原爆症:原告武田さん「つらいこともあり、胸に迫る判決」
毎日新聞 2014年03月21日 04時00分
国が導入したばかりの新基準を司法が断罪した−−。新基準に照らしても原爆症でないとされた被爆者4人全員を大阪地裁が原爆症と認めた。「原爆症認定を巡る集団訴訟で国はこれで30敗目。国は控訴せず、被爆者の積極救済を」。原告や各地の被爆者は判決を評価し、国に抜本的な審査の見直しを求めた。
「おめでとうございます」
大阪地裁の法廷。判決言い渡し後、傍らの弁護士から勝訴を知らされると、原告の武田武俊さん(82)=大阪府阪南市=は弁護士と握手し「ありがとうございます」とお辞儀をした。記者会見では「つらいこともあり、胸に迫るものがあった。勝ててよかった」と笑顔を見せた。
長崎市沖の島で生まれた。原爆が投下されたのは14歳の時。学徒動員され、爆心地から30キロ余りの海軍工廠(こうしょう)にいた。長崎の空が赤く染まっていたのを今でも覚えている。
爆心地に立ち寄ったのは、敗戦後に家に向かう途中だった。焼け野原の中、見るに見かねてがれきの片付けを手伝い、数日間過ごした。実家に戻ると下痢が続き、髪が抜け落ちた。父から「原爆のことは絶対に話すな」と口止めされ、周囲にひた隠しにした。やがて結婚した妻にも秘密にし、1男1女をもうけた。十数年後に事実を打ち明けると、「なぜ隠していたの」と責められ、その後、離婚した。
大阪に移り住んでからは建設現場で働き、再婚もした。「もし原爆がなかったら、どんな人生だったのか」と思う。2007年に肝がんと診断され、肝臓の一部を摘出した。原爆症の認定を申請したが却下され、10年に提訴した。法廷では「他の被爆者が二度と裁判で争うことがないような判決を出してほしい」と訴えた。
6歳の時に被爆した原告の中村繁幸さん(75)=堺市=も原爆症と認められた。爆心地から約4キロの地点で遊んでいて被爆したが、国は認めようとしなかった。会見では「たくさんの病気をしたが、何とかここまでこられた。これからは他の被爆者の応援をしたい」と話した。
弁護団幹事長の尾藤広喜弁護士(京都弁護士会)は「新基準で認定されなかった被爆者が救済され、新基準が妥当性を持たないことを証明した」と判決を評価。国には「機械的に基準を当てはめるだけのずさんな審査は許されない。個別の被爆状況に応じて、丁寧に審査すべきだ」と注文を付けた。【内田幸一、服部陽】