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help RSS 「実践倫理宏正会」誕生前の先代会長が関わった宗教組織について(『新宗教辞典』弘文堂より)

<<   作成日時 : 2010/02/26 00:33   >>

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 「実践倫理宏正会」は宗教団体ではなく「修養団体」です。
しかし、否定派は宗教であると断言し、「いや夫」はどうどう巡りの討論に無駄な時間を費やしています。そこで、権威ある書籍より、先代会長先生が関わった宗教団体について解説した部分を引用し、「実践倫理宏正会」誕生の経緯を明らかにしておきたいと思います。

 なお、引用する『新宗教辞典』弘文堂発行は、学術的専門書であり、極めて公正な書物です。一団体が発行する書籍(たとえば倫理研究所の『一粒の麦』)などより真実が書かれています。また、素人が好き勝手に持論を書きなぐるwikiなどより、信憑性に優れたものです。「宏正会」の肯定派も否定派も、下記の解説を読んでいただければ、議論の出発点になるものと確信いたします。

 ちなみに、「倫理研究所」と「実践倫理宏正会」が分派した経緯については、否定派やあちらの方は「裏切り」と表現し、「いや夫」は「袂を分けた」と表現しておりますが、学術的には「独立」と記述されており、それが正解だと思います。

 また、下記の文章を「いや夫」がわかりやすく要約したたとえ話が最後に載っているので、そちらをぜひお読みください。

P93より
(引用開始)
徳光教−ひとのみち系

金田徳光と御木徳一

 大正元年(1912)、大阪に御嶽教徳光大教会という団体が誕生した。それは金田徳光という真言宗の修験行者を宗教的リーダーとし、日本国教大道社という国家主義的思想団体の幹部であった山内良千らを教義上、組織上の中核幹部として、徳光の霊威に基づく現世利益の約束と、天皇中心の家族主義的国家観をベースにしながら、民衆の日常的修養を解く実践的な教えによって、主として都市の中間層の間に支持をひろげていった。日本における都市型新宗教の源流の一つに位置づけられる団体である。
 徳光教会じたいは、大正8年に金田徳光がこの世を去ったこともあり、大きな発展をとげることはできなかった、そこで生み出された教えやその表現スタイル、独特の救済方法(に関する思想)など、直接間接にその系譜をひく諸教団、修養団体によって少なからず引き継がれている。そうした要素としては生活上、修養上の心得を短い箇条書きにまとめた人生訓、処世訓として教えを表現すること(徳光教会ではこれを神訓十八箇条とよんでいた)、教主が信徒の苦痛を身代わりして引き受け、信徒を救うとする考え(徳光教会では御振替とよばれた)、不幸や災厄を神が人に生活態度や性格の歪みを教える警告として積極的に受けとめる考え方(徳光教会では御導示:おしらせ:とよばれた)、教主が信徒の悩みや苦難に対し神的直感によって直接診断、指導を与えること(徳光教会では御理解とよばれた)などをあげることができる。
 徳光教会からの最初の教団分立といえる事態は教祖徳光の死去後の教団運営のあり方や後継者の選定の問題を主要なきっかけにしている。徳光教会は、すでに述べたように、当初より金田徳光という霊能にすぐれたカリスマと、それをリーダーとして立てながら思想運動を展開しようとするインテリの幹部という二つの中心をもつ運動であったが、教祖の死去は後継者問題ともからんで、これら二勢力、派閥の緊張を顕在化させることになったのである。そうした対立のなか教祖派の有力幹部の一人御木徳一がプライベートな問題によって徳光教会を追放されるといった事件が生じる。しかし、彼は、自分の死去後、ひもろぎを植えて祀っていれば新たに三カ条の神訓をあらわす人があらわれ、それによって徳光教の教えは完成するという徳光の言葉を頼りに、自分にひもろぎを祀ることを始めた。やがて大正12年から15年にかけて彼自身に次々と三つの天啓が下る。御木徳一はこれを契機に自分を金田徳光の教えの正当な後継者かつ完成者と位置づけ、新たな教団の組織化へと乗り出すことになるのである。
 この集団はこうした結成の経緯やその当初の名称(御嶽教徳光大教会本部)からもうかがえるように、あくまで徳光の教えを継承、発展させることを設立の根拠にしており、教えの中核である箇条書きの訓誡が十八カ条から二十一カ条に増えたほかは、教えや儀礼は基本的には徳光教会のそれを受け継ぐものであった。そして、本家の徳光大教会の教勢の停滞を尻目に、徳一の教会のほうは、彼のカリスマ的リーダーシップや巧みな布教戦略によって、扶桑教人道徳光教会、扶桑教ひとのみち教団と名称を変えながら、教勢を著しく伸張させていった。とりわけ、早朝に各教会に詣で信徒集会を行う朝詣りの慣行は無料の朝食が提供されたこともあって、信徒獲得の有効な手段となったとされている。そして昭和10年前後には公称信者100万人を数える当時の「類似宗教」団体中最大の勢力となっていた。

弾圧と戦後の再編

 しかしひとのみち教団のこうした教勢の伸張、影響力の増大は次第に当局の警戒するところとなっていった。昭和10年の第二次大本事件が口火となって、宗教統制の嵐がふきあれることになるが、昭和11年ひとのみち教団にもそれはおよび、御木徳一は検挙され、教団は解散を命じられることになった。教祖の女性問題がその直接の口実であったが、しかしそれは教団の思想的、社会的影響を恐れた政治的統制の正確の濃いものであった。ひとのみち教団は教義として教育勅語を掲げるなど思想的には体制同調的性格の強い運動であったが、教祖の神格化が著しく、天皇の権威を相対化する恐れがあること、天照大神や教育勅語の解釈において当局の解くそれと異質な点がみられるなど、国家および天皇の権威の正当性と尊敬を脅かす要素がそこに含まれているとみなされたのである。
 ひとのみち教団はこの事件により解散を命じられ、教団としての公的活動は不可能となった。しかし裁判闘争を続けるなかで、起訴された中核幹部やその支持者たちを中心に、運動再建の努力は続けられていた。ただ、事件後しばらくし初代教祖の徳一が死去したこと、裁判が長引いたことなどから、幹部のあいだに次第に考え方のちがいも顕在化してくることになる。戦後運動が再出発するにあたっては、旧ひとのみち教団はその有力幹部をリーダーとする幾つかの団体に再編成されることになるが、そうなったおもな原因は教祖の後継者の問題や、弾圧の体験および裁判のうけとめ方のちがいが顕在化させた考え方のちがいに求められよう。
 それらのなかで中核的団体となったのは、徳一の長男で、徳一検挙の直前にひとのみちの教主の地位を継いでいた御木徳近をリーダーとするパーフェクトリバティー教団(PL)であった。ただ教団名称の大胆な偏向からも推測されるように、立教にあたって徳近は戦前のひとのみち教団をそのままのかたちで再興しようとしたわけではなかった。徳光教以来の基本的・中核的な教えは引き継ぎながらも、ひとのみち時代の人訓二十一箇条をPL処世訓二十一カ条へ改めるなど、思想の表現や儀礼・シンボルに関して大胆にモダンなものへと装いを一新し、戦後社会への積極的な適応をはかっていったのである。
 こうしたPLのいき方に対し、旧ひとのみち教団で准祖(教祖の補佐役)の一人であった橋本郷里は金田徳光−徳一の教えをそのまま継承する道を選び、衰微していた徳光教会に入り、その信徒らを糾合して自然社を興した。これによって旧徳光教会と旧ひとのみち教団の一部が再合流することになったのである。
 もっともそれによって旧徳光教会がすべて自然社に吸収合併されたわけではなかった。旧徳光教会の幹部、生駒徳文は自然社に合流せず、徳光教本部として別の道を歩むことになったのである。

修養団体としての再編成

 さて、旧ひとのみち教団の流れをくむ運動のうち、戦後PLとともにめざましく発展していったものに、倫理研究所(社)や社団法人実践倫理宏正会といったいわゆる修養団体がある。倫理研究所は、旧ひとのみち教団の准祖の一人丸山敏雄によって創始された(最初は新世文化研究所として発足)団体である。彼もまたひとのみち教団の幹部として事件では検挙されているが、裁判の過程で、ひとのみちの運動があまりに教祖中心、教団組織中心で排他的、独善的になりがちであったといった内容の反省を記した上申書を提出するなど、ひとのみち教団のあり方に対してしだいに距離をおくようになっていった。戦後、活動を再開するにあたって修養団体という途を選んだのは、特定の神をたてることが排他性につながるという考えから、あえて宗教性を脱色しようとしてのこととされている。このように修養団体として出発した倫理研究所ではあるが、教えを短い箇条書きの実践的訓誡(万人幸福の栞十七カ条)で表すこと、早朝の集会を重視すること、会長が会員の危急の苦難を身代わりするという思想など、旧ひとのみち教団の教えや活動を引き継いでいるとみられる面は決して少なくない。
 他方、実践倫理宏正会のほうは、旧ひとのみち教団の信者で、丸山敏雄とも親交があった上広哲彦が、北陸地方などで独自の活動を展開し、やがて丸山との協力関係を断って、会として独立したものである。実践倫理宏正会は、会員の早朝集会(実践倫理宏正会じたいはしばしば人々から「朝起会」と呼ばれる程、この活動は盛んである)や会誌の戸別頒布の活動など、主として普及、宣布の活動の面で倫理研究所と相互影響があるものと思われる。
 この両団体は戦後の大衆的修養団体の主要な部分を担っており、徳光教−ひとのみち系の運動の流れの新しい展開として注目されるものである。とはいっても、それを徳光教−ひとのみちの伝統からの大きな逸脱とみなす必要はないであろう。その伝統では、人格神の観念はもともと希薄であり、宇宙の運行や人間の運命を宇宙に内在する自然的−倫理的理法(みち)の働きによって理解する傾向が強かったからである。また教えの内容もはじめから神学的・形而上学的なものはあまり含んでおらず、もっぱら日常的倫理実践や生活心得が説かれたのであった。徳光教−ひとのみちの伝統自体にこうした倫理運動として展開されうるような可能性が少なからず内包されていたとみなすこともできるのである。

後継者問題

 ところでPLでは近年教主の交代を機に、御木徳日止が独立し、人道教団を設立した。彼は以前教主継承予定者であったが、教主の後継者指名の変更により結局御木貴日止が教主の地位を継ぐことになった。こうした経緯が独立の誘因になっていると思われる。
 ひとのみち教団やPLについていえば、日本の新宗教のなかではその組織構造やカリスマ的権威のブンプに関して中央集権の度合のかなり高い教団とされている。一般的にいって、こうした教団の場合には、平時においては分派や独立が生じにくいと考えられよう。しかし教主(カリスマ的権威)の交代の際には、カリスマ的権威が教主に集中している度合が高い程、むしろ教団内緊張が高まり、かえって教団分立を誘発しやすいともいえる。なぜなら、どのような人物を後継者に選ぶかによって教団の命運がより大きく左右されるからである。実際、徳光教−ひとのみち系のこれまでの教団分立のパターンをみてみると、多くの場合何らかのかたちで後継者問題がからんでおり、このことがある程度妥当するように思われる。(対馬路人)
(引用終了)

 
「いや夫」補足
 以上のように、「実践倫理宏正会」は「ひとのみち系」の教えを取り入れながら、「修養団体」として新しく誕生した組織です。同じ様な組織として、「倫理研究所」があり、やはり、「ひとのみち系」の教えを取り入れながらも、特定の神をたてることが排他性につながるという考えから、あえて宗教色を脱色しようとしてしました

 なお、「倫理研究所」には、会長が会員の危急の苦難を身代わりするという思想を継承しましたが、「実践倫理宏正会」には、そのような教えは存在しません。「実践倫理宏正会」は「倫理研究所」以上に、宗教色を排していると言えるでしょう。 

そもそも、この本でも触れているように、「徳光教−ひとのみち系」は、純宗教というよりも「類似宗教」と分類される面をもっています。それは、
(引用開始)
人格神の観念はもともと希薄であり、宇宙の運行や人間の運命を宇宙に内在する自然的−倫理的理法(みち)の働きによって理解する傾向が強かったからである。また教えの内容もはじめから神学的・形而上学的なものはあまり含んでおらず、もっぱら日常的倫理実践や生活心得が説かれたのであった。徳光教−ひとのみちの伝統自体にこうした倫理運動として展開されうるような可能性が少なからず内包されていたとみなすこともできるのである。
(引用終了)
からです。

 よって、「実践倫理宏正会」は無理なく「修養団体」として発足し、さらには「社団法人」として、今日の発展を築くことができたのです。

 「実践倫理宏正会」の教えには、徳光教−ひとのみち系の教えが入っているのは事実です。それは、「大自然の摂理」は、万人共通のものであり、教義を超えて、倫理にかなったものはすべて吸収したからだとも解釈できます

 一方、「実践倫理宏正会」の独自性については、各会派の箇条書きの教えを比較することで、それぞれの類似性、独自性が明らかになるものと思います。
 「実践倫理宏正会」が独自性をもっていることは明らかでしょう。
それぞれの会派は、世のため人のためと活動していることでしょうから、いがみあうのではなく、互いの健闘を称えて、独自の道を進めばよいと思います。


<徳光教 神訓十八箇条>

調査中


<ひとのみち教団 人訓二十一カ条>

調査中

<パーフェクトリバティー教団 処世訓二十一カ条>

 1.人生は芸術である

 2.人の一生は自己表現である

 3.自己は神の表現である

 4.表現せざれば悩がある

 5.感情に走れば自己を失う

 6.自我無きところに汝がある

 7.一切は相対と在る

 8.日の如く明かに生きよ

 9.人は平等である

10.自他を祝福せよ

11.一切を神に依れ

12.名に因って道がある

13.男性には男性の、女性には女性の道がある

14.世界平和の為の一切である

15.一切は鏡である

16.一切は進歩発展する

17.中心を把握せよ

18.常に善悪の岐路に立つ

19.悟る即立つ

20.物心両全の境に生きよ

21.真の自由に生きよ


<倫理研究所  万人幸福の栞十七カ条>

第一条 今日は最良の一日、今は無二の好機

第二条 苦難は幸福の門

第三条 運命は自らまねき、境遇は自ら造る

第四条 人は鏡、万象はわが師

第五条 夫婦は一対の反射鏡

第六条 子は親の心を実演する名優である

第七条 肉体は精神の象徴、病気は生活の赤信号

第八条 明朗は健康の父、愛和は幸福の母

第九条 約束を違えれば、己の幸いを捨て他人の福を奪う

第十条 働きは最上の喜び

第十一条 物はこれを生かす人に集まる

第十二条 得るは捨つるにあり

第十三条 本を忘れず、末を乱さず

第十四条 希望は心の太陽である

第十五条 信ずれば成り、憂えれば崩れる

第十六条 己を尊び人に及ぼす

第十七条 人生は神の演劇、その主役は己自身である

<実践倫理宏正会 朝の誓>

今日一日 三つの恩(注1)を忘れず 喜んで進んではたらきます

今日一日 人の悪をいわず 己の善を語りません

今日一日 気付いたことは 身がるに直ぐ行います

今日一日 腹を立てず 不足の思いをいたしません

今日一日 三つの無駄(注2)を排し 新しく大地に生き貫きます

1.親の恩・師の恩・社会の恩
2.物の無駄・時の無駄・心の無駄




<追伸>

 先代会長先生が、このような経歴があることなど、会友はまったく気にしていません。気にしているのは、否定派だけです。「いや夫」が否定派に示したたとえ話を、掲載します。
「実践倫理宏正会って何?」より、
http://rinrikko777.blogzine.jp/jissen/2005/02/post_1.html#comment-24428456


(引用開始)
 長文の匿名様へ

 ひとのみち教団などについてもかなり詳しいようですね。特に負の情報ばかりを一生懸命集められているような気がします。あなたの背景を知りたいものですなあ。

 「いや夫」はひとのみち教団や徳光教については、書籍で読んだ程度しか知りません。興味がないからです。それでも、議論の出発点として、資料が必要だと思いますので、我がブログに下記の記事を掲載しておきました。貴殿はすでに読まれてようですね。

「実践倫理宏正会」誕生前の先代会長が関わった宗教組織について(『新宗教辞典』弘文堂より)
http://58807828.at.webry.info/201002/article_39.html

 同じ資料を読んでも、否定派と肯定派では意見が二つに分かれてしまうようです。2ちゃんねるを読むときにも、否定派はそのまま鵜呑みにするし、「いや夫」は「嘘ばっかじゃん。同じことを何度も書いて馬鹿じゃね」と読んでいますので、平行線ですね。

 すくなくとも、上記の記事の原稿を書いた対馬路人氏は、宗教社会学の権威のようで、「実践倫理宏正会」を「修養団体」と定義されています
 以前、太陽神が宗教の専門家は「宏正会」を新宗教と分類していると断言していましたが、「真っ赤な嘘」です。あなたはどうかわかりませんが、あなたの仲間たちは書籍など読まずに2ちゃんねるに釘付けですので、誤った情報をそのまま信じ込んでいるので困ります。(お金がどうのこうのと批判するときには、いつ、誰が、いくら、どのように奪われたなど、具体的に訴えてください。ネットでは・・・は、よしといてください。自身の経験のみお書きください。)

 先の記事を読んでいただければ、徳光教→ひとのみち教団→パーフェクトリバティー教団の流れが正当な流れだと理解できるでしょう。

 それに対して、「倫理研究所」と「実践倫理宏正会」は、「修養団体」として再編成されたものであり、さらに後者の方がより宗教色を脱したと理解できます

 否定派は経歴がどうのこうのとこだわっておいでですので、例えで反論します。

 それぞれの組織を、飲食店とします。

 徳光屋は、大正元年創業の老舗のうなぎ屋です。店の壁にはっている十八条の家訓がすばらしく、味もまずまずでした。都市の中間層が主な客層でしたが、初代は大正8年になくなったため、あまり発展はしませんでした。そもそも店主がカリスマとして店を仕切っていたため、後継者問題で、お店は分裂状態になったのです。

 そのごたごたの中で、徳光屋をくびになった御木徳一氏は、先代の味をそのまま継承しながら、二十一カ条の家訓をかかげた「ひとのみち屋」を開きました。このリニューアルと早朝営業が評判を呼び、チェーン店が各地にできるほど発展しました。

 しかし、時代は戦前・戦中の不穏な時代です。ぜいたくは敵だと「うなぎ屋」は当局に目をつけられていました。社長が店の娘にふしだらな行いとしたとの名目で逮捕され、チェーン店は解散させられてしまいました。

 なお、この「ひとのみち屋」の幹部の一人に丸山敏雄という男がいました。「うなぎ屋」は贅沢すぎてだめだという調書を上申し、釈放されました。丸山氏は、このまま「うなぎ屋」をやっていくのは危険だと判断し、より庶民的で誰でも入りやすい店を作ろうと考えました。そして、「ひとのみち屋」から「独立」する道を選んだのです。(否定派はこちらも「裏切り」と表現するのでしょうか?)

 丸山氏は、早朝営業の方法など一部を継承しながら、牛丼屋として事業を起こしました。この店の壁にも「幸福の栞17カ条」なる家訓が貼ってありました。そこそこ繁盛したようです。

 そして、もう一人新しい事業を起こした人物がいました。上廣哲彦氏です。彼は、「ひとのみち屋」のあるチェーン店の料理人を2年くらい務めたところで、お店が解散してしまいました。そこで、丸山氏が始めた牛丼屋の事業に協力することにしました。

 しかし、上廣氏は、自分の店を持ちたいという起業家精神が旺盛でした。研究熱心な彼は、どうやったら牛丼屋をより繁盛させることができるかを常に考えていたのです。その手腕は、すでに丸山氏を超えていたともいわれています。結局上廣氏は、自分の事業を起こすため、「独立」しました。

 その後、丸山氏の「牛丼の倫研屋」と「牛丼の宏正屋」は互いにチェーン店を増やし発展していきました。より発展したのは「宏正屋」のようです。この二つのお店は、同じ牛丼を扱うライバルでもあり、互いの交流はありません。それは仕方のないことだと思います。

 その後、上廣哲彦氏はカリスマ性を発揮し、全国の従業員から慕われました。その哲彦氏が昭和47年に亡くなり、今は二代目の上廣榮治氏が経営を引き継ぎ、チェーン店を拡大しました。「宏正屋」も早朝営業が売りですが、家訓は5カ条と覚えやすくオリジナルな点が受けています。

 しかし、お店が多い分、クレーマーや商売敵からいやがらせを受けることも多いです。特に、初代社長が「ひとのみち屋」から味を盗んだんじゃないか、経歴詐称だなどというようなクレームも受けています。ところが、あちらは「うなぎ屋(宗教)」、こちらは「牛丼(修養団体)」です。素材もたれも違うので、初代店長がうなぎの「ひとのみち屋」で働いてたことがあることなど、誰も何も気にしていないのが実情です。

 「独立」は善いことなのです。

「一身独立して一国独立す」by福沢諭吉
他の店に雇われていたのは、企業のための勉強に過ぎません。あえて触れる必要もないのです。きっと、自分のお店の方がいい店だと思っている人は、昔働いていたお店なんかアピールしないと思いますよ。

 もう、他のネタに変えませんか?

投稿 いや夫 | 2010.02.26 10:54 午後

企業→起業 に訂正

投稿 いや夫 | 2010.02.26 10:58 午後

(引用終了)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
うなぎ屋→牛丼屋は飛躍のしすぎでしょう。
素材も品質も大衆化したあなご屋が適当なところでしょうね。
ぶたまん
2011/02/22 21:50

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