被害国、たとえば韓国よりも先にはじめた。それに追従する形で韓国政府も被害者に対し、補償金を配っている。視察団が訪れたことで、早速立法府においては、10/8に「戦時性的被害者問題解決促進法案」の支持決議が採択され、王金平院長の署名待ちの状態である。
 10/15の台湾慰安婦の裁判において請求棄却された元「慰安婦」の原告らの帰台に合わせて、18日に発効・発表する。
 こういった、すばやく適切な対応を台湾政府、台湾立法府(国会)は行っている。それに対し私は「この問題を解決しなければ、日本はアジアにおいて生きていけない。女性の問題は、世界の半分の問題であり、女性が幸せになれない限り、平和とアジアの協調は絶対にありえない。慰安婦の被害者が人間扱いされなければ、女性が人間扱いされていないということになる。慰安婦問題は今まで女性の問題をないがしろにしてきたその結果である」と述べた。

行政院劉世芳秘書長(官房長官)との懇談

台湾外交部、外交部邱榮男次長との懇談
 台湾は民主主義の国であるから、国会の中できちんと立法されなければ、解決されないということである。だからAWFでは解決できない。外交部の邱榮男次長は、「外交部と代表部」は自民党に対しても、積極的に働きかけをしていると述べた。私の意見として「対応ができない日本政府と自民党は絶望的である。長い間たたかってきているが、埒があかない。靖国問題、教科書問題、何一つ埒があかない」と話すと、邱榮男次長は、台湾側として最大限の努力をしてゆきたいと語った。

台湾外交部との夕食会

台湾立法委員、法案支持者との記者会見

記者会見で私は、「法案を早く通せないと、アジアの若い人たちと信頼関係を築くことができない。これからは深い信頼関係を築いてもらいたい。被害者のみなさんたちが元気なうちにいち早く問題解決をしたい」と話した。

立法院副院長、江丙坤氏との懇談&立法委員との昼食会

故宮博物院見学

台湾婦援会との夕食会

台湾のNGO団体である婦援会は女性の支援を行っている。その中でも「慰安婦」のメンタルケアに携わり、心の傷を負った被害者のケアにあたっている。その結果、閉じこもっていた被害者たちが自分の経験を話し、訴えることができるようになったとのこと。その傷は「許すけれど、忘れない」と言う。またドキュメンタリー映画を台湾で見せている。若い人たち、特に女子高生からの反響が多いとのこと。

台湾慰安婦との懇談(婦援会林方白告理事長、朱役員)

2002年12月12日 内閣委員会で参考人質疑
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2003年1月31日 「戦時性的強制被害者解決促進法案」の再提出
 
2003年2月8日~2月10日 韓国「慰安婦」問題視察
▲西大門刑務所

西大門(ソデムン)刑務所見学
日本占領下のもとでの韓国人に対する拷問が行われている様子が再現されている。女性には性拷問がかけられていた。

独立記念館見学
姜大徳(カン)さんが迎えてくれる。(女性運動史専攻) 800人あまりの元「慰安婦」の名簿が記載された「上海韓国婦女共済会収容人員名簿」を入手する。独立記念館提供という形で公表するならばOKとのこと。(精査する必要ありなので、これからよく分析して発表することに決定)

<参考>
「慰安婦」800人分の名簿発見 南の独立記念館研究所
南朝鮮の韓国独立記念館韓国独立史研究所は2月25日、800余人の日本軍性奴隷被害者(「慰安婦」)の名前などが記録された「上海韓国婦女共済会収容人員名簿」を初公開した。東亜日報が2月26日付で報じた。同紙は「性奴隷被害者の証言は多数集められているが、実証する資料が発見されたのは初めて」と報じている。 

日本の植民地時代、中国各地に連行された朝鮮人「慰安婦」を収容、救済、帰国させるために1945年11月に結成された「上海韓国婦女共済会」が作成したもので86ページからなる。収容人員の名簿、共済会結成の趣旨、生活規則などが記されていた。
 資料で発見された名簿は831人分。そのうち807人が元「慰安婦」と見られる。名前と年齢、出身地が記載されており、年齢は20代が71%、30代が14%、10代が10%だった。元「慰安婦」たちは46年4月まで収容され、その後大多数が帰国したと見られる。また、45年11月から46年4月までの6カ月間に同共済会に収容された人は延べ6万6536人だった。
 同研究所の李東彦主任研究員は「日本帝国主義の侵略蛮行を研究するうえで貴重な資料になるだろう」と話す。研究所では名簿記載者の生死を確認しているという。 (東亜日報02/02/26)

ナヌムの家訪問
ナヌムの家は、ハルモニたちのシェルターである。最初、1992年にソウルに出来、95年にこの地にうつってきた。チョゲサ(仏宗派)の社会福祉が作って、ハルモニの生活をバックアップしている。韓国内の若い人たちの研修の場でもあり、日本から年間に1万人ぐらい来訪している。慰安婦問題を伝える場&ハルモニたちを支える場である。
ハルモニたちの話しを聞いた。

私が、「フィリピン、台湾では決議文を出してもらった。今回ノムヒョンさんには会えない。でも女性部の長官と、女性議員に会えそうなので、どんなかたちで協力してもらえるか分からないが期待している」「ノムヒョンさんは未来志向と言われている。未来志向なので過去のことをどうするのかとても心配である。でも過去なくして未来はない。抽象的に歴史認識といって、曲げていく。それに乗ってはいけない」と言うと、ハルモニは「私たちは寒かろうが、暑かろうが、休むことなく水曜デモをしている」と言った。

郭貴勳(カクキフン)さんと夕食
郭貴勳さんは「大阪地裁の裁判官は最初とても悪い人だと思った。こちら側の言い分をちっとも聞いてくれないので、この裁判はぜったいに負けると思った。でも120%勝訴した。そのときに友だちで書道が出来る人にたのんで、『寛仁大度』というかけじくを作ってもらった。日本一良い裁判官だと思って送ったが、受け取ってくれなかった。でも彼が弁護士になるときに事務所に飾ってもらおうと思っている」と語った。

<参考>
12月5日大阪高裁(根本眞裁判長)は、広島で被爆した郭貴勲(カク・キフン)さん(78)が、離日すると被爆者援護法に基づく健康管理管理手当てが打ち切られるのは違法として国と大阪府を訴え、昨年6月に大阪地裁で勝訴し、国と大阪府が控訴した訴訟の判決で、「国外に出ることで法の適用対象から外れ、被爆者の地位を失うとする国の解釈は認められない。『被爆者はどこにいても被爆者』という事実を直視せざるを得ない」として、一審の大阪地裁判決を支持し、国と大阪府の控訴を棄却した。判決は、被爆者援護法の性格や立法意思、法構造などについても厳密に検討し、「同法は、社会保障と国家補償双方の性格を併有する特殊な立法で、国籍・資力を問わず一律に援護を講じる人道的目的の立法であり、非居住者への適用を排除するとの解釈は困難」と述べ、在外被爆者への健康管理手当打ち切りを不当とした。なお、国家賠償請求は退けられた。敗訴を覚悟していたという原告の郭さんは、笑顔で会見し、「1審の時は『痛快の至り』と言ったが、今回は『爽快の至り』。日本の司法は生きていた」と判決を歓迎・評価し、国に上告をしないよう求めた。  

李美卿(イ・ミギョン)議員と懇談

国会女性問題委員会所属議員と昼食会

韓明淑(ハン・ミョンスク)女性部長官と懇談
▲女性省 表玄関

金元雄(キム・ウォンウン)議員との懇談

趙培淑(チョ・ベスク)民主党議員との懇談

挺対協との夕食会

2003年2月14日 韓国「慰安婦」視察 報告記者会見   in 参議院記者クラブ
出席者:田嶋陽子(無所属)、岡崎トミ子(民主)、吉川春子(共産)、大脇雅子(社民)
記者:NHK、時事通信、読売新聞、産経新聞

(田嶋陽子)8日、9日と歩いてきた。まず西大門刑務所へ行ってきた。日本の占領下における性拷問の悲惨な資料があった。でてきてから12,3才の女の子にインタビューした。印象を聞いたところ「悲惨だった」。「どうしてこんなことになったと思う?」と聞いたら「日本がやったことだ」。「どうしたらいいと思う?」と尋ねると「南北の統一が一番大切だ」と言っていた。台湾でもそうだったが、「日本は許す。でも忘れない」ということを言っていた。この韓国でもその決心が子どもたちの中にも通っている印象を受けた。
 独立記念館での収穫は、去年の2月に東亜日報で知らされたことだが、独立記念館で807人の「慰安婦」の名簿が見つかった。今回、それを入手できた。独立記念館の資料ということで発表するのであればかまわないという言質を取ってきた。精査したうえで発表したいと思う。まだ日本では「従軍慰安婦はなかった」などということを言っている人がいるが、大変役にたつ資料になる。 

 一環して女性省の韓明淑さん、李美卿さんに言ったことは、小泉さんとノムヒョンさんとの会談の時に、ノムヒョンさんから戦後補償、特に慰安婦問題について口に出して言って欲しいとお願いした。二人とも自分たちからノムヒョンさんに対し、きちんと伝えるということを言ってくれた。一言口に出すことによって、この問題が、存在しているということがアピールできる。日本での「従軍慰安婦はなかった」という論調に対しても大変役に立つことだと思う。
 台湾でも、フィリピンでも私たちが訪れると、決議文を出してくれた。韓国の議員たちは用心深くて、これは内政干渉になるのではないかと心配していた。だが、出来ることは相談してやってくれるということを約束してくれた。戦後補償のことは男性のことも女性のことも日本においては上手くいっていませんが、特に女性のこととなると経済のあとまわしにされてきた。今回そういうことの無いようにと、会う方々にお願いしてきた。
2003年3月25日 内閣委員会で質疑
先日の韓国視察で私たちが手に入れた、 800人あまりの元「慰安婦」の名簿が記載された「上海韓国婦女共済会収容人員名簿」を、外務省は外交ルートを使っても入手することができなかった。
→質疑録へ
2003年3月26日 内閣委員会で質疑
→質疑録へ
「慰安婦」問題について、国会議員になる以前から活動していたこと
<法政大学の公開講座「フェミニズム論」で慰安婦問題について毎年講義(1993年度~2001年度)>
~専門家を招いて講義をひらいたもの~
○1994年1月12日 朴和美さん「性の二重規範から軍隊慰安婦問題を読み解く」
○2000年11月8日 梁澄子さん「従軍慰安婦問題に関して」

<その他>

○2001年5月20日 元「慰安婦」の宋神道さんに会う

○1995年~2002年 「千鳥ヶ淵へ行きましたか」公演に出演。「慰安婦」の詩を詠む

○1995年9月4日 北京の国連世界女性会議で「戦時下における女性への暴力 国際シンポジウム」(NGO主催)に参加。慰安婦の人たちの「証言」を聞く。その内容は、1995年10月24日から4週にわたって『デイリースポーツ』に掲載。自著「だから女は『男』をあてにしない」(2001年4月発刊)に全文掲載。

○1996年4月23日  慰安婦問題を大阪にて講演。

○1996年12月 「『慰安婦』問題の立法解決を求める会」の呼びかけ人になる。

○1996年12月 「『新しい歴史教科書をつくる会』に抗議する女たちの緊急アピール」の呼びかけ人となる。

○1996年12月18日 「『新しい歴史教科書をつくる会』に抗議する女たちの緊急アピール」の緊急記者会見(衆議院第2会館第3会議室)

○1997年9月2日 「戦後処理の立法を求める法律家・有識者の会」の呼びかけ人となる。

○1997年10月7日 「戦後処理の立法を求める法律家・有識者の会」発足記者会見。(司法記者クラブにて)