小林多喜二に関する考察(20091023)

附記

ver 1.0  2009/10/23
ver 2.0  2010/03/22
ver 3.0  2012/07/07
ver 3.1  2012/10/09
ver 3.2  2012/12/01
小林信義



鳥潟恒吉のこと

鳥潟恒吉は「鳥潟市郎右衛門の息子」で,右一の父(鳥潟平治)とは兄弟である.恒吉は叔父の鳥潟市太郎・政子夫婦の養子となって育てられたらしい.秋田県北秋田郡花岡村の出身,東京帝大医学部の第2期生である.明治13年(1880年)に25歳という若さで大分県立病院の初代院長,および付設の医学校の初代校長となった.外科医だったらしい.

大分県立病院は明治22年(1889年)に一時閉鎖されるが,恒吉はこの施設を大分病院として医業を続けた.明治31年(1898年)には別府に朝見病院を建てた.現在は精神神経科の病院になっている.大正3年(1914年)に鳥潟保養院を建てた.その直後の大正3年(1914年)10月19日に60歳で亡くなった.大分県立病院は明治32年(1899年)に再開されて現
在に至っている.


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小林重右衛門のこと

小林重右衛門家は,北秋田郡の旧家であり大きな地主だった.この一族には下川沿村の村長を務めた人物が何人もいて,北秋田郡の開発に大きく貢献した.6代目重右衛門は天保の飢饉の際には施米をして貧民を救済し,名字帯刀を許された<53>.

古来より稲作は日本の文化に大きな影響を与えるほど生活に密着していた.水田を作るには,雨水だけでは足りる訳もなく,どこかから水を引いてくる必要がある.下川沿村には米代川が流れているので,水には困らないように思える.現代なら,ポンプで汲み上げることも可能かもしれない.しかしながら,この時代,勾配に逆らって水を得るのは困難であり,灌漑用水は川の上流から引いてくることが必要だった.単に「長い溝」を掘ればいいというものでもない.漏れない水床を造らないと,水は下流まで届かない.また勾配を計算するためには高度の測量技術が要求される.「梅干しと日本刀 -日本人の知恵と独創の歴史-」<30>によると,古来から日本の測量および土木技術には素晴らしいものがあった.

「米代川 その治水・利水の歴史」<29>には,「嘉右衛門堰」のことが書かれている.「堰」とは「せき」または「〜ぜき」と読む場合は「川の水をせき止める構造物」を意味する.一方「せぎ」と読む場合は「用水路」を意味するらしい.せき止めるだけなら「治水」だろうし,それを何かに利用する場合は「利水」ということになる.[せぎ]=[せき]+[用水路]というところだろう.従って嘉右衛門堰は<せぎ>である.これは,米代川に注ぎ込む岩瀬川の上流から用水路を引いたものである.文化年間(1804年〜1818年)に石井嘉右衛門によって作られ,6キロメートルもの長さがあったらしい.

その後の嘉永5年(1852年)頃から,嘉右衛門堰の水取口よりも約2キロメートル上流から「重右衛門堰」が作られた.これは<53>によると7代目小林重右衛門が開削した.この時期は「小林多喜二に関する考察(20091023) 本文」で仮定した「多喜二の祖父(多吉郎)が宿業を始めた頃」に相当する.手元には部分コピーしかなく出典は調査中だが,米代川の歴史について書かれた書籍に重右衛門堰の詳細な記載がある.これは7代目以降の小林重右衛門家が苦労して3世代,40年以上かかって作りあげたものである.下川沿村の事業だった時期もあるようだが,水害やら飢饉やらで予算がなくなり中断されると,小林重右衛門が私財を投じて完成させた.下川沿村に至るには,途中で山田川と交差しなければならない.この難題はサイフォン原理の掛樋でクリアした.9代目重右衛門(小林礼之助)が川口まで伸延し完成に至った.

この重右衛門堰が完成に至るまでには,村の有志が協力しており,その中には小林多治右衛門もいた.皆が協力して水を引き,田畑を作った.重右衛門堰により,蛭沢・山田・川口あわせて約70町の水田が開拓された.

1996年(平成8年)に開館した大館郷土博物館の先人顕彰のコーナーには「小林多喜二」の他に「小林重右衛門」や「石井嘉右衛門」らが展示されている(平成9年広報おおだて No.688より).

1町=3000坪(歩)≒1ヘクタールに相当する.70町という広さは約21万坪であり,約70万平方メートルでもある.阪神甲子園球場グランドの面積は約1.3ヘクタールなので,約54個分の広さという事になる.

その後,昭和54年には,並走する2つの嘉右衛門堰と重右衛門堰は合流して現在の山瀬大堰となった<53>.この山瀬大堰が灌漑する面積は206ヘクタール(約206町)である.

小林重右衛門や小林多治右衛門が大きな地主になっていったのは,そのような歴史があってのことと思われる.前述のように重右衛門家のみでなく,多治右衛門家からも下川沿村の村長が輩出されている.

赤丸:下川沿村  青丸:姉帯城

現在の岩手県北部,上図で青丸の周辺は姉帯兼興(姉帯大学兼興)によって治められていた.姉帯城が居城である.兼興の弟に姉帯兼信(姉帯五郎兼信)がいる.この2人は,秀吉の全国統一にあたって実質的に最後の戦いとなった「九戸政実の乱」で討死した.姉帯城は奥州街道沿いにあり,下川沿村(赤丸)は羽州街道沿いにあった.

「松峯山伝寿院は語る」<24>によると,小林重右衛門家は姉帯一族の流れをくんでいる可能性がある.もしそうであれば「九戸政実の乱」の後に残された,ごく一部の姉帯関係者は,その後の生活拠点を西方に約70キロメートルほど移したことになる.そこで,その土地の人々と協力し合って用水路を作り土地を開拓していった.多治右衛門家は重右衛門家の別家である.そして小林多喜二は,その末裔である.

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奥州街道 と 羽州街道

図は下記のホームページのものを利用させていただいた.奥州街道と羽州街道の事が分り易い.姉帯城(青丸)と下川沿村(赤丸)を加えた.

http://www.thr.mlit.go.jp/fukushima/kaidou/index.html


奥州街道は五街道(東海道,中山道,甲州街道,日光街道,奥州街道)のひとつであり,正式には奥州道中と言うそうだ.日本橋から宇都宮までは日光街道と重複するが,それに続いて白川までのこと.広義には,それより北の陸奥を縦断して三厩までを言う(筥館まで含む事もある).白川から仙台までは仙台道,仙台から筥館までは松前道とも言われる.江戸時代の参勤交代の時には,弘前藩と黒石藩(津軽家)を除く陸奥の諸藩(松前藩も?)が利用した.このうち,盛岡藩と八戸藩と七戸藩は南部家である.

羽州街道は,奥州街道を北上する時,桑折で西に分かれ,金山峠を越えて出羽を縦断して油川に至る脇往還である.参勤交代の時には,米沢藩(上杉家)を除く出羽の諸藩および陸奥の弘前藩と黒石藩(津軽家)が利用した.

現在の秋田県に含まれる羽州街道の宿としては,北から順に (白沢) - (釈迦内) - (大館) - (川口) - (綴子) - (小繋) - (荷上場) - (飛根) - (鶴形) - (檜山) - (豊岡/森岡) - (鹿渡) - (一日宿/大川) - (下虻川/大久保) - (土崎湊) - (久保田) - (豊島/和田) - (境) - (上淀川) - (刈和野) - (北楢岡/神宮寺) - (花館/大曲) - (六郷) - (金沢) - (横手) - (岩崎) - (湯沢) - (横堀) - (下院内) があった.

多喜二の父(末松)の出身地の川口や,母(セキ)の出身地の釈迦内はいずれも羽州街道の宿場であった.どちらの街道も,旅や物流に重要な役割を果たしていた.松尾芭蕉が旅をした「 奥の細道(原題:おくのほそ道) 」は,羽州街道である.山寺へは天童か
ら東に入る.


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郵便制度のこと

慶応4年(1868年) 4月21日(この年に明治元年となる)に「駅逓司」が設置された.これは,交通・通信業務を行う部署である.8月に駅逓寮に昇格,明治10年(1877年)に駅逓局と改称され,明治18年(1885年)に逓信省となった.

日本の郵便制度は明治4年(1871年) 3月1日(旧暦)に東京-大阪間で始まった.翌年の明治5年(1872年)に郵便網は全国に広げられた.この郵便制度は,駅逓司だった前島密や杉浦譲が唱えたものである.英国が1840年に開始した制度が元になっている.これは,全国均一料金制度およびポスト投函制度より成っていた.

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慶義は野心家か?

手塚英孝「小林多喜二」<4>によると,慶義は「たえず一攫千金を夢みながら儲け仕事に奔走して,家業には身を入れなかった」とある.<51>による訴訟の過程を読むと,原告としての慶義は被告(忠国社)に翻弄され続けている姿が浮かんでくる.その結果,家業には身を入れる余裕もなく,裁判に奔走していたのは事実だろう.しかしながら「たえず一攫千金を夢みていた」という点は,何か今ひとつ腑に落ちない.

小樽で成功したパン屋のきっかけは,長男(幸蔵)が1901年(明治34年)にパン屋の徒弟になった事だった.翌年(1902年)から任された店で頑張って軌道に乗せた.1893年(明治26年)頃に小樽に渡った慶義は,それまでの8年間は地道に日雇い労働をしていたのではないだろうか.1909年(明治42年)に苫小牧に拠点を移した理由も,王子製紙工場が出来るからだった.苫小牧の発展を予想してのことである.これらのことから推測されるのは,慶義は無理なことをゴリ押しするタイプではなく,チャンスがあればそちらを選択する,一度決めたらトコトン頑張る・・・という姿である.

<51>によると慶義が申し立てた民事裁判の事件名は「地所売買地券書換願請求の詞訟」というものであり,事件番号は「一八八七年第二五号および第三三号」である.1887年(明治20年)のことだった.被告は鷹巣忠国社.この忠国社は,本社の他に亀田・本庄・扇田・鷹巣・能代・神宮寺に支社があったようだ.忠国社は不動産兼貸金業者だったらしい.

慶義の訴訟関係を克明に調べた尾西氏<51>によると,1885年(明治18年)から 1890年(明治23年)にかけての5年間だけでも,秋田地方裁判所管内で忠国社に関わる裁判が 59件あったと言う.忠国社が原告となったもの 49件で,このうち 47件が「貸金催促の詞訟」,2件が「公費落札金引戻および損害要求の詞訟」である.これらの結果は勝訴47件,敗訴2件.一方,忠国社が被告になったものは 10件で,勝訴4件,敗訴6件.このように,この5年間で 単純計算でも毎月1件の訴訟に関わっている.まるで訴訟のプロである.

この事実をみると忠国社の胡散臭さが目立つ.訴訟の詳細は<51>に記されているので触れないが,1886年(明治19年)11月15日に土地を買い取り(入札→落札)したことが発端だった.一部,先に自分(慶義)が譲った土地を買い戻したかったようだが,それなりに土地を持っていたはずなのに,なぜそれ以上の土地が欲しかったのだろうか? その時期,大規模農業でもないだろう.

<51>によると,慶義が400円で落札した土地は,田が6町3反8畝27歩,畑が1町3反8歩,山林が1反2畝8歩だった.合計すると,7町7反10畝43歩となるが,桁上がりするので 7町8反1畝13歩となる.

歩(ぶ)は坪(つぼ)に等しい.すべて坪数に換算して単純に合計すると 23,443 坪(歩)である.現在の単位で考えると 77,498平方メートルである.これは1辺が約278メートルの正方形の面積に相当する.

この土地を手に入れる前,約1町の土地を忠国社に売却しているらしい.何らかの理由により,この部分を含む土地を買い戻しているのである.

ひょっとすると,まず慶義が自分の土地を「40円で」忠国社に売ったかもしれない.落札金400円とは,当時として膨大な金額である.<51>によると慶義は「内金40円」を払っており,残りの360円を忠国社から借りている.

ウィキペディアを参考にすると土地の広さの換算は以下のごとく.

1 町(ちょう) =  10 反(たん)
1 町(ちょう) = 100 畝(せ)
1 町(ちょう) = 3000 歩(ぶ)・坪

1 町 = 10 反 = 3000 歩(坪)
1 反 = 10 畝 = 300 歩(坪)
1 畝 = 30 歩(坪)

1 町 ≒ 1 ヘクタール = 100 アール
1 畝 ≒ 1 アール
1 歩(坪) ≒ 3.3 平方メートル(3.305785平方メートル)

耕地・林野の面積 → 歩(ぶ)
家屋・敷地の面積 → 坪(つぼ)

奥羽本線(青森〜福島)は明治27年(1894年)に着工されることになった.区間ごとに開業時期が異なり,例えば,下川沿村を挟む「大館-鷹巣間」は明治34年(1901年)に開通した.

明治27年(1894年)に着工する鉄道工事の計画が公式に発表されるのは,いつ頃だろうか? 国側は民間部分の土地を買収する必要があり,線路のできる場所が大問題となる.それまで何も作物が出来ないような荒れた土地でも,途端に貴重な存在になる.このような情報は公式発表の前に,いろいろな筋から漏れてくるだろう.情報の中枢に近いほど,より確実な利益を得る事ができる.

しかしながら利潤追求の業者にとっては「情報の正確さ」は,それほど重要ではない.「路線計画に含まれている重要な土地であること」を,可能性だけでもチラつかせれば良い.購入希望者には資金がなくても,忠国社は(土地だけでなく)資金まで用意してくれたのだろう.明治20年前後は,局地的な土地のプチ・バブル状態だったのではないだろうか?

途中で忠国社の胡散臭さに気が付けば良いものの,1886年(明治19年)11月15日に土地を落札した後,慶義は12月になって,落札代金400円の他に「永小作権」を100円で上乗せする交渉にも応じている.これが本当ならば,鉄道用地のための「土地ころがし」の意図はない事になるが,このまま仮説を続ける.

23,443 坪(歩)の土地を落札してからの慶義は,忠国社に翻弄される.やむなく1887年(明治20年)になって秋田始審裁判所に訴訟を起こす事になる.先に記したように忠国社は訴訟のプロのようなものだ.結局,慶義は正当性を認めてもらえず 秋田始審裁判所では全面敗訴.土地は手に入らず,代金を支払わねばならず,双方の訴訟にかかった費用も払わねばならなかった.

とうてい納得できない慶義は宮城(仙台)控訴院に控訴.ここでも埒が明かなかったらしく,東京の大審院まで縺れ込む.最初に秋田始審裁判所で判決が出たのは 1887年(明治20年) 5月31日だが,それからわずか2年後の1889年(明治22年) 1月20日の時点で,鷹巣忠国社は倒産しているらしい.また,その翌年1890年(明治23年) 10月25日の時点で,忠国社の本社までが倒産しているらしい.

1889年(明治22年)以降の忠国社は,自転車操業で本当にやって行けなくなったものか,あるいは計画倒産・偽装倒産があるかも知れない.結局,訴える対象自体が消滅してしまった訳であり,宮城(仙台)の控訴院や東京の大審院では,訴え自体が却下された可能性もある.<4>によると 1893年(明治26年)に慶義は訴訟の継続を断念し,それまでの事を全て清算.残った土地と家屋を弟の末松に託し,小樽に渡ったらしい.

末松とセキ(多喜二の両親)が結婚したのは1886年(明治19年)12月17日であり,慶義が忠国社から土地を購入(11月15日)した直後である.その土地が「末松とセキの結婚祝い」と言うには借金の額が大きすぎる.しかしながら,それを機会として慶義が何かしようと考えた可能性はある.前述の「永小作権の取得」は,弟(末松)のためだったかもしれない.

おそらく慶義は秋田始審裁判所で敗訴になった 1887年(明治20年) 5月31日以降,どこかの時期から仙台や東京で暮らすことになり,その後そのまま小樽に渡った.セキ(多喜二の母)は 1886年(明治19年)12月17日に小林家に嫁いだ後,慶義が家業に身を入れる暇も無く,裁判に東奔西走する姿しか見ていないと思われる.そして手塚英孝に会った時も,そのように説明しただろう.

慶義は身内にとっては怖い存在だったようだ.多喜二には学費を支援しているとは言え,有無を言わさず絵画の趣味を全否定している.一方,昭和に入ってから 2度目の負債を抱えた様子もあり,お人好しというか脇の甘い所があったかも知れない.苫小牧
の太郎・慶義の家には,秋田県人会事務所の看板がある.慶義を頼りにして集まってくる人も多かった.

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安倍校長のこと

文久元年04月15日 安倍弥吉誕生
明治12年08月 秋田師範学校に入学(19歳)
明治14年07月19日 秋田師範学校(小学師範学科)を卒業
明治14年09月01日 坊沢小学校訓導
明治15年08月04日 木戸石小学校訓導
明治20年04月12日 川口小学校訓導
明治25年08月05日 日景小学校訓導
明治25年10月12日 日景小学校校長
明治28年02月05日 沢口小学校訓導
明治28年08月27日 沢口小学校校長
明治29年04月21日 川口小学校訓導
明治29年07月27日 川口尋常小学校校長
明治31年03月31日 川口尋常高等小学校校長
明治36年08月31日 川口農業補習学校校長(兼任)
明治39年12月12日 東京の病院で死去


その人柄や業績については,昭和55年に作られた「旧下川沿村 郷土読本」<48>に詳しい.この<48> には小林多喜二の事も書かれているので,全文リンク先に示す.

「故安倍弥吉先生祭文録集」<49>には,建立された頌徳碑(写真)の碑文が記されているので,あわせて示す.


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北海道拓殖銀行のこと

1899年 明治32年 2月 第13回帝国議会で北海道拓殖銀行法成立
1900年 明治33年 4月 北海道拓殖銀行が開業
1905年 明治38年 3月 東京事務所設置
    4月 東京事務所が支店となる
    11月 第1回拓殖債権を発行
1909年 明治42年 5月 本店を大通西3丁目に新築,移転
1911年 明治44年 3月 営業区域に樺太を加える
1916年 大正05年 3月 一般他銀行の代理業務,信託業務の営業認可
1924年 大正13年 4月 小林多喜二が就職
1927年 昭和02年 2月 糸屋銀行を買収
1929年 昭和04年 11月 小林多喜二が解雇される (形式上は依願退職か)
1934年 昭和09年 12月 預金1億円を達成
1939年 昭和14年 12月 北門銀行を合併,同時に北海道金庫事務を継承
1941年 昭和16年 11月 樺太銀行を買収
1942年 昭和17年 3月 大阪支店設置
1944年 昭和19年 9月 旧北海道銀行を合併
1945年 昭和20年 5月 北海貯蓄銀行を合併
1946年 昭和21年 3月 樺太11店,ソ連に接収され閉鎖
1948年 昭和23年 8月 預金100億円を達成
1949年 昭和24年   東京証券取引所に上場
1950年 昭和25年 1月 条件付き外国為替銀行の指定
    4月 北海道拓殖銀行法廃止,普通銀行に転換
1951年 昭和26年 2月 名古屋支店設置
1952年 昭和27年 11月 北海道拓殖債券発行打ち切り
    12月 神戸支店設置
1953年 昭和28年 9月 米ドルの保有を許可される
1955年 昭和30年 11月 都市銀行になる.北海道拓殖債権の償還を完了
1956年 昭和31年 12月 預金1000億円を達成
1961年 昭和36年 5月 預金2000億円を達成
    6月 新本店が完成
1967年 昭和42年 9月 預金5000億円を達成
1969年 昭和44年 3月 普通預金オンライン始動
1970年 昭和45年 6月 ニューヨーク駐在員事務所を開設
1971年 昭和46年   預金1兆円を達成
1972年 昭和47年   総合オンライン開始
1975年 昭和50年   預金2兆円を達成.全店総合オンライン完了
1976年 昭和51年   仙台支店を設置,東北地区に進出
1979年 昭和54年   預金3兆円を達成
1984年 昭和59年 12月 カナダのバンク・オブ・アルバータに資本参加
1991年 平成03年   第1次中期計画(2年)スタート
1993年 平成05年   第2次中期計画(3年)スタート
1996年 平成08年   第3次中期計画(4年)スタート
1997年 平成09年 4月 北海道銀行との合併を合意.海外営業拠点からの撤収を発表
    10月 北海道銀行との合併合意を白紙撤回
    11月 経営破綻
1998年 平成10年 11月 営業譲渡


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庁立小樽水産学校 と 庁立小樽商業学校

庁立小樽水産学校は,現在の北海道小樽水産高等学校の前身である.ここのホームページに,水産学校の沿革が記載されている.

http://www.otarusuisan.hokkaido-c.ed.jp/

これによると,まず明治38年(1905年) 4月に北海道庁立水産学校が創立された.修業年限は4年で,札幌にあったらしい.明治40年(1907年) 1月16日に北海道庁立小樽水産学校が創立された.同年 2月1日に,小樽の若竹町に校舎が落成された.札幌の「北海道庁立水産学校」が改名・移転されたという事だろう.この年(明治40年:1907年)の12月に多喜二の一家は秋田から小樽に渡ってきた.その翌年(明治41年:1908年)から多喜二らは,すぐ近くに住む事になった.昭和8年の北海道庁立小樽水産学校 校友会誌 「若竹」 第20号<36>の巻末には,校友会の会員一覧が載っている(第25期生の途中から欠落).この一覧の中で,明治38年の入学者が第1期生と考えて良いだろう.

この校友会誌には「第25回卒業生」という写真が載ってある.この中で学生服を着ているのは29人いる.昭和8年の校友会誌に写真が載っている「第25回卒業生」とは,昭和4年に入学した生徒(第25期生)だろう.昭和4年の会員31名というのは,写真に写っているのが29名なので,卒業までに2名が脱落したとして,入学時の人数と考えられる.学年あたり 20〜30人位の規模の学校だったと思われる.

<会員一覧>
第 1期 (1905:明治38年): 21名 (北海道庁立水産学校として,札幌)
第 2期 (1906:明治39年): 29名
第 3期 (1907:明治40年): 26名 (ここから北海道庁立小樽水産学校)
第 4期 (1908:明治41年): 23名
第 5期 (1909:明治42年): 17名
第 6期 (1910:明治43年): 16名
第 7期 (1911:明治44年): 11名
第 8期 (1912:明治45年): 11名 (7月30日から 大正元年)
第 9期 (1913:大正 2年): 9名
第10期 (1914:大正 3年): 15名
第11期 (1915:大正 4年): 16名 (この中に小林太郎の名がある)
第12期 (1916:大正 5年): 11名
第13期 (1917:大正 6年): 13名
第14期 (1918:大正 7年): 22名
第15期 (1919:大正 8年): 9名
第16期 (1920:大正 9年): 21名
第17期 (1921:大正10年): 17名
第18期 (1922:大正11年): 16名
第19期 (1923:大正12年): 19名
第20期 (1924:大正13年): 15名 (この年から修業年限は5年となった)
第21期 (1925:大正14年): 13名
第22期 (1926:大正15年): 26名 (12月25日から 昭和元年)
第23期 (1927:昭和 2年): 27名
第24期 (1928:昭和 3年): 36名
第25期 (1929:昭和 4年): 31名

会員一覧を見ると明治42年頃から会員数が減少し,明治44年からは,さらに減少している.庁立小樽水産学校では全校生徒が減少したため,大正4年頃に廃校問題になったことがあった.例えば,第1期(明治38年)から第4期(明治41年)までの4年間の入学者単純合計が99名なのに対し,第7期(明治44年)から第10期(大正3年)までの4年間の入学者単純合計は46名と半減している.

太郎は大正2年に小学校(6年間)を卒業しているはずなので,このままだと「2年の空白」の後で入学した事になる.明治40年(1907年) 3月21日の小学校令中改正によると,尋常小学校(義務教育)は6年間に延長し,高等小学校は原則として2年間に固定したとある.確証はないが太郎は尋常小学校(6年間)の卒業後に,高等小学校(2年間)に通ったかもしれない.

<5>には多喜二が通った庁立小樽商業学校のことが書かれている.これによると,小学校6年間を終了すると,受験資格は生じたが,直接ここで入学試験に合格するのは難関だったらしい.<5>によると多喜二が入学した大正5年(1916年)の合格者100名の内訳は次の如く.

(1) 尋常小学校 6 年のみ : 22名(多喜二が含まれる)
(2) 尋常小学校 6 年+高等小学校 1 年間 : 37 名
(3) 尋常小学校 6 年+高等小学校 2 年間 : 40 名
(4) 尋常小学校 6 年+高等小学校 3 年間 : 1 名

多喜二は稀なケースだった.チマ(多喜二の姉)も,おそらくストレートで高等女学校をパスしたのではないだろうか? 高等女学校令は1899年(明治32年)に公布された.1908年(明治41年)の改定により,入学資格は尋常小学校卒の12歳以上,修業年限は4年または5年とされた.チマ(多喜二の姉)も多喜二も優秀だったろう.慶義(2人の伯父)にしても,それでこそ援助の甲斐もあったと思われる.

太郎が入学した庁立小樽水産学校も同じような傾向だったのではないだろうか? 上記のうち「尋常小学校 6 年+高等小学校 2 年間」というパターンだった可能性が高い.その際,大正4年に降って湧いたような廃校問題と,その結果に生じた「広き門」があったと思われる.

慶義は,姪(チマ)や甥(多喜二)の進学に経済援助をしている割には,自分の長男(幸蔵)や2男(俊二)は進学させていない.長男(幸蔵)の場合も2男(俊二)の場合も,小学校卒業の12歳頃(1892年および1899年頃)の経済的余裕は無かったからだろう.

姪(チマ)が高等女学校に入学した頃(1913年:大正2年)には,新富町のパン工場が軌道に乗り経済的余裕が生まれていた.太郎(慶義の4男)は1901年(明治34年)生まれ.早生まれなのでチマとは小学校同学年である.尋常小学校を卒業した後,チマは高等女学校へ進んだ.太郎は高等小学校へ進級したと思われる.

太郎の庁立小樽水産学校の卒業は大正8年(1919年).






一方の庁立小樽商業学校は1913年(大正2年)に開校した.多喜二は1916年(大正5年)の入学なので,第4期生ということになる.




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サッポロビール

サッポロビール博物館では,北海道におけるビールの歴史が分かる.明治9年(1876年)に開拓史麦酒醸造所が作られた.明治10年(1877年) 6月に「冷製札幌ビール」が初出荷され,宮内省にも献上された.この時からラベルには「開拓史のシンボルである赤い五稜星」が用いられた.

明治15年(1882年),開拓史が10年計画の予定通りに廃止となり,開拓史麦酒醸造所は農商務省の所管となり札幌麦酒醸造所となった.明治19年(1886年)には道庁に移管された.同年,民間に払い下げとなり,大倉組札幌麦酒醸造場が誕生した.札幌の大倉山ジャンプ場は,2代目社長大倉喜七郎により建設され寄贈されたものである.

大倉組札幌麦酒醸造場を母体として,明治20年(1887年)に (有限会社)日本麦酒醸造会社が設立された.これが12月には札幌麦酒会社となった.明治26年(1893年)に商法で株式会社が明確化されたため,札幌麦酒株式会社と社名を変更した.

明治39年(1906年)には,札幌麦酒(サッポロ)・日本麦酒(エビス)・大阪麦酒(アサヒ)の3社が合併して巨大な大日本麦酒株式会社が誕生した.この
大日本麦酒株式会社が,サッポロビール・エビスビール・アサヒビールという3つのビールを販売する事になったのである.ただし昭和24年には,過度経済力集中排除法に基づき,日本麦酒(サッポロ・エビス)と 朝日麦酒(アサヒ・ユニオン)の2つに分割された.昭和39年(1964年)に日本麦酒株式会社は,社名をサッポロビール株式会社に変更した.



大日本麦酒(株)が誕生して2年後の明治41年(1908年)に,アサヒ・サッポロ・エビスの全てのビールの商標(ラベル)が刷新された.このうちサッポロビールの新しい商標デザインと,その頃のポスターを示す.

明治43年(1910年)の物価の目安として,総合雑誌 = 20銭,牛乳 = 3銭9厘,もりそば = 3銭3厘のところ,ビール(大瓶) = 22銭だったそうだ.この頃のビールは高級品であり,よく料亭で出された.



下に明治41年に新ラベルで発売となったサッポロビールを示す.上のポスターで中央のビールである.この頃はまだ王冠ではなく,コルクの栓だった.現在の発泡酒のように,針金で固定されており,スクリューの栓抜きが用いられた.これらはサッポロビール博物館に展示されている.因みに,現在のような金属キャップの王冠は明治40年(1907年)に札幌工場で試用が始まったばかりだったらしい.








店に向かって右側のガラス戸の内側には沢山の瓶が並んでいる.この部分を強拡大して,明治41年に発売されたサッポロビールを合成した.撮影した写真は,少し見下ろす角度なので多少の違いはあるが,星印のラベルや,その上の扇形のラベルや銀紙で覆ったコルク栓部分が,同じバランスである.ガラス戸の内側に並んでいるのは,明治41年にラベルが刷新されて発売されたサッポロビール(ラガービール)と考えて良いだろう.


写真を見る限り,星ラベルの瓶が大量に並べられていたようだが,多喜二が,自分の家(店)で酒類を販売していたと言う記録は残されているだろうか? 「母の語る小林多喜二」<45>の中には,酒類販売の記述はないようだ.

末松・セキ一家が秋田から移住してきたのが明治40年(1907年)の12月.年末・年始を新富町の慶義宅で過ごし,明治41年から,慶義が若竹町に作ってあった家を譲り受けた.そこでパン屋の支店を開き,多喜二の一家はそこに住む事になった.その頃のビールは料亭で出されるような高級品である.販売のターゲットは誰だろうか? その頃,築港に従事する労働者が気楽に買えるものではなさそうだ.近くの小樽水産学校の先生ならまだしも,生徒は購買層ではない.

店の近くの購買層が厚くない事を想像すると,若竹町での三星小林支店の開店にあわせ,慶義(多喜二の伯父)が景気付けに並べたものかも知れない.結局,このような高級品は買う人も少なく,やがて取り扱いは中止となったのではないだろうか.そうであれば,幼い頃の多喜二には,酒類販売の記憶は残らないだろう.常態的に取り扱っていたのでなければ,セキ(母)も小林廣氏には語らないだろう.

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石垣洋品店


手塚英孝「小林多喜二」<4>によると,大正11年(1922年) 3月に潮見台小学校を卒業した三吾(多喜二の弟)は,花園町の石垣洋品店に小僧奉公となった.写真の台紙の右肩メモは「花園町」と読める(園は囗と略されているのだろう).向かって左側の店の看板には「洋物小間物,小林支店」とあり,「洋物雑貨,高等髪油,電話二0三三番」ともある.「石垣洋品店」との看板はないが,この店は<4>に書かれている石垣洋品店だと思われる.

店の前に立っている男性は慶義には見えない.石垣夫妻と,その子供たちだろうか? 三吾(多喜二の弟)が写っているかも知れない.右側の店の看板に
は「菓子食料品,小林支店」とある.慶義はあちこちに支店を作ったらしい.

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数え年

「満年齢」では初めての誕生日に1歳となり,最初の1年間は0歳である.これに対して「数え年」は生まれた時点で「1歳」である.これは受精してから出生までを「0歳」と考えると分かり易い.年齢が加算されるシステムも異なっている.「満年齢」では「誕生日」に 1歳加算される.「数え年」では「元旦を迎える時」に 1歳加算される.

この「数え年」における「元旦(年越し時)の年齢加算システム」は,旧暦では2〜3年に 1度の閏月が挿入されるため,誕生日が存在しない人が多くなる事に関係あるかもしれない.

太郎は1901年(明治34年) 2月5日に生まれたので,この瞬間に「数え年で 1歳」である.翌年の明治35年1月1日は「数え年では2歳」となる.この時点でまだ「満年齢では0歳」だが 2月5日には,すぐに「満1歳」となる.このように,1年の早いうちに生まれると,「満年齢」と「数え年」は,ほぼ「1年違い」である.太郎は1921年(大正10年)の元旦に「数え年21歳」となった.「満年齢」で考えると,元旦の時はまだ「満19歳」だが,2月5日から「満20歳」である.

多喜二は1903年(明治36年)12月1日に生まれたので,この瞬間に「数え年で1歳」である.1ヶ月足らずで年が明ける.従って翌年の明治37年1月1日は,生まれて1ヶ月で,もう「数え年2歳」となってしまう.満年齢では,まだ「0歳」であり「満1歳」になるのは12月になってからである.このように,1年の遅くに生まれると,「満年齢」と「数え年齢」は,ほぼ「2年違い」にもなる.



このように「数え年齢」と「満年齢」の差は,生まれた月により異なっている.この違いは,「満年齢」では「誕生日に年齢が加算」されるのに対して,「数え年」では「年越し時に年齢が加算」されるという年齢加算システムの違いにより生じる.次の表では単純化して,明治36年について (この年に限らないが) 1月1日・2月1日・3月1日・・・12月1日に生まれた人の年齢を示した.赤字は「数え年齢」,青字は「満年齢」,黄色背景は1歳である期間,灰色背景は2歳である期間を示す.数字は,例えば「1-04」は1歳04ヶ月を意味する.緑字は「数え年齢」と「満年齢」の差を示す.

生まれた年の年越し前は,「数え年齢」と「満年齢」の差は「1歳00ヶ月」と一定なのだが,最初の年越しをしてから,生まれた月により違いが生じる.下の図で,例えば2歳になる瞬間(図では灰色背景の開始時点)を見ればよい.誕生日がちょうど 1月1日ならば,「数え年齢」と「満年齢」の差はずっと 1年のままだ.しかし誕生日が 2月1日・3月1日・4月1日・・・となるに従って,「満2歳」になる日が遅れてやってくる.これにより「数え年齢」と「満年齢」の差は少しずつ拡大していくのである.

01月01日生まれの人 → 1年00ヶ月の差
02月01日生まれの人 → 1年01ヶ月の差
03月01日生まれの人 → 1年02ヶ月の差
04月01日生まれの人 → 1年03ヶ月の差
05月01日生まれの人 → 1年04ヶ月の差
06月01日生まれの人 → 1年05ヶ月の差
07月01日生まれの人 → 1年06ヶ月の差
08月01日生まれの人 → 1年07ヶ月の差
09月01日生まれの人 → 1年08ヶ月の差
10月01日生まれの人 → 1年09ヶ月の差
11月01日生まれの人 → 1年10ヶ月の差
12月01日生まれの人 → 1年11ヶ月の差

従って最初に書いたことを,より正確に表現すると多喜二は 12月1日生まれであり,「数え年齢」と「満年齢」の差は 1年11ヶ月ある.太郎は 2月5日生まれであり,「数え年齢」と「満年齢」の差は 約1年1ヶ月である.







月(端数)を省略し,年だけを考えると・・・

誕生日 : 数え年 = 満年齢 +
誕生日 : 数え年 = 満年齢 +

・・・ということになる.





満年齢について厳密に言うと,現在の法律では年をとるのは「誕生日の前日」である.より正確には「前日の24:00」と考えると分かり易い.例えば 4月1日生まれの人は「3月31日の24:00」に年をとる.これは事実上「4月1日の0:00」に等しいが,法律上は「前日扱い」なのだそうだ.

ずいぶん面倒なことをしているようだが,閏年のことを考えると納得できる.すなわち閏年の2月29日に生まれた人にとっては「2月29日の0:00」は4年に1回しか来ない.しかし前日である「2月28日の24:00」は,ちゃんと毎年くることになる.

ややこしい話だが,「平年の2月28日の24:00」には,3月1日(平年および閏年)生まれの人と,閏年2月29日生まれの人が同時に年をとる.「閏年の2月28日の24:00」には,閏年2月29日生まれの人だけが年をとる.「閏年の2月29日の24:00」には,3月1日(平年および閏年)生まれの人が年をとる・・・はずだ.

また就学時の「早生まれ」規定も,これに関係があるだろう.なぜか 4月1日は「早生まれ」に含まれている.そのため 4月2日以降に生まれた子供よりも1年早く小学校に入学する.これは法律上 4月1日生まれの人は,3月31日(24:00)に年をとる.事実上は4月に生まれているのだが,法律上は3月のうちに年をとるからだろう.

年齢によって法令上の扱いが変わる場合があるため,これらは厳密に規定されている.より詳細なことは,ウィキペディアの「満年齢」,「数え年」,「年齢計算ニ関スル法律」などを参照.



直接の関係はないが「ウィキペディア:数え年」には馬の年齢(馬齢)について書かれている.日本の競走馬について,2000年までは「数え年」が採用されていたのだそうだ.2001年からは,生まれた時を「0歳」にしたらしい.これは人間における「満年齢」システムと同じである.しかしながら年をとるのは一律に「1月1日」のままであり「数え年」のシステムが併用となっている.

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陸軍第七師団のこと

「北海道第七師團写真集」<33>によると,陸軍第七師団は 明治29年5月12日に創設された.徴兵令は明治22年からの開始だが,北海道での適応は,この時(明治29年)からだった.それまで札幌市大通東1丁目にあった「屯田兵司令部」が,第七師団司令部として開庁した.

明治32年の時点で,第七師団には,歩兵第25連隊・歩兵第26連隊・歩兵第27連隊・歩兵第28連隊・野戦砲兵第7連隊・
輜重兵第7連隊・工兵第7連隊があった.これらは,はじめ札幌月寒に作られたが,少しずつ旭川の地に移された.

旭川においては明治32年7月に起行式が行われ,第七師団の建設工事が始まった.明治35年11月8日に編成を完了した.明治33年(1900年)の時点で,旭川市の人口は約13,000人ということである.第七師団の建設工事は膨大なものであり,旭川市の発展に寄与している.

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田口瀧子の「身請け」のこと

田口瀧子(タキ)の身請け金は500円だった.現在どのくらいに相当するのか分からないが,<8>によると多喜二の「不在地主」の原稿料は,同じく 500円だったそうだ.半分(250円)までは,瀧子(タキ)が自分で貯めていた.

多喜二は社会人になって,まだ1年半だった.残りの250円のうち多喜二は50円を出し,200円は友人の嶋田正策に借りている<5>.嶋田正策は,その時のボーナスのほとんど全てを多喜二に貸したようだ.多喜二は1933年(昭和8年)に亡くなった為もあるだろうが,このうち50円しか返していない.

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太郎が賜饌式に招かれた理由

太郎は昭和11年の陸軍特別大演習の時に,はるか遠くから眺めただけにしても,昭和天皇と会ったと思われる.太郎と昭和天皇の出会いは,これが初めてではない.昭和天皇は皇太子だった頃の大正11年(1922年)に摂政宮として北海道に行啓し,旭川を訪れている.

皇太子(迪宮裕仁)は大正11年(1922年) 7月15日に旭川の第七師団司令部を訪れ,閲兵式を行った.太郎はその前の年(20歳の時)に大正10年(1921年)12月1日から一年志願兵として,歩兵第28連隊第11中隊に入営していた(歩兵二等卒).太郎の写真帖には「i 28 分列式」と書かれた写真が含まれている.これは閲兵式での歩兵第28連隊の行進だろう.太郎が残した写真帖には閲兵中の皇太子の写真も貼られている.

i 28 分列式

閲兵中の皇太子

この皇太子(当時)が生まれたのは 1901年(明治34年) 4月29日である.太郎の誕生日は 1901年(明治34年) 2月5日なので,閲兵式の時は共に満21歳と同年齢である.下の写真には太郎と同期入営(北海道)の全員が写っていると思われる.他の志願兵も同年代であり,皆に特別な感慨があったに違いない.

大正11年 3/16 入営百日 志願一同
(太郎の写真帖より)

この皇太子北海道行啓の4年後に大正天皇が亡くなり,迪宮裕仁は天皇になった.その2年後,昭和3年(1928年)の昭和天皇即位の大礼において,太郎は地方賜饌式に招かれた.「賜饌場参入者心得」には,男子の服装として次のように指定されている.太郎の写真帖には,これに従った正装姿の写真が残されている.



よく見ると写真館のような床ではなく,地面のように見える.どちらも足元には同じ小枝らしきものがあり,屋外で写した賜饌式当日のものらしい.左が太郎,右は藤原與吉氏だろう.徴兵検査を受ける直前の写真も残されている(下).仲の良い2人が一緒に志願兵になったものと考えられる.藤原氏は太郎の写真帖に数多く登場する.


「藤原與吉」の名前は庁立小樽水産学校の校友会誌「若竹」<36>には含まれておらず,庁立小樽水産学校時代の同級生ではないようだ.子供たちと野球のユニフォームで写っている写真があり,何かの活動グループかもしれない.

その2人が共に賜饌式に招かれたらしい.この時は共に27歳前後であり,特別に大きな社会貢献をしていた訳ではないだろう.おまけに太郎の身内には,当局側から見て「小林多喜二」という要注意人物がいた.太郎の身辺調査は厳重になされた上だろうが,太郎の賜饌式招待には誰かの配慮なり意図が入っているものと思われる.そう考えると大正11年の皇太子時代の閲兵式が関係しているのではないだろうか.北海道の大正10年の一年志願兵は新天皇と同世代であり,全員が賜饌式に招かれたと思われる.






昭和三年十一月十六日地方饗饌


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昭和十一年陸軍特別大演習のこと

昭和天皇は,昭和11年 9月24日に皇居から横須賀へ向かった.そこから,御召艦「比叡」で午前10時に出港,室蘭港に 9月26日の午前7時10分に着いた.そこから汽車で旭川に向かう.

昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸 記念寫眞帖<18>によると,以下のごとくである.

9月24日: 宮城出発
       横須賀→室蘭
9月26日: 室蘭 日本製鋼所に行幸,御召列車で旭川へ
       室蘭→岩見沢で小休止→旭川には午後4時45分に到着
       旭川 第七師団司令部,北海道旭川師範学校
9月27日: 旭川→釧路
       釧路 男子高等小学校
9月28日: 釧路→根室(雨のため千島は見えなかった)→釧路
9月29日: 釧路→帯広
       帯広 市立明星尋常小学校,北海道製糖株式会社帯広工場,
       庁立十勝農業学校
9月30日: 帯広→大樹村
       大樹村 拓殖実習場,拓北部落に行幸
10月1日: 大樹村→帯広→新得・落合・富良野・岩見沢で小休止→札幌
       札幌 北海道帝国大学農学部が行在所となった

陸軍特別大演習は 10月3日から 10月5日まで行われた.北海道帝国大学農学部が大本営となり,昭和天皇は大元帥という立場で指揮を取った.これに太郎は何らかの形で参加しているようだ.太郎の写真帖に特別大演習の初日,10月3日の由仁での写真がある.昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸 記念寫眞帖<18>に載っているのと同じ場面,別角度からの写真である.この日は雨模様で昭和天皇はマントを着用している.

太郎の写真帖より 昭和十一年陸軍特別大演習
並地方行幸 記念寫眞帖
より

10月3日: 由仁 陸軍特別大演習
10月4日: 千歳 陸軍特別大演習
10月5日: 島松 陸軍特別大演習

10月6日: 札幌
10月7日: 官幣大社札幌神社,札幌控訴院,林業試験場,工業試験場,農事試験場
10月9日: 札幌→小樽
       小樽 小樽高等商業学校,北海道製缶倉庫株式会社小樽工場,小樽公会堂
       御召艦「比叡」にて午後2時30分出港:小樽→函館
10月10日: 函館 水産試験場,国幣中社函館八幡宮,青柳小学校
       函館→帰路
10月12日: 宮城還幸

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大正十一年摂政宮殿下 北海道行啓のこと

当時の皇太子(迪宮裕仁)は 1921年(大正10年)10月25日に摂政となった.その後は皇太子が大正天皇の公務を代行することになった.これは大正天皇の体調を思いやってのこととされるが,政治的背景もあるようだ.その翌年の 1922年(大正11年)に,皇太子は摂政として北海道を訪れた.「北海道第七師團写真集」<33>および「大正十一年七月 摂政宮殿下 北海道行啓記念寫眞帖」<34>および「皇太子殿下北海道行啓録」<35>に,この北海道行啓の記載がある.この時の皇太子(迪宮裕仁)は,太郎と同じ 満21歳だった.

7月 6日(木):東宮仮御所御出門(7:50)→上野駅
        上野駅から臨時汽車で出発(8:10)→仙台(16:35)
        仙台泊
7月 7日(金):仙台駅(8:00)→青森(17:30)
         御召艦「日向」乗艦,青森港碇泊
7月 8日(土):青森港出港(7:00頃)→函館港(14:30).函館港碇泊
7月 9日(日):函館港碇泊
7月10日(月):御召列車で函館(8:25)→大沼(9:26)
         大沼(11:00)→小樽(18:12)
7月11日(火):小樽港巡覧
         小樽高等商業学校を訪問.多喜二は沿道の旗振りに動員されたか?
         小樽(16:45)→札幌(17:45)
         豊平館(宿泊)
7月12日(水):札幌
7月13日(木):札幌,歩兵第25連隊閲兵
7月14日(金):札幌(11:10)→旭川(15:03)
7月15日(土):旭川
         練兵場:各小学校生徒運動競技
         庁立旭川中学校:各中等学校生徒運動競技
         第七師団司令部
         練兵場:歩兵閲兵,分列式

11/7 (大正11年7月)摂政宮殿下御閲兵
(太郎の写真帖より)


i 28 分列式
(太郎の写真帖より)

「i 28」 が 歩兵(infantry) 28のことだとすると,
太郎が所属した歩兵第28連隊のことだろう


7月16日(日):旭川(7:00)→網走(18:25)
7月17日(月):網走(9:00)→釧路(17:50)
7月18日(火):釧路
7月19日(水):釧路(6:30)→帯広(9:55)
         帯広(13:30)→旭川(19:15)
7月20日(木):旭川(8:00)→苫小牧(12:46)
         苫小牧(13:45)→佐瑠太(15:50),新冠:凌雲閣に宿泊
7月21日(金):新冠
7月22日(土):佐瑠太(9:25)→苫小牧(11:30)
         苫小牧(11:45)→支笏湖(13:40)
         支笏湖(15:40)→苫小牧(17:15)
         苫小牧(17:30)→室蘭(19:08)→御召艦「日向」乗艦,室蘭港碇泊
7月23日(日):室蘭港出港(15:30)
7月24日(月):航海
7月25日(火):午後に横須賀港に入港(16:20)
         横須賀駅(16:25)→東京駅(18:00)→還啓


行啓下賜記念
大正十一年七月十五日


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大東亜戦争従軍記章のこと

大東亜戦争従軍記章は昭和19年 9月21日に制定され,造幣局で作られた.しかしながら,授与が始まる前に終戦となり,造幣局に踏み込んだ占領軍によって,すべて回収された.わずかな数は米国に残されているかもしれないが,ほとんどは溶かされたらしい.インターネット・オークションに,この大東亜戦争従軍記章が出品されていることがある.金型や仕様書は戦後も残されたということなので,けっこう精度の高い複製品らしい.


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日景國太郎への手紙

秋田さきがけ新報(2010年 2月21日)によると,2010年 2月20日に秋田市において第45回県多喜二祭が開催された.ここでノーマ・フィールド氏の講演が開かれたが,その講演に先立って,地域性の視点から大館市で多喜二研究を行っている日景健氏に県多喜二祭賞が授与された.会場では,多喜二から日景健氏の祖父(日景國太郎)に宛てた手紙が展示された.

この手紙は「小林多喜二の手紙」<37>に掲載されており,
多喜二から日景太郎に宛てた礼状(1929年(昭和4年) 8月27日)である.多喜二の母(セキ)が秋田に出かけた時に日景家に世話になり,8月26日に無事帰宅したとある.この時期に母(セキ)が秋田に出かけた用事は何だろうか?

多喜二には,多喜二自身も知らないと思われる弟(末治:本来の3男)がいる.末治は昭和3年(1928年) 7月10日に婿養子縁組婚姻のため,慶義の戸籍から除籍されている.このことについては「小林多喜二に関する考察(20090817) 本文」で考察した.

この婿養子縁組婚姻は,佐藤藤右衛門の娘(養女)チヨと結んだものである.それから 1年後,この佐藤家に挨拶を兼ねて秋田に行ってきた可能性はないだろうか? もっと想像をたくましくすると,生まれた赤ん坊の顔を見がてら・・・ということもあるかもしれない.ただ,そうだとしても,おそらく末治には「母として」は会っていないだろう.

いろいろ必要になった金の一部は,日景家が用立てしてくれたようで,多喜二はその礼も書いている.<13>によると,母(セキ)が秋田(釈迦内)を訪れる時には小林家よりも,セキの母(フリ)の正家である日景家に泊まることが多かった.秋田では,母(セキ)は「話し好きなおばあさん」ということで通っており,日景家の赤ん坊を取り上げたこともあったそうだ.

このように,木村家(セキの母(フリ)の嫁ぎ先)と日景家は繋がっており,セキを通じて小林家ともつながっている.日景家は鳥潟家と繋がっている.鳥潟右一の父(平治)は小林イクと結婚し,鳥潟家と小林家も繋がっている.苫小牧には,前記の日景健氏の母親や妹の写真が残されている.

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原子爆弾のこと

昭和13年(1938年)に ドイツで,原子核分裂の際に大量のエネルギーが発生することが発見された.その前年(昭和12年)には支那事変が始まっているし,翌年(昭和14年)には第二次世界大戦が始まるという,戦争の真っ只中だった.このような状況下で,この新しいエネルギーは平和利用でなく,まず兵器として開発された.昭和14年(1939年)10月には,米国は原子爆弾の研究に乗り出した.昭和17年(1942年) 8月からは,早くも米国を中心として原子爆弾の製造計画が始まった.これが「マンハッタン計画」である.軍部・科学者・業界の知識や財力を総動員して昭和20年(1945年)には,もう完成に至った.

初めての核実験は昭和20年(1945年) 7月16日,ニューメキシコ州の砂漠で行われた.それからわずか3週間後の 8月6日には広島に投下された.これはもう実践的な人体実験と言わざるを得ない.広島平和記念資料館には,市岡英史氏が描いた絵が展示されている.原子爆弾の投下直前に爆撃機(B29)から,いくつかの落下傘が投下されている絵である.これらの落下傘には,原爆炸裂時の温度変化や気圧変化などを観測する装置が搭載されていたらしい.

実物大の広島型原爆(リトルボーイ)

ウラン型原子爆弾の投下目標は,5月11日の時点では,京都・広島・横浜・小倉だった.市街地の直径が 3マイル(約5km)ほどあり,かつ爆風が効果的に広がる地形が選ばれたという.その後 7月25日には,広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに絞られた.最終的には 8月2日に「広島」と決定された.これらの候補地には,原子爆弾投下以前の空襲が禁止されていた.原子爆弾の破壊効果を確実に把握するためである.その後の長崎では,別のタイプ(プルトニウム型)の原子爆弾が使用された.プルトニウムはウランよりも放射線が強くて扱いにくい上に,より高い製造技術を必要とする.ウラン型で確実な効果を得た後,別の実験を行った様に見える.歴史上,このような短期間における無差別大量殺戮は他に類を見ない.

<59>には,軍医が見た戦争体験談が書かれている.この中で,原子爆弾投下後の広島で診療・調査・剖検にあたった話がある.

爆心地から 1キロメートル範囲内の人々は殆んどが即死.熱風はさらに遠くまで達した.この熱風での直接被害の他に,しばらくして人類がそれまで経験したことのない奇病が出現した.原子爆弾投下の3週間くらい後から患者が爆発的に増えた.これは直接被害から間逃れた人の中で,その後に爆心地で救護活動を行った人々に見られたという.

この原子爆弾症(原爆症)の主な症状は 口峡炎(アンギーナ)と 腸炎だった.まず患者は咽頭・喉頭の疼痛を自覚.高熱,脱毛,激しい下痢に次いで血便となる.皮膚には出血斑が生じ,吐血して死の転帰となった.

いたる所に散在する死体や,まだ生きている体にさえも蠅が卵を産みつけた.大量の蛆が湧き,広島市は「蠅の街」と化した.

原爆ドーム(負の意味で世界遺産に登録されている)は,もともと広島県物産陳列館だった(その後に名称は広島県立商品陳列所,広島県産業奨励館と改称された).チェコ人が設計した3階建(ドーム部は5階建)の洋風の建物である.原子爆弾は,この建物のほぼ真上,地上600メートルで炸裂した.核分裂により爆発の 1秒後 には直径280メートルの巨大な火の玉となった.一機に発生した高温による空気膨張のために熱風が生じた.ドームの建物には,この熱風が真上から放射した.そのためドーム型の鉄骨がむき出しになりつつも,全体の形だけは残ったのだそうだ.

地上600メートルで原爆炸裂の 1秒後,直径280メートルの火球を示している.写真は,だいたい北から南方向を見ている.手前左側に広島城が見える.ここには陸軍第5師団があった.


上の写真とほぼ同じ方向,少し左側(東側)から見た写真だろう.

物産陳列館(ドーム)は太田川の二股の近くで,このあたりは爆撃機の上からも地形的に分かりやすい.すぐ北東には広島城の天守があった.広島城は,陸軍第5師団の本部として使われていた.ここは,東京以外では唯一,大本営(天皇が指揮するところ)がおかれた場所でもあった.

これは米国空軍歴史研究センターにあるという,原爆投下用の広島の航空写真である.ここでは,前記の写真と方向を合わせるために展示<47>のものを 上下を逆にしている.原爆投下の照準点は赤点線の交点にある相生橋だった.

太平洋戦争における日本の不利が明らかになり,本州を鈴鹿山系で東西に分けて,第一総軍と第二総軍が置かれることになった.これは米軍上陸によって本土が分断される事を念頭に置いたものだった.この第二軍総司令部が作られたのが広島だった.また広島には,宇品(うじな)港という軍港があり,ここは中国への兵や物資の輸送拠点でもあった.このように広島は日本軍の大事な拠点であり,第5師団を丸ごと破壊するという,心理的効果を狙ったものと思われる.また候補地の中で,連合国軍の捕虜収容所がないと考えていた事も広島に最終決定された理由らしい.

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玉音放送のこと

玉音放送とは天皇の肉声を放送することである.一般的には昭和天皇による「大東亜戦争終結の詔書」の朗読の放送を意味している.


大東亜戦争終結の詔書





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シベリア抑留のこと

大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦の呼称が一般的)の後,兵士が強制連行・抑留されて各地で強制労務をさせられた.一般的に「シベリア抑留」と言われるが,シベリアの他に,モンゴル・中央アジア・北朝鮮・ヨーロッパロシア等も含まれる.主に満州,南樺太,千島列島の軍人が送り込まれたが,民間人も含まれていたらしい.連行された捕虜は日本人だけで,約65万人とも言われている.

労働者(プロレタリア)であれば労働に対して対価(賃金)が発生するが,それがない無償の「労務者」であった.しかも栄養・衛生の劣悪状態におかれ,死亡者は膨大な数になる.日本人は約1割が死亡したとも言われている.以下,ここだけの便宜的なものだが,賃金の発生するものを「労働」,賃金の発生しないものを「労務」と分けて記載する.

拠点のひとつのポートワニ(ワニノ市)は,もともと囚人の流刑地だった.囚人と言っても,殺人者・極悪人という訳ではない.刑法第58条による「祖国に対する反逆者(反革命者)」が多かったようで,ソビエト連邦は,このような囚人に対して重労働を科していた.ウィキペディア(反革命罪)によると,「反革命」とは「ソ連のプロレタリア農民政府を転覆・破壊・弱体化させる行為,対外的な安全を脅かす行為,プロレタリア革命の経済および政治の成果を破壊・弱体化させる行為」のことである.反革命の目的で,政府に抵抗すること,文書を作成すること,民衆を扇動すること,反革命の目的をもった団体に参加したり,反革命の目的を持った活動者を幇助することは,目的を知らない場合であっても犯罪とみなされた.

日本人捕虜は,ソ連国内法の「囚人」には該当しないはずだ.しかしながら「労務」という利用目的は,意図的であれ結果的であれ同じことだ.捕虜になって連行されたのは日本人だけではない.総数200万人とも言われ,ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・フィンランド・イタリア・スペインからも送り込まれていた.

労務は各地で行われた.例えば第2シベリア鉄道(バム鉄道,バイカル・アムール鉄道)建設は,全長4,200キロメートルに及ぶが,このうち日本人捕虜(約4万人)が受け持った区間は220キロメートルだったという.この鉄道の建設コストは,戦後の間もない頃の試算で,日本円にして 1 キロメートル当たり約6億円に相当するらしい.従って,この鉄道の分だけでも約1,300億円(戦後の価値)ということになる.

シベリア抑留の日本人捕虜が全部で約65万人として,各地で行われた作業の対価合計は単純計算でも計り知れない金額になる.ソ連の至る所で,農作業,鉄道敷設,港湾建設,鉱物採掘,道路工事,町の建設などに従事させられた.しかも,日本人の仕事は正確で丁寧だった.

大東亜戦争においてソ連が日本に宣戦布告したのは,終戦ギリギリの1945年(昭和20年) 8月9日未明だった.8月6日には広島に原子爆弾が投下され,客観的に見て日本の敗戦が確実になってからである.原子爆弾は,さらに 8月9日には長崎にも投下されて日本は 8月15日には降伏した.ソ連は,このようなギリギリの参戦で戦勝国になったおかげで,自分たちの国家建設に必要な日本人労務力を簡単に手にした.

1917年(大正6年)のロシア革命によりロシア帝政が崩壊.その後の内戦を経て1922年(大正11年)にソビエト社会主義共和国連邦が誕生した.1924年(大正13年)にはレーニンが死亡し,スターリンの独裁政権となっていた.

小林多喜二の「蟹工船」には,遭難した川崎船の船員がロシア人に助けられて親切にされる場面がある.その中で,村にいた支那人が片言の日本語で,共産主義の素晴らしい点は「平等」であって「資本家の搾取が無い」と力説している.それはそれで理想として素晴らしい.しかしながら,どうやら囚人や捕虜による労務という,対価を必要とせず平等とも言い難い「闇の部分」があったようだ.

ある意味で「祖国に対する反逆者」は簡単に作り出すことができる.たとえば「シベリヤ抑留兵よもやま物語」<32>には,ウクライナから送り込まれた若い娘たちのことが書かれている.1941年ドイツ軍がソ連に攻め込み,秋にはウクライナを占領した.その時,ウクライナの村を通ったドイツ兵に,彼女らはコップの水を与えた.それが終戦後に「ドイツ軍に協力した罪」を問われ,シベリア流刑と強制労務になった.捕虜と違って,いくらかの賃金が発生した「労働」だったかもしれないが詳細は定かではない.

この項目はウィキペディア(シベリア抑留) および,佐藤隆子「ポートワニの丘 - 帰還抑留者からの聞きがき -」<26>による部分が多い.<26>はシベリア抑留者の生の声を記録したものである.ここで引用されている藤田八束「択捉從軍始末」<27>は,若き軍医の目を通しての択捉従軍と,その後のシベリア抑留の記録である.これによると抑留生活は過酷には違いないが,収容された施設や労務内容によって状況は随分と異なっていた様だ.軍隊での地位によるかもしれない.<32>からも,そう読み取れる.種々の労務は,TVドラマ等になると「奴隷のような扱いを受けている印象」だけがあるが,そこまで酷くはないかも知れない.

「択捉從軍始末」<27>に農作業(薯の収穫)の風景が描かれている.農作業隊は何となく楽しそうに出掛けている.軍医は屋外作業労務がないので現場を知らないが,ある日作業現場について行った.昼休みには焚き火に薯を投げ入れて食べている.ロシア人の見張りにも,お裾分けするので見逃してくれる.帰路には,外套に隠し持って別の作業に行った仲間への土産とする.

集団農場なので,薯は果てしない長さで列をなして並んでいる.現場のロシア人からの指示により,数列の薯を掘り出しては一列はそのまま,また数列を掘り出しては一列はそのまま・・・というように作業を行うのだそうだ.理由は告げられない.

その翌年,雪が融けて分かった事がある.厳しい冬を土の中に放置された薯は,凍りついてしまう.翌年暖かくなると,ふやけて食用にならない薯が出来上がる.新しい年の収穫のためには,腐った薯は掘り出して処分しなければならない.これらを現場のロシア人達は持ち帰る.そのままでは食用にならないが,ある処理をすることで澱粉を取り出すことが可能らしい.

集団農場で作られる作物は「国家の所有物」である.収穫時に,それを横流しするのは明らかな犯罪であって「祖国に対する反逆者」になってしまう.前の年に収穫から「漏れて」しまって「残念なことに腐ってしまった物」を処分することは窃盗には当たらない・・・というのが,現場の理屈なのだろう.えらい「二度手間」であるが,共産主義社会で生きていくための生活の知恵と言える.

ふたつの書籍<26>と<27>から読み取れる栄養の状況を示す.主食は黒パンだが,施設により 1人当たり 1日300グラムだったり,200グラムだったり,100グラムのところもあったらしい.大きな黒パンを,何人で分けるかによって決まるようだ.黒パンは正確に計って各自に毎朝配られる.これを各食 1/3 ずつ食べるとすると,たとえばポートワニ<27>での食事の献立の場合は,

<朝食>
黒パン100g,塩スープ少々(ほとんど固形物なし)
<昼食>
黒パン100g,乾パン(日本製)16個,金平糖 1〜2個
<夕食>
黒パン100g,塩味スープ(内容はイカの足2本程度,時により鱈肝の缶詰が少々)

<26>によると,このスープは「ワダースープ」と言って,水で一杯にしたドラム缶に塩漬けのニシン5〜6匹を放り込んで煮立てたものらしい.「ワダ―」というのは「水」のことなので「塩味付き水スープ」と言ったところか.

一方,ソビエト連邦が標準としていた,捕虜への「1日当たり」の食糧やその他の配給物は<27>によると,下記のごとくである.

黒パン300g,砂糖30g,米300g,肉75g,魚80g,野菜600g
バター20g,味噌50g,塩20g,茶3g
煙草15g,石鹸80g

これでは公表と実際が全く違うことになる.収容所の存在する場所によっても異なっている可能性があり,物資の潤沢さによるとも思われる.ソビエト連邦の政治の中心はモスクワという西の端だが,極東(例えばポートワニ)には,中央の管理が行き届かない.物資は現地調達かもしれないが,途中で抜き取られ・横流しされ,末端まで届かないという現状があったようだ.また届いても施設長が抜き取る例もあったらしい.<32>の食糧事情は,<26>や<27>より良いもので,砂糖や煙草も配られている.

<27>によると,約1年たってから収容所の一部の人間が,列車(客車ではなく貨車)に詰め込まれて西へと運ばれた.途中あちこちで将校(少尉以上の軍人)が次々と加えられた.最終的にモスクワより250キロメートル南のマルシャンスクに着いた.ここの収容所は巨大な施設で,各国の捕虜がいる.ここでの待遇はポートワニとは全く違っていて,運動会やら演奏会やらが開催される.ここで思想教育がなされた.成績優秀な者たち(第一民主梯団)が第一陣として昭和22年11月から順次,日本に返された.大部分が面従腹背だったようだが,中には「赤い帰還者」となった人もいて,日本人同士が反目する遣り切れないこともあったようだ<31>.

思想教育のため「日本新聞」が1945年(昭和20年) 9月15日に創刊された.日本新聞については「シベリア抑留 未完の悲劇」<31>が詳しい.イワン・コワレンコを編集長として,ハバロフスクで作られた.約4年間で 662号が発行され,平均すると週3回位である.タブロイド判の2〜4ページ,編集スタッフは,日本人50名,ソ連人15名位という.内容はもっぱら共産主義の礼賛とソ連の宣伝だったようだが,娯楽欄もあったらしい.数少ない情報源なので,胃袋だけでなく活字にも飢えた抑留者は,むさぼるように読んだだろう.抑留されていた太郎も間違いなく「日本新聞」を読んだはずだ.「シベリヤ抑留兵よもやま物語」<32>に,この日本新聞について書かれているので引用する.

いずれにしろ,この新聞によって,いままで知らなかったことを知り,そして学ぶべきところもあったことは事実である.戦前の悪法である治安維持法によって,小林多喜二が特高の手にかかって死んだことや,治安維持法に反対した労働農民党代議士山本宣治が,右翼に刺し殺されたことを知ったのもこの新聞であった.そして,こんどの戦争に一貫して反対しつづけたのが日本共産党であることを知り,いまさらのごとく,わが無知にあきれたのである.

<32>にある「ソ連から聞かされた日本の様子」を引用する.「敗戦によって日本は廃墟となり,家もなく,食うものもない人たちは日本中にあふれ,ただ一人ミカド(天皇)だけが,焼けのこった家に住み,たらふく食っている.それが現在の日本であり,日本とは天皇の支配する天皇島である」

また日本帰還に際しての,ソ連の政治部将校の訓話を引用する<27>.「諸君は民主梯団として民主教育を充分受けられた方々だ.日本に帰ってからそれぞれの職場でそれぞれの地区で活躍されるのであろうが,そこでこの民主主義の勢力を進めて頂きたい.それを心から希望し,期待するものである.・・(中略)・・ 今迄ソ連は諸君を一日も早く帰還させるべく努力していたのだが,日本の受入態勢が全く出来ておらず,止むなく今日迄のびのびになってしまった.」

帰還後,今で言う PTSD (Post-traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)に悩む人が多かったはずだが,心のケアがなされたとは思えない.また,ただでさえ心の傷が大きいのに「シベリア帰りはアカ」と言いふらす心無い人も,帰還者を迎える側にはいたらしい.

シベリア抑留については,1991年(平成3年)に ゴルバチョフ(ソ連大統領)は「歴史の中には悲しみと遺憾の念を引き起こすようなものがたくさんあった」と述べた.この1991年(平成3年)の12月に「ソビエト社会主義共和国連邦」が崩壊した.その後の1993年(平成5年)に エリツィン(ロシア大統領)は「ロシア政府,国民を代表し,このような非人間的な行為を謝罪する」と述べている<31>.

シベリア抑留問題について,日本共産党の考え方が 2007年(平成19年)の「赤旗」に載せられた.現在これはQ&Aとしてホームページで見ることができる.この中で書かれている「銀杯」は,太郎の死後の平成3年(1991年)に苫小牧に送られてきた.書状には 2月14日とある.前記のソ連大統領ゴルバチョフが訪日したのが 4月であり,国内向けおよび対外的な政治決着ということだろう.





昭和8年(1933年),多喜二の訃報に際して,中国の魯迅から弔詞が届いている.<4>より引用する.「日本と中国との大衆はもとより兄弟である.資産階級は,大衆をだまして,その血で界をえがいた.また,えがきつつある.しかし無産者階級とその先駆者達は血でそれを洗っている.同志小林の死は,その実証の一つだ.我々は知っている.我々は忘れない.我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し,握手するのだ」

この例で分かるように,小林多喜二の死のニュースは世界を駆け巡っている.シベリアの「日本新聞」の記事にもなっている位であり,ソ連も知っていた.しかしながら抑留者の中に「小林多喜二の従兄弟」がいる事は,太郎から話し出さない限り分からないだろう.もし,そのようなことがあれば,おそらく太郎は「赤化のシンボル(ソ連側から見れば民主化のシンボル)」として,特別待遇を受けることになったと思われる.宣伝材料にもされただろう.太郎の復員は昭和23年(1948年) 6月21日であり,通常の復員と変わるところはない.出征前も,復員後もそうだったらしいが,太郎はシベリアにおいても,多喜二のことは口にしていないだろう.


多喜二は,幼い頃に住んだ若竹町の近くで行われていた「タコ部屋労働」の悲惨さを原体験として持っている.多喜二の作品にも多大な影響を与えているはずだ.

シベリア強制抑留は多喜二の死後のことであり,多喜二は知る由もない.比較すべき問題でもないが,シベリアで行われた強制無償労務は,環境・内容・人数とも「タコ部屋労働」よりもはるかに過酷だろう.

多喜二は「蟹工船」の中でも触れているように,ロシア(ソ連)の事を理想の国家形態と考えていたかもしれない.そこでもやっぱり,過ちは生じる.

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「析々帳」のこと

多喜二が1926年(大正15年) 5月26日から1928年(昭和3年) 1月1日までの事を書きとめたノートが残されている.大正15年は 12月25日から昭和元年となった.その1週間後には昭和2年になったため「析々帳」には昭和元年の記載がない.元号で考えると大正15年 5月26日から昭和3年 1月1日までだが,期間は 1年半ということになる.

<1>や<40>には「日記」と紹介されており,その内容は活字化されている.これは一般に「折々帳」と呼ばれている.読んだ書物の感想とか,田口瀧子(タキ)のことなど,日々折々の事が書かれており「折々の帳面」に違いない.


小林多喜二 草稿ノート・直筆原稿 DVD <39>
「析々帳」 表紙

ノートの表紙には「折々帳」ではなく,はっきりと「析々帳」と書かれている.多喜二の直筆文を見ると稀ながら漢字の間違いがあるが,これも単に多喜二が漢字「折」を「析」と書いてしまったのだろうか? 

1924年(大正13年)春に北海道拓殖銀行に就職してから2年が経過した.身請けした田口瀧子(タキ)も,とりあえず自分の家に住まわせている.何となく惰性で過ごしている生活にメリハリを付けるために書き始めたらしい.だとすると日々の生活の中での事や読んだ書物など,自分なりの「分析」をしつつ感性を磨くためのものと言える.「折々」の「折」と,「分析」の「析」は似た漢字でもあり,それをもじって命名したノート「析々帳」だろうか?

この析々帳の1926年(大正15年) 6月13日に,タキがちょっとした誤解を持った場面がある.多喜二は,その誤解を解くために自分の日記帳を見せる.その部分には「十一日に書いたこの折々帳を読ました」とある.走り書きで「折」と「てへん」になっており「析」ではない.




多喜二の日々の仕事や生活には,色々な「遊び心」があったと思われる.たとえば「蟹工船」の草稿ノートの表紙には,多喜二が自分で考えたらしい横文字サインが書かれている.それは「Kobayashi」ではなく,「Covaiashy」である.


小林多喜二 草稿ノート・直筆原稿 DVD <39>
「蟹工船」 草稿ノート 表紙

「蟹工船」の草稿ノートより以前,「姉との記憶」が書かれている草稿ノートの裏表紙には,ここに至るまでの第一歩らしい書き込みがある.それを見ると,まず「Kobayashi」が「Covayashy」になったようだ.その次が「Coviayashy」らしい.

このノートの最後から2ページ目には,その後の思考過程らしい書き込みが,ぎっしりとある.「Covaishy」という候補もあるが,「Covaiashy」が一番多い.「Tacky」ともある.

草稿ノートの見開き8ページ目からは「龍介の経験」の草稿が書かれている.この文章が始まる前に「Covaiashy」と5回書き込みがあるので,ここで最終決定かもしれない.「多喜二」の部分も含めると,サインの全体は「Tachy Covaiashy」である.

また,このノートの裏表紙には,前述の「Covayashy」の他に「龍介の経験」との書き込みがある.作品タイトルは,ここで決まったかもしれない.また,その他には「勉強」という単語が,幾つか書かれている.多喜二は1925年(大正14年)春に東京商科大学を受験した.現在の一橋大学である.その受験勉強の頃の書き込みだろうか?


小林多喜二 草稿ノート・直筆原稿 DVD <39>
「姉との記憶」など 草稿ノート 裏表紙


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昭和金融恐慌のこと

1927年(昭和2年) 3月14日の大蔵大臣の失言により銀行取り付け騒動が発生した.東京渡辺銀行が発端だが,4月には鈴木商店の倒産や,台湾銀行の休業など金融不安が続いた.多喜二の日記(析々帳)の 4月27日には,「銀行が突然3日間休業したが,諸々の準備のために出勤」とある.北海道拓殖銀行にとっても影響は大きかっただろう.「析々帳」には,多喜二の身の回りに「何か困った事が生じた」とは書かれていないが,「ある事件」が起きた可能性はある.

詳細はウィキペディア(昭和金融恐慌)を参照

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時系列で

1926年(大正15年) 9月21日 「析々帳(日記)」
俺が赤貧洗う,と言っても まだるッこい生活をしてきながらも(親類のお陰で)高商を出た.

1929年(昭和4年) 1月5日 読売新聞 「新人紹介」
一九二四年,小樽高等商業学校を卒業した.少し金の出来た親類が一方では虐使をしながら,見栄のためにそうしてくれたのだ.

1929年(昭和4年) 「文章倶楽部」 1月号
成り上りものの残忍さで虐使しながら,成り上りものの見栄から,学校というものにやってくれた.

1931年(昭和6年) 1月25日 「年譜」
・・・だが,親類のものが,ぼくを特に学校へ出してくれた.

1932年(昭和7年) 「コースの変遷 -高等商業出の銀行員から- 」
家は貧しい農家であった.が,僕は男だしそれに少しばかり学校も出来そうだというので,金持ちの親類が学費を出してくれる事になった.そこはパン工場を経営していたので,僕はその工場で手伝いながら,さんざん恩に被せられて,又,使用人達からは敵視を受けて,実に不快な思いの中に高等商業を卒業した.

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参考文献など

<1> 定本 小林多喜二全集(全15巻) 新日本出版社1968
<2> 日本文学アルバム 小林多喜二 筑摩書房1955
<3> 新潮日本文学アルバム 小林多喜二 新潮社 1985
<4> 小林多喜二 手塚英孝 新日本出版社 2008
<5> 小林多喜二伝 倉田稔 論創社 2003
<6> 母 三浦綾子 角川文庫 1992
<7> いのちの記憶 小林多喜二・二十九年の生涯 北海道放送 2008
<8> 小林多喜二 21世紀にどう読むか ノーマ・フィールド 岩波新書 2009
<9> 小林多喜二 時代への挑戦 不破哲三 新日本出版社 2008
<10> 小林多喜二の人と文学 布野栄一 翰林書房 2002
<11> わたしの北海道(4回連載) 小林三吾 朝日新聞(北海道版) 昭和52年4月
<12> 故小林正俊社長追悼 社内報「星雲」 号外 昭和41年5月20日
<13> 釈迦内村・川口村を通して多喜二の母の周辺をみる 日景健 2003
小林多喜二の母セキ生誕地の碑建立記念講演(大館市先人顕彰祭全記録集)
<14> 時代を撃て・多喜二 生誕100年・没後70年記念 DVD 2006
<15> 戸主小林慶義の戸籍謄本(1928年)および除籍謄本(1951年)
<16> 小林太郎の診療記録(函館市会所町高橋病院内 北方老人病研究所)
<17> 御大禮記念寫眞帖 郁文舎出版部 1928
<18> 昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸 記念寫眞帖 北海道廳 1937
<19> 小林家過去簿
<20> 写真集 小林多喜二 文学とその生涯 手塚英孝 1977/2/20
<21> 大館市立 鳥潟会館 附属郷土資料庫 パンフレット
<22> 小林多喜二 手塚英孝 新日本出版社 1963
<23> 小林多喜二 手塚英孝 筑摩書房 1958
<24> 松峯山伝寿院は語る-北比内歴史副読本- 北比内歴史研究会 2003
<25> 小林太郎の軍歴(北海道庁の公開資料より)
<26> ポートワニの丘 - 帰還抑留者からの聞きがき - 佐藤隆子 2009年11月19日
<27> 択捉從軍始末 藤田八束 1993年1月27日
<28> 「世界を思う」心と「女をおもう」心 -「小林多喜二の手紙」を編集して-
荻野富士夫 小林多喜二祭 2010年2月20日
<29> 米代川 その治水・利水の歴史 川村公一 1994
<30> 梅干と日本刀 -日本人の知恵と独創の歴史- 樋口清之 平成12年
<31> シベリア抑留 -未完の悲劇 岩波新書 栗原俊雄 2009
<32> シベリヤ抑留兵よもやま物語 極寒凍土を生きぬいた日本兵
齋藤邦雄 昭和63年 光人社NF文庫(2006)
<33> 北海道第七師團写真集 高橋憲一 平成8年
<34> 大正十一年七月 摂政宮殿下 北海道行啓記念寫眞帖 大正11年 東京図案印刷(株)
<35> 皇太子殿下北海道行啓録 大正14年 北海道
<36> 北海道廳立小樽水産学校校友会誌 「若竹」 第二十号 昭和8年
<37> 小林多喜二の手紙 荻野富士夫編 2009 岩波書店
<38> 小樽商業高等学校 卒業生徒銓衡表 小樽商業大学附属図書館資料展示室
<39> 小林多喜二 草稿ノート・直筆原稿 DVD 雄松堂書店 2011年
<40> 小林多喜二全集(全七巻) 新日本出版社1982年
<41> 小林多喜二研究 蔵原惟人・中野重治 編集 解放社 昭和23年
<42> 小樽港要覧 小樽市役所編纂 大正14年
<43> 若い詩人の肖像 伊藤整 講談社文芸文庫
<44> 陣頭にたふれたる小林の屍骸を受取る 江口渙 文学新聞 1933/3/15
<45> 母の語る小林多喜二 小林セキ,小林廣 新日本出版社 2011/7/10
<46> 小林多喜二とその盟友たち 藤田廣登 学習の友社 2007
<47> 広島平和記念資料館 展示資料
<48> 旧下川沿村 郷土読本 人物編 小林三知雄 昭和55年
<49> 明治四拾壱年拾弐月(参回忌) 故安倍弥吉先生祭文録集 大館市立川口小学校 昭和40年
<50> 小林多喜二読本 多喜二・百合子研究会編 三一書房 1958年9月20日発行
<51> なぜ多喜二は小樽に移住したか -小林慶義の民事裁判記録から 尾西康充
月刊民主文学 2012年4月号
<52> 安部家を辿って 安部貞一 2008年
<53> 大館の人・事典 大館市の先人を顕彰する会 2010年
<54> 文学・歴史を読み解くための 暦のなはし 藤原益栄 光陽出版社 2002年
<55> 戸籍を読み解いて家系図をつくろう 清水 潔 日本法令 2009年
<56> 小林多喜二の葬儀の折の香典・供花・供物 控え 小樽文学館所蔵
<57> 小林多喜二(上・下) 手塚英孝 新日本新書 1970(上) 1971(下)
<58> 手塚英孝著作集 第3巻 新日本出版社 1983
<59> 蠅の帝国 軍医たちの黙示録 帚木蓬生 新潮社 2011
<60> タイトル不明 著者不明(小林三知雄?) 出典不明 昭和53年2月20日
<61> 虚偽の嫡出子出生届と養子縁組の成否 小野幸二 大東法学 3,53-78,1976/3/25
<62> 三正綜覧 明治13年12月 内務省地理局 編纂
<63> 漱石先生ぞな,もし 半藤一利 文春文庫 1996
<64> 小林多喜二 - 東京時代を歩く (I) 築地 藤田廣登
<65> 暦ものがたり 岡田芳朗 角川文庫 2012




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