2014年03月19日
自分を見つめ直す
去年の7月からあった出来事の意味。
それを今さら言っても何の意味もないかもしれないが、
自分なりにまとめておくのも無価値ではないだろう。
7月、アンチ某が現れる。
この意味は、私の一番弱い部分を責め、試すための出来事であったと今では知っている。
魔は自分の一番よわいところを責めてくるからです。
アンチ某は、わたしが一番悩み苦しみ、なんとかここを乗り越えたいんだ。
そういう記事にコメントをしてくださったわけですよ。
当時は、そこにはまだ気づいてさえいなかったが、
ずっとずっと自分を見つめ直す過程で、私はそれに気づいた。
同様に、「働かざる者食うべからず」という文言に対する一連のやり取りも、
要は私の一番言われたくない、つまり、私の一番弱いところをつく己心の魔だったということ。
そのことに気づいたからこそ、
そういう縁となった方々への怒りやらは全て昇華しえたんですけどね。
ですから、縁してくださった方への恨みつらみとか、そういうものは無いと、
ここで明言したのは事実なんですね。
ようは全ては己心の魔ってことだったと気づいたんですよ。
でもねぇ、ただ一点だけまだ私の中で解決していないことがある。
まあこれも私の弱い部分を突いてきていると、いずれ気づくであろうが、
今はなかなかそうなれていないということ。
怒りというのは、やっかいなもので、
冷静に自分を見つめる作業を阻むんですね。
人間、まず感情で生きているから、誰だって私と同じような過ちを犯しかねないんですよ。
ですから、御書にも――
賢聖は罵詈して試みるなるべし
とあって、
怒らせてみれば、その人の本質やら、その人の賢さがわかりますよ、とあるわけですよね。
うん、ちよさん得意の戦法ですが、これ、なかなかに奥が深いんですよ(笑)
そもそも、魔というものは、
見破りづらいものだし、生命力を奪いますからね。
しかも、私の場合、
その魔に気づくのが遅くて、心的世界での生命の次元での葛藤という魔を通り越して、
現実生活に影響が出てしまう、難という段階にまでいってしまったから、
これ、結構大変なことになっているわけですよね。
魔と難の違いというのは、こういうことなんだなぁと、身を持って読んだとも言えますがねぇ(苦笑)
でもさ、
難来たるをもって安楽と心得べきである
ということを確信してるから、まだこの程度の動揺みたいなもので済んでるんですよ。
これが昔の私だったら、これ大変なことになってたでしょうねぇ。
怒り吐きちらしまくって、自分の中の不平不満を他人様にぶつけまくる。
きっとそうなっていたことでしょう。おー恐い恐い。
全てを受け入れる。
最後はそれしかないんですけどね。
ちょっと無理、りーむーなこともあるんですよ。
例えば、ある人が私に投げつけた言葉。
「まともに信心していて、ブログ記事を書いていれば、アンチに付け込まれるような記事なんて、そもそも書かないもんだ」という発言。
正直、私に向けて言い放たれたその文言を目にしたとき、え? ってなりましたよ。
批判されない記事を書いていけばいい。
それはその通りなんですよ。
でもね、この世界には色々な人がいるわけです。
どんなに批判されないように記事を書いても、
批判される可能性をゼロにすることなどできないのです。
え? 不可能を可能にするのがこの信心だ。
ちょっと待ってくださいよ。
そこまでいくと神秘主義だし、信仰でも信心でもなんでもないよ・・・。
先生だって批判されないようにされてきたはずですよ。
でも誤解され、勘違いされ、とんでもないことになってますよね。
まあ、先生と私ごときを同列に語ることなど、畏れ多いことですがねぇ。
誤解されて当たり前、勘違いされて当たり前。
そういう覚悟があって何がしかを書いているかが問題なんじゃないんですか?
ようは、そういうこととか、ああいうこととかね、
どうしても納得できないんですよ。
それが自分の中で納得できれば、全てスッキリですよ。
けどこれ、簡単じゃーないでしょうね。
というかね、
魔がやって来た。
ということは良いことですよね。
前に進んでいたから魔がやって来たわけです。
そう捉えるのが本物の信心ですよね。
でもその逆を言い放たれて、
黙って我慢してるとか、その方の言うことが正しいと認めるとか、
私には出来ませんよ。
だって間違ってるんだもん。
まともに信心してきたからこそ、アンチが湧いたり、いわれなきことで、同志にぶったたかれてきたんですよ。
でもさ、それすらまともに理解されないんだなぁ、これが。
なんで私の怒りが納まらないのか、これで少しはお解りになってくれるといんですがねぇ。
まあどちらにしても、全ては私しだい。
やるか、やらないか、それだけですけどね。
それを今さら言っても何の意味もないかもしれないが、
自分なりにまとめておくのも無価値ではないだろう。
7月、アンチ某が現れる。
この意味は、私の一番弱い部分を責め、試すための出来事であったと今では知っている。
魔は自分の一番よわいところを責めてくるからです。
アンチ某は、わたしが一番悩み苦しみ、なんとかここを乗り越えたいんだ。
そういう記事にコメントをしてくださったわけですよ。
当時は、そこにはまだ気づいてさえいなかったが、
ずっとずっと自分を見つめ直す過程で、私はそれに気づいた。
同様に、「働かざる者食うべからず」という文言に対する一連のやり取りも、
要は私の一番言われたくない、つまり、私の一番弱いところをつく己心の魔だったということ。
そのことに気づいたからこそ、
そういう縁となった方々への怒りやらは全て昇華しえたんですけどね。
ですから、縁してくださった方への恨みつらみとか、そういうものは無いと、
ここで明言したのは事実なんですね。
ようは全ては己心の魔ってことだったと気づいたんですよ。
でもねぇ、ただ一点だけまだ私の中で解決していないことがある。
まあこれも私の弱い部分を突いてきていると、いずれ気づくであろうが、
今はなかなかそうなれていないということ。
怒りというのは、やっかいなもので、
冷静に自分を見つめる作業を阻むんですね。
人間、まず感情で生きているから、誰だって私と同じような過ちを犯しかねないんですよ。
ですから、御書にも――
賢聖は罵詈して試みるなるべし
とあって、
怒らせてみれば、その人の本質やら、その人の賢さがわかりますよ、とあるわけですよね。
うん、ちよさん得意の戦法ですが、これ、なかなかに奥が深いんですよ(笑)
そもそも、魔というものは、
見破りづらいものだし、生命力を奪いますからね。
しかも、私の場合、
その魔に気づくのが遅くて、心的世界での生命の次元での葛藤という魔を通り越して、
現実生活に影響が出てしまう、難という段階にまでいってしまったから、
これ、結構大変なことになっているわけですよね。
魔と難の違いというのは、こういうことなんだなぁと、身を持って読んだとも言えますがねぇ(苦笑)
でもさ、
難来たるをもって安楽と心得べきである
ということを確信してるから、まだこの程度の動揺みたいなもので済んでるんですよ。
これが昔の私だったら、これ大変なことになってたでしょうねぇ。
怒り吐きちらしまくって、自分の中の不平不満を他人様にぶつけまくる。
きっとそうなっていたことでしょう。おー恐い恐い。
全てを受け入れる。
最後はそれしかないんですけどね。
ちょっと無理、りーむーなこともあるんですよ。
例えば、ある人が私に投げつけた言葉。
「まともに信心していて、ブログ記事を書いていれば、アンチに付け込まれるような記事なんて、そもそも書かないもんだ」という発言。
正直、私に向けて言い放たれたその文言を目にしたとき、え? ってなりましたよ。
批判されない記事を書いていけばいい。
それはその通りなんですよ。
でもね、この世界には色々な人がいるわけです。
どんなに批判されないように記事を書いても、
批判される可能性をゼロにすることなどできないのです。
え? 不可能を可能にするのがこの信心だ。
ちょっと待ってくださいよ。
そこまでいくと神秘主義だし、信仰でも信心でもなんでもないよ・・・。
先生だって批判されないようにされてきたはずですよ。
でも誤解され、勘違いされ、とんでもないことになってますよね。
まあ、先生と私ごときを同列に語ることなど、畏れ多いことですがねぇ。
誤解されて当たり前、勘違いされて当たり前。
そういう覚悟があって何がしかを書いているかが問題なんじゃないんですか?
ようは、そういうこととか、ああいうこととかね、
どうしても納得できないんですよ。
それが自分の中で納得できれば、全てスッキリですよ。
けどこれ、簡単じゃーないでしょうね。
というかね、
魔がやって来た。
ということは良いことですよね。
前に進んでいたから魔がやって来たわけです。
そう捉えるのが本物の信心ですよね。
でもその逆を言い放たれて、
黙って我慢してるとか、その方の言うことが正しいと認めるとか、
私には出来ませんよ。
だって間違ってるんだもん。
まともに信心してきたからこそ、アンチが湧いたり、いわれなきことで、同志にぶったたかれてきたんですよ。
でもさ、それすらまともに理解されないんだなぁ、これが。
なんで私の怒りが納まらないのか、これで少しはお解りになってくれるといんですがねぇ。
まあどちらにしても、全ては私しだい。
やるか、やらないか、それだけですけどね。